風が吹いた
少年は今年もまた、この地に足を向ける
毎年、毎年、あの日、あの場所に
あの日以来、待ち人として
最後に見せたあの微笑の意味を考えながら
その微笑に儚い希望を抱きながら
ただ一人、この地へ足を向ける
時間というものは、遅いようで、早く過ぎ去る
最初のころは、数えていた年も、何回目かで意味を成さないと止めてしまった
ガタン、ゴトン
ガタン、ゴトン
ガタン、ゴトン
列車特有の心地よい振動を受けながら椅子に深くもたれる
都心部から離れ、この一帯はいまだ開発のめどが立っていない
恐らく、当分はこのままか、あるいは自然公園として手を着けられないようにするかのどちらかだろう
開発の手をいれさせるはずがない
ガタン、ゴトン
ガタン、ゴトン
ガタン、ゴトン
窓から見渡せる景色は草と木が作り出す緑
あの日のひどい爪痕も草木たちにとってはすぐにでも取り戻せる、そんな地になったらしい
ガタン、ゴトン
ガタン、ゴトン
ガタン、ゴトン
窓から眼を戻す
誰もつかまらないつり革が少しさびしそうに揺れ、がらんどうとした椅子が規則正しく並んでいる
車両の中は自分ひとり
ここまで来ると誰も乗る人は居ない、年に一回、自分を除いては
意外と淋しくもないもので、聞こえてくる風の音と、列車の音と、自分の吐息を耳にかすめながら、椅子に深くもたれる
都心部から出たときの、人たちが大勢にぎやかにしている車内よりも、ただ一人だけで座る今の車内のほうが好きだ
一回目は耳にイヤホンをはめていたものだが、今ではそれ自体もってきていない
本を読みながら彼女もいろいろな、世界が奏でる音に耳を傾けていたのかもしれない
今は自分も、自分が身を置くこの世界の音に耳を傾けるのが好きだ
そして、また眼を窓の外に移す
窓から見渡せる景色は草木が作り出す緑
走る列車のスピードがその景色を一つとして同じものの無い、変化ある景色を作り出している
暫くしているうちに、車内アナウンスが流れた
時間というものは遅いようで、早く過ぎてゆく
数時間乗り続けていたこの電車も、次の駅で終点、降りなければいけない
ガタン、ゴトン
ガタン、ゴトン
ガタン、ゴトン
振動が徐々に小さくなっていき、列車は小さく息を吐くとその動きを止めた
カクン、という小さな衝撃がこの電車旅の終焉を告げる
停車時間の長いことをいいことに、ゆっくりと席を立つ
列車を降りる際に、無人駅に対応するための備え付けの機械に切符を通す
車内に効いていた冷房も、外に出れば暑い
あの日と同じように、蝉たちが大きく声を響かせている
降りたままそうしていると、自分の後ろで軽い圧搾音をさせながら扉が閉まった
それから、自分をここまで運んできた列車はゆっくりと自分の来た道を走り始めた
ガタン、ゴトン
ガタン、ゴトン
ガタン、ゴトン
さっきはその中で聞いた振動音もどんどん小さく、向こうへ消えていった
その音を、その音が消えるまで見送る
暫くその場にたたずんでいたが、荷物を持ち直し、歩み始める
けっして小さくない駅だが、人一人いない無人駅だ
人による音のしない階段を下り、駅員のいない改札を通り抜ける
改札のゲートも壊れて動かなくなっていて、駅としての商業的な意味を失っていた
この地域の駅はこういうところが多い
だから列車の中に改札ゲートや切符自販機に代わるものが設置されているのだ
昔は結構な人数が通っていたと思われる大きな出口から外へ出る
外に出るとそこはバスターミナルのような広場になっている
といってもここを訪れるバスは、昔の往来本数に比べればほぼなくなったにも等しい
もちろん道路も、線路もここより先にずっと延びている
だが、さっきの列車と同じように全ての交通手段はここまでで引き返す
一般交通手段のこれより先の進入が禁止されているだけでなく、
道路も線路もちゃんとした状態をとどめていないため、文字通りこれから先へは進めないのだ
昔はここもそれなりの規模の町だったのだが、いまではあの日の傷痕を残し、老朽化した建物がそのまま建っているにすぎない
中には緑が生えている建物もある
人口もゼロ、地図上から町の名前が削除されたのも、もう最近のことではない
だが、ここはまだ目的地ではない
これから行く場所、昔ならもっと中心部で大都市の称号を有していた場所、いまでは誰も近づかない奥地へと向かう
公共の交通手段はここまでだし、道路の補修工事もいまだ手が着けられていないから、ここからは歩くしかない
三十分ほどの散歩だが、頭上に燦燦と降る日光が暑い
そのかわりしばしば吹く風がとても心地よく感じる
進むにつれ、自分の見覚えのある風景に出くわすことが多くなっていく
学校帰りや食料の買出しにあの頃は頻繁に通っていた商店街
夕食を作るために買い物に出かけた夕方などは、この町の主婦たちで賑わっていたものだが、今は淋しいものだ
誰もいない商店街はまるで西部劇のゴーストタウンのようだった
短い間だったが過ごした中学は、建物のガラスが一枚も残っておらず、校舎の一部は崩れてなくなっていた
あの教室や屋上には少なからずの思い出があるのだが見るに痛々しかった
自分たちが住んでいたコンフォートも通った
さすがに頑丈に作られているだけあっていまだ形をとどめているが、中に入ろうとまでは思わない
思い出してみれば、戦後この地を離れるときに自分の荷物を取りに行ったとき以来中には入っていない
旅の前に寄ろうか迷った旧マンモスマンション郡だが、やはり行くのは止めた
あそこは昔から老朽化がひどくその大部分が崩壊して広い荒地をつくっている
それに……
いや、やはり寄ったところで何をするというわけでもない場所だ
ただの思い出旅行なら、学校とか、商店街だとかもっとしみじみとまわってみてもいいかもしれない
だが、いまはもうそんなものには興味がない
しばしの風に心地よくされ、天井に輝く日に暑くされながら、ひたすら歩く
二回の水分補給と休憩をとり、進むと、ようやく目的の地が見えてくる
昔聳え立っていた天井都市は崩れ、直径一kmを越える巨大な孔のある場所
孔の周辺はそれを作り出した環境を物語るようにガラス状に変化しキラキラと煌いている
あの日の傷痕がもっとも酷く、この手付かずの地域の中心を成す場所
昔は最新鋭の設備を有した巨大都市も、いまは廃れている
− 第三新東京市 −
シンジは真っ直ぐその場所の中心を目指すのではなく、まず高台へと向かった
いつもここを訪れた時、最初に赴き、そしてすること
儀式のようなものにして、そして考えさせ思い出させてくれるもの
