闇の少女








戦乱の世の中、殺しなど日常茶飯事で起こることなので珍しくも何ともないのだが、ここ最近では城内の

重臣が殺害されると言う事件が多発していた。そして、その誰もが首筋に一太刀でやられていた。

そのあまりの見事さに、見るものはみな戦慄を覚えた・・・





とある城。

その城は権威をそのまま表しているようなたたずまいをしている。周りの堀は深く、間違って落ちてしまうと

なかなかあがってこれないと思われる。一見すると何の変哲もないかわら屋根には、実は刃がしこんであった。

それもそのはず、実はこの城、この国でただ一人の将軍の居城なのだから。

草木も眠る丑三つ時に、闇の中かすかに聞こえる虫の声にまぎれて一人の影が城に忍び込んでいた。

その風貌は、暗闇の中に黒装束を身に付け、黒頭巾で口と髪の毛まで覆っており、ほとんど見えない。

しかし、頭巾からわずかにはみ出している髪の毛は、月明かりに照らされてほのかに、消え行く蛍のように

輝いていた。そしてその瞳は・・・赤い光をともしていた。



私は何をしているの・・・?

なぜいつまでもこんなことをしなければいけないの?

何度もやめてしまいたいと思った。でもやめられなかった。

普通に暮らすことはできないから。

でも、こんな私でも拾ってくれた人が居る。

私は利用されているとわかっているのにもかかわらず、この仕事を続けている・・・





・・・今は何も考えないでおきましょう・・・







目的の部屋の前に着くと、そのふすまをそろりそろりと開けていく。

部屋の中は暗かったが、闇に目が慣れていた彼女はいとも簡単に目標を見つけた。

「目標を捕捉・・・。これより殲滅に移行・・・」

誰も聞いていないはずのその部屋で、一人ポツリと呟いた。そしていつもなら自分に課せられた

任務を遂行するだけなのだが・・・

「ほう、私を殲滅するとな」

彼女は驚きに目を見開いた。

・・・なぜ、気づかれたの?

