[773] おかえりなさい
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- 日時: 2021/05/07 21:13
- 名前: 史燕
- おかえりなさい
Written by 史燕
碇シンジに手を引かれ、綾波レイは、第三村の入口へと向かっていた。 シンジと合流する前は、マイナス宇宙から放り出された場所に、そのまま立ち尽くしていた。
どこに行けばいいのかわからない。
どうしていいのかわからない。
すべてのエヴァンゲリオンがなくなり、シンジがエヴァのある世界に終止符を打った。 それは喜ばしいことだし、「碇君が、エヴァに乗らなくて済むようになった」と、自分の目標が、望んだ形とは違うものとはいえ、達成されたのだから、うれしくないはずはない。 しかしながら、レイの心の中にはぽっかりと穴が開いたような気分になっていた。 それを言葉にすれば、喪失感というのだろうが、彼女にはどうそれを表現していいのかわからなかったのだ。 「エヴァがなくなった」ということは、エヴァの、インパクトのために造られた「綾波レイ」という存在の存在意義も無くなったことになる。 余人はそれを「自由」と呼び、「解放」と呼ぶのだろう。 一般的な解釈としては、おそらくそれは良いことだ。 それは、レイ自身もわかっていたが――どうしていいかわからないのだ。 さながら、大海原に、小舟一つで置き去りにされ、どこに向かうべきかわからないまま、羅針盤一つ手元にないような状態である。
そんな風に立ち尽くしているときに、シンジがやってきた。 シンジと合流したときは、真希波・マリ・イラストリアスがシンジに同行していた。 しかし、マリは「ここからは、ワンコくんたちの物語だよ」と言い置いて、「それじゃ、行かなきゃいけない場所があるから」と、行先も告げずに去ってしまった。
あまりに唐突な展開に、呆然と立ち尽くすレイと、照れくさそうに笑うシンジ。
「綾波、帰ろうか」
そういうシンジに「……どこへ?」とレイは不思議そうに尋ねた。 もう、NERVもエヴァも存在しないのに、自分はどこへ帰るというのか。 シンジには、葛城ミサトや式波・アスカ・ラングレーといった同居人たち、鈴原トウジや相田ケンスケといった友人たちがいる。 かつては「自分」もその輪の中に入っていたのかもしれないが、現在も自分がその中にいるとは思えなかった。 しかし、シンジはレイの様子に、きょとん、とすると、何かを思い出したように苦笑して、言葉を紡いだ。
「僕たちの帰る場所、第三村にだよ」
そう言って、シンジはレイの片手を握った。 そのまま、シンジに手を引かれるままに、道を歩き始めた。
「……第三村、知らない。いえ、知っている気がする」
そうぽつりとつぶやくレイに、すべてわかったうえで、あえて回答をせず、シンジは代わりにゆっくりと手を引いたのだ。
シンジの方は、行先をよく知っていた。 なぜなら、第三村に向かうことを前提として、マイナス宇宙からこの道へと戻ってきたからだ。 マリは「ワンコくんは、別の世界へも行けるよ」と言っていた。 しかしシンジは、「いや、そっちの世界は、そっちの僕に任せるよ。僕の世界は、こちらの世界だから」と断ったのだ。 「仮にそこが取り返しのつかない失敗をした世界でも?」と尋ねるマリに、「失敗も、悪いことばかりじゃなかったから」と返答した。 「この箱庭みたいな世界に、そんなに、そこまで価値はあるかにゃ?」と心底不思議がるマリに、「仮に箱庭だとしても、僕たちはその箱庭の中で、精一杯生きていくつもりさ。それっておかしいことかな?」と尋ねた。マリは「いいや、それはとてもとても素敵なことだと思うよ」そう言っていたのだ。 かくして二人は、山の中を、あるいは線路の踏切を越え、第三村の入口へと到着したのだ。
第三村に到着して、レイが最初に感じたのは、匂いだった。 鼻腔をくすぐるその匂いは、一度も訪れたことがないはずなのに、なぜかよく知っているような気がしたのだ。
「……碇君、この匂いは」 「いい匂いだよね。土の匂い。生きてるって、感じがする。」
生きている、その言葉にレイは考えさせられた。
生きるというのは、単純な生命活動を指す言葉ではないということを、シンジのセリフから読み取ったからだ。
生きるとは、どういうことなのか。
自分の意志ではなく、他者の目的のために生かされてきたレイにとっては、難しいテーマだった。 同時に、最初に自分が漠然と悩んでいた問題の本質が、この難問なのだということもわかった。 となれば、必要となるのは他者ではなく、綾波レイ自身としての回答だ。
二人は第三村の中を、手をつないだまま歩いていく。 川のせせらぎの聞こえる道を歩きながら、段々畑を通り抜け、村の中心部分へと近づいていく。
「あら、そっくりさんじゃない」
村の居住区域に入って早々に、四人の女性たちが、二人に近寄ってきた。 年の頃は50を超えたくらいだろうか。 レイは知らないはずなのに、どこか懐かしい気がした。
