記憶の花






「あれ・・・綾波?」

シンジは特にすることもなく、その日は一直線にミサトのマンションに帰ろうと
思っていた。そして校門の近くまで来たとき、横のほうに目を移すと
視界の先に見えたのは、なにかを熱心に見つめている綾波レイだった。

その日はアスカだけ起動実験が予定されていた。ケンスケとトウジは授業後職員室に呼び出されて
しばらくは帰れそうもない。聞くところによると、水泳の時間に女子の着替えているところを
こっそり盗撮しようとしたらしい。
もう一人、綾波レイ。彼女は・・・気になる。彼女を特に気にし始めたのは、ヤシマ作戦が終わってからだろうか。
シンジは授業中によくちらちらと彼女のほうを見ていることがある。しかし恥ずかしくて、
それに何を話せばいいか分からないので、とても一緒に帰ろうなどとは思わなかった。
第一、彼女は授業が終わると同時にすたすたと帰ってしまったので、話し掛ける暇もなかったのだが。



綾波レイ。いつも授業中は窓の外を向いている。まったく授業には無関心だといわんばかりに。
いや、授業だけではなかった。彼女が何かに関心を持ったようなそぶりを見せる自体、
シンジはほとんど見たことがなかった。唯一、ネルフ総司令でありシンジの父である碇ゲンドウ
に関係することにだけは関心を示した事があったが。
しかし、ヤシマ作戦以後、ひそかにレイが自分のことを気にしているなどということは
つゆとも知らなかった。

綾波・・・一体何をしているんだろう。

シンジは引き付けられるようにして、レイのところへ近づいていった。





「綾波、何やってるの?」
レイは下を向いていた顔をあげると、シンジのほうに目をやった。
その赤い瞳が、シンジの黒い瞳にしっかりと固定された。
レイの真っ直ぐな視線を見ると、思わずどぎまぎして、ついつい目をそらしてしまう。
シンジは自分の顔が紅潮してくるのがはっきりと分かった。
「あ、綾波、その、何やってるの?」

「花・・・」
しばらくの沈黙の後、消え入りそうな、それでいて透き通った声が帰ってきた。
レイは再び視線ををシンジから離すと、元の場所を見つめた。
シンジはレイに導かれるようにして視線を移すと、そこには鉢が二つ並んでいた。
どちらも赤黒いレンガ調の色彩であったが、鮮やかさはない。ひどく古めかしい印象さえする。
それは、かすかにかかった苔の淡い緑から来るものだった。
片方の鉢には、青々とした緑の茎に見事なまでに大輪の花を咲かせているヒマワリ。
まるで太陽を追い求めるように、午後のやや西へ傾きかけた、それでもまだまだ高い位置
にある日輪に、その大きな花を向けていた。
その姿は大空を仰いでいるようにも見える。
そしてもう一方の鉢には、背丈が五十センチほどあろうかという、赤味がかかった緑の茎。
しかし、夏だというのにその蕾はしぼんだままだ。
喜怒哀楽でいえば、ヒマワリはまさに喜。そしてこちらのほうは哀といえるだろう。
人間の正反対な二つの内奥が並んでいるかのように、対照的なたたずまいを見せている。

こんなところにこんなものがあったなんて・・・

シンジはその鉢にしばし目を奪われていた。二つの花が無造作に置かれている。
鉢はもちろん人の手によって生み出された、あるいは加工を施されたものではあるが、
そこに並んでいるものからはまったく人為的な雰囲気が感じられない。
そのため、注意深く見ないとなかなかその存在に気づくことができないだろう。
しかしそのコントラストは、一度見た者を引き付けて手放さない、そんな魅力があった。