「殺されているやつらは私くらいの身分のものが多くてな・・・最近は警戒していたと言うわけだ。」

「ん?その瞳は・・・赤い・・・悪魔か?」



しかしそんなことを言い終わるや否や、彼女は即座に刀で切りかかっていた。

男はそれを何とか槍で受け止めたが・・・想像以上に速い。

「曲者だ!者ども、出会え出会え〜」

刀をなぎ払いながら叫んだが、それによってわずかに集中力が途切れたのか、腕に食らってしまった。

「闇討ちだけかと思っていたがこれほどとは・・・ぐっ」

それが男の最後の言葉となった。

「どこだ!どこにいる!」



「いけない!逃げなければ・・・」











・・・はぁはぁ。危なかった・・・でも・・・

ふと思う。

あそこで捕まって殺されてもよかったかもしれない。また辛い思いをするくらいなら・・・

自分の両親を恨んだこともあった。でも幼いころに捨てられたのでよく覚えては居ない。

いくら恨んだところで状況はまったく変わらなかったので、やがて恨むのをやめた。

状況を変えるために逃げ出した。

しかし人の居るところでは決してうまくいくことはなかった。

そんな彼女を拾ったのが碇ゲンドウだ。

実際、ゲンドウはレイのたぐいまれな能力を利用したかっただけなのだが・・・

そのことにレイが気づいたときには、不思議とショックを受けることはなかった。

自分を必要としてくれているから。今までの状況に比べれば、喜ぶことこそあれ、

恨むことはちっともなかった。

客観的に見た不幸と言うものは、時に本人にとっては幸だったりするが、

それは果たして幸と言えるかどうか・・・



あたりはしんと静まり返っていたがたった一つ、話声が聞こえてきた。

「まったく、なんでこんな夜に仕事しなきゃいけないんだ・・・」

「しょうがないよ。すごく大切な仕事らしいじゃないか・・・」

「まったくシンジ、お人よしにもほどがあるぞ。そんなんだからいつも損するんだぜ?」

「仕方ないだろ、性格なんだから・・・」

レイは自分の年齢と同じくらいの彼らがこんな時間に出歩いていることに興味をもち、

後をつけてみた。ゲンドウのところにまっすぐ向かわないのは、これが初めてだった。

「それにしても、シンジの刀には驚いたなあ。反則だよ、あの強さは。歯が立たない

ってのはこのことだぜ。俺は今まで強いと言われる大人を見てきたからなんとなく

分かるけど、多分そこらの侍はまるで敵わないだろうな」

「そんなことないよ、ケンスケ。今まで人のいいお爺さんに教えてもらっただけだから・・・」

「いや、俺はこの国で五本の指に入ると言われている侍の戦いを見たことがあるんだが

シンジのほうが強いかもしれないぜ?」

シンジは事実をいっているのだが、その性格から謙遜していると思われているようだ。

しかしその実、教えてもらっているなどと言うなま易しいものではなかった。侍は生きるか

死ぬかの戦いであるから、自然と強くなるものだが、彼の「教えてもらった」は、「生死の狭間を

毎日往復させられた」と言ってもよいほどだった。もちろん教えた爺さんは死なない程度に

していたが・・・

それが普通と思っていた少年は恐ろしい。

「お爺さんは『これくらい当然じゃ!男と生まれたからにはこれくらい誰でも通る道じゃ』って

言ってたから多分たいしたことないんじゃないかな」

「一体どんな練習だったんだ?」

「それはね・・・」





レイは二人の話に耳を傾けていたが、やや話し声が小さくなり、聞き取れなくなった。

知らず知らずのうちに会話に引き込まれていたので、見つかる危険を覚悟で近づくかどうか

で迷っていたところ、「ええーーーーー!!??」と叫び声が聞こえてきたのでどきりとした。

無表情のままではあったが。



「しーーーーー、静かにしないとまずいよ!」

「すまんすまん、しかしそれはすごい。そんな稽古あるのか?言っておくがそれって普通じゃないからな?

はっきりいって、俺なら一日で逃げ出すだろうな。よく生きていたなあ」

「慣れればできるよ。それに本当にそれが普通だと思っていたし」

「いやあ、それにしても、恐ろしいよ。いい話の種になりそうだ。明日あたりトウジにでも話して、

そこで一般人の普通の生活ってやつを教えてやるよ」

(ケンスケが普通の生活を教えるって・・・あまり鵜呑みにしないほうがいいかもしれない)

シンジはそんなことを考えていた。

そしてケンスケはかねてからの疑問を口にした。

「それにしても、何でこんなところで仕事してんだ?それだけの腕があればもっと生かせるだろうに」

ケンスケは、自分だったら間違いなく一目散に城に仕官を願い出るだろうな、などと思ったりする。

彼にしてみればシンジの刀の腕をのどから手が出るほどほしいと思う。

しかし、それに至るまでの道のりを考えると、やはりやりたくない気持ちが強い。

「戦うのはあんまり好きじゃないんだ。今日みたいなときはいいけど、あと刀を振るうのは

命を守らなければいけないときだと思う。そんなときにはもしかすると相手を殺してしまうかもしれない。

だからやっぱり戦いたくはないよ」

きっぱりと言った。時々自分の意思が強く表面に出るあたりは、シンジの人気の秘密かもしれない。

「それにここに来てなかったら、ケンスケやトウジたちと会えなかったし・・・」

何となく漏らした一言だったが、ケンスケが絶好の機会を逃すはずもなく、すかさず突っ込んできた。

「結構恥ずかしいことをさらっと言うな、シンジって」

シンジははっとして、男どうしながら顔を赤らめた。この辺が彼のいいところかもしれない。

「そっ、そんなんじゃないよ。ただちょっと思ったことを言っただけで本心じゃ・・・あっ、いや本心なんだけど・・・

だから僕がキザってわけじゃ決してなくて・・・何となく言っちゃっただけで・・・なんか柄にもないこと

言っちゃったね。ごめん」

「いや、謝る必要はないって」

「ごめん・・・あっ」

「・・・だから・・・まっいいか。たまに面と向かってそういうこと言われると結構嬉しいし・・・

それにシンジだから、シンジの性格でそういう事言うから余計にいいんだけどな。これが

トウジだったらまるで漫才になっちまうからな」

「あはは、そうだね」



(それにしても・・・教え方はともかく・・・よほどの剣豪に違いないな)

