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数あるひとつ
日時: 2017/01/19 15:42
名前: のの

星の下にいる。

映画みたいな星空の下。

目を閉じるだけでそこに居られる。



数あるひとつ
Written By NONO



 大地が白く覆い尽くされ、天には灰色の蓋をされていた。
 中央通りは車の轍さえ濁った白に染められ、垂れ下がる信号だけが赤青黄をいくぶん規則的に交差点を灯を下ろしている。街燈が灯るにはまだ早く、思い出のように霞む景色の中では、それだけが現実の証のようだった。
 行き交う車は一様に慎重で、鈍重で、頼りなく、しかし力強さは垣間見せているので、もっと速度を出している普段よりもむしろ近寄りがたく、地面の点字から二歩下がったところにいてもなおその迫力にたじろいでしまうほどだった。体重のかかった踵が地面と仲違いしてそっぽを向きそうになるところを、見合いのように強引に引き寄せて踏みしめた。ネクタイをつかんで引き寄せるように、と言い換えても良い。
 約束の時間にはまだ十分な時間があった。普段から慎重を期する性格が、こういう異常気象に関しては効果を発揮する。こんな時くらいしか、人目にもわかる得がないことを良しとするかは別として、ともかく、どれだけ慎重に歩いても十五分前には到着できるはずだった。
 交差点の向かいにあるYHMビルの8Kオーロラビジョンが、一面を白に塗り潰された首都を映している。上から見ても下から見上げてもさしたる差のない、いやむしろより白く映る景色にテロップが左から右に、上から下にと全国各地の気象情報と通行止めや欠航の情報を流す光景は、絶望に嘆く人気者に降り注ぐ慰めの言葉を思わせた。
 目的地のマンションに着けば、炬燵と鍋料理が彼を待っているはずだった。それと酒。故郷の酒だと言って、先日上司からもらったという酒を開けるための宴がそこで行われる予定だった。家主の綾波レイは、ほとんど生まれた時からと言ってよい、幼い頃から所属している特務機関に大人になっても離れていない。今やもう、最も忙しかった――あるいは、凄惨を極めた――時期はすぎ、自分を含めた多くの者がそこを去って行き、彼女は周囲からの勧めも誘いも断って、最も古くから籍を置く者として働き続けている。その理由を問うた事はもちろん一度や二度ではなく、その度にきちんとした答えが返ってくるが、その内容はいつも違っていた。曰く「誰かがやらなきゃいけないことだから」「平和維持のため」「お金のため」「音楽性の違いから」。大抵こうして躱されるが、今回の誘いの元となった酒を貰った話を聞いた時には「長くいると、たまには良いこともあるのね」と、感慨深そうに呟いていた。そのあとすぐに「二人じゃ飲みきれないし、皆も誘っていい?」とも。風鈴よりも涼しく、暖炉よりも温もりのある声だった。シンジは彼女とすごす時間に自分以外の者が入ってくることにかすかな不満を憶えたが、自分ではおくびにも出していないつもりで頷いた――そりゃいいね、アスカもまだしばらくこっちに居るって言うし、来週あたりにでもやろうよ。
 その結果がこの吹雪であるなら、誰を恨むべきなのか。
 雪は軽く、風が吹くたびに舞い上がって、春を謳歌する桜の花びらの様に振る舞っていた。厚手のズボンにダウンジャケットをフードまで被り、手袋で手首から風が入らないようにしても、末端から徐々に空気と同化する身体を震わせながら慌てず歩いていけば、踏みしめられた乾いた雪が固まって、地面ほどではないにせよ、確かな手ごたえとして感じることができた。しかし、そんな中でも身体は正直に欠伸を要求し、それに逆らって歯噛みしていると、つくづく昨夜の徹夜が悔やまれた。あと二十分程の道のりも、今はまだ遠くに感じられる。実際の距離よりも負担の大きな道と減ったままの体力では、距離感ひとつ掴むのも難しいらしい。
「犬や狼なら、こうはならないのに」
 思っていたことを口にしてみても、湿った吐息が唇をいくらか湿らせただけで、効果的とは言い難かった。
『忍耐は備わっていても、それをうまく使うだけの辛抱が欠けてない?見かけによらず、案外人と衝突する事が多いんじゃないの?』
 誰かに言われた言葉を思い出しながら、四丁目の交差点を渡った。時期外れの雪と最も相性の悪い振袖姿が見えるのは、おそらくグリーンドームで行われたのであろう卒業式の帰りと思しき年上の学生達だった。来年は是非とも晴れてほしいと思うが、それは別に彼女達の不幸を願うことには繋がらないとわかっていながらも、そう思った自分を少し恥じた。早足になるまい、早足に。焦っても、どうせ何も変わらない。雪もやまない、急に歩き慣れたりもしない。ただ
 鉛を付けて歩く囚人よりも慎重に歩く婦人とすれ違った。彼女は着膨れしてシルエットだけなら老人を思わせたが、彼女の色彩がそれを否定していた。ショルダーバッグのキーホルダーが目に入って得心する。一度は除雪した横断歩道の白く塗られた部分が薄く積もった雪の下で氷を張っており、彼女はそれを慎重に慎重を折り重ねて渡っていた。誰もが気づかぬままに、彼女は一人で歩いていた。すでに一人を抱えているのに、一人で。
「こんなところに、のこのこ来るから」
 次にすれ違った誰かがつぶやいた。それは雪と一緒に空に舞い散ったが、千切れた欠片が女性の耳に飛び込んだかもしれない。