しばらくしてシンジが目を隣に向けると、赤い瞳。
「な、何?」
やっぱり直視できないシンジは、またしても目をそらしてしまった。
「この花、まるであの人みたい・・・」
「えっ、あの人って?」
「二号機パイロットのこと・・・」
そういわれてみれば、底抜けに元気がありそうなアスカに似ているかもしれない。
「うん、確かにヒマワリとアスカ・・・似ているかもしれないね」
「でもこっちは知らないわ。この花、何ていうの?」
「えっ・・・なんだろう。僕も知らないや」
シンジは膝を曲げてしゃがむと、体を動かしながら鉢のまわりをくるりと見て回った。
「あっ、なんか書いてある」
そこには黒の油性ペンで書かれたらしい文字がうっすらと見える。
「えっと・・・月・・・下・・・うーん、後は見えないや」
あれ、月下・・・なんだっけ。なんかどこかで聞いたことがあるような・・・

うーんうーんとうなっているシンジの横顔を、レイが無表情のまま見つめている。

シンジの頭に浮かんでくるのは、授業そっちのけでいつも昔話ばかりする老教師。
ほぼ百パーセントの生徒が話など聞いていないのだが、かすかにシンジは記憶に残っている。
あの時は半分寝てたような気もするけど、あの先生の話で・・・えっと・・・なんとかいう川の近くに
植えてあった花で、名前は確か・・・
「分かった!」
シンジは手のひらをぽんと叩いた。
「月下美人だ!思い出したよ。月下美人だったと思う」
半分夢見心地だったはずの曖昧な記憶が、一気に呼び覚まされてくる。
「月下美人?」
「うん。確か、夏の夜、一晩だけ咲くか咲かないか・・・そのぐらいめったに見られない花らしいよ。
そうだ、確かあの先生は、夜、根府川の辺りを歩いていたときに一度だけ咲いているところを
見たことがあると言ってた。とても綺麗な白い花で、顔ほどの大きさだったとか・・・」
すらすらと記憶がよみがえってくるのに任せて流れるように話した。
「でもセカンドインパクト以来、ほとんど見かけなくなったんだって。こんなところにあるなんて・・・」
恐らくその老教師も、この学校にあることは知らないのだろう。
「夏の夜に、一度咲くか咲かないか・・・」
「うん。きっと短命だから、とっても綺麗なんだろうね」
「・・・」
「綾波?」
「碇君・・・この花の咲くところ、一度見てみたい・・・」
「うん、僕も見てみたいけど、なかなか難しいんじゃないかな」
レイはしばらく花の開いていない、その鉢に植えられたしおれたような花を見ていたが
やがてくるりと方向を変えて、シンジに向き直った。
「行きましょう・・・」
「えっ・・・」
レイはそういうと、すたすたと歩き出した。
もしかして、一緒に帰ろうってことかな?
でもどうして・・・
シンジは、レイが言ったことが信じられなかった。
護衛とかの関係で、なるべくチルドレンは一緒にいたほうがいいとかそんなことでも
言われたのかもしれない。いくらでも矛盾がある考えではあったが、意識を現実に戻すと、
レイはもう十メートルほど先の方に行っていた。
「待ってよ、あやなみー」
前を行くレイの歩調は、心持ちゆっくりしているようにも見えた。




その後、シンジはレイと一言もしゃべることなく、別れた。
いつもなら必死になってあーでもない、こーでもないと話題を考えて、結局話せずじまいになることが
多かったのだが、今日はなんだか居心地が悪くなかった。それは隣を歩いているレイから感じられる
雰囲気が、以前と違ってやわらかい感じがしたからだった。

「ただいま」
沈黙が帰ってくる。
「あれ・・・誰もいないのかな?」
ミサトはともかくとして、アスカは朝出て行ったのだから、もう帰ってきてもいいはずだった。
しかし彼女の靴は、まだなかった。
シンジは靴を脱ぎ、リビングに入っていったが、やはり誰もいない。
「そうだ・・・ペンペンにご飯をあげないと」
冷蔵庫に入っている魚を取り出し、金網をガスコンロの上に乗せて焼く。
しばらくするとパチパチという音とともに、香ばしい匂いが漂い始めてくる。
そばにある小さな冷蔵庫を開けると、ペンペンが匂いにつられて、勢いよく跳び出してきた。
「ギャッ、ギャッ」
シンジの足元で催促するように手をばたつかせている。
その一途な姿を見て、シンジは思わず顔をほころばせてしまう。
「ミサトさんがペンペンを飼う理由が良くわかる気がする・・・あっ、そろそろかな」