なぜかケンスケはシンジに聞こうとはしなかった。

(まあいいか)





「シンジぐらいの強さだったら、最近出没している人斬りも追っ払えるんじゃないか?」

「大丈夫だよ。僕を殺しても何の得にもならないから」

「じゃあ俺の護衛をしてくれないか」

「ケンスケはなんかやましいことでもしたの」

「うっ・・・それは・・・その、銭湯を覗いたり、まあ、いろいろと・・・」

「あはは、もし人斬りが女の人だったら危ないかもね。

でも、女の人の仕業じゃないと思う。いつも鮮やかな一太刀らしいから」

「いや、洞木を見てみろよ。トウジへの張り手、あれは鮮やかな軌道を描くぞ」

ケンスケは素振りをしてみせる。

二人は夜中なので、小さくくすくすと笑いあった。







レイは熱心に聞いていたが、この会話になると胸が苦しくなった。

・・・もう、人との絆は断ち切ったはずなのに・・・

・・・私、寂しいの?・・・そう、そうかもしれない・・・

・・・でも、私はどうしようもない、みんなと違うから・・・

彼らと笑って話してみたい・・・

そういえば、とうに笑顔なんて忘れてしまったかもしれない。

「今でもうまく笑えるかしら・・・」

ゲンドウに見せる笑顔とは違う、と思う。自分の心からの笑顔。

いつかどこかで誰かに見せる日が来るのだろうか?

