ほんの少しだけ……綾波の心を……
ほんの少しだけ……華奢な背中を、押してあげよう……
「私……碇くんに……」
「恋してる」
名前も知らないクラスメイトに
ほんの少し押してもらった華奢な背中
3月、春休みの穏かなひと時
レイの恋は、始まった……
5月初め、ネルフ本部中央電算室 ────
「……リツコさん」
「ん?」
呼ばれて振り向いたのは、元技術開発部技術局第一課、E計画責任者、赤木リツコ。
今は新生ネルフの技術開発部と科学調査分析部の部長を兼任している。
トレードマークの金髪は少し伸びて、白衣の肩にかかるくらい。
表情はずいぶんと優しくなった。
「あら、レイじゃない」
そこには、制服姿のレイが所在無さげに立っていた。
綾波レイ
夏空のように青い髪、夕焼けのように赤い瞳、透き通るように白い肌。
整った顔立ちの、華奢な少女。
元エヴァンゲリオン零号機専属操縦者。
……最後の戦いが終わってしばらくした頃、レイはリツコのことを名前で呼ぶようになった。
─── ミサトかシンジ君ね
リツコは自分を呼ぶ時に、言い難そうに口篭もるレイを見て微笑んだ。
「無理しなくてもいいのよ」
「いえ……これも……絆、ですから」
微かに照れたようなレイの表情に、リツコの胸が熱くなる。
「レイ……」
─── 私にも……絆を求めてくれるの……
サードインパクト回避後、ネルフは大破したエヴァシリーズを解体しターミナルドグマを封鎖した。
そして、組織の再編成を行い、エヴァ関連技術を民間へ転用するための研究機関として生まれ変わった。
同時に、チルドレン達は身柄の安全確保とエヴァ運用時に蓄積されたデータ活用のため、
新生ネルフの技術開発部職員として研究に協力することになった。
もちろん、エヴァ操縦者としての功績から生活の保障は十分にされているし、
身辺の安全が確認できれば、進路・職業選択の自由も約束されている。
中学校が再開され3年生になった今は、放課後にネルフ本部で週2、3日程度の勤務がある。
また、夏休みなどの長期休暇には、数日間のテストなども予定されているようである。
「今日はテスト無かったわよね?」
「はい……」
いつもと違うレイの態度に、リツコの顔が少し曇る。
「……どうしたの? どこか調子悪いの?」
「……いえ、少し相談したいことが」
遠慮がちに言ったレイが、制服のスカートをキュッと握るのをリツコは見逃さなかった。
「そう……いいわよ、じゃあ私の部屋へ行きましょう」
「はい」
20分後、赤木研究室。
そこは、技術開発部からも科学調査分析部からも独立した、リツコの私室。
設備の規模こそ小さいものの、その能力は中央電算室に匹敵すると言われている。
リツコは穏やかな微笑を浮かべて、レイを見ていた。
「どうすればいいんでしょう……」
リツコの前に俯いて座るレイの頬は、真っ赤に染まっている。
膝の上のスカートは何度も握りなおされたのだろう、くしゃくしゃになっている。
「そうねえ……あなた達の場合、問題は……」
リツコはデスクの端末に、いくつかのファイルや予定表を呼び出していく。
「……うん、これがいいかな」
誰に言うともなく呟くと、リツコはレイの方に少し身を乗り出し、声を落として話し始めた。
「いいこと……」
「ありがとうございました」
「がんばってね」
小さく一礼をして部屋を出て行くレイの後姿にリツコが声をかける。
「……はい」
レイが振り向いて、もう一度小さく頭を下げる。
「さて……」
ドアが閉まったのを確認して、リツコは電話に手を伸ばした。
「……あ、ミサト? ちょっとこっちに来てくれる?」
「……あーん? 何よ、いきなり」
不機嫌そうに受話器に向って話すのは、元戦術作戦部作戦局第一課、葛城ミサト。
戦術作戦部が解体された現在は、保安諜報部に移動してチルドレン達に関する全てを担当、指揮している。
早い話が、保護者だ。
「……ホントにもう、あたしだって忙しいんだからね!」
リツコとは対照的な黒のロングヘアが、深紅のジャケットの背中で不満げに揺れる。
「……でぇ、それって急ぐの?」
「……ええ、最優先事項よ……来たら話すわ、よろしく」
電話の向こうでミサトが何か叫んでいるが、リツコは気にせず受話器を戻す。
─── 恋……か
「ただいま」
レイはリビングのソファーでテレビを見ている紅い髪の少女に声をかけた。
「おかえり! 遅かったのね、本部?」
蒼い瞳が振り向く。
「ええ……」
惣流・アスカ・ラングレー
流れる紅い髪と勝気な蒼い瞳。明るく活発な、太陽のように輝く少女。
元エヴァンゲリオン弐号機専属操縦者。
レイは、住んでいたマンションの取り壊しが決まったため、先月からアスカと同居している。
場所はミサトの部屋の隣。
ミサトの部屋では今までどおり、ミサトとシンジが暮らしている。
と言っても、隣り合わせの二軒はリビングの壁を取り払い、多少の改装を加えられて一軒の家と化していた。
何の事はない、広くなったミサトの部屋にレイが引っ越してきたようなものだ。
そして、当然のことだが家事を取り仕切っているのは、シンジ。
レイはそのまま広いリビングを抜けて、葛城家のキッチンに顔を出す。
「ただいま」
「あ、おかえり、綾波。今日は遅かったんだね」
シンジは料理を作る手を止めて、レイの顔を見る。
碇シンジ
艶のある綺麗な黒髪と漆黒の瞳。優しい笑顔の、少し華奢な少年。
元エヴァンゲリオン初号機専属操縦者。
「今日は綾波の好きな煮物にしたんだ。もうすぐできるから、ちょっと待ってて」
レイは小さく頷き、シンジが料理を再開するのを確認すると自分の部屋へ急いだ。
手早く着替えを済ませ、部屋を出ようとして……思い出したように机の前に戻る。
……それは、同居を始めて数日後の朝だった。
「アンタねぇ、家でも少しは身だしなみに気を使いなさいよ!」
寝癖でクシャクシャの髪のまま、リビングでボーっと座っているレイにアスカが言った。
「いつまでもそんなじゃ、恋人だってあきれて逃げてっちゃうわよ!」
普段の自分の姿を棚に上げてアスカが言い放った言葉は、レイの胸に深く突き刺さった。
─── 恋人でも……逃げてしまう? ……それはダメ
レイは机の上に置かれた鏡を覗き、着替えた時に少しはねた髪を丁寧に直す。
もう一度チェック。
今度は鏡を手に持ち、全身を見る。
――― 大丈夫
そして、急いで部屋を出る。
「今夜はミサトさん遅くなるんだってさ」
戻ってきたレイに気付いたシンジが、楽しそうに話し始める。
「ああ見えても、ちゃんと仕事してるんだね」
「……碇くん」
ダイニングテーブルの前に立っていたレイが、真剣な眼差しでシンジを見る。
「ん……何?」
振り向くこともなく、シンジが声だけで答える。
「わ、私……手伝う」
「え? あ、あの、だ、大丈夫だよ!」
レイの唐突な言葉に、振り向いたシンジが慌てて手を振る。
「もう、できるから……だから、綾波は休んでてよ!」
「……そう」
レイはがっかりしたように俯くと、イスをひいた。
─── どうしたんだろ、料理手伝うなんて。片付けはいつも手伝ってくれるけど……おなか空いてるのかな
シンジの疑問をよそに、レイはゆっくりと自分の席に座る。
それは夕食を待つレイの指定席。
誰にも邪魔されず、シンジを見ていられる特等席。
─── それとも……料理、したいのかな?
