『風』はどこまでも駆け抜けていく。

 幾千の昼と、幾千の夜。
 あるいは、悠久の時。

 灼熱の砂漠と、久遠の凍土。
 あるいは、全てを繋ぐ海の上。


 あまねく全ての傍に存在し、時に優しく、時に厳しく。
 見守り、突き放す。

 あらゆる物語を知り、語らざるもの。


 溢れる想いを沈黙に変えて、ただ流離うもの。





 これは彼が見た、とある物語。











 
「You’re my only Shinin’moon」
 









 少年はSDATを聴きながら、じっと部屋の隅にうずくまっていた。
 外はまだ太陽の支配下にはなく、薄闇の静寂。
 眠れない夜を過ごしたのは、何も今日が初めてではない。
 イヤホンからシャカシャカと漏れる音は、ジャズの調か。

 しかしそれに聴き入っている風ではなかった。
 ただのBGM。


 彼の脳裏には、2年半前の光景がリフレインされていた。
 その時は、決して間違えてなんかいないと、そう思っていた決断。

 全てが終わったその時、もう自分にはそこにいる意味がないと思えたから。
 だから。
 彼は全てに決別した。
 半年間の思い出全てに。



 優しくてルーズな性格で放っておけない姉も。
 口やかましくて傲慢で彼をライバル視していた赤毛の少女も。
 男気のあるちょっと鈍感だけど眩しい程まっすぐな少年も。
 ボクより少し大人の考えをする好奇心旺盛な少年も。


 全てを投げ捨てた。
 たまに切なくなる事があったとしても、後悔なんかしないと思っていた。


 だけど。


 時が経つにつれて、色褪せるどころか鮮烈に彼を苦しめ始めたもの。

 ふわりと広がる蒼と、射抜くような深紅。

 少年の顔が自嘲に歪んだ。


 ボクは最低だ。


 小さく呟いて。
 背中を丸め、膝を抱えて横になった。

 自ら捨て去ったものに、いつまでも執着するなんて。
 半眼の澱んだその目が、そう語っていた。







 どうして人は素直になれないのかな。
 『風』は思った。

 いつも人は本質を見ようとしない。判ろうとしない。
 いつだって本当の事はすぐ傍にあるのに。

 彼もやっぱり同じなのかな。
 ほんの一歩自分を肯定する事が出来れば道は開けるのに。
 幸せなんて、手を伸ばさなきゃ掴めないんだよ。







 少年の心はもう、限界にさしかかっていた。
 臆病で、繊細で、脆弱で、潔癖で。
 その目は昏く濁っていた。
 何が正しいのか判らなくて、何を選べば良かったのか惑わされて。
 自分の心すら信じられなくなっていた。
 自分の行動に合理性が感じられなくて、狂おしい程に求める衝動を抑えきれなくて。

 こんなに苦しいのなら、死んでしまえばいい。
 17歳の誕生日は始まったばかりなのに、彼は何もかもに絶望していた。

 少年はゆらゆらと窓に向かって歩き出した。







 『風』は、たった一つだけ自分のやれる事をやってみた。
 少年と、少女のために。

 開け放たれた窓からそっと忍び込み、本棚の上のアルバムを、パサ、と落とした。







 少年は背後から聞こえた音に驚き、振り返った。
 カーペットの上には、長い間忘れていたもの。
 選り分けて封印したつもりで、手の届かない本棚の上にしまい込んでいたもの。

 それは3年前から半年間の塗りつぶされた彼の歴史。
 大半はカメラ好きだった、彼の親友の手によって撮影されたものだ。
 いや、元、と言うべきか。
 それも自ら望んで切り捨てたものなのだから。

 たった半年間の短いそれは、薄いアルバムに纏められていた。
 歩み寄り、棚に戻そうと手に取る。
 その拍子にぱらぱらとページが捲れた。

 そこには、照れくさそうに笑う、今より少し幼い彼の顔。

 ・・・どくん。
 心臓が、軋んだ。

 肩を組んで満面の笑みでピースサインをしているのは、関西弁の親友だ。
 拳を握りしめて自分を追っかけているのは、赤毛の少女。
 勉強中の真面目な横顔もある。

 ぱらりとページをめくる。

 みんなで行った夏祭り。
 汗だくになってがむしゃらに走ったサイクリング。
 ゲーセンで我を忘れた時間。
 眩しそうに空を見上げた後ろ姿。

 ・・・どくん。
 よみがえってくるのは、楽しかった思い出。
 あんなに苦しいと感じて切り捨てたものが、全く違う形でこみ上げてくる。

 ぱらり。
 また一枚ページを繰る。


 ・・・っ!