こっそりと暗闇に向かってぎこちない笑顔をつくってみた。

その天使の微笑を見ることができたものは空に浮かぶ月だけだった・・・









ふと、シンジたちに注意を向けた。



「なあ、シンジ、夜中だって言うのに向こうのほうが少し騒がしくないか?」

「そういえばそうだね。何かあったのかな」

「ちょっと行ってみようぜ」

「うん」



レイはもちろんその原因がわかっていた。

もっと少年たちの会話を聞いていたかったが、

しかし、これ以上ついていく気にはならなかった。

断ち切った絆をまた求めてしまうかもしれなかったから・・・

そうすれば結局自分が辛くなるとわかっていたから・・・

つかの間の甘美なひと時を味わうと、、あとで後悔することになるだろうから・・・

だから、ほんの少しだけ開いた心の扉を、無理やり閉めた。







ゲンドウは長屋に住んでいる。ひどく粗末なつくりで、一見して、ごく普通の平凡な人よりも

やや貧しい生活を送っていると見受けられるが、綾波レイを利用して殺しを行っている張本人だ。

このあたりでは身寄りのないレイを見かねたゲンドウが彼女を引き取ったというのがもっぱらの

噂となっている。そういうわけでゲンドウは無愛想ながら慈善家として通っていた。

実際には残酷な性格をしているのだが。いや残酷と言うよりも目的のためには手段を選ばないと

言うべきか。

その家の中では二人の男が低い声で話していた。

「ふっ・・・後一人で将軍の後継者は私一人となる・・・とりあえずは吉報を待つか・・・」

「あと一人?もう碇の血を引くものは居ないはずだが・・・まさか実の息子を殺す

つもりではないだろうな?碇」

「冬月先生・・・私は目的のためなら鬼にもなります。この計画に失敗は許されません。

碇家を追い出されたこの私を差し置いてシンジが後を継ぐ可能性も否定できません」

冬月はゲンドウがそこまでするとは思っていなかった。彼にも人の親としての気持ちが少なからず

残っているのだろうと思っていた。彼が将軍になった日には、シンジを呼び戻し、ある程度の身分を

与えてやるものだと思っていた・・・

「まさか、シンジ君を引き離したのは?」

ゲンドウはニヤリと不気味な笑みをこぼした・・・

「まあ、確かに将軍はシンジ君を気に入っていたからな。お前とシンジ君が追い出されてからも、

シンジ君にはお忍びで会っていたらしいからな・・・もちろんシンジ君は人のいいじいさんとしか

思っていないだろうが」

「ああ・・・あのころのことは何も覚えて居まい。私が父親だと言うことも知らないのだからな」

(私はなぜこのような男に協力しているのか・・・)

ふふっと笑みをこぼす。

(ユイ君の見込んだこの男を見届けたいだけかも知れんな)

馬鹿なことをやっていると思う。このままおとなしく城で生活していれば、そこそこ、というか

一般人から見ればかなり裕福な生活を送れるだろう。



冬月はふと外の喧騒に気がついた。

「それにしても妙に騒がしいな。何かあったか?」

「・・・・・・」

ゲンドウが黙っていると不意に戸が開いた。

「申し訳ありません・・・暗殺には成功しましたが、見つかってしまいました」

「問題ない。お前の姿がばれていなくて、暗殺がうまくいっているのならばいい」

「あと一人・・・あと一人で私の願いがかなう」

「はい・・・」

それはすなわち自分が捨てられるときである。ゲンドウが将軍になれば、レイは邪魔者以外の

何者でもない。もしかしたら殺されるかもしれない。

狡兎死して走狗煮らる。

それが分かっていながら、今までゲンドウについてきた。

・・・でも、もし猟犬が一人ぼっちだったら、殺されても幸せだと思う。

・・・きっと使ってくれたことに感謝するわ。



私・・・

すべてが終わったら、死のう・・・

もう生きていても仕方が・・・ない・・・わ・・・

レイの真っ赤な瞳から涙がこぼれた。思わず家を飛び出した。

「レイ?!」

ゲンドウは思わず後を追おうとしたが、ふと足を止める。

私は何をしているのだろうか。

初めから利用するだけと決めていた。いまさら後を追ったところで中途半端な期待をさせるだけだ。

「碇・・・」

冬月は、ゲンドウの行動が打算的なものではない事がわかった。

(碇・・・人は鬼にはなれないものだな。)

(いや・・・息子殺しは十分に鬼か)

「冬月、レイが戻ってきたらシンジの事を話す」

「そうか・・・」

冬月はおもむろに立ち上がった。

「私はそろそろ失礼するよ」





レイは一人橋の上にたたずんでいた。

誰にも見られることはないだろうと、頭巾をほどいた。

透き通るような水色の髪が風になびく。

それを気にも止めず、空の月を見上げた。今は雲がかかって見えなくなっている。



私はあの月の様に、もうすぐ見えなくなる・・・

私・・・まだ涙が残っていた・・・

もうとっくに枯れ果てていたものと思っていたのに・・・

でも、これが最後・・・

嬉し涙と言うものがあることは聞いたことがある。でも私は結局それを知ることはなかった・・・



そしてそれから三十分ほどたった。

「まずいなあ、もうこんなに遅くなっちゃったよ・・・父さんたちはもう寝てるだろうな・・・」

「・・・あっ。月が見えるようになった・・・」

「綺麗だな・・・」



ふと目に光が差し込んだ。そちらのほうに目をやると・・・

シンジは思わず目の前の光景に見とれてしまった。髪の毛が月明かりで輝いている。

一人の少女が醸し出す幻想的な雰囲気に、視線が釘付けになっている。

胸が高鳴る・・・





(まずい!)

