世界を包み込んだ絶対的な隔絶は、まるで氷の世界そのものだった

気温の低さや文字通りの氷などではない、もっともっと深い意味での冷たく凍えるもの

他人のぬくもりも息も雰囲気さえもない、絶対的な孤独

暖かくない、ぬくもりがない、そういうものを冷たいと形容するなら、ここはまさに最上級にそうだった

前の世界にも、孤独はあった

他人と他人、それらの間にある心の壁、それが作り出す拒絶と孤独

でも、ここにはそんなものを語ることさえ赦さない、全体的な無が存在していた

存在していないゆえの無、無という存在そのもの

それは全てを閉ざして、動きを、命を凍らせてしまったような、そんな感覚を刻み込んだ

そんな世界の上にいるのは、この世界を導く役割を担った少女と、箱舟の中に導かれ選択を担った少年の二人だけ


無が生み出す静寂だけの世界に、ただただ冷たいだけの世界に、声と言葉がもれた

幾つかの会話が交わされた

そして、伸ばされたのは互いの掌







アイスランド     aba-m.a-kkv









ノックの音そのものが鍵だったように、控えめに響く金属音が木霊して刹那、開錠の音とともにゆっくりと扉が開かれていく

薄暗い隙間から覗いたのは鳩血色の鋼玉のように綺麗な紅い双眸だった


「おまたせ、綾波」


そんな碇シンジの声に、部屋の主、綾波レイはゆっくり頷くと扉を大きく開けた

開いて映りこんでくる外の世界は、まだ夜の帳が降りたまま

青闇色のキャンバスが空一面に張り伸ばされている

そして、春の柔らかく少し肌寒い空気が流れ込んできた

それが、白いワンピースの上を滑る


「朝は、まだ肌寒いのね」


眠気の残る眸が醒めきって、レイは「少し待っていて」との言葉を残して幾許か扉をシンジに預けた

それから、黒いカーディガンを羽織ったレイが戻り、部屋に鍵をかけて、二人そろってコンフォートを出た

夜がまだ落ち込み、朝が街の地平線の向こうに隠れている空の下、冷えた世界、まだ眠りについたままの街を見渡せる場所に向かって



自転車で二人乗りをして幾許かの時を経てたどり着いたのは、左右に湾曲するように長く広がる高台

使徒戦争で形成された湖の外縁を基礎にして築かれたこの高台の上にはうっすらと緑が揺れていた

でも、それは踏みしめる足の裏の感触にしかわからない

緑も、夜の青闇色の中に落ち込んで久しい

アスファルトの舗装がされた高台の円状道路の端に自転車を置き、そこから街側へと少し歩いたこの場所

そこは、今生きている街を、この世界を見渡すことが出来る

概観する世界の大勢を占めるのは青闇色のキャンバスだった

真っ黒ではないそれは微妙で絶妙なグラデーションをくゆらせていて、本来の純粋な宙を顕している

透き通ったその中には、幾つもの光の輝きが散りばめられていた

仰いでいた視線を落とすと街のシルエットが映りこんでくる

夜に彩られたそれは黒を纏って存在し、眠ることのないそれらからは少しの光が漏れて、天上の星たちと対を成していた

市街中心部にある公的機関の大きな建物群のシルエット、電波塔や橋のシルエット、郊外の人々が寝静まった住宅群のシルエット

街の全てが半分夜に溶け込んで、でも確実にこの世界に根ざして存在していた

そんな世界の、生きる街の全てを二人は眺めていた

緩やかな風がなびき、服や髪を揺らす

でも、二人はそのまま、風の流れに身を任すままに街を眺め続ける

それは一度失った世界、そしてもう一度掴み取った世界

幾許かの時を静寂に預けて、愛しささえこめてそれを見つめていた

春のまだ少し寒い、でもやわらかい風がそれを守る中で


「夜明けまでは、もう少しかかりそうだね」


まだ、夜が世界全体を覆い尽しているのを見てシンジが隣へと言葉を紡いだ

