電車に揺られる早朝。

 地下鉄の中にほとんど人はいない。

 トンネルの中を走る空気の音が、周りの音を包みけしてしまう。

 耳にはめたイヤホンから流れる音楽さえも。

 なのに、そんな雑音の中、耳を澄ますと、どこからか波の音が聞こえてくる。

 地下鉄の中、雑音の中、何故か波の音が私の耳に、いや、心の耳に届き、私を呼ぶ。



 それは…











海の鎖
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 赤い、どこまでも血のように赤い静穏な海原。

 海面に立つ自らの爪先が作り出す波紋が、少しの変化を加えて広がっていき、幾許もしないうちに静穏に飲み込まれる。

 動という存在を、まるで赤き海が許さないかのように。

 赤い、何処までも血のように赤い海をうつしだす空も赤い。

 それは海面と同じ、何処までも静穏だ。

 風がない、雲がない、空気の流れも、その肌に感じることはない。

 でも、それは淀むことなく、どこか恐ろしいくらいに澄みきっている。

 その静穏な空に、私の呼吸が変化を広げる。

 でも、それも幾許もしないうちに静穏の中に食い尽くされてしまった。

 息するものという存在を、まるでこの赤い空までが拒絶するかのように。

 ここには何もない、生という存在は在ることを許されない場所であり、そこにあるのは私を縛る海の鎖。

 ガタンという振動とともに意識が戻る。

 瞼を開き、前傾していた身体を元に戻すと、電車の窓から外の景色が見えた。

 刹那、それが血のような赤い海と赤い空に見えて、目を見開いた。

 でも次の瞬間には、日の沈み終わった暗い夜空が広がり、その中に街の光がちらほらと瞬いている景色だった。

 車内に溢れる光が眩しすぎて、外の景色がいつもより暗いように見えた。


 「………今までのは、夢?」


 声にならない声が唇から零れる。

 仕事帰りの電車の中、外の暗闇を少し希釈してやれば、血のようなあの赤い世界に変わるのではないかという思いが背骨を舐めて、心が震えた。






 街灯の下を歩く足がいつもより重たい。

 坂道であるわけでもない、平坦な道だ。

 でも、この感覚は疲れから来るようなものではない気がした。

 足に纏わり付く感触が、まるで水を踏むような感じがして少し不安になる。

 いつも通る帰り道、家とを繋ぐ道。

 この時間帯にはもう道を歩く人の姿はなく、通り過ぎる家々の門戸もしっかりと閉じられている。

 街灯の電気、家々の玄関の電気が夜道を照らす。

 それでも、その光は光源の周囲を明るく照らすだけで、幾許もいかないうちに夜闇に飲み込まれていってしまう。

 あの赤い海での、私のつま先から現われる波紋が消え行くのと同じように。

 あの赤い空での、私の呼吸による空気の流れが消えて行くのと同じように。

 急に、周囲が限りない静穏に変わったように思えて怖くなった。


 ジャラ……


 その瞬間、重たい、重たい鎖の音が嫌な音を立てて背中を舐めた。

 頭を槌で打たれたかのような衝撃が頭を揺らす。

 慌てて振り返ると、通り過ぎようとした家の玄関前で、鎖につながれた飼い犬が寝返りをうったところだった。


 「なんだ…」


 そう言葉を漏らして、何を焦っているんだろうと自分を笑おうと務めたが、内心にそれだけの余裕がないことを突きつけられて、足早に帰り道を急いだ。

 終始、地面につく感触が水の上を走るかのようで、とてつもなく嫌だった。






 微かな変化を残して飲み込まれてしまう街灯の下、帰り道を急ぐ蒼い影。

 でも、自分の家がその目に見えるところまで着た刹那、その足は陰りだした。

 家路の終着に安心したわけでも、足早に家路を急いだ疲れによるわけでもない。

 ただ気が付いただけ。あの場所も、自分の家も同じだということに。

 今は別の住宅地に変わってしまった昔の自分の家に比べれば、生活感のある家になっている。

 あの冷たい無機質なような雰囲気はもはやない。

 でも、それでも拭うことはできない。

 瞼を閉じればあの情景が、耳を澄ませば漣の音が、心を閉じれば、なにも無い、あの雰囲気に包まれてしまう。

 いま帰りを急ぐ、この纏わりつく水と、繋がる重みから逃れるために向かう自分の家さえも、
 ドアノブを回せばあの世界に引き込まれる、この薄暗がりの道とも、電車の中でみた夢とも同じになる。

 でも、足を止める訳にもいかない。

 かといってもはや急ぐ気にもなれない。

 同じなのだから。

 ゆっくりと、でも確実に進む家路にあって、街灯の光が闇に飲み込まれる下で、違和感の先を見つめる。

 あの赤い海、全ての動の存在を許さないあの赤い海の上にあって、あの赤い空、全ての息を許さないあの赤い空の下にあって、
 何故自分は繋がれているのか、あの赤い海の鎖に。

