ファントムペイン & アームズ     aba-m.a-kkv     











私の視界大半を占めるのは、私がいつも宝石みたいに綺麗だなと思う、もちろん口には出さない、真摯な紅い瞳だった

それが、私の奥底までも見透かすように覗いて動かない

私のすぐ目の前で揺れる銀色の髪

重力にしたがって下がった前髪が私の額をくすぐっていた

バンザイように頭の上へと伸びた私の腕は、まるで鋼の枷を嵌められたみたいに動かない

長い、長い私の亜麻色の髪が絨毯のようにソファーに広がっていた


キッカケを作ったのは私だったかもしれない

でも、私は唖然としていた

どこかで望んでいたはずなのに、思考は今の状況を処理できずに

そして、何かを言おうとする私の喉は、まるで貼り付いてしまったかのように、口をパクパクさせるだけで言葉を紡ぐことはなかった





私は、渚カヲルに押し倒されていた








― ファントムペイン ―








渚、カヲル

ナギサ、カヲル

なぎさ、かをる


その固有名詞を持つ人間かそうじゃないモノかが私の前に現れたのは、私の全てとも言えた使徒戦争が事実上終結する直前だった

大破した弐号機の中、神経接続破断のあとも喰い尽される痛みが全身を支配して未だ動けないでいる私のところに、その人物は現れた

抉り取られた目の影響でうまく世界を映し出せないでいた私の網膜は突然、エネルギー消失で真っ暗になっていたエントリープラグに光が射し込むのを感じ取る

救出の手か、はたまた戦自の手か、あるいは白き異形か、良くない可能性のほうが断然高かった

そして、考えうる全てだった

でも、実際は違った

揺れボヤける視界に何か人の形のようなものが映り、剥ぎ取られた影響でうまく聞き取れなくなっていた耳が何かを聞き取る

たぶん私の名前、普段聞かないような呼び方だった気がする

「惣流アスカさん」そんなかんじだったかな

親しい人間ならアスカ、知り合いなら惣流さん、敵対する組織の人間ならフルネームで敬称略だろう

だからそう呼ばれたような気がしたとき、なんとも不思議な感じがした

後になって思えばそれは、ただ呼び方が違ったからなどと些細な理由ではない、その雰囲気がもたらすものを少なからず感じ取っていたのかも知れない

それから分かったのは、エントリープラグの破裂でほとんど流れ出してしまったLCLの水溜まりが弾けた足音、そして目の前にある人型

でも、私は何も出来なかった

何せ指一つ動かす体力も精神力もないんだから

神経が全部焼き切れたかのように、筋肉が全部断裂したかのように思えた

まあ仮想現実的にはもっと酷いわけだが、兎にも角にも私は何もできなかった、なにをされても

でも、どんな最悪なことをされても私はもう諦めていた

半分文字通り死んで、全てから解かれたように諦めきっていたからかも知れない


蒼い双眸を閉じることさえしない私に、人型は近付いてきた

私の隣、すぐ傍まで

そして、ぐったりする私の首の後に手が回される

何をされるか分からないのに、冷えた身体に伝わったそのぬくもりはとても温かかった

それから、額に触れる髪のようなものも感じた

何をされるか分からないのに、その感触はとても心地良いように思えた

でも、それ以上の近づきはなかった

時が止まったような一瞬が過ぎて、膝の下にもう片方の腕が当てられるのを感じて、私は少し驚く

それから声が聞こえた、今度ははっきりした声で


『終わりが来る、歓迎しよう、アスカさん』


未だ、私の鼓膜の振動を読み取る聴覚神経はかすれた音しか拾わない、なのにその声は耳元で囁くように、聴覚域に直接刻まれたみたいに澄みきって聞こえた

私の知らない、凛とした少年の声だった

そして、その声と共に抱き上げられる

私の口唇から声になり切れない息が溢れた


私を抱き上げた少年、と思われる人型は、エントリープラグのハッチの方向、光が射し込んでいる方へと私を運んでいく