シンジが焼きあがった魚の尻尾をつまんで腰を曲げたそのとき、玄関の扉が開かれる音がした。
「ただいまー」

「あっ、アスカ、帰ってきたんだ」
一緒に住み始めてからまだそれほど時間がたっているとはいえないが、聞きなれた同居人の声。
しかしその声はいつもの快活さというか、うるささというか、アスカらしさが感じられない覇気のない
声だった。
「お帰り・・・」
何だか自分が台所に立って、「お帰り」などというのが妙に所帯じみているような気がした。
「アスカ、今日はどうだった?」
「どうもこうもないわよ! リツコのやつ、あたしに変な薬飲ませて、もう体がだるいったら
ありゃしないんだから。おかげでテストの結果は最悪だったわ。まったく、なんであんたや
ファーストじゃなく、このあたしだけあの金髪女の実験につき合わされなきゃいけないのよ!」
その長く美しい髪を揺らして、シンジのほうを指差した。
「ご、ごめん」
反射的に謝ってしまった。

「フン、まあいいわ。あたしは今もーれつに眠いから、今日はもう寝る」
「うん・・・おやすみ」
アスカは答えることなく、さっさと部屋を出て行った。
シンジがちらりと時計に目を向けると、まだ四時半だった。
「あっ、そうそう、今日はミサト帰ってこないと思うから。何か随分と忙しいらしいわ」
「そうなんだ」
じゃあ、今日の夕飯は僕しか食べないのか・・・
「シンジ! ミサトがいないからって、あたしのこと襲うんじゃないわよ!」
「そ、そんなことするわけないじゃないか!」
予想どうりのシンジの慌てた声に満足したのか、それっきり彼女は静かになった。
それにしても、彼女が風呂に入らずに寝てしまうことなど初めてであった。まあ、それほど長い間
一緒に生活しているわけではないが。
ふと足元を見ると、ペンペンがパン食い競争のようにシンジの手にぶら下がっているものをめがけて
背伸びをしたり、諦めてシンジの足をつついたり。
「あっ、ごめんね。すっかり忘れてた」
シンジは今だに片手に持ったままだったおいしそうな焼き魚に気がつくと、膝を曲げてペンペンの口に
入れてやった。いかにもおいしそうに食べるペンペンの様子をひとしきり見つめたあと、シンジは
立ち上がり冷蔵庫に目を向けた。

「さてと・・・僕のほうも何か食べるものを作らなきゃ」




シンジは夕飯も食べ終わって自分の部屋でゴロゴロしていた。
机の上にはノートが一冊、開かれたまま置いてある。その上にはペンが放り出されていて、
いかにも宿題を途中でやめたという感じだ。
部屋の中は整然としていたが、何か寂しい。あまりにも整いすぎて、生活感がないようにも思える。
時計の短針が指しているのは、十を少し回った辺り。
口に手をあてて大きなあくびをしていると、不意にシンジの耳に機械的な音が聞こえてきた。
「あれ・・・なんだろ」
発信源はすぐに分かった。彼は自分のポケットをまさぐると、ネルフに関わることにしか
あまり使われない携帯電話を取り出した。
「もしもし」

返事は、ない。

「あの、もしもし?」

カチカチと、秒針の音だけが聞こえる。
いたずら電話だろうか。そんな思いがよぎる。


「碇君」
決して聞きたがうことのない声。それは露と混じって消えてなくなりそうな声ではあったが、
シンジの中では決して消えることのない、レイの声に間違いなかった。
「あ、綾波? どうしたの?」
「花・・・」
「え? 何? 何のこと?」
「碇君は夜に咲くと言ったから・・・今夜咲くかもしれない」
シンジは理解した。
「それって学校で見た、あの花のこと?」
「ええ」
「うーん。確かにそうかもしれないけど咲かない可能性のほうがずっと高いと思うよ」
「でも咲くかもしれないわ」
シンジは驚いていた。彼女がここまでこだわることは、今まで初めてだったかもしれない。
「見に行きたい・・・」
見に行きたいって言われても・・・

