彼が僕にしがみついた。


「なにするんだ!? やめろ!!」


そう叫びながら。

それでも、僕は力を解かない。

儚い力が空気を模索する。

指先に感じる小さな力。

でも抗うにあまりに非力な力。

鳴き声を上げることさえ僕は許さない。

やがて、模索する糸が切れ、僕が親指に力を入れると、あっけないほどに鈍い感触がつたわり、白い小さな命の火が刹那に消えた。


僕の未来を暗示するようにして。










黒い猫    aba-m.a-kkv









僕も、あの白い子猫と同じか。


「遺言だよ」


赤い光の空間、偽者の玉座の前、巨大な掌の中にあってそう考えていた。


「君達はまだ死すべき存在ではない」


僕がこの手で死を与えたあの白い子猫は、死すべき命だったのだろうか?

あのまま生きていても苦しむだけ。

ならば死も安らぎとなったかもしれない。


「君達には、未来が必要だ」


いや、あの時、慈悲などというものを、僕は考えてはいなかった。

でも、やっぱりあの白い子猫は、僕とは違うな。

あの子は死に臨むべき定めに縛られた命じゃなかった。


「ありがとう、君にあえて、うれしかったよ」


身体が、骨が軋む。

臓が引き絞られ、血が行き場を失っていく。

あの白い子猫に僕がしたように、親友と呼んでくれた人の巨大な腕が僕を握り潰す。

最後に頭によぎったのは自分の死によるリリンへの祝福。

そして、最後に唇から紡いだ言葉は…


「ごめんね」










「――カヲル?」


愛しい人の声に意識が戻る。

いつの間にか記憶の海を漂っていたらしい。

暖かい部屋の中、手には氷が解け出して色の薄まったグラスを持っている。

隣には亜麻色の長い髪の人、正面のテーブルを挟んだ先には漆黒の髪と蒼銀の髪の二人が心配そうにしていた。

黒い瞳、紅い眸、そして一番怪訝そうに、そしてその奥に心配をたたえて、青い眸が銀髪の青年の紅い瞳を覗き込む。


「いや……なんでもない、いささか飲みすぎたみたいだよ」


微かに視線をそらして、カヲルは三人が再び声をかける前に立ち上がる。

力がうまく入らずふらふらとなったのはアルコールのせいだけではないようだった。

血液の中を、アルコール以外のものが巡っている。

それが、自分の何かを蝕んでいるような、自分のあるべきものを現していくような、そんな流れを心臓の鼓動のたびに行き巡らせていた。 


「大丈夫、渚君?」

「ちょっと休んだほうがいいんじゃない? カヲル君」


親友たちの声が、血の中を流れるものに掠れさせられているのを感じながら、カヲルは半分肯定しながら小さくそれを遮った。


「ああ、そうだね。

 ちょっと酔い覚ましに夜風に当たってくるよ。

 あっ、みんなはそのまま続けててくれないかい、すぐに戻るから」


そう少し早口にいって玄関に向かった。

やはり、力の入らない足を早足にして。

なるべく普通に酔ったふりを通すために、昔のようなアルカイックスマイルを浮かべながら。

扉を開けると外はもう夜に抱かれていて、黒とも紺ともつかない暗幕に星々を散りばめていた。

穏やかに流れる空気が冷える。

首や手などに巻きつく冷気が身体から熱を奪っていった。

血を巡っていたアルコールもすぐに飛び、それが血の中を巡る何かを明確に蒸留していくと、さっきの夢が鮮明になって頭を巡りはじめる。

玄関先ではそれを押さえ、とりあえず、近くにある人気のない夜の小さな公園へと足を伸ばした。

風が無く、人もいない、そして音も。

それがまるで演劇に用意された舞台のようだった。

あの大きな扉の先に用意されていた、新世紀のための舞台のように。

苦笑いを浮かべながら押さえ込んでいた夢を解いていく。

ふと目に入った近くのベンチに腰を下ろした。

もたれた背中から伝わるのは、冬の冷たさだけ。

手には骨の砕ける感触、そして身体には握り潰される感触が甦る。


「ひさしぶりだな、こんな夢をみるのは……」


忘れたわけではない。

忘れるわけがない。

全て自分の存在として背負うと決めたものだから。

いや、否定したとしても、忘れようとしても、自分の欠けた心に刻み付けられているものだ。

でも、何故夢をみたのだろうか。

ナイトメアではない。


なんなんだろう?