ミサトに初めて連れてこられた、この都市を一望できる展望台
ここで、年代経過を重ねる第三新東京市を眺めることだ
時が過ぎるのは、遅いようで早い、それを否が応でも感じさせてくれる場所
ここをはじめて訪れたときには高層のビルが立ち並び、近未来的なフォルムの一大都市だった
今はもうその面影は無い
あの日の傷跡とともに年代の経過による荒廃が目の前に広がる
自分はもう年月を数えるのを止めたのに…そう思いながらもここを素通りするわけにはいかない
時は否が応でも過ぎ、人の心を鈍らせる
人の中から時の流れを取り去れば尚更
“人は忘れることが出来るから生きていける”
そんな言葉が頭をよぎる
確かに正論ではある、が残酷でもある
いくら忘れようとも忘れられない、いや、決して忘れてはならないことだってあるものだ
他の人が忘れてしまっても、自分だけは忘れることはできないということが
それを忘れるということは、単に忘れるということじゃなく、心の一部を時の流れに抉られるということだ
大切なことを忘れてしまった自分を知ることは痛い、それが心の大きな部分を占めれば占めるほど
だが、忘れられないということも痛みを伴う
ここに立つたびに、それは大きくなっていく
“人は忘れることが出来るから生きていける”
暫く立ち止まっていた展望台に、そんな言葉を釘付けにするかのようにシンジは身を翻した
また、今年も足を向ける、あの場所へ
当時、使っていた地上部の地上部連絡ゲートへは向かわない
あの日の戦自侵攻で大きな打撃を受けた正門区域は、年代経過による老朽も重なり、もはや最低限の機能も果たせないようになっている
ジオフロントに降りるための他の地上部――ジオフロント連絡シャフトもあの日に断たれたままその役割を終えている
公式のルートはどれも潰れていて、本来ならジオフロントに降りることはできない
シンジは中心部から少し離れた区画に出た
高層の建物ではないために中心部に比べると形をより残している場所だ
そのうちの一つの建物に入った
あちらこちらが崩れ、物が散乱したまま時を過ごしている建物だが、他の建物に比べてここははるかに強度が高い
薄暗い地下への階段をライターの火を灯しながら下りていく
狭い地下室の一辺、周りとは少し違う形状の壁がはがれて空洞が見える、その穴に入っていく
少し行ったところにさらに下に降りる階段がある
壁の中にある階段
それを降りると、さっきの地下室より幾分広い空間に行き着く
まるで、シェルターのような頑丈な造りにしてある地下空間
古びてしまった非常用の物資と、一つの重厚な扉
周りのものや落ちて散らばる物資を避けながら、その扉をこじ開ける
重たく開けにくいものだが、昔の堅剛な電子ロックなどはもうとうに死んでいた
開いた扉の向こうは先が見えず、何処までも続くかのような通路が延びる
ここはNERVの非公開の、本部とつながる施設の一つ
第壱拾四使徒のとき加持に連れられてきた建物と同じような施設だ
あの時の通路は今は通ることができなくなっているが、シンジは本部を結ぶこういった施設を五箇所以上把握していた
直通とはいえ、リニアによる輸送がない今、連絡シャフトから降りるのより時間はかかる
が、あそこを使うのよりはるかに安全かつ確実な手段だ
最初の頃は連絡シャフトを何とか降りようとして危ない目にもあった、あそこは崩れやすい
ライターをしまい、荷物をいったん降ろしてから指向性のLEDを取り出して光を点ける
あとはひたすら歩くのみ
LEDの小さな光でもスムーズに歩いていく
二度ほど通って以来慣れてしまった、おそらくライトがここで切れてしまってもたどり着けるだろう
昔は闇を怖がっていたが、今は慣れた、というより受け入れてしまったという感じだ
“人は闇を恐れるもの。人は闇を恐れるが故に火を使い闇を削ってきた”
そんな風にいった彼女の言葉が思い出される
なんでもかんでも、自分に合わない、と勝手に決め付けてしまったものに人は恐怖し排除したり関わらないようにしたりする
昔の自分より、今はすこしくらいましになったのかな、そんな風に考えながら暗い通路を進んでいった
地上に換算して五区画ほどの距離を歩くと、まるで工事途中のような広い空間にでる
リニアのレールとは少し離れた道で、途中の業務用ルートのほうを進むとここへ出てくる
最新の環境を誇っていた当時のNERV本部も、開発途中だったということだ
本部停電のときもこういったルートを使われたのかもしれない、そんな風にも思ったこともあった
今いる場所はどちらかといえば地表面に近い中階層だ
昨年と同じように使えそうな簡易エレベーターを探す
22層を突っ切る最深方向へのシャフトを
やはり少しの調整を加えなければ動かないが、それでもここの閉塞的な環境は劣化を遅くするようだった
電気もほとんど死んでいるため、出発前に用意した小型の発電機をセットする
電力節約のために明かりはLEDだけにして、簡易エレベーターのライトは殺す
エレベーターに乗り込み、安全ベルトを確認してからシンジは起動レバーをゆっくりと下ろした
闇が深淵へといざなっていく
そうして、シンジは再びあの日へと降りていった
小さなモーターが、その耐用年数を軽く越えてしまった疲労から小さな悲鳴を上げる
それでも、その音は些細なもので、慣れたシンジの耳にはもはや不安を与えるようなものではない
簡易エレベーターのモーター音と細いシャフトを流れる空気の音だけが響く
LEDの光も今は必要なくスイッチを切ってある
周りはまったくの闇、そして自分独り
これから、また向かい合わなくてはいけないのか…
人々が忘れるべき記憶
とうに過ぎ去ってしまったはずのあの日に…
向かい合わなくてはいけない、という悲観的な感情
向かい合わなくてはいけない、そういう儀式的な感情
そして、向かい合いたい、という希望的な感情
矛盾にみちた想いが巡る
このシャフトを降りることは過去に過ぎたはずのあの日に身を置くこと
人々が忘れるべき記憶に立ち還るということだ
矛盾に困惑する心に周囲の暗闇と単調な静寂がそれを押さえつける
年に一度訪れるもの
このシャフトを降りる瞬間は何も感じないのだ
ただ淡々と下に降りる準備を整え、そして向かう
が、そこに身をおいて初めて見つめなおす
自分がこの先に待っているものに身を還すことに
だが、立ち止まり、そこから逃げるということは今まで一度もなかった
これからもそうだろう
自分が何をしているか、何をしにいくか、そこで何を見つめ、思い起こすか、それに眼を向けたとしても、引き返そうとは思わない
