きっかけは、突然訪れたように記憶している。
 私は長い間ネルフ本部の中しか知らなかった。もちろん、出会う人間もその中に限られていた。
 心と体をメンテナンスしてくれる存在、碇司令と赤木博士。二人だけは、他の人間とは少し違う存在だった。
 彼女抜きでは、私は生きられなかったかも知れないし、あの人が居なければ、私の心の均衡は崩れていたかも知れない。
 あの人は、私に微笑みかけてくれた。怪我してまで助けてくれた。
 たとえあの人の欲するものが、視線の先にあるものが、私でなくとも別に良かったのだ。
 その絆だけが、私をエヴァに乗せ、来るべき日まで生き続けさせ、そして無に帰す瞬間の心の支えになるのだと。


 そう思っていた。


 変わらないと思っていた日常の中の色彩が、少しずつ彩りを備えていく事に、迂闊にも、私は自分の心の動きを掴めなかった。







 碇くんは、サードチルドレン、エヴァのパイロットとして、この町にやってきた。
 ただ一つ、父親との意思の疎通、それだけの希望を胸に秘めて。


 その望みは叶えられなかった。


 仕方なく通う事になったこちらの学校でも、ただ無用のトラブルを避けるようにおとなしく。
 しかし、はじめは戸惑っていたらしい彼も、幾つもの激しい闘いの中で理解者も現れ、
 今では二人の友達といえる人を手に入れている。





 ・・・別に、うらやましいなんて、思った事はなかった。


 だって私には、何もないから。必要、ないから。





 碇司令の望むままに動く、人形。
 心を持たない、マリオネット。







 私は今も一人で窓際に座り、何をする事もなく外を眺めているか、本を読んでいるだけ。









 終幕の訪れるその時まで、私はずっとそうやって生きていくのだと、思っていたのに・・・。













 初めて出会った事に意味はなく、ただのエヴァのパイロット、単なる碇司令の息子でしかなかった。
 私の代わりに、初号機に訓練も無しに乗り込んで闘った事は、軽い驚きを感じた。でも、それだけの筈だった。



 父親である司令の事すら信頼出来ないと聞いて、ひっぱたきもした。



 それなのに。



 第5使徒戦、ヤシマ作戦の後から・・・・・・











 あなたの行動が、仕草が、言葉が、表情が。



 私の心に、楔を打ち込んでいく・・・





 心の壁が、ひび割れていく・・・





 冷たくて、闇のような暗がりで、何も必要とはしていなかったはずなのに。


 その隙間から、太陽を溶かしたかのように、輝きを放ち、入り込んできたもの。





 木漏れ日のように眩しくて。


 日溜まりのように暖かくて。





 浸食されていくのに、とても心地の良いもの・・・


 その一雫、一雫が、心の中に、波紋を形作っていく・・・・・・








 心の中に、碇シンジ、と言う名の存在が根を下ろし、領域を拡大していくことには気付いていた。
 でも、今持っている知識の如何なるページにも、対処方法は記されてはいなかった。


 ふと気付けば、視線の先にあるのは少年の姿。ふとした瞬間に浮かんでくるのは、彼の表情、言葉。


 私は壊れていっているのだろうか?
 もしそうなら、早急に直して貰わねばならない。
 しばらく考えて、赤木博士に相談した。




 自分でも正確に把握出来ていないことを、たどたどしく細切れに伝え終わるには時間が掛かったが、私の言葉をきちんと全て聞いてくれた。


 少し眉をひそめたようにも見えた。でも、なぜだか、その表情は柔和に感じる。



 しばらくの沈黙の後、博士が口を開いた。



 「別に異常でもなんでもないわ。・・・私の予想外の出来事ではあるけれど、それは貴方の年頃の女の子なら、決してあり得ない事ではないの」
 「心配は要らないわ。・・・その感情は、不快ではないでしょう?」



 確かに、不快ではなかった。何故判るのだろう?