そう思った時には遅かった。

「あっ・・・」

見られてしまった。

視線が重なり合う。

しかし、予想に反して相手は恐る恐るとこちらに近づいてきた。

「あの・・・こんな時間にどうかしたの?」

レイは、一瞬何を言われたか分からなかった。今までまともな会話をしてくれた人は居なかったから。

辛うじて会話と言えなくもないのはゲンドウとの一言やりとりだけだ。



なぜこの人は私に話し掛けたのだろう・・・

なぜ逃げ出さないのだろう・・・

なぜ・・・



「・・・しもし?」

レイは我に帰った。

(さっきの人・・・)

「なぜ・・・」

「えっ?」

「なぜ私に話しかけるの?」

「えっと・・・なんでだろう・・・その、思わず見とれちゃって・・・それで・・・」

シンジは自分の言ったことに気がつくと、紅潮した。

「ごめん、あっ、あの、違うんだ、そう月明かりが綺麗で、その下を見たら君が居て・・・

すごく綺麗で・・・」

あまり言っている内容が変わっていなかった。





綺麗?私のことを言っているの?



「その、何でこんな時間にこんなところに居るのかなって・・・」

「私のこと、怖くないの?気持ち悪くないの?・・・なぜ、逃げ出さないの?」

「えっ・・・どうしてそんなことを聞くの?僕は怖くないし、気持ち悪くもないし、逃げ出したくもないよ」

(その反対だよ)

・・・分からない。彼は何を言っているんだろう。







「・・・その、他の人は、君を見て逃げ出すの?」

「・・・ええ」

「私とは関わらないほうがいいわ」

「えっ」

「あなたも嫌われるから・・・」

そういって走り出した。

「あっあの」

すぐにレイは見えなくなってしまった。



「まるで妖精みたいな女の子だ・・・」



「一目惚れって言うのは、こういうことを言うのかな・・・」





私はなぜ逃げ出したの?

・・・私、嬉しかったはずなのに。

・・・でも、消え行く私は、もう誰とも関わらないほうがいい・・・

もう少しで、全てが終わるから・・・



・・・これは涙?・・・

これは、嬉し涙?それとも悲しいときの涙?

・・・分からない・・・



もう、戻ろう・・・

ふと空を見上げると、鮮やかな満月が見えた。雲はかかっていない。







「帰ってきた・・・私の居場所はここしかない・・・」

黒ずんだ引き戸をそろそろと引いていく。

ゲンドウはなんと入り口のほうを向いて、机の上に腕を組み、こちらを見ていた。

「よく帰ったな」

ゲンドウはレイがここに帰ってくるしかないと確信していながらも言った。

「・・・すいません、心配をかけました」

レイはゲンドウが心配するなどありえないと思いつつも言った。そんなことはなかったのだが、

彼の無表情から感情を読み取ることなど冬月でさえ容易ではない。

「いや、問題・・・ない」

「・・・」

「レイ・・・最後の任務をお前に伝える」

「・・・・・・はい」

「標的は、隣町の『よろずや』で働いている少年だ。中性的な顔をしていてすぐに分かると思う」

「場所は・・・ここだ。いつものように夜を待ってから行け」

「少年・・・ですか」

「そうだ」

「どうして・・・」

「レイ・・・理由は考えなくてもよい」

「・・・はい」

「分かりました.。・・・あの」

「なんだ」

「名前は・・・何と言うのですか」

なぜ名前を真っ先に言わなかったのか不思議に思った。

「名前か・・・」

ゲンドウはいつもの簡潔な言葉で即答せず、しばらくあたりが沈黙に包まれる。と言っても、沈黙はいつものこと

ではあるが。ゲンドウは視線を外した。壁が目の前にあるというのに、その視線は遠くのほうを見ているように見える。

「目標の名は・・・」

ゲンドウはためらった。名前を言うことで、レイに余計な不安を抱かせたくなかった。

しかし、やはり名前を言わないと、間違える可能性も否定できない。ここまで来て人違いをしましたなどとは

洒落にならない。

(まさかこのようなことで躊躇するとはな)

