天国の扉を超えた先に広がる神々の座
血よりも赤くて命に満ち、血よりも透明で死に満ちる海が広がる
その海に足を浸して私は歩く
そしてこの地下世界の中心に座し、かつ磔られる私と同じもの、同じだったものに私は向かいあった
刻が来た、私の還る刻が
私の始まりにして終わる場所に、私は還る
私が夢に見ないまで現に癒着し切望した空に、私は飛び立とうとしている
そして還るための翼が目の前にある
私の欠けた心に生える天使の羽、それを具現させる私の同胞が私を待っている
私と同じだったものを縛る槍はもはやここにはない、私を縛るシナリオはもはや外れてしまった
何も、そして何者も、私達を引き止めるものも留めるものもない
風を感じる
凄まじく荒れ狂う暴風が、私たちを中心にして巡る
風など存在しないこの隔絶された世界で感じるそれは、空間の、世界のうねり
翼を抱いた私が始まりと終わりの場所へ飛び立つための流れだ
私は手を伸ばして翼を掴み、背中にそれを埋め植えて広げればいい
そうすれば、私はこの世界から飛びたてる
飛んで堕ちることができる
ただ虚無へと
私は腕を広げる
目に映るのは私の翼
耳に聞こえるのは静寂の暴風
『おかえり』
私だったものがそう言い
「ただいま」
私がそう告げる
そして、私が私だったものに触れると、それは崩れて海に還り、私の背中を突き破って翼が生える
私だったものが私になり、それが私の翼になる
この世界に堕ちてきた時の翼が私に戻る
そして私は羽を広げ、風にのせて羽ばたいた
刹那
『風に乗って空に堕ちることの出来ない、翼を折った元天使は……』
ウィンドアンカァ aba-m.a-kkv
風が強い
うねるような風が世界と空間を巡り、風と風が互いに手を取り合い掌を重ね合わせて踊り狂う
冬と春の狭間の風
それは季節を繋ぎとめる楔を打ち砕き、重たいそれを世界から引き剥がし動かしていくだけの力を持つ
かつて十五年間という隔絶された旧世紀にあって、季節は絶対の硬度を持っていた
星のその場所その場所で季節は単一で固着し、人々の記憶さえそれを普通と見るほどまでに
でも、第三の衝撃でその箍がはずれ季節が移ろい始めた
そして、堰を切ったように風が溢れ冬と春の境目にあっては強い風が吹く
大人たちはそれを思い出し、子供たちはそれを始めて知った
そんな風達の絡み合う尾が私の家の窓を揺さぶり、私の部屋を震えさせていく
とうの昔に耐用年数を越え二つの衝撃を通過したマンション群は、特にこの季節の風の影響を受けやすい
崩れるということはないだろうけれど、音や振動は不安を抱かせてもおかしくないものがある
私はもう慣れてしまっているけれど、安らかに過ごせるかと問えばそれは否だ
だから、もう幾許もせずにここを去ることになっていることに安堵している
でもこの休日には特に強い風が昨晩からずっと吹いていた
天気がよくなり空気も春を含んで温かさを帯びる、そんな「ここから春ですよ」、と告げるような大風
MAGIも第三新東京市に暴風警報を発令して注意を喚起すると共に、NERVの施設管理局もビル風による被害を減らすために中心地の摩天楼を地下に収納することにしていた
使徒の襲来がなくなった今、要塞都市の外観を残す第三新東京市も柔軟になった
技術局の配慮で、本部での継続試験も今日は延期
私は外に出ることもなく、今日はずっと家の中にいる予定にしていた
どちらにしてもこの強風の中では外に出掛けることはできないし、それに、彼がこの部屋を訪れることもないだろう
本来なら、同じコンフォートに引っ越す準備をしようかとも思っていた
そうでなくても、彼と共に過ごす時間はかけがえなく大切なものだから、残念な気持ちもある
でも、こんな風の中、危ないことをしてまで来てもらいたくはない
明日にはこの風も和らぐというから、それから会いに行けばそれでもいい
だから今日は、静かに休んで読みかけの本の続きを紐解こう、そう思っていたのに、外は風達のジルバで賑やかで仕方がない
それがあまりにも楽しそうな音なので、ついに私は窓の外を覗き見に行った
閉じた薄いカーテンを開く
室内の古い蛍光灯を呑むような昼の光が部屋の中に入って来ると共に、窓という画面に舞台が映る