ただ、向かうのみ
その先に、繰り返す絶望が待っていることが確実にわかっていたとしても
シャフトがだんだんと広くなっていく
最初は簡易エレベーターの直径少しぐらいだった広さが、終点に近づくころには周りの壁が遠くに見えるほどに
慎重に下降レバーを上げ、ブレーキをかける
ちょうど地面から50cmほどのところで止まった
安全ベルトをはずし、荷物をしっかりと抱えてから飛び降りる
この空間は本部の空調施設の一部
あの巨大な空間の空気を調整するための巨大設備の末端部分に位置する
LEDをつけ施設内への出入り口へ向かう
コンピュータ制御の末端施設とはいえ広い
機能が死んでから長いこと経つために施設内は薄暗く、少し寒いぐらいで身体を冷やす
いくつもの管理用の部屋を素通りして、上へ向かう階段を登ってゆく
外への扉としてはいまいちひ弱な扉を開け放つと光が満ち溢れる
昔の光ファイバーを通して伝えられる光ではなく、天井部に開いた広大な孔から直接太陽光が降り注いでいた
いままで暗闇のなかにいた眼が眩しさに瞼を閉じる
手をかざし、暫く慣れさせてから薄目を開いてゆく
周りは、丁寧に整えられた昔の庭園とは異なり、草木たちが自由に成長していた
人の手は借りなくとも、人がこの地を訪れなくなっても、彼らは人々から忘れたこの地においても確かに生きていた
去年、ここを訪れたときよりもずっと強く、ずっと大きく
少し悲しい気もする
人という存在が介さない、木々や動物たちがそれぞれ生きている地に、ただ自分だけ人という存在がいることに
生命に溢れる中の孤独
孤独
自分の傍に心を通わせる者がいないこと
定義的な孤独
でも、全ての人間の心のどこかに孤独というものが在る
“人と人が完全にわかりあうことなどけっしてできない”
昔の父の言葉を思い出す
ここを訪れるといろいろな思い出にさいなまれる
いや、そのためにここにいるのかもしれない
あの日に、身を還すためにここにいるのだから
生命に溢れる中の孤独
それでも、全ての上に降り注ぐ陽の光はやはり温かい
広大な森のようなこの地域の中でぽつんと姿を残す角錐形をした独特な外観の建物
まるで、ピラミッドを模したかのようなその建物が旧NERVの本部だったものだ
末端施設のゲートから草木に軽く覆われたメインルートを通って、本部の正面ゲートの前に立つ
戦自侵攻時の銃弾痕と爆破の痕がいまだ生々しい
瓦礫が散乱し、焼け爛れたままのゲートを抜けて本部内へと足を踏み入れた
中を進んでいくと、どこもかしこも無数の銃弾痕と火炎放射器による焦げ痕が見受けられる
それでも、昔のような焦げくさい臭いや血なまぐさい臭いは今はもう消えて久しい
だが、地面や壁に赤黒く残る夥しい量の血痕はあの日の惨劇を脳裏に思い起こさせてくれる
でも、もう慣れてしまったのか、それとも無関心を装えるようになったのか、それらの光景に昔ほどの感情は表れない
ただひたすら、前へ、奥へと進むだけ
それでも、中枢へと進むまでのこのルート、惨劇の傷跡をそのまま保つこの道はあの日への回帰のための道順となっている
そうして奥へと向かうルートの途中には凄惨な光景だけでなく、懐かしさを思わせる場所も数知れない
やはり、一年という期間の中、多くの時間を過ごした場所だからだろう
何回かメンバーと食事の時間を共に過ごした食堂
NERVの職員の食事の要となっていた場所だけに広い
たくさんの職員が利用していたときなどは狭くも見えたものだが、やはり広々とした空間だったのだ
でも、ただただ広い空間というわけでもなく、散らばるテーブルや椅子がこの空間を雑然としたものにしていた
出撃、実験前後に時間を過ごした、ロッカールームや戦闘指揮所
ロッカールームに前の長椅子には、なんだかんだいいながらお気に入りで、
暇な待ち時間などはずっとそこに座って音楽を聴いていたものだが、もうどこかにいってしまっていた
戦闘指揮所は当時の最新設備の中枢だった面影は無かった
戦自の侵攻のとき、ここにある設備や情報を傷つけまいと爆薬や火炎放射器等を使った大規模な攻撃はなかったものの、
たくさんの銃弾痕や血痕が残っている
奇麗だった外壁や大きなモニターなども崩れ落ちていた
少し見上げた位置に戦闘艦のセイルのようなところがある
戦闘オペレーティングの中枢部、マヤ、シゲル、マコトが最後までいた場所だ
戦闘を指揮するはずの場所での戦闘
皮肉なものだ
そんなありえない殺意の飛び交う場所で何を思い行動していたのだろうかと、ふと頭を過ぎった
そういった、いわば思い出の場所をじっくりは見ず、半ば片目で流しながら進む
あまり感情移入しすぎるとつらいから
昔の、この惨状よりは平和な光景を知っているだけに
そして、この旅の重要な部分の一つを占めるあの場所へと向かう
昔は目一杯張られていた冷却水も十年近い年月経過に蒸発していき水位を下げている
粉々に砕けた赤いベークライトも散乱したまま残されていた
大勢の人間が動き、整備や修理、出撃準備などで騒音を撒き散らしていたこの空間も、今では時々滴り落ちる水滴の音が虚しく響く程度だ
靴の音が嫌に甲高く響き渡る、とてつもなく広い空間
今は失われた、福音を告げる者たちが留め置かれていた場所だ
この場所は思い入れが大きい
十年ぶりに父の手紙によって呼び出され、不安と淡い期待とを持って来た場所
父と十年ぶりに再会した場所
抱いていた淡い期待を粉々に打ち砕かれ、代わりに残酷な運命の冠をかぶせられた場所
そして、彼女と初めて会った場所でもある
幾許か立ち尽くし、そっと瞼を閉じて静寂に身をゆだねる
…ここも…一つの意味で、始まりにして、終わりの場所だったことになるのか……
初めてエヴァンゲリオンというものに乗り、最後にエヴァンゲリオンというものに乗った場所として
自分の決定のもとに足を向けたわけではあるにしても、この場所は自分の未来を根底から覆した場所だ
最初は、初めて会った、傷ついた女の子を助けるために、という大義名分の裏に、
認めてもらえるかもしれない、居場所が見つかるかもしれない、という身勝手な思いの中に、自分のためにエヴァに乗った
最初はそういう動機だった
じゃあ、最後のときは何を思いながら、何を理由にエヴァに乗ったのだろうか?
人類のため?
そんな大きなことは一度だって思いの中にあったことなど無かった
誰か、他人に認めてもらうため?
あの状況の中ではそんな小さなことを思い浮かぶ余裕など無かった
それならば、親しい人を守るためか?
