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夏の逆襲
投稿日
: 2021/07/18 14:18
投稿者
:
のの
参照先
:
「あの夏を超えるくらい」
そう言う彼を引き留める者は誰もいない。そこには彼以外誰もいない。
どこに向かうのか、行くのか、それもすべて自由だった。ただの自由に過ぎないものを手に入れて思い出すのは、不自由の中で踠いた日々のこと。溺れて沈んだ朝のこと。浮かれて踊った夜のこと。
//////
「あの夏を、超えるくらい」
そう言って水を飲んだ。新しいマンションから出る水は透明で、シンクの素材なのか、水の勢いが調節されているのか、水が打ちつける音も静かで、汗をたっぷりかいてべたついた体と乾いた喉を潤すにはいささか心もとなく、力不足を疑うほどだった。
//////
「あの夏を超えるくらい」
水を飲んで、シャワーも浴びて、さっぱりした身体になって。そしたら学校行って、友達と会って、勉強して、そういえば今日は図書委員の持ち回りで放課後に受付をやらなくてはならなくて。そう思うと自由な時間は少ない。残された時間がどれだけあるのかわからないのに。
//////
難しい学校に入った。おじさんとおばさんから離れるためなら頑張れた。でもその先に何をすればいいのかはわからなかった。だからまず勉強。運動もするし、音楽も習った。どれもこれもやってみたかった。バンドではなくクラシックを習ったのは世間体を気にするおばのせいだが、それでもよかった。
運動もしている。剣道にした理由は、チームスポーツが馴染めなかったからだった。型を習って自分の体に染み込ませていく。出来なさも含めて、自分への理解が大事なのだということはそこで学んだ気がする。中学でやめてしまったけど。
着替えて朝ごはんを食べる。エアコンはシャワーの前につけておいたから涼しくなっていたが、シャワーと食事であたたまった身体からは汗が滲む。ハムをのせたトーストにアイスティーの朝食は、きっともう10日間連続のはずだが飽きがこない。
食べ終えて、皿を洗って歯を磨く。一人暮らしにも慣れてきた。シンクに洗った皿から水が滴る。ぽたり、ぽたり、ぽたり。それを見つめてから手を拭いて、廊下兼キッチンから部屋に戻る。部屋の奥には安物家具の売れ残り品で格安だったパイプの細いベッド。
「あの夏を超えるくらい」
そう呟いたのは自分だということにも気づかず、つぶやいた声を耳が聞きつけ、周りを見渡した。誰も近くにはいなかった。だから声の主は自分なのだろう、そう思った。思い当たることは何もない。なにをもって、なんの意味を持って生まれてきた言葉なのか。
首を傾げて、それとなく振り返る。
廊下の奥からアコーディオンカーテンの開く音は聞こえない。廊下の奥にカーテンのある場所はユニットバスとトイレを仕切るためのものしかなく、それはビニール製のカーテンがプラスチックの輪にひっかけられている程度のものなので、アコーディオンカーテン特有のがたがたという音は出ない。そもそも一人暮らしの身だ。音を立てる主がふたりいたらどうなる。
自分は女の子を連れ込んだ時のことを思い出しているのだろうか。そんなことありゃしない、だからそれも違う。しかし、女の子、というのはなんとなくいい線だと思った。なんだろう、いい線というのは。鞄を下げて、自転車の鍵を手に取った。
「青いスカート似合う女の子」
そんな言葉が浮かんだ。
言わないで行くとしよう。
さっきのような独り言には内容に気をつけて。
駐輪場から自転車を出すと、昨晩の夕立の雫は痕跡すら見当たらずにすっかり乾いていたが、日陰の角だけ滲んでいた。それもじきに消えるだろう。なにもなかったかのように。
門を出るとすぐに下り坂だった。家に帰るときには登り坂となって立ち塞がるそいつも、朝だけは味方だ。食べ放題の綿飴が夏の空に前も後ろも広がり、蝉の声がすべてを包んでいる。
それに胸を躍らせる?
それとも胸焼けしそうになる?
自らにそれを問うべきか。あるいはただそれを見つめればいいのかもしれない。
自転車を漕ぐ。エンジンもモーターもないこの車なら、高校までは5分もあれば着く。実はすっかり遅刻ギリギリだ。
だから、急げ。
だから、もう自分のやりたいようにやれ。
それは矛盾せず胸に、耳に響く。どちらを選んでも自由だ。後悔しない方を選べばいい。
未来はいつでも自分の手の中にあるはずだと信じてきた。何故だかそう思うようになったのは、14歳から15歳になった時のことだった。たぶんやっていけるだろう、この先も生きていけるだろう。15歳になったから、25歳にもなれるだろう。根拠もないのにそんなことを思った。
自転車を漕ぎ出した。急ぎもしない。わざとゆっくりにもしない。ただその結果がどうなるか、恣意的には努力しない。坂道でペダルを回さないけど、青信号では止まらない。その程度の遠慮、その程度の誠意。
それでどうなるか、見てみようじゃないか。それでもきっと、死にはしない。高を括る。
長い長い下り坂を、誰も後ろに乗せず、ゆっくりではないスピードで下りて行く。その先の信号は青だったので、スピードを緩めず横断歩道を渡る。バギーに乗った園児と先生を大袈裟に避ける。門を右に曲がって、乗物町の交差点を右に曲がって高架下をくぐりぬけて橋を渡る。
橋を渡った先の信号は点滅中だったのでブレーキをかける。信号待ちで口ずさむ歌は、誰の歌だろう。誰が歌っていたのか定かではない歌だ。CMソングか何かだったろうか。耳について離れないそれは、手持ち無沙汰の定番ソング。
さあどうだ、いまか、今から赤信号。青信号にはいつなるの。
待つこと何分何十秒?