 「・・・確かに不快ではありません。・・・ただ、酷く落ち着かない気分になる時があります」

 「その気持ちは大切にしてていいのよ。将来、もし集中の妨げになるような事があったら、また相談にいらっしゃい」

 「命令でしたら、そうします」

 「命令じゃないわ。・・・そうね、お願い、かしら」


 よくわからない。

 でも、壊れているわけではないらしい事は判った。


 理由はまだはっきりしないけれど、しばらくはこの精神活動に身を委ねてみよう。解決の糸口があるのかも知れない。


 「シンジくんの事をどう思う?」

 話はまだ続きがあるようだった。



 「初号機パイロット。碇司令の息子」

 「・・・じゃあ、彼の事を考えた時、貴方の肉体、感覚、そう言ったものに変化はある?」

 「胸部に、痛みを感じる事があります。後、集中力の低下と、時には顔、または身体が熱くなる時があります」

 「・・・・・・・・・」





 リツコはレイの身も蓋もない物言いにちょっと頭痛を感じたが、これは仕方のない事であった。
 情操面での教育を施さなかったのは自分であり、こういった事は予想していなかったと言えば嘘になるが、想定外の事だった。
 だが自分の過去の経験から、起こってしまった事はもう消し去る事が出来ない事もよく承知していた。
 だから慎重に言葉を選びながら、暴走を抑える事にだけ神経を集中させる。





 ・・・赤木博士は目を閉じて、「ふぅ」とため息をついた。
 なにか不味い事を言ってしまっただろうか?
 しばらく、無言の時が過ぎていく。語るべき言葉を選んでいるようにも見えた。
 やがて、口元に笑みが浮かび、諭すように語りかけてきた。


 「それはね、貴方の心が、他人との繋がりを、絆を求めているんだと思うわ。その感情は決して忌避すべきものではないの」


 本棚から、一冊の本を取り出し、私に差し出してきた。


 「これに、少しは参考になる部分があるかも知れないわ」


 手元には、(珠玉の恋愛短編集!)とオビの付いたペーパーバックス。


 「貴方の精神活動と照らし合わせて読んでみる事ね」

 「・・・わかりました」


 この本が、私の精神の安定に貢献してくれるのだろうか・・・
 多分そうなのだろう、と私は考えて、帰途についた。








「暖かな影の中で」













 「あ・・・綾波・・・」

 碇くんの、声。




 「なに・・・」

 振り返る私の声は、思いのほか素っ気なく。




 放課後の、静寂に満ちた教室。

 夕暮れの赤い陽に照らされて、窓際から廊下まで伸びる人影は二つ。

 帰り支度を済ませた私に、何か用事があるのだろうか。




 「あの・・・その、・・・今度の日曜日・・・」




 私は彼の顔をじっと見つめて、言葉の続きを待つ。
 何故か、彼の視線は左右に彷徨っていて。





 「良かったらでいいん・・・だけど・・・」





 「別に用事はないわ」


 言ってしまってから、私は内心でため息をつく。
 こんな言い方したい訳じゃないのに・・・

 好かれる事はなくても、嫌われるような事はしたくない・・・
 それが、今の私の、偽らざる本心。

 赤木博士の本は、私の精神に安定をもたらしてはくれなかった。
 その代わりに手に入れたのは、私の感情の指し示す所。


 たぶんそれは・・・好意・・・と言う気持ち・・・・・・・





 でも、碇くんは気付いた風ではなく、少し顔を柔和にして、言葉を続けた。





 「じゃ・・・ちょっと一緒に・・・山に出かけない?」





 「・・・え?」





 何も期待なんかしていなかった私は、予想もしていなかった碇くんの言葉に戸惑った。

 お出かけ・・・

 碇くんと、お出かけ・・・?





 いつも碇くんはそう・・・。

 私の心の壁を、予想もしなかった言葉で、崩していく・・・



 胸が、キュッと締め付けられるような、ぼぅっとするような、不思議な感覚・・・


 これはきっと・・・嬉しい、と言う事・・・



 「ええ、かまわないわ・・・」





 なんだかふわふわした気持ちの中で、私は答えてしまっていたのだった。





 「やった・・・良かった・・・」


 だから、そんな碇くんのつぶやきは、今の私の耳には、入っては来なかった。



















 ゆらゆらと揺れる、バスの中。
 ある程度の人は乗っていたが、一番前の席に座る事が出来た。

 私は窓際に、碇くんは通路側に座って、目的地を目指す。


 沈黙が二人の間を支配して、無言のまま、私は窓の外を眺めていた。
 別に私は言葉のない空間はキライではなかったから、気にはならなかった。





 「ちょっと綾波に見せたいところがあってさ」
 なんだか嬉しそうな、碇くんの声。


 「目的地は何処なの・・・?」





 「うーん、それはまだ内緒だよ・・・」
 困った顔で、照れ笑い。


 なんて透明な微笑み方をするんだろう。
 私には一生出来そうにもない、そう思う。


 数少ない彼との時間の中、私にだけ向けられた表情を、心の中に貼り付けていく。
 きっと、それぐらいは許されると思うから・・・。
 例え私が人間じゃなくても、自分の中に心がある事に気づいてしまったのだから・・・