あれこれと考えるシンジの後姿を、レイは寂しげな瞳でじっと見つめた。
「ごちそうさまー!」
「ごちそうさま」
「ごちそうさま。片付けたらお茶にしようか? 今日、美味しそうな煎餅見つけたから買ってきたんだ」
シンジが立ち上がり、自分の椅子の背もたれにかけていた紙袋をテーブルに置いた。
「いいわねえ。でも、アタシは紅茶ね!」
アスカも立ち上がり、袋の中をちらっと覗いて……そのままリビングに直行。
「はい、はい。綾波は日本茶でいい?」
こくん
レイは小さく頷き、静かに立ち上がると食器を運び始める。
「綾波……料理、したい?」
洗い上げた皿をレイに渡しながら、シンジが切り出した。
「え?」
皿を受け取ったレイの手が止まる。
「も、もしそうだったら……その、僕でよかったら……教えるけど」
きょとんとした赤い瞳が、シンジの横顔を見つめる。
「あ、いや、さっき手伝うって言ってくれたから……」
シンジの手も止まる。
「なんとなく、料理したいのかなって思って……違ってたら……ごめん」
見つめる赤い瞳と目が合って、シンジが赤くなる。
「私……料理、教えてほしい」
レイも赤くなる。
「……碇くんに」
最後は囁くように言って、俯いてしまう。
「………」
「………」
「なあにやってんのよ、二人で俯いちゃって!」
沈黙を破ったのは、テーブルの向こうで仁王立ちのアスカ。
「な、な、何って、片付けてるんじゃないか!」
「はい、はい、はい! ラブラブごっこは、片付けがぜーんぶ終わってからにしてよね!
いったい、いつになったらお茶の時間になるんだか!」
あきれたように言うと、アスカは煎餅の袋を掴んでリビングに戻っていく。
「バッカみたい! 水くらい止めなさいよ!」
アスカの捨て台詞がシンジの耳に入る。
「ア、アスカ!……ホントにもう」
シンジは慌てて水を止め、ため息をついて隣のレイを見る。
「ラブラブ……」
少し俯いて、小さな声でつぶやくレイ。その頬はほんのりと赤く、瞳は心なしか潤んでいる。
─── あ、綾波……かわいい
レイの料理修行が始まって一週間が過ぎた。
「綾波って才能あるんだね。この調子ならすぐに上手になるよ」
シンジがレイの上達の速さに驚いている。
「そ、そんなこと……」
頬を染めるレイ。包丁を持つ手が止まる。
「ホ、ホントだよ……」
一瞬見つめ合って、俯く二人。
「だーっ! 毎日! 毎日! 毎日! 毎日! あんた達は同じことばっかり!」
テーブルの向こうから、腰に手を当てたアスカが睨んでいる。
「そんなことばっかりしてるから時間がどんどん遅くなるんじゃない!」
「まあ、まあ、アスカ。いいじゃない、練習中なんだからゆっくりさせてあげれば」
リビングからのんびりとしたミサトの声が聞こえる。
「アンタはビール飲んでりゃいいんでしょうけど、アタシはお腹すいてるの! もう8時なのよ!」
壁にかかった時計を指差して、アスカがリビングのミサトに叫ぶ。普段の夕食は7時だ。
「ごめんなさい……私が遅いから……」
アスカの言葉にレイが俯く。
「わかってんならちゃんと……」
「あ、綾波が悪いわけじゃないよ!」
シンジが、アスカの言葉を遮る。
「ア、アンタねえ……」
アスカの頬がぴくぴくと震えるが、シンジには見えていない。
「僕の教え方が……」
シンジが申し訳なさそうにレイを見る。
「碇くんは、悪くない……」
潤んだ瞳で、シンジを見るレイ。
目が合って、頬を染めて俯く二人。
「だーかーらー! それをやめろって言ってんのよ! バカシンジ! バカレイ!」
アスカの受難は、しばらく続きそうである。
6月初め、ネルフ本部 ────
「シンジ君、ちょっといい?」
技術開発部の一角にチルドレン達のデスクがある。
「あ、はい。なんですかリツコさん」
端末で自分の実験スケジュールを確認していたシンジがイスごと振り返った。
「突然で悪いんだけど、今度の日曜日に出張頼めるかしら?」
シンジの隣の席で同じように端末に向っていたレイが顔をあげる。
「今度の日曜日……5日、ですか?」
シンジは以前から新しいシミュレーターの調節や、基礎データの採取のため
1ヶ月に1回程度、松代に出張していた。
「……こっちのスケジュールには入ってませんけど」
シンジが端末を確認する。
「そうよ、今回はいつもとちょっと事情が違うの」
「は?」
「正規の出張じゃないの」
リツコがやれやれという風に、わざとらしいため息をついて見せる。
「実は……ちょっとしたミスでね、松代のデータが一部飛んじゃったのよ」
その言葉に、後ろの席で技術開発部職員と話をしていたアスカが振り向く。
「あ、そうなんですか……」
「それで、もう一度データを取らせて欲しいって言ってきてるんだけど……シンジ君の都合どうかしら?