否
やはり、最初も最後も自分のためにエヴァに乗った
ただ最後は何かを精一杯するため
『しっかり生きて、それから死になさい』
姉のような存在だったあの人の言葉に動かされて
何かを、何かを精一杯するために
自分の何かを果たすために
自分のためにエヴァに乗った
結局…最初も最後も自分のためにエヴァに乗って、あの結果を生み出したのか……
情けない、身勝手な自分を嗤う
でも、そんな僕に彼女はその存在をかけてくれた
自分の存在も、命も、目的も、望みも、全てなげうって
ポチャン……………
水滴の音が空間に響き渡る
瞼を開き、一つ大きく息をするとシンジは意を決したように身を翻す
そして、さらに中枢へと、あの日へと自分の想いを持ってあの場所に赴く
彼女に自分の想いを捧げるため
弔いではなく、待つために
ここは自分にとっての始まりにして終わりの場所
これから向かうのは、彼女にとっての始まりにして終わりの場所
ターミナルドグマへと続くメインシャフト
最後のシ者による破壊活動からの復旧のために、そして本部施設停電事件の経験から機能遮断の際にも下へと降りられるようにと
本部接続電力を使用しない別ルートが確立され今でもそのままの状態で残されている
その一つ、比較的安全なルートを使って下へ下へと降りてゆく
自家発電機構を搭載した上級幹部用の特殊降下装置を見つけて以来、とてもスムーズに下に向かえるようになった
それまでは今考えただけでもたいへんなもので、修復作業用に残されていた降下装置で許される範囲の最下部まで降り、
それからドグマへの専用通路を使っていた
子供時分だったときにはひどく苦労したのを覚えている
あの頃は何が何でもというふうな、文字通り一生懸命な姿勢だった
この日の一週間前くらいからここを訪れ、探索に数日をかけたり、けっこう派手な行動もしたりした
あの時はとにかく夢中だった
あの日からまだ一年か二年ほどしか年月が過ぎていなかったからだろう
こんなことを思っても、いまの自分が一生懸命じゃない、というわけではない
年月の経過に憔悴させられたわけでもない
ただ物事を冷静に見、考えることが出来るようになってきただけだ
年齢を重ねて少しずつ成長している、しようと努力している、そんな表れでもある
そう、想いは変わらない
昔も、そしてこの狭い空間に佇み、ターミナルドグマという中枢に向かう今も
いや、時を重ねるごとにさらに深く、重くなっていっている
心を占める割合が増え、それに伴う激痛と絶望も増す中で
でも、ここにいるときの自分の心は、今まで歩いてきたどのルートにいるとき時よりも静かだ
ターミナルドグマという最深部へ、彼女へと近づくほど心のざわめきが静まっていく
そして…この最も長い降下の時間の中であの日の情景が蘇る
そう、あの日
人々がサードインパクトと呼ぶ、人類補完計画が発動された日のことが
あの日のことはあまり覚えてはいない
何が起こったのか、親しい人たちがそして人類がどうなったのか、それら全てを知ってはいるけど、実際に覚えているわけじゃなかった
ただ、後々から入ってきた情報からそれを知っているだけで、
あの日、何がどう進んでいったのか自分の目で覚えているのはほんの少しのことだけだった
戦略自衛隊のNERV侵攻
SEELE−エヴァシリーズの襲来
人類補完計画の発動
戦自の介入で本部内が戦場となったこと
エヴァとチルドレンを目標に動いて自分自身も殺されそうになった
ミサトさんが自分を盾にして守ってくれて、悲観的になっていた自分を最後の道まで導いてくれた
自分の命を懸けて
エヴァに乗って地上に出て、そこで見たのは引き裂かれた弐号機と異形の白い巨人たちだった
絶叫して、それから周りが見えなくなった
自分の目で見た情景はそこまでだった
それを最後に、その瞬間に、僕の心は闇に落ちた
そして、僕は依り代になった
黒き月がその姿を浮かび現す
そしてエヴァシリーズを九つの隅柱、初号機を十番目の要にしてロンギヌスの槍が根を張る
それはセフィロトの木、生命の木の儀式陣の形成
人類補完計画の始まりだった
ガコンという衝撃とともに何度となく繰り返してきたループから我に返る
無意識のうちに涙が流れていた
涙を袖で拭い、扉を開ける
暗い一本の通路が永遠に続くかのように見えた
他の場所とは明らかに違う重い空気
そしてその重み以上にシンジの心に覆いかかる重み
でも、その重みがシンジの足をためらわせることはなかった
ただただひたすら真っ直ぐ続く通路
聖処に続く回廊のような雰囲気を纏う
ターミナルドグマは広大な空間だ
忌まわしきダミープラント、LCLプラント、エヴァの生まれし所から、彼等の墓場まで
神話の領域、呪われた業、その全ての中枢がここだ。
いまやこの地に何が広がり何が存在するか、それを知るものはいない
いや、それ以前からもこの場所は地にある宇宙と同義だった
その場所に彼は今立ち、今歩き、今向かっている
彼女の始まりの地へと、この領域の中枢へと
回廊が広い空間へと変わる
闇のせいだけではない、ここは確かに広い空間なのだ
目の前に聳えたつ壁、それは扉
昔、天国への扉という名を冠した扉
人の為のものではない、さしずめ神々のためとでもいうかのような
そしてこれが目的の地への最後の扉であり、自分が待つものとを隔てる絶対的な障壁の象徴でもある
何度となく繰り返し立ってきたこの場所
昔から自分の根本的なところは変わっていないと思う
自分のためにここに立っている
自分のためにここに赴き、いま自分のためにこの扉を開けようとしている
結局自分のために
自分のために、何が自分を駆り立てるのだろう
もう諦めてしまおうかと言葉が喉まででかかったこともあった
友人と共にいたときにも一度だけ
何度も記憶の表から霞もうとする
絶望や苦悩に流され消されそうになる
しっかり思いに留めておくのは、あの場所でも覚えたように激痛が伴うからだ
だから無意識と時間経過がそれを薄れさせよう薄れさせようとしていく
自分をこの場所へ駆り立てるもの、自分を動かすものを
そんな激痛を伴う思いをずっと必死で守ってきた
薄れさせないように、諦めないように、流されないように
自分の力で守れないときには友人の言葉も支え、そして思い直すきっかけになった
『俺はさ、ファインダーを通していろいろな人のいろいろな時のいろいろな表情を見てきた
笑ったときの顔、嬉しそうな顔、恥ずかしそうだったり、怒ってたり
…悲しそうだったり
いろいろな表情を見てきた
けっこうかわるもんなんだよ、カメラから覗く人の表情って
写真って一瞬の真実を切り取るものだから、その表情から零れる、雰囲気みたいなものがわかるんだ
俺はシンジの写真も撮ってるんだぜ
今のお前をファインダーから見てみたら、すごく悲しそうな顔をしてる
俺は全てを知ってるわけじゃない