シンジは何を言えばいいのか少し返答に困ってしまった。もし立場が逆であれば、レイは
「そう」の一言を言ってのけるかもしれないが。しかし結局いい言葉が見つからなかったシンジは、
「そうなんだ」
と言うしか思いつかなかった。

しばらく会話が止まる。携帯電話からかすかに聞こえてくる雑音のような音だけが耳に入る。
何となく気まずくなったシンジは、もしかして気に障ったかな、などと考えてしまう。

「碇君も、一緒に」

しばらくシンジはレイの言葉を反芻していた。

「ええー! 僕も一緒に?」
「いやなの?」
そんな話し方をされて、シンジは嫌と言えるはずもなかった。
「そういうわけじゃ・・・」
「じゃ、行きましょう」
そこでプッツリと電話は切れてしまった。

「切れちゃった・・・」

シンジは規則的な機械音が聞こえる携帯電話をしばらくぼうっと眺めていたが、
やがて立ち上がると、ポケットにねじこんだ。

「綾波と二人っきり、ってことだよね」

そう考えると、今までまったく感じなかった緊張感がとたんに襲ってきた。
窓を見ると、光はまったく差し込んでいない。
別に花を見に行くだけだから、何もやましいことなんかない。
そう自分に言い聞かせた。実際のところ、ほんの欠片ほどでもやましいところがあるから
そんなことを思ってしまうのかもしれないが。
「でも、一体いつから行くつもりなのかな」
何も時間については聞いていないが、とりあえずすぐにレイのマンションに行くことに決めた。
シンジは背筋をピンと伸ばし、やや硬い動きで部屋を出ると、玄関に向かっていった。
アスカは寝てるし、ミサトさんはいないし・・・大丈夫だよね。
もし彼女たちにばれたら、散々からかわれるのは目に見えている。
あまり音を立てないように玄関をそっと開けた。

「あ・・・綾波?」

そこには制服姿のレイが立っていた。

「碇君、行きましょう」

 







人影はあたりに見当たらない。すっかり暗くなってしまった夜のアスファルトを、等間隔に
並べられた街灯が照らし、闇の中にわずかな光を作り出していた。その光は自然なもの
ではないにしても、シンジの斜め前を歩くレイの美しさをいっそう際立たせていた。
彼女の水色の髪の毛は銀色の光のしぶきを辺りに散らしている。彼女の存在は、
夜の湖のほとりで戯れる水の精を思わせる。

シンジはそんなレイをぼうっとした表情で見つめながら歩いていた。
先ほどから会話は一つもない。レイはもともと話し掛けるほうではないし、シンジはというと
レイの放つ神秘的な魅力に負けて上の空だった。

急遽、前を歩くレイがくるりと振り向いた。
シンジの胸がどきんと音を立てた。
二人が対峙したまま、静寂が流れた。
「なぜ後ろを歩くの?」
「え・・・」
レイは黙ってシンジのところまで、ほんの二、三メートルほどの距離であったが、ゆっくりと近寄って来た。
シンジの横に並ぶと、レイは再び向きを百八十度変えた。
「綾波?」
「こうして歩くものだって、葛城三佐は教えてくれたから」
レイが再び足を前に踏み出すと、シンジも同時に一歩踏み出す。レイが右足を動かすとシンジも右足。
レイが左足を地面につけたかと思ったら、シンジも左足を地面につける。
それはいつかのユニゾンの練習のときと同じように、不思議な安心感と心地よさを与えてくれる。
しかしシンジはそんな気持ちもすぐに吹き飛んでしまった。
先ほどまでとは違いぴたりと肩を並べて歩く二人。
お互いの肩が何度かかすめあい、その度に感じるほのかな甘い香りは、シンジの思考能力を
低下させるのに十分なものだった。ちらりと横を見ると、真っ直ぐに前を見据えて歩くレイの姿が
目に入ってきた。思わず顔に全身の血が集まってきてしまう。シンジはレイの反対側のほうへ
視線を移すと、恥ずかしさを紛らわすようにレイに話し掛けた。