そう思ったときに、カヲルの背の草の中で音が揺れた。










自然に早足になり、焦りが心を染めていくのがわかる。

いつの間にか走り出している自分がいた。

呼吸が荒くなり、不安も増す。


「まったく! あのバカどこいっちゃったのよ……」


亜麻色の髪の人が、その髪を揺らしながら街灯に照らされた道路を走っていた。

コートを着込んでも、染み込んでくる冷たい空気に体温を奪われていくのがわかる。

彼女の手には、纏うことなくカヲルが置いていったもう一つのコートとマフラーが抱えられていた。

レイとシンジにことわりを入れて、カヲルを追いかけて出てきたのだ。


「あんな顔して、大丈夫なわけないじゃない!」


誰もいない道の真ん中で小さく叫ぶ。

アスカの頭の中に、過ぎ去り際のカヲルの表情が過ぎる。

何故、あの場で止めようとしなかったのか、すぐにも追いかけなかったのか、足を一瞬滞らせてしまった自分を呪った。

アスカにはわかる。

部屋を出て行ったときのあのアルカイックスマイル、あれは今のカヲルが自分に、そして親しい友人たちに見せる笑みじゃない。

あれは“昔”のカヲルが浮かべていた冷たいアルカイックスマイルだった。

あんな表情は、使徒戦後のこの数年間一度も見たことがない。

さっき、アスカが沈黙するカヲルに気がついてその名前を呼ぶまでの幾許かの時間、いったい何を見ていたのだろうか?

ただ、なんとなくわかるのは、カヲルがその先に見ていた光景が使徒戦争のときの記憶だろうという憶測は出来た。

あんなに冷たい、そして悲しい雰囲気はあの頃の記憶としか思えない。

しかし、“あのときの”カヲルが生きた数週間に何があったのか、アスカは記録の上だけでしか知らない。

その光景を青い眸に刻んだことはなく、ただ文字の羅列で知っているだけ。

それが、ものすごく悔しかった。


「カヲルは、何かを抱えてる。

 私がいまだに知らない何かを……」


なんで! なんもかんも抱え込んで苦しむのよ!!


心の中で、怒りと心配と不安とが溢れる。

カヲルといい、レイといい、どうして内面に全てを押し込んでしまうのか。

そう疑問が頭を巡り、その先に浮かんだ言葉にアスカは唇をかんだ。


「バカアスカ!!

 カヲルはカヲル、レイはレイよ!

 それ以外のなんでもない!