でも、全てを知らないわけでもない
シンジがどうしてそういう顔をしているのか
でも、お前のその表情には悲しみだけじゃない、強さが残ってる
そんな雰囲気が俺には見えるし、写真は嘘をつかない
人の強いところっていうのは諦めないで抗うことだと俺は思ってる
それから、忘れる事に苦悩することが出来ること
それは大切なことで苦しいことで
それができるってことは弱さじゃなくて、強さなんだ
俺はそう思うよ
だから、かすかでも希望があるとても大切なことなら、諦めちゃいけない
諦めが人の歩みをとめてしまう
諦めが人の生き方を埋めてしまう
でも、どんなに絶望しても、どんなに追い求める希望がわずかでも、あきらめないでいるなら、
しっかりと大切なことを思いにとどめているなら、人は歩ける
結果が報われるか報われないかはわからないけど、でも、それでも進むべきだと思う
自分の全てをかけれるようなかすかな希望があるのなら』
そう、自分を動かすもの、それは微かな希望
ただ一瞬の映像の片鱗から、自分の心に刻まれた微かな希望
彼女が選んだ道を進んでいくときに、自分に向けた希望
彼女が独りで向かった道
自分との別れのときに
「もし、あの時、君の選んだ道の先がわかっていたのなら」
小さく叫ぶ
広大な空間に反響して重鈍な音が重なり消えていく
「でも、わかっていたからといって、僕に何ができた?」
彼女の道を推した自分の軽はずみな言葉を呪う
あのときの言葉は重いものだった、今まで自分の口から放たれたどんな言葉よりも
それでも、あの時、あの言葉は、軽率な言葉だった
「何故!?」
口から零れた疑問も次の瞬間にはかき消される
「でも、僕には力がなかった
僕にはあの場所にいて、あの言葉を言う権威しかなかった」
何故、と彼女が道の行く先を教えてくれなかったことを責めたこともあった
でも、逆に告げられたからといって自分にはそれを止めることも推すことも、変わることも、留まることもできなかっただろう
「結局、僕は無力だった」
友人を見殺しにしたときも、赤髪の少女の心が崩壊したときも、銀髪の少年をこの手で握りつぶしたときも
そして補完計画の遂行のときも
彼女の選んだ道のときも
「僕は、どうすればよかったんだろう?」
扉の前にいるからこそ投げかけられる言葉
彼女の前ではこんなことは聞けない
この言葉は彼女にではなくて、自分の未熟な心に向かっての後悔の問いだ
あのとき………
地球上に光の十字架が立ち並び聳え立っていく
地に生きていた人々の数だけ
誰一人の区別なく偏見なく差別なく平等にすべての人の上に
人の姿かたちを変えて
まるで人類の墓標のように
かつて見た母の墓標が立つ地の如くに永遠と整然と限りなく
ただそれが地のすべての場所で、そしてそれが光の墓標であるという違いだけで
地を光の十字架が覆い尽くしていった
そして墓標は消え、まるで進化論の逆をたどるかのように海へと消えてゆく
そして、海は赤く染まり、海ではなく赤き海へと世界を変えた
赤い海面には波も波紋もなくただ黙然と広がる
その上に二つの人型が立っていた
一人は初めて呪われた地を訪れたときと同じ洋服を身につけ、もう一人は少年がこの地に来て最初に見た幻と同じ制服に身を包んでいた
「…こ、れは…?」
いままでその身を預けていた紫を纏う箱舟は姿を消し、ただただ広がる赤き海を見つめて訳もわからず呟く少年
隣に立つ紅い眸の少女がそんな彼を見つめて小さく口を開く
「これは、人」
「ヒト?」
「そう
これが補完計画の真の姿
人類補完計画完遂の果て
人という使徒、壱拾八番目の使徒、リリンのもう一つの姿よ」
「人が、使徒?」
「そう、これまで訪れたすべての使徒と同じ
人も彼らと同じ、一つの形態を選んだ使徒なの
壱拾七の使徒たちはそれぞれ個体として生きることを定めた者たちだった
人という使徒だけが群体という形態を定めた使徒だった
壱拾七の使徒たちは一つの個体として生きることを定め生命の実を得て永遠に独りで生きる道を選んだ
人という使徒は知恵の実を選び、群体という形態を定め、各個体の生命の短さの変わりに子孫を生み出し全体としての永遠を選んだの
そして個々の人々は全にして個、個にして全という使徒だった」
「それじゃあ、この姿って…?
人類補完計画って、まさか…」
「そう、群体である壱拾八番目の使徒を個体へと変革するためのもの
そして、この赤き海は個体へと昇華した人という使徒のもう一つの姿
群体である限界を感じたものたちが自らの手で自らの姿をかえた、その儀式が人類補完計画だった
闘争心、猜疑心、恐怖心、貪欲、孤独、ありとあらゆる負の感情を消し去り、個体の使徒へと個々の人々を変えるという儀式
その帰結、人の各個がもつ複雑な感情をすべて取りさり、原始へと回帰させた赤き海
……これが、人」
「そんな、それじゃあ、僕たちはこのために、この計画のために、動いてきたっていうこと?」
「そう、すべては人類補完計画完遂のため
群体である人という使徒が個体の使徒へと変わるために」
少年の膝がくず折れる
三百六十度すべてを覆い尽す赤き海、それを見渡して少年は苦々しげに言葉をこぼした
「これが、これが僕たちが命をかけた、多くの人の命をかけた、人類補完計画の成れの果て
これが理想の命の寄り集まり、これが群体から個体へと変わった人の姿
こんなの、こんなの馬鹿げてる
これは、ただの!」
「…滅び」
「そうだよ、これは生命なんかじゃない
意識も知恵も活動力もすべてが失われた、こんなのは生命なんかじゃない」
「貴方はこの結末を望まない?」
「望まない、これは始まりでもなんでもない、僕はこんな世界は望まないよ」
「私も、こんな世界は認めない」
少女は毅然と世界を見つめた
「私には力が与えられている
人類補完計画という儀式に干渉する執行者としての権威を
私もこんな世界は認めない
私はこんな世界は望まない
赤き海、それは人がその個々の個体を守るために人と人を隔てたA・Tフィールドを消滅させた状態
A・Tフィールドがその中に蘇れば、それぞれ個々の自我が人型を作り出してくれる
私は、私の権威のもとに境界を定める力をもっているの」
「なら…」
「貴方に尋ねる
貴方が人という使徒の最後の意志
人が群体に戻るということはまた拒絶という恐怖が蘇るということ
貴方はそれでもいいの?」
「うん
いいんだ
人は傷つけあいながら、それでも歩いていけるから
人は傷つけあいながらも、互いを支えていけるから
そして、僕もそれがわかったから」
少年は微笑む
少女はその微笑を見て力を解き放った
そのときの光景は瞼に焼き付いていている
暗闇の中、目を閉じて思い返せばはっきりと
彼女の身体は光と闇、その二つが混沌となったものに包まれながら消えていった