もちろん、出張手当はいつもの倍は出させるわ」
「は、はあ……それは別に……」
「……と言うことで大丈夫だと……アスカさん?」
「え? あ、ああ、ごめんなさい。えっと、なんだったかしら……」
アスカはシンジとリツコの話の続きを気にしながらも、職員との会話に戻っていく。
リツコは、シンジのはっきりしない返事を聞き流して、持っていたファイルから何枚かの書類を抜き出す。
「もしかして、デートの予定があるとか?」
取り出した書類をシンジに渡しながら、さらっと言う。
「な、な、何てこと言うんですか! そんなのあるわけ無いじゃないですか!」
シンジが受け取ったはずの書類が床に散らばる。
「あら、無理しなくていいのよ。今回はあっちのミスなんだから、都合悪いんならデータは何とかするように言うわ」
リツコがこともなげに言う。
「え、あ、だ、大丈夫です! 何も予定無いですから行きます!」
床の書類を集めながら、シンジは少し眉をひそめる。
「あ、あの、それに……テストのデータを何とかって……やっぱりダメですよ、そんなの……」
「あら、そう? じゃあお願いするけど、本当に大丈夫?」
「だ、大丈夫ですよ!」
「本当に? 私、見ず知らずの女の子に恨まれるのは嫌よ」
リツコがミサトのように悪戯っぽく笑う。
「そ、そ、そんな子いませんよ! いるわけないじゃないですか!」
シンジは拾い集めたばかりの書類を握り潰しながら大きな声で否定し……恐る恐る隣のレイを見る。
「……なに?」
狼狽えるシンジを見ていた赤い瞳と、まともに目が合ってしまう。
「あ……い、いや、別に……何も……」
シンジは慌てて目をそらす。
「そう……」
その素っ気無い返事とは裏腹に、赤い瞳が少し笑っていたことにシンジは気付かなかった。
「だいたい、リツコさんまでミサトさんみたいなこと言わないでくださいよ」
握り潰した書類を広げながら、シンジがブツブツ言う。
「あら、私が冗談言っちゃいけない?」
リツコがシンジの顔を覗き込むようにして言うと、シンジは思わず横を向いてしまう。
「そ、そんなこと、無いですけど……」
「だったらいいじゃない」
「い、いいですけど……あ」
実験のスケジュールを見ていたシンジの手が止まる。
「これ、時間遅いんですね……」
「そうなの、無理して入れたスケジュールだから今回はちょっと遅くなるのよ」
リツコが仕方ない、という風に肩をすくめる。
「向こうで泊まってもらってもよかったんだけど、学校のこともあるからちゃんと戻ってきてね」
そう言って、こちらを見ているレイにウィンクすると、レイの頬が一瞬で赤くなる。
「ああ、そうですね……」
書類を見ているシンジはもちろん気付かない。
「じゃあよろしくね。ミサトが一緒に行くことになってるから、あとで打ち合わせしておいて」
「はい……」
――― はあ……なんだか、リツコさんがミサトさん化してきてるみたいだ……
「……アスカさん! 聞いてます?」
「え? あ、ああ、うん、もちろん聞いてるわよ……」
何度目かの職員の言葉に、アスカが引きつった笑顔で答える。
――― 何か、引っかかるわねえ……
6月5日、日曜日。午後11時、ネルフ本部ゲート前 ────
「おつかれさま!」
「いえ、ミサトさんもおつかれさまでした」
なんだかよくわからない妙なテストを済ませ、なんとなく引っ掛かりを感じたまま、シンジの松代出張は終わった。
「あたしも一緒に帰りたいんだけど、まだ仕事が残ってて今夜は帰れそうにないのよ。ごめんね!」
ミサトが顔の前で手を合わせてウィンクする。
「あ、そーだ! 誰かに送らせようか?」
「い、いえ、大丈夫ですよ。まだリニアも動いてますから」
シンジが携帯で時刻表をチェックしながら言う。
「そお? ホントごめんね。じゃあ、あとの報告はあたしがちゃんっとしておくから、気をつけて帰ってね!」
ミサトは申し訳なさそうに笑って、手を振りながらゲートの向こうに消えていった。
「はあ……なんだかよくわからないテストだったなあ……いったい何のデータ取ったんだろ……」
シンジはため息をつくと、リニアトレインの駅へと歩き出した。
同日。午後11時少し前、葛城邸 ────
夕食も終わり、シャワーも済ませてレイとアスカがリビングで雑誌を広げている。
一見すると、和やかな就寝前のひと時なのだが……
レイが見ているのは、広げられた「今日のおかず、365日」……ではなく、隣に置かれた携帯。
アスカが見ているのは、広げられた「水着特集」のファッション雑誌……ではなく、携帯を見つめる綾波レイ。
リビングには、レイの発する微妙な緊張感が漂っている。
――― こんな時間にわざわざお気に入りのワンピで連絡待ち……これって、シンジのお迎えよね……
11時過ぎに帰ってくるって言ってたし……
白いワンピースのレイは、アスカに見られていることなど全く気にしていない。
いや、正確には関心がないのだろう。
「……レイ?」
「なに?」
レイの視線は携帯から外れない。
「えっと……もしかして……シンジのお迎え、行くの?」
シンジという言葉に反応したレイがアスカを見る。
その刺すような視線に、アスカはたじろいだ。
「あ、い、いいのよ! 別に答えなくても! ちょっと聞いてみただけだから……」
「……行くわ。碇くんのお迎え」
視線を携帯に戻しながらレイが答える。
「そ、そうなんだ……」
かろうじて答えて、アスカは小さくため息をついた。
――― はあ……予想はしてたけど、久しぶりにあの眼で睨まれると焦るわね。
シンジのこととなると、本当に人が変わるんだから
アスカは、再び携帯に集中しているレイを見た。
――― 明日はシンジの誕生日だってヒカリが言ってたけど……
洞木ヒカリ
いろんなことによく気がつくクラスメイトで、アスカの一番の親友。
どこからか聞いてきたシンジの誕生日に、サプライズパーティーをしようとアスカに相談していた。
「今日、ヒカリに聞いたんだけど……」
アスカが、レイの様子をうかがいながら恐る恐る声をかける。
「明日さあ……シ、シンジの誕生日なんだって。……知ってた?」
「……ええ」
視線を携帯に固定したままレイが答える。
「な、なんだ、知ってたんだ……」
――― ということは、あれって、きっとプレゼントよねえ……
