Re: サイト開設十周年カウントダウン企画・五月 ( No.7 )
日時: 2011/09/03 12:49
名前: calu

 エレベーターのなかで忙しげに足踏みをしていたシンジは、ドアが開放されるや一目散に駆けだした。

 だが、その部屋に辿り着くまでもなく、シンジは全てを理解していたのだ。

 宵闇が足を忍ばせつつある廊下に、ガスのように充満していたそれがシンジの鼻を突き、全てが手遅れであ

ることを雄弁に語っていたからだ。

 

           ■□  Don't Let Me Be Lonely Tonight - calu  ■□
 

 
「えーー! 今日もまたパスタぁ!?」

「ア、アスカぁ…声が大きいよ」

 玄関で出迎えたシンジに靴を脱ぐのも忘れて激しく詰め寄っているのは惣流・アスカ・ラングレー。その肩

にポンと置かれた手に振り返ると、聞こえちゃうよ、と言わんばかりにカヲルが結んだ唇に人差し指を立てて

いる。

「…ちょっと、今日はあんたが食事当番じゃなかったのよ?」と、少し赤くなったアスカがヒソッと言う。

「う、うん。そうなんだけど。何か、ここんとこ綾波が張りきっちゃてさ」つられたシンジもヒソッと返す。

「何でよ?」

「そ、それが――」

 ふたりとも、レイちゃんが来たよ、というカヲルの一言にポーズボタンを押されたシンジとアスカ。視線を

向けた廊下の向こうから、おへそが見え隠れするくらいのチビT短パンにエプロン姿のレイが軽いスリッパの

音を鳴らせてやってきた。そう、羽が生えてるんじゃないかと思うくらいに軽い音だ。

「よく来てくれたわ。アスカ、カヲル」

「やあ、今日もまたお相伴にあずからせて貰うよ―」

「ファースト、あんた何だか楽しそうね」

「ア、アスカぁ…」

「楽しそう? わたしが? …そうかもしれない」

「ふーん、まあいいわ。ところで、今日もあんたが食事当番なんだって?」

「そう。完成が近いの。だから」

 完成って? と頭に幾多の?を咲かせたアスカとカヲルは、とにもかくにもシンジに招かれるままに再びキ

ッチンへと慌ただしく駆け戻ったレイの背中を追った。廊下はオリーブオイルで炒められたガーリックの香ば

しい香りで満ち満ちていて、食欲をそそることこの上なし。アスカのお腹が、くぅと可愛く泣いた。



□■


「へー、そんな事があったんだ。あの司令がねー」

「そうなんだ。なんか、どこからともなくスッと現れてさ、すごい勢いで食べてさ。お代わりまでしたんだ」

「ふーん。まあでも、いいこと言うじゃない、碇司令。ちょっと見直したわ」

「でも、その後が大変だったんだよ……エスプレッソを二杯も飲んだのにさ、なかなか帰ろうとしなくてさ…」

「レイちゃんの作るパスタには心がある、か…確かにお義父さんの言う通りだね」

 ダイニングテーブルに頬杖をつくカヲルの視線の先では、レイが真剣な面差しでティファールのフライパン

を振っている。使徒戦さながらに真剣な表情のレイに、シンジとアスカは暫くのあいだ会話を忘れた。

「シンジ、あんた良かったじゃない」

 へ? とディラックの海辺でさざ波に揺られていたシンジが振り向くと、ちょっぴり邪悪な笑顔を浮かべた

アスカの蒼がシンジを突いた。

「全てはあん時のお味噌汁から始まってんのよね」

「…そ、そうかな」

「そんで、シンジ様の手取り足取り腰取りの御指導の甲斐あって、こないだのエスカリバーダも完璧だったし、

なーんかまるで花嫁修業みたいよね」

「ちょっ、なっ、ア、アスカ、ぼ僕は―」


 コトリ。シンジとアスカの間に吹きこんだ風のように静かに置かれたプレートに少なからず驚いたシンジに

