主は言い給いける

枯れたる骨よ

我が言霊を聞け

我汝らの骨を骨へと集め寄せ、筋を汝らの上に作り、汝らの上に肉を生えしめ、皮をもて汝らを覆う

汝らの内に息を興して、我汝らを生かしめん

それは甚だ大いなる軍団となるべし






Ayanami LEGION     aba-m.a-kkv   








私には、何もないと思っていた

私には、縋るものなど無いと思っていた

私には、繋がるものなど無いと思っていた

私は虚無から生まれ、地に繋ぎとめられ、いつか虚無に帰るだけの存在

記憶も、思い出も、願いも、望みも、過去も、未来も

私には無い

そう、思っていた



重厚な音と共に、エレベーターの扉が開いた

上層と接続する境界を一歩越えると、後ろ手に扉が閉じた

世界が変わる

目の前に迫る壁のような闇が空間を統べる

それでも、空間は果てしない夜のように広大な奥行きを持っている

足音が何処までも波を広げ、彼方の虚空に飲み込まれていく

陰鬱な空気が充満して息苦しい

死でも、滅びでも、腐れでもない、とてつもなく純粋な虚ろがこの場所を満たしていた

風一つ、空気の流動一つ無いはずなのに、蒼銀の髪が揺れる

それは、この空間を満たすものに震えているからなのかもしれない

握り締めた鉄製の欄干が冷たく、氷のように感じるのは、眼下に広がる光景のせいだ


「……骨の谷」


見知った学校の、いまはもうなくなってしまった場所の制服を身につけ、綾波レイはそう呟いた

レイの紅い眸の先、闇の奥にまで広がる広大な空間には十字の巨大な溝や穴が掘られ、そこには無数の骨がうず高く積み重なっていた

人のものではない、巨人たちの遺骸

皮膚や肉や臓器などは無い、頭蓋骨や脊柱、肋骨や大腿骨などがバラバラになって遺棄されている

ここはターミナルドグマ――EVA素体廃棄場

人が神を真似て作った“人間”の成れの果てを葬った場所

十年前に破棄された失敗作の初期試作型エヴァシリーズの残骸を納めた墓所だ

そこにレイは一人立っていた



頭上で爆音が微かに聞こえ、微細な振動が足元を伝わる

でも、レイは驚いたりしなかった

それは定められていたことだったから

シナリオの終局に刻まれた事項

自分が上層階ではなく、この底知れぬ深みに足を向けたのも定められたものだった

自分を混沌から引きずり出し、この世界に留め置いた者の望みのために

これから更に最下層にある、座に向かわなくてはならない

SEELEのシナリオとは異なる結末を実現するため、自分が生まれた根源である虚無へと還る為に

でも、レイはその歩みを別のほうへ向けた

天国の扉へ向かう道ではなく、墓所に下りる道へと

欄干を乗り越え、垂直の壁に据え付けられた階段を降りていく

巨大なコンクリートの台座に降り立つと、その切り立った縁まで歩いていった

欄干など無い台座の端からは、さっき上から眺めたときよりもずっと大きく、巨人の屍の山が目に映る

百や二百では済まないだろう遺骸は、すっかり朽ち果てていた

音を生みだすものは無く、生もここにはない


「……なにもない

この骨の谷と同じように

私には何も無いと、そう思っていた

でも、違った」


レイは瞼を閉じる

瞼の裏側に映るのは朧げな少年の姿だった

右手で胸元を握り締め、そこに左手を添える

そこに感じるのは少年のぬくもりだった


「私の空洞の部分には、私を怯えさせる空洞には、いつの間にかあなたがいた

私は寂しかった

碇くんに、ずっと私を見てもらいたかった

碇くんに、ずっと傍にいてもらいたかった

碇くんと、ずっといっしょにいたかった

それが私の心、私の願い」


何も無かったはずだった、ただ繋ぎ止められているだけで

虚無から生まれ、虚無へと帰るそれだけのはずだった

その間は、ただ存在しているだけで

でも今、レイの中には碇シンジが満ちている

二人目の綾波レイが遺していってくれた、魂に刻まれた想い

それが、今のレイの中にも確かにあった

それに気がついたのはいつだっただろうか

冷たい部屋の中で涙を流したときだろうか

夜の帳に月を見上げたときだろうか

本部の庭園の流水に手を浸したときだろうか

ほろ苦いけれど温かいアールグレイの薫り

手のぬくもり

満月の光

二人目の自分に刻まれたものに触れた今、自分の中に満ちるものの意味が理解できる

それはとても大切なもの

でも、遅すぎたのかもしれない、それに気がついたときには

二人目のレイが消えた後、今の自分に会いに来たシンジの表情

ほんの少し前、このターミナルドグマを訪れる前に見たシンジの表情
 
彼の思いを、もしかしたら私を求めてくれたのかもしれない彼の思いを踏みにじってしまったかもしれない

そして、何も言葉を交わさないまま、何もしないまま、いま終局を迎えようとしている

本部は攻撃に晒されているはずだ

上層階では、この空間にはありえない死と破壊で満ちているに違いない
 
エヴァシリーズの襲撃を経て、サードインパクトの扉が開くときも間近い

彼にとってそれは絶望的なことでしかない

人という存在にとって、サードインパクトはどんな結末を迎えたとしても滅亡以外の結果はないのだから

そして、レイはそのサードインパクトの鍵でもある

レイは思う、自分の中にある願いと自分に課せられたものとの間には乖離があると

定められたシナリオ、覆すことを許さない運命の巨大な歯車

レイのこれからの行動は、シンジを滅ぼすことに繋がるかもしれない

その肉体を殺すことは無くても、シンジの心を引き裂くだろう

でも、自分に何が出来るだろうか