「あ、あの、綾波って花とか好きなの?」
「どうして?」
「だって、わざわざ見れるかも分からない花を見に学校まで行くなんて、よっぽど
花が好きなんだろうなあって思って」
「よく分からない・・・」
レイは少しだけうつむいた。
「そうなの?でも綾波に良く似合ってると思うよ。女の子らしくていいんじゃないかな」

「何を言うのよ」
レイは顔をほんのり赤らめた。しかしシンジはそんな彼女に気づくことはなかった。
彼女は気が緩んだのか、地面に足のつま先を引っ掛けた。
「あ・・・」
即座に手を伸ばしてアスファルトに突き立てた。が、手のひらをうまくつくことができなかった。
そのおかげで手首を少しひねってしまった。
「だ、大丈夫?」
シンジは体を少し前に倒すと、自然とレイに右手を差し出した。
「ええ、平気」
レイはそう言って上を見上げたら、目の前にあるのはシンジの手。
ぱちぱちと瞬きしてそれを見つめた後、やや戸惑ったようにして、シンジの手をとった。
レイに握り返されたシンジは、見る見るうちにトマトのようになってしまった。見事なまでの熟れ具合。
ぐっと力を入れてレイを助けた後、すぐさま二人の間につながれた手を離した。
「あ・・・」
レイは小さな声を漏らしたが、シンジの耳に届くことはなかった。

再び歩み始めた二人。
「なんだかとっても静かだね。この世界に使徒が攻めてくるなんて、信じられないな・・・」
「そうね・・・」

横目でちらりと見ると、隣を歩くレイの横顔は少しだけ柔らかくなっているような気がした。





「やっぱり閉まってるね」
シンジたちの目の前には、閉ざされた校門があった。もちろんそこから見えるいくつもの窓は
明かりが灯っているはずもなく、どれも鈍い黒色をしている。
実際にここまで来てみると、真面目な部類に入るであろうシンジも、
心が浮き立つのを覚えた。幼いころにこのようなことをした経験は、ない。
門にもっと近寄ってみる。それはシンジの身長ほどだった。
また縦に金属棒が走っているだけで、格子のように足を掛けるところはない。

彼女の雪のように白く、一回り細い腕に目をやった。
ほんの少し力を加えただけで折れてしまいそうな腕だった。果たしてこの腕でよじ登れるだろうか。
しばらく考えたあと、シンジは門の上に手を掛けた。すると金属のひんやりとした冷たさが伝わってくる。
そして腕に力を篭めて、地面を蹴った。まず腰を門の上部に当て、それから門の上に足を掛け、
全身をばねのように使って体を持ち上げた。
「じゃあ今度は綾波が・・・」
そう言って身を乗り出すようにシンジは腕を伸ばした。
彼女はシンジの手をじっと見つめた後、その手をそっと握った。
「いい? それじゃいくよ。せーの!」
レイはシンジの胸に飛び込むように、勢いよく跳びあがった。しかもその跳躍力は予想外に
かなりのものだった。シンジはまさかレイが正面に跳んで来るとは思っていなかったので、
受け止めることもできずそのまま後ろへバランスを崩した。

いけない!

