冬、雪舞う夜

 もし、私がいなくなってしまったなら……

 貴方は、私の名を叫んで探してくれるかしら……?







悪戯


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 なんで、私、出てきてしまったのだろう……

 
 コンフォートから数分のところにある公園

 雪が舞い、地面を白く覆っている

 今は誰もいない夜の中、ただ一人ブランコに座る影

 椅子を吊るす鎖がわずかに軋む音を立てるだけの静かな公園

 一人座ったままの彼女の心の中には、疑問と後悔と、そしてほんの少しの期待が入り混じっていた

 蒼い髪色と紅い眸を持つ彼女は、厚手のコートとマフラーで身を包みながら、一人静かに座っていた



 





 夕刻


 朝、仕事へ出て行く前にいつもの如く、今日は少し遅くなるからといっていた彼の言葉から、
  未だキッチンには立たずにソファーで沈んでゆく陽を見つめていた

 夜半から雪を降らせるというしめった雲に覆われた空を赤く染める

 太陽自体は見えないが、その緋と夕闇が雲を伝って空全体に見事なまでのコントラストを描き出していた

 ソファーに深くもたれながら太陽の帰宅を見送る

 
 ……夕陽

 昔は世界を血に染めるこの光が嫌だった

 今は、とても美しいと感じる

 私も、変わっていけるのね

 昔はこの夕陽を綺麗だとそんな風にも感じないほど私の心は幼かった

 ただ一つのことに固執して

 自分には何もないと思い込んで
  

 一つ大きく息をする

 瞼を閉じても夕陽の温かさが伝わってくるようだ

 でも、同時に少しの淋しさも感じる

 陽の温かさはどんどん小さくなっていき、空の色も赤っぽいオレンジ色から淡い緑、そしてダークブルーへと変わっていく

 また陽は昇る、そんな当たり前のことはわかってはいるけど、やっぱり寂しさを感じるのだ

 
 自分独りで太陽との別れの場にいるからなのかしら…


 そう思うと、だんだん無くなってゆく陽のぬくもりが身体から引いていき、冷えていってしまう

 そして急に強く隣にぬくもりが欲しくなった

 最近、彼が仕事場から帰ってくるのが遅いことが多いからかもしれない

 思い返してみればここ数週間、この時間帯は独りソファーの上に横になってボーっとしていることが多いような気がする


 淋しい………


 深く考え込んでしまうとその思いに引き込まれてどんどん淋しさが増していってしまう

 しょうがないとはわかっていてもそうなのだ

 最近忙しいのはニュースでも取り上げられていた支部問題の余波のせいなのだろう

 昔は自分もそこに籍をおいた人間としてわかっているつもりだ


 それでも…

 
 そう思ってしまう

 平日は朝早くから夜遅くまで、休日の間も何処となく意識が仕事のほうに向いているのがわかるし、呼び出されることも少なくなかった

 一時的なものだとわかってはいるけど、それでもこの数週間の間、彼とゆっくり過ごすことができたのはどれくらいあっただろうか?

 