シンジのために何が出来るだろうか

虚無から生まれ、地に雁字搦めに繋ぎとめられ、あと数時もすれば虚無へ還ることになる自分に、何が


「私には、力が無いと思っていた

私には、何もない、運命を打ち砕く術も、運命を作り出す力もないと

彼のために出来ることなど、何もないと」


目の前に広がる夥しい屍をレイは見る

乾いた骨の群れを、そしてその奥にあるだろうダミープラントで崩れ落ちた分身たちの残骸を

レイの身体が微かに震える

でもその眸はまっすぐそれらを見据えていた


「間違ってた

それは、私が私を認めていなかったから

私は、私はたくさんいるといいながら、私は人ではないといいながら、それを認めていなかったから」


三人目といいながら、代わりがいるといいながら、それでもレイの心の奥底には自分は一人だという思いがあった

身体はいくつも生産されたリリスと人の融合体の一つであり、心もリリスからサルベージされたもの

今は無きダミープラントには、死してなお引継ぎをなす容れ物がたくさんあった

一人ではない、人ではない、それが事実として影のようにレイの足元にある

でも、それでも、レイの中にはそれを否定する思いが微かに、そして縋るような希望が微かにあったのだ

人ではないといいながら、私はヒトだという思いが

それは強力な一滴の毒のようにレイを侵し、水の中に落とされた一滴の黒のようにレイを染める

その思いは、ただレイが虚無に消えるだけなら問題はないものだった

現れ、ただ時を過ぎ、消えていくだけなら

その思いは帰還への妨げになるような大きな障害物ではないのだ
 
だが、力を、術を、求めるためには、それは猛毒だった


「私は……認めたくなかった

だって、それは、彼を求めることを諦めなくてはならないものだったから」


レイの口唇が震える

握り締められた掌に爪が食い込んで僅かな赤い川を作る

シンジに見てもらいたいという願い、シンジと一緒にいたいという願い

人で無いということを認めることは、自分に中に満ちる願いを、恐怖をもたらす空洞を埋めてくれるぬくもりを、自らかき消すのと同じだ

それは、もう出来ないことだった

魂に刻まれるほどの願いの否定は、恐怖を超える恐怖だ

だから二人目は自らを滅ぼすことを選んだのだから

何も知らないまま、何も思い出さないまま、ただシナリオに沿って消えてしまえば良かったと思わなくもない

でも、レイの中で息づくシンジへの想いは、もうレイの全てを超えるほどになっていた

虚無への帰還も、シナリオも、自分の願いも、存在も超えて


「でも……碇くんが消えてしまうよりはいい

碇くんが、碇くんでなくなるよりはいい」


レイの紅い眸に力が宿る

墓所の台座の端に立っていたレイは足を一歩踏み出した

夥しい遺骸が積み重なる奈落が待つところへと

そして、レイの足は空の上に歩を進めた

荒れた海に沈むように落ちていくことなく、足元に赤い光の足台を作りながら、何もない空間の上をレイは歩いていく


「私は認める

私はたくさんいる

私は大勢いる

それを認めたとき、私には力がある

あらゆる運命を征服するだけの力が、あらゆるシナリオを打ち破る軍団が」


中空を歩くレイの周りに赤い光が満ちていく

闇に閉ざされた空間に、淡く鈍く、でも強力な光が広がっていく

それは風のように四方八方へと、墓所に、骨の谷に広がっていく

骨の谷が振動する

それは上層階からくる振動でも、墓所そのものが震える振動でもない

そして赤い光点が、一つ二つと、いくつも浮かび上がっていく


「私は私を認めて彼を望む

彼がこの世界から消えてしまう恐怖より、人ではない異形の私を、たくさんいる私を、軍団でいる私を、生きている彼に恐怖される恐怖を選ぶ……!

彼が生きる道を、彼が生きる世界を、シナリオから奪い取る道を私は選ぶ……!!」


レイの声が空間に響いた


目を醒ませ、私

目を醒ませ、私たち

目を醒ませ


“レギオン”



無数の十字の柱が墓所を満たした

重い咆哮の群れと共に



私はレギオン、私は大勢であるが故に











「ターミナルドグマで正体不明の高エネルギー反応!!」


青葉シゲルの驚愕の混じる声と時を同じくして、中央発令所は激震に見舞われる

それは戦略自衛隊による先のN2兵器の爆撃よりも激しく直接的だった

天蓋の蒸発、戦略自衛隊の侵攻、量産型を搭載した九機の大型輸送機の陰が迫る中、圧倒的で目まぐるしい攻防を強いられていた彼らにとってそれは予想外の衝撃だった


「何が起きた!?」


立っていられないほどの衝撃が静まると同時に、身体を起こした冬月が問う

使徒の可能性ではないことは分っている

戦自の侵攻が下層階まで及んでいるはずもない

しかも衝撃減衰装置を最大にしている本部をこれほどまでに揺り動かす力とは

碇ゲンドウの描いたシナリオにも、SEELEが描いたシナリオにも無いはずだった


「場所はターミナルドグマのエヴァ素体廃棄区画と思われます!

全区画で測定機器の反応途絶!」

「A・Tフィールド確認!

分析パターン青! しかも一つではありません!」

「まさか、使徒!?」

「ばかな、ありえん」


冬月に焦りの色が見える

リリスの覚醒には早すぎるし、場所も違う

それに複数の反応があるわけもない

得体の知れない事態が最下層で起こっている、それだけが事実だった


「高エネルギー反応が複数分離!

ルート20方面に一つ、AEL三号分室方面に一つ、もう一つがこちらに接近中!」

「残りの高エネルギー反応はLCLプラントに到達!