 なのに、自分でも驚くような、声色で。

 「ケチ・・・」

 予想もしていなかった言葉が、口をついて飛び出した。


 今までの数少ない他人を観察した記憶に拠れば、これは、拗ねてる時の言葉・・・



 私は急に恥ずかしさがこみ上げてきて、俯いた。





 「あっ、あのっ、あっあっ、あ、綾波・・・その・・・拗ねないでよ・・・」

 碇くんのあわてた声が聞こえてくるが、顔など上げられる筈もない。



 「拗ねる」、その言葉を聞いて、ますます顔に血が上っていくのが、自分でも判る。
 きっと、首筋まで赤くなっているだろう。



 「穴があったら入りたい」、と言う言葉は、こういうときに使うのだ、と、心の底から実感していた・・・









 シンジは、驚いていた。
 まさか、「ケチ・・・」と言われるとは、思ってもみなかったのだ。

 「そう・・・」とか、「わかったわ・・・」とか、きっとあっさりした返事だと思っていたから。
 少なくとも彼が知っている綾波なら、そう答えると予想していたから。


 何とも言えない、新鮮な気持ちだった。
 ちょっとした、感動だったかも知れない。





 なにげなく、ふと横を見ると、彼女は俯いていて。
 髪の分け目から見える、いつもなら白雪のような肌は、ほんのりと朱に染まっている。



 ドキッ!!

 胸の奥が、激しい音を立てて撥ね踊る。



 見惚れる程の、美しさ。

 高鳴る鼓動を押さえようと、無駄なあがきまでして。



 それでも出てきたのは、情けないぐらい上擦った声で、「拗ねないでよ・・・」と。



 はぁ・・・


 ため息が出るのも、仕方がなかった。



 絞首台に上ったような思いまでして、やっと綾波と二人で出かけるところまで来たのに、機嫌を損ねてどうするのさ・・・

 僕ってホント情けないな・・・

















 お互いにベクトルのずれた、それぞれの思いを抱えて、二人はバスを降りる停留所まで黙り込んでしまうのだった。


















 「あっあっ、もう降りる所だよ、綾波」

 シンジは、平静に声を出せた自分に、おめでとう、と言いたい気分だった。


 「・・・わかった」

 落ち着いてきたのか、レイも立ち上がり、精算する。





 「ここからは歩いていこう。ちょっとかかるけど、上にご飯が食べられるぐらいの場所があるから、そこで遅めのお昼にしようよ」


 碇くんが、手に持ったバスケットを見せながら言う。


 いつも葛城一尉やセカンドの言っている話が事実なら・・・
 きっと見た目もよくて、おいしいに違いない。



 そんなに食べる事には執着しない私でも、おいしい、と言われるものなら食べてみたい。それぐらいには、興味があった。





 ジッっと見つめていた私の視線に気づいたのか、ぽりぽりと頬を掻く。


 「あ、あんまり期待はしちゃだめだよ? 残り物とかだし・・・」


 ・・・あ・・・。
 ・・・食いしん坊、って思われたかしら・・・?



 何かに興味を持っている、そんな自分が、不思議とイヤではなかった。


 前は、必要な事以外には、興味なんて無かったのに・・・





 「さて・・・と、行こうか」

 そう言って、碇くんが歩いていく。


 私もすぐ後ろに続いて、歩き出した。





 山は当然ながら登り道で、歩けば歩く程、頂上目指して高くなっていく。

 時々見え隠れする動物達、上空を飛ぶ鳥たちの姿と、鳴き声。

 緑はとても綺麗で生命力に溢れ、空気は澄んでいておいしい。

 この場所を優しく包み込むのは、命の賛美歌。



 下方に見える街は少しずつ小さくなっていく。

 山登りをする人の気持ちが、少しだけ判ったような気がした。





 碇くんは楽しそうに前を歩いている。
 何か鼻歌を歌いながら、遠くの山を眺めたり、木を見たり、街に視線を降ろしたり。
 楽しそうな彼を見ていると、こっちまで気分が高揚してくる感じがする。