アスカ。

「出来たわ」

「あ、有難う、綾波」

 言葉の続かないアスカの目は、ナポリタンの盛られたプレートにただ釘付けになっていた。そしてそのパス

タは見た目に先日と変わり映えしないように、アスカには見えた。要するに、当人を前にしては言い難いのだ

が、どう見ても茹で過ぎのぐたぐたなのだ。その隣、早くも額に汗を浮かべはじめたシンジは、その右手を著

しく開閉している。

「さ、みんな。いただこうよ。冷めないうちにね」

 カヲルの平和な言葉をトリガーに、いただきますの合唱の後、各々の想いを胸に最初の一口を四人は口に運

んだ。


 もぐもぐもぐ。

 もぐもぐ。

 もぐ。

 もぐ、も…。


「美味しくないわ」

 一切の生活音を押し退けて響き渡ったレイの声に、シンジとアスカの両肩がビクンと持ち上がる。プレート

に顔を埋めるように食べていた二人がそろそろと顔を上げると、レイが哀しげに瞳を俯かせている。

「そっ、そんなこと無いわぁ、これだけ出来りゃジョーデキよぉ、ファーストぉ!」

 ホレあんたも何とかフォローしなさいよ、とアスカから心の回し蹴りを喰らったシンジは、ついついいつも

の癖でレイに向かって親指をビシッと立ててしまった。

(…碇くんのこの合図…)

(…許容範囲という合図…)

(…やはり美味しくなかったのね。そう、失敗したのね、わたし…)

「……ご、ごめんなさい」

 席を立つと、レイはシンジの呼びかけにも応えることなく、逃げるようにダイニングから出ていってしまった。

「バ〜カ〜シ〜ン〜ジ〜」

「ええっ、な何?」

「何じゃないわよ! あんた、何やったのよ!?」

「つ、つい癖でいつものサインを送っちゃったんだよ」

「あんたバカぁ? きちんと言葉でフォローしないとダメに決ってんじゃないのよっ! 早く、ファーストの

とこに行くのよ!」

「わ、解ってるよ…」


□■
■□■

 
「…綾波、入るよ」

 一呼吸置いて襖を開けると、部屋の奥に据えられたベッドの上に、レイは入口に背を向けペタンと座りこん、

でいた。俯き加減の姿勢はその少女のうなじを露わにし、際立つその白さに踊りだす鼓動にすこし狼狽した。

(…あ、綾波、若しかして、泣いちゃったかな?)

(…僕が、僕が元気つけなきゃ)

 迷い込んだモンシロチョウを捕まえるような足取りでベッドの脇へと近づくシンジ。そ、それにしても……。

(……なんて細い背中なんだ)

 小さくレイの名を呼び、その華奢な両肩にやんわりと両手を添えるシンジ。ビクリと体を震わせ慌てて振り

返ったレイは、シンジが部屋に入ってきたことさえ気付かないでいたようだ。

「碇くん?」

「綾波。…その、さっきはゴメン。つい、反射的にあんな合図出しちゃったけどさ、こないだより全然美味し

かったと思うよ…だからさ、その、元気出して――と、何してんの?」

 ほわっとした顔のレイの手に持たれていたのは、何やら本、…いやノートのようだ。

「綾波、何それ?」

「『碇くんのためになるレシピ』。碇くんに教えて貰ったの、みんな書いてるの」

 悪戯が見つかった子供のような表情を浮かべると、スッと青いノートを盾のようにシンジの目の前にかざし、

レイはすぐにまたナポリタンのレシピの検分に移った。作業に戻ったレイの肩口から覗き込んだノートには、

シンジも驚くほどのメモがビッシリとレイの几帳面な字で埋められていた。いつも料理を一緒に作っていると

きなど、レイはメモを取ったりはしない。つまり…。

(…あとから復習して、このノートに書き出してるってことか……それにしても)

