「綾波レイの幸せ」掲示板 四人目/小説を語る掲示板・ネタバレあり注意
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fld_nor.gif お久しぶりです
投稿日 : 2014/08/31 22:48
投稿者 JUN
参照先
――こんな時が、いつまでも続けば……

 などといった、そんな感傷を抱いた経験は、少なくとも今までのレイにはなかった。今
ある自分は、そう遠くない未来に消えてなくなる。それが肉体的な死であったにせよ、魂
の消失にせよ、どうあれ自分はその役目を果たす日が来るまで、かりそめにここにいるに
過ぎない。
 そう信じて疑わなかった。
 しかし、レイはその役目を終えても、この世に留まることを決めた。彼女を掴んだ彼の
手が、レイにそれを決意させたから。それは、レイにとっては初めて明日――未来――を
意識させる出来事に他ならなかった。





明日の私                    Written by JUN





ぼんやりした覚醒が、私の目を開かせた。感覚で、朝の七時前後であろうことを認識す
る。長い組織所属の賜物か、私は目覚ましを使うことがあまりなかった。時計だけはない
と不便だということを碇くんが言っていたから、枕元にあるにはあるけれど。
やや気怠さを感じながら身を起こすと、枕元にある一枚の写真が目に入った。碇くんや
みんなと行った水族館の写真だった。初めて行った水族館は、清潔で開放的で、率直に「い
いところ」だと感じた。海洋生物と向き合う機会はそれ以前にもあったものの、その時は
囚われ、そしてそれでいてその中でしか生きられない彼らに、同情こそすれ癒しを覚える
余地はなかった。
環境や技術の整備によって海が浄化され、魚たちは海でも生きられるようになった。た
だ同じように水槽の生き物を見るだけでも、それが心境に変化をもたらしたのだろう、そ
う感じる。
写真の中で私は、碇くんの二つ隣にいた。碇くんが中心で、その両隣にアスカと葛城三
佐。そして私、加持リョウジ、鈴原君、相田君、赤木博士、伊吹二尉――
みな一様に楽しそうに微笑みながら、レンズに目を向けていた。その中で私だけ、少し
ぎこちない表情を浮かべてしまっているのが目につく。今ならもう少し自然に……と思わ
ずにはいられない。だけど、きっとこれも私。碇くんに出会って、変わりつつあったころの私。
無意識のうちに緩んだ頬をなんとなく自覚しながら、私は着替え始める。学校に行くた
めに。碇くんに会うために。


「綾波、おはよう」
 そう声をかけられて、私は読んでいた文庫本から顔を上げる。彼の穏やかな微笑みがす
ぐそばにあって、そのことに安心を覚える。
「おはよう、碇くん」
 できるだけ柔らかく微笑みながら、私も言葉を返す。変ではないだろうか……そんなこ
とを思いながら。そんな私の一抹の不安を、碇くんは口元を綻ばせながらそっと払ってく
れた。
「今朝は、ちゃんと起きれた?」
「うん」
「そっか、よかった」
「碇くんは……?」
「僕はみんなのお弁当を作らなきゃいけないから、寝坊はできないな。アスカにどやされ
ちゃうから」
 おどけた口調に、つい笑みがこぼれる。こうして何気ない雑談に興じている時間も、と
てもかけがえのないものだった。
「そうだ、綾波のお弁当。はい」
 言いながら鞄の中を探って、碇くんは小さな空色の包みを手渡してくれる。落とさない
ように気を付けながら、私はそれを受け取る。まだ、ほんのりと温かい。
「ありがとう」
 こうして碇くんは毎日お弁当を持ってきてくれる。放っておくと綾波は適当に済ませち
ゃうから、といっては、私を昼休みに食事に誘うのも常だった。何個作っても手間は大し
て変わらないから、と碇くんは言っていたが、私だけ肉が入っていないことは知っている。
 そんな細やかな気遣いが、私は大好きだった。