何処へ連れていく? そんな疑問あるいは懸念が浮かぶが、今となっては何処であろうと関係無いと気付いた

私のいるべき場所はもうないだろう、なら、この人に連れていかれるのも一つの機会かもしれない、と考えたりした

大切な壊れ物を扱うように抱き上げてくれている感触も、無意識下でそれを後押ししていたのかもしれない

そして、この思いは無意識下での私の覚悟になっていたが、この時の私にはまだ私自身の覚悟がわかっていなかった

そんな思考を漂わせた私を抱き上げながら、見知らぬ身近な少年はプラグの外に出る

喰い潰されてから薄闇の中にいた私の視界に光が溢れた

外の世界はどうなっているのだろう

下手をすれば、あるいはかなり高い確率で全てが取り返しのつかない最悪の事態に陥っていることも予測できた、私の出撃前に与えられた情報だけでも

薄闇になれた眼球が痛む中、網膜はぼやけながらに光景を映し込む

そして、肌は何かの戦慄を自動的に感じ取って産毛を逆立たせていた

何が起きているのか、少なくとも世界の時は終わっていないようだが、何か途轍もないもの、あるいは途轍もない事が目の前にある

何が起きているの、と、なんとか動かせる視点を、私を抱き上げながらこの景色を見つめているだろう少年へと向けた


『儀式を司るモノたちの終焉を宣する刻だよ

 すごいね、終わらないはずの劇を終わらせる

 やはり、生をリリンに繋げて正解だった

 不安定で儚いものが、これほどまでの力とは

 さて、僕たちは終焉の証人だ

 そして、仕組まれたモノたちである僕たちは見届けなければならない

 僕たちの運命も共に終わらせるために

 さあ、アスカさん、僕の視界を分けてあげる

 共に、見届けよう』


直接響く真摯な声だった

少年は私を抱き上げながら弐号機の骸、その特殊複合装甲の残骸の上に腰を下ろした

自分の体の位置が降りていく感覚に合わせて、私の視点でない視界が私の視野に広がり鮮明になっていく

そこには、本来在るべき姿を顕したエヴァンゲリオン初号機、その周りに額ずく九つの要、そして、全ての中心にいる二つの見知る影があった

儀式が始まる、少年が言うところの終わりの宣言が

それが、凄まじいものであること、光景であることを感覚的に理解する

そして、少し驚いたが、私の意識はその意味をどこか納得していた

私の意識は考えることを止め、ただ見届けることに集中した

少年の言葉通り


視界を借りて見届ける先では金色の翅が大樹とその根を形成し、やがて赤い、赤い光を浮かび上がらせて弾けた

光の炸裂というよりも、空間そのものが拡大するように

絶対領域、欠けた心によるシナリオへの終結宣言

仕組まれたモノたち、そして“私たち”の運命の終わりを意味する莫大な光と衝撃が世界を覆い尽した

世界にそのことを宣べ伝え、刻み込むために


『掴まっていて、アスカさん

 宣することは刹那の時に過ぎていく

 共に終わるモノとなろう』

「そして、出来れば、共に――」


音と言葉を掻き消して、それは私と少年の影をも飲み尽していく

その瞬間、少年は私が何処かに消えていってしまわないように強く抱き止めてくれた

生まれて以来、あんなにきつく抱き締められたのは初めてだった……


それが、渚カヲルとの最初の出会い

そして、それが終わりで、始まりで、原因だった





形態や意味の差があるとはいえ、事実上のサードインパクト発動後、後に使徒戦争と呼称されるものは終結した

存在意義消失によるSEELEの壊滅、シナリオの崩壊、NERV最高決定機関による行動停止令も伴って

その後、傀儡から解かれた国連が事態に介入し、NERVは直属の組織のまま再編される

当初は解体及び責任追求の動きもあった

でも、国連NERV特別監察委員会査察団の想像をはるかに越えるオーバーテクノロジーの存在に、管理保全する機関の必要性が求められる