 よく書けていると素直に感心した。ただ単に材料や調理の手順を並べているだけでなく、そのときの出来映

えや、味についてのコメントも添えられている。中には少しおコゲさん、やら碇くんココで鼻歌、など微笑ま

しい書き込みもあったりして、レイの知られざる日記を覗き見しているような妙な気分になったのも束の間、

シンジはレイの華奢な肩、肩井の小さなくぼみに、森の小動物のように、自分の顎をすっかりとそこに落ち着

けてしまった。ほとんど触れ合うくらいに近くで感じるレイの体温に、甘美な香りが湧きたつ特等席だ。

 ときおり体重を委ねて密着させると、レイの匂いの密度が増した――そんなことは鼻先がレイの肌に近づく

のだから至極当然のことなのだ。突けば弾けそうなチビT越しにも感じる瑞々しい肌。シンジはそこから放た

れるレイのすべてを回収したい衝動に駆られた。もう一度体重を委ねてみようか。今度はもう少し深く。そう

すればレイがもっと近く、何もかもが、全てのものが、自分だけのものになるような気がした。

 そうだ、いまだチャンスだ。果たしてレイは怒りだすのだろうか……最近では殆ど鞄に入るくらいにポータ

ブル化したディラックの海のなかでシンジが膨らませつつあった妄想は、レイの一言で霧散した。それは気ま

ぐれな風に吹かれる綿帽子のようなものなのだ。

「碇くん、くすぐったい」

 やけに甘えた声を出してシンジを振り返ったレイに、瞬時に理性を爆裂させたシンジは条件反射的に唇を重

ねていた。至近距離だけに認識ある過失のようにも見える。だが事実としては、言葉以上に甘えた表情を浮か

べていたレイに、脳髄を吹き飛ばされたような衝撃を受けたことによる理性の崩壊であるのだから、明確な故

意と言えよう。

 それから二人は、小鳥が囀るような短いキスを二度交わした。

 春の雲の下、緑咲かせた小枝に戯れる、つがいが如く。

 シンジはレイを優しく、それでもしっかりと後ろから抱きしめた。

「綾波」

「……碇くん。いま、調べものしてるの」

「綾波、綾波っ」

「……みんなも待ってるから……だから、ダメ」

「綾波綾波綾波っ!」

「…あ……いかり…くん」




「何をしている?」

 パンツの中に歳の数だけ氷柱を突っ込まれたような叫び声を上げたシンジは、レイを抱いたまま大きく翔ん

だ。しかしそこは流石のチルドレン。いかに精神錯乱状態にあろうと、身体はエヴァパイロットとしての条件

反射で電光石火の反応を示し、コンマ数秒後には総司令、碇ゲンドウの前に整列していた。

「と、父さん!? いつからそこに?」

「何をしているのかと聞いている」

「調べ物をしていました」

 即答を返したレイの頬は薄っすらと染まっている。発露と言いかけて慌てて口を抑えているのは隣のシンジ

だ。ふむ、とレイの言葉を飲みこんだゲンドウは、シンジとレイの頭の上から爪先までを時間をかけて品定め

するように視線を這わせた。雪のように降り立つ静寂。一切の所作を禁止されたような雰囲気に包まれた空間

で、レイのエプロンから伸びる細っこい脚は心細げに内股ぎみになっている。生足であることは言うまでもな

いのだが。おもむろにゲンドウはシンジに向き直ると、いつものようにサングラスを直した。

「シンジ、なぜ一年待てない?」

「ええっ!? そ、そんな、父さん、誤解だよ。ぼ僕は――」

「碇くんは性欲を発露させただけです」

 鉈を振るうようにキッパリと言い放ち、ゲンドウに真っ直ぐな視線を向けるレイ。シドロモドロになりつつ

あるシンジを庇うように一歩前に出た。碇くんはわたしが守るもの。

 レイの真摯な視線をしばらくのあいだ受け止めてから、フッと肩を落として、ならばよい、とボソリと呟いた。

「そ、それで、父さん、今日は一体何の用なんだよ? それに、こないだもそうだったけど、どうやってここ

に入ってきたのさ!?」

「ふっ、造作もないことだ。表にはガードもいるからな」

 そして私はこれに呼ばれたのだ、とゲンドウは懐中から手紙を取りだした。

「碇司令。それは、以前わたしが…」

「そうだ。かつてレイが企画した食事会への招待状だ。その時は残念ながら使徒襲来で中止になったのだがな……」

「と、父さん、一体いつの話だよ! ずっと前の話じゃないか!」

 シンジ、と再びサングラスを直しながらゲンドウがシンジに向き直る。相変わらずの高圧的な視線にシンジ

は思わず目線を逸らせてしまう。

「昔の手紙を手に、娘の食事を食べにきて何が悪い?」

「で、でも、こないだ来たばっかじゃないか!」

「自分の願望はあらゆる犠牲を払い、自分の力で実現させるものだ。他人から与えられるものではない……

シンジ、大人になれ!」

(…要するに、また綾波の手料理を食べたくなったってことか…)