やがて重い口をゆっくりと開く。

「碇シンジだ」

レイは「分かりました」と一言だけ発した。もちろん碇の姓は気になったが・・・

ゲンドウの尋常でない様子に、尋ねてはならないことのような気がした。

しかし、シンジという名のほうに気がつくことはなかった。







シンジは眠れなかった。目を閉じればさっき会った少女の真っ黒な服装が浮かび、

目を開けば天井は白く、少女の肌が浮かぶ。

横を向けば・・・壁は黒くもなく白くもなく赤くもない。水色でもない。

それで少女は消えるかと言うとそんなことはなく、一度焼きついた映像はいつまでも消えることはなかった。

(こんなこと初めてだ・・・)

しかし寝苦しいからと言って嫌だとは少しも思うことはない。

そう、思い切って少女の幻影に浸ると、なんと気持ちいいことか。

シンジには今だに経験のない気持ちだった。

恋は盲目と言うが・・・

少女の髪の毛、肌の色、瞳の色。

そして月明かりに照らされ、月を見上げる姿。

少女の・・・声。

すべてが美しく思えてくる。

(ああ・・・だめだだめだ!こんなことじゃ・・・明日が辛いよ)

「少し頭を冷やして来よう・・・」

そろりそろりと家を抜き出す。

「なんだかちょっとした冒険をしているみたいでどきどきする・・・」

外に出ると、肌に風があたる。

たたきつけるでもなく、撫でていくといった感じだ。

物音一つしない暗闇の中、ほんの少しだけあたりが明るくなっている。

吹きぬけていく風の中で目をつぶり、心地よさに天を仰ぐと、肌の感覚が鋭くなって、

いっそう風を感じられる。

目をあけると・・・そこには月があった。

月と少女が重なって見えてしまう。

(・・・月と、暗闇と、静寂・・・まさにあの女の子だな・・・)

やっぱりすぐに浮かんできてしまう。

(そういえば・・・あの女の子って、他人から嫌われてるって言ってた・・・)

シンジは思う。美しすぎるものに対しては逆に人は敬遠してしまうのではないか・・・

月は遠くで見ているから美しいように。

(でも、そんなのってやっぱりないよ)

(せめて僕だけは彼女に話し掛けよう。うん、決めた)

(いっぱい話し掛けて、友達になろう)

(それで・・・本当に彼女になってくれたら・・・って何考えてるんだ!僕は)

ふうっ、と一息ついた。目はすっかりさえてしまっていた。



「今日は一晩中こうしていよう・・・」







レイはなかなか眠れなかった。脳裏に声をかけてきた少年の顔が浮かんでは消え、消えては浮かぶ。

なぜか気になる、しかしなぜか分からない。胸の鼓動がいやにはっきりと感じられる。

今までは脳裏に浮かぶとしたらそれはゲンドウの笑顔のみだった。

しかしゲンドウの顔を思い出そうとしても少年の笑顔が重なり、かき消されてしまう。

・・・こんなことでは明日の任務に差し支えてしまう。

今度は紅潮した少年が浮かんできた。

しかし顔を赤くした少年から意識がそらせない。

ずっと見ていたい。







私・・・どうしたの?

心臓がうるさくて眠れないわ

でも、嫌な気分じゃない・・・





明日は寝坊してもいい・・・

最後だから・・・



少年の言葉が浮かぶ。

私・・・綺麗?



その日、レイは久しぶりの夢を見た。

光に満ち溢れていた。しかしよく見ると光の中心には誰か人が立っているようだった。

レイはそこに引き付けられるように向かっていった。

今まで感じたことのない幸福感に包まれる。レイは全てをゆだねた。







気持ちいい。

温かい。

私、ずっとここに居てもいい?

・・・いけない。ここは君の居るべきところじゃない。

どうして?

・・・ここに君が長く居れば居るだけ、現実は辛くなるから。

・・・そしてもうすぐ戻らなければいけないから。

どうしてそういう事いうの?