 何考えてるのよ、まったく……」


私はカヲルを好きになって、いまカヲルを愛してる。

だから、私はとことんカヲルを支えていってやる。

カヲルが私にしてくれるように、私もカヲルの中で重石になってるものを引きずり出して自分の首にかけてやる。

そして、海にでもなんにでも飛び込んでやる。

それが私に出来ることで、私がしたいことなんだから。


アスカは暗いアスファルトの道に、銀色の髪を探して走った。










背中の草むらが音を伝える。

カヲルが音の方向に振り返ろうとした瞬間、真っ黒な影がカヲルの方へと飛び出してきた。

カヲルの紅い視線がその黒影を追う中で、それは綺麗な放物線を描いてカヲルの傍ら、ベンチの上へと静かに降り立った。

それは、それほど大きくない身体で、闇を纏い、気配を薄くし、その中に二つの金色の瞳を持っていた。

そして、カヲルの紅い瞳と、闇を纏う金色の瞳とが合う。

それは一匹の小さな黒猫だった。

生まれてそれほどの時を過ごしていないようにみえる小さな黒猫。

それがじっとカヲルの瞳を見つめていた。

血を駆ける何かが、頭の中へと走る、そして幻影が重なった気がした。

カヲルの脳裏に、その小さな黒猫と、昔自分が殺した小さな白い猫の姿とが重なって、身体が動かなくなる。

小さな黒い猫は金色の瞳で、そんなカヲルを暫く見つめたあと、音もなく、しかし“きびっ”という擬音が聞こえそうな感じで立ち上がった。

そして、ゆっくり一歩一歩、動かないカヲルの方へと近づき、その身体に頭を摺り寄せる。

カヲルの身体が一瞬震えた。

だが、小さな黒い猫はお構いナシに、カヲルの膝の上へと登り、そこで丸くなる。

カヲルの手に力が入り、震える。

そして、そこから蘇り、広がっていった。

あの時の感触、忘れがたい、詰まる空気の流動、悲しいほどにか弱い抗い、
そして喉笛を潰し、か細い頚椎を圧し折った感触が、あの時の、自分の残酷な笑みが。


「恐ろしくないのかい、この僕が……?」


カヲルが苦々しい笑みを浮かべて小さな黒い猫に問う。

黒猫はカヲルの紅い瞳を、その純粋な金色の瞳で見つめた。

その色がカヲルの心を刺すように照らす。

痛む何かに口元を歪めながら、自嘲気味の笑みを乗せてカヲルは口を緩めた。

それは、遅くなった、あの時のカヲルの中の告白の言葉、もしくはあの時の自分が口にした疑問の答えとなる言葉でもあった。


「小さな黒猫くん。

 あの時、僕は、存在してよいものと、存在してはいけないものとに、全てを分けていた。

 人という存在を見極めるために、選択という自由意志を権威として与えられて。

 リリンが、人として存在する価値があるのかということを見極めるために。

 全てを存在してよいものと、存在してはいけないものとに分けていった。

 そして、僕は君の仲間を殺した。

 この両手で。

 親もなく、住む場もなく、食べ物も、生きる糧もない状況にある白い子猫に、僕は存在できないと判断をした。

 生きていても、苦しむだけ。

 死という選択も、安らぎになると。

 いま、思い返せば、本当にそう考えていたかはわからない。

 でも、僕に与えられていたのは存在してよいものと、いけないものに分ける権威だった。

 決して、出来ないからという理由で裁定を下すべきではなかった。

 それは軽率な行為で、ただ単に命を奪っただけの血塗られた行為。

 そして人という存在、リリンという存在と触れ合ううちに、
 “存在できない”とも“存在してはいけない”ということも篩い分けること自体が間違っているということに気づいた。

 ただ、あの時、タブリスという僕の存在を除いて。

 あの時の僕は、存在してはいけないものとして存在した。

 僕は周りの全ての息あるものに死をもたらす最後のシ者だったから。

 そして、僕の権威、存在していいものと、そうじゃないものとを分ける自由意志の権威は自分自身も含まれていた。

 だから、自らを滅びへと導き、親友の手の中にあって、僕が小さな白い猫を殺したと同じように、砕かれた。

 それはタブリスである僕が、存在してはいけないものという自由意志の権限にあって当然の結果だった。

 でも、僕は君とは違う、いや、君は僕とは違う。

 その死は権威の下の結果ではなかった。

 だから、やっぱり君と僕とは違ったんだ」


カヲルが、昔、自分が殺した白い子猫を今膝の上にいる小さな黒猫に重ねて話を終えても、闇の中の金色の瞳はカヲルから目を離さない。

確かに聞き、肌で感じ取った、そんな雰囲気を纏っても、小さな黒い猫は動かなかった。

そんな姿にカヲルはゆっくりと、小さな黒猫の首に手をかけた、あの白い子猫にしたのと同じように。

そして、昔と同じ、残酷なアルカイックスマイルを浮かべた。

でも、小さな黒猫は身じろぎ一つせずにそれを受け入れていた。

ただカヲルの紅い瞳を見つめ、その奥にあるカヲルの心を覗き込んできるかのように。

カヲルはその小さな黒い猫に再び問いかけた。

黒猫の首にかけた手が微かに震える。


「小さな黒猫くん、君は僕が怖くないのかい?