とはいえ対応出来る既存の機関があるわけもなく、新設も困難なことから、NERVの再編存続が許されたというわけだった

もちろんその影にNERV最高決定機関の工作があったのは考えるまでもないが

同じような理由で専門職員の多くが継続したけれど、軍事部門、諜報部門など対外的部分は大幅に削減された

そして、私を含めたチルドレンも軍属を解かれることになる

そこには、不思議なことに渚カヲルの名前も含まれていた

チルドレンの軍属解放に私はさして反対も異論もなかった

私たちが成人になるまで、今後もNERVが養育や保護などを継続することがわかっていて、そうならば実質的には何も問題はない

意外なほどすんなり静かに受け入れた私に、一人を除いて私を知っているみんなは少なからず驚いていたけど

正直なところ、私自身だってそうだった

希望、生き方、居場所、それら私の全てといっていいもの全部を架けた「エヴァンゲリオン操縦者」の存在から離別する

昔の私なら、サードインパクト前の私なら考えられないことだっただろう

存在意義を失ったものが自我を保てないように、どうなっていたかわからない

事実、シンクロ率の低下が止まらなかった時期の私はひどかった

でも、この時の私の心は大凪に穏やかだった

心配そうに見つめながらも安堵の表情を浮かべる皆に笑顔を帯びた表情を向けながら、私は誰にも気付かれないように斜め後の存在へとそっと視線をやった

深紅の瞳をたたえるあの時の少年へと

瓢々とした雰囲気でブリーフィングを聞く、渚カヲルと名を教えてくれた存在は、私の隠した視線に刹那だけ目を合わせると、天使のような笑みを微かに向けた

そのアルカイックスマイルは、良い選択だと思うよ、と肩に手を置くような雰囲気を伝えていた

その微笑に、私の心はどこか揺れ動く

でも、相対をなすかのような安心感もそこにはあった

不思議な感じだった

大切なもの、自分の場所を失うというのに、ぽっかりと心に穴が開いたはずなのに、そこには何かが満ちていて、それは今までのものよりも温かい

抉り取られた場所は幻肢痛をもたらすこともなく、代わりの何か、別の何かがそこにある感覚を宿していた


その後、私は普通の女の子という立場に回帰し、普通の時間を手に入れた

そして、私のぽっかり開いた傷跡を満たしているものが、渚カヲルだということに気がつくまでにさほどの時間も要らなかった





再建事業のために公開されたNERVの技術力で急速に再建されていく街の中、私たちは復学し普通の生活を送り出した

チルドレンは警備や管理の理由からコンフォートに集められ、それぞれ一つの部屋を与えられた

ミサトの下の階にファーストの部屋と間隔をあけてシンジの部屋

その下の階に私の部屋と間隔をあけて渚カヲルの部屋が置かれた

部屋が分かたれても、学校は同じだし、食事などは分担制にして一緒にした

今までよりも穏やかで、接触する機会も増える

戦々恐々とした流れとは違う環境下にあって、いままで見えなかった、見ようとしなかったところがわかるようになり、それは確実に良い方向へと向かっていった

シンジとの切れ掛かっていた家族の関係も回復し、その良いところもたくさん見つけられた

敬遠し時には嫌っていたファーストも、いまでは下の名前で呼び合って過ごすほど仲良くなった、未だに気恥ずかしいところが幾許かあるけれど

そして、渚カヲル

この存在との接触が一番多かった

人目につくような公のというわけではないけれど、普通の生活の中で生きる時間の多くをいつの間にかカヲルと過ごすことが多くなった

それは、私が望んだからでもあり、すぐ近くにいつもカヲルがいたからということでもある

最初のうちは、私の心の中にあるカヲルに対する不思議な感覚がどういうものなのかという疑問や、あの環境から私を連れ出した渚カヲルという存在そのものへの興味からだった

