■□■□ piece to Peace  ■□■□


 目覚めたわたしに光は届かない。
 わたしを待っているものは頭のなかの疼痛。
 疲弊し切った胡乱な意識の底に打ち込まれた余韻のような鈍い痛み。
 その根本を弄って、わたしはかすかな記憶の糸をたぐる。
 色んな思考が交わっていたような気がする。
 わたしは何かを見つけ、それを掴もうとして。…掴もうとして。
 でもその瞬間、何かに追い立てられるように、覚醒が訪れる。
 そして、いつものプロセスをただなぞっている自分にいつしか気付いている。
 目覚めはわたしから全てを剥ぎ取り、手順に沿ってわたしを構成する。
 そして残されるものは、空虚。遡及すべき記憶は残滓さえ見当たらない。
 一切を切り取られた虚ろな思考だけが、わたしを支配している。
 それが、わたしと言われるモノ。

 簡易ベッドを澱みない動作で抜けだしたわたしは、いつもの手順でいつもの衣装を身に着ける。 
 小さなシンクで洗面を済ませると、ふたたび簡易ベッドに腰を下ろした。
 いつもと変わらない午前7時の朝。
 あとは所定の場所に行き、そこで発せられるであろう命令を待つだけだ。
 時計の秒針の音だけが浮遊する空間に、遠くで響くピアノといわれる楽器の音が色をつけ始めた。
 それに気付いたのは最近のこと。
 ふたたび腰を上げたわたしは、おもむろにサインペンを手に取った。
 壁に掛ったカレンダーの今日の日付を×印で塗りつぶすために。




            ▲▽▲▽   ▲▽▲▽


「碇くん、お願いがあるの」
 
 シンジは危うく両腕に抱えた山積みの本を落としそうになった。
 理由は明快だ。なんせレイが返事以外の言葉を初めて口にしたのだ。
 廃墟と化したネルフ本部の図書館で、散乱した大量の書籍と格闘すること2時間あまり。レイが
好みそうな本をシンジセレクションとして、この掘っ建て小屋のような場所に届けはじめて1週間
が経過した。漸く感じることのできた手応えに、飛び上がらんほどに高揚した意識を汀で押さえた
シンジは、首元まで積み上がった書籍越しにレイの姿を凝視した。
 
(…綾波、どうしたんだろう?)
(…若しかして、何か思い出してくれた、とか?)
(…それとも…何かほかに読みたい本があるのかな?)
(…で、でも……)

 仄位い部屋のなかほどで、レイは深紅の眸をシンジに向けている。
 射すような視線はいつもよりは心持ち柔かに感じる。が、その顔に表情は無く、真意を読むこと
はできない。

(…綾波、なんか、初めて病院で会った時のようだ)
(…なにが、どうなっちゃったんだろう…)
(…どうして………)
(…どう…)
(……)
(…)


(そ、そうだ、は話を聞かなくちゃ)

 視線を落としたレイに慌てて自分を取り戻したシンジは、小屋の中へと歩を進め、抱えていた本を
床に下ろした。

「ご、ゴメンよ、ボーとしちゃって。…綾波、お願いって何?」
「これ」
「えっ? …これって」

 シンジの前に差し出されたのは、何の変哲もないラップトップPCだった。しかし、ゴミ溜めから
拾われたようなそのキズだらけのPCは、シンジにとって見覚えのあるものだった。



         
              ■□■□   ■□■□


 差し込む陽射し 時と共に形を変える影
 逃れる陰影 そして光の浸食

 光と影が そのバランスを崩落させる瞬間
 朝露に濡れそぼった緑

 命の息吹が吹き込まれる形骸
 原始の色素 際立つ輝き

 そこかしこに潜んでいた夜気は、通いはじめた風にその澱とともに霧散した。

 儀式の幕開けを飾るように、小鳥のさえずりにも似たピアノの単音が厳粛に響いた。
 訪れし朝から産声をあげたヴォイシングが旋律を構成し、次第に空間を満たしていく。
 優しいメロディーが、厳粛に解釈されたハーモニーと共に調性を薄めて朝の一部を
 構成していくのだ。

「おはよう」
「…………」
「そこは寒いだろう。こちらに来るといい」

 わたしは柱の陰からパティオのように天蓋がひらけた空間へと歩を進める。
 これで幾度めなのだろう。わたしと同じ眸を持つ少年は、ピアノの前で微笑を絶やす
 ことなく、灌木の傍に据えられたラタンチェアを指さした。  
 
「ここは気持ちのいい風が通る」
「………」
「ゆっくりは出来ないだろうけど、時間が許す限り聴いてくといいよ」

 小さく頷いたわたしは、水色のラタンチェアに腰を下ろす。
 朝の風が私の髪をすく。
 少年はその笑みをいっそう深くした。

「聴きたい曲はあるかい?」
「……さっきの曲」
「…ああ、あれは―」
「このあいだまで弾いていた曲とは違うわ」

 カヲルに生まれた意外な表情は、すぐに元の柔和な微笑に掻き消された。

「…以前弾いてたのが、ショパンの夜想曲第2番でノクターンといわれる曲」
「………」
「そして、さっき弾いていたのは『Quatre Mains』という連弾…二人で弾く曲だよ」
「………」
「…碇シンジ君が」
「………」
「帰って来るからね…」 
「…」

 風に幾頁か繰られた譜面が囁くように揺れている。

「それで、レイちゃんはどの曲がいいんだい?」
「…ノクターン」

 にっこり微笑んだ少年は、そっとその白い手を鍵盤に添える。
 切なげな旋律がゆったりと漂い始めると、パティオに差し込む
 柔かな陽射しがその輝きを増した。
 黒鏡面のなかで踊る白い指。グランドピアノを包み込んだ陽だまりは、
 眩げなステージとなり、空間を朝一色で埋め尽くしていく。

 少年の想いの丈の解釈は、たったひとりの観客のために。

 少年は想う。
 時が満ち、新たに始まりし胎動。
 きたるべき出会い、そして別れを。

 少年は想う。
 ラタンチェアに体を委ね、穏やかに瞑目している少女の宿命。
 エヴァの呪縛とやがて訪れし解放を。
 気の遠くなるまでに繰りかえされた旅の終焉を。


 だが、安心するといい。
 碇シンジ君が一緒だからね。
 そう、きみは…。


 この瞬間の旋律は、この少女の為だけに。




 
            ▲▽▲▽   ▲▽▲▽
 

 確かに見覚えがあるのだが、どうにも思い出せない。思わず手にとってさまざまな角度から確認
したい衝動にかられたが、いまはそんな事をしている時ではない。

「な、なんか古、いや旧式のPCだけど…これを、その、どうするの?」
「………」

 いやな予感がシンジの胸にはらはらと積りはじめた。まさかこれを修理してとでも言われるのでは
なかろうか。確かにここでは時間は、幾らでもあるように思える。が、それ以前の問題として、その、
修理というものが生来苦手なのだ。長年連れ添ったS−DATさえピアノ弾きの渚カヲルという少年
に直して貰ったほどだ。ただ時間を掛ければ成し遂げることが出来る、というものではないのだ。
 そうだセンスだ。つまるところセンスの問題だと思うのだ。センスというのであれば、料理なら少
しは自信はある。ブイヤベースだろうがエスカリバーダだろうがタコ焼きだろうが富士宮やきそばだ
ろうが。そうだ、人には得手不得手があって然るべきなのだ――。

「…ねっとにつなげたいの」
「……へ?」

「…ねっとにつなげたいの」
「…え、でも」

 予想だにしなかった類のお願いごとだった。この世界に生き残ったネットワークがあるとでも言う
のだろうか? 14年間の空白、そして覚醒してからの軟禁状態により、世界の状態を正確に理解し
ている訳ではないが、ここネルフ本部のありさまを見る限り、現実性に乏しいことのように思える……。
 加えて、レイがインターネットに興じている姿を過去に見たことは無い。…勿論、14年前までと
いう条件はつくのだけれども。

「ねえ綾波、その…ネットに繋げて何をしたいのさ?」
「…お買いもの」

 は……い? 

「……な、何を? その、買いたいって―」
「これ」

 レイがカンペのように掲げたのはショパンの楽譜。そして、それはラップトップよりもさらに草臥れて
いるように見えた。まるで百年後に掘り出された宝箱から取り出されたもののように。
 
(……つまり)
(…通販で、楽譜が欲しいって…ことなのかな?)で、でも。

「…あの、綾波ぃ」 
「…何?」
「その、インターネット通販で楽譜が欲しいってことかな?」

 幼女のように頷いたレイにシンジは頭を抱えこみそうになった。
 若しかして若しかして、地平線の向こうには人間社会が生き残っていて、
 若しかして、この一帯だけがサードインパクトで壊滅的な打撃を受けたいて、
 そして、ネットワークを通じて需給関係を成り立たせている人間社会が残っているとでも!?
 もっと言っちゃえば、シンジだってアマゾンで欲しいものは山ほどあるのだ。

 …いや冷静になれ。……そんなことは有り得ないことだ。

「ね、ねえ、綾波」
「…何?」
「その、インターネット通販だけど…どうやって知ったの?」 
「引き継いだの」
「…へ?」

 誰から? という問いに顔を俯かせてしまったレイにシンジは慌てた。
 ようやくレイが口を開いてくれたのだ。
 蜘蛛の糸のようなコミュニケーションでも、途絶えさせたくはない。

「わ解ったよ、綾波。とにかくやってみるよ」

 ふたたび目線を上げたレイには、やはりと言うか表情は無かったけれど、凹んでいる場合
ではない。シンジはくすんだ銀色のラップトップを開くと躊躇無く起動ボタンを押す。石臼
が廻るような絶望的な音を撒き散らし立ち上がるラップトップPC。その画面上には見たこと
もないような記号と数字が不吉な影を積み上げていった。

「碇くん、これ」

 シンジに差し出されたのは一本の古ぼけたLANケーブル。ケーブルの先は部屋の隅に整然と
置かれた段ボールの下に潜りこんでいる。懐かしいアイテムだったが、WiFiなど期待できるも
のではないのだろう。それにしても起動に時間がかかる。小刻みに震えるラップトップと一向
に変わる様子のない画面に、シンジはテンポの良い展開を諦めた。床にどっかと腰を落ち着け
ると、それに倣ってレイも隣にペタンと座り込む。が、シンジの肩越しに画面を覗きこもうと
するレイとの距離はあまりに近く、どうにもシンジは落ち着かなくなってきた。

「…碇くん」
「……」
「…碇くん」
「……へ?」
「…?…」
「ご、ゴメン、な何かな?」
「PINコード」

 ディラックの海に首までとっぷり浸かっていたシンジは、辛うじて現世に意識を引き戻す。
 呼吸を整え煩悩を払うと、レイの指さす楽譜の裏表紙に走り書きされたPINコードをあやし
げな指使いで入力した。Enterボタンを押す音が木霊する。
 
「…た、立ち上がった」
「ここから先に行けないの」

 IEのアイコンをクリックしての『Internet Explorer ではこのページは表示できません』の
メッセージは想定内だ。続いてマイコンピューターをクリックする。

「…あった」
「……」

 それらしきショートカットアイコンが貼付されている。NERV Net。イントラなのか? 
 だとすれば、廃墟同然とはいえネルフという組織が残存している以上、イントラネットも
生きている可能性は高い。高まる鼓動に背中を押されるようにそのアイコンをシンジはダブル
クリックした。

『接続しようとしてエラーが発生しました。ネットワークパスが見つかりません』
 
 それほど甘くは無いということだ。

「…ダメ?」
「いや、何となくわかって来たんだけど…ちょっと設定を見てみるからさ。綾波は本でも読
んでてよ」
「…うん」

 小さく頷くとシンジが持ってきたばかりの雑誌を手に取り、部屋の隅に腰を落ち着けた。
その雑誌―エル・ア・ターブルの表紙を飾っていたのは涼しげなカルパッチョ。
 横目で見ていたシンジのお腹は素直に反応し、今や忘却の彼方に置き去りにした料理とい
うものに、そして当時の団欒に刹那想いを馳せてしまった。
 ココに来てからの食生活―ただ生体維持の為の捕食作業―は、遠い記憶の中に残存している
イメージとはほど遠いものだ。

 …もし本当に買いものが出来るんなら。

 ここで暮らすようになってからどの位の月日が経過したのだろう。かつての記憶全てを喪失
しているようにも思えるレイの様子に戸惑いながらも、あの戦いで助け出していたという事実
だけがシンジにとっての励みであり、また困惑だらけの現実を生きていく糧となっている。
 それでも、現実をよりよい明日に繋げるための希望が欲しい。その想いは日々強くなり、そ
れは当然にレイ無しには考えられない希望だった。かつての味噌汁やお弁当のように食事を作
る事ができるのであれば…。
 今、シンジは一つの道標を胸の中に持つこととなった。
 
 …一歩一歩進んでいくしかないってことか。
 …時間はかかるかも知れないけれど。それでもいい。
 …いつかは、いつかは綾波を取り戻すんだ。

 そのために今はこの作業を成功させなければならない。
 まるで臨時にあつらえた更衣室にも見紛う小屋からは、シンジのキーボードを叩く音が
間断無く響いた。




「…おかしいなあ」

 どのくらいの時間が経過したのか。プロトコルの確認、BIOSの点検から始まり考え
られることは全て試みたのだが、ダメだった。ここまでくると考えられることは、もっ
と根本的なコトだった。
 ネットワークなど何一つ生き残ってはいないということ。先のサードインパクトに
より、人類社会が地上にもたらしたインフラというものは全て失われたということ。
そして、それはサードインパクトという災厄によってもたらされた――。

 絶望的な溜め息とともに立ち上がった時に、シンジはあろうことかラップトップを
落っことしそうになった。床に落ちる寸でのところで銀色の筐体を掴んだが、ふと見
るとルーターに接続されている筈のケーブルの反対側のコネクターが段ボールの傍に
転がっている。PCを掴んだシンジに引っ張られたのは解るが、この程度で普通は外れ
たりはしない。

 何てことだ。最も基本的なチェックを怠っていたのだ。
 シンジは逸る気持ちを抑えに抑え、部屋の隅にある段ボールを動かし開口部を覗き
込むと、果たしてそこには場違いなほどに幾多のアクセスランプが煌びやかに瞬いて
いる。表情を明るくしたシンジが、慎重に空いているジャックにLANケーブルに差し込
むと、PCのLANコネクターが感動的に瞬きはじめた。

「あ、綾波ぃ!」

 満面の笑顔を向けた先で、レイの反応は無かった。
 慌てたシンジがレイに擦り寄り顔を寄せる。と、聞こえてきたのは穏やかな寝息。
 ホッとしたのも束の間、シンジは注意深くレイの様子を伺った。そうだ、この少
女には昔から何故か不安が付きまとっていたのだ。その張本人のレイ。シンジがコ
コに来てから初めてとも思える穏やかな表情を浮かべている。一頻りレイの寝顔を
見ていたシンジは、我に返るとタオルケットをそっとレイに掛けた。目覚めるまで
横にいたい衝動に駆られたが、シンジにはまだ残された仕事がある。レイを起こさ
ないように静かにPCに擦り寄ると、NERV Netのアイコンにカーソルを定める。

 全てはここから始まるのだ。

「よし、Let`s Access!」



 - Internet Girl -
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             ■□■□ ■□■□


 オレンジの帯 浮上する地平線  
 広がる世界 波動がすべてを目覚めさせていく 
 再生された魂が 少しづつ世界を埋めていく 
 新たな鳴動はわたしを追い越し わたしの色を溶かしはじめる
 わたしとの境界が解らなくなる わたしと世界との境界が消えてなくなる
 わたしが消える そうしてわたしは眠りにつくの
 
 誰かがわたしを呼んでいる 
 碇司令 命令 
 違う 誰? 
 だれかいるの? 
 ダレカイルノ?
 あなた 
 誰?


「レイ」
「…はい」
「この位で良いだろう。傷は癒えた」
「…はい」

 わたしはLCLに濡れそぼった身体をバスタオルで拭い、いつもの手順で下着をつける。
真新しい制服を着用しリボンを結び、踵を返した司令に従い歩を進めたところで、視界
の中の司令の背が不自然に歪んだ。

「レイ!」

 たたらを踏んだわたしは、倒れ臥す寸前に抱きとめられる。
 白濁と漆黒がめまぐるしく錯綜する頭蓋の中で何かが解除された。意識が沈んでいく。
声が出ない。司令の声が遠い。

「レイ、大丈夫か?」
「…………」
「レイ!?」
「…………」

 禊を終えた木の葉が舞い落ちるように。沈んでいく。深いところに。どこまでも深く。




 遠くでわたしに語りかけている。ピアノの旋律。ショパンの夜想曲第2番。
 網膜に映った白い混沌が淡い輪郭をつくり、やがて良く知る天井を構成する。
 無機質なパイプベッドの上で、わたしは自らの認識番号を反芻する。ゆっくりと。
とてもゆっくりと。現実がわたしの周りに色を落とし始めたとき、聞き慣れたトーン
の声が灰色に濁った室内を揺らした。

「いつまで彼女にこんなことをさせる積りですか?」
「知れたことだ。ゼーレのシナリオ、その遂行の日までだよ」
「とても彼女ひとりではもたないと思いますが?」

 …彼女。…わたし?

「君も理解していると思うが、今この施設は最小限の人員で稼働している。それこそ定義
化出来るありとあらゆる部分をシステム化してな…ところがここネルフ本部には旧来から
持つアキレス腱がある」
「対リリン、ですか」
「そうだ。…対人要撃システムの不備。これだけは何故かゼーレより承認が下りなんだ。
よって有人警備に依らざるを得ん。それは保安諜報部無き今も変わらん」
「……」
「だが、ニア・サードインパクトで大きなダメージを受けたとは言え、一部の迎撃システ
ムはまだ生きておる。よって排除すべ侵入者は重火器を持たないリリンだけだよ。そして、
そのためのアヤナミシリーズでもある」
「それでは昨日のような状況は想定外だったということですね。ヴィレの侵入者はハンド
キャノンまで携行していましたからね。…そして今や彼らには『綾波レイ』の外観はどの
ような作用も期待など出来ない」
「…その通りだよ。それでも寸でのところで君のATフィールドで彼女は救われた。礼を言う」
「それも確信があっての結果ではありません。それが証拠に彼女はあの通り重傷を負って
しまいました。僕は僕で常に畏怖とDSSチョーカーを持ったリリンにつけ狙われている状態
ですからね。今から起こる事を考えると、あるいは複数体での編成も考えるべきかも知れ
ません」
「君の言ってることは解るよ。が、それは無理だ。引き継がれてこそのアヤナミレイだよ。
コピーのコピーはパイロンにもならん。それは君が一番良く解ってい――」

 音もなく戸口に立ったわたしに、わたしと同じ眸を持つ少年はしばらくわたしに視線を
留めた後、にっこり微笑み部屋を後にした。仄暗い通路に吸い込まれるように少年は姿を
消した。向き直ったわたしに副司令から掛けられた幾つかの言葉に頷いた後、わたしはそ
の部屋を後にした。身体が回復した今、わたしが足を向ける場所はただ一つ。あの待機場
所に向けて澱みなく歩を進める。あの男の命令を待つためだけの場所に向けて。
 
 レイの背を見送った冬月は、億劫な様子で椅子に腰を落とす。金属が擦れる
嫌な音に被さった深い溜め息が長く尾を引いた。

「…せめて」そうだな。「……ATフィールドか」

 打ち捨てられたような貧弱なパイプベッドが軋みをあげたような気がした。シーツの上
には血痕の跡も生々しい包帯が残されている。

「…私としたことが、考えてみても栓無い事を……レイは」



「……心を持たないのだからな」




              ▲▽▲▽   ▲▽▲▽


 かれこれ小一時間は歩いているだろう。いや、歩いているというより迷っていると言うべき
か…。思わず愚痴が口をついて出そうになったが、勿論そんな場合では無い。が、しかし仄暗
い曲がり角を進んだところで、その先の天井が崩れ行き止まりになっているのを目の当たりに
すると、流石に閉口してしまった。

「ここもダメなのか……ごめん、綾波。またさっきのブロックまで戻らないとダメみたいだ」

 1メートルほどの間隔を開け、シンジに従うように歩を進めるレイの表情から何かを読み取
ることはできない。中学校の制服に身を包み、淡い緋色の眸をジッとシンジに向けている。宝
物のように古い楽譜を大切そうに胸に抱きかかえて。

「この方向で合ってると思うんだけど…」


 今、僕達が向かっているのは嘗てよく通った購買部のあった場所で、この出処がネルフのイ
ントラであることは言うまでもない。
 NERV Netは生きていた。ログインすると部署ごとにアイコンが整然と並び、ニア・サードイ
ンパクトという災厄を越え、いまだネットワークが残存するネルフという組織、そしてその規
模に今更ながらに驚いた。
 総務局、技術局、作戦局、保安局の他、耳にした事のない部署もある。そして中でも特に目
を惹いたのが、ひと際大きく瞬く『購買部通販係@NERV本部』のアイコンだったのだ。誘われる
ままにそのアイコンをクリックすると、ようこそ購買部通販係へ、のタイトルに続き、これまた
カラフルなアイコンがノイハウスチョコよろしくPCの画面いっぱいに拡がった。
 特売コーナー、食品コーナー、衣料品コーナー、文具コーナーなどなど、流石の品揃えを誇
っていたということだろうか。そしてそれは勿論、ニア・サードインパクトまでの話だとは思
うのだけれど。
 憑かれたように各種コーナーをチェックしながら画面をスクロールしていくと、運よく現れ
た書籍コーナーのアイコンに、ヨシ、と思わず独りごちる。兎にも角にもレイが希望する楽譜
を見つけるのが先決だ。それから時間を経ずして楽譜コーナーに辿り着くという僥倖を得たも
のの、リンクからジャンプした先には、打って変って無機質なページにただ一文の注意書きが
浮かんでいるだけだった。

『こちらの商品をご希望の方は、ご来店の上コンシェルジュ(高雄一尉)にご相談ください。 
 総務局三課』


 五分くらいかけ、自販機が倒壊するリフレッシュコーナーのあるホールまでシンジとレイは
戻って来た。ホールに据えられたベンチに腰を下ろすと、シンジは本部内マップを広げ、一息
を吐く間もなく早速次なる通路のチェックをはじめた。

「あ、僕だけ座ってゴメン。隣に、その、綾波も座ってよ」 
「うん」

 とても素直だ。しかし、少々素直過ぎた。レイはシンジの隣に腰をおろした。シンジの言葉
通りに、一切の間隙を空けずに。まるでシンジに身体を密着させるように。
 ちょっとした小爆発だ。殆ど条件反射的にレイを見返るシンジ。が、ほっぺがくっつきそう
な距離でシンジをジッと見つめるレイとモロに目が合ってしまい、頸椎が損傷するくらいの勢
いで前方に視線を戻すこととなる。瞬時にして顔面はトマト色に熟し、更に追い打ちをかける
ようにシンジの鼻先を掠めた甘美な匂いに、地図上で必死になって追っていたルートはいとも
あっさりとロストされた。

 だだだだめだよ、綾波。これはマズいよ。反則だよ。

 何が反則だか解らないが、とまれシンジはコード777でモードを反転させたような速さで左手
を開閉し必死に心を落ち着けようとした。前方を睨み据えた状態のまま数十回、いや百八回位
開閉したところで、縋る藁の如く頭に浮かんだ問いかけをレイの頭上に放り投げた。

「ね、ねえ。あ綾波はさ、購買部に行ける秘密の通路なんて、その知らないよね?」 
「命令……なら」

 こっちよ、とスタスタ歩き出したレイの背を弾かれたように追いかけるシンジ。そんなシンジ
に構わず歩を進めるレイは、錆がこすれ合う鈍い音をたてて開け放たれた非常口のドアの中へと
背中を消した。

「ちょっ、と、待ってよ、綾波ぃ!」
「碇くん、こっち」

 なんなんだよ〜綾波ったらもおっ! 
 知ってるんだったら、知ってるって言ってくれればいいのに!
 そしたら、あんな無駄足を踏まなくても済んだんだし…。
 でも……。命令ならって言ったよな………何か昔もそんな事言ってたような気がする。
 どうしちゃったんだろう…。やっぱり、以前の記憶無くしちゃったのかな…綾波…。

 階段を駆け下り、いくつかのドアを抜けたところで見覚えのある情景が広がった。
 幾つもの亀裂が走る壁面に続くガラスショーウィンドウの形跡。勿論殆どガラスシールドは
脱落しているものの、続く出入り口の向こうには暗澹たる空間が大きくひらけている。
 懐かしい。ここは社員食堂だ。確か、綾波とも何度か来たっけ…。だとすると、ここだ。あった!