――そう、私は碇くんのことが、たまらなく大好きだった。



 食事をしながら、私はそのことを自覚する。誰もいない屋上で二人する食事は、私の一
日の中で最もかけがえのない時間だった。少し甘めに仕上げた卵焼きを口に運びながら、
そっと碇くんの方を窺う。碇くんは小さなハンバーグを摘まんでいるところで、私より大
きい弁当箱に、やはり男の子なのだと、当たり前の感慨を抱いた。
「綾波、食べられないものとか、なかった?」
「ええ、平気」
「そっか、よかった」
 嬉しそうに笑う碇くんを見ていると、私も嬉しくなる。目が合うたびに、鼓動が高鳴る
のを感じる。碇くんのちょっとした挙動に、過敏に反応してしまう。
 そんなことに、自分の恋心を自覚する。身体が宙に浮くような、足元がおぼつかない感
覚。不安でありながら、決して不快ではなかった。そして、この気持ちが届けば、と願っ
てみる。
 碇くんはどうなのだろう。私のことをどう思っているのだろうか――
 そんなことを考えていると、碇くんと目があった。じっと見かえしてみる。もしかした
ら、私の心が届くかもしれない。そんなことを思って。だけど碇くんは、
「おいしい?」などと、そんなことを訊いてくる。おいしいに決まっている。碇くんが作
ったのだから。頷くと、碇くんは春の川面のような穏やかな笑みを浮かべた。幸福感と、
ほんの少しの不満がまじりあって、ひっそりとため息をつく。

碇くんは優しい。それはいつも思っていることだった。
 けれど、優しすぎる。碇くんが見せる微笑みが私だけのものなのか、それとも、他の子
にも同じように笑うのか、そんなことすら私にはわからない。他人の感情の機微に疎い私
は、どんなつもりで彼が笑顔を見せているのか、それすらもわからないのだ。
「綾波」
 不意に、少し硬い表情で、碇くんが顔をあげた。
「なに?」
「その……よければ、なんだけど」
 言いにくいことでもあるように後ろ頭を掻きながら、碇くんは言う。
「今日の放課後ちょっと付き合ってくれないかな」
「どうして?」
「駅前に新しい喫茶店ができたって、アスカが言ってて。それで、興味はあるんだけどそ
の、一人じゃ行きにくいし、綾波と、その、なんていうか、一緒に行けたら、いいなって
……」
 少しずつ声が小さくなっていく。私に毎日お弁当を渡すことには躊躇しないのに、こう
いった誘いの時、碇くんは急に自信なさげな態度を示す。

 そんな顔をしなくても、私の返事は決まっているのに。

「行くわ」
「……ほんと?」
「ええ」
「そっか。じゃあ放課後。一緒に帰ろう」
 じわじわと胸に熱いものがこみあげてくるのを感じながら、私は頷いた。今日は夕方ま
で一緒にいられる――
 こぼれそうになる笑みを隠すために、私は俯いて、残しておいた玉子焼きに箸を付けた。



――――――
――――
――

 放課後、理科準備室の掃除を終えると、私はすぐに教室に取って返した。少し遅れてし
まったこともあって、私はあわてていた。碇くんを無意味に待たせるのは嫌だった。
 教室に戻ると、中は閑散としていた。碇くんが待っているかと思ったが、いなかった。
放課後どこかへ行くときは、いつもここで待っているのに。遠くから、野球部が練習する
声が聞こえる。もしかしたら、碇くんもまだ終わっていないのかもしれなない。そう思い、
私は窓際の自分の席に腰掛ける。本を開いてみるものの、どこか落ち着かない。思えば、
碇くんが待ち合わせに遅れたことは、今までなかったように思う。いつも少し早く来て、
私が来るのを待っていた。私が待たせまいとして早めに家を出ても、大体は先に到着して
いたし、たまに私が早く来ても、ものの数分で碇くんもそこに現れる。待たされる、とい
う経験が、今までなかった。