「…ときにレイ」

「はい」

「今日もおまえが食事当番だったな」

「はい」

「メニューは何か?」

「パスタ…スパゲティ、です」

「そうか。ならば丁度よい」

 でも、と不安げな声を上げたレイの声を遮るように、ゲンドウは唐突にふたりの目の前にビニール袋を掲げ

た。ゲンドウが差し出した右手に吊られた透明のビニール袋の中では、何やら鈍く黒っぽい光を宿した石の様

なものがわさわさと音を立てている。

「そ、それは?」

「浅蜊、あさり……マルスダレガイ科。食用で遠浅の砂浜に生息する二枚貝」

「そうだ。浅蜊だ。理解できるな、レイ?」

「はい、司令。ボンゴレ、だと思います」

 口の端をわずかに上げたゲンドウは、右手の開閉を繰り返すシンジに、もう一方の手に掛かっていたビニー

ル袋を掲げた。

「…父さん、な何だよそれは?」

「見ての通り金目鯛だ。今日は大漁だったからな」

「だから、どういう意味なんだよ!?」

「シンジ、カルパッチョでよい。いい機会だ。おまえがレイに教えるのだ」

「な、なんで僕が!?」

「他のものでは無理だからな」

 ふたたびの乱入、そして唐突且つ理不尽な要求――それも、またしてもレイとのスキンシッ、もといコミュ

ニケーションを邪魔してまで。この親父は一体全体なんなのだ?