アスカはダイニングテーブルの上に置かれた膨らんだバックを見た。
昼間、アスカがヒカリと出かけている間にレイが用意していたらしい。
「……リツコさんに教えてもらった」
「へ?」
思いもかけないレイの言葉に、アスカは素っ頓狂な声をあげた。
レイはそんなアスカの反応を気にすることもなく、じーっと携帯を見つめている。
「リ、リツコが教えてくれたの?」
「……ええ」
「……お迎えに行くっていうのも、リツコが?」
「……ええ」
――― 黒幕はリツコか……
アスカの蒼い瞳が、宝物を見つけた子供のようにキラキラと輝く。
――― おかしいと思ったのよねえ。いくら松代でも、そんな簡単にデータが飛ぶはずないのよ。
バックアップだって定期的に取ってるはずなんだから……
アスカは、この数日のリツコやシンジの言葉と、レイの態度を思い出していた。
――― 今日のシンジの出張はリツコの計画……レイとシンジを……
レイは相変わらず、身じろぎもしないで携帯を見つめている。
――― バカシンジ、はめられたわね……
まあ、シンジはいつまでたっても自分からは行動しないだろうから、レイから仕掛けるしかないか……
しっかし、リツコも思い切ったことするわねぇ……松代を使うなんて……ひげオヤジは知ってるのかしら……
そして11時を過ぎた頃、ついにレイの携帯が鳴った。
「はい……」
ワンコールで出るレイ。その動きに無駄は無い。
「……わかりました」
一言だけの会話で携帯を切ると、レイは緊張した顔で立ち上がる。
「出かけるの?」
「ええ」
アスカの問いかけに振り向きもせずに答えると、足早にダイニングに向う。
そして、テーブルのカバンをそっと取ると、玄関へ急ぐ。
「レイ! ちょっと待って!」
レイが玄関で靴を履いていると、パタパタとアスカがやって来た。
「ほら、こっち向いて」
レイの肩をつかんで振り向かせる。
「な、何を……」
アスカの左手が素早く伸びると、レイの細い顎に触れる。レイは反射的にキュッと目を閉じてしまう。
続いてレイの唇に冷たい物が触れ、肩がビクッと跳ねる。
「そのまま、じっとしてて……」
少しこもったようなアスカの声にレイがそっと眼を開くと、何かをくわえた真剣なアスカの顔が目の前にある。
唇に触れる冷たい感触。
─── これは……口、紅?
「……はい、できた」
口紅にくわえていたキャップをして、アスカがニッコリ微笑む。
「あ、あの……」
「うん、似合ってる」
アスカは満足したように頷くと、ショートパンツのポケットから小さな手鏡を取り出してレイの前に差し出す。
「あ……」
鏡に映った顔を見て、レイの頬がわずかに赤くなる。
――― 口紅……私に、似合ってるの?
「これは、昔の女優のセリフだけど……」
手鏡をポケットに入れて、アスカが話し始める。
「勝負のとき……メイクは、女を強くするの……」
そして、アスカが悪戯っぽく笑う。
「でも、アタシもアンタも元がいいんだから、メイクもこれだけで十分よ!」
そう言って、淡いピンク色の口紅を顔の前で小さく振る。
「アスカ……」
「アタシは何でもお見通しよ! さあ、気合入れていってらっしゃい!」
腰に手を当てて胸を張るアスカに見送られて、レイは玄関を出た。
「いってきます」
「がんばってね、レイ……」
閉まったドアを見つめて、アスカがつぶやいた。
「娘を心配する母親ってこんな気持ち……違う、違う! 妹を心配する姉の気持ちよ!」
ブツブツ言いながらリビングへ戻るアスカの背中は、どこか楽しげだった。
「さすがに人も少ないや……」
静かな駅の階段を下りながらシンジは呟いた。
「最終のバスは………まだ少し時間あるか」
駅を出ると、街灯に白く浮かび上がる駅前の広場を見回す。
「月明かり……じゃないよな……」
見上げた空には、いつかと同じ満月。
─── 綺麗だな……
時々、バスのエンジン音が響く中、シンジはなんとなく月を見ていた。
「……ん?」
どれくらいそうしていただろうか、シンジは人の気配にゆっくりと視線を地上に戻した。
「あ……」
街灯の白い明かりに輝く、青い髪と白い肌。
見つめる瞳は、温かい赤。
白いワンピースの裾がゆっくりと揺れている。
その全てが銀色の輝きに縁取られて、白い景色の中から幻想的に浮かび上がる。
「き、れ、い……」
放心したように、シンジは近づいて来るレイを見つめた。
「碇くん?」
「え、あ、……あ、綾波、どうして……」
シンジの顔が一瞬にして真っ赤に染まる。
「おかえりなさい……」
「あ、た、ただいま……って、む、迎えに来てくれたの?」
シンジはレイの顔をまともに見ることが出来ない。
こくん
小さく頷くレイ。
─── 早く会いたかったから……
「……歩いて、帰ろうか?」
バス停の前でシンジが言った。
「……」
紅い瞳が不思議そうにシンジを見る。
「あ、その、月が綺麗だからさ……なんか、歩きたいかなって思って……どうかな?」
こくん
シンジの言葉にレイは素直に頷いた。
誰もいない通りを、二人はゆっくりと歩いた。
何かを話すことも無く、肩が触れるか触れないかの距離のまま……
そんな二人を、最終のバスが追い越していった。
大きな通りを抜けたところで、レイの携帯のアラームが鳴った。
「メール?」
「な、なんでもない」
レイの表情が硬くなる。
「……どうしたの?」
シンジが不思議そうにレイの横顔を見た。
「あ……あの……」
レイが何かを言おうとして、そのまま俯いてしまう。
─── 伝えないと……
何度も練習した言葉を思い浮かべる。
だんだんと鼓動が大きくなって、胸が苦しくなる。
バックを持ち直して、胸に手を当てる。
――― 簡単な……なんでもない言葉なのに……
「どうしたの? ……大丈夫? 気分悪いの?」
立ち止まり、胸に手を当てて俯いてしまったレイに、シンジが心配そうに声をかける。
「だ、大丈夫……何でも、ない……」
囁くようなレイの声に、シンジの不安は広がっていく。俯いているため、表情もわからない。
─── どうしよう、僕が歩こうなんて言ったからだ
「どこかで少し休憩しよう!」
シンジはあたりを見回すが、開いている店はない。コンビニもまだまだ先だ。
─── どこかに座れる場所が……あ、そうだ!