 自分たちの運命を変えた戦争、そしてサードインパクト

 つらい日々を終えたあと、私たちは付き合いだした

 もちろん、戦災の後でとても大変な時期ではあったけれども、それでもいつも二人でいた

 中学を卒業して、二人同じ高校へと進んだ

 中学時代のあの生活の中では無理だったものの、遅れながらも青春というのも楽しんだ 

 そして、それぞれの志のもとに大学へと進み、専門課程を過ごし学んでいった

 そんな中でも日々一緒だった

 彼がいるから私も歩ける、私がいるから彼も歩ける

 寄りかかったり、寄りかかられたり、そんな風に支えあいながら時を過ごしていった

 そして仕事にも就いた

 共に相談して、よく考えて

 いい思い出のないところではあったけれど、自分たちが体験したことが二度と再びこの世界に現れることのないようにと

 そういって二人一緒に働き始めた

 一緒に働き、一緒に過ごし、生活の大半を身近に過ごしていって、そして二人で一人になった

 最初はただただ嬉しかった

 そして時が過ぎるうちにその意味がだんだんとわかっていって、その深さに改めて喜びを感じあった

 そして、月日がすぎて今の自分がここにいる



 気がつくとあたり一面はもう暗くなっていた

 さっきまではほのかに温かかった室内も今は寒々としている


 いけない、いけない

 もう、こんな時間だわ


 彼が疲れて帰ってくるんだから、しっかりと準備を整えて迎えてあげなくてはいけない

 そのためにも自分は家庭に入るという道を選んだのだから

 仕事を辞めて、こういう生活にも慣れてけっこうなときが経つ

 共に働いている時期も充実した生活を送っていた

 それは、共同で仕事にでているわけだから生活面ではとても大変だったけれど、それでも二人で分担して過ごしていた生活はとても楽しいものだった

 でも、私はもっと彼のためになりたいという思いの中で仕事を離れた

 専業主婦というものに憧れがあったのかもしれない

 大好きな人のために生活面を自分が支え、働いて帰ってくる彼を迎えるという生活に

 それは確かにいいものだった

 こうしたら喜んでくれるかもしれない、こういう味付けにしたらおいしく食べてくれるかもしれない

 そんな風な日常の試行錯誤も楽しかった

 家の中を奇麗に片付けて、料理の支度をして、お風呂を沸かしたり、部屋の中を花で飾ったり

 そうして彼を迎える準備が整ってからの、待つという時間の楽しみも知った

 彼のために動けるこの生活の中に幸せを感じていた

 いまだって変わりはない

 変わりはないのだが、それでも彼と過ごす時間が極端に少なくなった最近はやはり辛い



 外の世界に別れを告げてカーテンを閉める

 電気を点けて部屋を明るくして、それから暖房を入れた

 今夜はかなり冷え込むといっていたし、夜半からは雪になるそうだ

 寒い外から帰ってくる彼のために部屋を暖かくしておいてあげなければ

 それからいつもの如く台所へと向かう

 さあ、今日はどんなメニューにして彼を元気付けてあげようかと、普段の生活の中で一番楽しむ時間だ

 冷蔵庫を開けて今日の料理の構成をまとめていく

 レイが台所に立つようになったのは最近のことではない

 高校時代にはもう台所に出入りして、バリバリの主夫であったシンジからいろいろな料理の作り方を習っていった

 最初はぎこちなかったその手つきも日を追うごとに上達していき、大学に通いだす頃にはシンジに勝るとも劣らない料理を作るようになっていた

 共に仕事をしている間は曜日ごとに当番を決めて食事を作っていた

 最初はやはり慣れているシンジのほうが日にちは多かった

 しかしだんだんと当番表が変わっていき、そのシフトが逆転したのはいつの頃からだっただろうか

 仕事から離れてからはレイの割合がどんどん大きくなっていき、今ではそのほとんどをこなすようになった

 だから、買い置いている食材を見てメニューを構築していくなどは、もう朝飯前になっていた

 冷蔵室、冷凍室、野菜室と順々に必要な食材を出してキッチンに並べる

 鍋とフライパンを出し、まな板をのせて包丁をラックから出した

 そこまではよかった

 でも、そのあと手に持った包丁がいつものような軽やかな音を出すことはなかった

 頭の中は切り替えたはずだったのに、さっきの想いが頭を過ぎった


 彼がいるから私も歩ける…私がいるから彼も歩ける…か……

 もうあの日から十数年…

