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眠り猫
日時: 2021/09/22 18:26
名前: 史燕

書くべき物語を見失い
迷って惑って丸二日
そして心の中に浮かんだのが、この情景でした。(作者)


眠り猫
Written by 史燕


日がすっかり沈み、三日月がマンションの上に存在感を主張しだした頃、僕は部屋のドアを開けた。

すっかり暗くなった室内では、真ん中のテーブルに突っ伏した彼女の姿があった。

「待たなくていい、って言ったのに」

腕枕に顔を埋めてかわいらしい寝息を立てる様は、まさしく眠り猫。

風邪を引かないようにとブランケットをその肩に降ろし、僕は背広をハンガーに掛けた。

夕食の準備は味噌汁が仕込んであり、炊飯器の点滅が炊き上がり間近であることを示していた。

トントン、トントン、まな板の上で包丁が音を立てる。
料理なんてお安いご用。独身時代はおろか、中学以来、炊事は専業のようなものだった。

「帰っていたの」

彼女が起きたらしい。

「ついさっきね」

振り向かずに切ったばかりの小ネギを鍋に包丁で散らす。

「起こしてくれればよかったのに」
「あんまりにも気持ちよさそうだったからね」

頃よく起きた猫の前に料理を並べる。
ご飯とお味噌汁、そして茶碗蒸しとアジの開き。

「同じ蒸すなら、プリンがよかった」
「そんなかわいくないことを言っちゃう悪い子には、銀杏、自分で食べてもらうよ」

彼女のふくれた頬を人差し指でつつきながら、苦笑して言う。
この分なら、冷蔵庫に放り込んだ2つのプリンの話はしばらくしないでおこう。

二人で手を合わせて箸をつける。
彼女の作った味噌汁は、僕が作るより少しだけ甘い。
だからこそ、切ったばかりの小ネギの香りが口の中で引き立つのだから不思議なものだ。

「碇君」
「はいはい」

彼女の呼びかけに目を向ければ、いつものように匙の上に黄色い実がのせられていた。
早く食べてくれとばかりにずいずいと押しつけられる匙に、「仕方が無いなあ」とひと言言ってパクリと口に含む。
うん、おいしい。

「どうして平気なの?」
「いや、おいしいじゃないか」
「苦いの、嫌い」

今日は欠片も口にしていないにもかかわらず、銀杏を食べる僕の数倍以上に眉間にしわの寄った渋面を作って見せた彼女は、なんだかおかしかった。

「はい、あーん」

代わりというわけではないけど、僕もシイタケを彼女の口に押しつける。
嫌いだというわけではないのだけど、彼女の中では僕は茶碗蒸しのシイタケは食べないということになっている。
そうしないと、僕が彼女に匙を向ける理由がなくなってしまうからだ。
奥にもう一つシイタケが眠っていて、それを隠れて食べるつもりな事は秘密だ。

洗い物を、二人並んで片付ける。
僕がスポンジで、彼女が濯ぐ。もう違和感もなにも無いいつもの作業だ。

「お風呂、先に入る?」
「いや」
「じゃあ、僕が先に入ろうか」
「それもいや」

じゃあどうしろと、という話なのだが、どうやら今晩も湯船で足は伸ばせそうにない。

「一緒が、いい」

つまりはそういうことなのだろう。

メンテ

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Re: 眠り猫 ( No.1 )
日時: 2021/10/02 22:35
名前: tamb

 一時期通っていた小学校の校庭には大きな銀杏の木があって、校歌にもなっていた。そういう学校が全国にいくつあるのか知らないけれど、転校したので卒業アルバムに載っているわけでもなく、あんまり関係ない。
 イチョウもギンナンも同じく銀杏と書く。子供の頃、それがよくわからなかった。今でもよくわからない。ギンナンはともかく、イチョウとは読めない。世の中にはよくわからないで済ませておけばいいこともある、ということがわかる程度には大人になった。
 銀杏――ギンナンは地面に落ちているもので、食べるものではない。食卓に出る銀杏と地面に落ちている銀杏が同じ物であると知ったのは、たぶん中学生になってからだったと思う。食べるものというのはスーパーに並んでいるもので、そこら辺に落ちていたり成っていたり歩いていたりはしない。だから子供の頃にイチゴ狩りとかに行くのは実は重要な事なのかもしれない。食べる前提での魚釣りとか。ぼくには連れて行ってくれる人はいなかった。彼女もそうだろう。