いや、消えていったというよりも彼女の身体自体が権威そのもので、彼女の力がこの星に広がるために開放されたような感じだった
自分はただただその場に座り込んだまま見つめていた
目の前の崇高で神聖な儀式を
彼女の存在の希薄を感じて手を伸ばしたときにはもう遅かった
彼女は何も言わず、ただ最後に振り返って見せてくれた
彼女の微笑を
あの月の下で見せてくれたような綺麗な微笑だった
その彼女の微笑が、彼女の姿を見た最後だった
でも、その微笑が自分の希望だ
ただ一瞬だけ見せてくれた彼女の微笑が自分を立たせる微かな、そして大切な希望だ
…………
希望……
でも、それは自分自身が理想とした希望だ
身勝手に重ね合わせたもの
そんなことあるわけがないのに、そんなことがわかるわけがないのに
つながるわけがないのに…
彼女の微笑は、あのときの微笑と重なるからかもしれない
いや…たぶんそうだろう
あのときの記憶が、あのときの微笑と重なり合っているのだ
彼女の最後の姿と、二子山の上での出来事とが
そして、そこでの絆が
でも、そのときの記憶がつながるはずはない
僕がどれだけ希望しようと、身勝手に理想しようと
彼女は記憶を持っていないのだから
彼女が、二人目と呼んだ彼女が、自らを焼き尽くす炎の引き金を引いた瞬間に
そのときに彼女の一つの身体とともに葬られた
ただの偶然なんだ
彼女が最後のときに「さよなら」という言葉を使わなかったこと
普通なら何の疑問もない
でも、考えずにはいられなかった
彼女が最後にあの微笑を向けたことと、「さよなら」を言わなかったことに
この二つの重なりが、二子山の上での記憶と重なったのだ
「さよなら、なんて悲しいこと言うなよ」
もし、この言葉を覚えていてくれているとしたら
いや、その魂に刻んでくれているとしたら
そう思ってしまうのだ
微笑んだように見えたのさえ、今となっては希望的観測だったかもしれない
でも、信じたい
いや、信じているからこそ、ここに立っているのだ
信じているからこそ、苦しみながら向かい合っているのだ
信じているから、彼女の微笑を、最後に残された微かな希望を
壁に手をつく
ひんやりと冷たく、自分の体温を吸い取られていくような感じさえした
人を拒絶するような、いや、碇シンジの心を拒絶するような扉
ここから先は人の入ってはいけない聖域だというかのように
「だけど……!」
向き合うんだ
両手に力を込める
巨大で重厚な扉がゆっくりと開いていく
死んだ街、死んだ施設、その中で一つだけ機能が生きている場所
今もどこかで自己発電機がこの場所に電力を送っている
第壱拾七使徒によって解除された最後の鍵はその時に解かれたままで、人のか細い腕でも開けられる
シンジは最初に力をいれ扉が動き出すのを見ると、腕の力を抜いた
後は扉がそれ自体の重さと動きだけで開いていく
空気が細かく重く振動し、重く鈍い音を立てる
それが身体の内部まで伝わってきた
それに促されるように歩を進め、最後の領域へと入っていく
この旅の最終目的地、彼女の始まりの場所へ
扉を越える頃になると扉自体にかかった力が失われ、またゆっくりと閉じていく
やはり唸るような鈍い音を立てながら
その間、音とともに空気をビリビリと伝わる振動が絶え間なく続いている
そして、扉が後ろ手に閉じた
音も振動も消え、静寂が周囲を覆い尽くした
扉の先は、言葉には表せないような雰囲気を纏っていた
滅びた南極海のような、いや、やはり天国の扉を越えた世界
現実とは一線を画したような、まるで別の世界のような雰囲気だった
そしてその奥には巨大な十字架
もはや誰も杭につけられることのない磔刑台
今は主なく、この世界の象徴として変わらぬ姿で残る
ありとあらゆるものが年月の経過に朽ちてゆく中で、まるで時の流れがあの時のまま止まっているかのような存在だ
今、この十字架の主は時の流れなのかもしれない
そして、そこに杭で繋がれているのは………
「 ただいま、綾波 」
時の止まった世界に時の流れた声が響いた
小さく放った言葉も小さな振動を生じさせ、木霊を生む
それでも、徐々に徐々に消えてゆく
静寂が戻ったこの空間には、いままで見てきたのと同じ世界が広がる
期待していたわけではない
でも、何の変化もない、何の反応もないこの世界にシンジは軽く肩を落とした
これだけは……
これだけは……変わらないのか………
十字架の前へと歩を進め、それを見上げる
純白で巨大な十字架には神々の一人を封じていた大釘が左右に一つずつ打ち込まれたまま、あの時のままだった
純白の十字架は朽ちも崩れることもなく、繋ぎ止めの大釘も錆びることのないまま
ここでは自分の存在だけが時の流れをもっている
そしてここは自分が立ち、向き合うときにだけ時の流れを知る
そう、自分は時間の止まった世界に時の流れを知らせる者
純白の十字架を前に靴を脱ぎ、地面に腰を下ろした
そして、十字架を、いや、その空にはりつけられている者を見つめる
シンジの唇が開いた
この場所に時の流れを教えなきゃいけない
それが待ち人としての僕に残された唯一の出来ることだ
時の流れを止めてしまったこの場所に、この時の流れが止まった場所につながれる彼女のために
「あの日から十年経ったよ
時は長いようで過ぎてしまえば短いものだね」
それから、この空間に、この一年の、いや、この一年を含めた十年という月日の流れを語っていく
自分が唯一だから
自分がしたいから
自分しか立ち入れないから
自分がここに立ちたいから
自分しか語れないから
自分が語りたいから
彼女に
少しずつ少しずつ
身近なことから世間話まで
外の世界がどんな風に回復し、どんな風に進んでいるのか
あの戦争に関わった者たちがどうなったのかを
また氷ついてしまうことは理解している
それでも、ゆっくりと氷を解かすように話していく
彼女が光に包まれながら消えた後、僕は手を伸ばしたまま立ち続けていた
目の前で起こった出来事が、彼女の権威の行使が何を意味するのかしらないまま
彼女が居なくなり、何もわからなくなった時に、いままで何の変化もない、不変の安定を得たはずの赤き海がざわめき始めた
あの時、僕は何処でこの光景を見ていたのか、それは今でも判らないが、それは自分の視界いっぱいにひろがっていった
赤き海から幾つもの水の塊がわかれ出ていく
群体をなした個々の人を形創るにふさわしい大きさをもつその原始の水はそれぞれ地に分散していった
そして水塊が分かたれるごとに赤き海は小さくなり、その血のような色は薄くなっていった
まるで補完計画の逆を辿るように
地に個々の水が行き渡り、赤き海が本来の海と同じぐらいの量になったとき、海のざわめきと水が分かたれる現象が止まった
再び静寂が訪れたときには、地表は数十億もの水の塊で覆われていた
そして世界を再び満たした静寂は補完計画完遂後のもう何もおこらない絶望のようではなく、
