ハートビギナー |
- 日時: 2022/07/19 00:40
- 名前: みれあ
- ――まいったな。
テスト勉強をしたくて自習室代わりの図書館まで来て、見覚えのある空色の髪を見つけてしまった。予想していなかった姿に驚いて反射的に見つからないように本棚の影に隠れて、その直後に別に隠れる必要もなかったのではと思い直したけれど、そのまま様子を伺う。鞄から本を取り出す、カウンターにその本を返す、入り口近くの新刊を手に取って戻す。そんななんでもない所作でも彼女がすると不思議と絵になるし、不思議と絵になるような彼女の所作は、なんでもない図書館での普通の光景だった。 思い返してみれば、彼女が本を読んでいるところは何度も見たことがある。彼女にとっての図書館なんて、実際なんでもない日常でしかないのかもしれない。そんなことを考えていると、わざわざ驚いて物陰に隠れてコソコソ見ている自分が大袈裟で馬鹿馬鹿しく思えてきてしまう。彼女のことを意識しすぎてるのでは、なんて考えが頭に浮かんで、そんなことはと髪の毛をガシガシと掻いたところで、目の前の本棚にある本の表紙と目が合う。恋、好き、愛。なんだか本にまで煽られているようで、無言で表紙を睨みつける。 はあ、と溜息をつく。何をしにここに来たんだったっけな。すっかり狂ってしまったペースを立て直そうと思って振り向くと、そこには空色の髪に真っ赤な瞳。 「どうしたの」 「ひえっ」 思わず素っ頓狂な声を上げてしまい、ここは図書館だったと慌てて周りを見渡す。幸い僕を咎めるような視線はなくて、ただ目の前には綾波レイがいて僕のことを不思議そうに見ていた。さっきまで向こうにいたはずなのにと言おうとして、これではストーカーの自白だ、と口をつぐむ。手に持った学習鞄のことを思い出して、咳払いをひとつしてから「勉強に」と返す。聞いてきた側の綾波は一度だけ瞬きをして素っ気なく「そう」と。そっちから聞いてきたのに、とは言えず「綾波は?」と聞き返すと、僕の背後の本棚に手を伸ばして本を手に取った。 「探してたの」 知ってる? と見せられたのはさっき僕が睨みつけた表紙だった。落ち着いてタイトルを見返すと聞き覚えがある。たしかこの前テレビにも出てた流行りの恋愛ものの小説だ。ミサトさんは面白そう、アスカは何が面白いのか想像もつかない、なんて言ってたっけ。 そう、恋愛ものだ。綾波レイが、恋愛小説を、探していた。予想外の組み合わせにちょっと面食らう。動揺が態度に出ないようにと取り繕う僕のことに気付いてるのかいないのか、彼女は本棚からもう一冊本を手に取ってこちらに見せた。今度のタイトルに見覚えはなかったけど、これも見るからに恋愛ものっぽいタイトル。 「ここ、こういう本のコーナーなんだけど、」 言われて見回すと確かにそうだ。世の中にはたくさん小説があるのだなあ、なんて呑気な感想を持ちかけた僕に、綾波がちょっとだけ躊躇った風な間を開けて、 「碇くんも、こういう本好きなの?」 「え」 僕が驚いたのは質問の中身にではない(それは迷わずノーだ)。綾波がこんなことを訊くと思っていなくて、あやなみが、と質問を反芻しながら、碇くん「も」という助詞を考える。そもそも「こういう本」を探してここに来たと言っていたのだし、つまり綾波はそうなんだろう。同好の士を探しているのだったら申し訳ないな、と思いながら首を横に振る。そう、と返す彼女は相変わらず淡々としている。少し安心して、これなら言っても良いかなと思い直して「綾波がこういうの好きなの、意外だった」と正直に言う。
彼女がその場でぱちぱち、と二度瞬きをした。僕のことを見て、でもちょっと目を逸らして、また僕の方を見ながら、彼女が口を開く。 「わたしも、前はこういうの読まなかった。勧められたことはあったけど、面白そうとも思わなかった。けど」 彼女が続ける。 「碇くんと話すことが増えて、碇くんのことを考えるのが増えてから、こういう本を読む人の気持ち、少し分かった気がする」 それは、つまり。綾波の言う言葉の意味を掴もうとして目が泳ぐ。彼女の本を持たない方の手がかすかにゆらゆらと動いていることに気付く。まっすぐ僕のことを見ていると思っていた瞳を見つめ返すと、その奥ではチリチリと揺れ動いていることがわかる。これはなんていうんだっけ。緊張だ。揺れ動く彼女の手がぎゅっと握られるのが視界の隅に入る。 「この気持ちのことをもっと知りたい。この気持ちをどうしたらいいか、わたしはもっと知りたい」 そこまで言って彼女は少し目を伏せて、そしてまた僕の瞳を見る。沈黙の中、僕と彼女の緊張した目線が探り合う。見つめられたままの緊迫した沈黙が思考を空回りさせる。彼女の言葉はまるで恋の告白だ――そう思い至りかけた都合の良い脳を黙らせる。先回りして鼓動を加速させる心臓に文句を言う。じっとりと汗が滲んでいる手のひらを握りなおす。もし、これがほとんど告白だったとしても、もしも、彼女がそういう気持ちを僕に持っていたとしても、彼女はそれを言葉にしなかった。言葉になったのなら言葉を返せばいい。では、ならなかった言葉には何を返したらいいのか。それに、そもそも、僕は彼女に何を言いたいのだろう。 この街に来てからのことを思い返す。父さんに呼ばれて、エヴァに乗って、使徒を倒して。いろんな人に出会った。綾波と出会った。彼女のことをいくらか知った。けれどまだまだわからなくて、もっと知りたいとも思った。 ではもっと知ってどうしたいのだろう。僕は彼女とどうなりたいのだろう。今よりもっと近付きたいのだろうか。近付いてどうしたいのだろうか。 「僕も、どうしたらいいのか分からない気持ちを抱えてるんだ。でも、分からないままじゃなくてもっと向き合って、答えを探さないといけないんだなって、今、思ったよ」 「それは、どういう気持ちなの?」 「エヴァに乗るってこと。父さんとのこと。沢山あるけど、もちろん、綾波のことも」 もちろん、なんて当たり前じみた単語をつけてみたけど、最後の一言を口にした途端に心拍がもう一段跳ね上がった。これはまるで彼女の言葉への返事で――でも、僕も言葉にはできなかった。自分の言葉が口から離れてしまうと、思い切ったことを言い過ぎたような気がしてもっと恥ずかしくなってくる。顔から火が出てしまいそうな僕をじっと見ていた彼女の視線が少し緩む。もしかしたら同じようなことを思ったのかもしれない。告白もできない君と、返事もできない僕と。 「そう」 返ってきた言葉は少なかったけど、彼女の瞳にはさっきと違う波が穏やかに揺れていた。
と、彼女が抱えていた本が腕からすり抜けて落ちていきそうになる。慌ててバタバタさせた彼女の腕に当たって本が宙に舞い上がる。こちら側に飛んできたのを慌ててキャッチして渡すと、ありがとうと感謝しながら、そのままそれを僕に突き返してきた。 「これ、どういう話なの?」 「恋愛の話。ふたりとも不器用で、なかなか進展しないの」 そう言うだけ言ってから、彼女が何か思い当たったかのようにあ、と小さく声をこぼす。僕だって不器用だけどこれくらいは分かる。苦笑いをしながら受け取った。 不器用な彼女だって、苦笑いくらいはする。
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