「すごい、風」
私は息を飲んだ
それは目に見えないはずの風が、いろいろなものを巻き込んでまるで目に見えるかのようだったから
木々や電線が激しくなびき、塵を巻き込んで流れを彩る
それはひとつの風ではなく、いくつもの風が、そう“兄弟たち”のように踊っている
窓ガラスがガタガタ震えるところに私は両の掌をはりつけた
細かく激しいその振動を通して、風達の力の一端に触れる
風に触れる
「……この世界なら、飛べそう」
私の中で何かが疼き、咄嗟に私は窓ガラスから手を離した
その手を胸に寄せながら、再び音を立てる窓ガラスの向こうを見つめる
そこにあるのは、翼があったなら飛んでいくことも易しそうなほどの風
そして、私の中にある疼きが形を纏っていく
私は、旧世紀にあって飛ぶことを望んでいた、願っていたんだ
でもそれは、彼ら風のように青い大空ではなく、父や母や兄弟たちが望んで消え果ていった虚無に還ること
無という闇の空に飛んで堕ちることを願ってやまない自分が旧世紀にはいたんだ
幾許かの間、私は立ち尽くしてその風を見つめる
ギュッと両の手を握り締め、それから身を翻した
クローゼットを開いて上着を羽織り、鍵を手にして玄関を飛び出した
エレベーターなど無いこのマンションの階段を私はゆっくりゆっくり登っていく
薄暗い上に所々崩れてはいるが、コンクリートに四方を囲まれている故に風の巻かれることは無い
でも、ひび割れたコンクリートの壁を軋ませるほどの風が、手を付く数十センチ先で渦巻いているのを音と振動とで感じることができる
同じ形の階段と同じ形の踊り場をいくつも過ぎる
上っているのか下っているのか、それは地下階層に堕ちながらそれを天国の扉と呼んだあの場所を微かに連想させた
何故そんなことが思い浮かんだんだろう、そう自分に問うけれど、壁に囲まれ暗い中では私自身も沈黙を通したまま
でも、屋上の扉を越えて風の踊る舞台に上がれば、この想いの果てを、この心の奥底に走ったものを見つけられる、そんな風に感じる自分がいた
あと一階層で屋上につながる扉にたどり着く、そんな時だった
私の上着のポケットの中で携帯電話が震える
こんな日に、こんな時にいったい誰だろう
養母からか親友たちからか、私の携帯を震わせるようになった人たちも増えた中で、私はポケットから携帯を取り出しメールを開いた
『綾波、いまどこにいるの?』
差出人は彼だった
私の歩みが一瞬止まる
私の息が一瞬止まる
何かが絡みついたような微かな感触が耳の後ろを通り過ぎて、私の止まった流れが戻ってくる
私はもう一度差出人の名前から短い内容までを見返した
示されているのは簡潔な内容、それだけに意味が広がる
でも、何をしているのか尋ねるものではなく、居場所を聞くということは、そこに行動が関係しているということだ
これから来るのだろうか、それとも、もしかしたらもう来ていたのだろうか、すれ違ったのかもしれない、そう考えながらも、私の足はふたたび階段を上がり始める
引き返すべきだったかもしれない、あるいは立ち止まって返信を打ったり電話を掛けたりすることもできた
これから来てくれようとしているのであれば、風が強くて危ないから、と彼を止めるべきだったのかもしれない
それに、もし、もう来てくれているのであれば会いたかった
でも私は、私の心の奥底が指を動かすまま、ただ質問に答えて返事をした
『家の屋上にいるわ』
携帯を閉じる音が木霊して、見上げた先の鉄の扉に当たって消える
切れかけた蛍光灯がパチパチ明滅する下にそびえる扉
屋上と階段とを隔てるそれは、もう塗装が剥げて錆びてぼろぼろになっている
普段のときはただの寂れた一つの扉に過ぎない
それなのに、その先に尾を絡ませ手を繋ぎあって踊り狂う風の群れが待っている今は、そこに威圧を感じる
大きなものを抑えて隔絶する扉、やはりあの場所を微かに思ってしまう
あの場所のあの扉も、すべての原初を、すべての死と命の源とを封ずる故に、特別なものであり聖なるものだった
その扉を私は開けてはいない、私はあの場所にも存在していたから