 いつの間にか、彼と私の間が、だいぶん離れてしまっていた。


 やっぱり、男の子なんだ、と感じる。
 そんなに背も大きくは変わらないのに、華奢な体格なのに、バスケットも抱えてるのに。



 不意に、無防備なまま一人取り残されたような、そんな不安な気持ちになって、隣に並びたい、そう思った。

 別に遠くにいるわけでもないのに。


 「っ!!」


 何故だか我慢できなくて、足を速める。





 走って距離を縮めよう。そう思った、まさにその時。





 碇くんが、クルリ、と振り返った。


 「あ、ごめんね綾波、勝手なペースで歩いちゃって」


 そう言いながら、こっちに歩いてくる。





 何故・・・?





 何故いつも、そんな風に私の心を先回りして、欲しい物をくれるの・・・?





 戻ってこなくても、待っていてくれるだけでいいのに。





 「・・・ありがとう」


 「ううん、せっかく二人で来てるのに、一人の世界に入っちゃってごめんね」





 また・・・





 碇くんは、まるで私の心の深層を読んでいるかのよう。





 はっきりと知覚していなかった感情まで、さらりと言葉にして、あやすかのように。






 真横まで歩いてきた碇くんの、少し汗をかいた彼の体臭が鼻腔に入ってくる。だけど、それは決して不快ではなくて。
 頭の奥が痺れるような感覚と、高いビートを刻み始める鼓動。


 落ち着かない気分。


 だけど、「もっと」・・・・・・


 そう、何かを願う心があるのも、事実・・・



















 なんていい匂いなんだろう・・・





 シンジは、一瞬陶然としてしまっていた。


 ふと気が付いて、綾波の側にまで戻ったはいいものの、うっすらと汗をかいた少女からは甘い香りが立ち上っていて、年頃の少年の理性よ狂えとばかりに脳髄を焼き尽くす。







 抱きしめたい!!





 そう叫ぶ心を、なけなしの理性で押さえつける。


 馬鹿、そんな事して、綾波が傷ついたら・・・・・・





 ・・・・・・違う・・・。

 どれだけ言い訳しようとも、自分はだませない・・・。





 綾波に拒絶されるのが、怖い・・・・・・・





 こんな事ですら、自分中心で考えてしまう身勝手さが情けなくて、目を瞑り、唇を噛んだ。
 綾波が、下を向いていて、良かった・・・
 こんな無様な、飢えた獣のような表情を見られなくて・・・・・・・





 シンジは、必死に心を切り替えた。


 僕は綾波を守るんだ・・・
 僕が綾波を傷つけちゃいけない・・・
 僕が綾波から逃げちゃダメだ・・・・・・





 静かに、深呼吸。
 そして優しく、言葉をかける。





 「今度は、一緒に歩こう? 時間はまだまだたくさんあるから」















 碇くんの言葉が、私を正気に立ち返らせた。


 「そうね・・・ゆっくり行きましょう」


 先ほどまでの、熱いような感情は消え失せて、今私を支配するのは、涼やかな、心地よい感覚。
 そう、今はこの状況を、碇くんとの大事な時間をしっかりと心に刻みつけよう。



 ・・・・・・だって私は・・・・・・









 遅めのお昼ご飯。
 これだけ運動したら、きっとおいしいに違いない。
 碇くんの作ったものなら、尚更・・・





 そんな事を思いながら、とぎれがちながらも他愛もない会話をしていると、少し開けたところに出てきた。
 ここが、碇君の言っていた、お昼ご飯を食べる場所らしい。


 見晴らしのいい場所に、木で作られたベンチがいくつか。


 今日は誰もいないけれど、きっといつもは賑わっているのだろう。



 木陰に入っているベンチの側に、碇くんが連れて行ってくれた。



 「ここで食べようか」


 「ええ、とてもいい場所ね」



 彼がハンカチを広げてくれたベンチの上に座り、バスケットを広げる。


 残り物、なんて言ってたけれど、とんでもない。
 すごく立派で、そのまま晩ご飯にでも出せそうなぐらい。


 とたんに、私のおなかが、クゥ、と鳴った。


 「さあ、好きなのから食べていいからね」


 碇くんは何も聞こえなかったように薦めてくれるけれど、きっと聞こえていたわよね・・・恥ずかしい・・・・・・

 (恥ずかしい)