あとから言わせればそれも言い訳のような理由だったかもしれないが、その時は自分にそう言わせていた

そして、だんだんと時が過ぎ、渚カヲルのことを知り、多くを共にしているうちに、自分の中にあるカヲルの存在がどういうものなのかに気がついていった

わかったわけじゃない、気がついていったというのは、それがあの瞬間、前の私が終わった瞬間からそうだったから

私の欠けた心、抉り取られたレゾンデートルの欠片、そこに渚カヲルが満たされていたことに

終結宣言の時、私を抱き締めたときから、カヲルは躊躇無く私の中に潜り込んでいた

そして、普通の生活に回帰してからも私の傷跡を補完していった

いつも私の隣にいてくれることで、いつも優しい笑顔を向けてくれることで

戸惑うほどに穏やかな普通の日々に

寂しいときや疲れているとき、心の何処かで支えて欲しいと願っているときに

アフタヌーンティーを煎れてたわいもない会話をしたり、買い物ついでの散歩をしたり、少し遠くの場所に連れ出してくれたこともあった

カヲルはいつも傍にいてくれて、私はそこで惣流アスカそのものになれていった

心からの優しい笑顔も表れていった

それは、エヴァというもので自分を形作ってきた私が、私だけの私になれていった証だった

この新世紀の世界で生きていく私に

終結宣言でエヴァという腕を失った私の幻肢にカヲルはなってくれていた

そして、私の掛け換えのないものとなっていくカヲルを、私は好きになっていく

特別な意味、特別な存在へと

憧れでない純粋な恋愛感情などというものを、この私が抱くことになるなんて今までは考えたことすらないものだった

でも、この気持ちが他のものと違うことを受け入れるのは思いの外簡単だった、表に顕すことができるようになるまでは時がいったけれど

自分の想いを理解してから、カヲルと一緒にいる時間がさらに増える

その中で、後々思い返せば恥ずかしくて子供っぽいこともたくさんしていった

散歩のとき、カヲルのいる方の手をわざとらしくあけてみたり

肩が触れるか触れないかくらい近くに座ってみたり

ファーストから聞き出した“事件”の前半部分を模倣してみたこともあった

あれはさすがにどきどきしたけれど

そんな私の工作にも、カヲルは付かず離れずを通していく

触れてくれるわけじゃない、でもすぐ傍にいてくれる

愛しい言葉を言ってくれるわけじゃない、でも大切に扱ってくれる

あの弐号機の中でのように

あたりまえだけど、それが幸せでないわけはないのだ

カヲルのおかげで私は惣流アスカの道を歩いていられる

でも、切ない

もっと近付いて欲しい、もっと触れて欲しい、もっと見ていて欲しい

そんな想いが心の器に溢れていく

そして、その想いが望んでしまう

カヲルが私の傍に現れた瞬間から引いている境界線を越えて欲しい、と

でも、全てを言葉にして解き放ってしまうのは恐ろしかった

私の言葉が鍵となって、私の幻肢が消えていってしまうんじゃないかって

そんな想いが重なりせめぎあって、私の幻肢が痛み出す

私を支えてくれているそれが切なくて苦しくて、ファントムペインが現れる





そして時がまた過ぎていった、ある日の夜

ミサトは再興計画の出張で、シンジとレイは今は珍しくなった本部の用事で出かけている

今日は三人とも帰ってくることはないらしい

コンフォートに残ったのは私とカヲルの二人だけ

丁度良く食事当番だったカヲルはそのこともあいまって、いつも集まるミサトの部屋ではなく自分の部屋に私を呼んだ

いつもの如く夕食の材料を一緒に買いに行き、そのままカヲルの部屋を訪れる

この部屋に足を踏みいれるのももう何度目になるだろう

お邪魔します、なんて言葉はもう久しく発していない

リビングにはいると私は、簡易ベッドになるんじゃないかと思うくらい広めのソファーに腰を沈めた

料理を手伝うと言ったのだけど、ゆっくり待っていてとカヲルに笑顔で止められたから

