Re: サイト開設十周年カウントダウン企画・一月 ( No.9 ) |
- 日時: 2011/03/31 01:55
- 名前: calu
「……遅いわ」
はらはらと黒い澱が雪のように沈殿をはじめた。それを薄めるように切っ先を入れる陽射しだけが光源 となっている。そんな茫漠とした空間で、独りごちた少女の髪は煌めきを放つプラチナブルー。 今、少女はどこかで見たローバックチェアに深く腰をかけ、前傾姿勢を保ったたおやかな身体を机上に ついた両肘で支え、両手の指を深海の鍵のように組んでいた。寛ぎとは程遠い環境の中で、先の呟きに具 現化されているように、少女の機嫌はよろしくはない。
「……案ずるには及ばん。直にやって来る」スポットが当てられたように幽玄とした姿を現したのは司令 の碇ゲンドウだ。樹海のような陰鬱さを隠すことも無く、コツコツとレイに歩を進めた。
「……レイ」 「……何でしょうか?」 「……おまえが座ってる椅子だが」 「…………」 「私の椅子なのだが――」 「あまりいい椅子ではない、と思います」 「そう…いや、そうでは無い」 「…………」 「長年私が――」 「碇くん、遅いわ」 「……そうか」
そのコメントとは裏腹に、さほど悪い椅子ではない、とレイは思った。体重を絶妙のバランスで受け止 めるスタンダードな形状ながら、長時間ゲンドウフォームを続けても、腰に負担が掛らない精妙な作りな のだ。わざわざドイツから取り寄せたワーキングチェアだけのことはある、と思った。だが、何かが足り ない、足りないのだ。そうだ、オットマンだ。ワーキングチェアだから百歩譲ってセダスのワークアシス トか。でも、ふんぞり返るには不安が残る。となれば、やはりハイバックがベストチョイス、というのが レイの最終結論だった。 こうした試行錯誤を怠る者のお尻が肥えることはないのだ。絶えざる熟慮が究極の結論へのトビラを開 放するのだ。
沈思黙考に沈むレイ。副司令の定位置でバケツを持たされた少年のように屹立するゲンドウは鬱陶しい が、今は腰を上げる気にはなれない。せめて、その到着を心待ちにしている少年が来るまでは。司令も健 康のためには、偶には立ちっぱなしもいいものだ。筋力の増強により基礎代謝はその時計の針を逆行させ ることもある。健康は爪に火を灯すような地道な努力でのみ涵養されるものなのだ。
「おはようございまーす!」 「遅くなってごめん! 間に合ったかしら!?」 「いやー悪い。ご婦人方の身支度に時間が掛っちまって」 「おっはよー。あれ? シンジまだ来てないの?」
ディラックの海でたっぷんたっぷん小舟に揺られていたレイの意識は、総司令室に突如としてなだれ込 んだ闖入者達によって強制的にサルベージされた。まるで夕立に降りしだかれた騒然さに支配されたエア ロックドア周辺に微塵の感情も見えない目を向けた。 ハッキリ言って、煩い葛城ミサトに長門マキ。相も変わらず加持リョウジに纏わりつく惣流・アスカ・ ラングレーはお約束のツンデレ一直線だ。闖入者達の名を指でなぞる様に呟いたレイは、妙な既視感に囚 われた。更には不吉なさきぶれにも。ちょっと待って、このパターンは…。
「アスカ、碇くん、見なかった?」 「見なかったも何も、アイツ、先に家を出たわよ」 「…そう」
また忘れ物でもして購買部で油を売ってるのだろう、とぼそりと呟いたゲンドウは、レイの紅い視線に 睨み据えられるや、雑巾を絞られるように器用に背筋を伸ばした。
(…このパターンは)
飛び出しナイフを抜くような切れ味で懐から携帯を取り出したレイに何故か激しく反応しているゲンド ウを尻目に、躊躇無く守秘回線を使い、レイは目的の相手を呼び出した。