 目的地のマンションへの近道ではないが、雪を避けるために商店街を通ろうと手前の横断歩道を渡った。通りすがったタクシーを何度も呼び止めようとしたが、いくつかの理由から彼はそれを実行せずに歩いてきた。ほとんどは、すでに乗車中で乗れなかっただけだった。
転んだ時のためにポケットから出した手はどう頑張っても感覚が鈍りつつあった。路地を曲がろうとしたところでまたも足を滑らせたが、今度も転ばずに済むと、自分の反射神経も悪いものではないように思えた。商店街のアーケードに入り、雪から身を守った人の賑わいが目に飛び込んでくる。鼻を赤くしながらスーパーの店員が大声で呼び込みに勤しんでいた。
「さあ、こんな日にお買い物に来ていただいたみなさん、朗報です、緊急タイムセールです!切り餅1パック100円から始まって、鮮魚コーナーでは全品30%〜50%オフ!今日はお鍋や手巻き寿司で、ぜひテーブルを囲ってください!」
 自転車で来る客はほとんどいないので、賑わいの割に店舗の前は整然としている。昼には止むとされていた予報より4時間以上も長く降っているものだから、仕入れの読みも外れたのだろう。ついでに正月の在庫も売り払ってしまおう、というところだろうか。シンジは自分の家の冷蔵庫に入っているものを頭に浮かべて、安心してスーパーを通りすぎた。
もう目的地は目と鼻の先だと確信を持って、ようやくポケットからプレーヤーとイヤホンを出す。うっかりランダム再生になっていたせいで、イントロから派手で妖艶なギターソロで始まるサマーソングが耳に飛び込んできたので吹き出しそうになった。
 茶屋と煎餅屋を通りすぎた角を左に曲がると、突き当たりの向こうに彼女の住むマンションが見えた。茶も煎餅も彼女のイメージには遠く、二つの店を通る時に嗅ぐ香ばしい匂いにいつも笑ってしまうのだが、今日はどちらも定休日だったので、音楽プレーヤーを触りながらにやにやしていると、ただ怪しいだけになってしまった。店が開いていても変わらない事には気が回らなかった。
 目的地のマンションの部屋はどこも明かりが灯っていた。こんな天気では、休日の予定も丸つぶれだったに違いない。その中にあって、彼女の部屋は数あるひとつにすぎなかった。有難みが薄れる、という気持ちがないわけではなかった。だが、そんなドラマを求めるのなら、そういう生き方を求めるのなら、様々な事を許容することになる。そちらに舵を切らないためには、いくつもある光を認めて、そのひとつひとつと、その中のひとつを選んだだけの自分を認めて、それ以外のひとつひとつも選ばれたひとつであると思わなくてはならなかった。
 路地は両側の家々から飛び出してきたであろう子供たちによって雪の番人が何人も立っていた。早くも、歩き出しそうなほど立派なものもあった。まだ止んでもいない雪で作るのは気が早いのには違いないが、その逸る気持ちは外に出てからずっと迷惑顔で歩き続けていたシンジにも伝わった。どんなに遅くとも、雪は夜更け過ぎには雨へと変わるという。今日が一夜の夢ならば、なおのこと。
 目的地のマンションは、若い女性の一人暮らしにはやや高級な、まだ築浅の7階建てだった。入り口わきの駐輪場に置いてある自転車は、道端に留めっぱなしだったそれとは違って雪に覆い尽くされてはいないものの、やはり奇妙な白いオブジェと化しつつあり、すぐには本来の役割を果たせそうになかった。入り口わきのパネルから、手袋をはめた手で部屋の番号を入力する。
「はい」
ほとんど呼び鈴が鳴らずに出た。
「お邪魔します」
「はい」
 目の前のガラス扉が後ろに引き下がるように開いた。マンション中から酷評されている観音扉は彼女の評価も著しく低い。その理由は「いざという時に気分が上がらなくなる」かららしい。彼女はたまにわけのわからない事を言う。
 部屋の扉はカギがかかっていなかった。開けると彼女は玄関に立っていた。
「久しぶりだね」
「一週間ぶりね」
 長靴を脱いで手土産のシュークリームを渡すと、彼女は小躍りした。14歳の頃に住んでいた街で人気店だった店が、3か月前からこの街に支店を出していた。そこで買うのは初めてだったが、味はとうにお墨付きだ。
「お店、今日も並んでた?」
「いや、さすがに空いてたよ」
 それはそうよね、と彼女は歌うようにつぶやいて、温かい部屋に彼を招いた。
「みんなも、そんなに遅れず済みそうって」
「楽しいことなら足も鈍らないのかな」
 他の客人より一時間早く来たのは手伝いを頼まれていたので、手を洗って、台所に立つ彼女の隣に立った。暖かい部屋で血が滾る所為だろうか。やっぱり朝まで二人でいたい気持ちは消えていない。本当は今すぐ冷えた体を暖めてもらいたい、簡単に自分から目を背けて台所に立つ彼女の気持ちを先へ先へと引き延ばすために、タートルネックのセーターが隠し切れない彼女の頸に噛み付きたい。それを抑えるために、飾ってあったドライフラワーに指先で触れ、自分のセーターの袖を捲った。
「なに手伝えばいい?」
「わたし用のお鍋の具材の用意」
「それだけでいいの?」
「そうしてほしいの」
 彼女が言った。
 彼が頷いた。
 二人のことを、お互い以外、誰も見ていなかった。





