キッチンとリビングとで会話をしながら幾許もしないうちにいい匂いが部屋を満たし始めた


「アスカ、そろそろ取り皿とかコップとか用意してくれるかい?」

「ん、りょーかい」


カヲルの言葉に私は立ち上がり食器棚へ向かう

その間に紺色のエプロン姿のカヲルは料理を装いテーブルへと運んでいく

あいも変わらず、シンジに負けないくらいの美味しそうな料理を作るものだ

それから二人、席に付いて定時通りの夕食を食べ始めた

二人だけの食事、でも基本的に変わるところはない

いつもは五色の色が二つになっているだけ

それぞれの色は変わらない

私もだいたいはいつも通り、カヲルの笑顔の前では何故か素のままでいられる

でも、少しだけ違うのは、料理が少し豪華で私の好みのものばかりなこと

そして、カヲルの宝石みたいな紅い瞳が他の時よりも優しいこと

二人だけの時に共通していて、最近気が付いたことだった

そんな特別のようなものを見ると、カヲルも私を特別なものとしてみているのかな、なんて愚考して幻肢がうずくような感じがした

心の中では嬉しがるところなはずなのに

でも、食事はこれ以上無く美味しかった

食事のあともいつもの習慣通り私はカヲルの部屋にとどまった

普段は寝る少し前まで四人ともミサトの部屋でそれぞれくつろいでいるから

食後のデザートを食べながら毎週見ているドラマを見て、それからソファーに寄りかかりながら雑誌を読む

カヲルはすぐ近くのテーブルに頬杖を付きながら小説を読んでいた

時たま言葉を交し、時たま静穏に身を任せる

カヲルと話をするのは楽しかったし、沈黙も心地良かった

どちらであっても、その存在そのものが好きなんだ、と思う

やはりかけがえなく

二人だけの状況が、カヲルの部屋という環境が、そのことを浮彫りにしている

私は雑誌に目を落とすフリをしながら、視線をカヲルに向け思考の海に潜っていった

いつもと同じ、どちらにせよ動かなければ、越えなければ答えのでないループアンドループへ





幻肢が痛むのは、幻影のようなこの距離のせいだ、そう考える

私がそう感じているだけかもしれない、一人よがりかもしれない、でも、近くに在りすぎて手を伸ばしても触れられない

それは互いに美術館に飾られた絵画のよう、薄いガラス一枚が指先を拒絶する

その絵画と一体になろうなんては望まない

ただ触れていたい、触れられていたい、ただそれだけ

それは互いにヘッドホンをして歩いているよう、たった数センチの厚みが聞くことを隔絶する

想いを、心を融かし合わせようなんていうことは望まない

ただ言いたい、聞かせて欲しい、ただそれだけ

でも、私はそのガラスを砕くことも、ヘッドホンを外し捨てることも出来なかった

怖いからかもしれない、仕方を知らないからかもしれない

すぐ近くに、カヲルがいてくれるのに

なんで、カヲルを好きになったんだろう

人を好きになるのにロジカルな理由なんて無いのはなんとなくわかってる

でも、キッカケはあったはずだ

その一つは、何時でも何処でもどんなときでも私の傍らにいてくれたということ

私が私になる道を隣に歩いてくれた

でも私の欠けた心が、まだ無意識のうちからカヲルを好きになったキッカケは、たぶん旧世紀の終わりを迎えたとき

あの時、私を終わらせてくれたのがカヲルだったから、私はカヲルを意識し始めたんだと思う

私を連れ出してくれたから、私を抱き締めてくれたから、その他にも何かをくれたから

あの時以来私の傍で、カヲルは触れようとすれば届きそうで届かない距離にいる

あの時の抱擁みたいに触れて欲しい、そんな想いがうずく

幸せないまの状況と好きだから募る切望

私が“腕”なるものを失って以来、代わる私の腕になってくれていた幻肢が痛くて、痛くて堪らなかった

心を潰してしまいそうなくらい、弾けてしまいそうなくらい





「アスカ……」


はっ、と顔をあげる