 そう思った自分の心に、少し驚く。
 こんな感情が、私の中にもあったのね・・・


 でも、目の前のご馳走は、そんな気分を払拭してくれるだけの力を備えていた。


 きんぴらゴボウ・・・だし巻き卵・・・小芋の煮っ転がし・・・


 そんな、家庭的、と形容されそうな、暖かさを感じる品目ばかり。


 お肉は見あたらない。私の嫌いなもの、覚えててくれたのね・・・
 そんな小さな気遣いが、碇くんらしくて、そしてとても、嬉しい。





 二人で食べ始めると、あっという間に無くなっていく。


 小さめとはいえ、三段重ねの重箱が、空になるのは時間の問題だった。





 「とてもおいしかったわ・・・こんなの、はじめて・・・・・・」



 心の底から、そんな言葉が出た。

 本当に、初めてだった・・・・・・

 食事は栄養をとる行為である、そう教えられてきた私にとって、これほど楽しくて、おいしい食事の時間はいままでなかった。

 心が浮き立つような、とは、こんな感じなのだろうか。



 「あは・・・そんなにおいしいって言ってもらえたら、料理人として光栄だよ」


 照れくさいのか、シンジはそんな言葉で誤魔化した。





 「あの、もし良かったら、これからは綾波の分も弁当作っていこうか? 二人も三人も変わらないからさ」


 「・・・え?」



 今日は驚かされてばかり。
 でも、いくらなんでも、それは申し分けなさすぎる。



 「でも・・・」

 「いいんだよ、綾波は気にしなくて。食費には困ってないし、おいしい、って食べてくれる人がいたら、僕も嬉しいんだ」



 そんな眩しい笑顔をしないで・・・。
 しばし逡巡、葛藤する私の心・・・





 結局、私は陥落した。


 小声で、


 「・・・うん・・・」


 と返事してしまったのだから。


 もしかして、学校で渡されたりして、それで「一緒に食べよう」とか誘われたりするのだろうか・・・


 自然と顔がほころんでいくのを、自覚しながらも止めることが出来なかった。













 ポカポカとして、いい天気。


 しばらく学校の事、ネルフの事、家に帰ってからの事などを話しているうちに、碇くんから返事が無くなってしまった。


 ・・・?

 そっちを見ると、彼の頭が、コックリ、コックリと前後に揺れていた。
 身体も少し傾いできている。



 ご飯を食べた後で、この陽気だもの。

 私もちょっと眠たい・・・





 少しだけ・・・





 ほんの少しだけ、身体を碇くんの方に傾けて。



 右肩に伝わる感覚は、思っていたよりも硬くて、なんだかドキドキする・・・・・・





 今の私たちを誰かが見たら、どんな風に見えるんだろう・・・・・・

 そんな事を考えているうちに、私も睡魔の揺りかごに囚われていった。



















 ふと気づくと、陽はだいぶん傾いていた。


 携帯電話で時間を確認すると、もう4時だ。
 一時間ぐらいは寝ていたのだろうか。


 私がごそごそやっていると、碇くんを起こしてしまったようだった。
 触れていた肩の温もりが惜しい気もしたけれど、しようがない。


 「行きたいところがあったんでしょう?」


 「うん、実は、ここなんだ」





 私はぐるりと辺りを見渡した。とても見晴らしが良くて、街が一望に見下ろせる。

 「・・・そう・・・」

 「綺麗な場所ね・・・」





 「そうだね、でも、まだ時間が今じゃないんだ」
 「もっと、もっと夕方になってから」
 「その時になったら判るから、もうちょっと待ってて」









 しばらく、二人で下の景色を眺めながら、こういう時間は悪くない、と思った。
 何を話すでもないけれど、沈黙ですら、居心地がいい・・・。
 今までは、必要ない事はしゃべらない、気にしない、それだけだったのに・・・
 今は時間の過ごし方すら、違うものに感じる。