ぐらりと来た時にはもうすでに遅かった。
体がふわりと中に舞う。しかし地面に打ち付けられるのが避けられないと分かっている今、
できることといえば頭を打ち付けないように首を前に傾けることくらいだった。
そしてシンジはレイにのしかかられるような形で、背中から地面に打ちつけられた。

「うっ!」
背中に走る衝撃。そしてしばらくの間をおいて襲い来る痛みに無言で堪えなければならなかった。
「碇君!」
レイは腕に精一杯の力を篭めて、シンジを揺さぶった。
「大丈夫? 碇君! 碇君!」
「あ・・・うん、何ともない・・・から」
顔をしかめながらそう答えた。レイが軽かったせいもあるのだろうか、
シンジは軽いうち身で済んだようだった。
彼の体から痛みが和らいでいくと、今度は別の感触に気づくことになった。
胸に当たる柔らかい感触。そしてかすかな夜風とともにシンジの鼻腔をくすぐる
甘い香り。彼の視界の端のほうには、青いものが見える。
「碇君・・・ごめんなさい」
レイが必死に謝っているのが声の響きからよく分かる。
シンジが感じたのは、まず驚き。そしてこみ上げてくる嬉しさだった。
もうしばらくすれば、恥ずかしさが襲ってくるだろう。
「あ、あの、綾波。その、本当に大したことないから・・・心配しないで」
彼の周りに、このように真剣に謝ろうとするものは皆無といってよいほどいなかった。
少なくとも彼はそう感じていた。
それだけに、レイの自分を心配してくれる気持ちがとても嬉しい。
「そ、そろそろ離れてほしいんだけど・・・」
彼女はしばらくシンジに抱きついたまま離れなかったが、やがてゆっくりと体を動かし始めた。
シンジも両手を使って立ち上がると、軽く背中を払った。
「それじゃ、花を見に行こうよ」
シンジは何となくくすぐったいような気持ちを隠すように、進み始めた。その後ろをトコトコ
とついていくレイ。門から近くにある花は、すぐにシンジたちの目に入ってきた。暗くて見にくいが、
やはり花は開いていないようだった。さらに近づいていくと、はっきりと咲いていないことが分かった。
その隣には、放課後に見たヒマワリ。こちらも昼間のような輝きは放っていなかった。
「やっぱりだめだったね・・・」
「・・・」
「ね、綾波、そんな悲しい顔しないでよ。またいつでも来れるんだしさ」
レイは顔をあげてシンジを見つめると、二、三回目をパチパチと瞬かせた。
「明日も来てくれる?」
「・・・うん、いいよ」
そしてレイは少し、ほんの少しだけ柔らかな表情をたたえた。
「じゃあ遅くなるといけないから、そろそろ帰らない?」
「ええ」
「綾波、お願いだから今度は僕の正面には飛び込んでこないでね」
レイは深く頷いた。

二人は肩を並べて、静かに夜の学校を後にした。








「綾波・・・どうしたんだろう」
次の日の一時間目、レイは来なかった。
ぽっかりと空いた席をぼうっと見つめている。
シンジが座る席は窓際のレイの斜め前。顔を横に向けながら、さらに横目でレイの席を眺めている
姿は、後ろから見れば丸分かりだった。
教室の後方では、ケンスケとトウジが身を寄せて怪しさ百パーセントの雰囲気で話し込んでいる。
「見てみろよこれ。いい出来だろ。合成写真なんかじゃないぜ」
「ホンマや! これは決定的な証拠やなあ。これでセンセの疑惑も決定的になったわ」
二人は顔を見合わせニヤリと笑うと、前の方に座る少年に向かって歩き出した。
「シンジ、今日は面白いものを持ってきたぞ」
トウジとケンスjケは、シンジを逃がすまいとするように、両側から挟み込んだ。
シンジは二人の不気味な表情からその危険性を敏感に察知したが、逃げられるような状況では
ないこともまた察知した。
ケンスケは手にしていた二枚の写真を叩きつけるようにシンジの机に置いた。
「さあ〜、シンジ。これはどういうことか、はっきり説明してもらおうか」
置かれたものに目をやると、シンジは驚きと恥ずかしさが複雑に交錯して言葉がでなかった。
一枚はシンジとレイが並んで歩いている場面。もう一枚はシンジがレイの手を握って、
起こしてあげているところだった。
「こっ、こっ、これは、一体?」
「ふふふ・・・さあ、この決定的な事実に対して、何か言いたいことはあるかな? シンジ君」
「ど、どうしてこれを?」
「それは、俺の写真家としての才能さ。そんなことより・・・」
トウジとケンスケは両の耳に届くかというほど、不敵な笑みを浮かべた。
「往生際が悪いのう。男らしくないで」
二人がさらに詰め寄ろうとしたときだった。教室のドアがガラガラと音を立てて開かれた。
クラスの視線が集中する。