 そういえば、碇くんは裏庭の掃除を担当していたはずだ。廊下から窓を開けてみれば、
掃除がまだ続いているか分かるはず。もしそこにいれば、声をかければいいのだ。

 すぐに廊下に出て、窓を開ける。眼下を見下ろすと、果たしてそこには彼がいた。
「い――」
 いいかけて、口をつぐむ。碇くんの前には、一人の女の子が立っていた。同じクラスで、
一応名前は知っている。活発な子で、人気もあった。人当たりもよくて、一度だけだがご
飯に誘われたこともある。アスカも一緒にいたけれど。それ自体はどうということはない。
掃除中だし、そういうこともあるだろう。だけど裏には碇くんと彼女以外、誰もいなかっ
た。何より、碇くんも彼女も掃除道具を持っていない。
 何か話している。あまりいいことではないと分かってはいても、私はつい聞き耳を立て
てしまった。微かではあるが、声はちゃんと聞こえた。

――ごめんなさい。急に呼び出して

――いいよ。それで、僕に話っていうのは……?

――その、突然で、びっくりすると思うんだけど。……私、碇くんのことが……

「――――っ!」

反射的に、私は窓から頭をひっこめた。これ以上聞いていたら、何かとても――いやな
ことを聞いてしまう気がして。

教室に戻って、もう一度私の席に座る。知らず知らずのうちに乱れた呼吸を整える。文
庫本を取り出しかけた私の手が、かすかに震えていた。

――あの子が、碇くんのこと……

さっき見たばかりの光景の、言葉の意味が、少しずつ輪郭をなしていく。少し遅れてや
ってきたのは、言葉にできないほどの焦燥感だった。また、呼吸が乱れてくる。思うよう
にならない呼吸は、エヴァの実験が始まったばかりの時に一度だけ経験した、過呼吸の兆
候を示していた。努めてゆっくりと呼吸するように心がけ、頭の中を整理しようとするが、
うまくいかない。次に意識に上るのは、碇くんの反応だった。

碇くんはどんな返事をしたのだろう。明日から、もしかしたら付き合うことになってい
るのだろうか。私はどうなったのだろう。今までどおりに一緒にいてくれるのだろうか。
でも、私は碇くんの恋人でもなんでもない。もし承諾したら、もしかしたらもう、部屋に
は上がってくれないかもしれない。家に呼ばれて、一緒に食事をすることもなくなるのか
もしれない。明日から私は、碇くんの何になるのだろう――

どこかで、ずっと変わらないと思っていた。明日も明後日もその先も、碇くんは私のそ
ばにいて、食事を作ってくれたり、たまに二人で出かけたり、少しの合間に、取り留めも
ない話をして、碇くんが私に笑いかけてくれる。綾波、と声をかけてくれる。
恋人になんかなれなくても、私の気持ちが仮に伝えられなくても、結局碇くんは、私の
そばにいてくれるものと、そう思い込んでいた。
けれど、そうではない。私より優先すべきひとができてしまえば、少しずつ、碇くんの
心から、私は失われていく。そして最後には、遠い日の記憶となって、時折思い出されるだけの、そんな存在になっていく――

「いや……」
 そんなの、耐えられない。耐えられない、耐えられない――もう私は、独りになりたく
ない――

「綾波。ごめんよ。遅れて」
 はっと顔を上げると、頬を紅潮させて、息を切らす碇くんがそこにいた。若干気まずそ
うな表情を浮かべているのは、単に待たせたことへの後ろめたさか、それとも――

 とても尋ねる気にはならなかった。曖昧なままでも、少しでも一緒にいられる時間は増
やした方がいい。そうであるなら、余計なことは言いたくなかった。
「それじゃ、行こうか」
「ええ……」




――――――
――――
――

 碇くんが誘ってくれた場所は、いつも降りる駅より少し後で。だけどそこまで遠くもな
くて。確かに、学校帰りに行くには最適な場所であるように思えた。派手ではないにせよ、
観葉植物の多い環境で、控えめな態度の従業員の接客は、二人で話をするにはちょうど良
かった。
 席に着くと碇くんは紅茶とケーキセットを頼み、私も同じものを頼んだ。