 ふわりと広がる蒼と、射抜くような深紅。

 ・・・どくん。

 少年は急に襲ってきた頭痛にくらりとふらつき、膝をついた。
 記憶を封じ込めた蓋は、あっさりとはじけ飛んで。


 お父さんの事が信じられないの?
 鋭い痛みに熱を持った左頬。

 貴方は死なないわ。私が守るもの。
 見上げた夜空。蒼く丸い月。

 こんな時、どうすればいいか判らないの。
 返された、極上の微笑み。

 何を言うのよ。
 僅かに赤みの差した彼女の頬。

 ・・・ありがとう。


 頭が痛い。
 記憶の奔流。

 今まで閉じこめられていた鬱憤を晴らすかのように、彼の中で暴れ回る。
 それは単なる記憶に非ず。
 人はそれを想い出と呼ぶ。



 なんだよ・・・ボクはこんなに沢山の事を、彼女を見ていた、って言うのか・・・
 なんだよ・・・本当は忘れたくなんて、無かったんじゃないか・・・

 あの子に笑みを、楽しさを、温もりを、安らぎを、伝えたかったんだろ・・・

 なにより、生きることに不器用で、張り詰めた糸のような。
 あの子を守りたかったんだろ・・・


 それなのになんだよボクは。
 おまえはもう要らないと、切り捨てられるのが怖くて。
 怯えて逃げ出しただけの、臆病者だったんじゃないか。

 なんでこんな大事な事が、あの頃のボクには大事に出来なかったんだろう。


 写真の中の彼女は、頬杖を付いてただ窓の外を眺めていた。
 感情の読み取れない表情で、何を見ていたのだろう。
 あの鋭い眼差しの奥で、何を思っていたのだろう。

 何故この写真が手元にあるのか判らないけれど。


 この写真はきっと、ボクの篝火だ。




 少年は、財布と上着を握りしめて、駆け出した。
 どこまでも意識を塗りつぶしていく、蒼く丸い月。


 自分の行いの結果に満足げに微笑んで。
 『風』も彼のすぐ後ろを走り始めた。


































 少女は、何も言えなかった。

 何故?

 そのたった一言さえ言葉にならなくて。
 電車に乗り込む少年の後ろ姿を見つめていた。

 横にいる赤毛の少女が嘲るように言う。

 はん! 臆病なアイツらしいわね!

 嘘。
 貴方だって本心では違う事思ってる癖に。



 行かないで。

 少女からは、感情の幼さ故にその言葉が導き出される事はなかった。
 ただ、何故かひどく胸が苦しかった。
 言葉に出来ない想い。
 とても、とてももどかしくて。



 あの世界で、少年と解り合えたはずだった。
 心の壁がない世界で、私の心も彼に伝わったと思っていたのに。
 なのに、今は貴方の心が霞んで見えない。
 これがきっと、心の壁。
 彼の望んだ世界。

 電車の発車のベルが鳴る。
 閉じられていく扉。

 今の少女には、それは心の壁と同義だった。
 もう逢えない。


 少しずつスピードを上げて、遠ざかっていく列車。
 絆が、細く、長く引き延ばされていく。
 それが繋がり続ける事が出来るのか、途中で断ち切られてしまうのか、彼女には判らなかった。


 ・・・帰りましょう。

 黒い髪の女性がそう言った。

 ふん! 好きにすればいいわ、あんなヤツ!