 傾いた陽が碇くんの優美な横顔に陰影を形作り、吹き抜ける風が短めの髪を揺らしていく。

 ・・・これも、心の中に貼り付けておこう・・・。

 私だけしか知らない、私だけの、碇くんのスクラップブック・・・。






 「ああ、もうすぐだよ」

 時計を見ながら、碇君が言う。


 そして、しばらくして、私は彼が言った言葉の意味を知る事になった。





 次々と街中に点灯していく人工の光の群れ。

 星空とは明らかに違う。でも、これが人間の営みの、魂の輝きの一つ一つ・・・。

 人は闇を怖れ、光を使い、闇を削って生きてきた。

 その極限にあるのが、この街。

 科学の力を全てつぎ込んで生み出した、人類の希望の街・・・・・・

 そして、私たちの生きている所・・・・・・


 狂おしい程の感情が、心の中からこみ上げてくる。



 ・・・ああ・・・私も、ここで見たモノたちと同じように、生きているのね・・・







 やがて、碇くんの口が、言葉を紡ぎはじめた。



 「ここはね・・・、はじめて僕が使徒を撃退したとき、ミサトさんが連れて来てくれたところなんだ」


 「何も判らないまま全てが終わってしまって、そんな実感なんて無かったんだ・・・」


 「でも、ミサトさんが、『ここがアナタの守った街、第三新東京市よ』、って言ってくれて・・・」


 「やっと実感が湧いてきたんだよ」





 まだあどけない横顔。少年にしては長い、優美な睫と輪郭。

 しかし、真摯な瞳には、かすかな男らしさもちらほらと見え隠れする。



 奪われた瞳は、取り返せぬままに。

 「そう・・・良かったわね」





 「・・・でも・・・」


 シンジは、ごくり、とつばを飲み込んだ。

 言わなきゃ・・・頑張って言わなきゃ・・・

 ぎこちなく、綾波の方を振り向いて、微笑む。







 「最近、やっと気付いたんだ・・・」





 「今一番思っているのは・・・」





 「あ・・あ・・あや・・綾波を・・・」





 「守れた事が、す・・すごく嬉しい、って・・・事なんだ・・・・・・」









 !!


 心臓を鷲づかみにされたような、そんな衝撃がレイを襲った。


 「そ・・・そ・・・」


 「そ・・れ・・・て・・・・・・」


 私・・・の・・・事・・・・・・を・・・


 頭がショートしたみたいに、くらくらとする。
 何かを言おうとするのに、言葉にならない。


 「綾波? 綾波!?」


 碇くんの声が、遠くに聞こえる・・・


 浮遊感が、私を襲い。


 何かが、背中を抱き留めたような。


 そこで、私の意識は闇に飲み込まれた。















 シンジは、咄嗟に伸ばした腕が間に合って、本当に良かった、と安堵した。


 でも・・・・・・


 困惑する状況である事に代わりはなかった。

 突然倒れるなんて・・・体調悪かったんだろうか・・・・・・でも、顔色はピンク色で、普段よりいいぐらいだし・・・


 表情も穏やかだし、呼吸も乱れてる訳じゃない・・・・・・問題ないのかな・・・?


 芝生の上に足を伸ばし、抱きかかえた綾波の頭を、そっと太ももに乗せる。
 心地よい重さを感じながら、目を閉じた。


 ふと、何気なく思いつき、前髪を掻き上げてみた。



 ・・・うっわ・・・すごく可愛い・・・


 普段は見ることのない、おでこちゃんの綾波を見て、くすっ、と微笑みが浮かぶ。
 神秘的な輝きをもって少年を魅了する、深紅の双眸が閉じられたままなのが、少し残念だったけれど。


 もうしばらく、こうしていよう・・・・・・


 掻き上げた前髪が、いたずらな風の妖精の手でふわふわと踊る姿を、静かに見つめていた。

 眠りを誘うような、優しい風が、二人を包んでいく・・・・・・





 ・・・・・・綾波・・・僕は強くなるから・・・君を守れる程に、必ず強くなるから・・・・・・

















 「・・・う・・・ん・・・・・・」


 風の音が、葉擦れの音が、私に現実を伝えてきた。


 私・・・寝ころんでる・・・?


 頭の下は、柔らかいものがあって・・・・・・


 私、なんでこんなトコで寝てるの・・・





 「あ、綾波、目が覚めた・・・?」


 ん・・・碇くんの、優しげな声が、気持ちいい・・・


 ・・・


 ・・・・・・え?