 彼が私を求めてくれた日から
 彼が求めてくれるから私が歩こうと決めた日から


 カランと軽い金属音を立てて包丁が置かれた

 キッチンをゆっくり出て、部屋全体の照明を消す

 真っ暗になった部屋の中、さっき閉めた厚手のカーテンをシャッと開く

 月は出ていないから部屋の中を照らすまでの光量はないものの、ぼんやりとした明るさが真っ暗闇を和らげた


 あの時は…白き月がよく見えていた

      黒き月が地上で不気味に輝いていた

      世界は赤き海に覆われていた


 窓ガラスに手をつく

 ふぅっと吐いた息は外気との温度差にガラスを白く曇らせる


 冷たい…… 
 
 あのときの私のよう…

 いえ、あのときの私は何も感じなかった…

 あの人が私を求めてくれたときまでは…


 全ての人の欠けた心を補完して、全ての人の心の壁を取り払って、全ての人を一つの人へと導いた

 郡体としての使徒ではなく、単体としての第壱拾八使徒リリンとして


 全ての人が赤き海へと還元された中で、ただ二人だけがあの世界に人として残った

 エヴァンゲリオンという箱舟の中にあって

 でも、彼女のほうは自分の存在を、自分の生命を拒絶して死の眠りについた

 そして彼一人だけが世界に生き在る者、最後の人として残った


 私は全ての導きを終えて、還るはずだった

 私の存在意義を終えて、私が生まれ私が帰るべきところ、私が生まれたときからこの日まで切にそこに還ることを望んだところへ

 無へと

 ただ、彼を独り箱舟に残していくことがとても心配だった

 あの時はなぜそんな風に思ったのかなど私の心にはわからなかった

 でも私の心は私の行動となって現れていた

 彼と会ったときから、いままでの中でも


 ヤシマ作戦のときは、今でもはっきり覚えている、奇麗な満月の下で私はあの人に微笑んだ

 第壱拾参使徒戦で、鈴原君を引き裂いた初号機の中の彼の絶叫を聞いたとき、自分が壊れそうなほど心が痛んだ

 第壱拾四使徒戦の後、初号機の中に飲み込まれた彼が戻ってくるように心から祈った

 第壱拾六使徒戦の後、彼のことを覚えていない私は、彼が見せた悲しそうな姿に毎晩わけもわからず涙を流した

 そして補完計画遂行のとき、絶対的な存在だった司令の言葉を拒絶して彼のところへと向かった

 「碇くんが待ってる」って


 思い返していると私の心には彼の存在が確かにあった

 二人目、三人目に関係なしに、私の心、深い心、魂に刻まれた記憶

 無へと消える私は、私の心は、私を動かした

 最後に少しだけ彼に会うために、会わなければいけないような、そんな気持ちの中で

 
 あのときの私はもはや人の目に見えるような存在ではなかった

 あのときの私はもはや人に感じることができるような存在ではなかった

 空気のような存在、空間のような存在


 だから、少しだけ、私が最後に少しだけ彼の姿が見れればいいと、そんな思いが私を動かしていた

 俯き、全てに絶望し、全てを拒絶した彼へと向かった

 もう言葉をも失くし、生気も思考も内面へと潜ってしまった彼に

 それでも、「 “彼は、彼だから” 」そう呟いたあのときの自分は何を考えていたのだろうか

 たくさんいた私たち、でも身体はたくさんあっても心は一つ、「 “私は、私だから” 」そんな切望にも似た思いがそう言わせたのかもしれない

 彼の髪の毛に触れる

 触れるといっても私の指先は彼の身体を素通りしてしまう

 彼には触れられている感覚などない、私の存在はそういう存在へとなっていたから

 でもそれでよかった

 彼に私の存在を知られたくなかったから

 ただ彼の髪を何回も撫でる

 彼の奇麗な漆黒の瞳を、そして彼の素敵な笑顔をもう二度と見られることのない寂しさを感じながら

 最後に彼の耳元で許しを請うた

 彼の耳には決して届くことのない、私の最後の声で


 「貴方が、私に使ってはいけないといった言葉を言わせて」


 震える唇を制しながら、言葉を紡ぐ



 さ     よ     う     な     ら



 たった一言の言葉、それで満足だった

 別れを告げられたのだから

 私は消えられる

 私は、私の生まれながら望んでいた在りし日の姿へと帰還する

 私はここに全ての存在を終えられる

 さようなら、碇くん

 私は…

    貴方のことが……







 「…綾……波………?」







 