 シンジが思いがけず叫びそうになったのは、その廃墟然となった社員食堂の奥、かつて購買
部だった場所に、煌々と灯る明かりを見つけたからだ。 




          
               ■□■□ ■□■□


「出撃? 出撃させるのか、レイを?」
「…ああ」
「Mark09単機でか? …ネーメズィスシリーズも付けずに、いささか無茶ではないのか?」
「………」
「ヴンダーの主機システムは、いまやあの初号機なのだぞ。それにヴィレ艦隊がヴンダーに近
づく敵を黙って見ているとは思えんがな……碇…まさか、お前」
「…今回の作戦の目的はあくまでも第3の少年の奪取だ。我々が今なすべき事。それは最後の
執行者の為の道具を集めることだ」
「…ふむ」そうだな。「だが、AAAヴンダーだぞ。どうやってあの巨大な艦内から第3の少年
を捕捉するのだ?」
「…問題無い。レイがいる」
「ふっ、そうだな。その為の綾波レイでもあるという事か。やれやれ、全てのモノは道具に過
ぎん、という訳なのだな…」


 出撃は司令から直接下命される。私は明朝0700の作戦開始時間のみを受電すると旧式の黒い
受話器を置いた。ブリーフィングの30分を考慮に入れれば、0630に司令室に出頭していればい
いということになるが、出撃時間が0800より早い場合は、司令室にほど近い嘗ての適格者専用
待機室で夜を明かすのが習わしとなっていた。今夜はその待機室のベンチで仮眠を取ることに
なるのだろう。以前は付属されていたといわれる『サウナ』という機能をわたしは知らない。
 待機部屋の中を一頻り見渡し、整理すべきものを確認する。それは、わたしが帰ってこれな
かった時のために。
 軍務規定をはじめとする従軍に関してのファイル、生活面でのファイル等々。そしてこの銀
色の筐体を持つラップトップPC。わたしがアヤナミレイとして生を受け、物心ついたた頃に司
令から手交され、以来肌身離さずに持ち歩いてきたものだ。が、わたし自身が使用した事も無
ければ、特段何かの作業に使用した記憶もない。だが、いずれにしても、これも次のわたしへ
と引き継がれるべきものだろう。
 身の回りのものを公私かき集めても小さなカートン1個で事足りた。そのカートンを部屋の
隅に置き、待機部屋の灯りを落とす。部屋を出る時に、別のカートンに無造作に放り込まれた
小さな制服が目に留まった。3つの異なるサイズの制服は薄っすらと埃をかぶっている。
 伸ばそうとした指先が空を泳ぐ。

「……また」

 降りかかった理解の及ばない苦しみに、わたしが出来ることはただ両の手で胸を押さえるこ
とだけ。ひびだらけのガラスが際限無くわたしの手に零れ落ちるような気がした。 

 わたしは待機部屋を後にすると、司令室とは反対の方向に足を向けた。わたしには適格者専
用待機室に向かう前に訪問すべき場所がある。


 夕間暮れ。浄化の炎にも似た斜陽に洗われていた巨大な空間は、今や負を孕んだ夜気に満た
されようとしていた。徐々に巨大なる廃墟がその本質を際立たせ始めた暗澹たる空間。そこに
サーベルを差し込むように伸びているのは、アンビリカル・ブリッジのなれの果て。
 ケージの底で眠りにつく漆黒のグランドピアノに夜風に薙がれた灌木が静かに寄り添ってい
る。レイの指定席だった水色のラタンチェア、その姿は見えない。

「降りておいで。話があるんじゃないのかい?」

 諦めたレイが踵を返すのを待っていたかのように掛けられた声。早暁のイメージのままに曇
り一つない声が刹那夜気を霧散させる。その声の主は、レイが今一度振り返った先、グランド
ピアノの傍にいた。灌木の脇にはいつの間にか夜目にも明るいラタンチェアまで登場している。

「どうしたんだい、こんな時間に?」
「明朝、出撃。だから…」
「…碇シンジ君、だね」
「……」
「いいかい。ポイントは二つ。Mark09に乗ったらAAAヴンダーでの長居は禁物だよ。でも心配
しなくていい。碇シンジ君のいる場所は、ヴンダーに辿り着きさえすれば教えて貰えるからね」
「…教えて貰える?」
「そう、君はただヴンダーに辿り着きさえすれば良い。あとは自分自身に素直に従う事だよ。
それで道は拓けるからね」
「……」
「そして、二つ目のポイントは、二人とも無事にココに帰ってくること。それはとても大切な
ことだよ」
「……」
「碇シンジ君はとても重要な存在だからね。ここにいる皆だけでなく、もちろん君にとって
もね」
「……」

「それじゃあ、君と碇シンジ君が無事に帰還することを祈念して、一曲弾くこととしよう」



 あまりに儚い夜を描いた フレデリック・ショパンの旋律は
 空に撒かれた宝石を拾いあつめるように 渚カヲルの手から 二人へと紡がれた
 そして、内奥に封印されたもう一つの想い 
 嘗てゼーレの子供たちといわれた者たち その偽りの魂に




              ▲▽▲▽   ▲▽▲▽


「あの〜」

 ぬおーとシンジに向けられた顔はその大きな背中から想像した通り、相当にオソロシイ顔で、
人恋しさなど微塵のカケラ無く吹き飛んでしまった。そう、できる事なら詫びの一つでも入れて
早々に退散したくなるほどに。だが、ここに来てから、ゲンドウ、冬月、レイ、カヲル以外で初
めて会う人間だ。聞きたいことは山ほどあるし、何より先ずもってここに来た目的を果たさなけ
ればならない。

「す、すいません。ここって購買部、ですか?」

 あ〜、とシンジを値踏みするみたいに頭のてっぺんから足の爪先まで見回したスキンヘッドの
大男は突然表情を明るくした。

「そうか、やっと来てくれたか! ありがてえ! 今ちょうど明日の荷揃えに追われてたんだ」
「…へ? いえ、あの」
「よーし、今日から早速頼むぜ。あ、着替えなくていいからよ。このエプロンだけ付けてくれや」
「…あの、その」
「ん? 後ろのカノジョも手伝ってくれんなら超ウェルカムだよー。バイト料ははずむぜ!」
 
 違うんです、とシンジなりに必死に張り上げた声の向こうで、ふたたび不審げな表情を取り戻
したスキンヘッド。違うんなら何しに来やがったんだテメエコノヤロウ、と今にも恫喝モードに
入りそうな表情だ。

「その、楽譜…」
「あ? 楽譜、だぁ?」
「そ、そうです。楽譜を探しにきたんです。その、NERV Netを見て書籍コーナーを見たら、その」
「来店してコンシェルジュに相談しろ…と」
「そ、そうなんです!」

 クマの体躯にも似たスキンヘッドはガックリ肩を落とした。分かったよ誤解して悪かったよ
楽譜はこっちだ、とシンジとレイを店の中へと招き入れると、深い溜め息をひとつ洩らした。

 
 2,000坪ほどの空間に整然と並べられた商品陳列棚は、薄暗い中ほぼシンジの記憶しているまま
の状態を保っていた。特に驚いたのは、生活用品コーナーの商品棚は老朽化こそしているものの、
商品が充実しているといういう点だ。他方、生活にあまり関係のないコーナーには、僅かながら
の商品が埃にまみれて捨て置かれているだけの状態だった。
 暫し感心して歩いていたシンジだが、レイの反応が気になり振り返った先でまたしてもモロに
レイと視線がぶつかってしまい大いに慌てることとなる。茹であがる前に瞬間移動的に前を行く
スキンヘッド嶺に神経を集中すると六法全書並みの効果で急速冷凍されたが、いかんせん頸椎が
痛い。

「あ、あのー」
「あ、なんだ?」
「…その、おじさん一人なんですか? 他に誰もいないようですけど」
「そうだよ、俺ひとりだが、それがどうした?」 
「いえ、その…こんな広いとこ、一人じゃ大変だなーて、その」
「だからお前さんが手伝いに来てくれたんだと思ったんじゃねえかよぉ。総務局の楠には応援労
務手配掛けといたんだけどなぁ。…ほんと今日なんかは注文が多くてよ、とてもじゃないが明日
配送分の荷揃えなんて一人じゃ出来っこねぇんだよなぁ」

 困った困ったと言いながらズッカズッカと足を進める男の背を眺めながら、この人がNERV Net
にあったコンシェルジュとして紹介されてた高雄一尉なのだろかとシンジは考えた。シンジ自身
コンシェルジュというものを良く理解してはいないが、コンシェルジュという言葉の持つ響きが
まずもってこのスキンヘッドには合っていない気がした。それでも一人で購買部を切りまわして
いるという言葉を信じるのであれば、やはり高雄一尉その人なのだろう。そして、明日配送分と
いうのは勿論ネルフ本部内への出荷に違いないとは思うのだが、それほどの物資が動くだけの部
署なり職員がこの廃墟に存在しているということなのだろうか。
 ニア・サードインパクトが起こって以降、さまざまな経緯を経て今のネルフ本部の姿があると
いうのは想像に難くない。当時と圧倒的に情景を異にするのは、職員の姿が全く見当たらないと
いう点なのだが、冷静に考えてもこれまで会った4人だけで運営できるような組織でないことは
確かなことだとも思える。もちろん当時と同じ特務機関としての機能を担っているとは考えられ
ないのだけれど――実際にネルフのエヴァを全て殲滅すると公言して憚らないミサト達のヴィレ
とネルフは交戦状態にあるという――最低限、この組織の維持と運用に必要な職員、そして設備
や資源などが必要なことくらいはシンジにも理解できる。そのために何らかの理由で残留した少
数の職員たちを最低限必要とする部署に振り分け、辛うじてこの組織を運用しているのだろうか。
そう考えると、この高雄一尉も購買プロパーでは無いのかも知れない。確かにシンジは過去に購
買部で高雄一尉と顔を合わせた記憶は無い。それにしても、とシンジは思う。ここまで周りを取
り巻く状況、そして環境の変貌に。14年の間に、一体何が起こったんだろうか、と。

「楽譜はこの辺りの筈だ。細けえこと言うと書籍コーナーじゃなくてな、音楽コーナーだな」
「え、あ、…これって!?」



          
                  ■□■□ ■□■□


「レイが戻って来たな」
「……ああ」

 二人の眼前にそびえるモニターには、着陸態勢に入ったばかりのMark09が大写しになっている。

「シナリオ通りとはいえ自殺行為にも等しき内容の作戦下達。だが、眉ひとつ動かさなんだ。特に
最近のレイには、凄まじささえ感じるときがあるよ。命を賭すことに微塵の躊躇も感じられんほど
のな。そうだな、第3の少年に出会う前の嘗てのレイを思い出す。…そうは思わんか、碇よ?」
「………」
「ふっ、愚問だったか。 …正直、私には割り切れない時があるでな」
「…契約の改定、その時まではゼーレとの約定通り、ゼーレの子供たちの生き残り、彼らには道具
としての役を演じて貰う」
「そしてその後は…。これでおまえの目論見通りゼーレの子供たちは全員排除となるか……まあい
い。もうじきレイが上がってくるでな、中央病院に連絡を入れておく」
「……ああ」


 わたしは機体を自動操縦プロセスに載せると、改めてMark09の掌のなかにある『碇シンジ』とい
う個体の生体反応を確認し、画像を含んだ個人データをモニター上に呼び出した。

 碇シンジ■適格■■第3の少■特務機■ネルフにおける初号機専属パイロット■
 父■■碇ゲンドウ■母親は■■イ(死亡)14年前のニ■・サードインパクト■
 を■■起こした張本人■初号機覚醒にあたっ■■■■■

 データが損傷しているのか、以降の記録はリンク先のデータから読み取ることが出来ない。不審
に思ったわたしはリロードを試みるが結果は変わらない。あれほどに渚カヲルが拘り続け、そして、
わたしたちの存在根拠としての存在、碇シンジ。その少年は、今わたしがコントロールする機体の
掌の中にその命を預けている。
 わたしはデータキャプチャのコマンドを解放し、帰還プロセスのスタンバイモードにMark09の制
御を預ける。ゆっくりと目を瞑り、わたしはわたしの意識を解放する。


 ケージに暗欝な和音が鳴り響き、断続する重厚な旋律は僅かに残されていた朝露を一気に払う。
 朝が日向の香りへと移り変わる頃、いつもの場所いつもの指定席に向けて、わたしは歩を進める。

「やあ、おかえり」
「…あなたの言った通りだった」

 にっこり微笑むと少年はわたしに水色の椅子をすすめた。 

「いずれにしても、彼は一度ココに戻ってこなくてはいけなかったからね」
「………」
「そして、それを彼女も理解していたという事さ……本意ではないかも知れないけどね」
「………」

 午後一番の風が流れ、灌木の葉を豊かに躍らせる。

「ところで、いま彼は中央病院かい?」
「…ええ。あと数時間は目を覚まさない、と思う」
「大丈夫さ。碇シンジ君にはまだ少し時間があるからね。いろいろと認識する機会も必要だろう」
「………」
「彼は君に色々なことを聞いてくるだろう。そして、その殆どを君は知らない。でも、気に掛ける
ことは無い。そのことは本質ではないんだ。そう、あまり問題にはならないんだ。大切なのは、彼
とのこれからの関わり…どう関わっていくかが大切なんだよ」
「………」
「みんなに等しく機会はあるんだ。そう、僕を含めてね」

 優しげな深紅の眸を眩げに細めた少年は、耳に慣れた旋律を静かに奏ではじめた。




               ▲▽▲▽   ▲▽▲▽



 シンジが驚きの声をあげたのも無理は無かった。30坪ほどの音楽コーナーと紹介されたエリ
アには、所狭しと様々な楽器が陳列されていたからだ。勿論、高額品が陳列されていたと思われ
る飾り棚などへの決して小さく無い損傷などサードインパクトの爪痕は此処彼処に見受けられる
のだが、整然と飾られている楽器などから、恐らくは当時の状態が復元されているのだろう。
管楽器にはじまり、バイオリン、そして驚いたことにチェロまで展示されている。シンジ自身、
購買部をここまで奥に入った記憶は無く、この音楽コーナーの存在など露ほど知らなかった。
シンジは何故かひどく損をした気分になった。

「す、凄いや…ピアノまで置いてるんだ」
「ああ、それは電子ピアノだよ。だけどな、サードインパクトで壊れちまったがな、以前はスタ
インウェイまで置いてたんだぜ! しかも試弾し放題! 残念ながら唯一生き残った虎の子の
ヤマハCFVSは渚君に持ってかれちゃったからな、今ここにあんのは電子ピアノだけだ」

 ふーん、と感心しながら、電子ピアノの鍵盤をトントン押さえたシンジ。そこに展示されてい
るピアノはほとんど埃もかぶっていず手入れも行き届いているように見える。中にはスタンドが
折れてしまっているものもあるけれど。

「おっ、試してみるかい? 電子ピアノだったら鍵盤はROLANDがイチオシだ」
「あ、いやその、一人じゃまだ…」
「そうかいそうかい、ま、試したいのがあったら言ってくれや。カノジョはアレが気にいったみた
いだな」

 へ? と振り返ると、しゃがんだレイがレトロっぽい黄色のレスポールSpecialを至近距離で眺
めている。そう、まるでP-90ピックアップとにらめっこしているようだ。
 
 あ、綾波、どうしちゃったんだろう? ギターなんか凝視しちゃって…何か気になるのかなぁ…
 でも、ここに来たんだってそもそも――。 

「あ!? 綾波、そうだよ。楽譜、楽譜はここだよ!」

 シンジを見返ったレイには、やはりと言うか特段の感情を現すこともなく、刹那シンジをジッ
と見つめた後、分かったわと立ち上がる。スカートの裾がふわりとレスポールSpecialのボディを
撫でた。  

「僕も探すの手伝うよ。それで綾波はさ、どんな楽譜を探してるの?」
「ショパン……ショパンのノクターン第20番、嬰ハ短調」
「…C Sharp Minorか。…それってさ、その、綾波が弾くの?」
「…そう、でも……碇くん、あったわ」

 手際良く目的の楽譜を見つけだしたレイに、シンジは少なからず驚いてしまった。若しかした
らこれまでも頻繁にここに通っているんじゃないかなどと考えてしまったほどに。もちろん高雄
一尉の様子から、それは無いよねと自分自身のなかで結論付けた訳だけれど。

「カノジョの方はどうやら目的のものを見つけだしたみたいだな。ボウズはどうだ? 何だった
らさっきカノジョが見てたギターなんてどうだい? 何てたってサードインパクト前には売約済
みになってたビンテージモデルだぜ!」 
「い、いえ。それは結構なんですけど…」
「ヨシ。じゃ、これで終了だな。それじゃあレジんとこまで戻ろうか、俺も出荷作業の続きをし
なくちゃなんねえし――」
「あの、高雄さん…その前に、少し教えて貰いたいことがあるんです」
「それは、今のネルフのことかい? …碇シンジ君よ」
「え、な、なんで、僕の名前を?」
「そりゃあ、応援労務じゃないって分かった時にピンと来たさ。わざわざ苦労してこんなとこま
で来るヤツは今のネルフのシステムを理解していないってことだからな。それによ、よ〜く考え
ると、カノジョはレイちゃんだったしな」
「い、いや、その。か彼女だなんて…」
「ん? なに赤くなってんだ?」
「い、いや。兎に角それだったら話は早いです。今の――」

 突然湧き出すように鳴り響いた旋律が瞬時にして空間そして情景を変えた。
 シンジと高雄が顔を向けた先で、レイがスタンディングポジションのまま電子ピアノを奏では
じめたからだ。


 - Piano de Bossa / wave -

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                ■□■□ ■□■□


              わたしが消えていく 
             存在を許されないの だから 
               わたしは消える 
          初めから存在しない筈だったの だから
               消えて無に還る
            そこで ひとつの混沌になるの
              それが、ただひとつの願い
 
              最後に教えてほしい


                未来って、何?

                希望って、何? 


 セントラルドグマ最深部、大深度地下施設。低い地響きを伴ったシステムの作動音が回流のよ
うに暗欝な施設を鳴動させている。大地が振動するたびにLCLで満たされた円錐状のガラスチュ
ーブは身震いするように体躯を揺らした。その中で身を任せるままにたゆたう少女はいま静かに
瞑目している。ガラスチューブの傍らに設置されたものものしい計器につながれたプリンターか
らは間断なくデータシートが吐き出され、その一部を今まさに手にとった冬月から静かに溜め息
が漏れた。

「…もって1年か」
「………」
「ゼーレの子供たち。その多くが損なわれた第11使徒そして第12使徒戦で瀕死の重傷を負っ
てからはや14年。以来、過酷過ぎる責務を背負わされここまで来たが、いまだ生体を維持でき
ていることの方が奇跡に近いか…どうだ、碇?」
「…いずれにしてもレイの果たすべき役割は最後の執行者による発動で終わる。その先の予定は
無い」
「……それでジ・エンド、という事か…」
「………」

 冷たい靴音を鳴らしゲンドウがガラスチューブへと一歩踏み出す。特殊なゴーグル越しには如
何なる意思をも見い出すことは出来ない。

「…レイ」
「…はい」
「今日はあともう45分だ。終了した後の司令室への出頭は省略して構わん。待機場所に直帰し
た後、休め」
「…はい」
 

 大深度地下施設からの帰途、わたしは嘗ての実験場であったエリアへと足を向けた。そこはネ
ルフが設立されて間もない頃、初号機の基礎となるエヴァ素体を産み出すための実験施設でもあ
った場所。
 かつて神を見つけ出した人類が歓喜し、よく似た神を自らの手で作り出そうと様々な思惑を根
拠に天文学的なリソースを際限なくつぎ込んだ人類の為だった筈の実験場。留保された古の契約
を基に、科学を超えた知恵を駆使し、産み出されたのがあの初号機だったのだ。

「…そして、ここが」  

 実験場から更に地階に降り立った区画にそのエリアはあった。エヴァ素体の墓場。広大な空間
一面に奈落のような溝渠が広がり、底の見えない深さの溝渠は夥しい数の白骨化した素体の遺骸
で満たされている。十字に切られた暗澹たる溝渠から湧き出でるのは瘴気にも似た澱み。奈落の
底で蠢めく何かが発する呻き声のような震動がドグマの底を揺らし、時に迷い込んだ人間の理性
を忘失させ、その魂を絡め取ることもあるという。
 わたしは、冷たい手摺の脇にある認証スリットにIDカードを通すと、茫漠たる墓場へと足を踏
み入れる。溝渠の隙間に張り巡らされた通路とは言い難い路を更に奥へと一直線に歩を進める。
万が一足を滑らせでもすれば、底無しの溝渠からの脱出は不可能だろう。それでもわたしは足を
進めるのに躊躇いはなかった。わたしの体の中心がソコに誘引されていく。

「…わたしはわたしの役割を終えた時、ここに」

 その時だった。瘴気で霞む前方の空間が不自然に揺れるや、足を止めたわたしの後方から別の
次元から届けられた羽音のような音が響いた。それは、水面に滴る水滴の音のようでもあり、ま
たわたしの頭蓋に直接もたらされたようなものだったかも知れない。反射的に振り返ったわたし
の目が想像だにしなかった対象物の捕捉に見開かれるのが分かる。いまわたし自身の網膜に映っ
ているのは、紛れもないわたし自身の姿。綾波レイの姿だった。
  
「…綾波レイ」

 遠い過去から全てが定められていたことのように、わたしは彼女の名を口にする。明らかに実
体を持った彼女はわたしと同じ制服に身を包み、微笑を浮かべているようにも見える。淡い灯を
宿した深紅の眸に、わたしが抱いたのは言葉では言い現わせない安堵の思い。
 綾波レイ。時に伝説のように語られる存在。14年前、かつて無い規模で人類社会を蹂躙し尽
くし、迎え撃つ弐号機と零号機をも撃破した最強の第10使徒。その敵との壮絶な死闘の結果、
碇シンジと共に覚醒した初号機に消えた第1の少女。そしてリリスの魂を持つ少女。

「…AAAヴンダーでわたしを導いたのは、あなた?」

 わたしの問いに彼女はコクリと頷いた。

「…どうして、ここに――」

 問いには応えず、彼女はわたしの後方に白い指を向けた。その先は、わたしが惹かれるままに
足を向けていた広漠たる墓場の果て。

「ここから先に行ってはいけないわ」
「…どうして?」
「…あなたはまだ気付いてない。だから、選択できないの」
「…………」
「…まだ、時ではないの。だから」
「…………」

 ドグマ全体が身震いしたように思えた。突如として地底から湧きだした警報が広大な空間を遠
雷のように奔った。第1種戦闘配置。今のネルフにとって、それはヴィレのジオフロント内への
侵入を意味する。天蓋を暫し見あげたわたしが顔を戻すと、そこに彼女の姿は無かった。
 わたしは脱兎のごとく駆けだした。走る。懸命に走る。何もかも振りきるように。ネルフ中央
病院、嘗ての第一脳神経外科病棟に向けて。その白亜の病室で、恐らくはまだ目を覚ましてはい
ない少年。そのたったひとりの少年を守る。ただ、それだけの為に。  




              ▲▽▲▽   ▲▽▲▽


「それで、何から聞きてえんだい?」
「あ、え? その、今のネルフについてなんですけど…」
「だから、ネルフの何を知りてえんだ?」
「その…全部です。僕が覚えてるのは、第10使徒戦で綾波を助けたところまでなんだ……。で
も、そこからは記憶が無くて…目を覚ましたら、あれから14年が過ぎてるってミサトさんに言
われて…でも、そのミサトさんもネルフじゃ無くてヴィレって聞いた事もない組織で指揮をとっ
てて、ネルフのエヴァは全部殲滅するなんて言って……それに、なんか冷たくて…どうしてだか、
みんな怒ってるみたいで、リツコさんとかも僕に何もするなって言うだけで、何も説明してくれ
なくて…アスカ、そうアスカにも会ったんだ! それで無事だったんだって喜んでたら、なんか
怒りと悲しみの累積なんて殴りかかられて……もう訳が解んなくなって、僕は……僕は………。
でも、それでも綾波が僕を迎えに来てくれたんだ…すごく嬉しかったんだけど、ここに戻ってき
てみると、ジオフロントの天井都市が無くなったりして、すっかり変わっちゃってて、ネルフも
まるで廃墟のようになってて…なんか本当に14年間も過ぎちゃったんだって、その、実感が湧
いてきて。でも、そんなネルフで父さん達はまだエヴァを造ってて、また僕にエヴァに乗れって
―」
「ストップ、そこまでだ。…なるほどな。その様子じゃ、お前さんが目を覚ましてからは、誰も
何にも教えてねえんだな。その意図までは図りかねるがな。まあ、全てのことは俺にゃ解らんし、
お前さんにどうこう言う役柄でもねえ。だが、ここで遭ったってのも何かの縁だ。今のネルフが
どうなってるのかについては教えてやるよ。お前さんが眠っちまっている間にネルフに起こった
ことについてもな。勿論、俺が知ってる範囲になるけどな」
「は、はい」 

 近くにある椅子をシンジに勧め、自らもエレピの椅子にどっかと腰を降ろした高雄。レイの奏
でる音楽をBGMに、その魁偉から語られた内容は、シンジにとって驚くべきものだった。
 第10使徒はシンジが思っていた通り殲滅されていた。しかしその際に覚醒した初号機を目の
当たりにした国連はネルフを危険視し、日本国政府に圧力をかけA-801を発令させ、ゼーレという
上位組織にネルフの指揮権を移譲させたという。その際、ネルフ本部に突入した戦自により葛城
ミサト、赤木リツコなどネルフの幹部職員は拘束され、国連の監視施設に幽閉されたこと。碇ゲ
ンドウ、冬月コウゾウの二人は首尾よく脱出しその行方をくらましたこと。そして、特務機関ネ
ルフとしての使徒殲滅の任務はゼーレから新たに任命された渚カヲルを司令とする新生ネルフに
引き継がれることとなり、パイロットも旧来のパイロット2名に加え新たに4名の子供たちが補
強されることとなったこと。そして、その直後に出現した第11使徒との戦い、そしてターミナ
ルドグマにまで戦闘の場が及んだ第12使徒との戦闘の中、遂にサードインパクトが発生するに
至った、ということ。

「…やっぱり、サードインパクトは起こってたんだ…でも、人類は? そう、人類はどうなった
んですか?」
「人類は滅亡したわけじゃねえからよ、慌てるない。現に俺たちがこうして生きてるじゃねえか」
「…そう、そうですよね」
「正確には俺も解らんがな、サードインパクトは『止められた』、って話だ。勿論、相当な被害
をもたらしたって話だがな」
「…そうだったんだ」
「ところが話はそれで終わらなかった。その後がまた大変だったのさ。今度は直接UN軍が攻め込
んできて武装解除を強要したりしてよ。そんで、ここもいつのまにかひょっこり戻って来た碇司
令らが指揮をとるようになったりしてな」
「ミ、ミサトさん達は?」
「ミサトぉ? ああ作戦局にいた葛城ミサトなら、幽閉されてた施設から脱出して生き残ったUN
軍と合流してヴィレを結成したって話だ。その裏じゃ加持が暗躍したってことらしいがな。まあ
奴もここで単にスイカ転がして購買部に卸してただけじゃ無かったってこった。それにしても、
ここに攻めてくるUN軍がいつのまにかミサト率いるヴィレって組織になってたんで、ホントぶっ
たまげたぜ!」
「ミサトさん、ネルフのエヴァは全部殲滅するって言ってた…どうしてなんですか!?」
「それは…ほっとけねえから、だろ。ほっとけねえ理由は詳しくは俺にゃ解らんけどな」
「…そ、そうなんだ」
「こんなもんでいいかい? 碇シンジ君よ」
「あ、あと、今のネルフなんですけど」
「おお、俺としたことがうっかりしてたよ。今のネルフだが組織自体は昔と殆ど変わっちゃいね
え。勿論、非生産部署は機能してねえけどな、基本お前さんがNERV Netで見たとおりってことだ
な。ただ、職員は運用のための必要最低限の人数だけは確保できてる状態だな。それでも100
名は下らんがな」
「まだ、そんなにいるんだ…」
「なんてったって、あのエヴァンゲリオンを造ってんだからな。ほとんどは技術者だがな、それ
でもギリギリだとは思うぜ。バックアップ要員はシェアしてるって話だし…。そして、あとは俺
達みたいに日常生活を維持させるための要員さ。人間だからな。衣食住は必要だし、そのサポー
トもしかりだ。だから中央病院も機能しているよ。まあ気の強い千代田って婦長が一人で切りま
わしてるような状態だけどよ」
「…つまり、みんな自分の持ち場を離れることが出来ないんだ。だから…」
「おうよ。ここで職員の姿を見ないのはそのせいさ。オペレーター、実務者だけが既定の業務に
追われてるだけなんでな。他部署への訪問なんてものも殆どねえし、ここでの連絡は全てNERV Net
で事足りるし、書類や物資の運搬は本部内を血管みたく張り巡らされてるLCLシューターで出来る
しな。それに…」
「…それに」
「各部署のオペレータールームに籠って仕事してりゃ、ヴィレが突入してきたときでも安全なの
さ。特殊装甲製のドアは対戦車ライフルでも破れねえし、兵糧はこっから俺がばんばんシュータ
ーで送ってやるしよ。俺が息してる限りはよ」
「と、ところで」
「なんだい、まだあんのか?」
「どうして、その、おじさんはここに残ったんですか? もともと本部には千人以上の人達が働
いているって、その、聞いたことがあるから」
「…半分、いやそれ以上の職員がな、消えちまったんだよ。サードインパクトの時にな」
「え? き消えたって」
「…ああ、ここ購買部でもな、何故か管理職とか実務を持ってねえ連中を中心にな…あまり思い
出したくねえ情景だがな」
「………」
「あとは、ヴィレん中でも元ネルフの連中が潜入してよ、投降を促されて出てった連中も結構い
たぜ。家族持ちが殆どでよ。そりゃここにいたんじゃ、外界のことは何にも解らねえし、そら心
配だわな。まあ、逆に兄弟を放って出てったヤツもいるけどな…」
「え?」
「まあ、どうでもいいわな、そんなこたぁ。…でもよ、俺ぁ行けなかったよ。本部施設が出来て
からこのかたずっとエヴァを造ることに色んな形で携わってきたんだ。上が誰に変わろうが俺達
にゃ関係ねえ。エヴァを造ってる限り、ここに俺達の仕事場があって、誰かが俺を必要とする限
りはよ、ここで役割を果たすのさ。いまここに残ってる職員はそんな連中ばかりってこった」