 それにしてもえらい事になってきたのは、ゲンドウがレイに求めたボンゴレだ。何といってもレイにとって

は初のトライとなる。シンジ自身によるある程度のヘルプは許されるだろうが、あくまで調理すべきなのはレ

イなのだ。ゲンドウはレイのパスタを食べたくて現れたのだ。成仏できない地縛霊のように。

 またしてもポータブルディラックに思考を沈めはじめたシンジの右手が、突然柔らかな感触に包まれた。マ

シュマロのような感触は、それでも何らかの意志を顕わすようにシンジの手を強く握りしめ、シンジの中にそ

の断片を攪拌させた。シンジはレイの手をただしっかりと握りかえした。

 その瞬間を待っていたかのように、ふたたびサングラスを直したゲンドウが、行くぞ、とばかりに踵を返した。


□■
■□■

 
 突然現れてはダイニングテーブルのお誕生席にどっかと腰を下ろしたゲンドウに、当然にアスカはぶったま

げた。まるで百年前からこの部屋の主であるような風采で日経新聞でも広げそうだが、相変わらず顔の前で結

ばれた両手の上の視線は、キッチンにいるシンジとレイの後ろ姿に据えられている。
  
「綾波、ペペロンチーノだよ」
 
 可愛く小首を傾げたレイに危うく理性を人間界の汀から取り落としそうになったシンジだが、頭を振るうと

懸命に言葉をつづけた。

「ほ、ほら、これまで何度か作ったペペロンチーノだけど、あれってボンゴレのベースにもなるんだ」

「そう…なら、わたしはペペロンチーノを作ればいいのね」

「うん。それでさ」と、シンジは早速バスタ鍋をコンロに掛けたレイに、ちょっと待って、とミネラルウォー

ターのボトルを手渡した。花束のように胸に抱えた見慣れない1.5Lのボトルにレイは目を丸くした。

「コントレックスだよ。さっき綾波のレシピを見たときに気付いたんだけど、パスタを茹でる時は水に天然塩

を入れるか硬水を使うといいんだ」

「わかったわ」

 ステンレスのパスタ鍋にミネラルウォーターを注ぎはじめたレイに、ゲンドウとカヲルは申し合わせたよう

に口の端に微笑を滲ませた。それまで横目でゲンドウの挙動を探っていたアスカだったが、カヲルの肩に凭れ

かかるようにして、その耳に唇を寄せた。

「ちょっと、カヲル。よく解んないんだけど、ファースト、一体なに作ってんのよ?」

「ボンゴレ・ビアンコだろうね。レイちゃんはニンニクの使い方が上手だからね。きっとお義父さんのお気に

召すものになると思うよ」
 
「え、それって?」

 応える代わりに微笑を浮かべたカヲルに薄っすら頬を染めてしまったアスカは、誤魔化すようにレイとシン

ジが奮闘するキッチンへと顔を向けた。シルクのように繊細に織り込まれた胸の中で元気に跳ねはじめた心臓

を抑え込まないといけない。言葉で聞いたのだからキチンと言葉で返して欲しい。そんな至極あたりまえの主

張さえ不全たらしめる笑顔を出すのはカヲルの悪い癖であり、罪にならない罪。いや、反則だと思う。それでも

小躍りする分身を捕まえて、やっと胸のなかに押し込んだアスカは、反応するにしては少しズレたタイミング

で言葉を返した。

「……卒業検定って、ことね」

 カヲルの顔は見れない。理由は述べるまでもない。



「お待たせしました」

「司令。出来ました」

 既にダイニングルーム全体にオリーブオイルで炒められたガーリックが醸し出す香ばしい匂いが充満してい

たが、パスタ皿がサーブされると、アサリの旨みが溶けこんだスープの香りがほんわかと湧き立った。これで

もかと豪快に開いた大ぶりのアサリにイタリアンパセリのグリーンが映えている。そして、何よりアスカが驚

いたのは、そのパスタのコンディションだ。ぐたぐたでは無い。そのパスタの表層のつややかさは、ある種の

若さを彷彿とさせるもので、これまでに無い腰の強さを期待させるものだった。

「うむ。いただこう」

 ランチョンマットの上にぞんざいに寝そべるクリストフルのフォークをゲンドウが手にすると、ピンと張り

つめた見えざる糸が辺りの空気を震わせた。呼吸さえ憚るような静寂が大地に溶け落ちるなか、カトラリが2

5cmプレートと干渉する音だけが、古の鐘の音が如く厳粛に部屋に響く。ゲンドウはゆっくりとフォークを

繰りながら食を進めた。

「旨い」

 表情を明るくしたレイとシンジから視線を戻すと、ゲンドウは初めて気付いたようにアスカとカヲルに顔を

向けた。

「どうした? 食べたら良いではないか」

 弾かれたようにカトラリを手に取り贅沢に盛られたアサリをつつき始めたアスカを見届け、微笑を湛えたま

まのカヲルもカトラリを繰りはじめた。

「…美味しい。とても美味しいわ、何これ!?」

「本当だね。とても美味しいね。それに、パスタが見事にアルデンテに茹であがっている」

「綾波、ほんとに美味しいよ!! これって、これまで食べたボンゴレのなかで一番かもしれない……あ、綾

波、どうしたの? 一緒に食べようよ」

 シンジの声を背中に聞きながら、いまレイは次なるターゲットとなる金目鯛にその紅い視線を釘づけにして

いる。最期の使徒戦さながらの真剣な表情でレイは包丁をブログナイフのように構えた。

(……三枚におろすまでは問題無い……でも)

(……考えてても仕方ない。前に進むば道は開けるわ……金目鯛さん、ごめんなさい)