最終安全装置解除、ヘブンズドアが開いていきます!」

「碇、何をしている……?」


上層で戦闘があり、下層で予想外の展開が現れる中、冬月は足元を見つめ疑問を噛み潰した







セカンドインパクトを経験し、17の使徒を見てきたその目でも、眼前に広がる光景は碇ゲンドウを驚愕させた

剥き出しの骨の内側に脈動する内臓が宿り、その上に徐々に筋肉組織が発達し、さらにその上に皮膚が覆われていく巨人の姿

装甲拘束具を纏わない巨人の姿は、まるで人間のようだった

しかも、その数は一つではない

暗闇に無数の赤い光点が浮かび上がっている

天国の扉を越えて入ってきたそれらは、その向こう側の広大なLCLプラントを埋め尽くしてなお溢れるほどだった

再生の預言を見ているようなおぞましく異様な光景にゲンドウは絶句する

本来ならレイがその場所にいるはずだった

それなのに、ダミープラントにもLCLプラントにもレイの姿は無く、ついにリリスの座を訪れたときにゲンドウを待っていたのは激震とその後の巨人の群れの来襲だった

十数体の巨人がリリスを囲むように円周に並び、膝をつき、頭を垂れた

その間も、巨人の再生は続き、骨はふさがれ、筋肉や皮膚が広がっていく

そんな光景を見回したゲンドウは天国の扉の真ん中に小さな存在を見つけ声を上げた


「レイ!」


その声の先には、可視化するほどの強力なA・Tフィールドを纏いながら中空を進むレイの姿があった

それは、もはや華奢な少女の風でも、藁人形の風でもない

軍団を率いる王の格がその全身を取り巻いている


「レイ! これはなんだ、どういうことだ!?」

「碇司令、これらは私です

すべて綾波レイと同じものです

私は大勢いる、リリスもリリスが生み出したものも、すべて私自身

私はそれを認めました

だから私たちはここにいます」

「廃棄されたエヴァの素体、母たる使徒リリスの力、だが……!」


ゲンドウは振り返り見上げる

ジオフロント、黒き月の最深部に座するもの、巨大な十字に磔られた白い巨人

七つの目を持つ仮面をつけられたリリスの肉体は確かにそこにある

信じられないことだが、理解できないわけではなかった

生命の根幹となる二つの存在のうちの一つ、全ての母たるもの、そのリリスの創造する力を使えば、神を真似て作ったものたちの遺骸を復活させることも出来ただろう

否、復活ではない、それはすでにそこにあるものだったのだ

全てがひとつのリリス

軍団にして一つの存在

綾波レイがたくさんいたように、大勢にしてリリスの存在であり、数百の存在が一つの意志に統率されている

群体にして個、個にして群体、それはまるでリリスが生み出したリリンのように


「心が身体を作り出します

だから、私たちを認めた私がここにいます

あとは、最後の身体を迎えるだけ」


ダミーシステムの容れ物は空っぽだった

それはガフの部屋にリリスの心は一つだけであり、それぞれの容れ物を一つの個として見ていたからだ

綾波レイがそれを意識した

自分は一人だと、自分はヒトだと

だが、レイがその全てを自分と認めた今、それはその全てで一つの存在になったのだ

全てが綾波レイであり、リリスだと

レイがゲンドウを通り過ぎて、磔られたリリスへと向かう


「待て、行くな!

レイ、何をするつもりだ!?

魂の補完は、私の願いはどうなる!?」

「私の望みは、あなたじゃない」

「レイ、頼む、待ってくれ、私をユイの元に、レイ!」


膝を折れるゲンドウを背に、レイがリリスの前に立つ

その目は元の肉体を懐かしむものでも、感慨を浮かべるようなものでもない


「ただいま、と私は言うべきなのかもしれない

でも、帰るのはあなたのほう

来なさい、私、碇くんが待っているわ」


レイの手が空間を薙ぐ

それと同時にリリスの仮面が割れて血の海に落ち、その巨躯が液状になって崩れ落ちていく

現れるのは赤い巨大な核、使徒やエヴァが持つコアと同じものが残る

レイが近づいてそれに触れると、核は光を放って縮小し、レイの掌に導かれてその胸の中に溶け込んでいった

刹那、空間のうねりがレイを中心に拡がっていき、軍団のそれぞれがその頭上に光輪を帯び咆哮を上げた

レイにも光輪が現れ、その背に十二の光の翼が生え広がる

それは小さくも、十五年前に南極を覆い尽くした翼と同じだった

それから、レイは天国の扉へと向かう

軍団もそれに従った


「レイ、戻って来い……」


ゲンドウが縋るように手を伸ばした

火傷で爛れた掌に、埋め込まれたような眼球がある手を

次の瞬間、レイの手が光で薙いで、ゲンドウの手の内側を抉り取った

血が噴き出し、苦痛にゲンドウの表情が歪む


「それは、あなたが持っていてはいけないもの

私が持っていきます」


それからレイは軍団の中の一体を呼び寄せた


「私の欠片、あなたは碇司令の傍にいなさい

私が滅びて果てるそのときまで、あの人の傍らに居て守りなさい

碇くんが望む世界に必要になるはずだから、それに……」


レイがゲンドウを見る

それは目はとても優しいものだった

その表情に、ゲンドウは固まり目を見開いた

それは、彼の最愛の妻の姿を映すように見えたからだ


「私を呼び寄せ、溶けたものが望んでいるから

碇司令、あなたは生きてください

それが、あなたが求めたものの望みです」


崩れ落ちるように突っ伏した影から、小さく嗚咽が響いた

その上に軍団の一つが影を落とし、肢体の王の命にそって彼を覆い囲んだ


「さあ、いかなきゃ、碇くんが呼んでる」


軍団を引き連れて、レイは地上を目指す







「高エネルギー反応の一つが、発令所直下に来ます!!」


日向の声を掻き消すように発令所の側壁が崩れ落ちた

爆音と爆煙が周囲を包み込む

それと共に響く咆哮に、オペレータフロアで攻防を続ける四人は耳を塞いだ

その間も何かを破壊すような音と銃声と人間の断末魔が響いていた


「今度は何だ!?」


爆煙が晴れたときに四人が見たのは、一部に骨が見え、脈動する肉と皮膚がずぶずぶとそれを覆っていく巨大な腕だった

それが、いままで戦闘を続けていた副発令所を潰し、戦自の特殊部隊をなぎ払っていた

発令所を制圧しようとしていた残存部隊はなすすべも無く撤退する

銃声が止むと共に、瓦解の音を響かせて巨人が姿を見せる

その光景に体の中が痙攣しそうになるのを抑えながらマヤは思わず目を伏せた

残りの三人もその光景に絶句する

半壊した、否、まだ半分しか再生していない頭蓋には脳髄と眼球が見え、再生が終わった半分には赤熱するような目があって彼らを見つめる

その巨躯も生々しく再生を続けていた


「使徒じゃない、これは、エヴァか……?」

「攻撃してこない、いったいこれは……」


日向と青葉が搾り出すように言う向こう側で、戦自を殲滅し終えた巨人は彼らを見据えたまま動かない

この場を収め守るようにと命じられた兵士のように


「エヴァ素体廃棄場での爆発、そして、この巨人

まさか……」


冬月が考えを巡らせる中、ありえないとも思う考えを証明するように新たな状況が生まれる


「ターミナルドグマより高エネルギー反応の本体が急速上昇中!!

