往きて還りし物語

「Goat for AZAZEL」解説/文責・tamb



 まず、作品を完結させたaba-m.a-kkv氏に敬意を表したい。ごく一部の例外を除けば、作品は完結されなければ駄作ですらない。そしてこの作品は、充分に素晴らしい作品である。本当にお疲れ様でした。


 この物語はファンタジーであると思う。
 だがファンタジーと一口に言っても、例えばハイファンタジーとかローファンタジーとか様々あるようで、私はその方面に関しては詳しくない。そして実のところ、ファンタジーという領域の作品そのものがあまり得意ではない。なので、「Goat for AZAZEL」がファンタジー的にどうかということは私には語れないし、実はそもそもこの作品がファンタジーなのかどうかもわからないのである。

 だがひとつ言えることは、私はこの連載を楽しみにしていたし、そしてとても面白い作品だったということである。

 私がファンタジーを面白いと思う時というのは、その世界に違和感なく入って行ける時である。逆に言えば、「何だよこの世界は」と思ってしまうと先を読み進めるのはかなりの苦痛になり、大抵の場合はぶん投げることになる。
 この物語の冒頭は――はっきり書くが――全く意味不明だった。謎が散りばめられるだけで、そこがどこなのか、つまりいわゆる異世界に終始するのか、それとも現実と何か繋がりがあるのか、何もわからなかった。主たる登場人物であるレイですら、それを知らないのである。
 今にして思えば、この引き込み方は実に巧みであったように思う。一般に、物語の設定は早めに提示しないと読者は飽きてしまうと言われているが、この物語の場合はこのやり方で正解だったと思われる。ただし、下手に真似をしても失敗することはまず間違いない。一回通読し、それからもう一回読み直すと良くわかるが、実に巧妙であり計算され尽くしている。真似したいなら力をつけてから挑戦するように。私にも無理です。

 aba-m.a-kkv氏と言えば、すぐに特徴的な文体が思い浮かぶ。句点を使用するかどうかは作品によって異なり、今回は使わないことを選択している。書いてみればわかるが、これは実に不自由である。句点という便利な道具を捨ててまで表現したい形が、aba-m.a-kkv氏の中にはあったということだと思う。ただし、aba-m.a-kkv氏がその不自由さを克服し、逆に言えば句点を使わないことによって得られる自由を完全に使いこなしているかといえば、それはまだパーフェクトではないかもしれない。もしパーフェクトであったなら、それは旧来の日本語による表現の限界を超えた、ある意味では文学の中の新たな一ジャンルの形成ということになり、aba-m.a-kkv氏は歴史にその名を刻む作家となるであろう。そして必然的に「綾波レイの幸せ」というサイトも文学史の一ページを飾ることになるわけだ(笑)。頑張って頂きたい。

 それはともかく(^^;)、この作品の独特な雰囲気は、句点を使用しないという選択を“含む”独特な文体によるところが大きい。
 言うまでもないことだが、単に句点を使わなければこうなるというものではない。何となく句点をなしにしてみたり、一行毎に改行したり空行を入れても単に読みにくいだけである。外側からだけ見える技術に本質はない。まずあるべきなのは、どのような物語をどのように表現したいか、である。もう一度言おう。何となく真似するのはやめなさい。aba-m.a-kkv氏はaba-m.a-kkv氏であって、あなたはaba-m.a-kkv氏ではない。やるなら確信を持って、私に「なんで句点がないの?」とか聞かれたときに「何となく」などと答えないようにして欲しい。つまり私に「なんで句点がないの?」と聞かれないような作品を書いて頂きたい。無理なら普通に使えばよい。それが普通である。普通であることを恐れる必要はない。と言うより、普通ができなければ普通でないことはできない。ごく一部の天才を除けば。


 ここから先はネタバレを含むので、できれば作品を読んでからお読み下さい。

作品へはこちらからどうぞ。



















 この物語の世界は「私の心がリリスによって造りだした、もう一つの独立した世界」であった。「私が思うだけで、この世界の全ては従う」し「心が揺れれば、世界も歪む」のである。

 人はサードインパクトという罪を犯した。レイはその罪を贖うために権威を使い、そしてそれを贖うために、その世界に贖罪の山羊として放たれた。あるいはこうも言える。自ら贖罪の山羊として放たれることを選択した、と。
 二頭の山羊。片方を焼燔の犠牲とし、もう片方をアザゼルのために荒野へと解き放つ。すべての人間の罪を背負わせて。
 だがレイの権威によって赤い海から還ってきた人々は、それを良しとはしなかった。そして何よりも「絆」があった。

 リリスとレイの会話は、イエスが荒野で受けた誘惑を想起させる。両者の決定的な差異は、サタンがイエスに問うたのが「往く」ための決意だったのに対し、リリスがレイに問うたのは「還る」ための決意だったということだ。それは「レイがその心に確固たる意志を持ち、それにともなう強さがあるのを確かめ」るためのものだった。  そしてリリスは、レイが現実に還るという罪を贖うため、「レイに対する『Goat for AZAZEL』として」残ったのである。
 原罪は死によって贖われる。その意味で、この世界のレイは死んでいたのだと言える。イエスは人々の罪を背負って磔刑に処せられ、死にて葬られ、陰府に下った。だが三日目に死人の内より甦る。イエスは再び天に昇ることになるが、それは贖罪を全うするためだったのかもしれない。レイを呼び戻したのは絆であり、それを可能にしたのはリリスである。
 妬み、怒る神は時として残酷な要求をする。サタンに自由を許し、善良なヨブに苦難を与え、アブラハムには息子イサクを燔祭として捧げよという。
 贖罪は成されなければならない。最終的にその役目を担ったのが母たるリリスである。リリスは(レイが人々にしたのと同じように)レイに選択を与えた。元よりリリスに還るべき場所はない。だが娘の幸せを願うのは、母に与えられた責務なのかもしれない。

 レイは、絆を頼りに、月に見守られ、たくさんの人に導かれ、確固たる意志を持って、沙漠から帰還する道を選択した。荒野から帰還する道を選択することができた。それは親を越える物語でもある。レイは母たるリリスを越えて選択したのだ。
 彼女は、たとえ人と人は全てをわかり合えなくても、傷つけ合っても、本当の意味でわかり合えることができると信じ、現実の世界に還ってくることができた。

 私はそれを、心から喜びたいと思う。


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