          
                 ■□■□ ■□■□



 耳を劈く警報と赤い非常灯が交錯する通路を、わたしは保安局警備室へとひた走る。人影の途
絶えた無限軌道にも思える回廊に、わたしの足音だけが鳴り響く。保安局に到着すると、無人警
備室の入退出コントロールボックスのスリットに素早く自らのIDを通した。大気開放音と共に開
放されるエアロックドア。そして、その向こうには鈍色の光沢を持つロッカーが顔を覗かせる。
扉のキーボードにPIN CODEを落とし込むと、冷たい音と共に解錠された扉の向こうに幾多の銃器
と弾薬が姿を見せる。
 わたしは架台に掛けられたアサルトライフルとハンドガンを手に取ると、精密機械のように目
にも止まらない速さで作動チェックを行う。弾帯ベルトを肩に掛け、警備室を飛び出そうとして
刹那足を止める。少し考えて、50AE弾が装填された幾つかの予備マガジンをベルトに差し込み警
備室を後にする。中央ホールへと急がなければならない。

「レイ、来たか」
「…敵」
「ふむ、第3の少年を奪取したのだからな。ヴィレによる相当規模の作戦がなされることを想定
し、L結界内には量産型も配備しておいたのだが…裏をかかれた一部部隊にジオフロントへの侵入
を許すこととなった」
「………」
「まあ幸いにして侵入したのは、嘗てはネルフに所属していた部隊という点だ。先般おまえに重
傷を負わせた元UN軍の連中ではなくてな」
「………」

 渚カヲルは既にヴィレが潜伏しているとされる現場に出立した後でここにはいない。副司令と
のブリーフィングを終え、持ち場の中央病院に向かおうとしたわたしは、前方に立ちはだかった
二人の男に行く手を遮られた。初老の男、そしてまだ少年といってもいい若年の男は、およそ保
安局員らしからぬ格好――まるで昔の警備員のような制服――に身を包み、背筋をぴんと伸ばし
ている。よほどわたしは不審な表情をしていたのだろう、副司令はその二人を中央病院の追加警
備要員として、若干の捕捉を添えてわたしに紹介した。
 人員不足の状況下、僅かながらの現役保安局員はカヲル率いる要撃部隊に編入されている。よ
って中央病院の警護はわたし単独で為さざるを得ない状況だった。しかしながら、先の戦闘でわ
たしが重傷を負ったことを聞きつけ、他部署の何人かが応援志願したとのことだった。勿論、今
次の侵入者が元ネルフの人間でもあることから、激しい戦闘に発展する可能性は低く、かつ病院
警護という限られた条件が二人の配備を許可させたことは容易に想像がつく。が、それでも戦闘
による死傷というリスクに直面することとなるのだ。下命された命令をただ遂行するだけのわた
しには、その二人の志願動機を理解できなかった。

「そういう訳でな…まあよろしく頼む、レイ」
「はい」
「ああ、それでな。渚君がこれを」

 副司令がわたしに手渡したのは、小さなペン型の発信機だった。

「万が一、敵の来襲が中央病院に及びそうになった時は、躊躇無く押してくれ、とのことだ」
「………」



 エアロックドアが開放されると、部屋の中央に据えられた巨大なモニターが目に飛び込んでき
た。画面には荒涼としたジオフロントが映し出されているが、その中央には不自然な体勢で着陸
したオスプレイが黒い煙を吐き続けている。
 ローバックチェアに腰を沈め、いつもの体勢で画面を見据える司令服の男。定位置とも言える
その男の隣に冬月は歩を進めた。既にその眉間には深い皺が刻まれている。

「どんな様子なのだ、碇?」
「…侵入したのは単機。量産型の攻撃で不時着に近い状態だが、乗員の数は解らない。…無線で
投降の意思を出している」
「まあゼーレの少年を中心とするチームに包囲されているのだからな。無理はない」
「…ただ」
「どうした? 何が気に掛るのだ? 認識信号は元ネルフのものではないのか?」
「………」

 モニターの中では、渚カヲルの率いるチームが次第に包囲網を狭めている。戦闘服の保安局員
がFN SCARを黒煙を吐き続ける機体に向け身を低くしてにじり寄る中、カヲルだけはいつもと変わ
らない様子でその機体の正面から躊躇無く距離を詰めていく。その包囲網が、毒々しい黒煙と計
器類のショートする音がジオフロントを薙ぐ風の合間に聞こるまでに狭められたとき、ふとカヲ
ルの足が止まった。静寂。今一歩、目前に迫った漆黒の機体へと歩を進めようとしたカヲル。眉
をひそめた次の瞬間、右手を大きく掲げ、体躯にそぐわぬ大音声で周りの隊員へと指示を出した。
爆裂。赤黒い断片が拡散し、天をつく爆音がジオフロントを駆け抜け、大地を揺らした。

「トラップ!?」
「…まさか…カモフラージュだというのか、これは…だとすれば」
「既に本隊は潜入。目的地に向けて潜行していると考えるべきだろう」 
「…中央病院、か? …何故ここまで手のこんだ事をするのだ? 単なる第3の少年の奪還では
ないのか?」
「…確実なる抹殺。我々が奪取することで証明したトリガーとしての機能の封殺と考えるべきだ
ろう」
「…解らん。DSSチョーカーさえ作動出来なんだ葛城大佐の意思とも思えんが……」
「冬月、忘れたか? ヴィレの成り立ちを。…もう一つの意思の存在を」
「一枚岩では無い事実………UNの連中、か!?」
「…ああ」
「不味いではないか、それは!?」

 メインモニターの脇の小さなモニターに視線を移したゲンドウ。そのモニターには、中央病院
の緑豊かな植栽が陽光を受けるメインエントランス、その穏やかな情景が映し出されている。 

「……レイ」



                ▲▽▲▽   ▲▽▲▽



「綾波、大丈夫?」
「うん」
「もう少しだからさ。戻ったら直ぐにご飯の準備するから」
「うん」

 両手いっぱいの荷物を抱えたシンジは、後ろのレイを見返った時にバランスを崩し、危うく荷
物を落としそうになる。思わずたたらを踏んでしまったシンジの後ろでは、レイが左手に大きな
ビニール袋を提げ、右手に持ったショパンの楽譜を大切そうに胸に添えている。仄暗い通路の前
方へと改めて意識を向けたシンジ。レイの部屋まではあと少しなのだ。 
 それにしても参った。高雄の話が終わったところで、出荷の準備が間に合わないとかで、結局
手伝されるはめになったのだ。それでも忙しい中、時間を割いて色々と教えてくれたんだからと、
差し出されたエプロンを渋々着けたわけだが、いざ山積みされた商品の山を目の当たりにすると、
その物資の多さに眩暈を覚えてしまった。折れそうになる心を立て直し、レイと一緒に作業を始
めたものの、いかんせん慣れていないこともあって、全てを終了するのに2時間もかかってしま
った。もう身体はくたくたお腹はぺこぺこ。だが、しかし助かったのは、そこが購買部という事
実。食料品であろうが何だろうが大概のものは手に入る環境にあり、更には機嫌を良くした高雄
が何でも好きなだけ持ってけ、などと大盤振る舞い発言まで飛び出した。いささか肉体労働との
バーター取引き的ではあるのだけれど。

(…それにしても、調子に乗って貰いすぎたかなぁ)
(…けど、食材だけじゃ意味ないし)
(…綾波の部屋って何にもないんだし)
(…ただの缶詰めじゃ、だめだ。意味が無いんだ)
(…温かいものを食べてもらいたいんだ…たとえ簡単なものでも)

 そう、シンジの抱えている荷物は食材のみにあらず、実際のところ調理のための道具や器具が
その大半を占めていた。腕の中で器具の擦れあう音を聞きながら、シンジは嘗て海洋生態研究所
でレイに飲んでもらえた味噌汁、そして学校で手渡す弁当のメニューを懸命に考えていた時に想
いを馳せた。ここに来てからシンジに提供される食事の内容から考えても、レイに与えられる食
事は恐らくは最低限の栄養摂取だけを目的とした内容になっていることは想像に難くない。だか
らこそ、とシンジは思う。少しでも手を掛けた料理をレイに食べてもらって、昔の記憶を取り戻
すきっかけにならないだろうか……あの頃のことを少しだけでも思い出してもらえないだろうか、
と。奇しくも今日、高雄との出会いによって、全てでは無いものの新たに認識できた14年間。
まるで現実感の湧かないフィクションとも思えるその間の出来事について、もっともっとレイと
話したいことがある。そう、何より、レイはいつ初号機から出てきたのか、何故レイだけが先に
出されたのか、と――。

「…碇くん」

 え? と振り返ると、レイが通路から横穴のように伸びている狭い通路を指さしている。

「水はここで手に入るわ」

 人ひとりが通れる幅の通路だが、いかんせん真っ暗で奥の様子がよく解らない。それでも懐中
電灯を手に中に入ると、すぐ左手が流し台のあるスペースとなっていた。給湯室のようにも見え
るそこに懐中電灯の光をあてるとステンレスのシンクが鈍く光った。さらに注意深く足元を照ら
すと、無数のガラスの破片が壁側に掃き寄せられている。ここを使うレイがそうしたのだろう。
それでも蛇口をひねって実際に水が出るのを確認すると思わず安堵の溜め息が漏れる。ここなら
レイの部屋と目と鼻の先だ。シンジの考える計画に無くてはならないもの。その一つが水の出る
場所、なのだ。

「さてと、これで準備万端整ったよ」

 レイの部屋では、運びいれられた食材が床に敷かれたシートの上に行儀良く並べられ、シンジ
によって手際良く組み立てられた段ボールの上には、既に電気コンロとステン鍋がセットされて
いる。シンジは鍋セットを目を丸くして色んな角度から眺めるレイに思わず笑みを洩らした。

「ところで、綾波はさ…その、いつもどんなのを、食べてんの?」
「これ」

 レイがつまみ上げるようにして見せた処方薬の袋に、シンジは思わず顔をしかめてしまった。
ある程度の予想はしていた。が、しかしこんなもので健康体を維持出来るはずは無い。これでは、
必死に助けたこの少女は……これからも一緒に生きようと誓ったこの少女は……。シンジは目前
で胸に添えた楽譜を離そうとしない少女が本当に心配になってきた。

「…それって、サプリメントだよね。でも、やっぱさ、出来るだけちゃんと食事は採った方がい
いと思うんだ」
「……」
「だからこれからはさ、出来るだけ、僕が食事を、その、作ろうと思うんだけど…いいかな?」
「…うん」

 レイの返事を聞くや、シンジは給湯室に脱兎のごとく駆けだした。準備に取り掛かる為に。
 今夜のメニューは水炊きだ。高雄から特別に奢ってもらった昆布で美味しいダシを取って、
 大根もがりがり卸して、肉抜きでもお野菜をたっぷりポン酢でいただくのだ。締めのおじや
 も忘れてはならない。

 決めた。ネルフやヴィレ、そしてエヴァは、その時に悩めばいい。
 今は、この少女を取り戻すために出来ることをしよう。
 今は、それでいい。
 それでいいんだ。



                 ■□■□ ■□■□


 メインゲートから中央病院までは距離にして二三百メートルとそう遠くはない。それでも一度ジ
オフロントに出てから小路を辿る必要がある。大きく破壊され、僅かに嘗ての面影を残すだけのメ
インゲート前の正門を出たレイをチームリーダーとする警護班は、降りそそぐ陽光の下を中央病院
へと急いだ。ブーツのアスファルトを噛む音が空気を揺らし、銃器の擦れあう音が体感温度を下げ
る。交わされる言葉は無く、遠くで鳴り続ける警報だけがジオフロントを縫っている。
 中央病院の敷地に入ると、メインエントランスへの空間が大きくひらけた。そこでは緑豊かな植
栽が太陽の陽射しに照らされ、その輝きを一面に振りまいている。嘗てと変わることのない風情が
この場所だけには存在していた。SUVとオフロードバイクが忘れ去られたように残された駐車場の
奥、休日の佇まいを見せる正面ロビーの前にその白衣の女性はいた。

「レイちゃん」
「碇くんは?」
「まだ眠っているわ。それ以外に特に変わったことは無し、よ」

 こくりと頷いたレイに、婦長のバッジを胸に付けた女性はその笑みを一層深くした。

「レイちゃんも…もう大丈夫みたいね。安心したわ」
「………」
「それに、今日は強そうな殿方が二人も付いてくれているのね。心強いわ」

 可憐な笑顔を浮かべるその女性に、レイの後ろの二人は静かにIDを翳して見せた。その所属は総
務局となっている。

「千代田ユキです。加賀さんに衣笠さん、今日はよろしくお願いします。…若しかして、どこかで
お会いしたかしら?」 
「どうでしょうか…以前来院した際にお会いしているやも知れません」 
「そうですわね。余計なことをお聞きしてごめんなさい。お二人には早速病棟内を簡単にご説明い
たしますわ」
「婦長、それには及びません。我々も総務局の一員ですので、病院内施設内については細かいとこ
ろまで頭に入れてきている積りです。婦長もご多忙だと伺ってますので、我々は早速警備フォーメ
ーションにつかせて頂きたいと思います」
「そう…実は緊急オペがあるので、助かりますわ」

 それではよろしくお願いしますと、少女のようにぺこりと一礼し外科病棟へと向かおうとしたユ
キだったが、シンジの病室につづく回廊に視線を留めるレイに向き直ると、おもむろにその手を取
った。

「レイちゃん」
「…はい」
「…無理は、しないでね。お願い」
「………」

 慌ただしく外科病棟に向かうユキの華奢なシルエットをしばらくの間、レイは目で追っていた。 
 千代田ユキ。ネルフ中央病院脳神経外科婦長。レイが物心ついた時には専属看護師として傍にい
た。サードインパクト以前から脳神経外科で適格者全てのケアを一身に受け持つ彼女は、どんな凄
惨な場に立ち会わされようが、その心を失意のどん底につき落とされようが、朗らかな笑顔を絶や
すことは無かった。その人間性を良く知るヴィレの嘗ての仲間からの幾度の説得にも頑として応え
ず、戦自が侵攻した時には自らがその銃口への盾となり適格者や患者達を守ってきた。そう、文字
通り最後の一人になっても。まるで少女のような純粋な魂と身体を純白の衣で覆い、彼女なりの戦
場を駆け抜けてきたユキは全てを理解し、そして捧げている――。

「では、われわれは正面ロビーの警護にあたりますので、リーダーは警護対象者の病室に」

 レイが頷くのを確認した初老の男は、正面玄関から車寄せに出るともう一人の若い班員と打合せ
を始めた。その二人の物腰、そして目配せなどといった基本動作には一切の無駄も一瞬の隙も見ら
れない。ある種の不自然さを覚えるほどに。それは、中央病院に到着するまでに、レイが感じとっ
ていた違和感であったのだけれども。

(…慣れている)
(…保安局員でも無い、総務局の職員なのに)

 白亜の病棟は、広く取られた窓いっぱいに受けた陽光に、南欧の建造物さながらに院内の壁面を
輝かせている。人気のない沈黙の中で、白に染め抜かれた回廊の空気を微かながらに揺らせている
のは澱みなく動くレイのブーツの音だけだ。5分もしないうちにICUの標示が現れるだろう。警護
対象者である碇シンジの病室はその隣に位置する。
 誰にも読み取れない思考を巡らせていたレイを取り巻く底無しの静寂。それを破ったのは無線機
からの呼び出しでは無かった。異質な着信音はレイの持つ携帯端末が発する高位の秘匿回線に相違
なかった。知れず眉を顰めたレイが端末を取り出したとき、一発の乾いた銃声が木霊した。




                  ▲▽▲▽   ▲▽▲▽




「…あ、碇くん」
「あ、綾波。…だ大丈夫、怖くないからね」
「……碇くん…イヤ」
「だ、大丈夫だからさ…もう少し力を抜いて…」
「………あ、ダメ」
「…で、でも」
「………」
「……」
「…」



「お前さんたち…何やってんだい?」

 殆ど意味不明な奇声をあげ、シンジは大きく跳んだ。背後から唐突にかけられた声に条件反射的
に振り返った先に、途轍もなく恐ろしい顔が晒された生首が如く闇夜に浮かび上がっていたからだ。

「で、出たー!」
「なんでえなんでえ、出たは無えだろう。お化けじゃあるめえし」
「…え、た高雄さん?」
「おうよ。俺だよ。何をそんなに驚いてんだよ?」
「その、あまりにも顔が怖か―いや、突然声をかけられたから」
「なんかモチベーション下がるよなー。わざわざお前さんたちの後を追って届けに来たのによぉ」

 え? と顔をあげたシンジの鼻先に、ホラよと差し出されたのは一本のポン酢。実のところ、先
ほどから其処彼処を探しまくっていたのだが、どうしても見つからず本格的に焦りはじめていたと
ころだ。ポン酢抜きの水炊きなど考えられないのだ。

「そうだったんだ…持って帰るのを忘れちゃったんだ」
「だろうな。レジんところにポツンと残されていたからな…でもな、コレが無きゃ水炊きなんて出
来っこねえだろ? ほんでもってレイちゃんとこにはシューターなんて気の利いたもん通ってねえ
しよぉ、店のシャッター慌てて閉めて持ってきたのによぉ。虎の子みたく旭ポン酢抱えて来た俺に
開口一番、出たー、なんだもんなぁ…」
「ごゴメンナサイ…少し立て込んでて…高雄さんが来たのに、その、全然気付かなくて」 
「なんだぁ? 立て込んでたぁ?」 
「…いえ、綾波がお豆腐を取ろうとしたんだけど…お箸で上手く掬えなかったんで…僕はただ、そ
の…手伝おうと」
「ほお、それでそんなにレイちゃんに密着して、手取り足取り腰取り胸――」

 ちち違うんですっ、これには訳が、と言い繕おうとするシンジはシドロモドロだ。一体どんな訳
があるというのだ。
 そんなシンジを一笑に付したスキンヘッドは、まあそんなこたぁどうでもいいけどよ、そんな時
はコレだ、と陶器製の大きなスプーンのようなものをシンジに差し出した。

「こ、これは?」
「まあ、湯豆腐用のレンゲ、みたいなモンかな? 多少ご都合主義的ではあるがな、まあ使ってみな」

 高雄から受け取ったレンゲをチェックしてみると、大ぶりの皿の部分に幾つかの穴が開いている。
これなら豆腐だけを上手く掬えそうだ。早速、シンジはレイが所在無げに宙に漂わせている箸とレ
ンゲを交換してやった。レイは、その白いレンゲと暫くの間にらめっこした後、徐にそれを豆腐に
近付ける。

「…掬えたわ」

 ヨシッ、と開閉していた左手を握りしめたシンジは、レイとのスキンシップ―もといレイの食事
のお手伝いに意識を囚われ青葱を刻むのを忘れていた事実に天を仰いだ。それでも、こいつはオマ
ケだ、と精妙なタイミングで高雄から差し出された七味に大いに救済されることとなる。
 次から次へとマジシャンのように色々なものを出してくる魁偉の男。シンジはネルフ購買部にあ
ってコンシェルジュと呼ばれる男の真髄を垣間見た気がした。

「それじゃ俺は帰るぜ、邪魔したな」
「…あ、あの」

 

 
                   ■□■□ ■□■□



「敵!?」

 回廊を振り返ったレイがその先を見据えたのは僅かに数秒間のこと。携帯端末に応答するまでも無か
った。端末の電源を切った後にペン型の発信機を作動させたレイは、加賀と衣笠が警備フォーメーション
につく正面ロビーへと駆けだした。陽光に白濁する回廊を激しく打つレイのブーツの音に断続的に唸り
をあげる機銃掃射の発射音が重なる。無数ともいえる鈍い着弾音に悲鳴にも似た硝子の粉砕音が続
くと、長く尾を曳く跳弾音が不吉に大気を裂いた。

「!」

 白亜の回廊からロビーへと身を躍らせたレイは、目にも留まらぬ俊敏な動作で身を柱の陰に寄せ、
スタンディングポジションを展開する。SCAR-Hのコッキングレバーを作動させるとロビー全体に視線
を走らせ、そしてその変貌に瞠目した。
 
「加賀一尉! 衣笠一尉!」

 レイの声に呼応するように半ば粉砕された正面ロビーのガラスが瓦解すると、その向こう側でぎり
ぎりまで低くしたニーリングポジションでアサルトライフルを構える衣笠の背が姿を現した。その左腕
の上腕部から滲む血が暗い隊員服の表面をてらてらと艶めかしく光らせている。

「衣笠一尉!」
「リーダー」

 先ほどまでとは異なる地底から湧いてきたような低い声の主は初老の総務局員だった。レイが身を
隠す柱の数メートル前方の柱の陰でアサルトライフルを構えている。

「加賀一尉!」 
「衣笠一尉が狙撃されました。初弾は正面玄関前を警護していた衣笠一尉の左上腕部に着弾。有視
界圏内である丘陵地までのほぼ500m以内には敵の姿は確認出来ませんでしたので、7.62mmNATO弾
を使った遠距離狙撃だと考えます。もっとも次弾で私を撃ち損じて以降、セミオートで派手に撃ちこまれて
ロビー内はこの有様ですが」
「衣笠一尉、の怪我の状態は?」
「フルメタルジャケット弾でした。抜けているので大丈夫です。腕を持っていかれたわけではありません。
まだやれます」

 レイに状況を細かく説明しながらも、険しくなった加賀の目は正面玄関から小路が伸びる丘陵地や
その周辺を抜け目なく確認している。さらに断続的に撃ちこまれた銃弾が、加賀が身を寄せる柱に
火花を散らし、レイのすぐ傍にある外来用ソファーに着弾した。ロビー前の植栽ブロックに身を潜め
る衣笠がアサルトライフルで応射する。

「衣笠一尉の手当てが必要だわ」
「リーダー、今動けば危険です。じきに連中が姿を見せます。それまでは――」

 加賀が言葉を詰まらせたのは、丘の上に姿を現した敵を見たからに他ならない。今、風に吹かれ
て緑鮮やかな彩色を揺れ動かす芝の上に悠然とその姿を晒しているのは装輪装甲車ストライカー
だった。次いで近接戦闘要員らしき歩兵が蜘蛛の子のように散開した。

「SBCT機械化歩兵部隊!? 連中、本当にヴィレなのか? …第3の少年の奪取が目的じゃあ」
「加賀一尉、わたしが衣笠一尉を」

 いいえ、と頭を振った加賀はふいにその表情を緩めた。

「リーダーは、警護対象者の病室に、お願いします」
「え?」
「ここは衣笠と私とで何とか持ちこたえますので」
「それはダメ。二人で戦える相手では」
「リーダー、側面から接近した敵が病室に続く回廊を破って侵入してくることも十分考えられます」
「その通りだと思う…でも」
「リーダー、あなたの役割は、初号機パイロットを守る。違いますか?」
「……」
「なあに、簡単にはやられませんよ。警護対象者は勿論、リーダー、そしてこの状況の中で人を生
かす為に闘っている千代田婦長の為にも、です」
「解ったわ……警護対象者の病室に向かいます。でも…」
「はい?」
「…ふたりとも死なないで。お願い、だから」
「心配には及びません。じきに渚カヲルの部隊も到着します。さあ、今です、リーダー。我々が援護
するので、お行きください! 初号機パイロットのもとに!」

 レイが前方に顔を向けると、植栽のブロックに背を預けていた衣笠がやや姿勢を正して敬礼して
いた。返礼したレイは、緋色の眸にその若者の眩げな笑顔を刹那映した後、やおら回廊へと駆け
出した。 

 より激しくなった敵からの機銃掃射による銃弾が降りしだく中、加賀と眼で合図を交わした衣笠は
傍にあるリュックを手繰り寄せると、中から弾倉帯にも似たベルトを取り出し素早く腰部に装着した。

「衣笠、傷はどうだ、痛むか?」
「大丈夫です。かすり傷です、こんなの」
「そうか、撃たれた上に悪いが装甲車を頼む。あとは俺が引き受けた。渚君が到着するまでは、
何とか持ちこたえる」
「解ってますよ…これまで息を潜めてきた我々の出番がやっと来たんです。…いやあ、それにしても
考えてたよりハードだ。香取さんもオリジナルのガードは大変だって言ってたけど…」
「何だぁ、何か言ったか?」
「いいえ、何でもありません」

 ひとつ息を吐くと、衣笠は慇懃な所作で帽子をかぶり直した。

「…リーダー、短い間でしたが」

 そして、シンジの病室につづく回廊に向けて今いちど敬礼した。

「元、諜報二課ガード作業チーム長門班 衣笠徹、行きます!」

 60キロものC-4が装着された弾倉ベルトをものともせず、豹のような身のこなしで植栽ブロック
を飛び越した衣笠は、飛び交う銃弾の下を人間業とは思えない俊敏さで駆け抜け、SUVの陰に
停められたオフロードバイクに飛びついた。




                 ▲▽▲▽   ▲▽▲▽



 久しぶりに口にする温かい食べ物だった。決して手を掛けた料理では無かったのだけれど、それ
でもいまだ14年の眠りから覚めやらぬ堅く氷結した心の一部が徐々に溶けだしていく、そんな感覚
を覚える。こんなふうにして食事をするのはいつ以来のことだろう……そう、コンフォート、ミサト
さんのマンションにアスカと居候してて、ジャンケンに弱い僕がいつも料理当番を担当してたっけ。
そのうちアスカまで料理を作りはじめて…綾波なんて、僕と父さんの為に食事会まで企画してくれて
……僕は、綾波の作る料理が心配で、それでいて楽しみで…そう、とても楽しみにしてたんだ。
 そうなんだ、綾波は、温かい食べものが人の心を温かくするのを知っている、そんな女の子なんだ。
そうなんだ…だから…。

 ポン酢を入れた小皿から思い詰めた顔をあげたシンジ。鍋から湧き立つ湯気越しに真正面から視界
に飛び込んできた滑らかな岩肌にも似たスキンヘッドに、ディラックの海で平和に揺られていたシンジの
魂は現実に引き戻された。

 そうなんだ。今のこの状況は、わざわざポン酢を届けてくれた高雄の帰り際に僕が声を掛けたから。
良ければ一緒に、なんて僕が言っちゃったもんだから、おぅそうかい、それじゃあ御相伴にあずかろう
かなってなっちゃったわけで…。何を隠そう…綾波とツーショットで食事する機会をつぶしちゃったのは、
誰あろう僕自身、なんだ。
 シンジは改めて、目の前でどっかと腰をおろし、一升瓶を抱えるようにぐい飲みをあおる高雄を凝
視した。それにしても…、

(…よく飲むなぁ)
(…この体なんで、食べる方は想像ついてたんだけど)
(…浴びるように飲んでんのは日本酒なのかなぁ。…ミサトさんもよく飲んでたけど)
(…でも、お酒を持ってたってことは、最初っからここで食べてく積りだったってことか)

 自分を凝視するシンジに気付いたのか、いつしか高雄が不審げな表情でシンジを見つめている。
眉を顰めた表情はてらてら光るスキンヘッドとの相乗効果も手伝い相当に恐ろしく、諜報部の怖い
オジサン達とも十分張りあうことのできるレベルである。
 その天衣無縫のスキンヘッドが、ふと表情を緩めニカッと脂の乗った中年独特の笑みを浮かべた。