 赤毛の少女が吐き捨てた。




 その夜。

 彼女ははじめて、「悲しい」という感情に翻弄されて涙を流した。







 『風』はそっと彼女の髪の毛を撫で続けた。
 他に出来る事は何もなかったから。
 ただただ、慰めてあげたくて。







 ふわふわと少女の髪が踊る。
 飽きることなく、長く、長く。
 いつしか彼女が泣き疲れて眠るまで、それは続いた。



 やがて日が昇り、毎日が始まった。
 何の変化もない、ただ繰り返すだけの日々。

 そこに少年の姿がない事が、少女の心をひどく陰鬱なものにさせていた。


 どうしても彼の姿を追ってしまう。
 教室に。
 校庭に。
 公園に。
 コンビニに。
 街中に。
 ネルフの、更衣室前の長椅子にすら。

 だけど、見つける事は出来なくて。


 そして数ヶ月が過ぎたある日。

 少女は、一つの事に気が付いた。



 彼は私の胸の中にいる。

 と。



 少女は、閉じこもった。
 自らの記憶の中の彼と向き合う事を至上の喜びとして。


 急に彼の事を一切口にしなくなった彼女を、みんなはかえって心配した。
 彼の姉のような人も、赤毛の少女も、育ててくれた人も。


 だから彼女は答える。


 彼は、私の胸の中にいますから。

 と。



 そう言うと、みな一様に押し黙ってしまう。
 不思議だった。
 彼は私の記憶の中で、私に向けて微笑んでくれる。
 彼は私の記憶の中で、私のために泣いてくれる。

 何故良かったね、と言ってくれないのだろう。
 私は幸せなのに。



 翳りのない透明な微笑みが私を包んでくれる。
 辛いことがあったときには、綺麗な涙で一緒に泣いてくれる。

 彼女が幾ら主張しても、誰も聞いてはくれなかった。






 それから程なくして、彼女は自室に戻る事を禁じられた。

 代わりに与えられたのは、真っ白な壁に囲まれた部屋。



 必要なものも、食事も、何もかもが用意され、与えられる部屋。

 どこだろうと、彼女にとっては変わりがなかった。

 何故なら彼はいつも彼女と共にいるから。
 いつも傍で、微笑んでくれるから。




 ときどき彼の姉のような人や、赤毛の少女が遊びに来てくれる。
 その時は少年との時間を中止して、彼女たちと話をする。





 ふと昨夜思い出した事を、思いついた事を、彼女たちに言ってみた。


 もうすぐ彼の15歳の誕生日なんです。
 みんなでお祝いをしませんか?


 すると何故か二人とも泣き出してしまった。


 泣きながら、ええ、そうしましょう、と異口同音に言う。


 何故そんなに泣くのか判らないけれど、きっと嬉しい時にも泣く、と言う事なのだと思った。




 4日後、ささやかながら彼の誕生日パーティが私の部屋で行われた。

 彼の姉のような人、私を育ててくれた人、赤毛の少女、優しいお姉さん、沢山の人が来てくれた。

 ホールケーキを切り分けて、みんなで食べた。
 皆一様に泣いていて、すこし不思議な光景だった。

 彼に聞いてみたけれど、微笑んでいるだけで答えてはくれなかった。




 やがてお開きになり、みんなが帰っていった。
 少し寂しかったけれど、彼がいるから私は平気なの。
 私が眠るまで傍にいてくれて、起きた時にはもう傍にいてくれるから。







 『風』は泣いた。自分の無力さに。
 そして少女を思って、泣いた。







 少女の日常は平穏だった。
 少なくとも彼女にとっては。


 学校に通う事もなく、ただ、真っ白な部屋の中で過ごす。
 傍らには、優しげな微笑みを浮かべた少年。
 少なくとも彼女にとっては。


 世界は回る。
 チルドレンなんかいなかったように。
 それはきっと、幸せな事。
 そしてそれは、大人達のせめてもの償い。
 守られるべき対象が、正しく守られている事。
 チルドレンに幸あれ、と。



 赤毛の少女が、青い髪の少女の部屋を訪れる。

 今日は何の話をしようか。
 そうね、洞木さん達は元気?
 ええ、今日も元気よ。鈴原のヤツ、絶対尻に敷かれるわね。

 話しながらも、赤毛の少女の顔が、くっ、と歪む。
 私は何故ここにいるの?
 もうイヤだ、逃げ出したい。

 心が悲鳴を上げる。
 だけど、それを理性でねじ伏せて。




 私は惣流・アスカ・ラングレーよ!
 どんな相手にも背中なんか見せない!


 同情でも、義務感でもなく。

 私は私の仲間のためにここにいるんだから!







 『風』は、ここにも気高い魂を見る。
 チルドレンとは、かくも悲しくて強い絆で結ばれているのかと。
 だから、たった一つ出来る事。
 優しくて穏やかな薫りをのせた風を、彼女達に吹きかけた。







 ねぇ。あの子の事、本当にどうにもならないの?
 黒い髪の女性が金髪の女性に聞く。

 何度も言った通りよ。あの子が今の状態を望んでいるんだもの。
 科学は万能じゃないのよ。

 ねぇ、じゃ、彼をこっちに呼び寄せるのはどうかな?

 なんて言うの?
 あの子がおかしいんです、治してください、とでも言うつもり?
 彼には彼で安らかに生きる権利があるのよ。
 私達はそれを再確認した上で、今できるベストを尽くしてるんじゃなかったの?

 そうだけど・・・
 少しいじけてみせる黒髪の女性。

 貴方の言いたい事も、気持ちも判るわよ。
 だけどそれで彼に苦しみを背負わせてどうするの?