それとも何十分何秒?
変わった瞬間ペダルを踏む。
いてもたってもいられない足がペダルをこれでもかと回し始める。汗が噴き出ようと、息が荒くなろうと、急ぐのだって、何もかもが自由だった。
急げ、急ごう、急がなきゃ。
あの夏を超えるくらい、急がなきゃ。
「あぁ、僕は」
また口から勝手に言葉が出てくる。今度は自分の声だとすぐにわかった。
「あの夏を超えないと」
そうでなきゃ、そうでなくちゃ。
君のことなんか、どうだっていい。
そう思わなきゃ、そう思えなきゃ。
「あの夏を超えないと」
行き場のない息が荒くなる。
捨て場のない言葉が口から出る。
遣り場のない思いが胸を焼く。
「死ぬほど苦しい」
夏の日差し。
重い空気。
空の綿飴。
何もかも、何もかも、これでもかと。
あの夏を超えないと。
でも、わかっていた。
「あの夏を超えないと」
「あの夏を超えるくらい」
切れ切れの息で歌う。
矢を射るように飛び出したが、学校へ着く頃には大名行列より遅かった。予鈴が校舎に鳴り響いていた。その残響音だけが聞こえてくる。始まりを告げる音。寝転がって見上げた先に見える空色。
「置いていくなよ、僕を」
勝手なこと、すんなよな。
口から勝手に出る言葉。
誰かに向けて。
空に向かって。
空色に。
自由の中で。
こんな自由は。
ーー了
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:
Re: 夏の逆襲
投稿日
: 2021/07/18 14:25
投稿者
:
のの
参照先
:
セルフレビュー。
2021年7月16日、暑い1日。
梅雨明け間違いなしの1日。
夏だ、間違いなく夏だ。
またあの夏が来る、あの夏が。
――という焦りで書きました。
何かワーッと書きたくて、Twitterに連投。
誤字もそのままに転載。
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そう言う彼を引き留める者は誰もいない。そこには彼以外誰もいない。
どこに向かうのか、行くのか、それもすべて自由だった。ただの自由に過ぎないものを手に入れて思い出すのは、不自由の中で踠いた日々のこと。溺れて沈んだ朝のこと。浮かれて踊った夜のこと。
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「あの夏を、超えるくらい」
そう言って水を飲んだ。新しいマンションから出る水は透明で、シンクの素材なのか、水の勢いが調節されているのか、水が打ちつける音も静かで、汗をたっぷりかいてべたついた体と乾いた喉を潤すにはいささか心もとなく、力不足を疑うほどだった。
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「あの夏を超えるくらい」
水を飲んで、シャワーも浴びて、さっぱりした身体になって。そしたら学校行って、友達と会って、勉強して、そういえば今日は図書委員の持ち回りで放課後に受付をやらなくてはならなくて。そう思うと自由な時間は少ない。残された時間がどれだけあるのかわからないのに。
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難しい学校に入った。おじさんとおばさんから離れるためなら頑張れた。でもその先に何をすればいいのかはわからなかった。だからまず勉強。運動もするし、音楽も習った。どれもこれもやってみたかった。バンドではなくクラシックを習ったのは世間体を気にするおばのせいだが、それでもよかった。
運動もしている。剣道にした理由は、チームスポーツが馴染めなかったからだった。型を習って自分の体に染み込ませていく。出来なさも含めて、自分への理解が大事なのだということはそこで学んだ気がする。中学でやめてしまったけど。
着替えて朝ごはんを食べる。エアコンはシャワーの前につけておいたから涼しくなっていたが、シャワーと食事であたたまった身体からは汗が滲む。ハムをのせたトーストにアイスティーの朝食は、きっともう10日間連続のはずだが飽きがこない。
食べ終えて、皿を洗って歯を磨く。一人暮らしにも慣れてきた。シンクに洗った皿から水が滴る。ぽたり、ぽたり、ぽたり。それを見つめてから手を拭いて、廊下兼キッチンから部屋に戻る。部屋の奥には安物家具の売れ残り品で格安だったパイプの細いベッド。
「あの夏を超えるくらい」