「なんでえなんでえ、飲みてえんなら言ってくれりゃあいいのに、シンジ君よぉ」
「へ…いや、僕はその、お酒は全然ダメなんで」
「なんでえ、面白くねえの。折角ミサトも気に入ってた獺祭なのによ」
「…す、すいません」
「いいよいいよ。酒ってのは無理強いされるもんじゃあねぇ。楽しく飲まねえと。なぁ、レイちゃんよ」
「…?…」
「一杯どうだい? いつもあの髭の暗い司令やらエルダー副司令と一緒じゃ大変だろう。ストレス
溜まっちゃうよなー。これグーと空けてスカーと全部忘れりゃ――」
「だだダメですよ、高雄さん! 綾波にお酒なんて飲ませちゃ!」
「ちぇっ、松の内だってのに堅えんだもんなー。ま、カノジョなんだもんな。心配すんのも無理はねえ」

 い、いやだから、カノジョってのは、その、と口籠るシンジは出鱈目にバケツの氷水をかき混ぜ
ながらもペットボトルを取り出し、紙コップと一緒にレイに差し出した。が、首まで赤くなった顔では
レイを直視できない。

「…?…」
「あ綾波、これ飲んでよ。お水だからさ、安心していいからね」
「うん」
「あと、このあたりのお野菜ももう食べれるからね」
「うん」
「綾波、どうかな? …その、口に合う、かな?」
「うん…おいしい、碇くん」

 初めての鍋料理を前にして戸惑いがちのレイに甲斐甲斐しく世話を焼くシンジ。そんな様子を
高雄は平和そうな笑みを浮かべながら見つめている。

「…やっぱ似合ってるよ、お前さんたち」
「な、た高雄さん、ままた―」
「何、信号機みたくいちいち反応してんだよ? それより悪いけどよ、バケツん中でとっておきの
酒を冷やしてんだけど、取ってくれんか?」
「あ、はい。お酒、ですか?」
「おう、正月用に取っておいた大吟醸だからな。ちゃんと冷やしとかねえとな」

 既に五合ほど酒が入っている高雄は上機嫌この上なし。ここにきてシンジという肴を前に、眷顧
の美酒をもって更なる酩酊にその身を委ねるつもりか。だがしかし、シンジにだってミサトから学習
した過去の経験則が頭の片隅に残っているのだ。殆ど条件反射のように、シンジはバケツの氷水
をかき混ぜながら以後の対処法に想いを馳せた。

「これ…ですか、高雄さん?」
「ん? おおソレだソレ」

 シンジからペットボトルを受け取るや、高雄は歓喜の声をあげた後、ぐい飲みに慎重に注いで
キューと一気にあおる。シンジには理解できないが、この瞬間が酒飲みにとっては堪らない瞬間で
あるというのは、これまたミサトから客観的に学習したこと。が、しかし何故か高雄の顔一面に貼り
付いていた恍惚の表情は、雲高き秋空が如く突如としてその様相を変えた。眼はくわと見開かれ、
狭隘な室内に灯るランプの光に照らされたスキンヘッドの紅潮が臨界点に達したかに見えた瞬間、
熊のような筐体から喜悦とは程遠い奇声が絞られた。

「……シンジ君よ……こりゃ、酢だ」
「えうっ? お、お酢、ですか?」
「チ、チクショオ…な、なんで酢がこんなとこに有りやがんだ…悪いけどよ、別のがバケツに残って
ねえか?」
「ちょ、ちょっと待ってください……いや、見当たりません、けど」
「そんな筈無えんだけどなー。くそっ、どこに行っちまったんだ、俺の大吟醸はよぉ」

 そんな二人のやり取りを横目に、レイが一気に空けたコップをテーブルに置いた音がタムと響いた。
 初めていただくポン酢に喉が渇いていたのだ。
 レイはシンジから与えられたペットボトルから二杯目を紙コップになみなみと注ぐと、こくこくと可愛
 いい喉を鳴らしながら一気に飲み干した。 

  



                  ■□■□ ■□■□




 ICUに隣接するシンジの病室まで一気に走ると、レイはドアを背にSCAR-Hを構えた。回廊に広く取
られた窓から外には今のところ敵兵の影は見られない。ますます激しくなる正面玄関周辺での銃撃戦
の音。それでもレイの背後にある病室内からの気配を感じないのは、いまだ碇シンジが目覚めの時を
迎えていないからと考えるべきだろう。

(…目覚めていない方がいい。いま病室から出るのは危険)

 多大な犠牲を払ってまで絶対防衛線を掻い潜り、ここジオフロントに投入された部隊の内容そして
その規模から確信を持つに至ったヴィレの意思。それは、第3の少年の抹殺に他ならない。

(…そんなこと、絶対にさせない)
(…何があっても、わたしはここを…碇くんを守る――)

「!」

 鈍い着弾音が空気を震わせ、レイの眼前の窓ガラスに幾つものスパイダーネットにも似た模様が
拡散した。側面から中央病院に侵入した敵からレイを狙った銃撃であることは明白。だが、ポリカー
ボネイトとの積層構造を持つUL752規格の防弾ガラスはFMJ7.62mm弾の貫通を許さない。
 反射的に身を低くしたレイは次の瞬間、はじかれたように玄関とは反対の裏口の方向へと駆けだ
した。

(…敵の展開が思ったよりも早い。背後から挟み撃ちにされるわけにはいかない)

 回廊の突き当りを曲がると、窓の消えた通路は一転し漆黒の通路と化した。それでも夜目の利く
レイは怯むこと無く、一層強くリノリウムの床を激しく蹴り速度を上げる。そして、その深紅の炯眼は
暗澹とした回廊の先で何かがチカリと瞬くのを見逃さなかった。

「レーザーサイト!」

 赤い光を認識したときには、初弾の衝撃波がレイの頬を掠めていた。漆黒の中、咄嗟の動作で
横っ飛びに身をかわしたレイ。幾何学的に散った幾つものレーザーポイントを受けた床や壁が無残
に砕け散るや、濛々と吹きあがる粉塵の中から、発光したとおぼしき回廊の奥へと照準を合わせて
引き金を絞る。フルオートで弾幕を張ると、レイは素早く踵を返し回廊の突き当りの角へと駆け出した。

(人数が違いすぎる。正対は出来ない――)

 曲がり角まで、数メートルのところで怒り狂ったように降りそそいだ銃弾がレイの直ぐ後方の床や
壁のあらゆる部分を粉砕し、跳弾の衝撃波がレイの身体を無慈悲に刺した。元の回廊まであと1メ
ートルというところで、すぐ頭上に着弾した衝撃によりバランスを崩し床に倒れこみそうになったレイ
は、唐突に何処からか伸びてきた手に二の腕を掴まれ、恐ろしい程の力で曲がり角の向こう側、元
の回廊へと引き込まれた。右腕を吊られるように掴まれながらも、俊敏にハンドガンを取り出したレイ
だったが、直ぐに銃身を降ろした。

「…加賀一尉?」

 レイの問いかけには応えず、加賀は敵からの銃撃の間隙を縫っては曲がり角から身体をせり出し
ては、見事なシューティングポジションを作り応射している。

「…リーダー、お怪我はありませんでしたか?」
「…わたしは大丈夫、でも何故?」
「こちらで激しい銃撃音が聞こえましたので、慌てて来ました…作戦変更ってヤツです」
「………」
「SBCTの方は衣笠が要撃作戦に入りましたのでご安心を。側面からの侵入もちょっとしたトラップ
を張ってきました。これで暫くは時間を稼げるでしょう」
「…あなた達、ただの総務局員では無い……誰?」
「…現所属は総務局に相違ありません。ですが…」
「………」
「我々は、かつて諜報二課では、影、と呼ばれていました」



 銃撃でずたずたになったレンジローバーの陰から、散開した敵歩兵の内、左側面の歩兵を正確な
狙撃で無力化した衣笠は、キックペダルを踏み込みSUZUKIハスラーの心臓に火を入れた。数回ス
ロットルを煽ると目を覚ました空冷2ストロークエンジンがオイルを焼き、緑の中に白煙を撒き散らす。
更に煽ったアクセルと絶妙のクラッチワークで衣笠はハスラーをロケットのように発進させた。
 直後、前方で突如として浮かび上がった発光体が矢のように一直線にローバーへと吸い込まれた。
爆裂し、炎上しながら空に身を躍らせるレンジローバー。間一髪で直撃を逃れた衣笠は、ごうごうと
炎上するレンジローバーをバックにハスラーの前輪を大きく上げ、決死の表情でSCAR-Hをフルオー
トで其処彼処に散開する敵歩兵を掃射する。

(…RPG-29まで持ち込んでやがる…こいつら一体!?)

 忽ちの内に底をつく弾倉。ベルトにつけた予備弾倉を取りだそうと衣笠がスロットルから手を離した
時、すぐ傍で銃撃音が響いた。それは、極限まで研ぎ澄まされた精神状態にある今の衣笠の絶対
防衛圏たる間合いの中に知らず侵入されたと思わせるくらいに近距離からの銃撃だった。着弾の
衝撃で飛びそうになる意識と身体を鋼鉄の意思で衣笠は踏み留める。反射的にハンドガンを抜くと、
既にシューティングマシンの一部と化している衣笠は瞬時にトリガー絞り切ろうとする。が、汀でその
アルゴイズムを辛うじて止めた。
 鈍く光る銀色の銃身の先にいる敵は、まだあどけなさの残る少年兵だった。衣笠に向けた小銃の
銃身は小刻みに震え、眼前に突きつけられたデザートイーグルにより、その眼は死の恐怖で満た
されている。
 
「くっ!」

 馬鹿、伏せてろ! と少年兵を一喝するや、衣笠は少年兵越しに衣笠に狙いをつける二名の歩
兵を撃ち、再びハスラーのスロットルを絞る。矢のように疾走するバイクに向けて銃弾の雨を降ら
せるSBCT歩兵部隊。衣笠はRPG-29でハスラーの鼻先を狙う歩兵に向けてグレネードランチャー
を発射させると弾切れのSCAR-Hをブーメランのように敵兵に投げつける。持ち替えたハンドガン
で前方を塞ぐようにアサルトライフルを掃射する歩兵達に応射する。恐ろしい程の運動量のオフロ
ードバイクを自在に操る衣笠に敵歩兵は翻弄されるが、それ以上に鬼神の表情で立ち塞がる敵を
殲滅していく衣笠の姿に、歩兵部隊員は逆鱗にも似た本能的な怖れを感じた。それでも、衣笠の
身体の至る所に着弾した銃創にその隊員服は血で濡れそぼり、疾走するバイクの上でハンドガン
を握る手は意思から解放されたように垂れ下がり、いつしか一切の動きを停止しているようにも見
えた。前衛部隊を突破したところで、ストライカーまでの距離、およそ200メートル。ストライカーのプ
ロテクターM151システムが作動した。ブローニング社製M2重機関銃の長銃身が前方から急接近
するオフロードバイクに向けその照準を合わせようとした時、それに応えるようにハスラーTS125が
白煙を吐きながら、跳ね馬のように前輪を大きく上げた。耳を劈く排気音が緑豊かな丘陵地に木霊
し、傷だらけのグリーンカラーが陽光に映えた。最期の帳を降ろすように静かに停止するM151の光
学照準器。衣笠の顔に薄い笑みにも似た表情が浮かんだ気がした。そして、その次の瞬間、秒速
3,000フィートで撃ち込まれた12.7mm弾がハスラーごと衣笠の身体を引き裂いた。
 それでも時速百キロを超える猛スピードでストライカーに急接近していたバイクの勢いは止まらず、
原形を留めぬ残骸になりながらも、一直線にストライカーへと突入していった。バイクのフレームに
しっかりと弾倉ベルトで繋がれていた衣笠徹であったモノを巻き込みながら。一直線に、彼の終着点
でありゴールだった場所に向かって。その彼のゴールで、弾倉ベルトに装着されたC-4の近接信管
が作動した。




                     ▲▽▲▽   ▲▽▲▽



「あ、綾波…どうしたの? 気分でも悪いの?」
「………」

 思わず心配そうにレイの顔を覗き込むシンジ。二杯目の紙コップを飲み干したレイは、右手に
コップを握りしめたまま俯いてしまっている。レイの白い手の中で、紙コップはややモディファイ
されていた。

「…あ、綾波ぃ」
「………」

(…ど、どうしたんだろう)
(…やっぱ口に合わなかったのかな)
(…それとも、お腹が痛くなった、とか)
(だ、だったら、どうしよう…)

 だ、大丈夫? とレイに身体を寄せ、その背中をそっと擦ったシンジは、この世のものと思えな
い程の柔かさにおののいた。

「………たの」
「へ?」
「………」
「どどうしたの、綾波ぃ?」
「…無くなってしまったの」

「…………はい?」

 シンジの間の抜けた言葉に呼応するように顔をあげたレイ。朱を溶いた水面がごとく頬を染め、
瑞々しくも潤んだ深紅の眸をやや上目がちにシンジに向けている。近い、とても近い。
 そのまま覆い被さってしまいたい衝動を鋼鉄の意思で抑えたシンジは辛うじて視線を逸らせる。
 
「…な何、その、無くなったって」
「碇くん、はい、これ」
 
 これって、お水が欲しいの? とレイからペットボトルを受け取ったシンジは、小さく書かれた
『大吟醸』の文字に瞠目した。

「あ、綾波、いま飲んでるの……」
「……にほんしゅ。米とこおじを主げんりょうとしたアルコールがんゆういんりょう」
「ど、どの位飲んだの?」
「……分からない…たぶん三ばいめ」
「だ、だめだよ、綾波。僕たちは中学生なんだから…と、14年経ってたんだっけ? …いずれに
してもマズイよ」
「……そお? よくわからない」
「ちょ、ちょっと、高雄さんっ!」

 シンジが視線を向けた先で、高雄はその巨体をリノリウムの床に預け、シンジの問いかけに高鼾で
応えた。一升瓶を虎の子のように抱きかかえ背を丸めた姿は水揚げされたばかりの珍種の哺乳動物
に見えなくもない。まなじりに薄っすら付いた涙の痕は、拭いきれない大吟醸への想いの証か。
 
 と、とにかく、とふたたびレイへと向き直ったシンジは、触れ合うほどに身体をにじり寄せるレイに
忽ちの内に石化した。

「…あや、あやあや」
「碇くんと一緒に……の」
「…い、いや、だから」
「碇くん…嫌?」
「い、いや…そうじゃあ無くて…あ」

 少し視線を下げたシンジの目の縁にショパンの楽譜がかかった。食事中も離そうとしない楽譜を
レイは胸に添えるようにして持っていた。

「あ綾波、食べにくいからさ、楽譜はどこかに置いとこうよ」
「嫌」  
「で、でも、汚れちゃっても、そのイケナイからさ」
「…これは、二度と手離してはいけないものなの…だから、持ってるの」
「そ、そうかな…そうなのかな?」
「…約束だから……時が来れば…一緒に弾くって約束したから…」
「へ、約束?」
「…そう……今度こそ…」
「そ、その……だ誰との、なの?」
「…碇くん」
「えっ、ぼ僕!?」

 コクリと頷く所作を示したレイは、しな垂れかかるようにシンジにその身を預けた。慌ててレイの上体
を半ば抱きかかえるようにしてレイを支えるシンジ。例えようのないほどに柔かな感触に、そして実体を
感じられないほどの軽さに、爆裂寸前にまで高まる動悸の向こうに遠い過去の記憶が甦る。抱きしめて
しまいたい衝動を辛うじて堪えたシンジは、腕の中で静かな寝息を立て始めたレイを静かに見つめた。
そして、薄っすらと眦に浮かんだ涙の意味の糸口さえ見い出せないままに、愛おしさというコトバでは
表現し尽くせない感情のままに、その唇へと顔を寄せていく。
 無機質な音が小さく木霊した。慌てて我に返ったシンジはあたりを見渡したが、何ら異変を見い出す
ことは出来ない。いつの間にかシンジのポケットから床へと転がり落ちていたS-DATを除いては。




          
                 ■□■□ ■□■□


 まるで大地が爆ぜたとも思える爆発音に続いて、これまでとは異なる衝撃波が病棟全体を揺るがした。
軋む窓ガラスを前にして、衣笠の身に起こったことを本能的に察知したレイは、沈痛そうに表情を歪める
加賀を一瞥するや、玄関ホールへと駆けだした。

「リーダー、いけません!」

 加賀の叫び声が廊下に反響する。

「!」

 十メートルも進めなかった。前方の暗がりの中で蠢く何かが映り込んだ瞬間、嵐のような
機銃掃射がレイを襲った。粉砕するリノリウムの床。其処彼処で白亜の壁紙が爆裂し、紙吹雪のように
空中に拡散する。反射的に横に飛んだレイは、バランスを崩し壁面に身体を打ちつける。しかし、それでも
漆黒の敵に向けSCAR-Hの引き金を懸命に絞ったレイは、ありったけの7.62mm弾を送り込む。
底をついた弾倉をイジェクトしたところで、右肩に火がついたような激痛を覚えると、次の瞬間には着弾
による衝撃で、数メートルも後方に飛ばされていた。視界の中で仄暗い天井との狭間で炸裂した浮遊物
が浮遊している。ショック状態から脱しない体躯を起こそうと試みるが身体が反応を示すことは無く、感覚を
失った右腕にはライフルは無かった。それでも強靭な意志で上半身を半分ほど起こしたレイの視界の中に
湧いて出た敵兵。アサルトライフルを構え直すのが見て取れた。その距離、僅か数メートル。レイは次の瞬間
我が身に降りかかる出来事を予見すると、その紅く底光りする炯眼で敵兵を見据えた。

「!?」

 殺気を迸らせた兵士が構えたライフルから銃弾が発射されることは無かった。カチリと冷たい音が鳴り響く。
慌てて手許に視線を落とした兵士は、意味不明の罵りを尖らせた唇から吐き出した。気がふれたようにライフル
を床に叩きつけると、下品なベルトからファイティングナイフをぎらりと抜き出し、間髪をいれずレイに襲いかかった。
その間僅か数秒の間に、レイは辛うじて左手でハンドガンを取り出す事に成功した。しかし、野猿が如く奇声を
あげてレイに飛びかかる男の動きは速かった。男の暗い想念そのものの不吉な形状を有したナイフの切っ先は、
真っすぐにレイの胸元へと振り下ろされる。

「うおおおおおーー!」

 間一髪。ナイフの切っ先がレイの胸元を抉ろうとしたまさにその時、ライフルの銃床が男の横っ面に激しく打ち
こまれた。口から赤と白の塊を吹き出しながら壁面へと飛ばされた男に、鬼の形相に変貌した加賀がSCAR-Hの
トリガーを引き絞る。そして男が現れた通路奥の暗闇に向かって弾倉に残された7.62mm弾をフルオートで撃ち
込んだ加賀は、その弾倉が尽きるやレイの名を叫びながら我が子のようにレイをかき抱いた。次の瞬間、レーザ
ーサイトに真っ赤に染まった加賀の背に、無数のホローポイント弾が着弾する。

「加賀一尉!」

 またたく間に紅い霧に包まれる加賀の広い背。レイを庇い続ける加賀は、それでも呻き声一つ上げることは無かった。

「加賀……一尉」

 蜘蛛のように敵兵が暗闇から散開した。
 理解の及ばない感情に浸食されるレイ。
 まるで石化したように微動だにしなくなった加賀の身体の下、
 その両脇から血に染まったデザートイーグルの照準を敵に向ける。





「遅い…どうなんだ、作戦の進捗は?」
「は。…それが、先ほどから無電を打っているのですが、応答がありません」 
「我が部隊きっての精鋭だぞ…どうなっているんだ、一体」
「それが、彼女と一緒にいる保安局員がどうやら只の警備員では無かったようです。その、何か特殊な訓練を受けて
いたように思われますが」
「…ふん、それでSBCTでさえあの体たらく、というわけか……ネルフの二課別働班など、とうの昔に全滅させたというのにな」
「は」
「まあいい。乗り込むぞ。第3の少年の抹殺。その機能の殲滅をこの目で確認せねばならん――」  

 魁偉の中尉が下士官数名を伴い中央病院へと歩き出したその時、正面玄関のロビーが眩い光が満たされた。白亜の
光源から産まれ出た真っ赤な球体は、弾かれたように撃ちだされるや赤い尾を長く曳き、コンマ数秒後には士官達の
専用車だったジープを直撃した。轟音と共に火柱を吐き宙を舞うラングラー。成形炸薬弾から絞り出されたメタルジェットは
超超高速で周囲に存在するあらゆる物体を引き裂いた。殆どの士官達は爆風に飛ばされ、弾片の攻撃に晒された。深刻な
ダメージを受けた者の呻き声が其処彼処に跋扈する。

「…く」 
「…な、何なんだ。何がどうなっているんだ?」
「ロ、ロケット弾です」
「ば馬鹿な。RPGなど持っている情報など無――」
「…あるいは、我々の部隊から――」

 小隊長の目前で副隊長の頭部が西瓜のように砕けた。

「!!」
「伏せてください、中尉! そ、狙撃です!」
「ば馬鹿な。これほどの大口径の、ホローポイント弾、だぞ。狙撃に使えるライフルなど……まさか、ハンドガンで狙ってるのか、
この距離をか?」
「た…隊長」
「なんだっ」
「……出てきました、彼女です」
「!」



 原形を留めないまでに粉砕された玄関ロビー。そこに散乱したガラスを黒いブーツが噛む音が響く。
 真っ赤に染まったデザートイーグルを両手に吊ったレイ。
 いま血よりも紅く、底光りする双眸を真っすぐ部隊長に向けている。

「…き来た。彼女だ」  
「う、うわあ」
「ひっ」

 そこにいる殆どの兵士が、レイの姿に生体が持つ本質的な畏れを感じた。
 気圧されたように腰を落とすもの、ただ呆然と立ち尽くすもの、
 顔色を変え全てを放棄し今にも逃げ出しそうなもの。

 戦意を喪失した副長から無線機をもぎ取った中尉が震える腰を起こした。
 巨躯を小刻みに震えながらもレイを睨み据える。



「…衣笠一尉、加賀一尉。ふたりはただわたしを助けたかっただけだった」


「あ、アヤナミシリーズ…ば化け物が」


「…なぜふたりは死ななければならなかったの?」


「総員、撃ち方用意!」


「…そのふたりに守られた…わたしは」


「照準合わせ!」


「…何があっても」


「目標っ! 前方、アヤナミシリーズ!!」


「…ここから先には」


 血に濡れそぼり銃創の痕跡おびただしいレイの暗色のスーツが、無数のレーザーサイトで朱に染まった。
 
 レイの視界いっぱいに広がっていた丘陵地の美しい緑。

 それはいつしか深い紅へと染められていた。
 
  
「撃てーーー!」



















「…いかり……くん」








                     ▲▽▲▽   ▲▽▲▽


シンジが目を覚ますと、レイそして高雄の姿は消えていた。胡乱な頭を抱え、気だるげに上半身を
起こすと辺りを見渡した。テーブルに見立てた段ボールに載せられた鍋、そして茶碗の類は乾き切っている。
あれほど散乱していた酒瓶は高雄が片付けたのだろう。段ボールに捨て置かれた高雄の書き置きを眺めていると、
徐々に昨晩の記憶が甦ってきた。

(……そうだ…綾波)
(…昨日は喜んでくれたかなぁ)
(…初めてのお鍋だったけど…美味しいって言ってくれたよね)
(…そうなんだ…綾波に必要なのは…温かい食べものなんだ)
(…だから…これからも…)

 ひょんなことから実現したささやかな食事会だった。シンジには、レイに温かい食べものを食べてもらう事が、
以前のレイを取り戻せる一番の近道のような気がした。
 ふと、シンジの頭にイメージとして浮かびあがったレイの楽譜。食事の間も手離そうとしなかったあの楽譜だ。

(ショパン……ショパンのノクターン第20番 嬰ハ短調…)
(……)
(…それにしても)
(…僕と弾く約束したなんて…)
(…一体、どういうことなんだろう…)

 過去の記憶を反芻してみる。だが、思い当たる節は無い。
第10使徒との戦い以前、レイとピアノについて言葉を交わすようなシチュエーションは無い…。
そうなんだ、何よりここに来て初めてピアノに触れたんだ。あの渚カヲルという少年にピアノを奏でる楽しさを
教えてもらったのはここに来てからなのだ。

(………)

 とにもかくにもシンジは昨晩の宴会の後片付けを始めることにした。トレーのようなモノは無いので、
ひとつひとつ台所に手で運んで行くしかない。何往復目のことだろう、慎重に鍋を運んでいた時、何か異質
なものが視界を過ったような気がした。

「綾波?」

 とっさに顔を向けた通路の奥に佇むひとりの少女の姿。レイだと思ったのは、その髪の色が特徴的な
蒼色だったからに相違ない。

「…い、いや」

 違う。もっと小さな少女だ。そのくらいのことは遠目にも解る。ジッとシンジを見つめていた深紅の眸の
少女は、しばらくするとすぐ脇にある非常階段にその姿を消した。

「ちょ、ちょっと!」

 ここに来てどのくらい経ったのだろう。ここネルフの職員、その家族なのか? これまでに会った数える
程の人間以外に初めて見る人影に、シンジは咄嗟にその後を追っていた。
 重厚な扉を押し開け、非常階段を必死になって駆け下りる。どれだけ階段を下りても少女の姿をとらえる
ことは出来ない。確かにその気配を階下に感じるのだけれど蜃気楼のように追いつけそうで追いつけない
その少女の気配に待ってよと声を掛けるシンジ。気が付けば、いつの間にか最下層に到達していた。
 再び重い扉を開けて通路によろめき出たシンジの息は既にあがっている。そのシンジが顔を上げた先、
突き当りのドアの向こうに消える少女の後ろ姿を捉えたシンジは、一歩また一歩、糸に引かれるように
そこに向けて歩を進めた。

「…こ、ここは?」

 ドアの向こうはシンジの想像だにしない世界が広がっていた。地の底にも思えるそのエリアは、まるで
荒涼とした墓場だった。広大な空間一面に地底の亀裂のような溝渠が広がり、夥しい数の何かの遺骸
や白骨のようなもので満たされている。その暗澹たる溝渠から湧き出でている瘴気と何かが発する呻き声
のような震動が、この広大な空間全体を揺らしつづけている。
 ふらりとその中に足を踏み出そうとしたシンジ。だが、後ろから腕をはっしと掴まれ我に返った。シンジが
振り返ると息を切らした高雄が立っている。朝食をシンジとレイに届けようとしたまさしくその時、血相を変えて
非常階段へと消えたシンジの姿を見てここまで追い掛けてきたのだという。
 今まさにシンジが侵入しようとしたこのエリアについて、過去に何人も職員が行方不明になっていること、
そして現在は立ち入り禁止区域になっていることを口早に説明すると、シンジの手を引き早々にそこを後に
しようとする高雄。でも…と、ここまで追いかけてきた少女のことを話したシンジだったが、寝惚けたんじゃ
ねえのかと軽くいなされてしまった。

「さあ、早く戻ろうぜ。ここはどうにも寒くていけねえ」
「は、はい」

 高雄に続いて非常階段のドアをくぐろうとした時、何かしら気配を感じて振りかえったシンジ。
だが、静寂につつまれた通路のどこにも何も見つけることは出来なかった。




         
         ■□■□ ■□■□

 高度二万フィートに散在する雲をかき分け飛翔するヴィレ主力艦隊。インド洋上空に差しかかった
ところで、突如AAAヴンダーの戦闘艦橋は大きく揺れた。非常モードに切り替わった艦橋を
シグナルライトが真っ赤に染め、湧き上がる高位の警報は極度の緊張を慣れない乗員に強く
こととなった。

