お弁当、作ってくれる?



「ふぁーすとぉぉぉぉ!」

アスカは叫ぶと、地面からボールを拾いあげた。
たった今、自分の背中にぶつけられたボールを。

「このあたしに不意打ちでボールをぶつけるたあ、上等じゃない!
 こら、待ちなさい、ファースト!」

ボールを抱えたまま、アスカは逃げるレイを追って、シンジとヒカリの前から走り去って
いく。
シンジも、ヒカリも、茫然とそれを見送った。

もしかしたら、綾波って、普通の人にはない酵素を持っているのかも知れない、
シンジはそう思った。
『これが、綾波の乳酸菌パワー…。』

うらやましいと思うと同時に、シンジはわが身を案じていた。

このあと、確実にアスカの八つ当たりが、自分に向けられるのだろうと。




「碇君、大丈夫?」
レイが、心配そうにシンジを見つめた。

アスカとレイの、凄絶な鬼ごっこは既に終わっている。
レイの一方的な勝利で。

アスカは今、ヒカリに誘われて何か甘いものを食べに行っており、この場にいなかった。
もっと早く誘ってあげてくれれば、とシンジは思うが、それは無理だろう。
ともかく、アスカには”腹いせ”が必要だったのだ。
具体的に言えば、手にしたボールをぶつけられる相手が。

シンジの頬には、くっきりとボールの表面の”つぶつぶ”の跡が残っていた。

「うん。これくらい、大丈夫だよ。」
シンジは、力なく笑って言った。

「まったくひどいよね、アスカって。」
レイが、同情たっぷりに言う。

「ひどいって、それは…。」
…だれのせいだよ、だれの。
シンジは、内心そう思うが、

『あんたのせいでしょうが!!』
ボールをぶつけられる直前の、アスカの叫びを思い出して口をつぐんだ。

ことの発端は、体育の自習で行われたドッジボールだった。

アスカが投げたボールが、レイの頭部を直撃した。
レイを介抱するうちに、アスカはレイに体力がない理由は、レイが三度の食事をきちんと
とっていないからだと考えた。
だからアスカは、牛乳を毎日飲むことをレイに薦めた。
だが、冷たい牛乳はレイの体質に合っていなかった。
飲んだその日からお腹をこわして学校を休むはめになったレイに、今度はシンジがヨーグ
ルトを作ってあげた。
このヨーグルトが、レイの体質改善に奇跡をもたらした。
なんと、健康増進のみならず、信じ難いほどの体力アップをもたらし、性格まで変わって
しまったのだから。