そこには、鏡のように私が映るんじゃないかってくらいの距離に紅い宝石のような瞳があった

カヲルが覗き込んでいる

私は言葉を失った

ループアンドループに落ちた私は、いつの間にか膝を抱えて俯きこんでいたらしい


「そろそろ、寝ようか、時間もそんな頃合いだしね

 テーブルの上にホットミルクを置いてある、体を温めてから眠ると良く休めるからね」


そう、優しくかけてくれる言葉の意味も、夜の時を刻む時計の音も、テーブルの上で湯気を立てるお気に入りマグカップも、私の意識に入ってはいかない

いま私の視界にあるのは、触れようと手を伸ばせば触れられそうなカヲルの姿だけ

宝石みたいに綺麗だといつも思って口にはしない、紅く優しすぎる瞳だけ

そして、思考や意識より先に心が揺れる

ファントムペインの激痛が走った


「そんな……そんな、優しい瞳を、アタシに向けるな……!!」


理性なんていう枷を刹那に打ち砕いて、言葉が、想いが溢れ出した

止めることなんて出来なかった、それだけの想いと激痛


「そんな……優しい瞳が、アタシには、痛い……」


頬を流れる何かに気が付く

でも、それが自分の涙と気が付くまでの余裕がない

ぽろぽろと零れるのをそのままに、私は無意識に腕を互いに握り締める、痛みをまぎらわそうと力一杯に

痛みが溢れてしまったものはすぐには収まらない、でも、カヲルの瞳から視線を逸らせなかった

カヲルは紅い瞳に驚きの色を映して一瞬絶句し、それから私の名前を呼びながら腕を伸ばしかけた

でも、何かを思い出したように苦い表情を浮かべ、私に届くなかばで手を止めてしまう

その腕が私の眸に映った瞬間、ファントムペインが駆け、私は叫んでいた


「何故!?

 何で……なんでアタシに触れてくれないの!?

 言葉をくれないの!?

 すぐ、すぐ傍にいてくれてるのに……」


最後の防波堤が決壊する

カヲルが差し伸ばしかけて止めたその腕に

いままで恐くて言えなかった自分の想いが弾けていく


「どうしてラインを越えてくれないの、なんで境界を引くのよ!?

 アタシに触れてよ、カヲルの中でアタシがどういう存在なのか言葉にしてよ!

 ……アタシは、カヲルが

 好きで、好きで……」


ああ、何てこと言ってるんだろう

こんなことを言ってもカヲルを困らせるだけなのに

いままでのものを壊して終わらせてしまうだけなのに

幻肢を走る激痛はまだ続いて止まない

でも、そこに意識が追い付いて私はカヲルから目を反らした

見ていられなかった、恐怖が上る、私の暴発した想いに幻肢が消えていってしまうんじゃないかって

二度失ったら、私は――


「な、に、いってんだろ、アタシ……

 っ!ゴメン……!!」


消えてしまいたかった、カヲルの前から

とにかく頭を冷やして、冷静になる時間を、痛みを治める時間が欲しかった

私は無理矢理笑顔を作る

引きつってる不自然すぎる笑みだろうな

この時、頬を濡らすのが自分の涙だと気がついてごしごし袖で涙を拭うと、カヲルの紅い瞳を見ないようにしながらソファーから飛び降りた

逃げる、この状況から、この環境から

玄関へ向かって駆け出す、駆け出そうとした





刹那、赤い閃光が走ったような錯覚を覚えた

神速のようなカヲルの手が、消え去ろうとした私の手首を掴む

私の身体が動きを止められる

そこからはスローモーションのようだった

まるでそれが万物の法則のように私の身体が引き戻される

それから、もう片方の手首を掴まれる

そして、私に掛かる重力がゼロになったみたいに、足が地面から離れた

景色と平衡感覚が変わる

背中にかかる衝撃、ソファーのクッションが返す反発

私の身体の上と私の手首にかかる力

それが、時計の針が数秒と刻まない刹那過ぎて、私は何が起きたか理解できなかった

ただ、視界に映るのは、恐いぐらいに真摯な紅い瞳


アタシ、カヲルに押し倒され、た……?