 動を許さない海に、息を許さない空に包まれて、動であり息である自分がいるという矛盾。


 引き込んでいるんだ、海の鎖が。


 ふと気が付く。

 いや、昔の自分は受け入れ、そして求めていた。

 無という赤い海、赤い空という存在を。

 変わったのは自分だった。

 その場に矛盾をあの場に持ち込んだのは自分自身だったのだ。

 そして海の鎖は私を求めている。

 無で無くなった自分を、無へと向かわせるために。

 自分では決して断ち切ることの出来ない、強い強い海の鎖が。

 私の幾度の生まれた瞬間から、幾度の死の瞬間まで、そして今も。






 いつの間にか、玄関の前まで来ていた。

 重たい鉄の扉が目の前にある。

 ヘブンズドアと同じ、その前にも、その先にも、自分の生まれ、死に、そして向かう無が、赤い海がある。

 鍵を差し込み、回す。

 カタンという開錠した音も、鉄の扉に幾許かの振動を伝えて消えていく。


 あの赤い海は、広がり行く動を飲み込んでいった。

 あの赤い空は、流れ行く息を喰い尽くしていった。

 生の存在を許さず、拒絶する。

 夜の闇は、街灯の明かりを家々の明かりを、幾許もいかないうちに包み消してしまった。

 鉄の扉は、開錠に伝わる音を吸い込み無くしてしまった。

 私の足には水が纏わりつき、瞼を閉じれば赤が過ぎり、世界は静穏に沈み、耳を澄ませば波の音が、そして、鎖が心を引く。

 生の存在を許さず、拒絶し、そして求める。

 無を。


 ドアノブを回した。

 この先に広がる静穏の中に、身を堕とすことに微かな絶望を満たしながら。



 ガコンッ



 扉が拒絶した。


 え?

 鍵、開けたはずなのに――。


 微かな絶望を満たした心のままでいることを拒絶するかのように、扉は主を受け付けない。

 耳を澄まして聞こえる赤い波の音が消えていった。

 代わりに、扉の奥から聞こえる足音が大きくなっていった。

 そして、慌しい開錠の音と共に鉄の扉が、ヘブンズドアが開いた。








 その先にあったのは、赤い海でも赤い空でも、闇でも静穏でも無でもなかった。

 光と、あたたかさと、ぬくもりと、そして絆。


 「お帰り、綾波」


 漆黒の髪と瞳と、優しい笑みが、全てを消し飛ばした。

 堕としたのは、微かな絶望と、赤い世界。

 静穏で満ちる赤い海に、全ての動を許さない赤い海に、涙の雫が零れ、永遠の動を生んだ。

 水を纏い、重くなっていたはずの足が軽やかに跳ね、飛び込んだ。

 幻。

 ではない、確かな存在が、抱きしめる腕に身体に、頬に感じる。

 何も感じない静穏が消える。

 ぬくもりと絆に、その座を渡して。


 「どう、して…」


 言葉が枯れる。

 いないはずの、ここにくることなど出来ないはずの、幻が確かな存在として自分を抱きしめてくれている。


 「綾波に会いたかったんだ。

  だから、ね。」


 求めてくれる。

 自分の求めるもの。

 自分を変えたもの。

 自分の向かう場所を変えたもの。

 無だった自分を変え、無に向かっていた自分を変えた。

 そして今も。



 自分の背中で、金属の重なりが堕ちてゆく音が聞こえた。

 自分では断ち切ることの叶わぬ、強固な赤い海の鎖が。

 赤い世界が消える、鎖と共に。


 自分の周りに現実が戻った。

 そして、求めるもの、望むものも。

 生きる場所は、あの赤い世界ではない、この場所だということを心に感じる。

 ぬくもりと優しさと、絆をこの心に感じながら。

 

 あの赤い世界の海の鎖は、再び自分を求めに戻ってくるだろう。

 でも、私は気づく。

 自分では絶対に断ち切ることの出来ない強固な海の鎖でも、彼ならば断ち切ることが出来るということに。

 人は独りでは生きていくことが出来ない。

 でも、私は、心にあの赤い世界の海の鎖が繋がる私は、碇くんがいないと生きていくことが出来ない。

 この鎖を断ち切ってくれるのは彼しかいないから。

 私からあの赤い世界を、究極の静穏を、闇を、そして無を消し去ってくれるのは彼だけだから。

 そのことに気がついた。

 海の鎖は、再び私を求めるだろう。

 あの赤い海へと、赤い空へと、私を無に帰そうとして。

 だから、私は碇くんの傍にいる。

 彼なら、私を繋ぐ海の鎖を断ち切ってくれるから。

 でも、それだけじゃない。

 私が望む、あの世界、あの赤い世界を歩みたくない、と。

 私が望むのは、碇くんの隣を生きるということ。

 だから、さようなら。

 海の鎖。









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