 冷たい窓ガラス

 吐息が白い曇りをつくっていく

 ふと目を上げる

 ぼんやりとした闇の中に白く舞う影

 最初は一つ二つと、それから白い踊り手たちは増えていき、窓ガラスの向こうをたくさんの白い影が舞い降りていく


 …雪……


 私の身体が引き寄せられるように動く

 手をついていた窓ガラスから離れ、白い踊り子たちを目で追いながらハンガーにかけてあったコートを羽織る

 一緒においてあったマフラーを首に巻き、手袋をはめて駆け出す

 靴棚から放るように靴を出し、棚の上のかごに入れてある鍵を無造作に掴むと玄関の扉を開け放った

 昼間の買い物のときに感じた空気とはまったく違い、とても冷たい空気が身体を包む

 タンタンタンと階段を降りて外へと出た

 舞い踊る雪たちは数を増して地面へと降りる

 まだ降り始めたばかりで積もるところまではいかない

 アスファルトにたどり着くとスゥっと姿を消してしまう


 …儚い


 儚いけれど、それでも彼らは確かに降り積もり、世界を銀白色の世界へと変えていく大きな力を持つのだ

 始めてみたときには彼と二人より沿いながら美しい白銀世界に感動した

 
 彼と、二人で……


 雪は暖かい性格を持つように思える

 触ったらそれは冷たいし、冬という寒い季節にのみ見ることのできるものだけれど、
  でも雪というものにはどことなく暖かいような、そんな感じを抱かせた

 彼と一緒にいたからそう思えたのかもしれない

 彼と一緒に雪降る世界を見ていたからあの時とても暖かかったのかもしれない

 
 今は、やっぱり、寒いから……


 気温は確かに低い

 でも心にある淋しさという寒さが身体を冷やす

 
 独りの散歩……いったい何年ぶりだろう


 彼の隣を歩かない散歩、彼と手をつないで腕を組んで歩かない散歩

 そんな記憶はもうない

 買い物とか美容院に行ったりとか友人たちと遊びにいくときとか、一人で道を歩いていくことはある

 でもどこへ行くとか何かをしにいくとかそんな目的を決めないで町を巡り歩くことなんて、本当に久しぶりだった

 寒いせいだからだろうか、時間が遅いせいだからだろうか、人も車もほとんどその姿は見えない

 空気は冷たいけれど風はなくとても静かで、アスファルトの溝を白く満たし始めた雪氷の結晶が歩く足の裏でキシキシと音を立てるのがよく聞こえる

 暫く歩くと見えてくる住宅街の小さな公園

 昼間は子供達の元気で楽しげな歓声が聞こえていたこの場所も、この時間には誰一人いない寂しいところになっている

 地面の土に混ざって白い雪がチラホラと増えていく

 今夜の雪は積もりそうな感じだった

 昼間とは打って変わってしまった静かな公園内を歩く

 ふと目に留まったブランコに腰掛けた

 僅かに錆のわかる鎖がキイキイと軽い音をあげた

 地面を軽く蹴って、自分の身体をブランコと共に僅かに揺らしながら雪の降りてくる空を見上げた

 真っ暗な中から白い踊り手たちが自分に向かって下りてくる

 あの先には彼らの母である雪雲が空を覆っているのだろう

 暗闇の中に彼らの母たちは紛れ込んで私の目には見えない

 でも、それらは確かにそこに在る

 舞い降りる雪がその証拠


 あの時…なぜ彼にはわかったのだろうか?

 私の姿は誰にも見ることはできなかったはずなのに

 私の姿は誰にも触れて感じることなんできなかったはずなのに

 私はそういう存在になっていたのに

 なぜ彼にはわかったのだろう?

 なぜ私の名を呼んでくれたのだろう?


 でも………あのとき、彼が私の名を呼んでくれたから、私は今ここにいる

 彼が私を求めてくれたから、私はいまこの世界を歩いている


 彼がいるから私も歩ける、私がいるから彼も歩ける


 そう、彼がいなかったら私はここにはいなかった

 あの何もない虚無へとこの心を還してしまっていただろう

 そう、彼が私の名を呼んでくれなかったら私はここにいなかった



 彼は……………どう、なのだろう?



 私は、彼がいなければ生きていられない

 私は、彼がいなければ歩いていけない

 私は、彼がいなければ幸せではいられない

 彼がいるから、私は……


 
 でも、彼はどうなのだろう?

 私がいるから、貴方も歩いていられるのかしら?

 もし

 もしも私がいなくなってしまったのなら、貴方はあの時のように私の名を呼んで、私を求めてくれるのかしら?