今の私の状態を理解するのに数拍かかった

しかも新たに何かを考えられるような思考は飛んでしまっていた、恐怖も不安も何もかも

ファントムペインさえ

ただ、私がカヲルに押し倒されていることを受け入れるだけ

言葉も何も上ってこない、喉も張りついたみたいに

そして、押さえ込まれた手首が熱かった

カヲルのぬくもりが焼き印のように

そして、カヲルの恐いくらい真摯な紅い瞳は、私の心を、その奥にしまった想いを見通すように向いていた

私はその目を見つめたまま動けなかった

永遠のような数秒と絶対的な静寂が流れ、カヲルの口唇が開く


「“共に、生きて欲しい”」


呟くように小さな声、一つの言葉

でも、それは頭の中に直接響いたみたいに強くしっかりした言葉だった

そして、その言葉がキッカケを汲みあげていく

私の思考に、旧世紀の終焉の光景が現れていく


「謝らなきゃいけない、ゴメン、アスカ

 君の想いに気が付けなかった

 アスカがそんなにまで想って苦しんでいたなんて

 君に触れられなかったのは、言葉を紡げなかったのは、僕が怖がっていたからなんだよ

 君を壊してしまわないか、って」


あの時の失っていた感覚

身体が、頭がその奥底に記録していた感触と記憶が蘇っていく


「あの頃の硝子細工のように繊細で綺麗だった君のままを見ていたんだ

 僕が触れすぎることで、言葉を紡ぐことで、君が砕けてしまうんじゃないかって、恐れ、大切にし過ぎてた

 いまのアスカは昔とは違うのにね

 ずっと強く綺麗になって、逆にぬくもりが必要だったんだね

 僕が時を逸していたんだ」


全てが終わっていく感覚の中で、息もそぞろになるほどの強い抱擁

焼きついて溶けてしまいそうなくらい熱く甘美なぬくもり

そして、閃光と衝撃波が世界を覆い尽す中で告げられた言葉


「君の望むままに、アスカが触れて欲しいときに触れよう、君が言葉を欲しいときに言葉を紡ごう

 それが僕の望みでもあるから」


耳に届いた言葉、ただ唯一そのまま伝えられた言葉

あの時、微かにしか聞こえず、しまいこまれていた記憶

そこにキッカケがあった

終わりにして始まり、その根元になったカヲルの想い

聞きたい言葉は最初からあったんだ

求めていたものはすぐそこに持っていたんだ

カヲルはくれていた、私への想いを


「“共に生きて欲しい”