レイは、なにかというとアスカにつっかかり、挑発する様になった。

『ぼくのせいだと、言われてもなあ。』
シンジは、胸の内でぼやく。

そんなシンジにレイは、あっけらかんとした笑みを浮かべ、シンジの手を引いて言った。

「帰ろ、碇君。」
「あ、うん…。」




このところ、レイの方から積極的に、シンジに話しかけてくることが多い。
ヨーグルトの作り方を教えてもらったこともあるが、それはきっかけでしかない。

はっきりと、シンジにアプローチしようとしているふしがある。
当のシンジは、ほとんど気づいていないようだが、アスカにはそれが面白くない。

だから、アスカがときどき、レイに対して刺々しい態度をとる。
シンジはその場を丸くおさめようとするのだが、レイはそれを楽しんでいるようだった。

アスカの反応が面白いから、アスカをからかうのか。
シンジに気があるから、アスカの前でも平気でシンジに近づくのか。

おそらくその両方であろうが、以前のレイを知る者にとっては信じ難い変化だった。

「ねえ、うちに寄ってかない?」
帰り道の途中で、レイがそう言った。

「うん…。ごめん、夕食の用意を買ってかなきゃいけないから。」
「あら、残念。…やっぱり、”食事係”だから?」

「だから、そんなんじゃないって!」
「力いっぱい否定したって、葛城三佐とアスカ、あの二人が相手じゃねえ。」

「う…。」
それ以上は否定できないシンジ。

あの二人が相手では、うまく言いくるめられてしまうのか。
それとも、怖ろしくてあの二人が作ったものなど、口にできないのか。

「で、買い物って、どこへ行くの?」
「この先に、スーパーがあるんだ。」

「じゃあ、わたしもそこへ行く。牛乳を買い足さなきゃいけないし。」
「うん、じゃあ、いっしょに行こう。」

スーパーで、レイは牛乳だけ買い物カゴに入れ、あとはシンジの後についてシンジが中華
スープや冷凍ギョーザ、牛肉、ピーマン、たけのこなどの食材を買い込むのを眺めた。

「今日は何を作るの?」
レイが尋ねた。

「チンジャオロース。綾波は、牛乳だけでいいの?」
「ええ。ヨーグルトの残りがあるから。」

残ったヨーグルトを”タネ”にすれば、牛乳だけで新たなヨーグルトを作れるからだった。

「ジャムとか、蜂蜜とかは、もういいの。」
「いいのよ。ヨーグルトだけで、十分おいしいんだから。」

「ヨーグルトだけじゃなくて、他にも何か食べた方がいいよ。」
「いいの、いいの。」

なんか、綾波のこの口調って、やっぱり違和感がある…シンジはそう思った。
見慣れたレイの顔が、この言葉づかいをしていることが今でも信じられない。

『でもまあ、悪いことではないんだし。
 いつかは、これがあたりまえだと、感じるようになるんだろうな。』

レイと二人でレジの順番を待ちながら、シンジはそう思った。




翌朝。

「おはよう、洞木さん。」
「おっはよっ、ヒカリ!」

いっしょに登校してきたシンジとアスカが、教室にいたヒカリに声をかけた。

「おはよう。」
ヒカリが微笑んで応えた。
「よかったわね、碇君。アスカの機嫌が直って。」

「うん、まあ。」

「あら、なによ。あたしの機嫌がどうしたって?
 シンジとの間で、何かあったとでもいうの。」

アスカは、じろりとシンジの方を見ながら言う。

「べ、別に。」

「そういえば、碇君。なんともないわね。」
ヒカリが感心したように言った。

昨日、くっきりと刻みついていたシンジの頬のボールの跡は、嘘のように跡形もなく
消え去っている。

「シンジがタフなのは、昔からよ。
 まあ、それを知っているからこそ、手加減ができるんだけどね。」

『あれが…手加減?』
ヒカリが、唖然としているところへ、
 
「おはよう。」
背後から、声をかけられて我に返った。

振り返ると、レイが登校してきたところだった。

「あら、おはよう。綾波さん。」

「おはよう、綾波。
 うん? なんだか、元気ないね。」

「ええ…。なぜか、力が出なくて。」

「その、物の言い方って…。
 あんた、ひょっとして、ヨーグルトの効果がなくなったとか。」

アスカの問いかけに、
「ええ。」
レイは力なく答える。

「どういうことなの、綾波。」

「朝、起きたとき、なんだか力が出なくて。
 そんなときでも、今まではヨーグルトを食べれば力が湧いてきた感じだったのに、
 今日はそれが、全然ないの。」

「ははーん、さては…。」
アスカは、にんまりと笑い、

「天罰よ、天罰がくだったのよ!」
勝ち誇ったように言った。

「あんまり、あたしをおちょくるもんだから、これではいけないと、神様が天罰を
 くだされたのだわ!
 だから、以前のあんたに逆戻りしたのよ。」

「アスカ!」
ヒカリが、口を挟んだ。

「いい気味だ、とでも言いたいの。」

「えっと…。そんなつもりじゃないわ。」

「じゃあ、そんなこと言わないの!」

「う…。わかったわよ。…悪かったわね。言い過ぎたわ。」
 
レイは黙ったまま、首を横に振った。




その日の放課後。

「どう、綾波さん。少しはよくなった?」
ヒカリが自分の席からレイを振り返って言った。

「だめ、みたい。」

「どんな症状なのよ。」
アスカが、横から口を出す。

「別に。以前と変わらないわ。」

「いいから、言ってみなさいよ。」

「日光がまぶしい。…できれば、外に出たくない。
 あまり、食欲がない。
 周囲のことに、興味が湧かない。」

「たしかに、以前のあんたは、そんな感じだったわね。
 でも、どこかで聞いたような症状ではあるわね。」

「症状って…。綾波を病気みたいに言うのはやめなよ、アスカ。」
シンジが口を挟んだ。

「病気かも知れないじゃない。」

「そんな!」

「リツコに診てもらった方がいいかもね。」

「ただ、以前の綾波に戻っただけじゃないか。