「赤木博士。碇くんが行方不明、です。二課の杉一尉に確認を依頼してください」 ――レイ。心配には及ばないわ。今、シンジ君は購買部よ。 「…こうばいぶ、ですか?」 ――そう、こうばいぶ、よ。
だから言ったではないか、と不敵に言い放ったゲンドウをATフィールドで黙らせる。
「購買部に何か、あるのでしょうか?」 ――あるわ、当然だわ、と、リツコは言った。
だからそれを何だと聞きたいのだ、という言葉をグッと堪えて、いつもの抑揚の無い口調でレイは質問 を重ねた。
――決ってるわ。ネルフ購買部と言えば『物産展』よ、と、やけに大仰な抑揚をつけてリツコは言った。 「ぶっさんてん?」と、うろ覚えの呪文を唱えるようにレイは言った。 ――そう、ぶっさんてん、よ。そこの催事コーナーにシンジ君はいるわ。
チリと嫌な予感が、レイのこめかみを焼いた。いつの世も、二度あることは三度あるものだ。
「……また、たこ焼きでも焼いているのでしょうか?」 ――今回は大阪からの出展は、無いわ。だからたこ焼きもない。だから、シンジ君がたこ焼きを焼くこ ともないの。 「そお…ですか」
何がそうなのかよく解らないが、表情を緩め少し可愛らしい笑顔を浮かべたレイに、ここぞとばかりに ケンスケがシャッターを切っている。いつからいたんだ。
――あと、マキの妹も一緒よ、と、リツコは言った。
レイの携帯電話がメキリと嫌な音を立てた。あの女はダメだ。前科がある。珍しく絶句しているレイの 耳に、また余計なタイミングでフッと鼻で笑ったゲンドウの声が刺さった。特別にATフィールドをハリ セン状に展開し、思い切りその髭面をしばき倒した。誰の顕性遺伝だと思っているのだ。シーツを変える ように浮気をする男によって、どれだけの女が泣かされているか解っているのか?
「何故、碇くんは女の人と一緒なのでしょうか?」 ――あら、彼女はシンジ君のガードじゃない。 いや、だから…でも、そう。「でも…どうしてそんなに物産展が、頻繁にあるのでしょうか?」 ――総務局三課の楠三佐の嗜好に尽きるわ。購買主任もあの体格だから食べることについては協力を惜 しまないしね。 「…………」 ――まあもう少し待ってなさい、レイ。シンジ君、そこであなたの為になにか作ってるのよ、きっと。 本番前の腹ごしらえにって、ね。 「…わたしの為に、ですか?」 ――そうよ。あなたの為によ…たぶん。 「わたしだけの為に?」 ――そうよ……たぶんね。だから待てるわね。 「……はい」
ぽかぽかしながら電話を切ったレイに向かって、ふたたびケンスケが激しくシャッターを切っていた。 油断も隙もないが、まあいいわ、と大らかにやり過した。何といっても月より焦がれる少年が食べものを 拵えてくれてるというのだ…わたしの為に。繰り返された『…たぶん』は気にはならないといえば嘘にな るが、まあいい。女のガードと一緒というのも、今回は不問にしよう。恩赦、そう恩赦だ。いい響きでは ないか。
「ねえファースト、台本見せてよ」 「これ」 「えーとっ、タイトルは『伝えたいW』だったっけ? どんなプロットだったっけ? アタシの出番いつ?」 「知らない。まだ読んでないもの」 「はあー、相変わらずのぶっつけ本番ってヤツね……」 「作者が作者だもの」 「なんだか今回、あんたの出番、多そうね…」ぱらぱら台本を捲りながらアスカ様は少々不満なご様子。 「綾幸だもの」 「綾幸でも赤幸でもいーんだけど、次のクールもあんたがメインなのよね……。ま、いっけどさ。ところ で、バカシンジほんっとに遅いんだけど、購買部で何やってんのかしら?」
ふん、おおかた肉でも焼いてるのだろう、とぼそりと呟いたゲンドウは、三度目のATフィールドに身 体を震わせた。この男やはり基本的に打たれ強いのだ。