メインシャフトの状況をモニターに出します――」


側面に鎮座した巨人から三人は目を離し、メインモニターへと視線を向けた

震えるマヤも僅かに顔を上げる

そこで見たのは更に絶する光景だった

メインシャフトを埋め尽くすように、あるものはその外壁に爪を立ててよじ登り、あるものは光輪と背中に一対の翼を赤く輝かせて浮上する

蝗の軍団のように、二億の騎兵のように、夥しい数の巨人の進軍がそこに映し出される

そして、その軍団の中心に一際強い光を纏って浮かび上がる小さなものの姿が映った

ただ真っ直ぐ、シャフトの上方、地上部の先、そこで戦っている少年を見つめた綾波レイの姿が


「あれは、レイ……!

そうか、リリスを取り込んだのか

碇は失敗したのだな

だがそれもまた一つの結末か」


冬月が吹っ切れたように肩の力を一瞬抜いた

ここから先は、傍観者とならざるを得ない、それを悟ったのだ


「SEELEのシナリオも、碇のシナリオもこれですべて白紙に戻った

誰も、死海文書さえも予想していなかった未来

まさかリリス自身が、全ての予定と運命を打ち砕くとは

この先は、サードインパクトの無から人々を救う天使の軍団となるか

破滅をもたらす蝗の軍団となるか

未来は、彼女に委ねられたか」


メインシャフトを昇る軍団を映したメインモニターの隣

サブモニターに映し出された地上部には、赤い巨人を庇って立つ紫の鬼神と、それを取り囲む九つの死神の姿が映し出されていた







碇シンジの脳裏に、瞼の裏に焼きついて離れないのは、真っ白な光だった

使徒を押え込んで自爆した零号機が放った閃光

世界も、音も、声も、命も、想いも、すべて掻き消した閃光の果てに、レイの涙と微笑を見たような気がした

最後に呼ぶ声を、聞いたような気がした

それが、シンジから離れない

彼女の掌のぬくもりを、操縦把を握る今も鮮明に思い出すことが出来る

月を見るたびに、一緒に生きていこうと約束した言葉を思い出す

彼女を最初に見たときの印象はどうだっただろうか

無機質な、不思議な存在として見ていたような気がする、あるいは父親に関係する微かな嫉妬も

でも、言葉を交わすうちに、触れ合ううちに、その存在は特別になっていく

他人を特別なものとして捉えられなかった自分が、彼女には特別なものとして目を向けるようになっていった

けれど、その感情が愛しい気持ちだと気がついたときには、掌から存在が零れ落ちていた

彼女を失いたくないと思った

その後再会したときの嬉しさと困惑

真実を知った混乱

その全てを包含して、彼女の存在は自分にとってどういう存在なのか

分らなくなってしまった

そして、時が目まぐるしく過ぎ、ここまで答えを出せないまま来てしまった

でも、いまなら、答えを出せるような気がする

自分の意志でエヴァに乗り、自分の意志でここに来た今なら

それは、どうしようもないほど遅かったのかもしれないけれど


「もう、二度と、僕の目の前で誰も死なせたりはしない」


シンジは双頭の剣を構えた、復活した九体の量産型を目の前にして

後ろには右肩を刺し通され、右腕を失って活動限界を迎えた弐号機がいる

惣流アスカを守らなければならない、それは約束であり意思だった

そして、その先に、自分の成すべきことを決めなければならない

人類補完計画に対しても、サードインパクトに対しても

そして、彼女への答え、自分の生きる道に対しても

量産型が双頭の槍を手に鳥のような白亜の翼を広げる

羽ばたいて空中に躍り上がった量産型は四方八方から初号機へと突撃を敢行した

九体同時の攻撃

初号機の前面からくるもの、背後を襲うもの

量産型は数を利用して弐号機にも襲い掛かり、シンジの意識を撹乱する

個体の戦闘力や経験値そのものは量産型をはるかに上回る初号機も、九体という数と三次元の攻撃、弐号機を死守しながらという制約下ではあまりに不利だった

量産型の再生力はおぞましいほど高く、シンジの渾身の攻撃にも消耗を知らない

それでも、アスカを庇い、傷を幾つも負いながらシンジは剣を振るい続ける

もう誰も、死なせないために

大切なものを守るために

生きるために

アスカの声、ミサトの唇の感触、掌のぬくもり、それを刻み付けてシンジは戦う

けれど、時は終局へと向かう

背後から刺し通され、足を串刺され、腕を噛みつかれる

そして、苦痛に耐えるシンジが見たのは、四方と空から自損さえ厭わない体勢で突撃してくる六体の量産型の切っ先だった





『碇くん……!』





声が聞こえた気がした

刹那

赤い光が初号機と弐号機を包み込んだ

硝子のような薄く輝く壁が、一枚や二枚ではない

数百という莫大な重なりと強度を持って量産型の剣を阻み、九体の巨人を吹き飛ばした

そして爆音が響く

天を貫くほどに巨大な十字の光の柱が聳え立ち、底知れぬ坑の扉がこじ開けられる

本部表層施設は跡形も無く蒸発

そしてまるで煙のように、光輪と光翼を備えた巨人の群れが浮き上がり、坑から吹き上がるように這い上がってくる