「そういえば綾波と甘いものを食べたことってあんまりなかったけど、普段はケーキとか
食べるの?」
「……アスカに誘われて、たまに。私もそういうことを知っておいた方がいいからって」
「あはは。アスカらしいや。でも多分、綾波といっしょに行ける口実にしてるんだと思う
よ。アスカ、家だと綾波のことばっかり話してるから」
 そう言って笑う碇くんの顔は、本当にいつも通りだった。私を安心させてくれる笑顔。
今までなら、それですべてうまくいっていた。だけど今は、猜疑心ばかり膨らんでいく。
どんな返事をしたのか。どうして私の前で、そんな風に笑っていられるのだろう。
「……い、碇くん」
「ん?」
「……ごめんなさい。なんでもない」
「……そっか」

 結局うまく話ができないまま、時間は過ぎていった。
 ケーキはおいしかったのだろうと思う。だけど、あまり味がしなかった。

 ケーキを食べ終え、紅茶を飲み干すと、碇くんは「送っていくよ」と言って立ち上がっ
た。伝票は碇くんが持っている。最初は碇くんがいつも払っていて、私に払わせようとし
なかった。こういうのは男が、といって譲らなかったが、それではいくらなんでも私の気
が済まなかった。そしていつのころからか、交互に会計を持つのが習慣になっていた。そ
れでも碇くんは私の番になると、いつも少しだけ安めのところに私を誘う。そんな心遣い
が、私は好きだった。

 肩を並べて碇くんと歩く。私の持っている通学鞄と、碇くんの持っているそれが、少し
だけ触れ合う距離感で。それ以上近づく勇気も今までなくて、それ以上に離れる勇気もな
かった。
 私の家の前に着いて、私は鍵を開けた。いつもなら、ここでお別れだった。どこかへ寄
り道して帰った日は、碇くんはいつもまっすぐ帰る。今日もそうだった。

「それじゃあ、また明日。綾波」

だけど。

ここで帰ってしまえば、もう私の家に上がることはないような気がして。もう、放課後
に誘ってくれることもないような気がして。
気づくと、私は碇くんの腕を掴んでいた。
「少し、上がっていかない……?」
 はっと息をのむ碇くんの声が聞こえた気がした。僅かな沈黙が周囲を満たす。その意味
がなんなのか、私にもわからなかった。
「……じゃあ、お邪魔しようかな」
 永遠とも思える逡巡のあと、碇くんは答えた。


 とはいっても、何かができるわけでもない。いつもの癖で紅茶を淹れ終わった後、さっ
き飲んだばかりだということを思い出す。かといって、他に何があるというわけでなく、
自分のもてなしがつくづくワンパターンであることに嫌気がさした。

 ため息をつきながら、買ったばかりのテーブルに座る碇くんに運ぶ。二人で選んで買っ
たものだった。お砂糖を入れずにストレートで飲むのが、碇くんの習慣だった。
「ごめんなさい。紅茶ばかり」
「ううん。いいよ。綾波の淹れてくれる紅茶、美味しいから」
 微笑みながらも、どこか落ち着かない表情で、碇くんは言った。
「それで、どうかした?」
 カップを置いて、碇くんは尋ねる。気遣うようなまなざしが、私を見つめている。
 訊きたくない。だけど――