「何、一体!? またネーメズィスシリーズが?」
「…え、A.T.フィールドです!」
「ゼーレの少年? 場所は!?」
「…いえ…違うと思います。現在、発生場所を解析中、ですが、もっと強力な…」

 使徒、という言葉は飲み込んだ。慌ててはいけない。最期の使徒は封印されているのだ。あの槍で。
そしてその事実はリリスの結界の為に現認することは出来ないが、その結界が破られていない以上、
いまだ封印されていると考えるべきなのだ。ターミナルドグマの状況はネルフに潜らせている間諜から
断続的に入ってくる情報を信用するしかない。

 どよめく艦橋の片隅でモニターを凝視していた日向が失望の色を濃くしていく。

「ダメです。直ぐに消失した模様。パターン分析不可能」
「ゼーレの少年ではない。…でも第12使徒は……だとしたら」
「発生場所が特定できました」
「どこ?」
「ネルフ…ネルフ中央病院、です」
「病院、ですって?」 

 心の底で恐れていたターミナルドグマでは無かった事実に胸を撫で下ろしたのも束の間、
それでは、と別の可能性を考える。渚カヲル…あの少年によるものでは無い。それこそ、今ヴィレで
進行中の作戦は無いのだから。

「概ねですが残滓熱量によるエネルギー質量の評価が出ました。恐らくは可視出来るレベルの
A.T.フィールドが展開されたようにと思われます。ですが……これは」
「何?」
「…いえ、零号機にエネルギー波形が酷似しているように思われますが」
「……」

 大地に振り下ろされたネーブルの鉄槌。一瞬の攻撃だったとはいえ、そのエネルギー質量から
考えても、その一撃はそこにあった物理的な構造物を焼き尽くしたに違いない。そして、中央病院
にはシンジが収容されているのだ。何らかの形でかかわっている。恐らくは。

「…零号機」

 零号機のA.T.フィールドが確認されることなど有り得ない。かつて零号機と呼ばれた
エヴァンゲリオンはもうこの世に存在しない。その機体は14年前に第10使徒に捕食されてしまった。
N2弾を抱えたまま捨て身の攻撃に出た第1の少女、綾波レイ、もろともに。
 だとすると…何だったのだろう、一体。こんなに強力な、そしてAAAヴンダーの主機たる初号機
がこれほどの反応を示したA.T.フィールドをいったい誰が展開したのか。何の目的で。

「葛城艦長」
「何か、赤木副長?」
「解ったわ。これよ」

 ミサトの前に差し出されたメモ。そこにはヴィレ内旧UN勢力による秘匿通信文書がコピーされていた。
素早く読み通すと、表情を動かさずに握りつぶす。

「彼らの独断によりジオフロントに侵入させた一個小隊は全滅した、ということね。目的は勿論、
フォースのトリガーとなるべき碇シンジ、その抹殺。SBCTまで投入して、しかも識別信号までネルフ
のものを使用するという念の入れよう。…でも、この内容からすると、彼らだけじゃ無いようね。ヴィレ
から脱走離脱した旧UNの部隊は」
「……」
「そして、彼らのターゲットは碇シンジただ一人。全ての刃は彼に向けられている」
「……」
「元々彼らがヴィレに合流した理由はただ一つ。フォースを食い止めるにはそれがベストだと判断
したから。でも、US作戦での初号機の12秒間の覚醒、そしてミサト、あなたの欺瞞を見てしまった
から。だから…決断した」
「フォースインパクト」
「ミサト?」
「…フォースインパクトは絶対に起こさせない。あたしはあたしの方法で喰い止めてみせるわ。
どんな犠牲を払ってでも」

 ネルフに戻ったシンジは真実を知ることになるだろう。熾烈を極めたあの第10使徒との戦いの末に
起こったニアサードインパクトのこと。第11使徒、第12使徒とのドグマにまで及び、パイロットにも多く
の犠牲を出すに至った凄惨なまでの戦い。そして遂に発生したサードインパクト。それは、『彼女』によって、
止められたけれど、今の世界がどのような状況になってしまったのかを目の当たりにするに違いない。
そして、それを見たシンジは絶望し、自らを追い詰め、何もかも限界ぎりぎりのところでもたらされる
甘言に縋り、再びエヴァに乗ることになるのだ。そして、そのプログラムは既に走り始めている。
シンジにとって恐らくは救済そのものとなる新たなエヴァンゲリオンは、間諜からの情報では複座エントリー
だという。…それにしても、と思う。何故、『第13号機』なのか。

(…何かあるわ。絶対に)
(…だから、あの男のシナリオに乗せる訳にはいかない)
(…そして、なりふり構わずトリガーとしてのシンジ君の抹殺を企図するUNの連中に先を越される前に、
第13号機を殲滅する。今はそれしかない)

「…この、A.T.フィールド」

 沈ませていたミサトの意識を吊り上げたのはリツコの呟きだった。日向のモニターに映しだされた
先ほどのA.T.フィールドの分析結果を見入っている。

「…いえ、まさか、そんな筈は…」
「赤木副長」
「……」
「リツコ?」
「あ、葛城艦長、ごめんなさい」
「どうかしたの? 何か?」
「…いえ、何でも無いわ」
 
 そう、この崩壊した世界を目の当たりにしても、シンジを絶望の淵から救済し、既定のプログラム
から解放される条件が、ただひとつだけある。

「…綾波レイ」

 あらゆるものの犠牲を覚悟してまで、第10使徒からシンジが助け出そうとした少女。シンジにとっては、
世界中でたったひとり、その少女の存在そのものが希望なのだから。だから、あの男の命を受け奪取に
来たアヤナミレイにシンジはその身を委ねてしまったのだ。

(…でも、シンジ君。あなたが付いていったのは)
(…レイでは、ないのよ)
 


(…レイ…どこに行ってしまったの?)





                     ▲▽▲▽ Moon Beams ▲▽▲▽


 傾き始めた太陽がその表情を少しづつ変えていく。
 陰影の狭間を白から朱に変えゆくケージの底で、いつものようにシンジとカヲルはピアノの前にいた。

「シンジ君、今日はここまでにしとこうか」
「え、あ、そうだね」

 夕間暮れの迫る空を、意外そうな顔でシンジは仰いだ。

「なんだか。時間が経つのが早いや…どうしてだろう?」
「それは、君がそれほど音階の会話を楽しめているってことだよ」
「そうなのかな…そうかも知れない」
「僕たちの連弾もいよいよ完成間近になってきたからね…きっとそうなんだよ」

 静かに腰をあげるカヲル。

「僕はもう戻るけど…君はどうするんだい?」
「もう少し練習してから戻るよ…反復練習が大切だからってカヲル君が教えてくれたからね」

 にっこり微笑むとカヲルは後ろ手をシンジに挙げ、その背を暗がりの中に消した。   
 カヲルを見送ったシンジは椅子を直すと、改めてヤマハCFVに向き直る。夜の帳に覆われるまで
時間は無い。シンジはその意識を深い場所へと落としていった。カヲルと創り上げた二人の解釈に
届かせるために。その全ての神経を………。目の前の鍵盤の先……。…………。


 
「え、あ!? しまった、すっかり暗くなっちゃってる。そろそろ戻らなくちゃ」

 どの位の時間が経過したのか、ピアノまわりを光を落とすスポットライトで気付かなかったが、
ケージ上空には月が蒼白く輝き、零れ落ちそうな星が満ちていた。
 少しのあいだ腰を浮かせ天空を見上げていたシンジだったが、慌ただしく帰り支度を始めた
ところでピアノの脇にあるラタンチェアに身体を預ける人影に気が付いた。

「あ、綾波?」  

 柔かな月明かりの下、煌めくプラチナブルーの髪が揺れている。
 その少女は閉じていた目をゆっくり開くと、シンジに真っすぐな視線を送る。
 どこまでも深遠なるスカーレットの瞳。

 いつからいたんだろう。渚君がここを離れるときには、空席になっていた筈の空色のラタンチェア。
つまりその後、僕が練習に熱中している間にここに来たって訳なのだろうけれど。

「…碇くん」
「ど、どうしたの、綾波?」
「ピアノの音が聞こえたから、だから」
「ごめんよ、熱中しててさ、気付かないで。でも、声掛けてくれたら良かったのに」
「…ごめんなさい」
「い、いや。綾波は、その、全然悪くないから、さ…そうだ、折角だからさ、綾波も弾いてよ」

 ほらその、とシンジはその視線をレイが胸に抱くショパンの楽譜に送った。
 片時も離そうとしない相当にくたびれたその楽譜について、シンジはその所以など何も知識として
持ち合わせてはいない。だからだろうか、シンジは無性にレイのノクターンが聞きたくなった。

「…分かったわ」

 ピアノの前に静かに腰掛けるレイの後ろで、シンジはラタンチェアに腰を沈めた。まだ残っているはずの
レイの体温は消失していた。その天板に蒼白い光を湛えるCFVの上で、あつらえたように古い譜面が
夜風に吹かれている。鏡面に写るレイの夜目にも白い指は鍵盤に添えられ、その表情をシンジの位置
から見て取ることはできない。天からの授かりもののように一葉の葉がふわりと舞い落ちてきた。それが
CFVの天板に届けられたとき、儀式の始まりにも似たヴォイシングがケージの中を振るわせた。
 
(ショパン…ノクターン第20番…)
(………)
(…約束だからって言ってたっけ)
(………)
(……時が来れば…)
(…一緒に弾くって…どういう意味なんだろう)
(…僕と一緒にって…どう――)

 切なくも厳かに流れていた旋律は突然消え入るように途絶えた。顔を上げたシンジの視界の中で、
レイの両の手は膝の上に行儀よく揃えられている。

「え? …どうしたんだい? 何で止めちゃうんだよ、綾波ぃ」
「……」
「それにしてもスゴイや。綾波、こんなに弾けちゃうんだ」
「碇くん」
「ど、どうしたの?」
「今のままでは…完成することは、無いの…」
「そ、そんな筈――」
「……弾いて欲しい」
「…へ?」
「…碇くんにも、弾いて欲しい」
「…え、ぼ僕が?」

 頷いたレイにシンジは少なからず狼狽した。
 カヲルと練習している曲の完成は近い。今、その為に自分のパートを日々高めていくのに
一杯一杯の状態だ。勿論、レイのノクターンを聴いてしまった今となっては、出来る事なら連弾で
弾きたいと思う気持ちはあるのだけれど、カヲルとの連弾を完成させた後にお願いしたいというのが
正直なところだ。
 シンジの様子を見て俯いてしまったレイに、シンジは輪を掛けて慌てることとなる。

「わ、解ったよ、綾波」

 僕はこっちで、とシンジはレイの隣にそろりと腰を降ろした。決して密着し過ぎないように。
 驚いたように顔を上げたレイは子供のように表情を輝かせる。そんなレイの表情をここに来てから
シンジは初めて見た気がした。そして慌てて視線を譜面に移動させた。

「ででも、その譜面を見ながら、ゆっくりでないと弾けないからさ…その、合わせて貰ってもいいかな?」 
「うん」

 探るようにシンジが単音で鳴らしたC#に絶妙のタイミングでレイに重ねられた和音がケージを震わせる。
 ゆっくり拙くも音を紡いでいくシンジに、その右手で流れるように旋律を重ねていくレイ。
 時折り、シンジが探しあぐねたアルペジオの音をレイが左手でフォローする。
 ふたりの初めての夜想曲が、つたなくも、それでも新鮮にケージを振るわせた。
 ふたりが構成していく一音一音が、零れおちそうな満天の星空に吸い込まれていく。

「ごめん、綾波……こんなんで、その、よかったのかな?」
「うん」
「だったら…良かった…。でも、時間を見つけて練習するよ。せめてもう少し上手に弾きたいから。だからさ…」
「…?…」
「よかったら…また一緒に弾いてもらっても、その、いいかな?」
「うん」
「…碇くん。これ」

 レイから差し出されたのは、シンジにも見覚えのある真新しい楽譜だった。先日、購買部で一緒に
購入したものだと直ぐに解った。

(…同じノクターンだから、今のが古くなったからだと思ったけど)
(…でも、これって、これで練習しろって事だよね)

「…でもいいのか、綾波。折角、苦労して探し出したのに」
「構わないわ。…これまでは、わたし一人では見つけることが出来なかったもの。だから」
「そうなんだ…じゃあ、とにかく借りるよ…あのさ、綾波…聞いて欲しいんだけど」
「なに?」
「その、以前カヲル君が言ったんだけどさ…」 
「………」
「…一緒に弾き始めたときなんだけど、音、音が気持ちいいって」
「………」
「その時はよく解んなかったけど。今はなんだか解るような気がする」
「…そう」

 そう。確かに今日は解ったんだ。綾波の音が気持ち良かったんだ。
 綾波と一緒に弾いていると、何だかピアノを弾くこと、音を合わせることがとても簡単に思えたんだ。
 これって、この感じ。近くにいるとどこかで繋がっているこの感じ。そうなんだ。14年前の戦いの前、
綾波といるときに、ずっと感じていたんだよ。…どうしてこれまで忘れちゃってたんだろう。

 吹き下ろされた夜風がくたびれた楽譜を静かに揺らせた。今更ながら、周囲を包みこむ夜の気配に
気が付いたシンジは、レイを促し早々にケージを後にすることとした。

「そうだ、綾波。教えてほしいんだけど」
「なに?」
「ここで小さな女の子って見かけた事はある?」
「…小さな…女の子?」
「うん。こないだ夕食の後片付けをしてたらさ、ずっと僕の方を見ててさ」
「………」
「ここでは殆ど職員やその家族なんて見かけないんで、後を追っかけたんだけど、その子ったら地下
の廃棄場みたいなところに入って行ったんだけどさ」
「………」
「結局、そこで見失っちゃったんだ。ただ、立ち入り禁止って高雄さんからも聞いたんで、少し心配に
なってさ…」
「…碇くん、その子…」
「…そう、綾波に少し似てたような気がする。遠目だったんではっきりとは解らなかったけど……」

 シンジの名を呼んだレイの声は、シンジがこれまで聞いたこともない程に堅いトーンだった。
 一切の生気を失った氷のようなトーン。いかなる感情をも見い出す事ができないトーン。

「…その子には関わらないで…」
「え?」
「そして…二度と、その場所には行かないで……お願い、だから」



 
 陰鬱な空間にエアロックドアの音が響いた。司令室に姿を現せた銀髪痩身の男は、広大な空間から
嘗ての初号機専用ケージを俯瞰できる窓際へと足を進めた。

「ゼーレの少年と第3の少年とのピアノの連弾は相変わらず続いているようだな」
「…ああ」
「そして、そろそろ見せるのか? 外界を?」
「………」
「…まあいい。その後に真価を発揮するのだろうからな、今の二人の関わり合いがな」
「………」
「全てはお前のシナリオ通りに進んでいるのだからな」
「………」
「それで、レイとのピアノ連弾はどうするのだ? もうすでに何度か繰りかえされているようだが、
レイのタイムリミットを考えると、今更無駄なことだと思うのだがな」
「………」
「お前のシナリオには無い、何ら意味を為さないことなんだろう…好きにさせていてよいのか、碇?」
「…今は、それでいい」
「…いずれにしても、最後の執行者の発動で、その関わり合いも消失。そう考えるか…」
「………」
「それでも第3の少年は、レイをあの『綾波レイ』だと信じているのだぞ。全てとは言わないが、そろそろ
真実を伝えてはどうかと思うがな…」
「………」




     ■□■□ ■□■□


 遥か彼方で流れている旋律。
 浮いては沈み、またしばらくして顔をだす。
 ピアノの調べ。 これは何? これは何? 
 これはノクターン。ショパンのノクターン。 
 誰が弾いているの? 解らない。でも良く知っている気がする。 
 いつも感じていたこの感じ。懐かしい感じ。 
 誰、あなた? 渚君? いつもの旋律。でも、少し違う気がする。 
 誰、あなた? 碇司令? 違う。この感じ。胸の中のこの感じ。 
 …碇くん? 碇くん、なの? どこで弾いているの?
 あなたのこと、知ってる。ずっと知ってる気がする。 
 何かとても、とても大切な約束があった気がする。
 わたし……とても大切なことを思い出せないでいるような気がする。
 わたしにはそれほど時間は残されていないの。
 でも…碇くん……あなただけは…。

 
 検査機器がひしめき合うその部屋は、まるで旧世紀に見られた学校の保健室のようだった。
 そこに押し込められた貧弱なパイプベッドの上ではレイが静かな寝息を立てている。
 中央病院が先の戦闘によって半壊の憂き目に遭った状況下、大深度地下施設の更に地階
にあるこの医務室に負傷したレイは収容された。そして、そのベッドの傍らには千代田ユキが
付き添いかいがいしく看護している。
 意識を集中しないと感じ得ない程に小さな寝息に、不安を感じるユキは時折り生体情報モニター
を凝視してはレイの手を握りなおしては、その柔かさに心を痛めた。
 当然のことながら、ユキはこの部屋の存在を知識として持っていなかった。半壊した中央病院
から、駆けつけたカヲル率いる部隊員の手助けを得て入院患者と共に脱出したユキは、あまりの
変貌を遂げた一帯の状況に声を喪った。中央病院の正面玄関は原形を留めておらず、その前面
は丘陵へと伸びる道から駐車場にかけて大きく抉れ、なおもうもうと白煙を吐き続けている。辺り
一面にに散在する残骸を判別することは出来なかった。が、そこにいかなる生体反応も確認できない
ことだけは理解できた。
 ここにきてユキは戦闘の終焉を知るに至ったのだが、レイの姿が見当たらない。戦闘の後処理に
奔走する顔見知りの保安部の隊員を捕え、やっとのことで本部に搬送された事実を掴んだが、
なぜか面会の許可が下りない。正確には高位のセキュリティパスが必要な大深度地下施設に侵入
する事が出来なかったのだが、そこでユキは婦長としての役職を最大限に活用し副司令に直談判
するという非常手段に出た。それもかなり強烈なレベルで。そんなかんなでやっと入手できたパスを
根拠に今ここにいるのだが、もしかすると踏み入れてはならないエリアに入り込んでしまったかもしれない。
しかしユキにはそんな事はどうでもいい事だった。それよりもレイが気がかりだった。負傷の程度にも
よるけれど、今のネルフで的確な治療を施すことが出来る人間は限られている。そして何よりレイの
ことを本当の意味で理解しているのは自分を含めた数名しかいないのだ。もう赤木博士はここには
いないのだから。
 だからこそ、わたしがやらねばならない。総務局員に扮した二人が命を賭して守ったレイの命は
わたしが守り抜く。レイの役割の全うを自分だけが為し得る手段でサポートするという自らの矜持
のため。そしてそれは、あの仲間達との約束でもある。

 …レイちゃん。あなたはほんとうに変わらない。今回も、シンジ君を守ったのね。 

「どうなのだ、容態は?」

 硬い靴音とともに低いトーンが室内に響いた。この旧式の部屋にはエアロックドアといったものは無い。
その声の主に挨拶を返したユキの表情は硬い。

「今は安定しています。幸いにして銃創による負傷は軽傷。ですが、それ以外の無数の負傷箇所に
ついては治癒にしばらくの時間を要しますわ」

 そうか、と掠れた声を返したゲンドウの表情を盗み見る。照明の加減か、いつもより陰影を濃くした
ゲンドウは憔悴しているように見てとれた。
 それでは、私はいったん中央病院に戻りますわ、と机からファイルを取り上げたユキの視界に一人
の少年が入った。戸口に背を預け腕を組んでいる。プラチナシルバーの髪の下で表情のない眸をベッド
のレイに向けている。その外観と第一印象を時に綾波レイと重複させるこの少年。口を開けばおよそ
14歳とは思えない滑らかな饒舌さは、その少年の印象を一変させる。そして、まるで真実を知りえる
者だけが許された老猾な微笑を浮かべると、緋色の炯眼が正対する人間にあらゆる策謀を諦めさせ
るのだ。
 それにしても、いつからいたのか。この少年なりにレイを心配しているのか。

「…渚くん」

 ユキに丁重なお辞儀を返したカヲルは、部屋を出るユキと入れ替わるようにベッド脇へと足を進める。
ゲンドウに肩を並べると、ふたたびその視線をレイに落とした。計測機器の作動音だけが空気を揺らし
続けている。

「…お解りだと思いますが、あのA.T.フィールドは僕のものではありません」
「………」
「わずか一閃の展開でしたが、敵主力部隊は瞬時にして蒸発。後方に控えた補給要員までがその衝撃波
で無力化されるほどの凄まじい拒絶エネルギー」
「………」
「これは、彼に危害を加えようとする如何なるものに対する絶対的な拒絶の意思表示」
「………」
「…彼女です。今でも彼女はシンジ君のそばにいて、彼を守っているんです」




                     ▲▽▲▽ ▲▽▲▽


 白色蛍光灯が影を産まない無機質な部屋。そこに据えられた簡易ベッドの上で、シンジは凍えるように
その背を丸めている。両耳をS-DATから伸びたイヤホンと両手で塞ぎ、世界中の一切の情報を拒否する
ように。今シンジの中を大きく何度も何度も流れ巡っている『現実』、たった今目の当たりにしたばかりの
世界の状態と真実にシンジの魂は大きく揺さぶられていた。

 ここに来てどれだけの日が経過したのだろう。僕はただ14年の間の変化にずっと戸惑っていて、訳が
わかんなくて、そうなんだ、何が何だか解んなかったんだ。それでも綾波がいてくれて、あの時、助け出して
いたことが嬉しくて、それで少しづつだけど昔の綾波を取り戻せているような気がして……それが嬉しくて。

 でもずっと気になってたんだ。高雄さんのあの話を聞いた時から、ずっと気持ちの中に不安の影を作ってきた
んだ。でも、僕は他に本を探したりピアノをやったりやるべき事が色々とあったんで…それに目を向けることが
出来なかったんだ。そうなんだ、そんな余裕なんて無かったんだ。でも、あの日、新しいシャツが支給されて、
トウジの名前が入ってたんだ。それでその時、解ったんだ………綾波や渚君との楽しい時間の狭間でときおり
顔を出す不安が途轍もなく大きくなっていたってことに。

 あそこにいた皆がどうなってしまったのか、それを知るのが、とても怖い。怖かったんだ。



 『…な…なんだこれ?』

 カヲルの導きにより初めてネルフ本部施設から足を踏み出したシンジは、雲の切れ間から眼前に広がった
外界の状況を目の当たりにし、言葉を喪った。
 サードインパクトに見舞われた世界は、シンジの想像を遥かに凌駕し、その形状を異質なものに変えていた。
紅く変質した大地は嘗て科学の粋を集めて構築された文明社会もろともに引き裂かれている。遺骸として其処
彼処に散在する見たこともない巨人達に蹂躙の限りを尽くされたかのような眼前の世界。一面が緋色に沈んだ
外界の大地。そのどこにも生体の息吹は感じられない。まるで天空から突きおろされた巨大な十字架を見上げ
ようとしたシンジの視界に、不吉に血を滲ませる月が浮遊していた。

 僕、僕が初号機と同化していたって? その間に起こったサードインパクトの結果だって?
 サードインパクトのきっかけが僕だって…ただ綾波を助けようとした僕のせいでサードインパクトが起こったって!?
 そ、そんなこと言われても! 突然そんなこと言われても!!
 人類補完計画…大量絶滅だって? 街の皆を、皆を…この、僕が…この手で!?