 そりゃ、綾波が元気になるのは、いいことだけど。
 今の綾波だって、ぼくは嫌いじゃないよ。」

「!」
アスカは、いきなり席から立ち上がった。

「ど、どうしたの?」

「ぬけぬけと、よくも言ってくれるわね。さいってぇ!!」
そう言い捨てると、アスカは振り向きもせずに教室を出て言った。

「最低って…。」
シンジは茫然としてつぶやいた。
「ぼく、何か拙いこと言ったかな?」

「アスカが怒るのも、無理ないかも知れない。」
ヒカリがため息をついて言った。

「でも、それが碇君の本心なら、だれにも責める権利はないんだけど。」




…パコーン。
…パコーン。

ラケットが、ボールを打つ音が鳴り響く。

アスカは、テニスコートの外の金網に寄り掛かりながら、部員たちの練習を見るともなし
に見ていた。

「ほんっとに馬鹿みたい。」
はき捨てるように、そうつぶやく。

シンジに対する怒りは、今はもうない。
それよりも、何かというと思いがカラ回りする自分が腹立たしかった。

「惣流さん。」

呼びかける声に振り向くと、そこにいたのはレイだった。

「なんだ、ファーストか。」
拍子ぬけしたように、そう言ってしまう。

そのことで、誰かに追ってきてもらいたかった自分の気持ちに気づいた。
…できれば、シンジかヒカリに。
それがレイであるとは、思いもよらなかったのだ。

「さっき、どうかしたの。」
レイが尋ねてきた。

「べ、べつに。なんともないわよ。
 あんたこそ、どうしたのよ。
 『周囲のことに興味が湧かない』のじゃなかったの。」

「そうね。でも、なぜかあなたのことが気になる。」

アスカは、意外そうな顔をして、レイを眺めた。

「別に、あたしのことは気にかけてもらわなくても、大丈夫よ。
 あんたは、自分の体のことを心配しなさい。」

「わたしは、大丈夫。元に戻っただけだから。」

「だと、いいんだけどね。
 あたしのことを気にした時点で、もう以前のあんたとは、どこか違っているわよ。」

「そう? よく、わからない。」

「で、あたしの何が気になったの。」

「何を怒っているのか、と思って。わたしのことが、関係しているのなら…。」

「はん! ばっかじゃないの。あたしは、自分自身に腹を立てていただけよ。」
アスカは、両手を腰に当てて、笑ってみせた。

「そう。なら、いいんだけど。」

「ああ、もう! なんか、調子狂うわね。
 やっぱりあんたは、あたしに噛みついてこないと面白くないわ。」

それから、しばしアスカは考え込むようにし、
「だけど、リツコに診てもらうというのも、なんか変よね。
 問題があるなら、とっくに呼び出しがかかってるでしょうし。」

「わたしも、そう思う。」

「まあ、いいわ。あたしなりに、調べてみる。」

「わたしのために、そんな…。」

「なに言ってるのよ、あたしのためよ!」
アスカはもう一度笑みを浮かべ、頷いてみせた。 




別れ際に、アスカは
「そうだ、これ、あげる。」

そう言うと、レイに何か差し出した。

「なに、これ?」
受け取ってよく見ると、一粒のキャンデーの包みだった。

「あたしのことを、気遣ってくれたお礼よ。
 って、そんなに大袈裟に考えなくていいわ。
 好きじゃなかったら、捨ててもらっていいんだから。」

「…いただくわ。ありがとう。」




その夜。

ノートパソコンに向かい、アスカは何事か調べていた。

「やっぱり、これかしら。」
画面を見て、頬杖をつきながら考え込んでいる。

「でも、すべてが当てはまるわけじゃない。
 個人差があるというけど、それ以前に何かが違う気もするし。
 …考えても、仕方ないわね。
 可能性のあるところから、とりあえずやってみないと。」

そうつぶやくと、アスカはひとつ伸びをしてから、ノートパソコンを閉じた。




そして、朝が来る。
だれに対しても平等に、朝は来る。

ただ、それが爽やかな朝かどうかは、人それぞれだ。
ある少女にとって、それは予期せぬ”爽やかな朝”だった。

足取りが軽い。
スキップでもしてみたくなる、そんな感じだ。
鼻唄のひとつも、してみたくなる。

昨日の、どんよりした重い気分がまるで嘘のようだ。
だれかに、この爽快さを伝えたい、そんな想いにかられていた。

そして彼女は、そのターゲットを見つけた。
目の前を歩いている、同級生の少年と少女を。

二人は、彼女の接近に気付かずに何事か話し合っている。

「低血糖症?」

「それに近いものじゃないかと、思うのよ。」

「でも、低血糖って、手足が震えたりするんじゃなかったっけ。
 綾波は、そんな感じではなかったと思うけど。」

「症状には個人差があるのよ。それに、一般論があの子に通用するとも思えないわ。
 なにせ、ヨーグルト…たぶん、乳酸菌で、あれだけ変わっちゃうんだから。」

「碇く〜ん、アスカ〜。お、は、よーっ!」
突然、並んで歩いている二人の肩の間に、少女の頭が割り込んできた。

それぞれの反対側の肩に、少女の腕がまわされる。

「あ、綾波?」
「ちょっ! どうしたっていうのよ、あんた。」

「えへへ、復活しましたぁ。」

「復活…って、どういうことよ。」

レイは、びしっと敬礼を決め、

「綾波レイ、本日をもって復帰致しました。
 関係各位にはその間、大変ご心配をおかけしましたこと、心よりお詫び申し上げます。」

そう言うと二人に深々と頭を下げた。

アスカとシンジは顔を見合わせた。

「前より、ひどくなってない?」
「うん…。なにげに、アスカを直接呼び捨てで呼んでるし。」

アスカは、レイに向き直り、
「あんた、なにか、悪いもの食べなかった?」

「ん? どういうこと?
 いつもの様にヨーグルト食べたあと、アスカに昨日もらったキャンデーを食べた
 だけだよ。
 変なものは食べてないよ。
 まさか、あのキャンデーに、わたしをハメようと、何か仕込んであったとか?」