 だって・・・彼なら・・・出来そうな気がするんだもの・・・
 いつだって、不可能を可能にして見せたのは彼だから・・・

 そうね・・・
 そう出来たらどれだけ楽かしらね・・・
 でもダメよ。
 以後その話は持ち出さないで。





 後1ヶ月程で、3回目の彼の誕生日ね・・・

 そうね。またケーキ用意しなくちゃね。
 ホント、みんなには感謝してるわ。
 何一つ言わず、参加してくれるんだものね。

 あら、多分みんなも私達と同じ気持ちだからだと思うわよ。
 あの子のために何かしてあげたいのよ、みんなね・・・







 『風』はまた一つ、人々の少女への想いを知る。
 誰もが自分の出来る精一杯を生きているのだと。
 人だから、力及ばない事もあるかも知れないけれど。
 そこに架ける想いは決して幻想ではないのだと。







 もうすぐ彼の17歳の誕生日なんです。

 私は3度目のお願いをする。
 また誕生日をみんなで祝いませんか? と。

 そうね。パーッとやりましょう。
 彼の姉のような人がそう言って、また用意してくれた。


 楽しい。
 そう彼に言うと、少しはにかんだような顔で微笑んだ。

 今回はあまり泣いている人もいない。
 せっかくの彼の誕生日なのに、どうして喜んでくれないんだろう。


 もっと趣向を凝らさないと、喜んでくれないのかも知れない。



 その時、彼の姉のような人の携帯が鳴った。
 画面を確認し、ドタドタと出て行く。

 相変わらす忙しい人なのね・・・





 しばらくして、彼女が真っ赤な目をして帰ってきた。
 何か私を育ててくれた人と話してる。

 大事な用事が出来てしまったのかも知れない。



 ごめんね、ちょっち用事が出来たから出てくるわ。
 でもすぐ帰ってくるから、楽しんでてね。


 そう言って、出て行ってしまった。

 大変そうね、あの人と暮らすのは。
 そう彼に言うと、やっぱり彼は困った顔で笑っているだけだった。




 あらかた食べ物も飲み物もなくなった頃、彼の姉のような人は帰ってきた。

 なんだか泣いた後のような目をしてる。


 ねぇ、貴方にとびっきりのゲストを連れてきたわ。

 今の貴方に、一番大切な人よ。


 そんな事を言う。
 私の一番大切な人はここにいるのに。


 どうぞ。入っていいわ。


 彼女の声に促されて入ってきた人は・・・





 彼を見た瞬間、閃光が頭の中でスパークした。



 頭がぐらぐらする。

 とても懐かしくて、胸が苦しい。
 堰を切ったように涙が溢れ出す。


 かは。

 私の肺が酸素を求めて深呼吸しようとする。

 何かが足下から崩れていく感覚。
 視界はとどまることなくぐるぐる回り。

 誰かが私の名前を必死に呼んでいるけれど、それも聞き取れない。




 ボクの役目は終わったよ。




 だけど、何故かその言葉だけは耳元ではっきり聞こえた気がして。

 次の瞬間。



 「碇くん」



 そう、名前を呼んでいた。



 「逢いたかった・・・」



 そう、とても逢いたかった。

 気が狂いそうな程に。
 狂っていたのかも知れない。



 「綾波・・・」



 懐かしい、彼が私を呼ぶ声。


 何故私はこんな白衣を着てるんだろう?

 私は立ち上がり、彼の元に歩み寄った。



 「逢いたかった・・・」



 もう一度そう呟いて。

 私は彼の胸に顔を埋めた。


















 今日一日だけの、シンデレラの外出許可を貰って。
 私達は碇くんの家に帰った。


















 碇くん。
 貴方が作ってくれるお茶が飲みたい。

 そんな我が儘を言ってみた。
 本当は今日は碇くんの誕生日だけど。
 長い間私を待たせたんだもの、これぐらい言ってもいいわよね?


