Re: サイト開設十周年カウントダウン企画・八月―カウントゼロ― ( No.3 ) |
- 日時: 2011/08/13 17:33
- 名前: かぽて
- お題 ・Over The Rainbow
切れかけた蛍光灯がたてるチカチカという音が遠く聞こえていた。 仰向けに横たわり目をつむると、鼓動が耳の奥から響いてくる。 二つの音は寄り添い、けして離れることなく、揺れながら重なっていた。
もう一人のレイがやすむ寝台の横に置かれたガラスの花瓶。 そこに生けられた花をレイは見つめていた。 空調の風が葉を微かにゆすっている。 ふるふると震え、どうしてだか、色素が抜けるように緑が薄く目に映った。
「花も寝るんだって知ってた?」
いつの間にかレイを見つめていた、もう一人のレイが言った。
「いいえ」 「夜はとても静か」 「そう」
花から目を離し、もう一人のレイの様子に目をやった。 病身を横たえた彼女は宙に人差し指を浮かべ、 振り子が行き来するかのような軌道で、その指先をゆっくりと動かしていた。
「花瓶の水をかえてくれる?」 「ええ」
病室に置かれた洗面台は小さすぎるようだった。 水を移しかえようと、コップをつかって、花瓶に新しい水をはっていく。 脇に置かれた花の茎から雫が滴る音が部屋に響いていた。
「水の音って何かに似てる」 「そう」 「なんだろう……」
独り言をつぶやくように、もう一人のレイが言った。
レイは首をかしげた。 もう一人のレイが言うことは、よく分からないことが多かった。
「ここにあるものを使ってね」
物置小屋の軋む扉を押し開いて、教師がレイに言った。 午後の強い日差しが物置の中に差し込む。 ジョウロやスコップ、他にいくつか見慣れない園芸用具が整然と並んでいるのが分かった。
去っていく教師と入れ替わりに、物置の扉に手をかけ、中へと入った。 堆肥と埃のむっとした匂いが辺りに立ちこめている。 レイは手近な棚に置かれたジョウロを一つ手に取ると、花壇脇の水道へと向かった。
ジョウロには結構な量の水が入るのだと分かった。 手にもったまま水道から注ぐのは諦めて、水が流れ出る位置に合わせ、足元にジョウロを置いてから、下へ向けた蛇口をひねった。 ごぷごぷという奔流のくぐもった音が辺りに流れる。 ほんの少しだけ、ふちに当たった水流が、はじけて飛んでいった
一週間ほどの入院生活を終え、登校してみると、レイは園芸係になっていた。
担任に係について尋ねると、一学期の間、各学年各クラスの担当者が、放課後に校内の植物の世話をしてまわるのだという。 曜日で持ち回り。 火曜と木曜に、校舎脇の小さな花壇に水をやることが、掃除当番の代わりにレイの仕事になった。
西校舎の裏手、あまり人が寄り付かないような場所に、煉瓦で小さく囲われたスペースがあった。 ジョウロ一杯の水で間に合ってしまう、こじんまりとした花壇。 『土が湿る程度に』 先ほどの教師が言った通りにはなっているだろう。 はじめての水やりを終え、レイは辺りを眺めていた。
連日の暑さにもめげず、そこここに青々とした芽や草花が顔をのぞかせていた。 時折ながれていく風が産毛につつまれた葉の間を抜け、その拍子に、撒いた水がぽたぽたと雫となって落ちていった。
水場でジョウロの水気をきって、手を洗ってから、物置に戻った。 他の園芸係も水をまきに出ていったのだろうか、小屋の道具棚にいくつか空きがある。 扉は閉めずに、物置を後にした。 むっと暑気がこもった午後、そこだけ少しひんやりとした手の甲の心地良さを感じながら、レイは下校した。
もう一人のレイが、病衣の肩をはだけ、うつぶせに臥せっていた。
レイはその肩をゆっくりと撫でるようにさすっていた。 あまり強く触れると痛むようなので、微かに。
「あたたかい」 「そう」
寝たきりのもう一人のレイは、たまにこうしてどこかを痛めたり、筋を違えたり、時には床ずれをおこすこともあった。