 
 私は、彼がいなくなってしまったら、私は私の心を保って入られない

 もし

 もしも私が姿を消してしまったなら、貴方の心は狂ってしまうかしら?

 
 私は、彼がいなくなってしまったら、私は溢れる涙を止めてはいられない

 もし

 もしも私がいなくなってしまったなら、貴方は私のために泣いてくれるかしら?


 もし

 もしも私がいなくなってしまったなら、貴方は私の名を叫んで、私を探してくれるかしら?



 ブランコの鎖をギュッと握る

 手袋をしているはずなのに鎖の冷たさが伝わってくるように感じた

 
 もう少し……ここにいてみよう…




 雪はシンシンと降り続け、今では地面を薄く、そして確実に白く染めていっている

 家を出てからいったいどれだけの時間がたっただろう

 時計を持ってくればよかったといまさらながらに思う

 でも逆に持ってきていたら時間の経つ早さに、さらに気持ちを沈められたかもしれない

 そう思うと複雑な気持ちだ

 ポケットの中を探っても家の鍵だけがチャリチャリと安っぽい音をたてるだけだ

 世界は静寂の中


 でも…もう、少しだから……


 そう、言い聞かせる自分がいる

 ここからなら帰り道を歩く彼の姿を見つけられる

 この公園は駅から家までの帰り道の途中に面するからだ

 自分も共に働いていたときには、夜の遅い今くらいの時間の中二人揃って帰ったものだ

 あの時は誰一人いないこの公園にも寂しさなどは感じなかった

 こんなところで彼の存在の大きさを改めて感じる


 傍にいるときは感じにくいもの

 彼の隣にいるとき、幸せをすごく感じているけれど、それとは違うまた別の大きな力

 独りでいる今だから、こうやって考えてる今だから、そして静かで寂しいこの公園にいる今だからわかる、守られているんだ、という感覚

 彼の存在が意識的にでさえ無意識的にでさえ、私の心を守ってくれている


 私は……

 

 そんな時、彼女の赤い眸が暗い公園の先の道に影を見つけた

 
 あっ……


 ハッと立ち上がる

 肩や膝に薄く積もった雪がパラパラと零れ落ちる

 コンフォートの方角へと歩いていくその影は、こちらには気づいていないようだった

 重さを感じさせない彼女の足取りは雪をサクサクといわせながら影を追う

 愛しい人の腕の中に包まれたいという衝動と、気づかれてはいけないという思いの二面性に彼女の足取りには戸惑いが表れる

 公園の端にある大きな木の幹に身体を隠し、その影を目で追う

 わかっているのだ、その影を一目見たときから

 でも、曲がり角にある街灯に一瞬照らされた横顔


 シンジ…!