 キッチンで作業に取りかかったレイに、ほう、と思わずゲンドウは感嘆の言葉を洩らした。

「シンジ。いつ教えたのだ?」

「綾波が越してきてからだよ。ほぼ毎日一緒に作ってるんだ」 

 そうか、とボソリと呟き、ふたたびサングラス越しの視線をレイの背中に据える。レイを見つめるその目は遠い。

「父さん」

 なんだと、見返ったゲンドウにシンジは詰まりながらも言葉の穂を継ぐ。

「…でもさ、カルパッチョは難しいよ」

「何故だ?」

「だって、うちの包丁じゃあ、カルパッチョの薄さに切るのは無理だよ」

「それは問題では無い」

「な、なんでだよ?」

「愛だ」

「へ?」少年、少女から発せられた言葉が見事なハーモニーを紡いだ。

「愛の力の前では、何もかもが無力なのだ」

 はあ? と顔を顰めるシンジの前で徐に立ち上がったゲンドウは、三枚におろした金目鯛を前に次の作業に

移れないでいるレイへと歩み寄った。先のゲンドウの言葉を聞いていたアスカはドン引き、カヲルだけがいつ

も通りに微笑を絶やさずにいる。

 一体何を言っているのだ、この親父は? 意味不明にも程がある。百歩譲って、二度にわたって黙って侵入

してきたのは許そう。しかし、だが、今回もレイとのスキンシップを邪魔しただけではなく、材料まで持って

きて指定した料理をつくれとは何事か? 更には、言うに事欠いて、愛の力とは一体全体何なのだ!? 僕は

あのサイズには切れないって言ったんだ。方法論を問うているのだ。……それなのに。

 綾波ぃ…ごめんよーごめんよー、と呪文のようにレイへの詫びを繰り返しながら、明日この部屋のオーナー

であるマキに何としてでも鍵を取り替えるようにお願いしようと、シンジは自身への誓いを立てた。



「レイ」

「はい」

「どうした? 難しいか?」

「…はい。それほど薄くには切れないと思います」

「心だ」

「…?…」

「もう私がおまえに教えるものは無い。…これが最期になるだろう」

「……碇司令」

 見ておれ、とばかりにレイを脇に退かせキッチンの前にズイと進み出たゲンドウは、サングラス越しに金目鯛

を睨み据えた。その背後では、張りつめた空気の中、自身が呑みこんだ唾の音の大きさに慌てるシンジがいた。

「レイ」

「心の壁が他者を創り、また他者を引き裂くこともある」

「………」

「だが、誰もが心に持つある感情の作用により、時にそれは全く違う極性の力を発揮する」

「………」

「嘗ておまえがシンジを守ろうとしたときに発現した力を覚えているな」

「……はい」

「解るな…それは」

 暗色の士官服がマントのように翻り、右の手袋が空に舞った。次の瞬間、ゲンドウの右の手刀は堅い虚空を

貫くように天空へと掲げられていた。

「愛だ」

 コオオオオと、奇妙な呼吸音を発するゲンドウの右手が見る見るオレンジ色に包まれていく。

「ああっ!?」

「え、ATフィールド!?」

 後方でぶったまげるシンジ達にかまうこと無く、よもや貞エヴァを読んでいないわけでもあるまい、と五稜郭

を守護する和泉守兼定が如く右手刀をゲンドウは一気に振り下ろした。鞭を振るったような音が室内の空気を裂

き、次の瞬間、見事な薄さに裁断された金目鯛の身が皆の目に飛び込んできた。

「お、お見事!」

 誰が発したか解らない賞賛が木霊し、ゲンドウは口の端を上げて応えた。

「レイ」

「はい」

「更に応用技もある。見ておれ」

 レイの返事を待たずに、ゲンドウは今度は手刀を解いて指を開いた。ふたたび掲げられた右手の五本の指は迸る

ようなネーブルの彩に包まれている。

「ふんっ!」

 やはり一気に振り下ろされた右手から伸びた指が金目鯛の身に吸い込まれたように見えた刹那、火花と硬い干渉

音が不吉な緊迫感を纏ってシンジの耳朶を突いた。

「ああ!?」

「いっ!?」

「う、うむ!?」

「えええっ!?」

 まるで刺身包丁で切られたような見事な金目鯛の身。そしてまた、その下のまな板、更には大理石の天板ま

でが豆腐のように裁断されていた。

「と、父さんっ、マズイよ! ここ、マキさんの家なんだよ!」

 うっ、とシンジの言葉に瞬時体をよろめかせたゲンドウだが、サングラスを直してバランスを整えると、辛

うじていつものポーズに体を落ち着かせた。だが、その額には幾多の汗の粒。内心ミサトの自宅だと思い込ん

でいたらしい。

「…シンジ…これは事故だ」

「父さんが調子に乗るからだよ!」

「バ、バカな、解り易く実演しようとしたまでのことだ」

 で、でも、と栓無い言葉の応酬がシンジとゲンドウとのあいだに繰り広げられるのを尻目に、ちっちゃな手