 明日が今日と同じように来るわけではない。だから、今日できることを。明日のために。

「碇くん、今日……」
「うん」
「うら、にわで……」
 碇くんが目を見開いた。しばらく私のことをじっと見つめた後、口を開く。
「……見てたんだ」
「……ええ」
「……」
「……」
 沈黙に、肌がちりちりとした痛みを訴える。何を言うべきなのかもわからず、私は俯く
しかなかった。
「……断ったよ」
 はっと顔を上げると、碇くんは柔和な笑みを浮かべていた。胸につかえていた猜疑心が
氷解していく。よかった……
「あんまり話したことない子だったし。それに――あの子が見ていたのは、僕じゃなくて、もっとほかの何かだったから」
「そんなこと……」
「いや、そうなんだよ。僕はエヴァに乗って、今のこの世界を、確かに創ったのかもしれ
ない。だけど、あの時エヴァに乗ったのはミサトさんや、アスカや、みんながいたから。
だから世界を救ったのは、僕じゃない。あの子は僕に対してそれを見ていたみたいだけど。
……僕がこの世界にもう一度戻ってきたのは、きっと――」
 言いかけて、碇くんは口をつぐんだ。
 未だ温かい湯気を立てる紅茶を、私は一口含む。アールグレイのいい香りが鼻を抜ける。
昨日も同じものを飲んだ。明日もきっとそうだろう。明後日も、きっと。だけど、その時
ずっと碇くんがこうしていてくれるとは限らない。心は、伝えなければ伝わらない。かけ
がえのない彼に、ずっとそばにいてほしい。そう、思うからこそ。

「……碇くん」
「……なに?」
「碇くんは、あの紅い海でのこと、覚えてる?」
「……うん」
「あの時、碇くんは、この世界を創った。……私と、一緒に。みんなにもう一度会いたいって」
「……」
「……その中に、私はいた?」
「……うん、いたよ。僕は綾波にもう一度会いたかった」
「私も、碇くんにもう一度会いたかった。だから、だからあの時、碇くんの願いを聞いた」
「……うん」
「私はあの時、碇くんと一緒の世界が欲しかった。他の誰でもなくて、碇くんが隣にいる
世界が、欲しかった」
 不思議と切れ目なく、どこからともなく、言葉がこぼれてくる。碇くんの目を見つめて、
私は感じるがままに、想いを伝えた。
「碇くんは、いつも一緒にいてくれた。私に毎日、声をかけてくれた。初めて食事を、美
味しいって思わせてくれた。私に……人形だった私に、心をくれた」
 平坦で、ただ消える時を待っていたあの頃の私とは違う。色彩が生まれたのだ。ヤシマ
作戦の時、月の光の中で、私は初めて笑うことを知った。火傷を負った碇くんの手を握っ
た時、今までにない鼓動を感じたのだ。生きてさえいればいつか必ず、生きててよかった
と思う時がきっとある。そう、あの時碇くんは教えてくれた。生きることに、確かな意味
ができた。生きててよかった。そう思えるのは、他でもない碇くんのおかげだった。

「私、料理も下手で、話もできない。アスカや葛城一佐みたいに、スタイルもよくないけど、だけど、それでも、もし叶うなら――」
 ヒトとして生きる喜びを教えてくれた碇くんと、これからも――
「――ずっと、一緒にいたい」


ぎゅっと目を瞑る。膝の上に乗せて握りしめた手が痛い。碇くんがどんな顔をしている
のか、見ることができなかった。怖い、こわい、こわい――
 そうしてどれだけの時間が過ぎたのか。恐らくものの十数秒であっただろう。だけど私
には、今までのどんな時間よりも長く感じた。

「……ごめん。綾波」

 ――申し訳なさそうなその声を聴いた瞬間、ぐっと喉の奥で、嫌な音がした。つんと、
眼の奥が熱くなる。こみあげるのをこらえる暇もなく。涙が溢れてくるのを感じる。二度
目の涙。一度目の涙の記憶は、二人目の私が消えてなくなるその瞬間のものだった。碇く
んとの絆が断ち切れるその瞬間に、流した涙だった。

――なのに、また。

 心が冷えていくのを感じる。結局私は、碇くんと一緒にはいられない。私が切望した明
日は、永遠に来ない。
「綾波――」
「ごめんなさい。……帰って」
「違うんだ綾波。そうじゃなくて」
「お願い……私のこと、少しでも想ってくれるなら、もう放っておいて――」
「綾波!!」

 いつにない声に、私ははっと顔をあげた。碇くんが、真っ直ぐに私を見つめていた。そ
の眸には、焦りと、確かな意志が含まれていた。

「誤解しないでほしいんだ」

――誤解……?