 瞬間、心臓が一つ大きく鼓動した

 僅かな明かりの下でほんの少しだけ見えた彼の横顔

 それだけでも自分の足が無意識のうちに彼の足跡を追いかけようとするのがわかる

 それを必死で制止させながら、気づかれないように静かに彼の後ろ姿についてゆく

 真っ直ぐコンフォートに向かって歩いていくその後ろ姿

 心なしかその足取りが速いような、急いで帰ろうとしているような感じに見えるのは自分の希望的な錯覚のせいだけではないようだ

 家へ向かうための最後の路地の角に身を潜める

 昼間だった絶対に怪しまれるような姿だが、今の時間帯ならそんな問題はほとんどないだろう

 紅い眸が一点を、いや一人の後ろ姿を凝視している

 そんな時、彼の足取りがはたと止まった

 あわてて身を隠す

 気づかれてしまったのかもしれないという思いに、心臓が早い間隔で胸を打ちつける

 彼のほうは足を止めて、こちらのほうを振り返ってみているようだった

 でも、少ししてからまた足音が再開して、ほっと胸をなでおろした

 
 まだ、気づいていない…


 ただ、少しだけ顔を覗かせて彼の様子をうかがった時、彼の口元が微かに微笑んでいたように見えたのは気のせいだっただろうか





 彼がコンフォートに入っていったのを見届けてから、身を潜めていた路地から姿を現す

 彼がエレベーターに乗り、廊下を歩き、家のドアノブに手をかける情景が頭に浮かび胸を締め付ける


 ドアノブに手を回した彼が、いつもは開いているはずの扉に鍵がかかっていることに気づいたとき、いったいどう思うだろうか

 玄関から見える窓ガラスに、いつもは灯っているはずの照明がついていないことに気づいたとき、いったいどう思うだろうか

 そして、家に入った彼が、中が真っ暗で私の姿が見当たらないことに気づいたとき、いったいどう思うだろうか


 揺れる眸で眺めていた彼女の目に、コンフォートの自分たちの家の窓ガラスに光が灯ったのが映った

 それを見た瞬間、彼女の唇から微かに声がこぼれた


 「……そして…貴方は…どう行動するかしら………」


 

 雪は止むことなくシンシンと地を白く隠していき、今ではもう靴跡がはっきりとわかるほどまでに積もっていた

 この世界では時間の流れが曖昧になる

 家の明かりが点いたときから幾許の時間が過ぎたのか

 窓のほうを見上げても、明かりは灯ったまま何の動きもないままだ 

 雪を降らすまでに冷えた空気が、首と顔を覆っているマフラーの防壁を通り抜けて身体の熱を奪っていく

 吸い込んだ空気がとても冷たい

 でも、彼女にとって冷たい空気に体温を奪われていくことよりも、この過ぎてゆく時間のほうが過酷なものだった

 身体の凍えよりも、心の凍えのほうがなおいっそう

 
 …ねぇ、何か、答えて……


 懇願にも似た思いが零れる

 自らの意識がぬくもりを求め、身体がそれに倣う

 
 だめ……!


 そう心が叫んでコンフォートから背を向けた

 逃げるように歩いていくとさっきの公園に自然にたどり着いた

 いつもの公園の姿はもうなく、さっきは疎らだった雪が完全に白く染めていた

 誰もまだ踏み入れていない白い絨毯に一筋の足跡を刻んでいく

 自分がさっき座っていたブランコにも雪はふわっと積もっていた

 それを軽く払うと、ゆっくりと腰をおろす

 コートに付属していたフードが幾許か寒さを和らげてくれた

 
 「…なんで、私、出てきてしまったのだろう………」


 自分の言葉がこの冷たい空気のように自らの心を冷やす


 私は、何を期待していたのだろう…

 ここはあの時とは違うのに……

 ここはあの日のような空虚な世界とは違う、確かに在る現実の世界なのに…

 …私は、何を求めていたのだろう……

 彼が、私を必要としてくれていることは、よくわかっていたはずなのに

 何故、私は彼が私の名を叫んでくれることなどを期待したのだろう…

 彼が、私の姿が見えないことに気づいたとき、なりふりかまわず飛び出して、私の名前を呼んで探してくれることなどを期待したのだろうか

 …違う

 私はそんなことは求めない

 ………どうしてしまったんだろう、私の心は…

 おかしい、帰りたい帰りたいと、ぬくもりが欲しい欲しいと心が叫んでいるのに、私の身体は動かない

 …まるで、あの時のように……

 心の触れ合いを切に求めていたのに、私は無に還ろうとした…あの時のように…

 望みながら拒絶したあの時のように…

 彼が、私の拒絶を打ち砕いて私を求めてくれたから、私の名を呼んでくれたから、私は人として生きることを選び、そして地に帰った

 自分の生まれ帰す処を捨てて、彼とともに

 なら…今の私はどう帰ればいいの…?

 馬鹿なことをしてるのは自分でもわかっている

 自分で動けばいいことは、わかっている

 でも…私の身体は、私の心は……動かない…

 私の心はまだそこまで強くないみたい

 独りではまだ立ち上がることができない

 …私の名を呼んでくれる人は、今私が帰りたいと思っている場所で待っている

 私の愛しい人は、今私が戻りたいと望んでいる場所にいる……

 あの時とは……違う………

 …私は…私は、どうすればいいの…?

 …私は、どうやって帰ればいいの…?


 「…ねぇ、シンジ……私は、どうやって、帰ればいいの…?」


 涙が一雫頬を流れた

 彼女の想いを乗せて










 「一緒に帰ればいいと思うよ」


 背中に届いた優しい声

 静寂の公園の中で、レイの耳にはっきりと響いた

 ブランコから立ち上がり、ゆっくりと振り返る

 そのまま、立ち上がったまま動くことができなかった

 
 な、何故

 何故、私のことがわかったの?