「痛いのは嫌い?」
首だけは横に向け、寝台の横に置かれた花瓶の花を見ながら、もう一人のレイが言った。
「……よくわからない」
レイはこれまで自分の身に降りかかってきた苦痛について考えた。 しかしそこにあるものは、そこにあるものとして、ただ受け入れてきた自分を思い出すだけだった。
「痛みの音は大きすぎるの」 「そう」 「じっと耳をすませないと、他に何も聴こえてこなくなって、でも」 「でも?」 「最近は、なんだかすべての音が遠くなっていっているような気がする」
なんといっていいか分からず、レイはただ彼女の肩をさすっていた。
「ねえ、また水をかえてくれる?」 「ええ」 「水の音が聞きたい」
もう何度目になるだろうか、いつものようにコップに注いだ水を、ゆっくりと花瓶にそそいでいった。
脇に置かれた花は、もはや枯れかかってきていた。 跳ねこぼれた幾筋かの水が、しぼみ出した葉の上を虚しく滑り落ちていった。
二人は息をとめるようにして、ただその音に意識を向けていた。
その本を手にとったのは偶然と気まぐれからだった。 書棚を眺めながら次に読む本をみつくろっていた時に、視界の端に園芸という文字が入ってきたので、ごく軽い気持で借りていくことにした。
定位置である待機室のベンチに腰をかけて、レイは借りたばかりの園芸書を取り出した。 園芸書というよりは、草花の写真集といってもいいかもしれない。 各種植物を世話する様子が、緑の鮮やかさはそのままに、見やすい構図で写されている。 活字が詰まった本を手に取ることが多かった彼女は、読み方にぎこちなさを覚えながらも、ぺらぺらとページをめくっていった。
ドアの開閉音に目を上げると、シンジが部屋に入ってくるところだった。
「今日、宿題おおいね」
一声かけ、机の上に鞄を置くと、彼は椅子に腰かけた。
「ええ」
シンジが鞄から教科書とノートを取り出し、宿題をはじめたところで、レイは視線を園芸書に戻した。 丁度、ダリアの切り戻しについての説明を読んでいたところだった。 作業工程を追って、黄と赤と緑に彩られたダリアの様子を数枚の写真が切り取っている。
――この花を見たことがある。
素焼きの鉢に寄せ植えされたダリアの写真を指でなぞりながら、レイは思った。
「大丈夫?」 「……え?」 「いや、なんだか呆然としてたから、どうしたのかなって」 「そう」
薄い赤と黄が混じり合って、透けるようなオレンジになった花弁。 細い茎に支えられ、夏の日差しの下、咲ききる前の花が初々しく色づいている。 かつて見た花とは、まるで印象が違ったが、どちらも同じダリアだった。
「この花、ダリアっていうのね」
部屋の中、蛍光灯の灯りをあびて、静かに咲いていた姿を、レイは思い出していた。
もうあまり動かなくなってしまったもう一人のレイの手を、レイは握っていた。 寝ているように、ゆるやかに上下する胸。 時折、もう一人のレイの指先が何かを伝えるように動くと、それに応えるようにして、レイは彼女の手の甲をさすった。
「蛍光灯の……」
ささやくような声で、もう一人のレイが言った。
「ええ」 「音がしなくなったの」 「そう」 「うん。もう聞こえない」
もう一人のレイの気持をどこか別の方向に向けるための話題を、レイは持っていなかった。 二人の間に沈黙と影ばかりが積もっていく。 ほっそりとした彼女の手に触れながら、レイは花瓶の花を見ていた。
しぼんだ茎は、頭をたれた花を、もう支えていられないようだった。 全体が腰を下ろすようにして、立っていることを諦め、花瓶の縁に寄りかかっている。 萎れた葉が時折たてる乾いた音を聞きながら、レイは自分の体温をなぜだか生々しいものとして感じていた。
「水を」
レイにはその一言で十分だった。
いつもするように、収納棚の上に花瓶から抜いた花を横たえた。 重さというほどのものは殆ど感じられない。 その軽さはレイにとって憧れともいえるものだった。 けれど何故だか羨む心持ちにはなれず、代わりに見知らぬ感情が彼女を訪れてきた。