に淡く展開させたATフィールドを使って残った金目鯛の半身を引いていたレイは、忽ちの内にそのコツをマ

スターしていた。今また、すーと薄く身が引けると、その仕上がりに子供のような笑顔を零したレイの頭上に

チャイムの音がひと際大きく降り注いだ。

「あっ、マキさんが帰ってきた」

「げっ!」

「シンジぃー、ワザとでは無い、決してワザとでは無いのだぞぉー」


□■
■□■


「シンジぃ、司令は?」

 リビングに戻るや、深い溜め息を吐きながらテーブルに突っ伏すように座り込んだシンジにアスカが気遣う

ように声をかける。

「……やっと帰ってくれたよ。マキさんが下まで送ってくれたけど……それにしても、エスプレッソだけじゃ

足りなくて、綾波に紅茶まで淹れさせてさ…ほんとに勘弁してほしいよ」

「ホンッとに神出鬼没ね、司令って。まー、いいじゃない。そんだけ気に掛けて貰ってるって事なんだし。そ

れに…」

「それにって、何なんだよ?」

「惚けちゃってー。あんたのファーストの卒業検定に決ってんじゃん」

 な、何を、と瞬時に茹であがった顔を逸らすように腰を上げたシンジは、誤魔化すようにレイが後片付けを

するキッチンに駆け込んだ。だいたい父さんは、などとブツブツ独り言がアスカの耳に入ってきた。

「あれえ?」

「なによ?」

「アスカ、カヲル君は?」

「んー? さっき、あんたが司令の相手してるときに散歩に出てっちゃったわよ」

「そうなんだ。じゃあさ、カヲル君が戻ってきたらお茶にしようよ。シュークリームも買ってあるんだ」

「うん!」


□■
■□■


 ベントレーの重厚なドアが開けられた音がコンフォート17を覆う夜気を震わせた。夜の底に堆積した闇に

溶けこむように、暗色の士官服を纏った男が慣れた所作で長躯を黒い筐体の後部座席に滑り込ませると、眠り

を妨げられた獣のように6リッターのエンジンが低い咆哮を放った。

「…終わったか」

「……ああ」

「…それで、どうだったのだ?」

 前方に穏やかな視線を据えていた冬月の目がゲンドウの表情を伺う。

「シンジのことはレイに任せておけば大丈夫だ」

「そしてレイのこともシンジ君に任せておけば、ということだな…」

「…………」

「ふっ、その様子じゃ、少しはゆっくり出来たみたいだな」

「……ああ」

「…二度も通って見極め終了。思い残すことは無いという顔、だな」

 冬月、という声に引かれて顔を向けた冬月の視線の先では、アームレストに左手を預けたゲンドウが、フロ

ントウィンドウ越しに底の見えない闇を見据えていた。いつ湧き立ったのか、その目には清冽な光が漲りを見

せはじめている。

「いま我々は、為すべきことを実行するだけだ」

「…そうだな」

 ふたたび顔を戻した冬月の視界の中で、ドライバーズシートの男がハンズフリーシステムでどこかと交信し

ている。二三短い言葉を交わした後、ヘッドセットをパッセンジャーシートの上に放り投げる。

「事前情報通り、連中は続々と集結しているとのことです。既に葛城三佐は現場付近でフォーメーションにつ

いています」

「ふむ…やはり情報に間違いなかったということか。このリストを見る限り、地下に潜むどころか国連や政府

機関、そして名だたる上場企業にまでネットワークを張り巡らせていたとはな…いやはや、残党とは言えとん

でもないな、ゼーレという組織は。先の欧州ブリュッセル法廷での判決から、公式には人間社会から抹殺され

たことになっているのだがな」

「連中のDNAはそう簡単には滅ばない。人が心を持っている限りはな」

 夜を切るように疾走していたベントレーが緩やかに速度を落とすや、側道に停止しハザードランプを闇夜に

滲ませた。不審げな表情を作った冬月に、ちょっと用足しに、と断り車外に出た男は躊躇無く道路脇の木立へ

と足を踏み入れた。まるで目的地が定まっているかのように一直線に歩を進める。二十メートル程歩くと、樹

海のように鬱蒼とした木立から一転、まるで木々がくり抜かれたような空間に出た。何らかの作為があるよう

にも見える半径五メートル程の小さな空間には屹立する樹木は無く、地面を柔かに覆う草花は夜風に薙がれ穏

やかな音を立てている。幻想的に差し込む光に天空を見上げると、澄んだ夜空に瞬く無数の星。男は足を止め

ると、懐からゴロワーズを一本取り出し火を点けた。攪拌されるように溶けこむ煙に目を向けながら、男は誰

に話しかけるとも無く口を開いた。

「……どういうつもりなんだ、渚君よ?」

 木立の間からおろされた風が闇に浮かんだ一点の灯を強くした。そして再びの静寂。