 何故、私がここにいるってわかったの?

 …あの時とは、違うのに


 レイの揺れる眸の先には求めてやまなかった優しい笑顔が

 でも、今の彼女にはまともにその瞳を見ることができなかった、すぐに俯いてしまう

 そんなレイの姿を見て、シンジはその場を動くことはせずに、そっと彼女の名前を呼んだ

 彼女が帰ってこられるように、あの時のように、はっきりと


 「…レイ」


 その言葉が耳に届き、彼女は顔を上げる

 シンジはレイの赤い眸を見つめて微笑んだ

 それが雪解けの印だった

 レイの足が一歩一歩ゆっくりとシンジに向かう

 いったんシンジの前に立ち止まり、それからその胸に顔を埋めて抱きついた

 シンジは微かに震える背中に腕を回し、しっかりと抱きしめた

 レイの心が落ち着くまで

 彼女の冷えた心と身体が暖まるまで

 腕の中のレイの震えが止んできた頃、彼女は小さな声でシンジの名前を呼んだ


 「…シンジ……」


 しかし、シンジはレイのそのあとの言葉を言わせることはしなかった

 彼女が何を言おうとしたか、そんなことはわかっていたから

 ごめんなさい

 それが、レイの言おうとしていた言葉だということはわかっていたから

 そして、今のレイにその言葉を言って欲しくなかったから

 だから、その代わりにレイを身体から離して、彼女の綺麗な紅い眸を見つめながら言う


 「さっ、帰ろうか

   僕たちの家に」


 レイはもう一度シンジの胸に頭を預けてから、その言葉に頷いた

 

 

 この公園に入ってきたときは、“独り”

 公園の入り口からここまでに、雪のキャンバスに刻まれた道は“一つ”

 でも、この公園から帰るときには、“二人”

 地を白く覆う雪のキャンバスには“二本”の寄り添った道が刻まれていく


 ブランコの鉄の鎖を握って、冷たく冷えていた手は、今は彼の温かい手に握られて徐々に熱を取り戻してきている

 シンシンと雪が舞い降る夜の世界

 静寂の中にサク…サク…と小さく響く二つの足音

 
 隣にぬくもりがあって

 隣に愛しい人がいて

 独りではなくて、二人並んで歩いていて


 …心地いい……

 
 彼が隣にいてくれるだけでよかった

 私が、彼に傍にいてもらわなければ生きていけないように、彼も、私に傍にいてもらわなければいけない、そういうわけじゃなくても

 彼は傍にいてくれる

 私の傍にいてくれる

 ただただそれだけでよかった

 彼が私の隣で歩いていてくれるだけで

 私は独りじゃないのだから

 必ず彼が私の傍に来てくれるから

 
 でも…一つだけ聞いておきたかった

 あの時も、そして今も、何故私の存在がわかったのかを

 何故私がここにいるとわかったのかを

 
 「…ねぇ、シンジ……覚えている?

   あの日、赤き海で私の名を呼んでくれたときのことを」

 「……うん、忘れてないよ

   あの日は人にとって、僕にとって、そしてレイにとって、大切なときだったから」

 「…何故?何故私の名を呼んだの?

   何故私の存在がわかったの?