軍団が地上へと出た、それを率いる王と共に







「綾波……?」


自分たちを守り量産型を退けた光の防壁と目の前に広がる想像を絶する光景

でも、碇シンジには自分の耳に届いた声のほうが大きかった

自分の名を呼んだその声は、紛れも無い綾波レイの声だった

そしてそれは、彼女が閃光の中に消え果てた時以来、聞くことの叶わなかった言葉だった

しかも、自分を呼んだその声は、自分が知っているレイの声だ

一番距離が近づいたと、そう思ったときの声

気がつけば、自分たちを包み込んでいるA・Tフィールドにも彼女の雰囲気を感じる

掌に残るぬくもりと同じ、彼女の雰囲気が

シンジの中に熱く込み上げるものがある

レイが自爆した後、三人目と言った彼女と再会したときには感じることの出来なかったものが

だから、シンジにとって、今の状況は恐怖でも驚愕でもなかった

否、恐怖も驚愕もあらゆる感情をも、その内側に熱く込み上げる想いが超えていたのだ

ジオフロントを埋め尽くしていく軍団の中にレイの姿を見つける

シンジはその名を叫んだ


「綾波!!」


その声に、レイは初号機を見る

シンジが見たその表情は、安心したような、少し泣きそうな、そんな雰囲気をたたえていた

でも、それも一瞬

レイは自らの欠片達に自分の意思を分け与える

  
「私の欠片たち、行きなさい

報いを与えるべきものに然るべき報いを与え 

私の意思をもってこの星を巡り、継承を果たすための各々の座に着きなさい」


レイの命のもとに数多の巨人がその光の翼を大きく広げて空に浮かび上がった

そして光の奔流となって、母たる核の意思を持って四方へと消えていく

その一部はシナリオを描いた十三の者たちの頭を打ち砕くため、残りのものは継承の儀式の要となるために

残るのは三十三の軍団、そしてそれを率いる王たる少女一人

多くの使いがジオフロントを離れる頃、四方に吹き飛ばされた量産型が再生を終えて立ち上がった

白亜の翼を広げ、双頭の剣を構える

そして新たに現れたレイと三十三の軍団に切っ先を向けた、手負いの初号機はいつでも屠れると判断したのかもしれない

それよりも、儀式の妨げとなるものたちの排除を優先するつもりだったのだろう

だが、レイが強大な威圧をもってそれらを見据える

すると、量産型は恐れに震えるように後退り、矛先を初号機へと向け直した


「十の球と二十二の小径よ

古き継承に導く使者を、SEELEのしもべ達を喰らい滅ぼせ」


レイの言葉と共に三十二体の軍団がその光の翼を広げて躍り上がり、九体の量産型に襲い掛かった

量産型も双頭の剣を振って攻撃するが、いつまでも持つわけが無かった

初号機に量産型がしたように、軍団も複数で一体を襲う

分断し、押さえつけ、剣を奪い、刺し通し、引き千切り、打ち砕き、喰らい尽くす

九つの場所で捕食がなされる中、レイは一体の軍団を引き連れて初号機と弐号機の元に向かった







輝く十二の翼をもって中空を進み向かってくるレイを、シンジは静かに見つめていた

大空に飛び立つ数多の使い、三十二の軍団による量産型の屠殺、それを命じた超常たるレイの存在と雰囲気

そのどれもが、普通なら自我に亀裂を入れかねない、人の許容を越えた事象だ

だが、シンジは冷静だった

それは、このエヴァに乗った意味を、ここに来た意味を刻んでいたから

この終局に立つことを覚悟していたから

でも、それ以上に、レイの言葉とA・Tフィールドから感じるぬくもりがシンジの心を落ち着かせる

それは微かな希望などではなく、自分がこれからどうするのかという意志への繋がりとなっていた

もう失いたくないと強く、強く思い刻んだゆえに定めた意志に

瞼の裏に焼き付いて離れない白い閃光の奥で見たものに答えを出すために


「綾波……」

「碇くん、よかった……碇くんが碇くんのままで」

「綾波、これはどういうこと?」


シンジの全てを包括するまっすぐな質問の意図に、レイは少し逡巡した

そしてシンジの意図とはすこし離れた、ただ事実を答える


「終局が始まったわ

人類補完計画が発動しようとしている

人は道を選択しなくてはならないところまで来てしまった

でも、私は補完計画の結末を望まない

その果てにあるのは人の滅びであり、碇くんが碇くんでなくなってしまうということだから

だから私は違う道を選んだの

時間がないわ、儀式を始めなくていけない

まずは惣流さんを本部の中に」


レイが引き連れた軍団に命じて弐号機を支え上げる

それは弐号機を抱えながら浮かび上がり、メインシャフトからケイジへと降りていく


「彼らはいったい……?」


シンジの一歩深まった問いに、レイは躊躇い一瞬目を伏せる

けれどすぐに、自らに決めた覚悟を思い出した

失う恐怖より、恐怖される恐怖を選ぶことを


「あれは……あれは、私よ、碇くん

私であり、リリスであり、リリスの分身でもある

碇くんは……見たのでしょう?