「綾波、もう少しだけがんばって。ちょっとだけ歩けばバス停があるから、そこのベンチで休もう、ね?」
そう言って、シンジはレイの左手を取ると自分の肩に回した。
「え……」
レイの赤い瞳が見開かれ、その瞳と同じくらいに顔が赤くなった。
心配で全く余裕のないシンジは、もちろん気付いていない。
「さ、行こう。ゆっくりでいいからね」
─── 僕のせいだ
「い、碇くん……大丈夫だから……」
レイの消え入りそうな声は、シンジに届かない。
「綾波、歩ける?」
「……え、ええ」
シンジの勢いに押されて、レイはそのままゆっくりと歩き始めた。
そっと見た横顔には、真っ直ぐに前を見つめる真剣な眼差し。
─── 私を心配して……ごめんなさい
「大丈夫? もう少しだからね」
「……ええ」
何度目かのシンジの問いかけに答えて、レイは目を閉じた。
─── ごめんなさい……でも……温かい……
シンジの肩の温かさに、いつのまにか胸の苦しさは消えていた。
「ついたよ、大丈夫?」
「……ええ」
街灯に照らされて、ベンチだけが妙に明るく浮かび上がっているバス停。
レイは、離れていく肩の温かさを惜しむように、ゆっくりとベンチに腰をおろす。
ちょっと離れてシンジも腰掛ける。
少し手を伸ばさなければ、届かない距離。
「……ごめんなさい」
「あ、いいよ、いいよ……僕が、歩いて帰ろうなんていったから……ごめん……ホントに大丈夫?」
「もう平気だから……」
レイは申し訳なさそうに俯いている。
「でも、少しだけ休憩してからゆっくり帰ろう。ね?」
「……ええ」
「あの……」
沈黙を破ったのはレイだった。
「え? 何? 気分悪い?」
ボーっとしていたシンジが慌ててレイの顔を覗き込む。
「……違うの」
レイが静かに顔を上げた。
「あ……」
─── 口紅
シンジが一瞬固まる。
「あ、いや、なんでもない。ごめん……え、と、何かな?」
シンジの視線が、そわそわとあたりを漂う。
─── 綾波、口紅つけてる……
「あ……あの……」
チラッと見たレイの頬が真っ赤になっている。
─── どうして……
「……あの」
レイの両手がぎゅっと握り締められる。
「お、お誕生日……おめでとう……」
「え……?」
シンジが何を言われたのかわからずに、レイを見る。
赤い瞳が少し潤んでいる。
「さっき、日付……変わったから……もう6月6日だから……」
「あ……」
「だから……おめでとう」
「あ、ありがとう……おめでとうなんて、ちゃんと言ってもらったこと無かったから……」
シンジが照れくさそうに笑った。
「……嬉しいよ」
「誰よりも先に言いたかったから……よかった」
そう言って、レイも恥かしそうに少し笑った。
「え?……それで、迎えに来てくれたの?」
「……ええ」
「あ……ありがとう。ど、どう言ったらいいか、上手く言えないんだけど……本当に、ありがとう」
レイは、シンジの照れた笑顔を見て、胸の奥が温かくなるのを感じていた。
─── 来てよかった
「あ、あの、碇くん……」
しきりに照れているシンジを見ていたレイが、再び口を開いた時だった。
きゅうううう……
突然、間抜けな音が静かなバス停に響いた。
「……?」
レイの瞳が丸くなる。
決まり悪そうにシンジがお腹を押さえて言った。
「ご、ごめん……時間無くって、まだ食べてないんだ」
「……そう」
レイが少し笑った。
「ひどいなあ、笑わなくてもいいじゃないか」
シンジも笑っている。
「ごめんなさい」
そして、レイはバックから何かを取り出した。
「……碇くん、これ」
「え?」
「お誕生日の……プレゼント……」
恥かしそうに頬を染めて両手で差し出しているそれは、明るい緑の布でキレイに包まれている。
「ほ、本当に? ……僕に?」
こくん
レイが無言で頷く。
「これ……」
シンジはそれを大切な宝物のようにそっと受け取ると、驚いたようにレイを見た。
「お弁当……私が作ったの……」
レイが不安と恥かしさが入り混じった瞳でシンジを見つめる。
………プレゼントはね、その人のためにどれだけ気持ちが込められているかなの
決して値段や見た目じゃないのよ
まだ経験が少ないかもしれないけど
あなたがもらって嬉しかったものを参考に、自分で考えてみなさい………
レイはリツコの言葉を思い出していた。
「……私が……今までにもらったものの中で、一番嬉しかったのが……碇くんの作ってくれたお弁当だから……」
アスカとレイが同居するようになってから、シンジはレイにも昼食の弁当を作っていた。
「だから……」
レイの瞳がだんだんと下を向いていく。
「他に、何も思いつかなくて……ごめんなさい……」
「綾波……」
シンジはもう一度、手の上にある緑の包みを見つめた。
「……ここで、食べてもいい?」
「え……ええ。……お茶も、あるから」
シンジは包みを膝の上に置いて、静かに、そっと開いていく。
初めて見る弁当箱にちょっと驚いて、そしてゆっくりと蓋を開ける。
「あ……」
シンジの動きが止まり、膝の上のプレゼントをじっと見つめる。
「……いただきます」
手を合わせるシンジの横顔を、レイは黙って見ていた。
初めて一人で作ったお弁当。
そこに込めた思いだけは誰にも負けない……
でも、味は……
また胸が苦しくなってくる。
一口、
また一口、
シンジは黙って箸を口に運ぶ。
レイは胸が締め付けられる思いに我慢できず、目を閉じた。
「……おいしいよ」
シンジの小さな声にレイは目を開けた。
「本当に……本当に、おいしいよ」
シンジの声が震えている。
「碇くん?」
「本当に……」
シンジの瞳から涙がこぼれる。
「僕のために……作ってくれたお弁当……本当に、おいしいよ」
「碇くん……」
「初めてなんだ……お弁当、誰かが僕のために作ってくれたの……」
レイは胸の奥が熱くなるのを感じた。
─── 私と同じ……
「本当においしいや。これなら、もう教えること無いね」
しばらく無言で食べていたシンジがゴシゴシと涙を拭うと、にっこり笑った。
「そ、そんなことない!」
レイがシンジに詰め寄る。
「まだわからないことが……いっぱい……」
驚いて固まっているシンジと至近距離で見つめ合ってしまったレイが、耳まで赤くなっていく。
「あ、ある……から……」
「ごちそうさま。本当においしかったよ、ありがとう」
蓋を閉め、弁当箱を丁寧に包みながらシンジが笑った。
「もしかして、このために料理の練習してたの?」
「最初は、そうだった……でも、今はそれだけじゃない……」
水筒をバックに入れ、弁当箱を受け取ったレイが呟く。
「じゃあ今は?」
「私が……私が作ったご飯を……いつも……ずっと、碇くんに食べて欲しいから」
レイは緑の包みを見つめながら小さな声で、しかしはっきりと言った。
「そ、それって……」
シンジの顔が真っ赤に染まる。
軽くなった緑の包みをバックに入れると、レイはシンジの方を向いて座りなおした。
シンジの瞳を見つめるレイの顔も、真っ赤に染まっている。
「わ、私……」
レイの頭の中に、何度も何度も繰り返したシミュレーションが再生される。
小さな鏡に向って、おめでとうの後に続けて練習した言葉。
「碇くんが……碇くんのことが……」
─── 練習のときは言えたのに……ダメ……苦しい……
鼓動が早く大きくなってくる……
頬が熱い……
我慢できなくて俯いてしまう……
……私が全力で応援してあげる
でもね、最後にがんばるのはレイよ……
リツコが優しく笑っている
……勝負のとき、メイクは女を強くするの!