 反芻される事実と外界の現実、そして受けとめきれない感情のせめぎ合いは、シンジの内奥でその魂を激しく
揺さぶりその情緒をずたずたに引き裂いた。呼吸は乱れ、辛うじて倒れ込んだベッドの上で、全てを遮断し体躯を
膠着させるほかなかった。

(…なんでだよ…)
(…こんなことになってるなんて…)
(……僕の罪、だなんて…)
(………)
(…そうだ、綾波を助けたんだ。…それでいいじゃないか)

 永遠とも思える思考の反芻の中で唯一の出口を見出したシンジは、ベットから辛うじて身体を起こした。汗で
シャツが上半身に貼りついている。まるで夢遊病者のような足取りで部屋を抜けると、思わぬ人物をそこに見た。

「…冬月、副司令?」
「第3の少年。少し話したい事があるのだが、時間はあるか?」
「あ、はい」
「結構だ。それでは付き合いたまえ」





「…碇くん?」

 実験を終えたレイが待機場に戻ってくると、シンジがいた。積み上げられた本の脇で膝を抱えながら
顔をうずめていた。レイが近づくと、ゆっくり上げられたシンジの顔はひどく憔悴している。

「…昨日はゴメン…ピアノの練習に行けなくて」
「…構わないわ」

 積み上げられた何冊の本から一冊を手にしたシンジは薄く笑った。入口から覗いているレイの寝袋の
傍に、読みかけらしい本が置かれている。

「…綾波、少しづつ…本…読んでくれてるんだね」
「綾波レイなら…そうした、から」
「……」
「……」
「…ねぇ…君は…綾波だよね?」
「そう、アヤナミレイ」
「だったら…だったら、あの時助けたよね?」

 レイに不安めいた表情がうまれた。しばしの逡巡の後、蚊の鳴くような声をレイは絞り出した。

「……知らない」
「!?」
「…知らないの…ごめんなさい」

 シンジは腰を上げることも出来ずに頭を抱え込んでしまった。しばらくの間、肩で息をした後に
苦悶に顔を歪ませながら壁に手をつき辛うじて立ち上がる。

「碇くん」

 レイと目を合わせようともせず打ちひしがれたようにその場を後にしたシンジ。その座っていた
床には、レイからもらった楽譜が残されていた。
 不安の色を色濃く浮かべるレイは、立ち去って行くシンジの後ろ姿をただ見送る事しか出来なかった。

「…助けてなかったんだ……綾波…」




 セントラルドグマ内大深度地下施設。仄暗い空間の中で、ある種異様な雰囲気を醸し出す施設は、
微かな振動と不整脈にも似た作動音を産みだし、そのエリアの中を漂わせている。そして、その中心部
に据えられた円錐状のガラスチューブ。そこに満たされたLCLの海でレイはたゆたう。

 ここはわたしの存在の根拠。
 わたしはここで構成されて、ここに還っていくの。
 ここにいれば苦痛は無いの。
 ここにいればどんな傷も癒されるの。
 ……でも。

「…ここでの措置も今日が最後だな、碇?」
「ああ…第13号機による執行はもう目前に迫っているからな」
「初期ロットもいよいよもって、その役目を終える、か」
「…その通りだ…ユイの情報だけが受け継がれれば、それでいい……後期ロットで事は足りる」

 控えめなブザー音が鳴った後、そびえ立つ巨大な設備から断続的にデータが吐き出され始めた。
待ち侘びる冬月は苛立たしげにデータシートを手に取ると、とたんに眉間のしわを深くした。
 少しの静寂の後、これは良くないな、と呻くような声が霧散する。

「……」
「ふむ…果たして、最期の任務までもつものか…」
「…レイの事なら心配は無い。命令は問題無く遂行される。その為に引き継がせてきたのだからな」
「確かに…ここに来てもなお生体維持に最低限必要なA.T.フィールドを維持できている…他の複製体と
相違するところか、だが、しかし…」
「どうした、まだ何かあるのか?」
「…うむ…いや、これまで見たこともないノイズが出てきているでな。…まあ、無視できるレベルと言えるか」
「………そうか」

 ガラスチューブからLCLが排出されると、いつものようにゲンドウはバスローブをレイに手渡す。

「レイ」
「はい」
「この後の司令室への出頭は省略して構わん。待機場で休むがいい」
「はい」
  
 勤務解除を言い渡されたレイは更衣室へと急いだ。歪んだロッカーを開け放つと、ごわついた
バスタオルで身体にふいた。手際良く、それでも丁寧に身体の隅々にまで纏わりついたLCLを
拭い取る。清楚な下着をつけたところで、斜め前方の鏡に向き直ってみる。

(………)

 いつからだろう。自らの姿をこうして鏡に映しだしてみるようになったのは。何故、こんなことをして
いるのか。こんな意味の無いことをどうしてするようになったのか。

(……わからない)

 その時だった。突然、レイは激しい頭痛と眩暈に襲われた。手をついたロッカーから金属が軋んだ
嫌な音が響いた。だが、そんな異音を聞き咎め、異変に気付く人間は、少なくともこの部屋には存在
しなかった。誰もいない薄暗い空間の中心で、冷たいロッカーにその身体を寄せるレイは、ただひたすら
に耐えた。

 …行かなくてはダメ。もう時間が無い…だから行かなくてはダメ。

 全身が分裂し、崩壊しそうなまでの苦痛に襲われながらも、やっとの思いで制服を身に付けたレイは、
楽譜を鞄から取り出すと、覚束ない足取りでケージへと足を向けた。


 漆黒に覆われたケージの底では、まるで忘れ去られたようにピアノが佇んでいる。夜を薄める満天の
星空の下、毎日のように様々な旋律を産みだしてきたヤマハCFVは、その天板に蒼い光を溜め、息を
潜めている。
 そのピアノの前で、恐らくはもう二度と音を通わせることの叶わない少年がやってくるのを、レイはただ
ひたすらに待ち続けた。おとなしく揃えられた手は膝の上に置かれた二冊の楽譜に添えられている。

(…そう。もう間に合わないのね)

 おもむろにピアノを奏ではじめるレイ。荘厳なヴォイシングに切なげな旋律が絡んでは闇に溶けこんで
いく。それほど時間をかけることは出来なかったけれど、シンジと一緒に完成寸前にまで高めていった
ショパンの夜想曲。そのシンジとの連弾のイメージを、シンジのタッチをレイは追う。その解釈の一音
たりとも逃さないように。鍵盤に落ちた雫を見て、レイは自分が泣いていることに気がついた。

 およそ属性を異にする音が、ふたりの旋律を引き裂いた。携帯端末からの非常招集だった。




       ■□■□ ■□■□


 ケージの底でひっそりと眠りにつく黒き筐体。その脇で闇に紛れていたラタンチェアは魔法をかけられた
ように空色の輪郭を露にした。凛とした旋律のはじまりとともに小さなステージに放たれた淡いライトは
プラチナシルバーの髪の少年を際立たせると、その音階を世界中に解き放った。

 アラベスクそして月の光へと。星空の下、時間を喪いし漆黒の世界でめくるめく少年のひとりぼっちの解釈が
流れていく。漆黒に滲んだ水色のインクのようなラタンチェアで瞑想するように聞き入る制服の少女。
 先の戦闘で少なからず負傷を負ったレイがベッドから起き上がれるようになったのはつい昨日のことだったが、
包帯が未だ取れない状態での大深度地下施設におけるテストを終えるや、待機場に戻る前にこの場所に足を
向けたのだった。シンジと入れ替わるように現れたレイにカヲルは少し意外そうな表情を浮かべたが、すぐに
いつもの笑顔でレイに椅子を勧めたのだった。
 静から動に。弾けるように旋律が切りかわる。

「…Quatre Mains」
「そう。よく解ったね」
「以前も、弾いていたわ」
「そうだったね。…シンジ君がその気になってくれたからね」
「……」
「彼には幸せになって貰わないとダメだからね…そしてその為に僕がなすべきこと」
「……」
「だから、僕にとっては…この曲が必要だったんだ」
「……」

 とてもカヲル一人の演奏とは思えない程に旋律が激しく優雅に荘厳に流れていく。
 そして、その旋律は新たな音階に溶けこみ、いつしか夜想曲にその調べを変えていた。
 ノクターン第20番。ここケージの底でカヲルがよく聴かせてくれた曲。
 レイはこの曲が好きだった。
 静かに瞑目すると、意識が体の内奥に沈み込んでいく。
 信じられないまでにぽっかりと穴のあいた胸のなかで、これまでに無く旋律が響きわたる。
 
 ふっと演奏が途絶えた。それはほんとうに蝋燭が潰えるように。

「?」
「……」
「…渚君?」

 項垂れたカヲルは片手で顔を覆っていた。

「渚君!?」
「…いや。何でも無い」

 そのままの姿勢でレイに向き直ったカヲルの顔は夜目にも白い。

「…ただの眩暈さ。大丈夫、問題無いから…それよりも」
「…?」
「君も…弾いてみないか?」
「…わたし、が?」
「そう」

 空色のラタンチェアに腰をかけたままレイは項垂れてしまった。
 蚊の鳴くような声で、わたしは、と言ったきり言葉の穂を継ぐことができない。

「そんな気になれない、かな?」
「……」
「…加賀さん、そして衣笠さんのこと、だね?」
「……」
「とても勇敢なお二人だった。君を守り切り、自らの役割に殉じ散っていかれた…」

 そう、あのふたりに守られたわたしは、いまココにいることができる。でも…。
 
「でも…わたしに力があったなら……最後の最後に渚君が、碇くんとわたしを助けてくれた、
あんな力があったなら…」
「…A.T.フィールド、かい?」
「……」
「…解らないかい? あのA.T.フィールドは君が…君の想いが呼んだものなんだよ」
「……」
「そして、お二人の想いもまた君の中に生き続ける。そして、その分、君は強くなれるんだ」
「……」
「君が、そう…その望みを成就する為にね」





 解らない。なぜ突然こんな気持ちになったのか。どうして彼女にピアノを弾かせようともちかけたのか。
 …そして、眩暈の後で、突如として現れたあの既視感はなんだったのだろう。

(………)

 ショパンのノクターン第20番。レイがここを辞してから何度か弾いてみた。しかし、同じような事象が
現れることは無かった。

(………)

 自分がピアノの連弾を通して碇シンジとの関わり合いを深めていくのには、目的がある。だが、
彼女がそうする事に何の意味があるのか?


(…解らない)
 
 リフレインしそうになる前にカヲルは意識を切り替えた。今は自らに課した目的を達成する為に
時間を使うべきなのだ。第13号機の完成は目前に迫っている。
 そして、ゼーレの子供たち、その最後の生き残りとして存在する自分達。その末路を予見するが故に
成し遂げなければならないシナリオがある。 

 顔をあげたカヲルの目に飛び込んできたのはこぼれ落ちそうな満天の星。
 ふたたびCFVに向かい合ったカヲルの上で、幾多の星が流れては儚げにその姿を消していった。


 


                     ▲▽▲▽ ▲▽▲▽


 地の底とも思えるそのエリアは、見る者全てにこの世の終着点を連想させるだろう。広大な空間
一面に広がるのは、地底を割って造られたような溝渠。そこに無数の遺骸が遺棄され得体の知れ
ない墓場を構成しているのだ。地底からは正体不明の鳴動が、この遠大な空間全体を揺さぶり続
けている。そんなエヴァ素体の廃棄場にレイはいた。

(…………)

 タイムリミットの通告そのままにケージで鳴り響いた非常招集着信の内容は、明朝0900に開始
される作戦の下命だった。第13号機によるターミナルドグマ最下層における作戦執行、そして
その第13号機に同伴するMARK9への乗車命令に加え、付け加えられた重要な指示。その下達
だった。

(…この世界でもダメだった)
(…………)
(………)
(…)
(……碇くん)



 カヲルと二人、非常招集で呼び出された出撃下命を受けてから後、シンジは部屋には戻らずに
購買部に隣接する嘗ての食堂跡に足を向けた。あの部屋に戻る気がしなかったからだ。あの無機質
な部屋にいると、あまりに外的要因が少ないせいか、どうしても余計な思考をリフレインさせてしまう。
S-DATを聞いている時でさえ。それなら必要最低限、ベッドを使う就寝時だけでいいじゃないかとシンジ
は思った。しかし、ここ最近はその夜でさえ睡眠を諦めるほどにシンジはその心を疲弊させていた。

 でも、もうすぐだ。この夜が明けるとエヴァに乗って、取り戻せるんだ。カヲル君と一緒に、あの世界
を取り戻すんだ。あの街に学校。みんなに、そして…綾波。そうだ……綾波。

 シンジの意識がここネルフに連れてこられたその日に浮遊する。以前とどこか違うレイが気になって、
図書館で崩れた本をずっと漁ってたっけ。綾波にお願いされたのはいいけどパソコンがなかなか直んなくて、
結局ケーブルが取れてただけだったんだけど、ネルフネットを辿って購買部にまで楽譜を探しに行ったんだ。
そこで無事に楽譜を見つけることが出来て、綾波…喜んでた。それで、その後のお鍋を囲んでの晩御飯も
楽しかったんだ。水炊きを食べるのって初めてだって言ってたっけ…そうなんだ、綾波には温かい食事が
必要なんだ。温かさの本当の意味を知ってる。そんな女の子なんだ…。あと、そう、ピアノを一緒に弾いたんだ。
僕にはとても弾けないって思ったけど、ふたりだと弾くことが出来たんだ。あのノクターンを。

 シンジの記憶の中で甦るレイは、最初からずっとシンジの知ってるレイだった。

(…それでも…それでも、違ったんだ)
(…あのとき、僕が助けようとした、14年前一緒にいた、あの綾波じゃないんだ…)

 購買部の冷たいテーブルの上で、シンジは組んだ腕に顔を埋める。

「ぼうず、どうした? 気分、悪いのか?」
「…あ、いえ」
「そりゃ出撃までもうすぐだからな…無理もねえ。ほら、これ喰って元気だしな」

 俺の特製お夜食よ、とシンジの前に出されたのは、バゲットのサンドイッチだった。豪勢な生ハムがパンの
両脇から顔を覗かせている。人造生ハムだろうけど、そんなことはどうだっていい。とても美味しそうだ。ここ
しばらくまともに食事が喉を通らないシンジのお腹が正直にクーとなった。

「高雄さん。あ、有難うございます。いただきます」
「はっは、ようやく元気になったな。いいことだ。しっかり食べなきゃいい仕事は出来ゃしねえ」
「は、はい」
「ホントはよ、ネルフ本部食堂謹製の『とろろ定食』を馳走したいとこだが、材料がどうにも揃わねぇ。ま、それで
我慢してくれや」

 結局シンジは食事をとった後で食堂から直接待機場所に向かうことにした。時間は早いが待機所で仮眠でもして
時間をつぶせばいい。少なくともあの部屋でひとりネガティブな思考に苛まされるよりは遥かにマシだ。それに、
なによりカヲルが来れば会話もできる。
 それにしても……作戦の時間が近づくに従って気持ちがどんどん沈んでいくのはどうしてなのだろう。この作戦
で破壊された世界を再生し取り戻した時点で、この思考の反芻から解放される筈なのだ。カヲルは今の世界の
有様を肯定も否定もすることなく、リリンにとってシンジの罪だと言い放った。それでも償えない罪なんてものは
無い。今度の第13号機を使っての計画は、シンジのリリンに対しての贖罪そのものであるとも。
それにもかかわらず、刻一刻と膨らんでいく不安感―まるで視界が利かない濃霧の中、断崖を手探りで進んで
いるような―を肌身で感じる。
 そして、シンジの中にいるもう一人の自分はこの漠とした不安の正体を理解している。父ゲンドウだ。ゲンドウ
は今回の作戦内容を具体的に述べることはなかった。ただ一言、第13号機でドグマの爆心地に向かえとの命令
下達のみだったのだ。そして、その下命をシンジはただ言葉の羅列としてのみ受け入れた。その一方で、シンジの
中にはそんなゲンドウと必死になって向き合おうとするもう一人の自分もいる。

(…そうなんだ。自分でも分かってるんだ。この不安な気持ちはソコから来てるんだ)
(…でも、今の僕にとっては、父さんの計画なんてどうだっていいんだ)
(…カヲル君が言ってたっけ…ネルフが父さんがフォースインパクトを起こすんだって)
(…でも、そんなことはどうでもいい)
(…僕は僕は、あの街を皆を綾波を取り戻すん――!?)

 見間違えではない。
 シンジが横切ろうとした通路の先を歩いているのはレイだった。
 制服に身を包み、ラップトップと楽譜を大切そうに胸に抱え、俯き加減に歩を進めている。
 そして、シンジの視界の中で突き当りにある階段の踊り場に通じるドアの向こうにその背を消した。
 しばらくの間、そのドアに視線を留めていたシンジ。反対側に歩を進めようとしたが、ふと何かを思いついたように
顔を上げると、レイが姿を消したドアに向かって駆けだした。
 レイが吸い込まれたドアは、先日シンジが迷い込んだ大深度地下施設のさらに底、廃棄場のような場所に
通じる階段だったからだ。




      ■□■□ ■□■□


「ゼーレの少年が第3の少年と接触。外界の様を見せたようだ」
「………」
「果たしてどう受け止めるのか…いいのか、碇?」
「ゼーレのシナリオを我々の手で書き換える。あらゆる存在はそのための道具に過ぎん」

 冬月がその視線を机上のゲンドウに送ったが、その表情は微動だにしない。

「お前の生き様を見せても息子のためにはならんとするか。私はそうは思わんがな」
「………」
「いずれにしても、ゼーレの少年と第3の少年とのピアノの連弾は完成した」
「…ああ」
「全てはお前のシナリオ通りだ。あとはゼーレの少年が、さてどのように第3の少年を説得するかだな」
「………」
「ふっ。まあそれについても心配は無いか。それほどの絆は既に構築されている。そう考えるか…」
「………」
「それでも第3の少年は、レイをあの『綾波レイ』だと信じているのだぞ。全てとは言わないが、そろそろ
真実を伝えてはどうかと思うがな…」
「………」



アンビリカルブリッジを鈍く光らせていた斜陽が夜に追いやられると、断崖の底にも思えるケージの
様相はその姿を変える。一切の生気を陽光とともに取り上げられたように、沈黙だけが支配する
ケージの底。そこに日に日に存在感を膨張させているのは得体の知れない澱み。そして、浮遊する
澱みはいつしか体感できるまでになった地底からの鳴動とともに今やネルフ本部全体を包み込んで
いるのだ。
 夜で満たされたケージの底。累々と横たわる瘴気を消し薄めるように、数日ぶりにピアノの音階が
響いた。ノクターン第20番。鍵盤の上で稀有の解釈を醸し出すカヲルの白い指が黒鏡面の中で踊る。
渚カヲルの魂から絞られた旋律が、今やケージから本部全体を包み込む。

 第13号機の完成を目前に控えた今、自らの目的を成就する為に残されたことは、時が満ちるのを
待つ事のみ。その為のシンジとの準備は既に整えている。すべてはカヲルの計画通りに進んでいる、
筈だった。

「やあ、来たね」
「…ピアノが聞こえたから」

 暗闇から現れたレイは、黒いプラグスーツにその身を包んでいる。顔と手の白さがケージの底で
際立った。微笑を浮かべラタンチェアを勧めるカヲル。

「今日、シンジ君に外界の様子を見てもらったよ」
「……外界…街の?」
「そう、その必要があった…いや、出来てしまったからね」
「………」
「そしてその結果、僕の進むべき道、選択肢は一つに絞られる事となった」
「………」
「予想されたこととはいえ、シンジ君が受けたダメージは相当大きなものだからね。そしてそれを
唯一打ち消す事ができるものは、希望」
「…希望」
「そう希望。彼にとっての希望は、14年前の戦いの末に起こったサードインパクトで消えた『綾波レイ』
そのもの、なんだ」
「…綾波レイ」
「恐らく、シンジ君は君に会いに行くだろう」
「…碇くんが」
「……『綾波レイ』ならどうするの?」
「それを考える必要はないさ。どんな事を聞かれても自分自身に正直に応えるべきなんだ」
「…うん」

 そう。そして、シンジ君の最後の望みは木端微塵に打ち砕かれる。地の底まで落とされた彼の魂が
救済される唯一のもの。それが、新たな希望と贖罪。そして、それを得ることのできる手段。その準備
は最終プロセスに到達している。それがダブルエントリーの第13号機。あつらえたように準備された
ダブルエントリーのエヴァ。そして、僕自身それを選択するしかない状況に既に追い込まれている。
そして、その先で僕に与えられるものは、死。
ネルフ究極の最終目的。そこへの次なる手順としてのフォースインパクトとゼーレの子供たちの排除
という目的を同時に成し遂げる積りなんだ。そしてそれは僕のみではなく、この目前の少女も含まれて
いるのだ。カヲルが視線を向けた先で、レイは心細げに顔を俯かせている。

(…それはダメだ。彼女はまだ明確には気付いてはいない。自分の気持ち、そしてその先に訪れる希望に)

「そう、眼を瞑って君の胸の中に意識を集中してごらん。そして、その気持ちのままに応えればいいんだよ」

(…しかし、その覚醒の日は近い)

「…そして、安心していいよ。僕に考えがあるからね」

(…彼女のその芽生え、それだけは潰えることがあってはならないんだ)








 これまでに聞いたことが無い程の鳴動が充満している。地の底にも思えるそのエリア。エヴァ素体の廃棄場。
広大な空間一面に張り巡らされた溝渠の狭間をカヲルは歩いていた。この世の終わりそのものの空間を、まるで
黄泉の国に通じる道ならぬ道を更に奥へとカヲルは足を進めた。

(…日に日に激しくなるこの鳴動……第13号機、最後の執行者の完成が近い…)

 溝渠に張られたLCLが身を震わせるようにさざ波を立てている。
 これまで踏み入れた事の無い深部を更に奥へと進むカヲルは、両手をポケットにつっこんだままのいつもの
リラックスした姿に見える。だが、その顔に常時湛えられている微笑は今は見られない。微塵の躊躇もない
足取りで歩を進めるカヲルの前に、ようやく目的の場所はその姿を現した。

(…あった…これだ)

 カヲルが行きついた場所は、溝渠が途絶えた先、円錐型の低い土手の裏手に隠れるように存在する地底湖だった。

(…次元の結節点で現れるという…これが…)

 目前に広がったのは、人工的な水辺。そのから階段のような道が湖へと延びている。そして、その階段が水没した先
で、水の中の一部が白く光っているのが見える。

(…レアセール)

 自らに課したもう一つの目的。その為に全うすべきシナリオ。ゼーレの子供たち、その最後の生き残りとして存在する
自分、そしてアヤナミレイ。仕組まれた自分たちは、第13号機との出撃で排除される運命にある。

 そうはさせない。
 彼女は、その運命の歯車でシンジ君とこの時この世界で出会った。
 引き継いだ記憶は覚醒し、やがて彼女にとっての――!?

 猛烈な眩暈がカヲルを襲った。

「…まただ。何だ、この既視感は!?」

 土手に手をついて身体を支えるカヲル。
 何かが、めまぐるしく、膨大な何かがカヲルの頭の中に入り込んでいく。
 制御できない圧倒的な情報がカヲルの中を通り抜けたとき、見開かれた深紅の眸に深い光が宿った。  


「違う…僕は、はじめてここに来たんじゃない……」






「ボ ク は 前 に も コ コ に こ う し て 立 っ て い た 」
 




                     ▲▽▲▽ ▲▽▲▽


 地底からの変調を訴えかけるように、今や広大な空間一帯が低い鳴動に覆われている。第13号機の起動
まで数時間を残すだけとなった今、ドグマからの呼応によるものか、地響きにも似た鳴動が空間全体を揺さぶり
続けているのだ。

(……レアセールが開く)

 かの地底に張り巡らされた溝渠を前に、祈りを捧げるように瞑目するレイ。しばらくして決然と顔を上げると
溝渠の狭間の通路とは言い難い道に足を踏み出した。一歩一歩噛みしめるように足を進める。
 ふと何かに気付いたかのように溝渠へと視線を向けた。

(…わたしはわたしの役割を終えた時、ここに)
(…でも、まだだめ。ソコには行けない)
(…碇くんと一緒に成し遂げなければならないことがある)
(…そして、碇くんには……)
(…だから)
(……)
(…碇くん…ありがとう。そしてごめんなさい。今度こそ…)

 ふたたび歩き始めたレイ。いまだ見えない行く末に定めし道標を追うように。その胸に微かに掠った哀しげな
影を振り切るように。レイはラップトップと楽譜をその胸に抱き直した。


 
 弾かれたようにドアが開け放たれるや、息せききったシンジが廃棄場へと飛び込んできた。肩で息をするシンジ
が顔を上げた前方に広がる溝渠の海。その遥か前方にレイの後ろ姿を見た。その姿は既に豆粒ほどに小さく
なっている。

 綾波、ここはダメだよ! 立ち入っちゃいけない場所なんだよ―!

 シンジは声の限り叫んだつもりだったが、今や空間全体を木霊する鳴動に掻き消され、この距離ではレイに
届かないと理解すると、廃棄場へと足を踏み入れた。駆けだすこと数メートル。直ぐに異変は起こった。何かに
足を取られたシンジは体勢を崩すと、通路にしたたか身体を叩きつける。直ぐには事情を理解できずに強打した
肘の痛みにひたすら耐えていると、すぐ傍で何かの気配を感じた。ああ、また高雄さんだ、何度言ったら解るんだい
…なんて怒らえちゃうのかな、でも高雄さん、ほらあそこ綾波が、綾波があんなとこまで入っちゃって、だから僕は―。
 辛うじて上半身を起こしたシンジは目の前にいるその気配の正体に目を見張った。

「…あ、綾波?」

 シンジの目前にいるのは、まごうこと無きレイ、だった。深紅の眸を瞬かせ、微笑を浮かべている。

 ぼ、僕が呼んだから、急いで戻ってきてくれたの? 転んじゃった僕を心配して戻ってきてくれたの? ご、ごめん。
ホントに僕ってそそっかしくて、さ。 綾波に、ココに入っちゃダメだよって、知らせに行こうって。ただ、それだけ―!

 シンジがその思考を停止したのは、先ほどから湧き立っている違和感の正体をその視界の中に認識できたから
に他ならない。いまシンジの焦点は、目の前にいるレイではなく、その肩越しにさっきまでシンジが追いかけていた
レイ――それは米粒ほどの大きさまでになっていた――に合っている。 
 
「…き、君は」  
「……」 
「…君は、いったい?」
「……」 

 本能的な恐怖がシンジの体躯を駆けあがった。辛うじて腰を上げたその足に纏わりつく何かの感触に、恐怖の
塊が喉元にせり上がる。その場から一歩たりとも動くことができない。いや指一本たりとも動かすことさえ出来ない。
何か何かがシンジの下半身を締め上げている。ズボン越しに徐々に感じ始めた何かを確認する為に、精一杯の
勇気を奮い、視線を落としたシンジの目に映ったモノ。

「あ、綾波……レイ?」
「・・・ い か り ・・・ く ん」 

 シンジの視界の中に拡散する違和感。シンジに纏わりついている幼い少女は、あの日シンジがここまで追いかけて
きた幼女だった。直感でその幼女がレイだと理解したシンジ。そして、視線を其処彼処に泳がせていたシンジは次の瞬間、
その恐怖の根幹を理解した。
 その幼女に足は無かった。その下半身は溝渠の底から尾のように伸びていた。






                      「ひ と つ に な り た い」








      ■□■□ ■□■□




 ネルフ本部のかつての正面玄関だったメインゲート。その崩落した外観からは以前の面影を見る
ことのできないそのメインゲートからジオフロントへと一歩足を踏み出すと、容赦なく降りそそぐ陽射し
が肌を刺した。囲われたジオフロントの中だけに僅かに残された緑に敷かれた小路をレイは歩いている。
その細い身体を制服に包み、やや俯き加減に、厳しい陽射しだけが降りそそぐ音のない世界を歩いて
いた。なだらかな緑の丘陵を進むと、やがて小高い丘の頂上に出た。ここから中央病院が一望できる。

(…あのとき、ストライカーが現れたところ)

 丘の上で静かに足を止めた少女の足元で、白い靴に当たった小さな石が転がった。レイは眼前に
広がる光景を緋色の眸に映した。
 記憶通りの場所に中央病院はその姿を残している。しかし、かつての外観を留めてはいなかった。
激しい戦闘の傷跡も生々しい建物は半ば崩れ、白い壁面だけが以前と同じように陽光を反射させて
いる。桟が拉げた窓のガラスの多くは失われ、病院とは趣を異にする瀟洒な正面玄関は無残なまでに
破壊され、かつての面影を残していない。

(…………)

 そして違和感を感じる最たるもの。中央病院の正面玄関からレイが今立っている高台の間が、まるで
巨大な爪に抉り取られたように大きく陥没していた。正面玄関前に位置する駐車場は悲惨なまでに粉砕
され、抉られた大地は黒々とした大地を不吉に剥き出している。

「…A.T.フィールドで、ここまでの…」

 丘の上に立ち尽くすレイのスカートの裾が風に揺れている。しばらくしてふたたび歩きだしたレイは
迂回して中央病院へと歩を進めた。あの日シンジが眠っていたあの集中治療室へと。



 誰もいない病院内は狂気にも似た明るい光に満ち溢れていた。銃撃跡が著しい壁面そしてリノリウム
の床面は激しく損傷し、いやがうえにもあの日の記憶をレイに蘇らせる。息苦しい、胸が締めつけられ
るように感じる。それでも、レイはココに帰ってこない訳にいかなかった。終わっていない。そう、レイの
中ではあの日はまだ終わってはいない。

(…そう、ここが)

 加賀にとって最期の場所。レイを庇って無数の銃弾を受けた加賀は即死だった。それでも、死して尚、
盾となり敵の銃弾からレイを庇い続けた。そして、もう一人の衣笠に至っては、その最期さえレイは
知らないのだ。たったひとりでSBCT機械化歩兵部隊と対峙した衣笠は、自らの一命を賭して会敵した
に違いない。そして、大地を揺るがす爆発。恐らくは、あの時に衣笠の命は潰えた。

 柔かな陽射しが銃撃によるスパイダーネットだらけのガラス越しに差し込しこんでは、無機質な室内に
様々な模様を描いている。その中の一角、加賀の最期の場所に、誰が手向けたのかワインと花が
添えられている。レイは膝を折り祈りを捧げた。

(…加賀一尉、衣笠一尉……わたしは)

 別れの言葉さえ。
 
(…わたしを助けるために志願したという本当の理由)

 それさえも。

(……このわたしの為に)

 …なぜ?





 何かが祈りを捧げるレイの耳朶をついた。顔を上げたレイは耳を澄ませると、腰を上げた。

「…ピアノ?」

 間違いない。ピアノの音だった。この病棟が閉鎖された事、そして入院患者の別棟への移管が
終了したこともユキから知らされている。だから、今この病棟には誰もいない筈だった。

(…ショパン?) 