ダミープラントの私たちを

それと同じ

違うのはその全てを、私が私の存在として認めたということ

ダミープラントの私たちはからっぽだったわ

でも今は、全ての私たちが私の意思を持っている、ただ一つの意思を

あの軍団は私そのものなの

そして、私は……私は、人じゃない、それを認めて力と権利を得たのよ」


レイは震えるように言葉を紡いだ

言わなくて済むのならどれほど楽だろう

でもそれほど困難なのはレイの中のシンジがとても大きな存在だからだ

恐怖されることを望むという重み

自分が軍団であり、人ではないということを認めたそのことを顕在化させる意味をも持つ

他の誰でもなく、碇シンジにそれを証しすることでレイは確固たる力と権利を得る、自分の望みを叶えるための

シンジのほうはレイの言葉を理解しきれたわけではなかった

でもその予感はあった

それに加えて断片的な情報がシンジの中でレイの言葉を噛み砕いていく

ダミープラントでリツコが語ったこと、ミサトから託された真実

リリスの存在、母親であるユイとの関係、断片が結び合わさって目の前の事象を明らかにしていく

その圧倒するような事実にシンジは自分の手が震えているのに気づいた

でもシンジはそれを抑え込む

震えて動けなくなることは、考えられなくなって目を瞑ってしまうことはもうしたくなかった


「綾波に、綾波だけに背負わせるなんてしたくない

僕は、何をすればいい? 僕は、何ができるかな」


レイはハッと顔を上げる

そこには溢れる恐怖の代わりに、共にいようとする意思があった

いまはそれでいい、否、儀式を遂げる上でそれ以上に何を望めるだろう

安堵ではない、力が抜けるわけでもない、けれどレイには、濃い霧の切れ間に地平を見たような、そんな気がした


「碇くんには私の傍にいて、見届けてほしい」


その言葉にシンジはひとつ確かに頷いた

それはレイの我儘だった

シンジがそう言ってくれた故の我儘だった

これから始まる儀式にシンジの存在は必ずしも必要ではない

むしろアスカにそうしたように、リリスの殻の中にいたほうが安全かもしれない

リリスの知識を得たとしても、この先にどんなことが起こるのか確定しているわけではないのだ

それでも傍にいて欲しいと言ったのは彼女の願いだった

もう伝えることも叶えることも出来ないかもしれない

時間は残り少なく終局は目前にあり、果たすべきものがある

だから、せめて儀式の最後まで近くにいたかった

その想いがレイにそれを告げさせたのだ

その想いが届かないものだとしても







レイが軍団を召集する

三十二の軍団はその命の元にレイを囲むように寄り集った

彼らがいた九つの場には骨の一欠片、体液の一滴すらも残ってはいない

喰らい尽くし舐め尽くし、全てを呑み込んだ

それは古き継承へ導く者たちからの引き継ぎでもある

新しい継承を証しするために

三十二の軍団の背を突き破ってさらに二対の光の翼が生え出る

一対で顔を覆い、一対で身体を覆い、もう一対で空中へと浮かび上がっていく

その半分が地を離れる頃、レイとシンジを内包した初号機が引き上げられた

シンジが初号機の手を差し出す

レイは少し驚いたような表情の後、その掌に足を置いた

全ての軍団が地を離れ、ゆっくりと高度を上げていく


「綾波はこれから何をするの?」


山並みの果てが見えるほどに達した時、自分の掌の上にいて世界を見つめるレイに、シンジは尋ねた

その表情の奥に、眸の奥に、何を思っているのかシンジには読み取れない

レイはまっすぐ世界を見据えながら答える


「碇くんは聞いたのでしょう? 人類補完計画の意味を」

「うん、でもちゃんと理解してるわけじゃない」

「この星は今、継承者を望んでいるわ

継承候補者である十五の可能性を持った使徒を滅ぼして、人は、この星を継承する正式な権利を得た

いまは亡きSEELEは権利の獲得と共に人を群体から単一の完全な生命へと昇華させようとした

人を隔てる壁、A・Tフィールドを取り除くことによって

碇司令は禁断の融合と共に自らの自我をもってそれを成し神と等しい力をもって君臨しようとしたわ

何にも奪われないようにするために、奪われたものを取り戻すために

でも、どちらにしても人の個は失われる

それは碇くんが碇くんで無くなってしまうということ

私はそれを許せなかった

あなたには生きていて欲しいから

だから私は、人をこの星の継承者として決することを願い、宣言するの

群体という不完全な存在のまま、いままでの人のまま

心の壁を持つゆえに恐怖は消えないけれど、ぬくもりに触れられる使徒に

私はリリスの権とリリスの分身である軍団を使ってこの星に刻印を打ち、人に継承を、旧き者たちに終焉を、そしてこの戦争を終結させる」


レイが腕を広げる

すると三十二の軍団はそれぞれ十の球と二十二の小径の座に着き、それぞれの額に古の十の言葉と二十二の文字の浮かび上がる

それから、いままで覆っていた二対の翼を広げる

空間を薙ぐ音と共に周囲の雲が掻き消えた

見渡す限り視界が広がった


「いい? 碇くん」


継承の儀式を始めるための全てが整った

あとはドミノの最初を弾くだけ

その許しを、レイはシンジに求めた

委ねるべきことではないのかもしれない

それは人の個体には重すぎるものだ

でもそうしたかったのは、聞きたかったからだ

誰でもない、碇シンジに

自分の望みの核心に


「うん、僕は綾波を信じるよ」

「ありがとう……

では、儀式を始めましょう

まずは、極の空座に終焉を、そして黒き月を在りし日の姿に」


軍団の額に現れた古の言葉と文字が光り、全体が結合していく

光の祝詞が空に刻まれていく

そして生命の樹が浮かび上がった

十の球、二十二の小径、そしてさらに次元を超えた一つの球、そのすべてが揃った完全なセフィロトの樹が完成する

三十二の軍団がS2機関を解放する

それは旧き使者たちから引き継ぎ、喰らい、奪い取ったもの

力が臨界に達し、樹が熟す

その時、直下の物質はその存在をもはや保つことができない

樹がひときわ荘厳に輝いた瞬間、ジオフロントを中心にした広大な範囲が閃光と力の渦に包み込まれた

それはジオフロント表層を蒸発させ、本部縁周を掘削していく

それは砂に埋もれた卵を優しく包み込んで抉り出す手のようだった

星に巨大な打刻を残して黒き月が顕になる

時を同じくして、星の隅々に散らばった軍団の一部は南極に穿たれたアダムの空座を打ち砕いた

成層圏に達するほどの光の柱を撃ち立てられて、人の侵入を許さない聖域が消滅する


「アダムの空座が消滅し、継承の扉が定まったわ」


レイはそう告げると、片腕を天に伸ばした

月の外縁が輝いた

それは月の拘束を引きちぎり、セフィロトの樹の前へと降り立った


「ロンギヌスの槍、いえ、いま意味するのはエゼキエルの鍵

継承の扉を開くもの、星に継承者の名を刻むもの」


セフィロトの樹を構成していた軍団が位置を解き、レイと初号機のシンジと共に降下を始める