    あのときの、私は………」


 レイの質問に二人の足音が止まる
 
 彼は暫く前を見つめたままだった

 でも、それは考えているとか、迷っているとかいう表情ではなくて

 私が次の言葉を言おうかと思ったとき、彼はそっと私のほうを見て囁いた


 「…レイは……レイだから…」


 彼の答えはとても短くて、そしてとても抽象的な答えだった

 でも、それだけで全てが伝わったような気がした

 いえ、それが私のもっとも望んでいた答えだったのかもしれない


 それから二人微笑んで、帰り道を歩き出した

 あの日と同じように二人しっかりと手をつなぎながら

 
 「ああ、寒い、早く家に戻ろう

   おなかも減ったしね」


 今日の料理は何?というようにレイのほうを見る

 
 「…あっ、私」


 思わず口を押さえる

 何もかも放り出してきたことを忘れていた

 掃除と風呂だけはしてきたが料理だけは完全に放棄してきていた


 「ご、ごめんなさい」


 申し訳ないと彼の様子を伺うと、まるで堪えていたかのようにクスクスと笑い出した


 「いやいや、たまには僕も作らなくちゃね

   腕が鈍っちゃうからさ」

 「い、意地悪……

   …でも、ありがと

   久しぶり、シンジの料理を食べるの」

 「本当ならもっと早く迎えにいけたんだけど…

   …でも、確かに、最近はレイにばっかりまかせて、忙しい思いとか、淋しい思いとかさせつづけてたから…」

 「…そ、そんなこと、ない」


 胸の中を貫くようなシンジの憂いた表情に言葉が詰まる


 「…いや、本当さ

  レイには淋しい想いをさせてる…

  何か話しをしたいときもあったかもしれない

  傍にずっといて欲しかったときがあったかもしれない

  でも、そんなときに僕はいなくて、この数週間、レイを独りにさせた……

  仕事なんだから、なんて言い訳なんかできない、僕にとってレイは一番大切な存在だから

  そんな君に淋しい想いをさせてしまった……


   
  でもね、レイ、………いなくなったりしないでね…



  ………ごめん、変なこと言った

  でも、今日のレイは何かすごく儚く見えて…

  本当に、君がいてくれるから、僕は生きていられる

  僕は歩いていられる

  …だからさ、ずっと傍で支えていて欲しいんだ」



 かなわない

 そう思った 

 なんでわかってしまうんだろう、と少し悔しくも思った  

 それから、この人といて本当に良かったとも思った

 貴方の傍から離れるなんて決してしない

 貴方の傍からいなくなるなんて考えたりしない

 そう心に誓った

 
 「…ええ、私は、貴方の傍にいる……

  それに、もし離れてしまったとしても、貴方は来てくれるわ

  私が貴方を切に求めるときには、貴方は必ず来てくれる……

  …あの時も…今も…そして、これからも……

  だから、私は大丈夫

  そのことがわかったから…

  貴方が、傍にいてくれるから…

  だから、私も確かに貴方と共にいる……」


 ありがとう、その意味を込めてシンジはレイの肩を抱く

 雪も、静寂も、暗闇も全てが暖かく感じた




 「ねえ、シンジ、今日の料理は何?」

 「ふふ、ついてからのお楽しみ」

 「いいじゃない、教えてくれても」

 「だめ、楽しみにしててよ、といってもたいしたものじゃないけれど」

 「……ねぇ、シンジ、食事が終わったら、ひさしぶりに一緒にお風呂に入らない?」

 「れ、レイ!?」

 「くすくす」

 「もう〜

  そうそう、明日から二日間休みだから」

 「え?でも、仕事のほうは?」

 「大丈夫だって、ここ数週間、目一杯こき使われたんだから

  それに、レイと一緒にゆっくり過ごしたいし」
 
 「うれしい」

 「右に同じ」

 

 二人笑いながら家へと向かう

 もう、すぐそこにコンフォートの光が見える

 世界は静寂と暗闇

 そして、雪たちは二人の心を表すかのように舞い踊る

 サク…サク…サク

 雪道を歩く音が、二人の歩調が自然に揃っていく 

 雪道に、寄り添う二つの足跡を確かに刻みながら





 私は思う


 何故、私は出てきてしまったのか

 何故、私は昔のことを思い出したのか

 何故、私は帰らずに彼を待っていたのか

 何故、私はあんなことを思ったのか


 今考えても、やっぱりわからない

 そして、これからもわかることはないと思う

 でも、それでいい

 そんなことは大切なことじゃないってわかったから


 彼は私の隣にいて、私は彼の隣にいる

 互いに、寄りかかったり、寄りかかられたりしながら

 彼がいるから私も歩ける、私がいるから彼も歩ける

 そう、それが大切だったんだ

 何よりもまして

 それがわかったから





 でも……

 何故?という答えにあえて理由をつけるなら

 気まぐれな私の心の、ちょっとした悪戯だったのかもしれない









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