 好きだよ、アスカ、大好きだよ」


カヲルの言葉が広がっていく、想いが広がっていく

あの時から繋がっていたものが

ゆっくりと近付いてくるカヲルの紅い瞳

互いの鼻先が触れ合い、私は瞼を閉じる

私の目から一筋の涙が頬に軌跡を描いた

そして、ぬくもりが重なった

私のぬくもりがカヲルに広がり、カヲルのぬくもりが私の中に広がっていく

私の望んでいたものが、求めていたものが、熱く、甘く、幸せを纏って

そしてそれは、ファントムペインを拭い去っていった

私の幻肢そのものを融かしていく

言葉があり、触れ合いがあり、私の幻肢が本当の“腕”になっていくのを感じながら、時が止まり、世界が止まった

たぶん、時が動き出したとき、そこには新しい世界と新しい私がいる

そんな気がして止まなかった








― アームズ ―       








「そろそろ寝ようよ、カヲル」


黄色いお揃いのパジャマを纏って寝る支度を整え終わった私は、青い眸に愛しい人の姿を映してそう促した

時計の針は日の境界線を越えて、瞼が重くなる時を刻んでいる

紅い瞳を手元の文庫本に落としていたカヲルは、部屋の中央にある壁掛け時計に目をやって「そうだね」と呟くと、ぱたんと小気味の良い音で本を閉じた

そして、ソファーから立ち上がる

私はその動きに合わせて寝室へと体の向きを変えた

なんの違和感もなく


この部屋でカヲルと一緒に時を過ごして、もうどれだけの四季を過ごしたんだろう

最初は戸惑っていた生活もいまは慣れて久しい

私たちも大きくなった、それに伴って互いの存在も大きくなった

あのキスで私の幻肢が消え去って、カヲルが本当の腕のような存在になって、私が予想し希望していた通り、新しい世界、新しい私が始まった

私はまた一つ成長して、カヲルに支えられながらここに至る道を繋げられている

その道程で私はさらにカヲルを好きになっていった

いまはもう、自分の存在意義といっていいくらい

そして、カヲルもずっと増し加えて私を愛してくれている

私を大切に支えてくれている

私も、少しはカヲルを支えられてるみたい


そんな私とカヲルの絆は依存しすぎていると言ってもいいかもしれない

お互いのレゾンデートルの交換なんて

それは、私がエヴァに預けていたものと似ているかもしれない

でも、かまわない、いまの絆は確実に良いものだから

それは、欠けた心と欠けた心同士を絆で結び付けるもう一つの補完だからだろう

ヒトの心を持つものだけが結べるものと私は感じていた

いまの私たちはたくさんの絆を作っていってる

私とカヲルの二人で、今までも、これからも

そんな風に考えて、私は笑みを零していた


「……アスカ」


名前を呼ばれる、愛しい声で

私はその声に振り返る

ふいに掴まれた片手首が何故かいつもよりも熱いように感じた

そして、そこからはあの時のようにスローモーションみたいだった

私を束縛する物理法則が何かに拒絶されたみたいに、私の体が地面から離れる

カヲルが私の両手首を捕まえる

そして、変わる視界と平衡感覚

駒送りのような速度と感覚で私を受け止めるソファーの感触が背中にはね返ってくる

上にあげられた手首にはカヲルの枷がはめられ、私の上には羽根のように軽いカヲルがいる

触れ合った身体と手首から伝わるぬくもりが熱い

私の視界に一番大きく映るのは宝石のような紅い瞳

そして、それは恐いぐらいに真摯なもので私の心の底を見ているよう

私の心臓が鼓動を早めていく

一つに溶け合えるんじゃないかと思う距離

私はカヲルに押し倒されていた、あの時のように

でも、昔のように混乱したり不安になったりはしない

それだけの絆を重ねてきたから

これから何が起こるかはわからない、でも、たぶん素敵なことだろうと思う

カヲルが私の耳元に口唇を近付ける

そして、優しい声で囁き尋ねる


「覚えてるかい、アスカ」


言葉はすぐに思い描いたものに繋がる

忘れるわけがない

私が一つ大きな階段を登ったキッカケで、私のかけがえないカヲルとの思い出の一つなんだから

私の過程の大きなピース、いまの私を形作る欠片になったもの

失った腕に代わる幻肢が本当の腕になった時

忘れるわけがない


「うん、覚えてる

 忘れられないわよ、私の“腕”」


カヲルは私の言葉に顔を上げ視線を絡ませる

恐いぐらい優しいアルカイックスマイルを浮かべて

それからカヲルは少し緊張したような雰囲気で私に言葉を紡いでくれる


「愛してるよ、アスカ」


愛しさがこみあげてくる、心が暖かくなっていく

愛している、常に交し、至ることのない想いを顕すその特別な言葉で

そして私も、この心にこみあげる想いを言葉に乗せる


「アタシもよ、カヲル

 あんたを愛してる」


想いを汲み交し、言葉を汲み交し、重なる私たちを静穏が包んだ

カヲルが近付く、鼻先が触れ合うほどに

そして――




「結婚しよう」




声が小さく響いた

絆が差し出される、私の最も大切な腕たる存在から、最愛のヒトから

私は刹那、言葉を失った

嬉しくて、嬉しくて

言葉の代わりに涙が溢れていく、暖かい涙が想いを乗せて


「カヲル……

 ……いいわよ、アンタと、結婚して、あげる」


カヲルが手首の枷を外す

私は解かれた腕をカヲルの首に回した

見つめ合い、近付いていく

鼻先が触れ合い、瞼を互いに閉じる

そして、一つに重なった

新しい絆に対する誓いを結んで

また一つ、私という存在と渚カヲルという存在の間に絆が結ばれていく

それは結び付きの数を増やすごとに強くするごとに、私とカヲルの境界線を融かしていく

私の存在の半分をカヲルに、カヲルの存在の半分を私に

いつの日か、わからなくなるんじゃないかくらい

そんな絆を私は掴んでいく

渚カヲルという私のかけがえのない腕で

これからも、いつまでも、ずっと一緒に――











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