もうあそこには戻りたくない。

・・・生きていれば、いつかよかったと思えるときが来る、それを覚えておいてほしい。

まって!





日差しが強くなったころ、レイは目を覚ました。

・・・また現実が始まるのね・・・

・・・今だけはこの幸福に浸っていたい・・・

結局、夜中までレイは布団にもぐりこんでいた。





夜中、レイは目的の場所が見えるところに隠れて息を潜めていた。

灯火が一つ、また一つと消えていき、あたりが完全なる暗闇に包まれようとしていたころ。

ゲンドウの言ったとおりに一人の少年が出てきた。そしてその後に続いてもう一人。

その顔は・・・レイの頭に焼きついた少年のものと、昨日のもう一人のものだった。

「ふわあ〜」

「今日はずいぶんと眠そうだな、シンジ」

「うん・・・昨日はちっとも眠れなかったからさ」

「どうかしたのか?」

「実は、昨日会った子のことが忘れられなくて・・・」

シンジは眠気のあまり思考力ダウン。

しばらくすると自分の失言に気がついたが、すでに時遅し。

ケンスケの眼鏡がキランと光ってしまった。

これは間違いなく悪いことが起こる前触れだと言うことが経験から分かっていた。

それにしても・・・レンズの下が見えなくなるほどにケンスケの眼鏡を光らせるには、

月明かりでも十分な様である。

しかし、ケンスケのからかいが発動されることはなかった。





碇シンジ・・・シンジ・・・そういえば、シンジと呼ばれていた・・・

どうして気づかなかったんだろう。

なぜあの人なの?

初めて自分に心を開いてくれた人。

綺麗といってくれた人。

思い出すだけで胸が高鳴る人。

一晩のうちに想いが膨れ上がっていた。

彼を殺すのは・・・辛いこと。

でもこれが最後。だから・・・

レイは二人のほうに歩み寄った。

シンジがレイを見る。

レイがシンジを見る。

今日はレイのほうから姿を見せた。

そしてレイは声色を変えて一言だけ言った。

「碇シンジだな・・・」

眠気は吹っ飛んだ。

シンジは、ケンスケにそっと耳打ちする。

「ケンスケ・・・今すぐ逃げてほしい。あいつは僕を狙っているみたいだ・・・」

「シンジ、一人でやるつもりなのか?」

俺もいたほうが・・・と言いたかったが、やめた。自分ではまるで役に立たないことが分かるから。

頭の回転が速いケンスケ、シンジの強さを分かっているケンスケだから、身を引いた。

「シンジ・・・死ぬなよ!それで、話の続きをじっくり聞かせてもらうからな!」

二人は笑顔を交し合った。



レイはケンスケのことはまるで気にせず、刀を抜きシンジののど元を狙うが、シンジになぎ払われて

しまう。

「!!」

(この人・・・強いわ・・・)

いつものとおり一撃、それで終わりのはずだった。

しかし・・・あっさりと防がれてしまった。

丁々発止。

レイはシンジの腕を切りつけた。これも払われる。

そこで、シンジは同時に蹴りを入れてきた。

不意を突かれてレイがまともにくらい、のけぞった。

そこへシンジはすかさず縦に切りつける。

レイは身を後ろへ引いた。すんでのところでかわした・・・かに見えた。

しかし額を覆っている頭巾を斬られてしまった。

はらり・・・と、あたりに数本の髪の毛が舞う。

レイはさらに後ろに飛びのいて間合いを開くと、おもむろに頭巾を取った。

青い髪、白い肌をした顔、そして赤い瞳がシンジの目に飛び込んできた。

シンジはそこで目を奪われてしまい、一瞬動きが止まる。

驚愕と言うべきか衝撃と言うべきか・・・いや、人間の作り出した言葉では表現不可能だった。

敢えて言えば、何も考えていない状態で、ただただ目の前の光景を見つめている。

「どうして・・・どうして君が!」

辛うじて台詞を紡ぎだす。

レイは無言で一気に間合いをつめ、刀を振るった。

シンジは反射的に後ろに反ってかわしたが、その頬からツーッと血が垂れてきた。

それを気にもせず、再び叫ぶ。

「どうしてこんなことするんだよ!」

「お願いだから、止めてよ!」

レイはその手を止めずに言う。

「私が生きるには、これしかないから」

繰り返される金属音が、闇に消えてゆく。

ただただむなしい。

(僕は・・・ここでやられるわけにはいかない!)