開けてくれたのは彼だった、扉の中に入って連れ出してくれたのも、私を掴んで救い出してくれたのも
私はノブに手を掛る
そこで刹那、掌が凍りついた
「……ほんとうに、いいの?」
一瞬の思考が駆け巡る
本当にこの扉をあけてもいいのか、この先にあるのは意味あるものなのか
私の中で何かが疼いたその答えがこの先にあるかもしれないし、ないかもしれない
それに、開いた先に歩みだして、私は私でいられるんだろうか、私は帰るべき場所に帰ってこられるだろうか
そんなチリチリしたものが耳を掠める
それでも私は、もう片方の手を添えて掌の凍てつきを溶かした
その先のものを見つめ、さらにその先へと進むこと、それは私にとって必要なものだと、私の欠けた心が囁いたから
そして私は、体重を掛けてその扉を押し開いた
押さえつける風圧
それとともに流れ込む風
臨界を越えれば、もぎ取らんばかりに扉を開き、私を引きずるように屋上へと誘い出した
腕を引かれたかのように前につんのめりながら屋上へと出た私は、反射的に重心を低くして手をついた
そうしなければ身体を掬われそうになるほどの風
その場所はすでにあらゆるものが風に掃き清められて、ただ平坦な灰色の場所へと変わっていた
玄関を出たときも風の力は凄かったが、階層を上がり、何にも妨げられることの無いこの場所での風は比較にならないほど強力だった
彼らの舞台に私は上ったのだ
蒼銀の髪が、上着の裾が、スカートの裾が、激しくたなびき浮き上がるような感じがする
腕を広げれば、風に煽られよろめいてしまう
そんな風が行き交う中を私は低い姿勢で歩き、半ば這いずるように端の欄干があるところへと向かった
雨ざらしで塗装のはげた欄干をしっかり握り、私は世界を渦巻く風を眺める、見つめる
そして想う、感じる
ああ、やっぱり残っているんだ
私の中には翼がまだ残っているんだ
命の実を食らうことで、私が私を喰らう事で、背中を突き破って出てきた、天使の翼
虚ろな無の深淵から降り立ち、奈落の底の滅びへと舞い上がる、そのための翼が、古い私の背中にはあった
日を迎えるまでの色のない日々を、私はその翼の影を抱きしめて切望していた
飛ぶ日を迎えることを、翼を広げて無へと還ることを
けれど私は、絆とのふれあいでそれを拒絶した
絆と生きると想い定めそれを拒絶した
自らでは折ることの出来ない筈だった翼の根元を、絆の助力を持ってそれを掴み、自らの意志で砕き折った
そして私は地面に足をつき、歩き始めたはずだった
でも、私は翼を自らの腕で砕き折ったけれど、それは折れてもなおまだ私の背中にあるのだ
それは例え砕かれ折れていたとしても、私の過去であり、私を作り上げるものの一部であることに変わりはないのだから
もう広げることはできない、力を加えてもそれは動かず、風にも乗れない
けれど、それは風を求めて私を呼ぶんだ
私が私を呼ぶんだ
あの扉の向こうで、私が私を呼び、私がそこに帰ろうとしたように
だから、あの窓の外を見て、その強い風を見て、飛べそうだと思ったそのときに、翼が私を呼んだんだ
あの空へ、真っ暗で何もない空に飛びたい、と
これだけの風があるならば、と
そして、私自ら扉を超えた今
「これだけの風なら、私の折れた翼でも、飛べるかもしれない
この屋上から身を投げるだけで、私は風に乗れるかもしれない
そして、大空の彼方へ」
風の音が私の耳を満たす
それはまるで、羽ばたきの音のようで
私の視界を風が覆う
それはまるで、翼の形のようで
私の肌を風が撫でる
それはまるで小羽根の舞いのようで
そして、それらはまるで、私の背中の天使の翼の広がりのようで
私が手摺に力をこめ、呼ばれるままに、促されるままに、腕を掴まれるままに、欄干の一段に足を掛けようとした
空へ飛び立とうとした
刹那
「――――っ!」
鎖が海の中で鳴くようにくぐもった音が震え、私は縫い付けられる
飛ぼうとした翼に絡まり、身体を縛り、地面に縫い付けられてびくともしない感覚
足を欄干に一段掛けた所で私の身体は動かなくなった
どんなに風が荒れようと、力をこめて翼を羽ばたかせようと、飛べない
例えそれが、折れていない天使の大きな翼だったとしても、飛べない
飛べない、安堵