 君の仲間を冷酷に殺し、存在してはいけないものとして存在した最後の使徒であるこの僕が」


寒さが身を切るようだった。

カヲルは黒猫の首にかけていた手の力を緩める。

小さな黒猫が、自分の膝の上から逃れることが出来るように。

自分とは違う、生きるべき小さな命が、死を纏う恐ろしい自分から離れられるように。

そして、それを自分自身が期待して。

そんな、カヲルの翳りを感じて、小さな黒猫の二つの金色の瞳は暗闇の中で数回瞬きをした。

それから、カヲルの手に前足をかけて、自分の喉笛にかかるカヲルの親指を舐めはじめた。

自分の仲間を殺し、その首の骨を砕いて捨てた親指から、その血塗られを拭うかのように。

カヲルはその感触に目を見開いた。

何故逃げないのか? 何故怖れないのか? 自分は君とは違う存在なのに。

カヲルの中に浮かぶそんな思いを打ち消すかのように、小さな黒猫はカヲルを呼んでニャーと鳴いた。

子猫特有のかまってほしいというような鳴き声だった。

そして再びカヲルの手を舐める。

カヲルの中で、何かが吹っ切れたような気がした。

それがなんなのかはわからなかったが。

でも、カヲルの瞳はとても穏やかなものに変わっていった。

小さな黒い猫の首から手を解き、自分の胸のほうへと抱き上げる。

そして左の腕でその軽い身体を支えた。

黒猫は暫くの間、キョトンとしていたが、すぐにその腕の中で丸くなった。

力を抜く小さな黒い猫の身体に、腕に感じる重みが増した。

その頭に、カヲルは手をのせる。

掌の震えはいつの間にか無くなっていた。

そしてカヲルは、小さな黒猫の頭から背中へと撫でていく、優しいアルカイックスマイルを浮かべて。

腕から伝わる、撫でる手から伝わるぬくもりが、寒い冬の夜にあって、とても暖かかった。










暗闇が世界を覆い、星がその中で瞬き、寒さが流れる、そんな夜のという支配の中。

夜を抱え込んだ公園に、砂を踏みしめる音と、間隔の短い息の白く凍る音が響く。

膝に掌をつき、肩で息をするアスカの亜麻色の髪が揺れて視界に落ちる。

でも、アスカはしっかりと見つけていた。

青い眸の先に映る、探していた影をしっかりと。

でも、言葉が出なかった、自分が見つめる先にある光景に。

黒い大きな翼を広げる天使が小さな黒猫を撫でている、まるで昔の宗教絵画を見ているような、そんな雰囲気。

黒い翼、そう見えた。

そして、そこに全てがあるような気がした。

カヲルがその背中に未だに持っているもの、その象徴として。

そのことに気がついて、走ったことからくる疲れや熱が消えて、アスカの中に想いが満ちた。

膝から掌を離して、背を真っ直ぐに息を整える。

髪をかき上げて、青い眸を真っ直ぐにカヲルに向けた。


あれが、カヲルの重石なんだ。

あれが、あたしがカヲルから引き剥がさなきゃならないものなんだ。

たぶん、あれはカヲルが引きずっているものなんだろう、あの日あの時のことから。

そして、たぶん、“そういう”ことなんだろう。


アスカはゆっくりと歩き出す、一歩一歩とカヲルに近づいていった。










黒い毛並みが、白い指の進む方向に流れていく。

金色の瞳を隠して小さな黒い猫はカヲルの膝の上で丸くなっていた。

が、刹那、小さな黒い猫の耳がピンッと立ち、金色の瞳が現れた。

カヲルがそれに気づいて撫でる手を止めると同時に、小さな黒い猫はカヲルの肩の方へと駆け上がる。

そして、カヲルを前へと促すように、金色の瞳が見つめる先へと小さな鳴き声をあげた。

カヲルがその声に導かれて紅い視線を上げる。

そこには――。


「あ、アスカ……」


静寂に、カヲルの声が大きく響く。

カヲルの前には赤いダッフルコートを纏い、緑のコートと白地にパステルの縞模様がついたマフラーを抱えたアスカの姿が。

その姿が紅い瞳に映って、カヲルの中で何かが結びついた気がした。