全てが整い、嵐を、いや“再構築”を待つ静けさのようだった
そして僕が終始見守るなか、世界の中心で光が溢れた
その眩しいほどの光に照らされて、地の水塊の中に光が取り込まれていく
そしてそれぞれが光を放ち、光の十字架が世界を満たしたように、世界が光で満ち溢れた
僕と彼女しかしらない、フォースインパクト
世界が光に満ち溢れた
一通り、この一年の経過を話し終えると、一旦口を閉じる
話ながらもシンジの頭の中にはサードインパクト、そしてそれに続くフォースインパクトについての出来事が渦巻いていた
言葉が途切れ、静けさが再び覆ってからも、彼の心の中をその光景が忙しく巡り、そして幾許かの後、光が満ちあふれる光景にそれが終わる
それから一呼吸の後に唇が動いた
「あの光の後で世界は元の姿に戻っていた
第三新東京市の傷跡は残ったままだったけど、世界の傷跡はひどいものじゃなかった
君のお陰で、いや、君が人の犯した愚行の代償を負ってくれたから、今の世界はまわってる
そして、君は自分の力以上のこともした
再構築のできるはずない者たちまで手を伸ばした
初号機に噛み砕かれた父さんと、コアに溶け合った母さんは今仲良く忙しく働きまわってるよ
今までの自分たちの罪を償うように
ミサトさんの二人目の子供さんも、もうあと二年もすれば小学生になる
加持さんも「たいへんだ」、なんていいながら子育てを楽しんでるよ
トウジと洞木さんの結婚はもう話したよね
僕が引き裂いたトウジも、今では良き夫であり父親になってる
愡流キョウコさんのサルベージでアスカのトラウマもだいぶ回復していってる
それでもアスカは弱い女性だ
でも、アスカには彼女を支えて横を歩く“人”がいる
僕の親友にして、かつて僕がこの手で握り潰し殺した人物、渚カヲルが
君は補完計画で還元された人の再構築だけじゃなくて、身体を失った者、魂を失った者、そして使徒として葬られた存在を、人として再構築した
……………………
……わかってるんだ
それが君の権威の範囲を越えることだってことは
本当なら補完計画で還元された人々のみを再構築する権威だったんだろ
それなのに君は神の領域でなければ手を加えられないところまで手を伸ばした
……………………
そして………わかってるんだ
君が…それに対する罪と罰を背負っていることを」
シンジのこぶしが震える
唇が、言葉が震えないようにと努めても、身体のどこかを震えが襲う
あの場にとどまった者として、あの場を見届けた者として、その重さがわかるのだ
最初の頃はわからなかった
何故、身体を失った者が再構築されたのか
魂を失った者が再構築されたのか
使徒として葬られた者が、人として再構築されたのか
直後は疑問に勝って再開の喜びが大きかった
それでも、疑問を感じそれについて考えるようになったのは、彼女がいないことがわかったときだった
混乱が大まかに沈静化され、世界情勢が再建された後、サードインパクトによる被害の調査が世界規模で成された
結果は、第三新東京市の壊滅と、世界で唯一の行方不明者を残すというものだった
この世界からただ一人だけ彼女が消えたという事実が、シンジに疑問を持たせ、考えさせ、悩ませ、行動させた
ただ最初は彼女が戻ってくることだけを考えて
でも事実を思い返したとき、シンジの中には疑問が次々と浮かんでいった
そしてどの疑問も突き詰めて考えていけば、ぼやけながらもその答えが見えてくる
だが、それはあの出来事を経験した彼だからわかるものであって、わかったどの真実も彼の心を抉るものだった
「何故、君だけが戻ってこないのか
本当なら再構築できない人たちまでがこの世界に再び立つことになった
それは僕を含めてだけど
でも、なぜ君だけなのか
最初はわからなかった
けど、自分がここに立っているという事実、本当なら戻って来れないはずの人たちが立っている事実、あの赤き海での出来事
そして……君が戻ってこない事実が重なったときに、だいたい想像がついた
拒絶したくてもできない
重たくて、苦い真実
補完計画で還元された人たちだけの再構築なら君も還ってこられたはずだ
それは君に与えられた権威であり、力だったんだから
君がそう教えてくれたんだ
君は、地に遣わされた最後の使徒としての権威を使って再構築するはずだったんだ
でも、君は、君の権威の範疇にない者たちにも、そうした
身体を失った、母さんやキョウコさん
魂を失った、父さんやトウジや加持さん
そして、使徒として葬られたカヲル君を
君はそのために君自身を天秤にかけたんだ
権威の範疇を越えるものに手を伸ばす罪に対する罰として
それに対応する君の存在という対価を
僕にはなにも言えない
君がとった行動に
何故、自分を犠牲にして、みんなを再構築したんだ?なんて
みんな、君の行動で幸せに暮らしているんだから
みんな、君の行動で時が流れているんだから
でも…
僕は…
僕の周りの刻は…
あの赤い海の上での出来事から…
止まってるんだよ………
これでもさ…
普段の生活の中では、普通に暮らしてるんだ…
この世界からもとの世界に戻って、またあの忙しく時が流れる世界に身をおいたら…
でも、過ぎていくのは周りの時であって、自分の身体の時であって………
僕の心は……
君が消えたあの時から…止まってるんだ
君は…
君は……
僕の心の時を止めるくらい、僕の中で大きくなっていたんだ
なんで気づかなかったのかなぁ
君のことが好きだってことに」
震えはいつの間にか止まっていた
その代わりにシンジの目からは涙が零れ始めた
この十年間、この場所では決して流さなかった涙が
彼女の前では流さないと決めた涙が自然に流れ始めた
あわてて涙を拭うが、それでも止まらなかった
止めようとして、止められるようなものではないのは自ずとわかっていた
これは、自分が心の中に仕舞い込んできた想いの発露だ
時の流れは遅いようで早く過ぎ去る
そして、時の流れは速く過ぎ去るが、その年月は長いものなのだ
シンジが自ら覆った心を壁を、彼女には見せまいとした決意を氷解させるには十二分すぎるものだった
いままでは自分がどんな想いを抱いてきたか、この場所で語ることはなかった
何故か、と聞かれたら、うまくは説明できない
ただ、彼女に心配をかけたくない、そんな思いがあったような気もする
だから涙も一緒だったのだ
何度扉の前で泣いたことかしれない
でも、いまになってそれがこの場所で弾けた
「寂しいんだ
君がいなくて
どうしようもないくらい
君は僕にとって一番大切な絆なんだ
あの時のこと、おぼえてる?
ヤシマ作戦で、二子山の上での出来事
エヴァを背にして、暗くなった街並みを眺めながら、話したよね
何故エヴァに乗るのか?って
君は、絆だからって、それを失ったら自分は死んだも同じだって、答えてくれた
いまの僕も同じなんだ!