もう一人のレイは、目を閉じて、何を言わずに、ただ横たわっていた。 二人はあまりに静かで、水音だけがただ部屋に流れていった。
花瓶が水で満ちていくにつれ、よくわからない感情が自分の胸にも満ち満ちていくのを、レイは感じていた。 その勢いに身がすくむ。 どうか溢れ出してしまわないように。 彼女は無言の内に願っていた。
火曜日の放課後、レイはジョウロを満たして、校舎脇の花壇にむかった。 ここのところ、日に日に暑さがつのってきている。 一日分の日差しをたっぷりとあびた道は乾いて、ただ熱をじりじりと放っていた。
花壇につくと早速、レイは水やりをはじめた。 ほんの数分でジョウロの水は空になったが、いつものようには土が湿らず、ところどころ乾いた土肌がのぞいている。 もう一度、水道で水を汲んでくるべきか、レイは思案した。
「綾波、おつかれさま」
やはり水場に行ってこようと思ったところで、かけられた声に振り返ると、そこにはゴミ箱を両手にさげたシンジが立っていた。
「園芸係の仕事、おわった?」
ゴミ捨てにいっていたのだろうか、空っぽのゴミ箱をもって、シンジが花壇まで歩み寄ってきて言った。
「いえ。まだ土が乾いてるみたいだから」 「そっか」 「ええ」
ちらりと一度だけ視線をジョウロにやって、シンジは花壇の向かい側に屈みこんだ。 草花を眺めはじめた彼はそのままに、レイは水場へと戻った。
ジョウロを半分ほど水で満たしてから戻ると、
「結構いろいろ育ててるんだね」
しゃがみこんだままのシンジが声をかけてきた。
「これ、ダリアだね」
花壇の隅、青い葉と蕾をつけた株を指して、彼が言った。
「え?」 「こないだの本、この花について調べてたのかなと思ったんだけど」
シンジの隣で腰をかがめ、彼が指さす辺りを、レイはあらためて見つめてみた。 半ば土に埋もれた名札には、飛び散った泥に隠れてはいたが、確かに『ダリア』という文字が書かれている。 辺りには、青々とした葉と芽をつけた株が、いくつもの同じような顔をのぞかせていた。
何も言うことができなくなったレイは、ただ彼の傍でじっとジョウロを握りしめていた。
主のいなくなったベッドには、真新しいシーツがしかれていた。 何も置かれていないサイドテーブルの上に、花瓶の底で水跡がつくった埃汚れの輪がうっすらと残っている。 レイはその円を指でなぞった。 もう一人のレイの名残といえば、それが全てだった。
花と花瓶と彼女の不在を、部屋が持て余しているようだった。
なんとはなしにパイプ椅子に腰掛ける気にならず、レイはベッドに横になってみた。 がらんとした病室の真ん中、天井を見上げてみると、そこはまるで知らない場所のように感じられる。
レイは目を閉じた。
普段は意識することのない自分の呼吸音が微かに聴こえてきた。 どこか遠くから伝わってくる、低く唸るような機械音は、何がたてる音なのか。 身じろぎすると、衣擦れの音がやけに大きく響いた。
動きの乏しいこの部屋で、彼女の傍にあったもの。 レイは、枕元に生けられていた、あの花のことを思った。
それまで一度として思い出したことのなかった、あの花からのぼってきた微かな香りが、ふわりと記憶の海から浮き上がってきた。 そして、洗面台からコップから花瓶から、こぼれるように流れていった水のひんやりとした余韻。 その冷たさを、手も頬も、まだ覚えていた。 彼女の手の暖かさも。
なぜだろう。 すぐ隣にいた時、すぐ傍にあった時、するりと感情から抜け落ちていったはずのものたち。 でもそれは、ちゃんと私の中に在り続けていた、とレイは思った。
花も人も、あらわれては消えていく、いくつものいくつもの同じ物。 みんな淀みなく流れていくのだと、そうあるのだと、そうありたいと、 ずっと自分の中にあったはずの考えと、思うようには動いていかない感情に挟まれて、レイの胸は締め付けられた。