MAGIが予想して発表されている日の出時間、それよりも幾らか早い時間を、時計代わりくらいにしか使わなくなった特別連絡端末が示していた


「でも、この夜空とその下の街を見れるから、早く来てよかったわ」


夜風に揺れる蒼銀の髪を右手で軽く押さえながらレイはそう言った

無意識に左手は使わない

この場所は、いつの日かの展望台とは対岸に位置している

だから、あの場所では中央ビル群に沈む夕日が、そしてこの場所では郊外も視野に入る街の風景に昇る朝日が見ることが出来る

街というものをバックグラウンドにした光景を見れるお気に入りの場所

とはいっても、それは全ての意味を包含して新世紀を迎えてから何回も経てはいない

それでも、こうやって次の日が緩やかなときに、二人で見ることが出来るこの光景を、レイもシンジも楽しみに、そしてなにより大切にしていた

「そういえば」そんな言葉を紡いで、レイが記憶を呼び戻すように呟いた


「こんな夜を、みんなで過ごした時が、前の時の中にもあったわね」


夜の空を意識しながら凛としたレイの声が、風の中に揺れる

シンジが一拍おいてゆっくりと頷いた

忘れがたい一年間の記憶

忘れることのない、忘れたくない苦く大切な自分たちの歴史の一部を引き上げる


「うん……こんなに寒くなくて、でもとても冷たい夜の下だったね

 綾波がいった言葉をいまでも覚えているよ」


夜を、その青闇色のキャンバスか群体のシルエットか、そのどちらにも概観した視線を向けながらシンジが答える

懐かしそうに、でも何処かさびしそうに

あの時の姿が一瞬だけ重なった

いまはちゃんとそれぞれの居場所で夢の世界に落ちている人たちの姿が、あの時は近くにあった

そして、今ここには二人だけがいる

あの日を、唯一越えた二人だけで

レイはその紅い眸を少しだけシンジに向けて、ゆっくりと春の息を吸うと、詠うように滑らかな口調でそのときの言葉を巡らした


「人は、闇を恐れるあまり、火を使い闇を削って生きてきた」


懐かしい台詞、そして全てを良く表していた言葉

人の切り拓いた闇は、夜の闇だけではなかった

それは心の闇も

人と人とが触れ合うことの出来ない絶対領域

人と人とを隔てる心の壁

最後の最後に残る、共になることの出来ない欠けた心

そう呼ばれる孤独というもの

そんな闇を削ろうとしたことを一番知っているのもここにいる二人

あの時の夜には、ただ単に乗せた言葉に過ぎなかった

でも、いまでは全てが良く理解できる

そのことを、頷きながらシンジが繰り返し、そして重ねる


「人は闇を恐れるあまり、火を使い闇を削って生きてきた

 そして、人は孤独を恐れるあまり、シナリオを描いて、それを取り払おうとした

 火が自らを焼き焦がすことも、シナリオが人を滅ぼすことになることも、考えることなく」

「そして、闇の意味を、欠けた心の意味を考えることなく」


レイが続いた

数拍、目を落とした先、高台から見える街のシルエットには闇を削るように小さな明かりが漏れている

でも、それはほんの微かなもの

見上げた空には、ただ単に闇と括ることの出来ない光景が満ちている

どの場所もひとつとして同じ色をしていない、いろいろな変化を見せる青闇色

盲目の闇ではなく、世界が生きている証、宇宙が存在している証を示すようにそれは生きていた

そして、星々はそんな美しい布地を彩るように輝く

夜には闇が降りる、でも恐れを抱かせるように何も見えない闇じゃない


「でも、夜闇もこうして見つめてみれば、あらゆる存在を隔絶する恐怖ではないんだよね

 輝く星、揺れ動く青闇色、それはこんなにも素晴らしいもの

 そして、欠けた心も同じだった」

「ええ、人が見ようとしなかっただけ、人が全てを恐れて閉ざしてしまったから

 まるで氷の世界、アイスランドのように」


人はいつの間にか忘れてしまっていたのかもしれない