三十二の軍団はレイとエゼキエルの鍵を中心に円陣を組んだ

レイは六対の翼の内の一対の翼を大きく伸ばし、腕の代わりにエゼキエルの鍵を掴んだ

黒き月が脈動しその中心に一本の亀裂が、そして周囲に三十二の穴が開く

それはまるで鍵穴であるかのように


「生命の源である黒き月が人の継承のための扉に変わったわ

エゼキエルの鍵を使って、人のこの星における可能性を開き、三十二の軍団と星の上の各々の座につく軍団をもってこの星に刻印を施す

もう一つのサードインパクト

人はいまの群体のまま新世紀へ移り変わる

でも、星を継ぐものとして人は少しだけわかりあえるようになるわ

行き詰まりから道が開ける

その先は、人が自らの足で歩んでいけるはずよ」


三十二の軍団が穴の中に沈んでいく

そこに込められた意思を汲み取って継承の扉の鍵穴が複雑に変化する

それに合わせるように、レイの翼の中のエゼキエルの鍵は二叉の形状を変化させて鍵へと変わった

レイがシンジを見る、焼き付けるように刻み込むように

そして微笑みを浮かべながら、鍵を差し込んだ


「福音よ、響きわたれ」


すべての軍団が巨大な十字の光の柱に変化してそびえ立っていく

それがこの星を覆い尽くしていく

地のどこにいても、何人たりと隔てなくその光景を見られるように

すべての人が含まれるように

レイとシンジを取り囲む軍団もまた光の十字に変わりそびえ立つ

それを仰ぎ見て、レイは六対の翼をすべて使ってエゼキエルの鍵を回した

その時、光の柱が星に沈んでいく

星に人の存在を刻み込むために

人が存続することを、この星に楔として打ち込むために

そして、すべての軍団が星に刻み込まれ、鍵が回しきられた瞬間、地にいる総ての人が音を聞いた

継承の扉が開く音、新世紀の扉が開く音

黒き月が割れる

閃光が溢れ、星は光に包まれた







シンジが目を醒ました時、エントリープラグの中は真っ暗だった

初号機のエネルギーがなくなったからだろう

それはエネルギー源であるS2機関の消失を意味する

扉を越えたことと関係ないはずがなかった

それでも、プラグ内のLCLが変質を起こしていないことをみると、気を失っていたのはごく短い時間だったのだろう

シンジはエントリープラグに装備されている非常電源を接続しプラグを手動でイジェクトさせた

外部の状態がわからない中で外に出るのは危険極まりない、普通なら救援がくるまで待つのがマニュアルに沿っているが、いまのシンジにはそれ以上に気がかりなことがあった

世界がどうなったのか

人がどうなったのか

でもそんな疑問を遥かに超えて、レイはどうなったのか、それがシンジを駆り立てた

プラグが射出され、LCLを排出するとすぐハッチを開く

そこは、雲ひとつ霞ひとつない、硝子のように澄みわたった青空の下だった

引き込まれてしまいそうなほど高く、魅入るほど美しいと思う空

空気感もまるで違う感じがする

初めて肺を満たすような新しい空気、それは羊水に抱かれていたものが世界に生まれ出たかのようだった

さらにプラグから這い出たシンジが見たのは、一面真っ白な黒き月だったものの大地だった

継承の扉が開いた時に溢れ出た閃光に染められたかのような、どこまでも純粋な白が地平線の果てまで広がる

その上にそびえるものはひとつもない

軍団も、鍵も、何一つ

ただ唯一、穢れなき白の地に横たわる少女の姿以外は


「綾波ッ!!」


シンジの呼び声が遮るものも抑えるものもない空に響く

でも少女は横たわったまま動かない

シンジは初号機を滑るように降り、純白の地に最初の足跡を残しながらレイの傍に駆け寄った


「綾波! 綾波!!」


そこには安らかに眠るように目を閉じるレイがいた

膝を着き、その肩を抱いて抱き起こす

そして何度も呼び掛けた

幾許かしてレイの瞼が微かに動いた

ゆっくりと紅い眸が現れていく


「……碇、くん」


澄んだ綺麗な声が聞こえる

聞きたくて、聞きたくてたまらなかった声が

この耳で、すぐ近くで聞きたかった声が

それはシンジの想いを膨らませる


「綾波、良かった

目を醒ましてくれて、ほんと良かった

僕は……僕は……」


シンジの声が掠れる

その浮かび上がる涙を遮るようにレイは紡いだ


「私も嬉しい……“最期”に碇くんの顔が見れた」

「そんな、最期なんて、そんなこと……」


諭すように言うつもりだったシンジは驚愕する、その腕の中にある存在に

レイの身体がかすみ始める、まるで空気に溶けていくかのように

その存在が流失していく


「綾波!?」

「旧きものの宿命、存在意義を失ったものは滅びなければならない

この星に継承を定められた新しいもの以外は

本当なら、扉が開いた時に私は消えるはずだった

でも、少しだけ時が許された

私は嬉しいの、最期に、私の願いが叶ったのだから」


レイは安らかな笑みを浮かべる

すべてを成し遂げ、すべてを叶えた、そんな満たされた雰囲気があった


「いやだよ、綾波

何言ってるんだよ

すべてが終わったのに、すべてがこれから始まるのに、別れなきゃならないなんて

綾波は誰より精一杯やったのに、君だけ消えなきゃならないなんて

そんなのないよ」


シンジには予感があった、レイが再び消えてしまうのではないか、そんな恐怖の予感が

レイが自らを人ではないと告げた時から、儀式を司るものと告げた時から

人の継承について彼女は言ったが、自分と軍団の行く末については何も語らなかった

いま思えばあえて告げなかったのだとわかる

レイは最初から、自らを認めレギオンとなったその時から、この結末を理解し覚悟していたのだ

でも、シンジはその予感を認めたくなかった

だから、気づかないようにしていたのかもしれない

だが、それを知ったからといって、何が出来ただろう

自分の腕の中で存在を薄くしていく彼女を見て、無力を噛み締める


「そんな悲しそうな顔をしないで

聞いて、碇くん

お願い、私の想いを、どうか聞いて」


喉の奥が潰れそうで言葉が出てこないシンジはただ頷いた

レイはそんなシンジを優しく見つめる


「零号機が使徒に侵食されて私が自らを葬るとき、自分の願いに気がついたの

私は寂しかった

碇くんに、ずっと私を見てもらいたかった

碇くんに、ずっと傍にいてほしかった

碇くんに、ずっと触れて欲しかった

碇くんと、ずっと一緒にいたかった

そう、思ったの

私が軍団となった時にもあなたを想ったの

私の願いが叶わなくても、碇くんには生きてほしい

幸せになってほしい

それが私の望みになったのよ

でも、いまその二つが叶っている

碇くんが生きている

そして、碇くんが私を見てくれている、傍にいてくれている、触れてくれている、私の最期の時までずっと一緒にいてくれる

願いも望みも私に満ちている

だから嬉しいのよ」


レイが、青空を透かすような手を伸ばす

シンジは涙を零しながらその手を握りしめた


「碇くん、NERVの庭園で触れた時のことを覚えている?