レイは透明なガラスのようでありたいと思った。 反響する感情に惑わされることなく、冷たい一個の意思として立っていたかった。
しかし、自分がわからなくなることのないように、体がほどけていかないように、 そう願えば願うほど、瞼の裏に浮かんだあの花の輪郭は、くっきりと鮮明なものになっていった。
連続した猛暑日の後で、なにもかもが熱をもってしまっていた。 物置小屋の扉も長く触れていられないほどで、中に置かれたジョウロでさえ体温より高かった。
水道にいき、生暖かい水をジョウロに注いだ。 足元に降りかかってくる飛沫が徐々に冷えていく。 レイはジョウロが満たされていくのを眺めながら、うだるような暑さの元で過ごしているだろう花壇の草花のことを思った。
どこまでも青くなった空と、もくもくと重なる白い雲の下で、 緑は濃く、花は色づき、花壇の中、夏の植物たちがその存在を香らせていた。
草いきれをうけ、その圧倒的な生の存在感の前で、レイは佇んでいた。 思い出したように水をまくと、土の匂いがたつ。 強い日差しをうけて、ジョウロから流れていく水が眩しく輝いていた。
半分ほど水をまいたところで、ふうと一息ついた。 額にかかった前髪が熱い。 陽の光をさえぎるように手をかざすと、花壇の向こう、校舎の方から、シンジがやってくるのが見えた。
「あついね」 「ええ」
そう返事をして隣に立った彼を見やったところで、立ちくらみがして、レイはよろけた。 手にしていたジョウロの重みに、バランスを崩して、足がとられたようになる。 慌てて半歩かけよったシンジに肩をささえられ、そのまま彼の胸に身をあずけた。
鼓動がした。 彼の胸板から、水音のように、どくどくと血が流れていく音がする。
「だ、大丈夫?」
ふらりと熱にくらみながら、レイは唐突に理解した。 自分の中に満ちているものが何なのかを。 そして疑問にも思った。 彼の傍にいると、どうしてこんなにも狂おしく温かいのか。
「……大丈夫」
彼のシャツを握る左手に、ぎゅっと力を込めた。 もっと深く聞いていたい。 重なりあった体と体の間で、二つの水音が一つの響きとなっていくのを、恍惚として感じ取りながらレイは思った。
レイは木陰で休んでいた。 片手にはシンジが持ってきてくれた濡れハンカチ。 ペットボトルの水を口にし、時折おでこを冷やしつつ、彼女は彼に言われたとおりに座り続けていた。
視線の先、午後の日差しが降り注ぐ中、シンジがジョウロを手に立っていた。 もう平気というレイを押しとどめて、代わりに花壇に水をまいている。 空の下で水しぶきを浴び燦々と輝くダリアと、白いシャツを着た彼。 影の中から見つめていると、あまりのコントラストに現実感が薄くなっていき、さっきまで自分があの場にいたのが嘘だったかのようにも思えた。 でも、彼の中にある水音を、たしかに聞いた。 花と土と彼の匂いに包まれながら。
レイは自分の胸に手をあてた。 鼓動を微かに感じ取れる。 あの日から、いいえ産まれた時から、ずっとこの胸に満ち満ちていたものが寂しさだったとして、 重なった鼓動の先で気づいた、このぽかぽかとした想いを、なんて呼んだらいいのだろう。
「碇君」 「なに?」 「水の音って、何に似てるか分かる?」
なんだろう、彼は小さく呟いてから、ジョウロを傾け、また水をやりはじめた。
彼の中にある水音を、たしかに聞いた。 いつか、私の中にもある水音を、彼に聞いてもらう日はくるのだろうか。 そうして、そして、一つになった響きの中へ溶け込んでいけたら……この震えるような想いの名を知ることができるだろうか。
ジョウロが描く虹を見つめながら、どうしたらもう一度、彼の胸にとびこめるのか、レイはそのことをただ考えていた。
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