肩に乗る小さな黒い猫を撫でて吹っ切れた、何かの思いとが。


「迎えに来てくれたんだ、ありがと」


カヲルはアルカイックスマイルを浮かべて立ち上がる、小さな黒い猫はカヲルの肩に掴まったままでいた。

視線を少し落としてアスカが手に持っているものを見て、自分の薄着の姿を見て、再び視線をアスカの方へと向ける。


「すまないね、持って来てくれたんだ。

 忘れていたよ、着てくるの、通りで寒いわけだ」


そう言いながら、カヲルはアスカの方へと足を向けた。

でも、そこで気がついた、アスカがずっと黙っていることに。

そして、アスカの青い眸が真摯に力を込めて自分を見ていることに。

その眸が、自分の奥底を見つめていることに。


「あ、アスカ?」

「……カヲル、あんたの背中にある黒い翼を、あたしにもがせて。

 カヲルが出る前に見せた笑顔は、私の見たことのない、昔の笑顔だった」


カヲルは目を見開く、そして、どういう意味かと質問の言葉を言おうとして止めた。

アスカの青い眸にその言葉の意味が理解できたから、アスカが自分の奥底を見つけてくれていることに気がついたから。

止めた質問の言葉の代わりに、ふう、と息をつき、そして気づいたことから紡ぎだされるものを乗せる。


「黒い、翼、か……

 そうかもしれない、壱拾七番目の使徒、自由を司る天使、タブリスの翼が僕にはまだあるのかもしれない。

 ………………

 聞いてくれるかい? アスカ」


アスカは口唇を噛み、小さく頷いた。

事実であることは知っている、それを知って受入れた上でカヲルを愛している。

そして、カヲルが確かに人であること、自由意志の上に鎖を断ち切ったことも知っている。

ゆえに、カヲルの言葉を遮ってしまいたい思いに動かされそうになる。

でも、それを止めた。

今は、聞かなければならない、聞いて、自分が知らなかったカヲルの空白を知って、黒い翼をもぎ取らなければならないのだから。

カヲルはそんなアスカの思いを感じて、一瞬瞼を閉じて、そしてアスカの青い眸を見つめて、口を開いた。


「僕が、使徒だった頃、一匹の白い猫にあった。

 まだ幼くて衰弱している、守る親もいなければ、満たす食べ物も宿れる家もない。

 明日まで命の火が燃え続けるかどうかもわからない。

 そんな小さな白い猫を、僕はこの両手で、その首の骨を砕いて殺した」


カヲルが両掌をかざして、それを見つめる。

アスカの目が微かに震えた。

淡々とした雰囲気をもって語るカヲルの瞳の奥、言葉を紡ぎだす口内の奥に、寂しさ悲しさ辛さの片鱗を感じて、アスカは掌を握り締める。


「あの時、僕は権威を与えられていた。

 “存在してよいもの”と“存在してはいけないもの”その二つの選択する権威と任を。

 自由とは自己決定権あるいは選択権を持つということ、自由を司る天使としてタブリスとして、全てを二つに選択する権威が与えられていた。

 でも、リリンと、いや人と触れ合っていくうちに、その選択そのものが間違っていることに気がつき始めたんだ。

 “存在してはいけないもの”なんて存在しない、そのことにね。

 僕は小さな白い猫を殺した時、二つの選択の中で、“存在してはいけない”ほうに篩い分けていた。

 でも、それは間違いだった。

 例え困難な路であろうとも、可能性はある。

 すぐ先に滅びが待ち構えていようとも、それを打ち砕く術を見つけることが出来るかもしれない。

 その選択権は誰でもない、道を進むその者にだけ存在している。

 自由とはそういうこと、他のものがそれを持つということはありえないことだ。

 そして、すぐ先に滅びがあろうと、それを打ち砕くことが出来るということはアスカ達が証明してくれた。

 “存在してはいけないもの”なんてない、とね。

 でも、その中で一つだけ例外があった……」

「……例外……? って……」