私はあの時こう感じたの

五度目に碇くんに触れた時、私は愛しいと感じたの

それが私の想い

私は、あなたが好き

碇くんが好き」


シンジはレイを掻き抱いた

崩壊していくレイをきつく、きつく抱き締める

最期の最期に心を逢わせることが出来た、その想いをひとつに重ねるように

奇跡を願わずにはいられなかった、神がその足跡に落としたものを

永遠のような一瞬を経て、シンジは顔をあげた

涙を拭い、レイを見る

その瞳は、覚悟を定めた瞳だった


「僕は、僕は君を失いたくないって思ったんだ

零号機で君が自爆したあと、僕は心の底から思った

君を失いたくない、君と生きていきたいって、あの月の下で約束を交わしたように

綾波が軍団をつれて上ってきた時も、君の姿を見て嬉しかったんだ

君に名前を呼ばれて、すごく嬉しかった、欠け換えのないものだと思った

この想いは何にも覆われるものじゃない

その想いを僕は信じることにしたんだ

綾波は、自分の存在を懸けくれた

僕が生きるために

なら僕も、綾波を失わないために、君と生きるために、僕の存在を懸ける」


レイの傍らで何かが脈動する

赤い光がぼんやりと浮かび上がった

レイが驚愕に目を見開く


「まさか、アダム……! まだ滅びていなかったの……!?」


もう指ひとつ動かせないレイは、刹那、シンジの言葉の意味を理解し、その意図を悟った


「やめて……! 碇くん、それに触れてはだめ……!

人でなくなってしまうわ……!」


レイが悲痛な声をあげる

ゲンドウから奪い取り、自らと共に滅ぼそうとした使徒の元始がまだ微かに存在を残していたのだ

シンジは左手でそれを掴みあげる

シンジは見ていたのだ

このアダムを宿したものが、人の身でありながらA・Tフィールドを扱えるようになることを

そして使徒との戦いの中で知ったのだ

A・Tフィールドを使うことで他者の内面に干渉できることを

握りしめたその掌の中でアダムは根を伸ばし侵食していく

シンジの左腕に葉脈のような痕が広がっていく

焼けつくような、引き裂かれるような激痛が走り、シンジの表情が歪む

歯をくいしばって苦痛を耐えながら、それでもレイから目を離さなかった

さらに葉脈から瞼のような形をした双葉が生え出ていく

その深度の広がりにあわせて、シンジの右手が赤く発光を始めた


「綾波は言ったよね

自分はたくさんいる、自分は人じゃない、それを自分で認めて軍団になった、って

儀式を司った君がそれを否定できないなら、僕が認める

綾波レイは一人しかいない

僕の好きな綾波レイは君以外にいない

それを僕が認める、ずっとずっと僕が認める

だから、消えるな、綾波!!」


シンジの右腕に心の壁が広がった

それをレイの中心に沈ませていく

そしてレイの欠けた心に触れた

その存在意義すべてを使い果たし空っぽになったレイの欠けた心に

瞬間、シンジの意識はレイの中に引き込まれた







無垢な闇の中に、少女がうずくまっている

そのすぐ前には一枚の薄い硝子のような壁があった

少女はその壁を越えられない

その向こう側で、少女は人ではなく、一人ではないから

シンジはその壁のこちら側から手を伸ばした

透明な壁に触れる

そして純粋な願いを込めた

少女への想いを、その覚悟を

綾波レイを綾波レイと認める意志を

シンジの手が透明な壁を貫通する

そして、少女の手を掴み、引きあげ、その境界の内側へ、引き込んだ

少女が、壁を、超える

少女が、新世紀の境界を、超える







『碇くん!!』


レイの声にシンジは意識を戻し、右腕を引き抜いた

刹那、首にまで根を伸ばしていたアダムをレイが引き剥がし、それを白の大地に打ち捨てる

アダムは事切れたように白色化し、黒き月と同じく崩壊して果てた

シンジの腕に広がった葉脈と葉もまた、白色化してハラハラと枯れ落ちていく

いまだ残る痛みに腕を押さえながら、シンジは声の主を探した

でも見つけられなかった

レイがシンジに飛び付くように抱き締めたから

シンジを抱いて、頬を寄せてレイは涙を流す

その身体はもとの輪郭を取り戻していた

シンジが、レイをレイとして認めたから

リリスでもレギオンでもない、愛してやまない綾波レイだと認めたから

新しい存在意義がレイの欠けた心を満たし、人と共なるものとして継承と新世紀の境界を超えたのだ


「よかった……綾波、よかった……」

「碇くん……碇くん……ありがとう……ありがとう……」


ぼろぼろと涙を零して泣きじゃくるレイを見つめて、シンジの目からも涙が溢れ出る


「これから一緒に生きていこう」

「うん……」

「新しい世界が始まったんだ」

「うん……」

「僕は君の傍にいる、綾波にも僕の傍にいてほしい」

「うん……!」

「一緒に歩いていこう

だから綾波、泣かないで

こういうときは、笑うんだよ」


綾波レイが顔をあげる

そして浮かべた微笑みを、碇シンジは生涯忘れないだろう







真っ白な大地に足跡が刻まれていく

右に二つ、左に二つ

寄り添いながら、支えあいながら

二人の前に道はない

それは二人が、これからこの星に刻んで行くものなのだから





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