 お風呂は一人で入ると、一緒に暮らしはじめた頃、彼女は言った。家の中で一人になれるのは、トイレとお風呂しかないから。
 それが今はこうだ。
 髪を洗うのが面倒らしい。洗うのはともかく、流すのが大変。座っていれば全自動で全部終わるのはとても楽ちん。
 その後、身体を洗うのを眺めている時もあれば、洗ってあげることもある。スポンジを使うこともあるし、手でそのまま洗うこともある。笑ってしまうこともあるし、黙っている時もある。そういうこと。

 今日も昨日と同じで、たぶん明日も今日と同じ。変わらない毎日。変わることのない日常。変わらない幸せ。でもほんのわずかな、取るに足りない変化が積み重なって、ふと気づくとずいぶん遠くにいる。積分、と彼女は言う。そうかもしれない。そう言う彼女は、相変わらずぼくの隣にいる。昨日は1ミリ離れ、今日は2ミリ近づく。そうやって揺れながら、ぼくの隣にいる。

「お風呂、先に入る」
 彼女もたまには足を伸ばしたいのだろう。
「うん。洗い物、済ませておくよ」
「待ってるから」

 つまりはそういうことだ。

 冷蔵庫のプリンを食べるのは、夜更け過ぎになるだろう。

 明日はお休み。

メンテ
Re: 眠り猫 ( No.2 )
日時: 2021/10/02 22:37
名前: tamb

眉間にシワを寄せる彼女、というのが微妙にツボったのだった。が、使えなかった。
こういう特に何もない日常の話は好きです。感想は書きにくいけどね。
メンテ
Re: 眠り猫 ( No.3 )
日時: 2021/10/02 23:21
名前: 史燕

○tambさん
感想ありがとうございます。
さらにはFFまで書いてくださるとは思ってもみず、本当にうれしいです。
ありがとうございます。

>こういう特に何もない日常の話は好きです。感想は書きにくいけどね。
そうですよね、感想は書きにくいですよね。それでも日常の二人を書くのは大好きです。

>眉間にシワを寄せる彼女というのが微妙にツボったのだった。が、使えなかった。
完全に手癖のなかから出てきた表現なのですが、お気に召して幸いです。

>イチョウもギンナンも同じく銀杏と書く。(中略)ぼくには連れて行ってくれる人はいなかった。彼女もそうだろう。
この二人の特殊性が、きっちり文章に表現されていて、すごいなあ、と感嘆するばかりでした。

>髪を洗うのが面倒らしい。洗うのはともかく、流すのが大変。座っていれば全自動で全部終わるのはとても楽ちん。
綾波さんは、たしかにそういうところありそうですね。なにより碇くんがやってくれるのが気持ちいいのだろうな、なんて思います。

>今日も昨日と同じで、たぶん明日も今日と同じ。
シンのヒカリさんの台詞を思い出しました。変わらない日常だから、変わらない二人だからいいのですよね。

>そう言う彼女は、相変わらずぼくの隣にいる。昨日は1ミリ離れ、今日は2ミリ近づく。そうやって揺れながら、ぼくの隣にいる。
少しずつ変化しながら、それでも変わらず隣にいる。それがこの二人のいいところなんだと、この文章から実感しました。

>つまりはそういうことだ。
>冷蔵庫のプリンを食べるのは、夜更け過ぎになるだろう。
>明日はお休み。
夜更け過ぎまで大変だなと碇シンジ氏の苦労は推察いたしますが、明日休みなら問題ないですね。

重ね重ねになりますが、本当にありがとうございました。感激しております。
メンテ

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