「…まあ、いいがな。付いてくるのは、ここまでにしてくれ」

 タバコを携帯パウチに入れると、男は元来た道に向け踵を返した。そして、その先、ほぼ予想した場所に少

年はいた。枝振りの大きな樹に背を預け、腕を組み瞑目している。男が一歩踏み出すと、小枝の折れる音に合

わせるように開かれた瞳は深い紅。何人たりとも偽ることの出来ないスカーレットの炯眼。

「驚きませんね、香取さん」

「場数だけは踏んできたからな。そして君はあまりに有名だ。渚カヲル君」

 口元を綻ばせるカヲル。流れる風に枝葉が静かに揺れている。
 
「皆さんこそ、何をなさるお積りですか?」

「…………」

「あなたがたの読み通り、ゼーレの残党たち、これまで地下に潜っていた幹部連中が、この先の国際会議場に

集結しつつある」

「…………」

「しかし、表向きは国連主催の非公式会議です。会場はそれなりの警備体制が敷かれています。ネズミ一匹と

て敷地内には入れませんよ」

「…心配してくれんのは有難いがな、果たし合いをしにいく訳じゃあない」

「話し合いですか? アポが取れる連中だとも思えませんが。それにあなた方の車だ」

「…………」

「……死ぬ積りですか?」

 渚君よ、と無造作に取り出したタバコに火を点ける香取。吐きだされた煙を追いかけるように満天の星を仰いだ。

「人である限り、役割と潮時ってものがあんだ」

「…………」

「サードインパクトまでの戦い、あの使徒どもとの戦いでは、俺達大人はチルドレンと呼ばれる仕組まれた子

供達に頼るしかなかった。心も身体もズタズタになっていく子供達を、ただ見守ることしか出来なかったんだ。

…だがな、今は違う。使徒もいなけりゃ、エヴァもねえんだ。そして、地下に潜った連中が次に何を考えてる

かなんて手に取るように解るのさ。チルドレンを含んだネルフの残党を粛清したくてうずうずしてんだよ。連

中が実効的な力を持ってる内にな。そんで穴蔵から出てきた。この時を俺達は息を殺して待ってたのさ。ネル

フで生き残った俺達大人達にとっては、今が正に潮時なんだよ」

「…………」

「そして、俺自身、二課の最後の生き残りとしてケリをつけんだよ」  

 悠揚迫らぬ物腰で踵を返した香取。その背に声を掛けようとしたカヲルだったが、思いとどまった。今、加

勢の申し出など愚の骨頂。これは人間の大人達が付けるケリ。

 小さく後ろ手を上げるようなシルエットを作った香取は、鬱蒼と茂る枝葉を伸ばした木立の中に飲み込まれ

るようにその背中を消した。

 
 小走りにベントレーに戻った香取に、武者震いかと冷やかす冬月は微笑を湛えている。再び滑らかな加速を

始めたベントレーコンチネンタルは、二基のタービンノイズを響かせながら夜気を切り裂いていく。全長5.3

メートルもの黒き筐体。ライトチューンが施された一千馬力もの出力を支えるトルクスプリット4WDシステ

ムがトラクションを稼ぐその車体のトランクルームには、史上最強のHNIW爆薬が満載されていた。漆黒の

彗星のように加速を続けるベントレーの遥か前方では国際会議場を照らし出す光源が夜を薄めている。その光

に誘導されるように、時速250KMから軽いホイルスピンと共に一気に加速した黒い筐体は、もはや誰にも

止めることの出来ない巡航ミサイルとなった。そしてそれは、いつしか夜を裂く黒い風になった。

「…碇」
 
「…ああ」 
 
「長きに亘る戦いも、これでやっと手仕舞いだな。人類補完計画もしばらくは封印かな」 

「時が流れ、また掘り出そうとする輩が出てくることもあるだろう。人が不完全な心を持つ限り、それは繰り

返される物語のようなものだろう。だが、そのたびに人は気付くのだ。不完全なるが故に未知数であり、とき

にかけがえの無いものを産み出すこともあるのだと。俺があの二人に気付かせて貰ったようにな」

「ふっ、そうだな。これが本当の意味で、次の時代の幕開けになるといいがな」

 なりますとも、とルームミラー越しに珍しく顔を綻ばせている香取が、思い出したようにカーオーディオに

指を伸ばす。静寂を保つベントレーのキャビンでは、それぞれが馳せる想いをフロントウィンドにオーヴァー

ラップさせ、急速に近づく白い光源の中に、見える筈の無い未来に射す光を皆が見たような気がした。

 まるで太陽のように眩い光がフロントウィンドを通してベントレーの車内を夏の草原のように明るくした。

 モノコックボディーいっぱいに満ちていた切なげなクラプトンのメロディーが男達の魂を静かに包みこんでいった。




                        The End