 ゆっくりと目を開く。



 目に飛び込んできたのは、碇くんの顔。


 心配そうな、安堵したような、そんな表情。


 黒曜石の瞳には、見慣れた空色のショートヘアと、深紅の瞳が映り込んで。



 「良かった・・・いきなりフラッと倒れそうになっちゃって、びっくりしたよ」


 にっこりと微笑んで、私のおでこに手を当てる。



 「やっぱり、熱はなさそうだね・・・」
 「体調悪かったんだったら、そう言ってくれて良かったんだよ?」
 「無理に今日じゃなくても良かったんだから・・・」


 優しげに、そう言葉を紡ぐ。



 あ・・・私、碇くんの話を聞いてる途中で、急に意識が遠くなって・・・
 なんだか、すごく大事なところで気を失った気がして、悔しい・・・



 だけど、言えない・・・
 「綾波を守れた事が一番嬉しい」って言われて、頭に血が上ったなんて・・・
 言える訳無い・・・・・・







 あ・・・でも、どこも痛いところはなくて・・・
 もしかして、背中を抱き留めてくれたように感じたのは、碇くんの腕・・・?





 そして、一番大事な事に気が付く。





 今私は、碇くんの膝の上・・・・・・


 今度こそ、隠しようのない状況のまま、全身の血が顔に集まっていく。







 ダメ、碇くんに見られちゃう・・・







 ふと、目に止まったのは、朱に染まった少年の頬。





 ああ・・・そっか、もう、そんな時間だった・・・・・・



 大丈夫、私の頬が赤いのは、夕日の所為・・・







 私は、安堵したような、残念なような、不思議な気持ちに包まれながら。

 もうしばらくだけ、この状況を全身で感じていよう、そう思った。









 目を瞑ると、色々なものが聞こえてくる。



 風の音、葉擦れの音、動物の鳴き声、遠い街の喧噪。



 膝を通して伝わってくる、碇くんの生命の鼓動。





 もしかして、私の今の鼓動も、膝を通して碇くんに伝わってるんじゃ・・・?

 考えれば考える程、意に反して高まっていく鼓動。





 いっそ、この想いまで伝わってしまえば、楽になるのかも知れない・・・





 赤木博士から借りた資料とは立場が逆の気がするけれど、これが膝枕というモノなのね・・・・・・
 全てを委ねているかのように、安心出来て、とても気持ちのいいもの・・・・・・


 いつか私が碇くんにしてあげたら、喜んでくれるのかしら・・・・・・







 そんな事を考えながら、碇くんが「あ、あの、そろそろ帰ろうか?」と声を掛けてくるまで、私は彼の膝の上の感触を楽しんでいたのだった。





























 帰り道、落ちていく夕日の、赤い光の中で。



 私は、そっと身体をずらして、碇くんの影に入る。
 彼の笑顔が太陽なら、月のような私には、ふさわしい場所。


 少年の全てを全身で受け止めているような、そんなくすぐったい自己満足にひたりつつ。
 彼からは見えない位置で、ちょっとだけ口元をほころばせた。



 だって私は・・・・・・ヒトではないから・・・・・・人並みの幸せなんて、あり得ないから・・・・・・
 だから、今だけ、今だけは、与えられた心地よさを全身で感じよう・・・・・・
 いつか訪れる、無への帰還か、喪失感か、死か。
 どんな事にも平然としていられるように、私の心を碇くんとの絆で満たしてしまおう・・・・・・






 暖かな影の中で、泡沫の、至福の時間。
 とてもとても大切な、例え自分が壊れても、もしも身体を巡る血の一滴までも失われようと。
 守り抜きたい、そんな存在の───影の中で・・・











 これは、使徒戦がまだそれほど激しくなくて、チルドレン3人が、
 月を見上げていた頃の物語。


 他愛もない触れ合いを書いてみたくて、こうして形にしてみました。
 でも、ちょっと甘くなりすぎたかも(笑)


 目をこらして、耳を澄ませてみれば、きっとどこにでも有る、そんな幸せ。
 小さな、泡沫だけど、手につかめる、そんな幸せ。


 では、またいつか、お会いできるといいですね。


              あいだ




ぜひあなたの感想をあいださんまでお送りください >[t_ikeda@tc5.so-net.ne.jp]


【投稿作品の目次】   【HOME】