「綾波・・・」
「これはちょうどいい。この際、綾波に直接聞いてみよう」
そう言ってケンスケは机の上に置かれた二枚の写真をひったくると、ドアの方に飛んでいった。
「ちょ、ちょっと待って・・・」
わずかな抵抗もまったく効果をなさず、シンジの手はむなしく空を切った。
「なあ、綾波って、シンジのことをどう思ってるんだ?」
レイはこれまでほとんど話したことのないケンスケから声を掛けられた。いつもなら無視して
しまっていたかもしれない・・・それがシンジの話題でなければ。
「分からない」
ケンスケはそんな短い答えにもひるむことなく、用意していたものをレイの目の前に突き出した。
「これを見て、何か感じることはないか?」
レイはその写真を見てわずかに目を見開いた。そして顔をほんの少し赤くしてうつむくと、
そそくさと席の方に歩いていった。
その反応を見て、それを興味津々の様子で眺めていたクラスメートたちはぽかんとしていたが、
ケンスケの再起動は早かった。ケンスケは獲物を追い詰める野獣のように、シンジにじりじりと
詰め寄っていった。
「シンジ・・・もう逃げられないぞ」
シンジは声にならない悲鳴をあげた。



げっそりといった様子でシンジはドアのノブにしがみつくと、反動をつけて引っ張った。
「ただいま・・・」
「おかえり〜」
ミサトの機嫌よさそうな声が帰ってきた。
迎えてくれる人がいたことに、ほんの少し嬉しさを感じながら廊下を歩いてゆく。
居間に入ると、つい今しがたテレビを消したのだろうか、ミサトは絨毯の上に腰をおろしていた。
彼女を取り巻くようにビールと、つまみのスナック菓子やらスルメの袋が散乱している。
シンジはため息をつきながら、ミサトに話し掛けた。
「あれ、アスカは?」
「アスカなら自分の部屋にいるわよ。ふっふっふ、それより・・・」
チェシャ猫のようなミサトの様子が、学校でのトウジ・ケンスケの笑いと重なって見えた。
背中に冷たいものが一筋伝っていく。
「シンちゃんって、最近レイと妙に仲良くなーい?」
嫌な予感的中。
「ベっ別に、そんなことないですよ。突然何言うんですか」
「あらあ、隠したって無駄よ。お姉さんは全部お見通しなんだから」
滝のように汗が沸いてきた。
「な、な、何ですか?」
「この街の監視システムって凄いんだから。たとえ夜中だろうとね」
いたずらっぽい表情をしながら上着のポケットに手をねじ込むと数十枚はあろうかという写真を取り出した。
絨毯にばら撒かれたそれは、ケンスケが持ってきたものよりもずいぶんと鮮明に写っており、
まるでコマ送りのように短い間隔で写されていた。
シンジは口をパクパクさせていたが言葉にならなかった。
「シンちゃん、私は応援してあげるからね! がんばんなさいよ!」
からから笑いながらシンジの背中をバシバシ叩く。
シンジは焦点を空中にさまよわせながら、がくりと膝をついた。
自分の不運を呪いながら、心の中でさめざめと涙を流していた。



「もしもし、あの、シンジだけど」
「碇君?」
「うん。その、実はミサトさんに昨日のことがばれちゃって・・・それで、しばらくは
花を見に行くのは止めておきたいんだけど・・・だめかな」
「なぜ?」
「えっと、その何て言うか、恥ずかしいって言うか・・・」
電話を片手に、独り自分の部屋で慌てるシンジ。
「・・・・・・そう」
「で、でもしばらくしたらまた一緒に行こうよ!」