アタシは何でもお見通しよ!さあ、気合入れていってらっしゃい!……
腰に手を当てて胸を張ったアスカも笑っている
――― リツコさん……アスカ……私は、私は……
「私……碇くんが……」
レイが、再びシンジの瞳を見た。
「ま、待って!」
シンジの強い言葉がレイの言葉を遮る。
「え?」
「その先は……言わないで」
シンジがいつになく真剣な瞳でレイを見つめる。
「ど、どうして……」
レイの顔から表情が消え、輝いていた赤い瞳が光を失っていく。
「わ、私は……」
「綾波!」
シンジがもう一度レイの言葉を遮る。
「……僕の話を、聞いて欲しいんだ」
「いや!」
激しく首を振って立ち上がると、レイはシンジを見た。
その赤い瞳に表情はない。顔もいつもより白く見える。
「綾波?」
レイの雰囲気が一変したのに気付いたシンジも立ち上がった。
「綾波、ちゃんと最後まで話を聞いてよ!」
「もういい……」
シンジの少し慌てた言葉にも、レイの様子は全く変わらなかった。
どこまでも冷たく、全てを拒絶する瞳。
出会った頃と同じ……
冷たい赤
「さよなら!」
冷たく言い放つと、突然レイは走り出した。
「え……あ、綾波!」
一瞬何が起こったのか理解できなかったシンジが、慌てて後を追って走り出す。
「待ってよ、綾波!」
月明かりに照らされた街。
静寂の中を駆けて行く二つの影。
「綾波ーっ!」
前を走る青白く輝く影は、月明かりに浮かぶ蜃気楼のように儚げに揺れている。
目を離すと月明かりの中に消えてしまいそうだ。
「来ないでっ!」
振り向きもせず、レイが叫ぶ。
その頬には銀色に輝く涙。
「待って、綾な…うわっ!」
何かにつまづき、シンジが転んでしまう。
レイがシンジの声に立ち止まり、振り返る。
「綾波!」
「……」
レイはすぐにシンジの視線を避けるように背を向ける。
「綾波、どうして……」
「あなたには……もう、関係ない」
感情のない声で静かに言い切ると、そこから逃げるように再び走り出す。
「綾波……」
霞んでいくレイの背中をシンジは呆然と見ていた。
「……あ、お、追いかけなくちゃ」
我に返ったシンジが慌てて立ち上がる。
「痛っ!」
転んだ時に捻ったのか、痛みで右の足首に力が入らない。
膝や手にもヒリヒリとした痛み。
「くそっ!こんな時に!」
痛む右足を引きずりながら、シンジは走り出した。
「どこ行ったんだよ……」
携帯の電源は1度目のコールの時に切られた。
─── このままじゃ、部屋には帰ってこない……
そんな気持ちに押されて、シンジは夜の街を捜し回った。
右足はもう感覚が無い。
「あとは……」
………犬が子供を遊ばせてるの……見ていると胸が温かくなるの………
春休みにレイから何度か話を聞いたことがある、マンションからはちょっと離れた公園。
「碇くん……どうして……」
ベンチの端に座り、呟くレイは無表情。その頬を流れた涙はもう乾いている。
「見つけた……」
聞き覚えのある優しい声に、レイは顔を上げた。
「……」
表情の無い紅い瞳がシンジを見つめる。
「走るの、速いんだね」
シンジが少し右足を引きずりながらゆっくりと近づいてくる。
「……隣、座ってもいいかな?」
「……」
「じゃあ、座るね」
シンジはレイから離れたところにゆっくりと腰をおろす。
ベンチの端と端。
手を伸ばしても、届かない距離。
「さっき……どうして最後まで聞いてくれなかったの?」
シンジが静かに言った。
少しの沈黙のあと、レイがゆっくりと口を開く。
「必要ないから……」
「え……どうして?」
レイはシンジから視線を外し、空に浮かぶ月を見た。
「あなたが、私を必要としていないから……」
「どうしてそんなこと!」
「私の……私の言葉を……拒絶した」
………その先は言わないで………
「あ……」
レイの答えにシンジは絶句する。
「あ、あれは、そんな意味じゃなくて……」
「もういい……」
─── 聞きたくない
「よくないよ!」
思わずシンジが立ち上がる。
感覚が戻り始めた右足がひどく痛み、背中を嫌な汗が流れる。
「くっ……そんなの、そんなの、よくないよ!」
何とも無いはずの膝が震え始める。
それは、蘇ってくる拒絶されることへの恐怖……
「誤解なんだよ……」
声も少し震える。
「だから、ちゃんと最後まで聞いてよ!」
シンジは右足を引きずりながら、レイの正面に立つ。
表情の無いレイと視線が合う。
─── 聞きたい……でも、怖い……怖い?
私……碇くんの言葉を聞くのが怖いの?