「他に生きる道なんてないもの」

でも、これで終わる・・・

レイは渾身の力でシンジののどを狙った。これで終わりになると確信した。

「!!」

シンジはレイの手を蹴り上げていた。

レイの刀が宙に舞い、弧を描きながら落下して地に突き刺さった。

レイは唖然としていた。

シンジはすかさず刀を突きつける。

「やめてよ・・・こんなこと」

「止めを刺して」

レイは、負けてゲンドウの所に帰るわけには行かなかった。

どうせ死ぬつもりだったのだから、ここで殺されてもかまわない、そう思っていた。

それに、シンジに殺されることで、苦痛から開放されると思った。

「・・・僕にはできないよ」

「ためらうことはないわ、私はもう何人も殺してきたの。私を生かしておいたら、また被害者が出るかもしれない」

(もう、ありえないけどね)

「それに・・・私が死んでも悲しむ人はいないわ」

「そんなことない!!」

思わぬ力強い口調にレイは驚いた。

「そんなことない・・・君が死ねば、僕が悲しいよ・・・」

・・・なぜ?なぜあなたが悲しいの・・・

そう問い掛けるのは、憚られた。

「私、生きていく場所なんてどこにもないの・・・だから、お願い・・・私を殺して」

シンジはこの言葉を聞いて思い出した。レイが、今まで世間から嫌われてきたと言っていたことを。

そして、決めた。

「君の名前はなんていうの?」

「・・・綾波レイ」

「綾波、僕は・・・君に勝った。僕が君の命を奪うほどの権利を得るとしたら・・・

僕はその権利を、使おうと思う」

レイはシンジが何を言いたいのか分からなかった。

シンジは先ほどの勢いはどこへ言ったのやら、顔を赤くしてうつむき加減になった。

その顔を見ていると、レイは胸の鼓動が激しくなる。

・・・また・・・

「あの・・・綾波が嫌われているのはわかった。・・・でも」

「僕と・・・友達になろう。ずっと・・・」

「それで、どうしても綾波がここにいられないと思うんだったら、僕と一緒に、遠くに行こう!」

「二人で道を探せば、何か見つかるかもしれない」

「僕は、綾波を殺す代わりに、綾波と一緒にいたい・・・だめかな」



シンジは会心の笑顔で微笑んだ。無論意図してやったわけではないが・・・



(不思議だ・・・なんでこんな恥ずかしいことをいえるんだろう。

それも2回しか会ったことがない女の子に・・・)



レイはなぜシンジがそんなことを言ってくるのか分からなかった。

でもそんな疑問とは裏腹に、レイは胸の中から温かくなっていくのを感じた。

さっきまで考えていた「死」が、雲散霧消した。

自分を求める人が現れるとは思わなかった。

(これが・・・私の望むことだったのかもしれない)

(こんなに心地いいんだもの)

そう・・・それはまるで夢のようだった。

シンジが自分を求める理由、そして自分が心地よい理由は分からないけど・・・

理由なんてどうでもいい。もしかするとそんなもの存在しないのかもしれない。

ただ自分を求めてくれる人がいて、そしてそれを受け入れたい自分がいる。だから・・・

今は、自分の感じるままに答えた。

「・・・ええ」

レイにとっては2度目の幸せ。しかし初めとは違い、それは一切の打算のないものだった。

シンジはなにやら驚いた表情をしている。

レイは気づかないうちに微笑んでいた。

不意に、頬から一粒の涙がこぼれた。

初めての嬉し涙だった・・・






作:BEBE

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