「え、お肉? だったらアタシ、脂だらけの霜降りよりガッツリ赤身がいい!」 「お肉の筈ない。碇くん、わたしが食べれないこと知っているもの」 「それにしても遅いな、シンジ君。カチンコまであと十分か……。間に合えばいいんだが」 「リツコも多分一緒ね」 「やっぱ碇、携帯に全然出ないや」 「携帯なんか鳴らさんでええ。いまシンジは、丹精込めて肉を焼いとんのやで。焼き過ぎたらどないすんねやー」 「ちょっとぉ、ドサクサに紛れてあんたら二バカが何でまた来てんのよ。今回なんて、ぜんっぜん出番無いじゃ ないのよ」 「じゃかあしゃあー、このアマぁ。ワイかてチルドレンや言うとんねんやろ。何回ゆうたら解んねん! ――と、 何やこのええ匂いは?」
「すいません、お待たせしました!」
エアロックの向こうから姿を現したのは、白衣のポケットに手を突っ込みながら悠然と闊歩するリツコ、 そしてその後ろには両手に大皿を抱えた長門ミキが従っている。
「待たせたかしら?」 「赤木博士」
コツリと革底を響かせ、睥睨するように辺りを見回したリツコに鋭い一瞥を向けたレイ。
「レイ、何?」 「碇くんは一緒では無かったのでしょうか?」 「シンジ君はもうじき姿を現すわ」 「そうなの、レイちゃん。それで先にこれを持って行ってって頼まれて、あたし」
何の予兆無くミキが手に持つ大皿からブワッとナプキンを取り除いたリツコ。その下から現れた中身を 見て、レイは卒倒しそうになった。にくニク肉。お肉でいっぱい。豪快に盛られたサイコロステーキから、 ガーリックとソースの芳香が三百年の封印を解かれた悪霊のように辺り一面に湧き出した。 瞬時に数メートルも飛び退いたレイに代わり、突撃してきたのは勿論トウジだ。すでに餓鬼憑きとなっ た顔と飛びかからんばかりの勢いに、ミキはドン引いた。 「これや、これやがなっ! ワイが待ってたんはああああ!」 「オッ、これは旨そうだな。絶妙な焼き加減は流石にシンジ君だな」 「そおなんです。物産コーナーで但馬牛が出展されてたんですけど、あたし主任さんに勧められるままに 挑戦したんですけど、焼き過ぎちゃって…見てられないって、シンジ君が交代してくれたんです」 「これはすごい霜降りだな。…おお、これは旨いじゃないか」 「はい副司令。塩はシンジ君秘蔵のバリ島の天然塩だそうです。みなさんもどうぞ。あれ? どうしたの、 レイちゃん?」
さっきまで隣にいたレイが、いつのまにか部屋の隅で何やら口を押さえている。どうしたの?
「……わたし、要らない」 「え? でもシンジ君が――」 「レイ、あなたがお肉を苦手なのはよく理解しているわ。でも、どうかしら、一度挑戦してみては?」 「……赤木博士、無理だと思います」 「でも、シンジ君は若しかしてあなたも食べてくれるんじゃないかって、気持ちを籠めて焼いたんだと思うの」 「…わたしのことを想って、ですか?」 「そうよ。あなたを想ってよ…たぶん」 「わたしだけを想って?」 「そうよ……たぶんね。だから挑戦できるわね?」 「…でも」 「それに、お肉、そう、動物性タンパク質を摂取すると、胸が大きくなるっていうわ。ねえ、ミキちゃん」
え? と顔をあげたレイの目の先で、タイミング良く、はあい、と振り返ったミキの胸がぶるるんと 果実のように弾んだ。
「食べます。赤木博士」
一連のやり取りを後方で観察しながら肉を咀嚼していたゲンドウの口の端が上がった。今まさにレイは 肉汁滴る但馬牛をその小さな口に近づけている。歴史的瞬間でもあるのだ。
「…………」 「どお、美味しいでしょ? レイ?」 「…………」 「レイ?」 「…………」 「…頑張って飲みこむのよ」
お肉を飲み込むため、眉根を寄せなぜか下腹部を押さえながら身を捩らせるレイは例えようもなく艶め かしい。後方ではパシャリパシャリとシャッターを切る音が水面を跳ねる水鳥のように舞っている。