アスカが震える声で尋ねながら、すぐに口唇をクッと噛み締める。

その答えがアスカの中ですぐに理解に繋がったからだ。

でも、出来ることなら言わないで欲しい、そんな思いが巡る。

でも、受け止めなければならないと心を引き締めた。

カヲルのことだから、大切なカヲルのことだから。

尋ねたアスカの言葉の奥に、受けとめる、そう伝えるような雰囲気を感じ、カヲルはそれに対して小さく頷いた。


「そう、それが、タブリス、僕の存在だ。

 僕の存在は権威のもとにあり、存在と権威とは同じもの。

 僕が存在するということは、あの時、二つしか生み出さなかった。

 僕がリリンを“存在してはいけない”と判断すればリリンには即時的な滅びがあり、
 “存在してよい”と判断すれば僕の存在に対して滅びが定められていた。

 自由意志の選択は大別となる二つの選択だけ。

 でも、僕の自由意志の中で“存在してはいけない”という選択権はもう存在していなかった。

 それは僕の中で決まっていたこと、権威の下で定めた決定は存在と同義。

 それを否定し、人に“存在してはいけない”という選択を下すなら、自らの存在を否定するのも同じだった。

 どちらにしても、タブリスには滅びが定まっていたんだ。

 まるで、キリストを裏切ったユダ・イスカリオテのようにね。

 彼はキリストを裏切り、死に引き渡すという大罪を犯した。

 でも、もし彼がキリストを裏切らなかったとしたら、その後の預言は果たされない。

 小さな預言一つとして果たされないよりは、万物が消え去るほうが先、そう定められているからには、
 裏切らなかったユダは預言を果たさなかったという大罪に沈む。

 裏切っても、裏切らなくても、それは大罪だった。

 それはユダ・イスカリオテという人間の成したものではなく、
 ユダ・イスカリオテという人間に埋め込まれた“大罪の権威”だったのかもしれない。

 キリストが、「その者は生まれてこなかったほうが良かったでしょう」と言ったのは得てして正鵠を射た言葉だった。

 あの時の僕はそれと同じ。

 どちらを選択しても、滅びは同じだった。

 ならば「生と死は等価値」、僕は人が存在することを選んだ。

 人が、シナリオという名を持つ定められた滅びを打ち砕いてくれることを望んでね」


カヲルが言葉を切る。

穏やかな流動の中の冷気が、カヲルの銀色の髪を掠めた。

それが、その姿が、どこか悲しげで儚くて、アスカの心は潰されるような思いだった。


「さっきは、その時の……その時の夢を見ていたんだ。

 小さな白い子猫の首を砕いて殺した時と、僕が初号機に握りつぶされる時の夢をね。

 僕はあの時一瞬、僕が奪った命と自分の命とが似ているような気がした。

 あの命を砕いたことは、僕に対する啓示だったのかもしれないと。

 でも、ぜんぜん違ったことに気がついた。

 昔の僕の存在は、唯一“存在してはいけないもの”だったんだ。

 存在してはいけないと判断できないものだった、あの小さな白い猫とは違う。

 そして、その夢に導かれてここにきて、この子にあって思った。

 今の自分も、タブリスとは違う、とね。

 僕は“存在してはいけないもの”であるタブリスとは違うんだって。

 でも、でもね、アスカ。

 僕自身がそう思っても、どうしようもないことなんだ。

 自由意志のもとに、僕はタブリスを、使徒であることを止め、人として生きることを望んだ。

 でも、僕が、壱拾七番目の使徒・自由を司る天使-タブリスだったものという、その事実、真実の歴史に刻まれた過去は変わらない。

 だから、証人がいるんだ」


カヲルはゆっくりとアスカのもとに歩み寄る。

その隙間に何物も入ることの出来ないところまで。

そして、カヲルは微笑んだ。

昔に浮かべたアルカイックスマイルじゃない、アスカと共にいた時からみせる天使のような微笑を。


「アスカ、答えてくれないかい?