飛べない、ぬくもり
私を縛り付けるもの
私を縫い付けるもの
私を惹きつけて離さないもの
「……そうだ、この感覚、あの時もそうだったんだ」
私が私を喰らって、私の背中を突き破って生えてきた天使の翼を広げて、飛び立とうとした刹那
私は、私を繋ぎとめるものを感じた
鎖のように堅くて、そして、私の内側で灼熱するぬくもり
からっぽで鳥のように軽かったはずの私の中を満たして、それはとてもとても重くて、暖かくて、そして大切だった
それが、私の縫い付けて離さなかったんだ
動かなくなる羽、動かなくなる翼
その瞬間、私は知ったんだ、自分の中に満ちるぬくもりに
その瞬間、私は気がついたんだ、私を繋ぎとめる絆に
そして、知らなかったこと知り、気づかなかったことに気づいた私を、あの時呼ぶ声がした
「綾波!!」
風が叫びあう中で、私を呼ぶ声がはっきりと聞こえた
音が消える、色が消える、感触が消える
世界の時さえ、私の時さえも止めてしまう言葉が、私の世界に流れ込む
あの時に、止まらないはずの時計の針に楔を打ち込んだのと同じように
そして、振り返ったそこには彼がいた
「……碇、くん」
私は掛けていた足を下ろし、体ごと彼のほうへと向いた
彼は風を掻き分けて、私のほうへと歩いてくる
そんな彼を見つめながら、私の身体に私の感覚が戻ってくる
風が戻り、音が戻る
それと共に、恐怖と震えが私を包んだ
無意識に両手で腕を抱え震えを止める
そんな私のすぐ隣の手摺りに手を掛けて彼は私に寄り添った
服越しにぬくもりが伝わってくる
それが私の感覚を一つ一つ丁寧に世界と結び付けなおしていく
しばらくの間、彼は風が渦巻く世界を静かに見つめていた
私はそんな彼の横顔を目に焼き付けて轟音の中の静寂を食む
そして幾許か
「すごい風だね、綾波」
そういって彼は目の上に手をかざして風を遮りながら、私に微笑んでそう言った
私は彼を見つめる
私の震えが瞬く間に引いていく
それは本当に優しい笑顔で、私は驚きながらも魅入ってしまう
「……怒らないの?」
名前を呼ばれたとき、叫ばれたとき、嬉しさと共に自分のしようとしたことの意味を重さを理解した
私は昔の自分が目指したことと同じことをしようとしたのだ
今生きる世界を捨て、虚無の空へ羽ばたいて堕ちることを望んだんだ
それが例え、私の中に残る小さな小さな折れた翼が誘ったものだとしても、それすら私である以上、私がしたことに変わりはない
そして例え、境界を超えることはなかったとしても、そう踏み出したという事実は彼との“契約”にたがえることだと言われても仕方のないことだ
だから怒られると思った、怒ってほしいとも思った
こんなことをしようとしてしまった私を怒ってほしかった
そうすることで繋ぎなおしてほしかった
でも目の前にいる彼は、私の考えを遥かに越えて、ただ優しく頷く
「何故?」
そう尋ねた私に、彼は空に手を掲げて掌に風を貯めながら紡ぐ
それはまるで私を空へと誘う片割れだった風さえも従えているかのよう
「こんな風の日に、飛べるんじゃないかなって、僕も思ったことあるんだ
腕を広げて翼に例えて、ぴょんぴょん跳ねてみたりしてさ
でも、飛べないことを知っている、飛べないと安心できる
やってみてやっぱり知れる、自分の場所っていうのを
自分の生きる場所というのを
だから
僕の傍でなら、やってみてもいいと思うんだ」
私は目を見開く
「いまどこにいるの?」そう尋ねた彼の言葉の意味が繋がる
彼はわかってくれていたんだ
風のことも、私の翼のことも
そしてそのすべてを包んで、私の隣にいてくれるんだ
そして私の中に満ちて、彼はいつも傍にいてくれるんだ
私が折れた翼を広げようと、激しい風が私を浮かせようと、私をこの世界と、彼と生きるこの場所とを繋ぎとめてくれる
ずっと、彼はいたんだ、あの時も、今も、ずっと
はにかんだように笑う彼がすごく大きく見える
その絆の強さと愛しさも
私は掴んでいた欄干から手を離し、彼の腕に手を伸ばす
そして風に浮かされて軽くなった体を彼に絡ませるようにしてしがみついた
彼が頬を染める
「で、でもね、綾波、やっぱり心配なのは変わらないから、独りではやらないで欲しいんだ