「あれま、ほんとにそっくりさんじゃないか」 「最近見なかったけど、今までどこ行ってたのよ」 「まあまあいいじゃないか。年頃の女の子なんだし」 「しっかし、今度は白い服なのかい。また、ほかの服も試してみないとね」
彼女たちは、レイを題材にしながら、勝手に盛り上がり始めていた。 それでも、自分のことを受け入れてくれている気がして、レイは、なんだかうれしかった。
「……綾波、レイ」 「うん?」 「……私の名前は、綾波レイ」
別にこのまま「そっくりさん」でもいい気がしたが、やはりここは、自分の本当の名前を憶えてほしいと思った。 その理由は、なぜだかわからないけれど。
「へえ、あんたの名前かい」 「いやー、思い出したのね。よかった、よかった」 「綾波レイ、かわいい名前だねえ」
四人は、揃ってはしゃぎ始める。 以前、レイと共に「汗水たらして」農作業をした小母さんたちだ。レイにとっても、こうして一緒に笑いあえるというのは、シンジに抱くものとは別の特別な思いがあった。 それを眺めるシンジは蚊帳の外だったが、彼女が、以前ここで消えてしまった彼女と同じように、村のみんなに受け入れられているのは、とてもとてもうれしかった。
「あら、そっくりさんじゃない?」 「お、シンジもおるやないか」 「へえ、二人ともこっちに帰ってきたんだな」 「あう〜、あう〜」
ツバメを抱えた鈴原トウジ・ヒカリの夫婦と、相田ケンスケがやってきた。 手荷物に食材が入っていることから見るに、配給からの帰りだろうか。
「そうか、無事終わらせてきたんだな」
ケンスケはシンジを見て、納得したように言った。
「うん。父さんと、ちゃんと話をしたんだ」 「しっかり話が、できたんだな」 「うん。ケンスケたちのおかげだよ」 「俺たちは何もしちゃいないよ。ただ、お前が頑張ったんだ」 「それでも、だよ」
ケンスケとシンジが、事の顛末を確認しあう。
一方、鈴原夫妻はというと、レイを囲んで会話を始めていた。
「もう、どこに行ってたのよ」 「そやそや、心配したんやぞ」 「……ごめんなさい。心配をかけて」
そう言う二人に対して、レイは、きちんと状況を把握していないものの、二人が単純に怒っているのではなく、自分のために迷惑をかけてしまったのだと気づいたので、素直に謝罪をした。
そんな中で、ヒカリの腕の中のツバメは「だう〜、だう〜」とレイにだっこをせがんでいた。
「あらあら、お姉ちゃんにだっこしてほしいみたいだね」
小母さんがそう言うと、どこか緊張をはらんでいた神妙な空気は霧散し、「抱いてあげて」というヒカリの声により、レイはツバメを抱きかかえた。 途端にツバメは、キャッキャ、キャッキャと笑い出し、みんなもつられて笑顔になった。
ツバメを抱きかかえていると、レイは、本来は存在しないはずの、第三村での記憶が少しずつ彼女の中で浮かび上がり始めた。 それは、ここで「そっくりさん」と呼ばれた、かつての自分自身が体験した記憶だ。
――鈴原家でご飯をごちそうになったこと。 ――小母さんたちと田植えをしたこと。 ――みんなとお風呂で、語り合ったこと。 ――碇君を大好きだと思ったこと。
“おはよう”“おやすみ”“ありがとう”“さようなら” 記憶とともに、そういった優しい言葉の意味を思い出す。
そう、自分はここで、みんなと一緒に生きていたのだ。
それは間違いのない事実として、ストンと、欠落部分にはまり込むように心の中を埋めていった。
「ツバメは、ほんまにそっくりさんのことが好きなんやな」
そういうトウジに対して、レイは改めて名前を名乗る。
「……綾波、レイ。私の名前は、綾波レイ」
レイの言葉に、彼らはキョトンとすると、すぐに喜色を浮かべた。
「そうかそうか、自分、綾波なんか」 「綾波さん、久しぶりね」 「やっぱり、綾波なんだな」
二人を見ながら、レイは自分の腕の中に存在する小さな命を感じていた。 決して取りこぼさないよう、しっかりと抱きしめながら。
――“さようなら”はまた会うためのおまじない――
そうだ、だから自分は、ここでみんなに言わなければならない言葉がある。
「……ただいま」 「おかえりなさい、綾波さん」 「おかえり、綾波」 「よく戻ったわね、レイちゃん」 「明日からまた一緒だからね、レイちゃん」 「こんばんは、みんなでご飯を食べようね、レイちゃん」 「その前に、お風呂に行かなきゃね。レイちゃん」 「……ありがとう」
彼女を自然と受け入れてくれる、大切な人たちに、シンジと一緒に囲まれていることに、レイの心は満たされていた。遠い昔、自分が「心がポカポカする」と表現した、あの時よりなおいっそうに。 そう、自分は、この優しい人たちと一緒に、大好きな碇君と一緒に、この場所で生きていきたいのだ。 この村に来るまでに持っていた空虚な心の穴は、とてもとても温かい気持ちで、完全に埋められていた。
「……碇君」
盛り上がるみんなに囲まれながら、レイはシンジに顔を向けて言った。
「なに? 綾波」 「ありがとう、ここに連れてきてくれて」
そう言ったレイの表情は明るく、心の底から嬉しそうだった。

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