そして、忘れ、一つに括ってしまったものを削っていった

欠けた心を一つにしよう、人と人とを隔てる心の壁を取り払おうと

禁断の実に手を出すことまでして手に入れたそれは完全な滅びに等しかった

何も生きていない、何も存在していない、全て閉ざされてしまった、全て閉ざしてしまった世界

生命も希望も夢も未来も、終焉という氷の中に閉じ込めて

生きることを氷の中に閉ざして眠りについた

世界も人も

そして、自分たちも忘れていた、そのシナリオの中核にいて

あの日々を過ぎていく中で、自らを氷の世界の中に閉じ込めていった


「でも、本当の世界は違っていたんだ

 答えはすぐ近くにあったんだよね」


世界を終焉させた、あの時の光景を思い出す

全てのぬくもりを永遠に閉ざしてしまった氷の世界、アイスランドでのことを

あの時、あの世界の中にあって二人は決めた

この世界は、本当の幸せを求めることの出来る世界じゃない

アイスランドを僕たちは望まない

それから、あの時、あの世界の中にあって二人は望んだ

この世界にぬくもりを取り戻したい

欠けた心が生み出す孤独はあっても、触れ合えることで生まれるぬくもりを感じられる世界を

そして、あの時、あの世界にあって二人は誓った

二人で繋ぐ絆の元に、自分たちの生み出すぬくもりの元に、アイスランドを溶かそう、と


二つの世界の光景が重なる


シンジがレイを見る

レイがシンジを見つめ返す

そこに、互いに微笑を乗せて


シンジが手を伸ばす

レイの手がそれに重ねる

そして、お互いその掌をしっかりと握り締めた


春の夜風の中に少し冷えた掌にぬくもりが伝わっていく

シンジのぬくもりがレイの掌に

レイのぬくもりがシンジの掌に

そして、それは互いの心さえも温めていく


「ほら、こうやって見上げれば、星の輝く綺麗な青闇色の夜も見つめられる

 ほら、こうやって手を繋げば、ぬくもりが伝わる」

「闇があったから、こんなに綺麗な夜空を仰げる

 欠けた心があったから、こうやって触れ合うことが出来る」


サードインパクト、人々が望んでしまった氷の世界の終結

そのときになってやっと、こんなに簡単で大切なことに気がついた

ただ夜空を見上げる、ただ手を繋ぎあう、それだけのこと

そして、とても大事なことを

人の欠けた心が生み出したぬくもりは世界の氷さえ溶かしていった

そして、いま目の前には夜闇に落ちる世界がある

少しだけ気がついた世界、少しだけ思い出した街

でも、あの夜のときよりも涼しいこの世界は、あのときよりもずっと、ずっと暖かい

サードインパクトの覚醒を越えて、世界は氷の世界から少しずつ氷解を迎えられているのかもしれない


「気づけてよかった、このぬくもりに」


シンジがレイを見つめながら、掌の力を増した


「溶かせてよかった、この生きていくことの出来る世界を」


レイがそれに返すように握る力を増す

そして二人は真っ直ぐ世界を見つめた

青闇色の空と真っ黒な街のシルエットの境目に、紫色の明るみが浮かび上がってきた

それは、一つの区切り、一つの日をはじめさせる氷解の儀式


青闇色の星々輝く夜空、人の生きるシルエットの街並み、夜明けの前の世界を背景にして、二人手を繋ぎあった後ろ姿は生きる強さをあらわしていた

あの時、誓い合ったぬくもりをその中にこめて


オレンジ色の帯が、街のシルエットを模した地平線に広がっていく

青闇色の夜空を後ろに、紫と緑の空が天上に張り、そして光が生まれた

一日の始まり、全ての動くことを赦された世界が新しい時を刻む

夜明けが、眩しいほどの朝日の光が二人を、そしてこの街を包み込んでいった



シンジとレイの背中に、アイスランドはもう見えない










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