これは約束っていうか、お願い、なんだけど」
彼が私を信頼してくれていることが嬉しい、彼が私を心配してくれていることが嬉しい
言葉に付され伝わる想い
無意識に繋がる鎖も意識に繋がる絆も、私はそのどちらも一つに繋がるのだと知る
彼が言ったように、確かに知ることができる
それはとても大切で、かけがえない
すがった腕に頭を刷り寄せて頷く私に、彼はありがとうと言葉をのせてくれる
それは私の紡ぐべき言葉なのに
だから私は重ねる、彼の腕にすがる力を重ね増しながら
「私が飛ぼうとしたとき、私の欠けた心の中で、貴方が私を引き止めてくれた
貴方に名前を呼ばれた時、叫ばれたとき、私は嬉しかった
風しかなくなっていた私を吹き飛ばして、碇くんだけになった
私の眸も、耳も、肌も、全て感じるのは貴方だけ
私は私の在るべき場所を、私の絆を、貴方がいることで持っていられる
だから、ごめんなさい
そして、ありがとう、碇くん」
「綾波……」
それから私は、彼の腕から手を離し、彼に向かい合うように立つ
強い風が私たちの傍を過ぎ行く中で、私が私の体を支えるのは欄干を掴む片腕だけ
そんな状態で私は彼を見つめ、彼に願う
私が風を求めてしまったから、翼を広げようとしてしまったから
私の中に彼が満ちているのを重ねて知ったから
彼が私の傍にいて、私を繋ぎとめてくれるヒトだから
翼を折った元天使が今ここに在ることを望み、彼と共にあることをあの時望んだのと同じように
「私は空っぽで、私は軽くて、私は飛ぶことも堕ちることも容易かった
でも今は違う、私の空っぽの部分に碇くんがいるから
碇くんで満ちているから
だから、おねがい
私を抱き締めていて
私を離さないで
私を繋ぎ止めていて
これからも、私の“碇”となっていて」
私は半歩下がって両腕を広げる
私の全てを差し出すように、私の全てを繋ぎ止めてもらえるように
そんな私を、風が巻き上げるよりも早く彼が抱き止めてくれた
強く強く、溶けあうように溶けあわないようにしっかりと
彼のぬくもりが、その存在が伝わってきて、私もその背中に腕を回した
寄せ会う頬、その耳元で彼が囁く
それは吹き荒れる風の叫び声の中でもはっきり聞こえた
「離さないよ、綾波」
「……うん……うん」
重なりあう私たちを妬んでか、あるいは祝してか、一段強い風の群れが私たちを中心にして巡っていく
でも私たちはもう揺り動きはしない
彼に抱かれた私は碇を降ろし、それは紅い爪となってこの世界に食い込んでいるんだから
例え風がどんなに強くても、それが渦巻く下に広がる世界そのものを動かせやしない
私は彼に満ちて碇を手に入れ、翼を折った元天使は地面に赤く深い根を下ろす
結びあって幹を伸ばし、共に枯れ果てるその時まで
「さあ、綾波、部屋に戻ろう
食事の材料買って来たんだ
この風じゃ、大変だと思って
だから作るの手伝ってくれると嬉しいんだけど」
「ええ、もちろん、うれしいわ」
固い包容を解いて、刹那の時の隙間もあけずにしっかりと掌を繋ぎ合わせて、私たちは欄干から離れる
四方をコンクリートで囲む建物の中に入るまでの数メートル
来るときは独り、風に巻かれながらこの短い道を歩いた
私の軽い身体は境界の淵に立つまでもなく、この道の途中でも荒波に拐われる小舟と同じだった
でも、帰り道はしっかり地に足をつけることができる
蒼銀の髪やスカートの裾は激しくたなびくけれど、私の中には絆が満ちて重たく舞うことを知らない
それに、遥かに重く揺るがない碇が、この心と掌から繋がって下り、彼と一緒に生きると誓った世界に爪を立てている
だから私はもう、風に乗って虚空に堕ちることなど望まない
翼を広げようなんて思わない
この足元の世界が、このぬくもりが、私の生きる居場所だと、いつもいつも教えてくれる人が、私の隣にいるから
ずっとずっと、私の碇が、私を繋ぎ止めてくれるから
『ここにいる紅い眸の元天使は
風に乗って空に堕ちることの出来ない、翼を折った元天使は
世界に碇を下ろして、絆と共にこの世界を歩いていく』
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