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◆あとがき
どもです、ののです。
久々の短編です。
冬の話が大好きです。
寒い日々が続きますが、皆様も、どうかご無事で。

メンテ

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Re: 数あるひとつ ( No.1 )
日時: 2021/05/15 20:34
名前: tamb

 ざっとスクロールして、そこそこのサイズだなと思いつつ読み始めると、思っていたよりも遥かに早く読み終わった。ののさんの短編には、こういう不可解なことが時々起きる。目を閉じれば満天の星空の下にいられるような、特に難解な短編の時に。

 彼らが常夏の地に生まれたのだとすれば、雪に不慣れなのも無理はない。既に一人を抱えているなら、慎重に慎重を重ねて、慎重過ぎることはないだろう。たまの吹雪を楽しむ余裕がないのも無理はない。それは特務機関で働き続ける彼女にとっても同じことで、音楽性が違うというのも働き続ける理由になる。異なるということは何かが生まれるということでもある。
 今なおゆるめの菜食主義でも、シュークリームで小躍りができて、数あるひとつがただ一つだと信じられれば、それで十分だと思える。
 そしてついでに、あくまでもついでに、頸に噛みついて冷たい手で彼女を後ろから抱き締めなかった彼を褒めてあげよう。彼女がそれを望んでいたとしても。
メンテ
Re: 数あるひとつ ( No.2 )
日時: 2021/05/16 00:38
名前: のの

たぶんこれ、2017年1月に大雪が降ったときに書いたはず。
当時勤務していた会社も半日以上機能がマヒしたし、
身重の奥さんは身動き取れねえし、子供もうかつに外に出しにくい(出したけど)しで、
うわーきれい、より四苦八苦した思い出が今でも強い。
そんな気分が現れてますね。

いくつかのアイテムや何かしらの指向性が、連載とリンクさせてあるのは自分の灯が消え切っていなかった証左と言えなくもない。
メンテ

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