そう呟いたのは自分だということにも気づかず、つぶやいた声を耳が聞きつけ、周りを見渡した。誰も近くにはいなかった。だから声の主は自分なのだろう、そう思った。思い当たることは何もない。なにをもって、なんの意味を持って生まれてきた言葉なのか。
首を傾げて、それとなく振り返る。
廊下の奥からアコーディオンカーテンの開く音は聞こえない。廊下の奥にカーテンのある場所はユニットバスとトイレを仕切るためのものしかなく、それはビニール製のカーテンがプラスチックの輪にひっかけられている程度のものなので、アコーディオンカーテン特有のがたがたという音は出ない。そもそも一人暮らしの身だ。音を立てる主がふたりいたらどうなる。
自分は女の子を連れ込んだ時のことを思い出しているのだろうか。そんなことありゃしない、だからそれも違う。しかし、女の子、というのはなんとなくいい線だと思った。なんだろう、いい線というのは。鞄を下げて、自転車の鍵を手に取った。
「青いスカート似合う女の子」
そんな言葉が浮かんだ。
言わないで行くとしよう。
さっきのような独り言には内容に気をつけて。
駐輪場から自転車を出すと、昨晩の夕立の雫は痕跡すら見当たらずにすっかり乾いていたが、日陰の角だけ滲んでいた。それもじきに消えるだろう。なにもなかったかのように。
門を出るとすぐに下り坂だった。家に帰るときには登り坂となって立ち塞がるそいつも、朝だけは味方だ。食べ放題の綿飴が夏の空に前も後ろも広がり、蝉の声がすべてを包んでいる。
それに胸を躍らせる?
それとも胸焼けしそうになる?
自らにそれを問うべきか。あるいはただそれを見つめればいいのかもしれない。
自転車を漕ぐ。エンジンもモーターもないこの車なら、高校までは5分もあれば着く。実はすっかり遅刻ギリギリだ。
だから、急げ。
だから、もう自分のやりたいようにやれ。
それは矛盾せず胸に、耳に響く。どちらを選んでも自由だ。後悔しない方を選べばいい。
未来はいつでも自分の手の中にあるはずだと信じてきた。何故だかそう思うようになったのは、14歳から15歳になった時のことだった。たぶんやっていけるだろう、この先も生きていけるだろう。15歳になったから、25歳にもなれるだろう。根拠もないのにそんなことを思った。
自転車を漕ぎ出した。急ぎもしない。わざとゆっくりにもしない。ただその結果がどうなるか、恣意的には努力しない。坂道でペダルを回さないけど、青信号では止まらない。その程度の遠慮、その程度の誠意。
それでどうなるか、見てみようじゃないか。それでもきっと、死にはしない。高を括る。
長い長い下り坂を、誰も後ろに乗せず、ゆっくりではないスピードで下りて行く。その先の信号は青だったので、スピードを緩めず横断歩道を渡る。バギーに乗った園児と先生を大袈裟に避ける。門を右に曲がって、乗物町の交差点を右に曲がって高架下をくぐりぬけて橋を渡る。
橋を渡った先の信号は点滅中だったのでブレーキをかける。信号待ちで口ずさむ歌は、誰の歌だろう。誰が歌っていたのか定かではない歌だ。CMソングか何かだったろうか。耳について離れないそれは、手持ち無沙汰の定番ソング。
さあどうだ、いまか、今から赤信号。青信号にはいつなるの。
待つこと何分何十秒?
それとも何十分何秒?
変わった瞬間ペダルを踏む。
いてもたってもいられない足がペダルをこれでもかと回し始める。汗が噴き出ようと、息が荒くなろうと、急ぐのだって、何もかもが自由だった。
急げ、急ごう、急がなきゃ。
あの夏を超えるくらい、急がなきゃ。
「あぁ、僕は」
また口から勝手に言葉が出てくる。今度は自分の声だとすぐにわかった。
「あの夏を超えないと」
そうでなきゃ、そうでなくちゃ。
君のことなんか、どうだっていい。
そう思わなきゃ、そう思えなきゃ。
「あの夏を超えないと」
行き場のない息が荒くなる。
捨て場のない言葉が口から出る。
遣り場のない思いが胸を焼く。
「死ぬほど苦しい」
夏の日差し。
重い空気。
空の綿飴。
何もかも、何もかも、これでもかと。
あの夏を超えないと。
でも、わかっていた。
「あの夏を超えないと」
「あの夏を超えるくらい」
切れ切れの息で歌う。
矢を射るように飛び出したが、学校へ着く頃には大名行列より遅かった。予鈴が校舎に鳴り響いていた。その残響音だけが聞こえてくる。始まりを告げる音。寝転がって見上げた先に見える空色。
「置いていくなよ、僕を」
勝手なこと、すんなよな。
口から勝手に出る言葉。
誰かに向けて。
空に向かって。
空色に。
自由の中で。
こんな自由は。
ーー了