 うん、すぐに作るよ。

 そう言って、台所に立つ。

 私は彼の後ろ姿を見つめる。
 夢幻のように消えてしまわないかと、心配で。









 流しに立った時には、ボクの頭の中で作るものは決まっていた。

 二人のそれぞれ一番好きな物を。


 エスプレッソメーカーを引っ張り出し、軽く洗う。
 一杯分の水と、中央の部分にはコーヒーの粉をセット。

 次いで鍋に牛乳をあけ、火をかける。
 茶葉は別途お湯に浸しておく。

 エスプレッソメーカーを強火にかけ、牛乳が適温になるのを待つ。
 まずはカフェラテ用に牛乳を取り分け、ミルクフォーマーに入れて泡立てる。

 そこからはすぐに沸騰するので、沸騰直前のミルクに茶葉を入れて火を止める。
 蓋をして3〜4分蒸らす。

 その間に温めておいたカップに泡立てた牛乳を7分目まで注いで、次いでエスプレッソを。
 ちょっとだけミルクフォーマーの泡を足して。

 ティーカップには茶漉しを使って漉しながら鍋から注ぐ。


 遙か昔の、ただ一度の記憶。
 椅子に座ってボクを待っている、背中に感じる視線。
 目を細めて一口飲んでは、美味しい、と言ってくれた綾波の声。
 飲み干して無くなったカップの底を、名残惜しそうに見つめる顔。
 (また淹れてあげるよ、でもお腹壊しちゃダメだから今度ね)
 そう言った時の嬉しそうな笑みも。

 ボクの中に溢れて、涙が滲む。




 程なく完成し、シュガーを用意する。
 トレイに乗せ、綾波の元へと戻る。


 綾波の顔にぱあっと笑みが広がる。


 ボクは少しだけそれに微笑みを返して。

 「さあ、綾波、お待たせ」



 「キミはこれをおいしいって言ってくれたからね」

 そう言って、ティーカップを前に置く。
 自分の分も机に置き、椅子に腰掛けた。



 「さあ、お茶の時間にしようか」


 そう言うと、こっくりと頷いて、カップを手に取る。
 ゆっくりとミルクティを口に運んでいく。


 ボクは綾波から目を離す事が出来なかった。



 「おいしい・・・・・・」

 小さく、ポツリと一言。



 それでようやくボクは呪縛から解き放たれて。

 自分のカップに手を付けた。



 味なんてわからなかった。
 何もかも麻痺したように。

 ただ熱い塊が喉を通っていった。




 ふと気付くと、ボクは綾波に見つめられていた。


 「それは・・・・・・何?」

 それ、とは、ボクの飲んでいるものの事だろうか?

 「これ? これはカフェラテと言って、まあ、カフェオレのイタリア版って所かな?」


 今度はカフェラテをじっと見つめている。


 「飲んでみる?」


 コクンと頷く。気になっていたらしい。

 そっと手渡してやる。


 コクン・・・コクン・・・と二口程飲んで口を離す。



 口の周りにはヒゲのようになった泡。

 ああ、もう見れないと思っていた光景が。
 今こうして目の前にある事に安堵して。

 ボクの顔は泣き笑いに歪んだ。


 綾波は、きょとんとしたような、不思議そうな顔でボクを見返す。



 「綾波・・・口の周りがヒゲみたいになってるよ・・・・・・」

 ポケットからハンカチを取り出し、そっとぬぐってやる。




 「綾波・・・やっぱりボクはキミを見ずにはいられない。
  キミはボクにとって、たった一つの輝ける月だから」









 私は身を乗り出した。

 何もためらう事なんて無い。
 そのまま碇くんの首に手を回して。

 ロイヤルミルクティーとカフェラテの甘いキスをした。



 「誕生日おめでとう、碇くん。そしてお帰りなさい」










 天上には、涼やかな光を放つ、蒼く深遠の月。





















 最期まで見届けて、くす、と『風』は笑った。
 彼の誕生日に、彼女との再会を演出できたことに満足して。

 きっとこれも忘れない物語だと、彼は思った。
 ボーイ・ミーツ・ガール・アゲイン。


 少年は少女と再び出会い。
 今度こそ二人とって幸せな選択をした。



 たったそれだけの、小さな恋の物語。












 後書き


 えー、タッチさんから提示された同一キーワードを元に、複数の作家が書く、と言うネタに乗ってみました。

 実は難産でして、これは3プロット目に当たります。


 1プロット目は50k に達した所で断念しました。これは短編でやるネタじゃない、と(笑)
 2プロット目は固まった辺りでタッチさんに ちゃぶ台返しされました。 キーワードの追加されてぽしゃりました。
 で。3プロット目は、天啓が閃きました。狂言回しの彼を得て、ひらめきから6時間後、ほぼ完成に至りました。
 こういう事って有るんですね。



 と言うわけで、読み比べれば多分キーワードはすぐに判る事でしょう。


 では、またいつか、お会いできるといいですね。


              あいだ

ぜひあなたの感想をあいださんまでお送りください >[t_ikeda@tc5.so-net.ne.jp]

*この作品は「闇に射す光」「突発的シンジ君誕生日記念企画」参加作品です。


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