「ごめん。綾波。――本当は綾波に、そんなこと言わせちゃ駄目だったんだ。……もっと
前に、僕の方からちゃんと、言わなきゃ駄目だったんだ」
「どういう――」
「好きだ、綾波。……ずっと、僕のそばにいてほしい」
「え……」

 意志のこもった眼でじっと見つめられるうち、言われたことの意味が分かってきた。治
りかけた涙腺が、見る見るうちに緩んでくる。視界が霞んで、碇くんの顔が見えなくなる。
「う、そ……」
「嘘じゃないよ。ごめん綾波。僕に勇気がなかったから、いつまでも先延ばしにしてた。
だけど……それじゃ、駄目だったんだね。本当に、ごめん」
 必死にかぶりを振る。起こっていることが信じられなくて、眩暈がした。
「綾波、立って」
 気づくと碇くんはテーブルを回って、私のそばに来ていた。言われるがまま立ち上がる
と、そのままきつく抱きしめられた。胸元に、顔を押し付けられる。碇くんの匂いがした。
「あ……」
「ずっと一緒にいてほしい、綾波」
「うん、うん……」
 碇くんの心臓が高鳴る音が聞こえる。おずおずと背中に手を回すと。さらにきつく抱き
しめられた。そうしている間にも、涙は溢れてくる。あっというまに、碇くんのシャツを
濡らしてしまった。
「碇くん。好き、好き、大好き――」
 碇くんの腕の中は温かくて、碇くんの匂いがして、抱く右手は、私の髪を優しく梳いて
いた。ぞくぞくと、肌が粟立つのを感じる。大好きな手。あの時、エントリープラグから、
私を引き上げてくれた手。紅茶を淹れるのに失敗して火傷した私の腕を掴んだ手。

――この手に触れるたびに、私は変わっていった。私の心に、この手は触れてくれた。

その手が今、私を抱きしめている。この瞬間を私は、夢に見るほど待っていた。碇くん
の存在が、焦がれるほどに、愛おしかった。

「綾波。これからは、ずっと一緒だから。だからもう……僕のそばから、急にいなくなっ
たりしないで」
「ん……」
私が頷くと、碇くんは肩に手を添え、私の身体を離した。黒い眸が、私をじっと見つめ
ている。優しい眼。表面が、微かに潤んでいた。
「綾波、眼を閉じてもらっても、いいかな……」
「……はい」

 数秒遅れた後抱き寄せられ、そのまま、柔らかな感触が私の唇に触れた。紅茶の香りが
する。すぐに呼吸が荒くなり、唇の端から漏れる吐息は、どうしようもなく熱っぽかった。
身体の芯から駆け上ってくる熱に、私は思わず声を漏らした
「ん、ふ……」
 身体から力が抜け、腰が砕けそうになる。膝が折れようとしたとき、碇くんの腕が、私
の身体を支えた。さらにきつく抱きしめられ、どうしようもない幸福感に、頭に靄がかか
っていく。もうろうとする意識の中で唇の感触だけが、どこまでも鮮明だった。碇くんの
ものになっている――その感覚に、脳が蕩けてしまいそうだった。

 ――碇くん、碇くん、いかりくん……!

 今この瞬間のこの幸福に比べれば、使徒との戦闘など、なんでもなかった。碇くんに出
会えたこと、今、こうしていられること。それが全てだった。過去の私が、今の私に繋が
っている。そう思ってしまえば、すべての事が輝いているように思えた。
 そして私には今、確かな明日がある。明日も明後日も、この温もりに抱かれていたい。
手放したくない。もう、届かない想いに身を散らすのは嫌だった。もう、悲しい涙は流し
たくない。
 ――そのためなら、私は何だってしよう。