レイは、これまで自分から絆を求めることが極端に少なかった。
だから、自分から求めた絆を拒絶された経験も無い。
初めて感じる、求めて拒絶される恐怖。
─── 私は……聞くのが、怖い……拒絶されるのが怖いから
だから……聞きたくない……
「あの時、綾波の言葉を止めたのは……聞きたくないからじゃなくて……」
青白いシンジの顔に、汗が浮かんでいる。
「ホントは聞きたかったんだけど……いや、そうじゃなくて!」
懸命に話すシンジの言葉も、レイには届いていない。
――― 信じてた……
赤い海で言ってくれたこと……信じてた……絆を……
レイの意識がゆっくりと沈み始める。
「……綾波が勇気を出してくれたから……今度は僕がちゃんとしなくちゃって
……もう逃げないって決めてたから……だから」
シンジは両の拳を握り締めた。膝の震えが止まらない。
「僕が……僕がちゃんと言わなきゃダメだから……」
シンジはしっかりとレイの瞳を見つめた。
「だから……聞いて欲しいんだ!」
……… 聞いて欲しいんだ! ………
直接頭の中に響くようなシンジの言葉に、沈んでいた意識が急速に引き上げられていく。
─── 怖い……怖い……
胸が締め付けられて息が上手く出来ない。
心臓が悲鳴をあげている。
「僕は……」
耳を塞ぎたくても体が動かない。
「僕は……」
シンジの真剣な瞳から逃げ出せない。
「僕は……僕は綾波が好きだ!」
シンジの声が、静かな公園に響く。
─── す……き……?
魔法の呪文で呪いが解けたかのように、レイの体中の力が抜けて呼吸が楽になっていく。
「ずっと……ずっと、好きだったんだ」
微かに上ずったシンジの声が、レイの中の恐怖を包み込んでいく。
─── ずっと……好き……だった……
「これからも……ずっと好きだよ……」
優しい言葉に、胸の奥が少しづつ温かくなる。
――― これからも……ずっと……好き……
「こんな僕だけど……付き合ってくれるかな?」
少しの沈黙の後、改めて言うとシンジは少し笑った。
恥かしそうな温かい笑顔に、レイの凍りついていた表情も溶けていく。
─── 付き合う……恋人になること……
「碇くん……」
暖かな光が戻った赤い瞳から、涙が溢れた。
「……嬉しい」
レイはこぼれる涙を拭いもせずに立ち上がると、そっとシンジの肩に頭をつけた。
シンジはそんなレイの華奢な肩に、ぎこちなく手を置いた。
「……一緒にいても、いい……の?」
レイが涙声で呟く。
「うん。ずっと……何があっても一緒だよ」
優しく答えたあと、シンジが少しふらつく。
「碇くん?」
「ごめん……足がちょっと……」
そう言って、大きくバランスを崩す。
両足に力が入らない。
「碇くん!」
レイがシンジを抱えてベンチに座らせ、寄り添うように自分も座る。
今度は……肩が触れ合う距離。
「ごめん……ちょっと休めば平気だと思う」
─── 安心したら力が抜けちゃった、なんて言えないや
「でも……辛そう……ごめんなさい、私が誤解して……」
レイが俯く。
「だ、大丈夫だよ。綾波が悪いわけじゃないよ。こけちゃったのは僕だから。それに、僕の言い方が悪かったんだ」
シンジはそう言って申し訳無さそうに笑った。
「でも……碇くんが」
レイはシンジの足に眼をやる。
「本当に心配しなくていいよ。こんなのたいしたこと無いから」
そして、シンジは遠慮がちに、レイの手に自分の手を重ねた。
「碇くん……」
レイが顔を上げ、その潤んだ赤い瞳がシンジを見つめる。
「あ、あの……今まで、ごめん……僕が、もっと早く勇気を出してれば……」
「いい……ちゃんと言ってくれたから」
レイがゆっくりと両手でシンジの手を握る。
「でも……怖かった……」
シンジはそんなレイの手を優しく握り返した。
「綾波……ごめん……」
「……」
レイは何も言わず、瞳を閉じてシンジの肩に身体を預けた。
─── 温かくて……安心できて……穏かな気持ちになる……きっと、これが幸せということ……
「すっかり遅くなっちゃったね」
手を繋いでゆっくりと歩きながら、シンジが月を見上げる。
「ええ……」
レイは繋いだ手を、ずっと見ていた。
「綾波……口紅つけてるんだね」
チラッとレイを見て、シンジが遠慮がちに言った。
こくん
レイが恥ずかしそうに頷く。
「あの……その……よく、似合うよ」
「え……」
「い、いや……ホントに、よく似合ってるよ」
シンジはそれだけ言うと横を向いてしまう。
「……あ、ありがとう」
レイは真っ赤になって俯く。
「アスカが……つけてくれたの」
「そうなんだ……って、ええっ? ど、どうしてアスカが?」
シンジが声を上げる。
「私が……碇くんを迎えに行って……」
シンジの手を握るレイの力が、少し強くなる。
「告白するつもりだって、知ってたみたいだから……リツコさんは、話してないはずだけど……」
「あ……」
立ち止まったシンジの口がパクパクと動くが声にならない。
頭の中で、悪魔のように微笑むリツコとアスカ。その後にはミサトもいる。
「……でも」
レイが顔を上げた。
「そんなことは、どうでもいいこと。大切なのは、碇くんが言ってくれた言葉……」
……よく似合ってるよ
レイは、もう一度繋いだ手を見る。
……僕は綾波が好きだ!