「そんなわけ、ないでしょ!」

「ちょっと待って!」
シンジが何事かに気づいたのか、叫ぶように言った。

「綾波。今、キャンデーと云ったよね。」
「うん。それが、どうかしたの?」

「昨日までは、そんなもの食べていないよね。」
「うん。」

「念のために聞くけど、ヨーグルトには、ジャムや蜂蜜は入れていないよね。」
「だから、そんなものなくても十分おいしいと言ったじゃない。」

「…やっぱり、それだよ。わかったよ、綾波の昨日の不調の原因が。」
シンジは、合点がいったとばかりに、頷いて言った。

アスカもはっと何かに気づいたようだ。

「糖分だよ。エネルギー切れだったんだ。」
「シンジ! それを言っちゃだめ…。」

「エ、エネルギー切れ?」
レイが、目をまるくしてつぶやく様に言った。

「綾波の元気の素はヨーグルトなんだろうけど、そのエネルギー源は糖分だったんだ。
 エンジンを乗せ換えても、ガソリンがなきゃ車は動かないのと同じだ。
 今まで、ジャムなんかをヨーグルトに入れてたから、調子がよかったんだよ。
 でも、それだけであのパワーが出るんだから、おそろしく燃費がいいみたいだけど。」

「そうだったんだ…。
 そっか。だから、キャンデーを食べた今朝は、調子がいいんだね!」

「そう。だから、朝ごはんは、もっとちゃんと摂った方がいいよ。
 糖分とか、炭水化物とか。
 そうしたら、昨日みたいなことにならずに、すむんじゃないかな。」

「わたしは、これからもずっと、元気いっぱいでいられるってことね。
 わかった、そうする。」

アスカは、額に手をやって、天を仰いでいた。

『それを言っちゃだめだ、て言ったのに、シンジは言ってしまった…。』

これからも、ずっと、こんな奴とかかわらなければいけないのか。
いっときは、レイのことを心配はしたが、どう考えても低血糖モードの方がましだ。

『強くなろう。』
アスカは、そう決意した。

『強くならないと、あたしはいずれ、こいつに勝てなくなる。
 いいようにあしらわれるなんて、絶対に耐えられないもの!』


…すでに、手おくれのような気もするが。 




「ねえ、碇君、ひとつ質問。」
「な、なに?」

シンジは、なんとなくいやな予感がした。

「お昼ごはんも、ちゃんと食べた方がいいのかな。」
「そりゃ、そうだけど。」

「お弁当とか?」
「そ、そうだね。」

予感は現実となりつつある…シンジはそう思った。

「じゃあ、お願いできるかな?」
レイは、上目づかいでシンジを見て、反則ともいえる笑みを浮かべた。

ああ、やっぱり。
シンジは嘆息した。

「つまり、綾波の分も、お弁当を作ってきてほしい。そういうことだね?」

レイは、こくこくと頷くと、
「できれば、お肉のおかずは抜いてくれるとうれしいな。」

「ちょっと! 何、勝手に決めてるのよ。」

アスカが、割って入ろうとした。
だが、シンジはもう覚悟をきめていた。

「わかったよ。明日から、綾波の分も持ってきてあげるよ。」

「わあ、嬉しい! ありがとう、碇君。」

シンジに抱きつこうとするレイを、アスカはあわてて後ろから羽交い締めにした。

「だめよ、絶対にだめ!」
「えーっ。どうしてぇ?」

じたばたと暴れるレイとアスカを、再び嘆息して見ながらシンジは言った。
「いいんだよ、アスカ。二人分でも、三人分でも、作るのは同じだから。」

「あたしは、肉抜きのお弁当なんて、絶対にいやだからね!」
「大丈夫だよ、アスカのお弁当は、今までどおりだから。」
「ほら、碇君もこう言ってることだし、いいでしょ?」

結局、アスカの弁当を”今まで以上のもの”にするということで、その場はやっと
治まった。

『前途多難だよ…。』

なおもいがみ合う気配を見せる二人を眺めながら、シンジは何度目かの溜息をつく
のだった。

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