「ええ」
なぜか、彼女が電話の向こうで微笑んでくれた気がした。
「ありがとう、綾波。それじゃ、またね」
「ええ、また」
ピッと電話を切る音が部屋に響いた。
「綾波・・・もしかして、楽しみにしてくれてたのかなあ。もしそうだったら・・・嬉しいな」
しかしそんなにうまいこといくはずもないと思い直し、あくびを一つこぼすと、ベッドに身を預けた。






その日から数日後、レイは自爆した。







病院でレイに会った後、レイは今までの記憶をほとんど持っていないことを、ミサトに告げられた。
それからはまともに人と話した記憶がなかった。ただ自分の部屋のベッドに寝転がり、天井を
見つめながら一日を過ごす、そんな日々がずっと続いている。
「綾波・・・どうして死んじゃったんだよ・・・」
うつろな目で呟いた。
「一緒に見ようって約束したのに・・・どうして」
耳にはさみこまれたイヤホンから絶え間なく流れてくる音楽も、まったく聞こえていない。
「どうして僕がこんな悲しい目に遭わないといけないんだろう」
頭の中を様々な思いが駆け巡る。誰に話し掛けるでもなく、その巡る思いをポツリポツリ、
口にしていく。
「綾波・・・帰ってきてよ」
しかし返事はない。発した言葉は空しく消えてゆくのみ。
「綾波・・・」

その時、玄関のドアが開いた。瞬間、シンジは反応した。
「綾波!?」
即座に上体を起こした。
「たっだいま〜」
聞きなれた声。しかし、それはシンジが切望する人物の声ではなかった。
シンジは再びベッドに体を横たえた。そして二回、ドアをノックする音がした。
「シンジちゃーん、いる?」
彼は返事をしなかった。ミサトは無理に明るく振舞って元気付けようとしてくれているのだろう。
だがそんな明るさも、今は辛かった。
「いるんでしょ? 入るわよ」
ドアの開くのが見えたとたん、シンジはドアの反対側を向くようにごろんと転がった。
「ね、こんなところにいると体が腐っちゃうわよ。外にでも出てみたらどう?」
外はもう暗いのにもかかわらず、そんなことを言った。
やはり彼は返事をしなかった。
「お願い、返事をしてシンジ君」
ミサトは力なく呟いた。
「すいません・・・独りにさせてください」
ミサトはしばらく沈黙していたが、やがてため息を一つつくと「わかったわ」とだけ言って
部屋を出て行った。
ドアがパタンと閉まる音がすると、またごろんと転がって、仰向けになるシンジ。
「綾波・・・」
またレイの名をひとつ、呟いた。


次の日になっても、その次の日になっても、シンジはベッドで一日を過ごしていた。
ミサトは忙しさのあまりに帰ってこられないから、ずっと独りでいる。
シンジが起き上がるのは、トイレに行くときと、わずかに物を食べるときくらいだった。



この日もシンジは天井と顔の真ん中辺りに視線をさまよわせていた。外はもう暗い。
「綾波・・・」

その時、机の上においてあるシンジの携帯電話が和やかな音を鳴らした。
ぼんやりとしながらむくりと起き上がると、そちらの方に手を伸ばし電話をとった。
「もしもし・・・碇ですが・・・」
「綾波です」
シンジは一気にベッドから飛び起きた。勢いあまって絨毯に頭をぶつけてしまった。
しかし痛がっている暇はない。
「綾波!?」
ありったけの力を篭めて携帯電話を握り締めた。
「花・・・咲いたから」
「花? それってもしかして・・・今どこにいるの?」
「学校にいるわ」
スーパーコンピューターのような速さで、シンジの頭の中で一つの結論を出した。
いや、出したというより感じた。
「覚えていてくれたんだ・・・」
「何?」
シンジはドアを突き破るように廊下に飛び出した。
「綾波・・・今行くからね!!」
シンジは矢のように玄関を飛び出した。







終わり


作:BEBE

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