 永遠とも思える時間のあと、碇くんはゆっくりと、私を離した。熱に浮かされた意識が、
少しずつ覚醒していく。見ると碇くんも、頬を朱色に染めていた。先ほどまでの時間がま
るで幻のようで、急に気恥ずかしくなる。
「あ、あやなみ。あの、よかった、よね?その……」
 視線をウロウロさせながらそんなことを言う碇くんはもういつもの碇くんに戻っていて、
それが少しおかしかった。そんな碇くんが、どうしようもなく、愛おしかった。私はでき
る限りの笑顔を浮かべて頷く。碇くんはまた、照れくさそうに眼をそむけた。時計を見る
と、夜の七時を過ぎていた。
「も、もう暗いから、帰るよ」
「うん」
 碇くんを玄関まで見送る。靴を履き終えると、碇くんはドアノブに一度手をかけた後、
私の方を振り返った。
「綾波」
「なに?」
「……綾波のこと、絶対幸せにするから。だから、これからも僕と、ずっと――」
「碇くん」
「なっ、何?」


「……また、明日」


 碇くんは一瞬戸惑った表情を浮かべたが、すぐに屈託のない笑みを浮かべた。
「また明日、綾波。学校でね」

 明日も、明後日も、これからずっと――



一緒だから――


――FIN――
編集 編集
件名 Re: お久しぶりです
投稿日 : 2014/09/11 21:16
投稿者 JUN
参照先
tambさん
手放しで評価されるとなんだか照れますね。でも嬉しいです。ありがとうございます。
僕の中でのFF最高傑作はとある有名作品なのですが、その作品においても自らの運命や使命に悲観するレイが描かれています。あるいは諦観。そこからヒトとしての幸せをつかみたいと願うというものでした。たったひとりの綾波レイとして。
僕の作品は氏の作品には及びもつきませんが、そのカタチは僕の中での一個の理想です。さだめを背負った人形ではなく、年相応の一人の女の子として、どうか幸せになってほしい。そして、自分は幸せになれるのだということを知ってほしい、というのが僕がFFを書く上でのモットーです。
結果似たようなものばっかりになっていますが(笑)


史燕さん
コメントありがとうございます。
私見ですが、レイは未来とか明日といった存在に対しての感覚が希薄な印象があります。
今回は貞シンジのヤシマ作戦後のモノローグをちょこっと使いましたが、生きていてよかったと、そう思える日がレイに来ることが、僕にとっての綾波レイの幸せの一つの形であります。

綾波は綾波しかいない、だからこそ、たった一人の彼女が、自らの存在を悲観することなく、明日に向かってほしいわけです。
編集 編集
件名 Re: お久しぶりです
投稿日 : 2014/09/07 23:03
投稿者 史燕
参照先
>「……また、明日」
何気ない言葉です。
たぶん、普通に育って、普通に生きて、そして普通に死んでいく人なら、何の意味もないただの言葉です。
ただ、これがレイとシンジとの間で交わされる約束なのだと考えると、非常に深い意味を持つのだと、この作品で痛感しました。

投稿、お疲れ様でした。
編集 編集
件名 Re: お久しぶりです
投稿日 : 2014/09/07 03:27
投稿者 tamb
参照先
綾波レイは虚無を志向していたという前提をきっちり置き、そこを出発点として、まさに生まれ変わりに等しい変化と恋に揺れる乙女心をここまで描ける作家は世界中にもうJUNさんしかいないのではないだろうか。ワンパターンとも言えるだろうが、それは偉大なるワンパターンであり、優れた作家はひとつのテーマをどこまでも追い続けるものなのだ。

ちなみに「……断ったよ」あたりで最後はキスだなと思ったがほんとにそうだった(笑)。予定調和だけど、まあ他にないわな。

膝から力が抜けて立っていられなくなる、あたりを書きたかったんだと思うけど、立ち上がるあたりがやや不自然。と、ここまで書いて激しいデジャビュに見舞われたので自分の過去作を読み返したら同じくむりやり立ち上がらせているシーンがあったのだった(爆)。
編集 編集
件名 Re: お久しぶりです
投稿日 : 2014/08/31 22:49
投稿者 JUN
参照先
久しぶりに書いてみると、ぞっとするほど先に進まない自分に衝撃でした。
なんとも情けないですが、読んでいただけると幸いです。
編集 編集
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