 僕は、誰なのかな?」


アスカは一瞬、青い双眸を見開いた。

でも、すぐにカヲルの言葉の意味を理解して、ゆっくりと眸を閉じる。

アスカの眸に全て吸い込まれていくように、公園から音が、そして時が消えた。

そして、アスカが瞼を開き、青い眸を真っ直ぐにして、カヲルの紅い瞳を見つめる。


「……あんたは、渚カヲルよ。

 ほかでもない、誰でもない、あたしが愛してる渚カヲルよ。

 あたしが口づけするその“ヒト”が、渚カヲルよ」


時がゆっくりと雪解けるような流れの中、カヲルの白い頬に掌を添えて、アスカは優しく口唇を重ねた。

音が広がっていく、あたたかさが広がっていく。

カヲルの開かれた紅い瞳から、一滴だけ、涙が零れて添えられたアスカの掌を濡らした。


「あたしが否定してあげる、あんたはタブリスじゃないって。

 あたしが証ししてあげる、あんたは渚カヲルだって。

 “存在してはいけないもの”なんかじゃない、たしかにここに“存在していいもの”だって。

 いや、そんな大別した二つの選択なんて否定してやる。

 カヲルはカヲルなんだから。

 だから、あたしの傍にいなさい。

 すぐ傍に居て、離れないでいなさい。


 ……あたしのすぐ傍にいて、カヲル」


アスカの細い指が、カヲルの涙をやさしく拭う。

カヲルの瞳から、また、もう一滴の涙が零れた。

そして、アスカはカヲルを抱きしめる。

ゆっくり、やさしく、そして精一杯の力強さをこめて。

カヲルが飛んでいってしまわないように。

カヲルがカヲルとして自分の傍から離れないように。

抱きしめられたカヲルも、ゆっくりとアスカの背中に手を回した。


「ありがとう、アスカ……

 アスカの言葉で、僕は僕でいられる。

 アスカの存在ゆえに、僕は存在していられる。

 僕の存在に対する自由意志は、アスカにある。

 アスカにもっていて欲しい」


抱きしめるアスカの耳元で、カヲルが小さな声で囁いた。

小さな、小さな声、でもアスカの心に刻まれるような声で。

そんなカヲルの言葉に、アスカは優しい声で、でもアスカの力の篭る言葉と声で、カヲルに伝える。


「なに言ってんのよ、あんたにとってあたしがそういう存在なら、あたしにとってのその存在はカヲルなのよ。

 あんたにとってのあたしも、あたしにとってのあんたも同じなのよ。

 カヲルに対する自由意志は、あたしが持っておいてあげる。

 だから、あたしに対する自由意志はあんたが持っていなさい」


還る言葉はない、でも抱かれる中での頷きで十分だった。

それで、それだけで、ちゃんと伝わり、ちゃんと還ってきた、そして互いに受入れた証しでもあった。

そして、それは、もう一つの意味となり、もう一つのことを成す。


ふと、小さな黒い猫が、カヲルの肩に掴まったまま、その金色の双瞳をカヲルの背中に向けた。

音もなかった、感触も、雰囲気も、波もなかった。

まるで、元から何もなかったかのように、実際にそれはただの幻影で何もなかったように、なくなっていた。

カヲルの背中に手を回すアスカもそれに気づく。

消えたことに、失ったことに、もぎ取ることができたことに。

そして、全てがつじつまのあったような、パズルのピースが組みあがったような、
カヲルがカヲルだということが、アスカの中でもカヲルの中でも、ふたたびしっかりとかみ合った安心感にアスカは涙が零れそうになった。

止まっていた時計の竜頭が押し込まれて、全ての歯車がかみ合い、時が動き出したような安心感。

でも、今はうれしいにしても涙を流す時じゃない、アスカはそう思って瞼をつぶる。


あたしは、カヲルの証しだから……

証明の場に、涙はあわない、だから笑っていよう、カヲルに笑顔を向けていよう、証し人として。

そして帰ろう、自分たちの帰るべき場所に。

天使の住まう家ではなく、自分たち二人が生きる場所へ。


「帰るわよ、カヲル」


その言葉と共に、カヲルの背中を叩き、アスカはカヲルを解いた。

離れて交わす視線に、アスカはこれ以上ないくらいの笑顔を向ける。

カヲルのただ静かに優しいアルカイックスマイルをアスカに向けて頷いた。


「そうだね、帰ろう、僕たちが生きる場所へ」


アスカが差し出したコートを纏い、マフラーを巻いて、カヲルはアスカと手を繋ぐ。

肩には、答へと導いてくれた金色の双瞳で見つめる小さな黒い猫。

公園の街灯が照らす三つの影は少しずつ小さくなっていった。

自分たちが帰る場所、生きる場所、友が待つ場所へ。

そして、互いが支え、互いに支えてもらう、自分ではなく大切な人が自分の権威を持つ、そんな世界へと。

自分の答えとなる大切な人が隣を歩き、自分が隣を歩く大切な人の答えとなる。

そんな絆のもとに。










誰もいなくなった公園の真ん中に、消え行くものの影があった。

それは二枚の翼。

大きな漆黒を纏う翼。

かつて、壱拾七番目の使徒、自由を司る天使-タブリスの象徴であった黒い翼。

街灯の光に照らされながら、もぎ取られ落ちた二枚の翼は、存在意義を終えたように、闇と光の中へと消えていった。

何もなくなった公園に残るのは、銀色の髪の人と亜麻色の髪の人の寄り添った足跡が刻む一つの道だけ。











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