アリオーソってなんだっけ? |
- 日時: 2022/07/24 19:59
- 名前: 史燕
- 「そういえばさ」
学校からの帰り道、シンジはふと思い出して言った。 「昨日、アリオーソが上手にできたんだよね」 特に他意のないただの雑談のネタだ。 バッハの作曲であるこの曲は、チェリストの間ではレパートリーから外すことのできない名曲として知られている。 「そうなの? 今度教えてほしい」 教える、綾波もチェロをやってみたいってことかな、と少年は思った。 「いや、初心者には難しいと思うんだけど」 「そうなの? いくつかのレパートリーは、上手にできるようになったのだけど」 「いつの間に、そんなに上達したの?」 「先週の土日で、たくさん試してみたの」 少女がチェロに興味を持ってくれたのはうれしいけれど、さすがに最初に大曲を教えるのはシンジにとっては気が引けた。できれば、ウェルナーの教則本に載っているコラールあたりから手を付けさせたいところだ、しかしいくつかレパートリーを持っているというならば、まずはそれを聴いてみてから……、とついには指導計画を脳内で練り始めていた。 「せっかくだし食べてみたいわ。この間の玉子焼きもおいしかったから」 そのひと言が投下されて、少年にN2爆雷並の衝撃が与えられるまでは。 隣を歩く少女がとんでもない勘違いをしていることに気づき、少年は天を仰いだ。 (あー、大きな入道雲だなあ) 徒労感から思わず遠くを見つめてしまったが、気を取り直して少年は少女に向き直った。 「あのね、綾波」 「なに」 「アリオーソって食べ物じゃないよ?」 二人の間を、びゅうっと、夏にしてはやけに冷たい風が通り抜けた。 「し、知ってるわ」 誤魔化していることがありありとわかるくらい、目を泳がせながら少女は言った。 「えっと、じゃあアリオーソってなんだっけ?」 少女がわかっていないことをわかったうえで、少年は確認のために問いかける。 「……飲み物」 「そっかあ、レチタティーヴォは食べてみたいなぁ」 案の定の回答にシンジは改めて虚空を眺めながら言った。 「わたしも」 少女も、薄々間違えていると勘づいていながら、少年に追随する。 「じゃあ、今度作ってよ」 「がんばる」 少女にしてみれば、後は野となれ山となれ、だ。 「レチタティーヴォは食べ物?」 「いじわる」 少女の発言を皮切りに、少年の大きな笑い声が、夏の空に響いた。
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