 それでも柔かなタッチで醸し出される哀しげな旋律に惹かれるように、その音の源へと足を進
めるレイ。
 
(…千代田婦長? ……いえ、違うわ)

 シンジがいた集中治療室に面した小さなパティオ。くり抜かれたような中庭に、天蓋から色とりどりの
間接光が織り込まれた陽射しが降りそそいでいる。どことなく地中海の昼さがりを思わせるそのパティオ
に据えられた白いアップライトピアノを演奏しているのは若い女性だった。

(………)

 降りたつ陽光が白いピアノの鏡面、そしてオフホワイトのブラウスを身に纏う女性を天使のように輝か
せている。初めて耳にするなめらかなタッチと複雑なリハーモナイズから生まれる優しい旋律に、パティオ
の入口でレイはただその美しい音階に耳を傾けた。

「…ショパン…ショパンの別れの曲」

 旋律の終りにそっと被せたヴォイシングが静かに尾を引いている。
 
「加賀さん、そして衣笠君はこの曲が好きだったわ…」

 パティオの床一面に貼られたテラコッタタイルにヒールの音がコツリと響いた。ピアノの椅子を引き、その
入口に佇むレイを見返った女性に面識は無い。それでもコバルトブルーのフレアスカートに白いブラウス
を合わせた、どこかいたいけな少女の面影を残すその女性とは、どこかで会った事があるような気がする
のはどうしてなのだろう。

「…あなた、誰? …どうして、加賀一尉と衣笠一尉のことを」
「仲間だったから。あたしの大切な」

 ニコッとレイに向けられた暖かな笑顔。それは、短かったけれど関わり合った時間の中で、加賀そして
衣笠から感じ得たものと同質のものだった。上手く言葉では言い表せないけれど。

「…仲間…総務局の?」

 首を横に振った女性はその黒目がちな眸をまっすぐレイに向けた。 

「ううん、総務局ではないわ」
「加賀一尉は、かつて諜報二課にいたと言ったわ」  
「…そっかぁ…加賀さん、レイちゃんには話したんだね」
「………」
「あたし達は、諜報二課のメンバー」
「? …今は存在しない組織だわ」
「そう、表向きはね」
「………」
「…十四年前のニア・サードインパクトの後に発令されたA-801。ネルフの指揮権がゼーレに移譲されて
からの戦自の動きは早かった」
「………」
「…あの戦いで、真っ先に標的にされたのが、警備局そして保安諜報部だった。そして、諜報二課も例外
ではなかったの。…でも」
「………」
「…最後にあたし達を守ってくれたのが、同じ二課の別働班と言われるもう一つのメンバーのみんなだった。
それまでは彼らとは反目ばかりしてたけど、最後はエヴァを動かすことのできる適格者の守護を生業とする
あたし達を生かすために、自らが盾になって戦自に立ち向かったの。そして、全滅した。その圧倒的な
火力によって、彼らは諜報二課の名とともにこの世から抹殺されたの」
「あなた達は…」
「…二課ガード班。適格者の為だけに生かされたガーディアン。だから、レイちゃん…あなたのことも、ずっと
昔から知っているわ」
「……でも、解らない。あなた達がどうしてわたしを助けるのかが」
「…レイちゃん」
「わたしはあなた達にとっては敵だったゼーレによって仕組まれた子供のひとり。…なのに」
「あなたは死ぬわけにはいかないの。今、話すことはできないけど、理由があるの。…だから、あたし達は
あなたを守りぬく必要があるの」
「でも、わたしに残された時間は多くはないわ。そして、今はただ排除されるのを待つだけの存在…わたしに
そんな価値は無――」

 白い羽衣がふわりとそよ風になびいた。次の瞬間、レイはその女性の胸のなかにいた。保安諜報部の生き残り
という壮絶な経歴からは想像できない華奢な腕にしっかりと抱かれたレイ。その暖かさはブラウス越しに感じる
体温だけではなかった。 

「…加賀さんと衣笠くんのこと、辛かったね」
「………」
「受けとめれないよね…だから、またここに戻ってきたんだよね」
「………」
「…でも、レイちゃんにしか出来ない事があるの」 
「………」
「…シンジくん、よ」
「……わたしは…わたしは、碇くんを絶望させるだけの存在」
「それは…それは違うわ」
「………」
「…いつか解る…そう、解るときが必ず来るわ」










 小さなパティオに、天蓋から夕間暮れの光が差しこんでいる。冷え切ったテラコッタに据えられた
白いアップライトピアノから流れる旋律は天蓋から天空へと吸い込まれていく。

(…彼女はなにも変わっていなかった)
(…レイちゃんに会って、あなたの想いを改めて理解したわ)

 忍び寄る夜が世界を覆いつつある。迫りくる闇が真っ赤に燃える夕陽を浸食するにつれ、白い湖
そのままのピアノの鏡面を染めていた朱が深くなっていく。

(あたし達は既にプロセスに入っている)
(そして次なるマイルストーンはすぐそこにまで迫っている)
(あなたとの約束は、成し遂げてみせるわ……この一命にかえてでも…)
(……でも、レイちゃんにとっては、辛く永い旅がはじまるわ)

 奇跡のように降りそそいだ希望
 またひとり、エヴァの呪縛を背負いし少女 
 その過酷な運命へ

(…それでも)

 そして、かけがえのない仲間達へのレクイエム
 白亜のピアノから綴られるのは永遠とも思える旋律

(…渚くん…これでいいのよね)




                    ▲▽▲▽ ▲▽▲▽


 広大な空間にシンジの悲鳴が木霊した。

 !?

 エヴァ素体の遺骸が散在する地の果てにも思える廃棄場の中を目的の場所へと一直線に進んでいたレイは
空間を不吉に震わせた尋常でない悲鳴にその意識を吊り上げられた。

「碇…くん?」

 後方を見返るや、瞬時に全ての事態を理解したレイは脱兎のごとく駆けだした。そのレイの視線のはるか先
では、溝渠の底、まるで奈落そのままの仄暗いLCLの澱みから不気味に伸びる得体の知れない触手のような
ものがシンジの身体に幾重にも巻き付いている。身体を横たえるシンジは微動だにせず、じわりじわりと溝渠
へと引き寄せられているのが見て取れた。

「碇くん!」

 レイが駆け寄ると、シンジに纏わりついていた触手の一つが軟体動物のように蠢いた。そして、湧いて出たように
レイの外観を構成した。

「碇くん、碇くんを離して」
「ど う し て? 長 い あ い だ 待 っ て 待 っ て ・ ・ そ し て、 や っ と 会 え た の」
「ダメ、碇くんをあなたたちの手に掛らせるわけにいかない」
「何 を 言 う の。 末 っ 子 の く せ に」
「…碇くんを離して」
「今 日 わ た し た ち は ・ ひ と つ に な る の ・ ・ 願 い は や っ と 叶 う の 」
「碇くんを離して!」

 大地が爆ぜたような轟音が広大な空間を震わせた。オレンジ色の煌めきが拡散した次の瞬間、シンジを絡め
取っていた触手のようなものは、溝渠を隔てる通路ごと激しく破断された。轟き渡る悲鳴。焼き切られた触手の
裁断口からは沸騰した体液が吹き出し、主を失った触手はのた打ち回るうちに次々に蒸発し、そして霧散した。

「A. T. ・ ・ フ ィ ー ル ド!? ど う し て、 あ な た が!?」
「あなたには解らない」

 レイの動きは早かった。苦しげにのたうち回るそれの背後から抱きつくや、オレンジ色の壁を二人を取り囲む
ように瞬時に展開させた。レイの腕からこぼれ落ちたラップトップが地面で弾け、楽譜が乾いた音を立てた。

「あ あ な た、 ま さ か!?」
「碇くんだけは、碇くんだけは死なせるわけにはいかない」

 ふたりを包みこんだ淡いオレンジ色の壁が脈動するようにその直径を狭めていく。

「あ な た も 死 ぬ 気 な の? そ れ で い い の? あ な た の 旅 を こ こ で 終 わ ら 
 せ て い い の?」
「いい、碇くんが助かるんなら、それで、いい」

 A.T.フィールドがそのネーブルの輝きを強くした。もはやレイの外観を維持できなくなったその物体は、壁の狭間
で生みだされた凄まじいエネルギーを受け断末魔の叫びを絞り出す。

「・ ・ ・ な ぜ ・ ・ ・ わ た し た ち は 一 緒 だ っ た 筈 ・ ・ ・ わ た し た ち が 共 に ・ ・
 碇 く ん ・ と・ ・ ひ と つ に な れ ば ・ ・ ・」
「…それは、違う…碇くんが探し求めているのは…あなたでも…わたしでも無い、もの…だから、これで終わりにするの」
「・ ・ ・ な ん て 愚 か ・ な ・ ・ あ な た ・ ・ せ っ か く ・ ・ こ こ ま ・」
「…でもこれで良かったの…これがわたしの、碇くんへの………」

 アヤナミレイがその命を迸らせたようにA.T.フィールドがいっそうその輝きを増した。まるで陽だまりのようなオレンジ色
の光の中で、アヤナミレイの体組織は静かに崩壊を始めた。とうに沈黙している物体を愛おしげに抱いていたその腕は
もはや形状を留めず、やがて溶けるように溝渠へと崩れ落ちた。凄まじい苦痛のなかで、滲んだ視界のなかにいるシンジを
見つめ続けるアヤナミレイは、それでも満たされていた。最期の最期で綾波レイになれたような気がした。やがて全てが闇に
包まれると、薄れゆく意識の中で必死にシンジのことを思い浮かべようとした。


「…いかり…くん……さよう…なら」

  


     ■□■□ ■□■□


 
 日ごと鮮やかになるこの胸の記憶
 そこに存在したあなた達の想い
 そして希望というものを
 わたしは すべてを知っている
 だから わたしは 
 わたしに出来ることを するの
 この命がある かぎり 
 与えられた魂の灯がある かぎり
 でも なにか  
 なにかが 足りない 気がする
 そんな 気がするの


 天空に撒かれた宝石を紡いでいくように、意志を持つ糸になった旋律がケージの底
から湧き立った。嘗てこの空間を響かせていたシンジとの連弾曲ではなく、穏やかに
流れる夜想曲がケージを包みこんでいる。

「やあ」

 風に吹かれた楽譜が乾いた音を立てた。姿を見せたレイに穏やかな表情で出迎えた
カヲルはいつものようにラタンチェアをレイにすすめた。

「第13号機はもう間もなく完成する」
「………」
「…あれからシンジ君とも話したんだ。そして、第13号機を使って世界を修復する
ことにしたんだ。勿論、シンジ君と一緒にね……その為のシンジ君への説得は多少
必要だったけどね」

 カヲルは穏やかな微笑の下で、首に装着されたチョーカーを指さした。

「………」
「そして、恐らくそれは罠なんだ。既に逃れられない軌道の中に、僕たちはいる」
「…渚君」
「でも大丈夫。僕に考えがあるからね。その罠を逆手にとって、第13号機でリリスの
結界を越えてドグマに眠る2本の槍、破壊と創造の力を手に入れる。そして、シンジ君の
望む世界を取り戻すんだ」
「碇くんの望む世界…第3新東京市のある、みんなと過ごす世界。そして『綾波レイ』のいる世界」
「………」
「…それが実現するのなら、わたしは、どんな事があってもあなた達を守る。Mark09での
出撃命令が出ると思う。だから」
「…違うんだ」
「?」
「レイちゃん、君にはこのシナリオから離脱してほしいんだ」
「………」
「行ってもらいたい場所がある。…万が一、僕が失敗したときは、そこでシンジ君が望む世界を
取り戻すことができるように彼を導いて欲しいんだ」
「…わたしは…わたしはあなた達と一緒に行きたい。たとえ盾になるだけだったとしても…この
残された命をそれに使いたい」
「………」
「あなた達の手助けができるのなら、与えられた運命のままに、排除されることを受け入れても
構わない」
「…君は」
「この魂は引き継げばいい。だから…」


「君はそれでいいのかい?」




 蒼白い光で満ち満ちた月の下、息を潜めていた風がレイのプラチナブルーの髪をふわりと
梳いた。月明かりに照らされたレイはこれまで見たことが無いほどの苦しげな表情を滲ませている。


「本当に、それでいいのかい? 自分の胸に耳を傾けてごらん」


 長きにわたる戦いの末に、やっと出会う事が出来たあなた。
 わたしが生を受けたときから、あなたはずっとわたしの胸の中にいたの。
 空っぽのわたしの中で、あなたとの記憶だけが存在していたの。
 波に揺られるようにわたしの中で浮かんでいたの。
 そして、短い時間だったけれど、あなたと出会ってから、それが、
 この胸の中で日に日に色づき始めたの。
 まるで命の息吹を与えられたように。


「君の胸は何て言ってるんだい?」


「…わたしは」
「………」
「碇くんの望む世界を取り戻したい。…でも」
 
 こんな偽りの魂、なのに。

「…消えたく、ない……一緒にいたい」

 許される限り。そう、その日まで。

 ケージのはるか上空で流星が長い尾を曳いた。
 天空へと顔を上げていたカヲルが、その視線をレイに戻した。


「やっと気が付いたね。それが、君の望みなんだよ」





                     ▲▽▲▽ ▲▽▲▽



 朧な乳白色の光の塊は、やがて滲んだ天井を構成した。目覚めたシンジは溝渠の狭間に身を横た
えていた。頭を振るうと、やっとの思いで上半身を起こしたシンジは、周りを見渡すとその目を剥いた。
 
 な、なんなんだ。どうなってんだよ、これ?

 シンジが身を横たえていた溝渠を隔てる通路は抉られたように寸断され、其処彼処に焼け焦げた
ような痕跡と破砕された箇所が混在し、直近までのシンジの記憶とはその様相を一変させていた。

 そうだ。僕は、ここまで綾波を追ってきて、ここは危険だからって高雄さんが言ってたから、だから
綾波に伝えようとして、でもココに入ったらもう綾波は奥の方まで入ってて、呼んだんだけど声が届か
なくて。だから追いかけようとしたんだ。だけど、何かが僕の…僕の身体を掴んでて、だから転んじゃ
って、それでも必死になって起き上がったんだ。綾波が綾波が心配だったから。でも、起き上がると
目の前に綾波が立ってて……そうだ…それは、僕が追いかけてきた綾波とは違う綾波だったんだ。
でも、後ろにはもうひとり小さな綾波がいた。その子が僕の足に纏わりついてて。そうなんだ。あの
子は以前見かけた子だったんだ。綾波にとても良く似てたんで、その影を追っかけてここまできたけど、
結局見失った、その子だった。でも、でも良く見るとその子のその足が―!

 そこまで、思い出すとシンジは少なからずパニックに陥った。両の手で頭を抱え込む。

 そうだ、身体中の力が抜けちゃって倒れちゃったけど、そこで綾波が戻ってきてくれたんだ。あれは
僕がここまで追いかけてきた綾波なんだ。必死になって駆けつけてくれて。助けに戻ってきてくれたん
だよ。それで、綾波が僕の名前を叫んだとき、何もかもがオレンジ色になって…。

 シンジの記憶はそこで途切れている。

 …あれは何だったんだろう。
 …記憶にあるA.T.フィールドにも似たネーブルの色彩。

「そうだ、あ綾波?」

 あらためて周りを見回したシンジの目に飛び込んできたソレには見覚えがあった。直感的にそれを
認識したシンジは深くえぐられたクレバスをひとっ飛びに越えると、飛び付くように手に取った。それは
シンジが思ったとおり楽譜だった。良く見ないとそれと解らないくらいに表紙が黒く煤けている。震える
指先で焼け焦げた表面を撫でて煤を払いショパンの文字を確認したシンジ。

「…これは綾波の楽譜。どんな時でも手離さなかった楽譜だ」

 瞠目し其処彼処から溝渠を覗き込んでは、気がふれたように周囲を見渡すシンジ。レイの名を叫ぶ
悲愴な声が広大な空間に虚しく吸い込まれていく。それでもシンジは声の限りにレイの名を呼び続けた。
何度も何度も何度も。

「…そ、そんなまさか。綾波。ダメだよ」














「うわあああああああああああああああああー!」









     ■□■□ ■□■□



「総員。第一種戦闘配置」

 雲海を遥かに見下ろす超高度の天空を天翔るAAAヴンダー。その底知れぬ神殺しの本質を垣間見るべき
序章が如くに、静から動へとその艦橋の容貌を変化させた。

「戦闘指揮系統を戦闘艦橋へ移行」
「艦の主制御をアンカリングプラグに集中」
「LCLガスの充満は電荷密度をクリア」

 艦橋要員がアンカリングプラグに収容されると艦橋内は忽ちの内にLCLガスで満たされた。先ほどまでの
張裂けるような緊張感は霧散し、互いにどこかがリンクしているような奇妙な感覚が戦闘艦橋にいる全員を
包みこむ。脳内の意識を共有しているような不思議に落ち着いた感覚は、冷静な判断を求められる戦闘時
には向いているのかもしれない。それでも多分に癖の強い寄せ集めの艦橋要員達にとっては、とてもではないが
相容れない感覚だ。

「目標、ネルフ本部」
「了解。目標、ネルフ本部。繰り返す。目標、ネルフ本部」

 ミサトの隣で秘匿回線の端末にIDを通したリツコは複雑なPINコードを瞬時に落とし込む。

「第一波ターゲット、ネーメズィスシリーズ。対地及び対空ミッション。ネオハープーン並びにネオトマホーク発射準備」
「尚、全攻撃においてA.A.弾頭の使用を許可。繰り返す、A.A.弾頭の使用を許可」

 底光りする眼で前面のモニターを睥睨するミサトの低いトーンが艦橋に響いた。

「第二波。改2号機と8号機によるネルフ本部突入。目標、エヴァンゲリヲン第13号機。その起動までに叩く。
頼むわ、アスカ、マリ」
「了解」
「おっけー。まっかせて〜」
「しかる後、第三波。ヴィレ地上部隊による直接侵攻。ネルフ要員の武装解除、そして碇シンジの確保を最優先とする」
「了解」
「地上部隊は、三個小隊を投入します。ネルフ本部突入後、杉及び長門両三佐の誘導の下に本部内に部隊を展開。
しんがりは香取一尉の小隊でお願いします」
「了解した。任せといてくれ」

 これでいい。フォースインパクトを食い止める目的は一致しているとは言え、トリガーとしての可能性を残すシンジの
抹殺を企てるUNの連中よりも一秒でも早く着手する必要があったのだ。UN軍に正面からネーメズィスシリーズと戦火を
まみえる火力を持っていない今の状況下では、AAAヴンダーを擁するこちらにアドヴァンテージがあると言っていい。この
瞬間は。だからこそ、あの連中に先手を打たれる前に、こちらの手で第13号機を殲滅する。その事がひいてはシンジの
身の安全の確保にも繋がってくる。

「葛城艦長」
「何か、赤木副長」
「杉三佐とのコンタクトは完了し今次の作戦についても伝達しました。でも」
「……」
「長門三佐とのコンタクトは失敗。そしてその所在は不明」
「……」
「つまりロスト、ということ。相変わらずね。あの娘らしいと言えばあの娘らしいけど」
「杉三佐とのコンタクトが成功しているのであれば問題ないわ。長門三佐の所在については、杉三佐にもあたらせて」
「了解」

 それにしても、ヴィレから脱走したUNの軍団はどこに行ってしまったのか。どんな探索の網にも掛ること無く、
煙のように姿を消したその規模は三個大隊レベルなのだ。

「未確認飛翔体、補足しました!」
「出ました。パターン青。ネーメズィスシリーズです。コード4A」

 決して突発的な感情だけでヴィレから離れた訳ではない。今次の離脱は彼らからすれば『選択』したに過ぎないのだ。
最終目的の成就に向け統一された堅牢な意思の下で、一糸乱れることのない統率でもって次なる場に向けて『選択』した
のだ。あらかじめ仕組まれたプログラムを展開するように。だから、大人しく指をくわえている筈はないのだ。

「敵、増殖中。48・53・61・75・・増え続けています!」

 今この瞬間も、何処かで息を潜めて機会を伺っているに相違ないのだ。

「ネオイージス稼働」
「了解、ネオイージスシステム稼働」
「アクティブソナー、敵飛翔体188体を補足しました!」
「188体、全敵飛翔体、ロックオン!」

 いや、あるいは既に。

「敵機、迎撃射程まで20秒。15・10…」
「対地及び対空ミッション開始」

 全方位モニターを睨み据えるミサトの声が低く戦闘艦橋に響き渡る。

「迎撃システム発動」
「ネオハープーン、ネオトマホーク発射」
「了解。ネオハープーン、ネオトマホーク発射」

 AAAヴンダーのVLSから吐き出された無数のミサイルが刹那宙に漂った。そして、正確に補足した各々のターゲット
へと弧を描いた。

「A.T.フィールド、一次展開」

 AAAヴンダーの底部に眩いばかりのオレンジ色の壁が展開された。いかなる地対空攻撃をも受けつける事の無い
最強のイージス。ネルフ本部の遥か上空で、まるで天蓋のように張りめぐらされたA.T.フィールドに呼応したネーメズィス
シリーズは一斉に活性化するや上空を仰ぎ見た。次の瞬間、正確に撃ち込まれたミサイルはA.A.コーティングにより
A.T.フィールドをいとも簡単に貫通するとコアブロックを直撃した。その成形炸薬弾頭に組み込まれたHNIW爆薬は
コード4Aのコアを滅茶苦茶に破壊し、燃焼し尽くした。
 凄まじい爆音と衝撃波が紅い大地を激しく揺るがし、夥しい数の光の十字架が林立した。モニターを見据えるミサトの
表情は動かない。

「す、すごい。あれだけのネーメズィスシリーズが一撃で」
「これがAAAヴンダーの力。神殺しと言われたその実力の片鱗」
「続いて第二波攻撃。改2号機、8号機出撃準備」
「両機共に起動済み。スタンバイ中です」
「ならば良し。出撃。目標、ネルフ本部ターミナルドグマ」
「了解」
「待ってましたよーん」
「改2号機並びに8号機は射出孔より降下。目標ネルフ本部ターミナルドグマ。繰り返す。改2号機並びに8号機は
射出孔よりメインシャフトに向けて降下。目標ネルフ本部ターミナルドグマ」
「アクティブソナーはレンジを変えて敵索を継続。新たなネーメズィスシリーズとの会敵に備えて。艦砲射撃準備」
「了解。艦砲射撃準備」
「敵出現! パターン青。ネーメズィスシリーズです! 左舷より3体、急接近。メインシャフトから2体、改2号機、
8号機に接近中!」
「下方からの2体はアスカとマリに任せます。艦載主砲照準はじめ。目標、左舷ネーメズィスシリーズ」

 超高速でAAAヴンダーに急速接近するネーメズィスシリーズ。刺し違えるようにAAAヴンダーへと加速した
コード4Aは瞬時に補足されると艦砲一斉射撃に晒され、A.A.弾頭弾の直撃を受けて天空に霧散した。

「メインシャフトからの2体は、確認不要ね」

 メインシャフト付近から新たにそびえ立つ光の十字架が映しだされたサブモニターにミサトは冷徹な一瞥を送った。

「地上部隊は?」
「3個小隊共にオペレーションを展開中」
「香取小隊長の部隊は降下済み。本部正面ゲートからネルフ本部への進入路を確保。現在、第二小隊及び
第三小隊を誘導中」
「了解。小隊長に繋いで」

 戦闘艦橋前面のモニターに映し出されているのは、半ば崩れ落ちた正面ゲート。破壊されたゲート周辺には
ヴィレの隊員が配置につき、ヴンダーから降下する地上部隊の誘導準備に余念がない状態だ。

「香取小隊長。3個小隊全体の現場指揮をお願いします。現在のネルフ職員は技術者が中心なので、一気に
制圧して彼らの武装解除、そして碇シンジの確保を最優先でお願いします」
「承知した」
「本部内の対人邀撃システムは貧弱ですが、抵抗勢力に対しては発砲を許可します。でも、ゼーレの少年そして
レイ…初期ロットとの交戦は極力避け――」

 戦闘艦橋のあらゆるモニターが眩い光で満たされた。スピーカーからはレンジを超えた爆音がノイズと共に
吐き出される。

「何!? ネーメズィスシリーズがまた!?」
「ロ、ロケット弾による攻撃だと思われます! 損害不明!」
「正面ゲート前、生体反応確認できません!」
「複数場所における戦闘を確認!」
「敵は!? ネルフの邀撃なの?」
「モニター、回復します」

 回復したモニターに映しだされた正面ゲート前。そこには今の今まで作戦下にいたヴィレ隊員が其処彼処で
斃れ臥している。
 
「全方面のモニターを出して!」
「葛城艦長!」
「奴らが」

 戦闘艦橋の正面を埋め尽くすメイン、サブモニターには異様な光景が映しだされていた。丘陵の草原あるいは
廃墟施設の中から、蟻のように湧き出す迷彩の影が見る見る画面を埋め尽くした。手を尽くせど探索の叶わなかった
脱走者達。旧UN分隊。敵の殲滅を生業とする白兵戦のプロフェッショナル達は、モニターの中、ついぞ先日まで
仲間だったヴィレ隊員に対しての殺戮を何の躊躇もなく実行していった。その数、3個大隊相当全ての意思は、
エヴァを稼働できる人間の殲滅で厳格に一致している。そしてそれは、障害になると判断されたヴィレを含めて。

「第三小隊、降下を中止して!」
「ダメです。既に降下中です!」
「いけない。このままでは狙撃の絶好の標的になる」

 地上では目を覆いたくなるほどの惨状が呈されていた。殺戮マシーンとなった旧UN分隊員は、寄せ集めの老若男女
で構成されたヴィレ隊員にホローポイント弾を撃ち込み、その首を裂いた。上空から降下する隊員をアサルトライフルで
狙撃し続けた。哀れな第三小隊員は必死の反撃を試みるが、雨のように降り注ぐ7.62mm弾フルメタルジャケット弾を全身
に受け、その殆どが地上に到達するまでに絶命した。そして、目指した地表に降り立つと、ぼろぼろの人形のように静かに
体躯を横たえた。

「畜生!」
「な、何てこったい!」
「艦載全砲門、照準合わせ! 目標、UN地上軍!」
「だダメです。我々の部隊まで巻き添えになってしまいます」
「くっ」
「第二小隊全隊員の生体反応消失!」

 何てことだ。厄介なネーメズィスシリーズをAAAヴンダーに撃破させ、そのヴンダーの火力をヴィレの小隊を盾にして
封殺したのだ。全ては奴らのミッションを成就するため。あの軍隊を本部に侵入させるため。


「構わん。撃ってくれ、葛城艦長」

 !

「諜報二課の秘匿回線から、香取小隊長です!」
「香取小隊長!」
「艦長、今、正面ゲート前で交戦している。我々の到着までに既に相当数の敵が侵入している。これ以上の侵入を許すのは危険だ」
「…」
「連中はヴンダーの艦砲攻撃を恐れて、我々を人間の盾として使ってはいるが、隙をついて一気に本部内になだれ込む積りだろう」
「…」
「それだけは避けねばならん。解るな?」
「…香取小隊長」
「正面ゲート前、敵フォーメーションに変化…複数のRPGを確認!」
「今一度、請う。撃ってくれ、艦長」
「香取、さん」
「早く撃つんだ!」
「くっ」




                    ▲▽▲▽ ▲▽▲▽



 焼け焦げた楽譜を胸に抱き、シンジは一人涙を流し続ける。地球の中心で、地底の底で、からっぽ
になった胸の空洞を煤けてぼろぼろになった楽譜で塞ぐようにして、たったひとりで涙を流し続けた。

 …ばか。…綾波のばかぁ…。…なんでなんで僕なんかを守って…。
 …僕のことなんて、全然知らなかったくせに…。
 …こないだ会ったばかりじゃないか……それなのに…。

「……ばか……綾波ぃ」

 小刻みに絞られるシンジの嗚咽が広大な空間に吸い込まれていく。取り返しのつかないものを喪ったんだと
身体の中心が、心が血を流して悲鳴をあげている。シンジは受け入れられない現実からただただ回避する為に
楽譜そしてラップトップを胸に抱きしめレイを感じようとした。その僅かな片鱗だけでも感じようとした。

 
 ?

