駆け出す彼女 |
- 日時: 2013/01/17 02:03
- 名前: のの
- 雨。
雨。
いつだって、あめ。
駆け出す彼女
駆け出す彼女の向こうには雨が降りだしていた。高架を抜けた彼女の頭に土砂降りの雨が降る。それでも彼女は制服のまま、革靴のまま駆け抜けた。ずぶ濡れのままで。 何が彼女をそうさせているのか、説明することなど実に容易い話だった。例えば大人を相手に説明するならば本当に一言、それもなんなら、例えば酒の席なら「例のアレ」とでも言ってしまえば済むような話にすぎない。大人から見れば。そう、それが問題といえば問題であった。大人から見れば些細な言葉で決着がつけられようとも肝心要の彼女は大人ではなく子供であるし、彼女の周りにいる大人も正常なアドバイスを施せる人間はごくごく限られている上にそのうちの一人は例えば死んでしまっていたりして、故に彼女は己の電気信号に従ってこんなにずぶ濡れになっても走り続けているのだった。 彼女が走る第三新東京市の目抜き通りは真新しくも見えるが所々にアスファルトがめくれ上がっていたり、熱で溶けてただれていたりした。これはこの街がこの数ヶ月で幾度も災厄に見舞われて、そしてくぐり抜けてきた証でもある。悲しいかな、この街はそもそもそうした災厄を予期して造られたためにところどころの破損で済んでいる。実際には区画ごと消滅したりもしているが、それにしたって驚くべき速さで修理され、数週間でまるで何事もなかったようにビルが林立しだすのだ。こんな街は世界中を見渡しても他にはない。しかしそんな化物の様な町を好む住人などあろうはずもなく、この半年で町の人口はかつての三分の二ほどまで落ち込んでいた。出来すぎた出来損ないのこの街を運用するには住民も作業員も減っており、常日頃補修員を増員させてはいるものの、旧再開発地区(セカンドインパクト以前の名残となっている団地群をはじめとする旧市街地全体を指す)は勿論、そろそろ街の損害を取り繕うにも限界を迎えつつあった。 そんな中、その旧市街地へ向けて彼女は走り出していた。そこは彼女のねぐらだった。ねぐらという表現以外にしようのないほど十四歳の少女がひとりで住むには殺伐とした人のいない団地郡のC唐402号室に彼女は住んでいる。買い出し一つとっても不便のはずの場所だが彼女には不自由がない。必要なものは定期的に運んでくれるようになっているし、寝泊りとシャワーと読書以外にすることない部屋ならばどこであろうとも彼女からすれば一緒である。むしろ人がいなければいないほど彼女には心地よかった。生き物の気配がないからだ。そして彼女は、その部屋へ向かって走っている。全力疾走もいいところだ。日頃から訓練で鍛えられた持久力は彼女にかなりの速度を持続させているだけでなかく、彼女の足元は不思議な橙色の煌めきをかすかに、ほんのかすかに放っており、彼女はその上をほとんど無重力のように走っていた。しかしこの雨ではそんな光は誰にも気づくことができない。何しろ人通りの少ない場所だし、せいぜいが工事のために走り抜ける大型トラックくらいしかすれ違わないのだから。 今の彼女は、生来の赤い眼に明日も今日も映すことをできなくなっていた。ただひたすらにほんのわずかに前に目の前に広がる光景が映ってばかりだった。思い出したいわけでもないのに、土砂降りの雨の中を走っているはずなのに、眼前に広がるその光景。見たくも聞きたくもないその世界を振り払いたくて仕方がないのに、どうにもこうにも追い抜くことができていない。家に着いてもそれは同じで、彼女はいつもよりずっと乱暴に鞄を玄関から放り捨てて即座にシャワールームに入って、ずぶ濡れの服をどうにかこうにか脱ぎ捨ててとびきり熱いシャワーを真っ白い肌が真っ赤になるほど浴び続けた。 少しだけ気が晴れた身体で膨れたどんぐりのような色になった鞄から仕事道具の携帯電話を取り出すと、着信履歴が残っていた。こんな時に仕事の話を聞きたくないのは彼女であっても14歳であるいい証拠なのだが、彼女自身はそんな自覚は一切なく履歴を確認すると、つい先程まで自分の視界から離れてくれなかった少年からだったので、裸のままの彼女は何故だか急に服を着る気分になったので、ひとまず真っ白い身体を乾いた服で覆って、その間に無意識のうちに深呼吸を三回もしてから履歴をもう一度確認したら今度はメールが入っていたのでもう一度深呼吸をしてからメールを確認した。 『さっきはごめん。』 短い、あまりに短い一文に、彼女は首をかしげた。自分は謝って欲しかったのだったっけ?嬉しいけれど、しっくりこない気分なんて味わったことのない彼女は率直にその気持ちを送り返した。そういえばメールの返信をすること自体が、一体いつぶりなのだろう。 『なにが?』 送り返した直後に、これではあまりに自分も不十分な気がしたがもう遅い。追いかけるように電話をしようと思ったけれどもそれだって何かが遅い気がするし。だからといってこのままでいいわけではなくて、それでいて返事が怖くていつまででも来なくていいからお願いだから声だけでも聞きたいような、そんな気持ち。 「きもち?」 彼女は思わずつぶやいた。そんな気持ちって、どんな?気持ちだなんてもの考える持ち物、自分の心臓の中にはおよそないと思うのに。でも何だっていいから、いやでもなんだってじゃなくて、でもとにかく彼の声が聞きたくて、聞きたいけれどなんでもいいわけじゃないこの気持ちを、これを、なんと呼べばいいのか彼女はわかっていない。その答えはそれこそ大人なら簡単に言い当てられてしまうけれど、気の利く大人だったらそれを言うのも野暮というものであって、だからやっぱりその気持ちは彼女自身が名前をつけるしかないということを、彼女はまだまだ全然気づいていないのだった。戸惑ってばかりで空腹も忘れる彼女にはもちろんメールが来ない30秒は300秒に感じられ、60秒が一時間に感じられる。来て欲しいような来て欲しくないようなバイブレーションをたまらなく欲しているような、そのバイブレーションを何度でも送りたいような。 そうこうしているうちに、電話が鳴った。メールではなく電話だった。ぴろりろり、ぴろりろり、という誰からでもかかるその音に彼女は反射的に腹を立て、迷わず電話を取って着信ボタンを押しながら、後で着信音を変える設定をしたいと思った。彼からの音がこんな音であっていいはずがなくて、もっと自分の心拍数に合った音楽が相応しいと感じていた。大人だったら簡単な言葉を、彼女は自分で難しくしている、早い鼓動、締まる喉、固くなる筋肉、言葉にならない反応だけでしか語れない彼女はひたすらに子供だった。だからこそ、彼女は彼女にしか出せない声になっていた。 「もしもし……碇くん?」
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