「……赤木…博士」 「レイ?」 「………変身、しそうです」 「あら、じゃあ、もう一つどう? これで左右バランスが取れるわね」
思わずシャックリが出た。つまり、たった今、死ぬ思いで飲みこんだのは、左胸のぶんで、次のが右胸 のぶんとでも言うのだろうか? えらい事になってきた。しかし、それでもレイは健気に思うのだ。胸が 大きくがなれば、きっとシンジだって喜んでくれるにちがいない、なにより他の女に目が行くことなど無 くなるんだ、と。そしてその為には、目のまえの但馬牛――脂のてらてら輝く、この肉を、何としてでも 征服する必要があるのだ……何としてでも、わたしは――。
「すいません。遅くなりました!」
まるで効果音のような派手なエアの音を従え姿を見せたのは、紛うこと無き碇シンジだった。必死に走っ てきたのか、切れ切れの息を波打たせた体で整えている。
「……いかり…くん」 「…あ、綾波?」 「…わ、わたし」 「ど、どうしたの、綾波!?」
じわりと紅い瞳を潤ませたレイを前に、慌てふためくシンジ。よくよく見れば、目のまえの少女はその 指先にサイコロステーキの刺さった楊枝を、べそをかいた幼女が風船を持つように、いかにも心細げに持 っていた。
「…もう…もう」 「だ、ダメだよ。綾波はお肉は食べれないじゃないか!」 「…で、でも…お肉が足りないから……胸が…」 「無理をしちゃ、ダメだよ。綾波には、これを作ってきたんだ」
はい、とシンジが差し出したトレーからふわりとナプキンを取り除くと、そこには見栄え良く盛られた 料理が微かな湯気と芳しい匂いと共に顔を出した。碇くんは、やっぱり魔法使い。
「綾波のために特別に作ったんだ。丹波産夏野菜のエスカリバーダだよ」 「…………」 「…好きじゃなかったかなぁ」 「…そんなこと、ない」
ホッとした表情を浮かべたシンジは、ポケットからナプキンに包んだ銀のカトラリを手品のように取り だした。
「よかったら少しでも食べてよ。その、綾波のことを考えながら作ったんだ…」 「…………て」 「へ?」 「食べさせ…て」 「へぇ、えええ!?」 「……だめ?」 「は、恥ずかしいし、みんな見てるよ…あ、綾波」 「もう、カチンコが鳴るわ」 「…で、でも」 「……そう」
消え入りそうな声を洩らして顔を俯かせたレイに、シンジは冬眠明けの熊に出会ったように大いに慌てた。 逃げちゃダメだ逃げちゃダメだ逃げちゃ――。 「…ひ、ひとくち位なら」 「いかり…くん」
ふたたび顔をあげたレイの花びらを開いたような微笑に危うく頭をショートさせそうになったシンジだが、 頭を振ってスプーンに美味しそうな焦げ目のついた茄子を掬って、レイの口もとにそろそろと近付けた。
「……ど、どう?」 「おいしい。碇くん」
……よ、よかった…美味しいって言ってくれた……たった一口だけど。それでもよかった……綾波。
「これで…おあいこ」 へ?「おあいこ…って何?」 「…何でも、ない」じきに解るもの「それで…碇くん」
シンジの胸に顔を埋めるように体をすり寄せたレイに全身を硬直させたシンジ。
「どどどうしたの? あ綾波?」 「弐号機パイロットに試すように言われたの…」 「なな何を?」 「…浮気防止のおまじない、だと思う」 「う浮気防止って?」 「け・り・あ・げ・る」
へ? とシンジが漏らした声に、レイの鈴のように可愛い声が、えい、と続いた。 二階からコンクリートの地面に落とされたたこ焼きが潰れたような卑小な音に、大地の果てで迎えた 終局が如きシンジの叫び声が重なった。時を同じくして、小気味よく鳴ったカチンコとの相容れないユ ニゾンは、この上なくシュールな和音を世界中に響かせた。
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