 それはほんとうに小さな音だった。

 水面に雫が滴るような、小さな音が響いた。
 シンジは涙でくちゃくちゃになった顔をあげると、弾かれたように通路に出来たクレバスの隙間越しに溝渠を覗きこんだ。

 !?

 溝渠の底では無数の遺骸が浸る赤黒く澱んだLCLの水面が見て取れた。その片隅で穏やかな波紋が広がっている。
危うくバランスを崩しそうになるまでに体を乗り出し目を凝らすシンジ。やがてゆったりとLCLが割れると、何かしら白い物が
浮かびあがった。必死に目を凝らしていたシンジには、直感的にそれがヒトと理解できた。

「綾波っ!」

 蒼い髪を目視できるタイミングでは、シンジは既に溝渠へと飛び込んでいた。粘度の高いLCLが控えめな水柱を上げた。
光が微かに届く溝渠の底に張られたLCLに揺られているのは確かにレイに思えた。しかし、シンジの必死の呼びかけにも
呼応することは無かった。

「綾波っ、…綾波ぃ!」

 レイをかき抱いたシンジは、レイの頭に顔を埋め、腕の中の実体を確認すると嗚咽を漏らし始める。それでもレイの微かな
脈動に気付いたシンジは、声の限りにレイの名を呼び続けた。綾波、綾波、目を覚ましてよ。お願いだから目を覚ましてよ。

「…い…かり…くん?」
「あっ綾波っ!」

 シンジは薄っすらと開かれたレイの淡い眸を確認すると、顔をくちゃくちゃにしながら抱きしめ嗚咽を漏らす。  

「綾波のばか。なんでこんな無茶するんだよ。こんな僕なんかのために…そんな価値なんて無いのに…なのに…」
「…いかりくん。痛い」

 …え、あ!? ご、ごめんよ、と慌ててその腕を緩めたシンジ。何故かレイはその身に一糸もまとっていなかった。とたんに
狼狽するシンジ。シンジの腕の中で大人しくその身を預けるレイは、しばらくシンジの胸に額をつけ、確かめるように自分の
両の手をながめていたが、おもむろにシンジに顔を向けるとその眸を覗きこんだ。

「…碇くん……どうして泣いてるの?」
「何言ってんだよ…綾波が無事だったからに決ってるじゃないか」
「………」
「…そうだ。前にも似たようなことがあったんだ…ヤシマ作戦の時に綾波が僕を庇って、大怪我をしてさ…」
「………」
「僕って本当にダメだ。また綾波に守られて…今度は僕が守るって約束したのに…本当に僕ってダメだ……あ、ごごめんよ、
こんな君の知らないこと、勝手に喋り出しちゃって。これは――」
「覚えてるわ」
「…え?」
「碇くんのこと。ケージで初めて会った時から。あの時、碇くんは怪我してたわたしの代わりに初号機に乗ってくれたわ」
「……え、 ……何だって、綾波? …そ、それじゃあ、やっぱり君は僕が助けた…綾波なのか?」
「…」

 顔を俯かせたレイの腕を取り、その顔を覗きこみシンジは言葉を重ねる。

「…綾波、そうだったんだね」 

 はは、と大袈裟に撒かれたシンジの堅い笑い声がLCLの上を漂った。

「…いやだなあ、綾波ったら、それならそれであの時に覚えてるって言ってくれたら良かったんだ。そうすれば僕だって……
そうなんだ。やっぱり本当じゃ無かったんだ、副司令が僕に話したことは――」


「…違うの」





      ■□■□ ■□■□



 凄まじい轟音に続いた地響きが司令室を大きく揺るがした。

「始まったな。ネーメズィスシリーズは露払いにもならんかったか」
「それも全て計算通りだ」
「それにしてもヴンダーの空対地攻撃は想定外だな。葛城大佐も地獄を見てきただけはある」
「………」
「それでも侵入者たちが第13号機に辿り着くことは無いがな」
「………」

 雷鳴が如く鳴り響く轟音の狭間で、警報がネルフ本部の空間を埋めている。
 第一層を縦横に駆け抜けるUN分隊員の足音が通路に降りそそぐ。セミオートで掃射される
銃声は間断無く其処彼処で炸裂音をあげている。
 悲鳴のようなブレーキ音にレイが振り返ると保安局員の制服を身に付けた青年がマウンテンバイクの上で
息を切らせていた。全力で漕いできたのだろう必死に息を整えると、思い出したように背にかけたSCARを手
に取り通路の前方を見遣った。今、レイが立哨しているその三叉路は第二層への入口でもある。第一層に
侵入した敵が最初に目指すポイントでもある。用心深く前方を確認したその青年はやや安堵の溜め息をついた。

「良かった。こっちは未だのようですね…」
「…あなたは?」
「あ、すすみません。保安二部の吾妻です。D区画から来たんですけど、敵がこちらに向かっているという情報
が入ったんで慌てて来ました。なんせ無線が使用できない――」

 鋭く鳴り響いた異音が会話を遮断した。緊急招集命令。胸に固定した端末を手に取り、レイはその画面に目を走らせた。

「…そう。なら後退するわ」
「はい。僕はここの隔壁を閉めてから行きます。敵を第二層よりも下に入れると厄介ですからね」
「解ったわ。それでは先に行くわ。でも、気をつけて」

 保安部員の青年は人懐っこい笑顔と敬礼でレイに応えた。



「これでヨシと」

 手動で隔壁を閉鎖する作業は想像していた以上に手強かった。
 幾つものロックを解除し、重いハンドルを回し隔壁本体を壁面から出すまでにそこそこ時間を要してしまった。
迫りくる敵の襲来に意識を通路の前方に持っていかれながらも、逃げ出したい気持ちと戦いながら何とか左右
からせり出した隔壁をあと少しで閉じるところまで作業は進めることができた。通路の奥にふたたび視線を送った。
よしよし未だ来てないぞ。間に合ったぞ。あとはピシャリと閉じてロックを掛ければ、マウンテンバイクに跨って下層に
一直線だ。そこで、リーダーに合流しよう。長門さんと一緒に。
 
 ?

 狭まる隔壁の間、ほんの20センチ程の隙間から覗き見ることができた通路の奥で、何かがチカリと光ったように
見えた。次の瞬間、青年の意識は霧散していた。二度と戻る事の出来ない漆黒の世界へと飛ばされていた。
ささやかなその想いと共に。



 緊急招集を受けたレイは、司令室でゲンドウから新たな命令として、Mark09での出撃命令を受けた後、更衣室へと
足を向けた。
 
「やあ」

 着替えを終えたレイが更衣室から出たところでプラグスーツ姿のカヲルが腕を組んで待っていた。レイの身体は
制服につつまれている。

「…あなたの言った通りだった」

 レイの視線の先で、どこか儚げな笑みを浮かべたカヲル。
 
「…第12使徒の解放と第13号機による殲滅。それで、リリスの復活への露払いは完了する。そして、その先、
鬼が出るか蛇が出るか…」
「………」
「………」
「レアセール。その先の世界に、あなたは行かないの?」
「この世界でシンジ君に二つの槍で世界を取り戻そうと誘ったのは僕だからね。僕にはシンジ君を見守る責任が
あるからね」
「…罠であっても」
「そう…間違いなく何かある。でも簡単には思い通りにはさせないよ。シンジ君の幸せを実現させる為にも、
僕はこの世界で全力を尽くすよ」
「………」
「そう、希望は残っているんだ…どんな時でもね」

 新たな非常サイレンが鳴り響く。第一種戦闘配備へのアナウンスが本部内を駆け巡る。

「…レイちゃん、これ」
「これは?」

 目を丸くしたレイにカヲルが差し出したのは、ショパン夜想曲の譜面。夜ごとカヲルがレイに弾いて
聴かせた夜想曲。そのカヲルの楽譜だった。

「これから先の世界で役に立つと思う。音楽にはそれだけの力があると思うからね」
「………」
「さあ時間が無い。急いだ方がいい」
「…うん……渚君」
「…また会える。きっと会えるよ。僕たちの時の輪の巡り合う、その世界でね」

 とろけそうな笑顔を浮かべたカヲルに、夜想曲の楽譜を両の手で胸に抱いたレイ。
伏せた顔をあげた次の瞬間、脱兎のごとく駆けだした。逡巡のかけらさえ見て取れない
決然とした表情で。走る。一直線に。エヴァ素体の廃棄場に向かって。




            ▲▽▲▽   ▲▽▲▽  

 レイから放たれた消え入るような言葉、それでも至上の明確さを伴った最後通牒に、シンジは
続ける言葉を喪った。レイの言葉の端に一縷の望みをかけて積みあげたいささか楽観的な想い。
それは陽炎のように消失した。分かっていたことだった。あのときレイはシンジの問いに、はっきりと
『知らない』と言ったのだ。それでも、それでも、そんな筈ないよね、と言いたくなる程の疑問が
幾つもある。そして、なにより今シンジの腕の中にいるレイに感じる一体感――まるで、どこかで
繋がっているような――は、綾波レイその人以外に考えられないものだ。

「…いかり、くん」
「…綾波」

 顔を上げたレイの頬をぽろぽろと涙が零れる。

「…わたし、わたし――」

 遠雷にも似た轟音が広大な空間を揺るがした。地底の底で鳴動が、不吉にとぐろを巻いた。

「いけない。レアセールが閉じる」
「え?」

 涙を両の手でごしごし拭ったレイは、シンジを促すように傍らの鉄梯子に目を向けた。その梯子は
溝渠の底から通路へと伸びている。

「碇くん」
「…うん。で、でもいろいろと聞きたいことがあるんだ。それに何なんだよ、そのレアセールって―」
「碇くん。もう時間が無いわ。第13号機が完成する。だから、先ずは上に」
「…あ、うん」

 鉄梯子に手を掛け澱んだLCLから身体を引き揚げたところで、LCLに浮かぶ制服がシンジの視界
に入った。シンジはその小さな制服がレイのものではない事を直感で理解した。

「…綾波、あれって」
「…わたしの姉だったひとのモノ…彼女が最期に残した意識の残滓、よ」

 ややもするとLCLに濡れた手を鉄梯子から滑らせそうになるが、その都度シンジは意識を集中
させた。ときおり後から付いてくるレイに心配そうな目を向ける。先に登ったシンジがレイに手を伸ばすと、
レイはその白い手でしっかりとシンジの手を掴んだ。
 通路まで登り切ったところで、シンジは弾かれたようにシャツを脱ぐとレイに差し出した。

「?」
「…その、着てよ。濡れちゃってるし、気持ち悪いと思うけどさ」
「…そんなこと、無い」

 シンジのシャツはレイには少し大きかった。ひとつひとつボタンを几帳面にとめるレイ。

「…ありがと」
「いや、そのままだと、その、僕の方が困っちゃうからさ」
「?」
「い、いや、なんでもないんだ。それよりも、早く戻ろうよ。父さんたちも待ってると思うからさ」
「…わたしは…わたしは戻れないわ」
「…え、何でだよ? 第13号機が出撃するんだったら、綾波のエヴァも出動するんだろ? だったら
一緒に戻ろうよ」
「ここに来る前に、司令からは第13号機の警護、そしてもう一つの命令を受けたわ」
「だったら行こうよ。こないだカヲル君と約束したんだ。二つの槍で世界を元に戻すんだって。
だからさ、綾波にも手伝って欲しいんだ」
「…わたしは、碇くんと一緒に行けない、行けないの」
「…え? そ、それって何でさ? …それじゃあ一体何処に行くんだよ?」
「……」
「…さっき、綾波はさ、違うって言ったよね。…何が違うのか、僕には解らないんだけど、その、
それと関係があるのか?」
「……」
「…碇くん」
「……」
「…わたしは…違うの」
「……」
「…わたしは碇くんが探している綾波―」
「嘘だ」
「…碇、くん」
「…嘘だ嘘だ嘘だ。信じないよ、綾波! そんなの信じるなんて出来ないよ!」
「……」
「それじゃあ、何でヤシマ作戦の時のこと覚えてんだよ?」
「……」
「…や約束したよね? あの夜、一緒に生きていこうねって、さ」

 少し頷いたレイをシンジはふたたびその腕の中にしっかり抱きしめた。そして、その空色の髪に
顔を埋めた。

「…碇、くん」
「…やっぱり綾波。綾波だよ。確かにあの時、助け出していたんだよ(そうだ、この匂いも、間違いないんだ)」
「…碇くん、わたしは…14年前に碇くんが助けようとした『綾波レイ』ではないの…」
「だ、だから−」
「四人目、だから」
「!?」 
「……碇、くん」
「…え…そん、な…なんだよ、綾波。四人目って何なんだよ? 綾波が何言ってんだか全然解んないよっ!」
「14年前の戦いで碇くんが助け出した綾波レイは、まだ初号機の中にいるの」
「…そ、そんな初号機の中から僕がサルベージされた後は空っぽだったって、綾波はいなかったって、ミサトさんが」
「今でも、彼女はソコにいるわ。副司令が話したことは真実なの」
「…そ、そんな…それじゃあ君は一体」
「…アヤナミレイ……副司令が碇くんに話したオリジナルの複製のひとつ」
「……そ、そんなバカな…だったら何故、綾波の記憶が…」
「…わたしたちは造られたモノ。そして、生体の維持と成長を目的としないわたしたちのカラダはとても脆弱なの。
だから、体組成を維持する目的でLCLを介した身体の補修とメンテナンスを定期的に検診という形で受けて
いるの。…そして、それは碇くんの記憶の中にいる綾波レイも同じ。検診の度にあらゆる体組成のデータと
併せて、脳内の電気信号についてもバックアップが施され、綾波レイの記憶としてマギに蓄積されてきたの」
「…それで、その検診のときに君は綾波の記憶を!?」

 コクリと頷くレイ。でも…と蚊の鳴くような声で言葉を続ける。

「…記憶の複製は複製に過ぎないわ。碇くんと綾波レイとの出来事を『知っている』だけなの。…だから…」
「…そう、なのか…だから、君はあの戦いで僕が助けようとしたのを覚えていないんだ」
「…そう。…でも、わたしは今それ以前のことは『覚えている』わ。まるで自分自身のことのように」

 どうして? と縋るようなシンジの目の前に、レイは通路の上に落ちていた銀色のラップトップを拾い上げ
視線を落とす。

「…それは君が楽譜と一緒にここに残していた…そうだ、一緒にネルフネットに繋いだあのラップトップPCだ」

 それが、と続くシンジの言葉を遮るように、その銀色の筐体からゆっくりと顔を上げたレイ。淡い緋色の
眸にシンジが大写しになる。

「…碇くん」
「………」
「碇くんの記憶にいる綾波レイも、基本的にはわたしと同じオリジナルの複製。…でも、決定的に異なっている
点があるの。…彼女には魂が宿っている。でも……」
「………」

「わたしにとっては、コレが魂なの」




      ■□■□ ■□■□



 鼓動のように鳴り響く警報。通路を駆け抜けるレイの靴音が反響している。ヴンダーの艦砲射撃に
よるものか、轟音に続く激震がレイから平衡感覚を奪った。

「!?」

 曲り角を駆け抜けようとして慌てて足を止めたレイ。通路の角に身を隠し注意深く様子を伺った
その先をアサルトライフルを手にした幾人もの戦闘員が足早に通過した。

(旧UN軍!?)

 別ルートから第二層に進入したとみられる旧UN軍だった。

(エヴァ建造現場への最短ルートを取っている……情報が漏れている?)

 踵を返したレイはその足を居住エリアに向けた。非常階段を使って一気に最深部まで下りようと
考えたからだ。万が一に備え、途中購買部に立ち寄ったが、第一種戦闘配置が発令されている状況下、
既に購買部全体が特殊合金の隔壁で覆われている。物資や武器をネルフ本部内の各部署に送るLCLシューター
がフル稼働する音、そして購買部職員達の怒号らしきものが隔壁越しに聞いてとれた。弾薬の調達を諦めた
レイは再び駆け出すや一気に階段を駆け下りた。
 最下層で少し息を整えた後、まるで鉄板のようなドアを慎重に開けたレイは通路の行き止まりにある廃棄場
への入口を確認した。素早い身のこなしで通路へ身体を踊りだしたその時、背後で無数の乾いた連射音が響いた。
銃撃の衝撃波をモロに受けフロアに倒れ臥すレイ。視界の隅で複数の戦闘員が散開したのが見て取れた。

(わたし、わたしはここで死ぬわけにはいかな―)

 後方通路を埋めた敵戦闘員。そのレーザーサイトが体勢を整えようとしたレイを捉えようとしたまさにその時、
非常階段の鋼鉄のドアが激しく開け放たれた。中から吐き出された人影が豹のようにレイに飛びかかるや、
次の瞬間レイの身体は大きく跳んでいた。

「!?」

 敵戦闘員の一斉掃射が床面を砕き、其処彼処に兆弾が跋扈した。ほとんど同じタイミングで開け放たれた
非常階段の入口から半身を乗り出した大男がSCARのフルオートで敵戦闘員に応射し、レイを片手で抱く戦闘員
の女は恐ろしく正確な射撃で勢いのままに前進した敵を次々に無力化していった。

「レイちゃん、大丈夫?」
「…あなたは」

 想定外の会敵に刹那怯んだ様子を見せた敵戦闘員だが、続々と到着した新手が通路の角から僅かな隙をついて
弾丸を送り込んでくる。それでも魁偉の戦闘員は弾幕を張りながらレイと女性戦闘員の前に立ち塞がるように
移動した。

「レアセールね。いくわよ」
「え?」
「あなたのガード引き受けたわ」

 レイを抱きながら暇なく応射する戦闘員の女は、先日病院で一人ピアノを奏でていた女性だった。魁偉の男
に目配し敵の前線により一層激しい弾幕を張らせると、レイの手を曳き廃棄場の入口に向かって駆け出した。




            ▲▽▲▽   ▲▽▲▽  


「………え?」 

 ごうと地底から突き上げた鳴動が大地を揺るがした。

「…わたしたちはオリジナルの複製。そして、最初の複製に宿された魂は引き継がれていくの。この身体が
その体組成を維持限界の14年間を超えて崩壊したら、代わりの複製がその魂を受け継ぐの。碇くんが探
し求める綾波レイも一人目からそうして受け継いだわ。でも、彼女はその魂を宿したまま今なお初号機の中
にいる。…だから偽りの魂を人工的に造りだすしかなかったの。そして、マギで造られたその魂を複製の
生体に埋め込む鍵になるのがこのラップトップPC。そう、これの本来の役割は、鍵、なの」
「…か鍵?」
「…そう、鍵。でもその鍵が機能するのはこのPCを引き継いだ特定の複製にだけ。それ以外の複製には
機能しない。だからその魂を定着させることが出来るのもたったひとつの複製にだけ。…それでもゼーレは
第11使徒そして第12使徒戦に向けて複製を量産しようとしたわ。でも量産したなかで急速培養が成功した
のは三体のみだった。あとは廃棄されたわ」

 レイは哀しげな眼差しを広大な空間に広がる無数の廃棄場に向けた。

「そして、ゼーレの子供たちとして産み出された幼い彼女たちはパイロットとして従事することになった」
「……」
「…でも、彼女たちは偽りの魂さえ持たないただの複製。容れモノにさえなれなかったただの人形。だから、
何の思念も作り出せない彼女たちは生体維持のための最低限のA.T.フィールドさえ身に纏う事は出来なかった。
…その結果が体組織の崩壊。使徒との戦いの負荷に耐えられなくなって、幼い彼女たちの身体は崩壊したの。
造りモノでも魂を定着させた三人目を除いては」
「……」
「…でも、その三人目もサードインパクトを止める代償としてドグマに消えた。そう、消滅したの」
「…それじゃあ、さっきここで僕が見たのは」
「そう、容れモノにさえなれなかった三人の虚ろな意識体の残滓、そして三人目のトルパとが混ざり合ったもの。
彼女たちもまた培養チューブの中で綾波レイと碇くんとの関わり合いを、結果としてまるで自身の記憶として
埋め込まれることになった。…だから、碇くんを求めてきたのは必然だったの」
「…ご、ごめん。まだとてもじゃないけど、ちゃんと理解できそうにないよ…」

 …そう、と消え入るような声で顔を俯かせたレイは、でもこれが真実なの、と言葉を繋げた。

「…理解できないことも多いけど…だったらでもなんで、綾波はさ、貰いものの記憶にしか存在しない僕を助けたんだよ? 
自分を犠牲にしてまでさ。自分だって死んじゃうところだったじゃないか!?」

「…碇、くん」

 俯かせていた顔をシンジに向けたレイ。零れんばかりに涙をためた淡い深紅の眸の意味を、シンジは予見する。
 いまだ知りえない真実の存在を予見する。  

「…碇くんは、決して貰いものの世界の人ではなかったの…ずっと…ずっと一緒に過ごしてきたの」




      ■□■□ ■□■□


「作戦発動まであと10分。レイはまだ来ていないのか?」

 冬月が誰に聞くとも無く呟いた。

「レイは必ず来る。Mark6による最後の命令を与えている」
「しかし、ヴィレの戦闘員が既に第三層に進入しているのだぞ」
「…問題無い。どれほど情報をもっていようが連中がここに辿り着くことは無い」

 不敵な笑みを微かに浮かべたカヲルを真っすぐに見据えるゲンドウ。
 その眸が緋色を一層深くしたように思えた。

「…まあ、そうだな」 

 冬月の言葉が天井に霧散した。



 ネルフ本部最深部。廃棄場ではいよいよ銃撃戦が激しさを増していた。
 入口を抜け廃棄場の奥に向かった二人を援護し扉の前で立ちはだかるように応戦していた魁偉の戦闘員は、
殺到する敵戦闘員に廃棄場内部への後退を余儀なくされた。入口から半身を出しSCARのフルオートで応射するも
多勢に無勢、どれほど弾幕を張ろうが、弾倉を取り替える僅かな隙を突かれ豪雨のごとき一斉掃射に晒された。
身を隠す出入口付近はフルメタルジャケット弾により扉は飛ばされ、壁面はズタズタに損壊された。
 休みなく銃弾を撃ち込みながらも、大男は襟元の無線機に声を張り上げた。

「こりゃ埒が明かねえな…急かして悪いが、ここももってあと5分てとこだからよ。焦らず急いでお願い出来っかな?
 なあ、長門三佐さんよお」

 了解と返そうとしたミキを無線越しに大きな炸裂音がつんざいた。二人の足元を異質な地響きが揺るがした。

「…高雄さん?……高雄さんっ!?」

 反射的に見返った入口の方角に湧き上がる噴煙を確認したミキは、刹那表情を沈ませたが直ぐに顔をあげると、
さ、行きましょ、と再びレイの手を引き駆け出した。

 どれほど走ったのだろうか。溝渠はとうに途絶えた先、更に奥へと進んだところで行き止まりになっていた。
 円錐型の小さな丘の向こうから淡い光が漏れている。

(…次元の結節点で現れるという…これが…)

 目前に広がったのは、人工的な地底湖。その水辺から鉄道の無限軌道にも似た小径が湖へと延びている。
 そしてその先、湖の中で何か淡白い光が点っているのが見てとれた。

「あった」
「…これが、レアセール」

 小径をLCLのさざ波が泡立つ水辺まで歩を進めた二人。
 乳白色のトビラにも似たものが水中で淡い光を発し波に揺れている。

「さあ、レイちゃん。すぐに敵がやって来るわ。行くのよ」
「…あなたは?」
「アレが消えるまでここを守るわ。連中を中に入れるわけにはいかないものね」
「…それはダメ。危険過ぎる。一緒に行った方がいいと思う」
「あは、レイちゃん、優しいんだ。…ありがと。でもね、あたし一人じゃ行けないんだ。相棒がいるの」

 ミキは切なげな表情で天を仰ぎ見た。

「その人ね、あたしにとってとても大切な人なの。ずっと一緒にいたいの。…レイちゃんには、この気持ち分かるよね?」
「……うん」
「…だから、あたしは行けないの」
「…でも。大勢の敵が押し寄せてくるわ」
「大丈夫。その相棒が必ず助けに来てくれるから。だから大丈夫。だから、あたしに構わずに行くのよ」
「…解ったわ――」

 逡巡の色を消せずにいたレイ。小径に足を向けようとしたまさにその時、鋭利な衝撃がミキを襲った。
 蹌踉めきながらも倒れ伏すのを必死に堪えるミキ。その左腕はみるみる朱に染まっていった。

「長門三佐!?」
「…っ…ダメ! 来ちゃダメ!」
 
 超遠距離からのスナイパーライフルによる銃撃。上腕部とはいえ着弾の衝撃はミキに深刻なダメージを与えた。
 間髪入れずにふたりを襲う第二の銃撃。初弾よりも照準が修正されたスナイパーライフルから秒速2035フィートで
送り込まれたNATOフルメタルジャケット弾。一直線にそこにいる華奢なふたりを貫くまさにその瞬間、空間がゆらりと歪んだ。
瞬時に拡散したネーブルの彩。何人たりとも蹂躙する事のできない最強のイージス。ふたりに着弾したかに見えた弾丸は、
夥しいエネルギーを放出し、そして蒸発した。

「…レイちゃん、あなた」

 辛うじて岩場の陰に身体を滑り込ませた二人。レイは胸を押さえ苦しげにあえいでいる。

「…え、A.T.フィールド。あ、あなたが?」
「……解らない…ただ撃たれる訳にはいかないと、思った。だから…」

 目の前のレイの消耗は激しく、胸を押さえ続けるレイの背に手をそっとあてた。

「レイちゃん、解ったわ。あまり喋らない方がいい」
「…見たく、ない」
「え?」
「…見たくないの。わたしのために皆が傷ついていくのを」
「…レイちゃん…」
「…わたしは…偽りの魂を持った複製品。ヒトではないの。そして…碇くんを絶望させるだけの存在。そんなわたしのために―」
「レイちゃん、違う! 絶対違う。カヲル君に聞いたことがあるわ。A.T.フィールドはヒトの心が造り出す壁だって。だけど多くは
他者への拒絶から自分の為に使うんだって。でもレイちゃんのは違う。他者を思いやる心が造り出す盾だもの。今のだって、そう」
「…長門三佐」
「…そして、それこそが、ヒトが持つ思いやり、なのよ。どこから見ても立派なヒトなの。レイちゃんは…」

 ミキはレイをギュッと抱きしめる。まるで寒さに凍える魂ごと包み込むように。そして、我が子に語りかけるように言葉を紡ぐ。

「…そんなレイちゃんがレアセールをくぐるって決めたんだもの。それは、誰かに取り戻して欲しいものがあるからだと思うの。
だったら行かなくちゃ。レイちゃんのその希望が叶う為なら、あたしはどんな役でも引き受けるわ」

 静かに抱擁を解いたミキは、愛おしげにレイの顔をながめた。

「…ここでお別れよ。あたしが連中を引きつけるから。その隙をついて行くのよ」
「…長門三佐」
「…いってらっしゃい」

 天使のような笑みを浮かべると、レイを振り切り岩場の上に踊り出た。
 アサルトライフルを手にした夥しい敵戦闘員は、唐突に姿を現したミキに一同ギョッとし動きを止めたが直ぐに散開した。
 様子を伺うように距離を詰め、レーザーサイトを光らせた。
 一人向き合う長門ミキ。左腕を真っ赤に染め、デザートイーグルを敵戦闘員に片腕で照準を合わせた。

 待たせたわね、とニコリと微笑んだ。


 激しい銃撃戦の音に続いて、凄まじい爆音が広大な空間に響きわたった。