君が、僕の一番大切な絆が失われて、僕の心は死んだも同然だった
あの赤い海の上で、君が微笑んでくれてなかったら、僕の心は壊れていた
さよならなんて、そんなかなしいこというなよ、って僕が君に言った言葉と、あの月の下での微笑み
それが赤き海の上での君と重なったんだ
君はさよならっていわなかった
その代わりに、君は僕に微笑みをくれた
だから、僕は待ち人としてここに立っていられたんだ
でも
でも、痛いんだ、心が
時が刻々と進むごとに、ナイフで刳られるみたいな痛みが走るんだ
それに時が刻々と過ぎる度に、君を忘れていってしまうんじゃないかって、ものすごい恐怖に襲われる
だけど、一番恐いのは、自分の中で諦めている自分を感じることなんだ
言葉に出したらいけないって思う言葉が、頭の中をよぎっていく
それには死にたいってすら思うよ
早く忘れて、新しい道に目を向けて楽になりたいって言う自分に嫌悪することも一度や二度じゃない
これ以上、針の敷かれた道を歩くのに耐えられるかどうか、正直わからなくなる
…でも……君を諦めて忘れたら僕は生きていけないだろうな
君に、君に会いたいよ
この十年っていう年月は、そんなに軽いものなの?
これだけの年月、身体を奪われ心を拘束されて、それでも足りないの?
君はあれだけ苦しんだのに、あれだけ傷つけられたのに、まだ、許されないの?
何故、君だけが?
何故、君だけが、苦しまなきゃならないんだ
その苦しみが、人類再構築の対価なら、僕にもそれを分けてよ
僕も、少しだけだけど
君に比べたら、ほんの一握りの苦しみだけど
この十年間の思い、それを君の対価の代償に含められないかな
もし君が、君の行ったことに対する対価につながれて戻ってこれないでいるなら、僕にその罪の半分を科してほしい
それで君が還ってこれるなら、僕はなんだってする
何年でも待ち人として、ここで君を待ってる」
風が吹いた
おかしいものだ、風を形成できるほどの空気の移動がないこの場所で
頬にそっと撫でるような風の感触が通り過ぎる
まるで、彼女の声が囁くように、『私のことはもういいから』といっているような感じがして、頬に残った感触を拭う
こんな所でまで!!
自分の心を叱る
自分の頭の中を流れた言葉に、しかも彼女の声に乗せて感じたことに、自分の思考を呪う
自分の心が作り出した声
自分のどこかで諦めている自分がそう囁くのだ
人は弱い生き物だと感じる
身体にどっと疲れが纏いつき、文字通り立っているのも、この場所にとどまっているのにも、辛さが増してきた
もう………無理、か……
この場所に身を置いているのには、時間の制約がある
いつまでも居たい、と思っても半日もそこにいれば身体的にも精神的にも限界がくるのだ
後者のほうがダメージは大きいのだが
それを感じたとき、この地から身を帰すことにしている
力の入らない足を腕で支えて無理やり立たせる
そして、純白の十字架を仰ぎ見た
最後に一つだけ彼女に向かって言葉を刻んだ
「綾波…
僕は、ずっと待ってる
ずっと、ずっと、待ち人として
君の成したことへの対価が少しでも消えるように、僕も君を想いながら一緒に耐えるから
この時の流れを
君が少しでも早く還ってこられるように
君の微笑を信じながら
君が還ってくるのを、ずっと、ずっと、待ってるから
…待ってるから……」
今年も、十年という月日が過ぎたこの年も、彼女は還ってこなかった
世界の人々は、もう彼女のことは忘れているだろう
それか、記憶、思い出として、仕舞ってしまっただろう
彼女が再構築した世界なのだが
でも、それも仕方がないことだ
彼らも時の流れを一生懸命進んでいるんだから
彼女のために待っているのは自分だけでいい
彼女の“ため”と自分が言える資格があるかどうかはわからないけど
外の世界に出ると、そこはやはり時が流れていた
あの世界はあの日のまま
でも、ジオフロントに出るとそこは十年という月日が過ぎている証が数多くある
少しの悲しみも感じる
世界に一人だけ、自分の心をあの日のまま留め置いているという現実に
世界が、自分の周りが時すぎていくことに
でも、かまわないんだ
彼女の、そして自分のためなんだから
地上部に上がると、そこでは蝉たちが鳴き声を響かせ、太陽が月とその位置を交代しようとする時間になっていた
ぬくい気温に、風はなく、荒廃した第三新東京市を赤く染める夕日がとても奇麗だった
バスターミナルにでて、無人駅に向かう
静かな世界
十年前、初めてここに足を下ろしたときには、もう戦火の中だった
戦闘爆撃機や巡航ミサイルの空気を切る凄まじい音
使徒の歩行から来る振動音
それから爆発するミサイルや戦闘機の爆音
うってかわって、今のなんと静かなことか
そんな中、バスターミナルから道の先の道路に目がいった
そういえば………ここ
あの時、見えたのは一瞬
えっ?っと思って振り返ったときにはもういなかった
紅い奇麗な眸と、蒼銀の髪色が印象的だった
幻影だったのだろう
でも、確かにあれは彼女の姿だった
「君をはじめてみたのは、ここだったんだね
今思い出したよ」
瞼を閉じる
昔、この場所で彼女の幻影を見たときのことを思い出すために
彼女がどういう姿でいたのかを
一瞬見えた彼女は、いつもの壱中の制服姿で、蒼銀の髪を纏い、綺麗な紅い双眸でこちらを見つめていた
彼女は、綺麗な微笑を浮かべていた
不思議だった、幻影とはいえあの頃の彼女が微笑んでいたことに
彼女の表情を思い出したときに少しの驚きと、少しのうれしさと、そして少しの寂しさと
それらを感じながらシンジは身を翻し、駅のターミナルに向かった
向こうからは帰りの列車の近づく音が徐々に聞こえてくる
また、普段の、時の流れる生活へ…
風が吹いた
一歩踏み出したところで
大きな風が
シンジの背中を叩くように通り過ぎていった
皮肉なものだ
忘れまい忘れまいと心に刻んだはずなのに、時の流れは記憶を薄れさせていた
いや、ただ過ぎていった時のせいかもしれない
時は流れていたのだ
あの日に拘束されながらも、時は確実に進んでいた
シンジの瞳に映るものがその証だ
なにか幸せなことがあったとき、人は「このまま時が止まってしまえばいいのに」とつぶやく
その言葉がこぼれるのもよくわかる気がする
でも、今、ここに、時の流れる世界に立つ自分はこのまま時が流れるのを願った
あれほど自分の心をえぐり、苦しめてきた時の流れなのに
身勝手だな
そう思う
自分はやはり自分の為に考えるんだ
でも、いまはそれでいい
時の流れに置いていかれた、想いと記憶の幻影だったものが、時の流れに再び乗ったのだから
ここで時の流れが止まってしまったなら、このまま進めないから
ここには希望があるのだから
心地好い風に、想いを乗せる
待ち人がもっとも望む言葉を聞くために
時の流れを進めるために
そして……迎えるために
「……………………………
……………………………
………おかえり…」
まるで時が止まったかのような静寂が世界を満たした
でも、不安はない
時は流れる
今度は独りではなく
待ち望んだ言葉を乗せて、愛しい風が吹いた
「 …ただいま 」