「どきどきする言葉……胸が熱くなる言葉……大切な、大切な私の絆……」
「綾波……」
シンジの頭の中から3人の悪魔が消えていった。
同時刻、ネルフ本部赤木研究室。
「よかった……」
冷めてしまったコーヒーを一口飲んで、ホッとしたように呟いたのはミサト。
「そうね、一時はどうなることかと思ったけど……」
モニターを見るリツコの視線は優しい。
そこには手を繋いでゆっくりと歩く二人の姿。
「んーっ!」
ミサトが立ち上がって背中を伸ばす。
「あたしは最初からシンちゃんを信じてたけどね!」
「ホント? その割にイライラしてたじゃない?」
リツコも立ち上がって背中を伸ばすと、隣の休憩室へ入って行く。
「そんなことないわよ!」
リツコの背中に向ってミサトが叫ぶ。
「あたしは信じてたんだから……ただ、ちょっちヤバイかなって……」
「はい、はい」
そんなミサトを気にもせず、リツコがビールの缶を持って戻ってきた。
「ミサトも飲むでしょ?」
「さすがリツコ!」
ミサトの顔が一気に明るくなる。
「じゃ、二人のこれからに」
リツコがもう一度モニターを見た。
ミサトが大きく頷く。
「カンパーイ!」
「シンジ君もちゃんと成長してるのね……」
タバコに火をつけて、モニターを見ながらリツコが感慨深げに呟く。
そこには、告白しているシンジの姿が再生されている。
「そりゃあそうよ」
二本目の缶ビールを手にしたミサトが胸を張る。
「あたしの弟だもん!」
翌朝、葛城邸ダイニング ――――
「……なによ、その足」
アスカの声に、朝食と弁当を同時に作るシンジの手が止まる。右足首には不自然に太く巻かれた包帯。
腕にもあちこち傷テープが貼られている。
「き、昨日ちょっと転んじゃって……その時に捻ったみたいなんだ」
シンジが決まり悪そうに言う。
「アンタ出張に行って何してたのよ?」
バカにしたような眼でシンジを見ながら、アスカは自分の席に座る。
「い、いや、別に……」
「まあ、アンタの足なんてどうでもいいわ」
ダイニングテーブルに肘をついたアスカがニヤニヤ笑っている。
「で……どうだったのよ?」
「な、なにが?」
「昨日、レイが迎えに行ったでしょ?」
「う、うん」
再びシンジが動き出すが、アスカの方は振り向かない。
「で、どうだったのよ?」
「お、お弁当をもらった……」
「お弁当?」
アスカがあきれたように言った。
――― 誕生日プレゼントがお弁当? それもレイらしいか
「う、うん。おいしかったよ、すごく」
シンジが平静を装って答える。
「ふーん、他には?」
「べ、別に……他には何も無いよ」
シンジの額に冷や汗が浮かぶ。
「あーん? アンタそれでアタシが納得すると思ってんの?」
アスカがシンジの背中に向って意地悪く微笑む。
「アタシが何でもお見通しだってこと知っててシラ切るつもり?」
背中を見ているだけでも、シンジが動揺しているのがわかる。
「いい根性してるわよねえ……い、か、り、くん!」
アスカの目が細くなる。口元は微かに笑っている。
「あ、いや、あのさ……ほら、その……」
「おはよう」
そこへレイがやって来た。
「おはよう、レイ!」
「あ、綾波……お、おはよう……」
振り向いたシンジの顔はすでに真っ赤。
「お、おはよう、碇くん」
レイの頬も赤く染まる。
「ね、どうだった? 上手くいったんでしょ?」
シンジが正気に戻って動き始めたのを見計らって、アスカがレイに顔を寄せて小さな声で尋ねる。
こくん
レイが恥かしそうに頷く。
「そっかあ、よかったわね。で、レイが告白したんでしょ? 告白した時、シンジどうだった?」
好奇心の塊と化したアスカの言葉に、レイが夢見る少女の潤んだ瞳でシンジの背中を見つめる。
「碇くんが……好きだって、付き合ってって……言ってくれた」
「えーっ! マジでー!」
アスカがイスの上で盛大にのけぞる。
「ど、どうしたんだよ急に大きな声で」
シンジがフライパンを片手に振り向く。
「シンジ……アンタ、ちゃんと言ったんだ……」
アスカが信じられないといったように呟く。
「あ……い、いや……」
アスカの視線にシンジの顔が赤くなっていく。
シンジが慌てて視線をそらすと、うっとりと自分を見つめるレイと目が合う。
「あ、綾波……言っちゃったの?」
こくん
レイが小さく頷いて、にっこり笑う。
「とても嬉しいことだから……」
そこには、明るく柔らかい雰囲気を身にまとった、自然な笑顔のレイがいた。
「あ……」
「レイ……」
夏空のように青い髪、夕焼けのように赤い瞳、透き通るように白い肌。
整った顔立ちの、華奢な……昨日までとは別人のような……
優しい笑顔の少女
レイの表情の変化に、周りが驚き続けて……迎えた土曜日の夜。
葛城邸では、5日遅れのシンジのバースデーパーティーが友人達によって盛大に行われ……
「う、嬉しいよ……あ、ありがとう、みんな……」
初めての自分のバースデーパーティーに、シンジは涙した。
「風が気持ちいいな……」
パーティーの片付けも終わり、にぎやかな友人達が帰った後しばらくして、シンジはベランダに出た。
ミサトとアスカは、パーティーが終わった時には酔いつぶれていた。
ずっとシンジの隣にいたレイも、慣れないパーティーに疲れてもう寝ているだろう。
「どうしようかな……」
手すりにもたれて見上げた空には、半分くらいに欠けた月。
「碇くん……」
不意に声をかけられてシンジは振り向いた。
「あ、綾波……」
開け放たれたリビングの窓には、パジャマ姿のレイが立っていた。
「眠れないの?」
「う、うん……なんとなくね。綾波はこんな時間にどうしたの?」
「私は……」
レイが静かにシンジに寄り添うように立ち、同じように手すりに身体を預ける。
「お水を飲もうと思って……そうしたら人影が見えたから……」
「そう……」
二人はしばらく並んで月を見上げていた。
「あ、あの……」
「……?」
赤い瞳が優しげに輝く。
「ちょ、ちょっと待ってて!」
何かを決心したようにシンジが言って、バタバタと部屋へ入っていく。
「……碇くん?」
「お待たせ」
すぐに戻ってきたシンジは、さっきまでと同じようにレイの隣に並んだ。
「あ、あのさ……」
一呼吸置いて、シンジが話し始めた。
「なに?」
レイが不思議そうにシンジを見る。
「あ、あの……怒らないで欲しいんだけど……実は、リツコさんに聞いたんだ……」
シンジが目を伏せたまま言う。
「あ、綾波の誕生日……」
「あ……」
シンジの言葉にレイの表情が曇る。
「私には……誕生日なんて、無い……」
レイが小さな声で呟く。
「そんなことないよ」
顔を上げたシンジが優しく言う。
「リツコさん、調べてくれたんだ。MAGIだけじゃなくて、残ってたいろんなデータを全部。
そしたらわかったんだよ、綾波の誕生日」
「え……」
「直接の記録じゃないんだけど……その……機材とか消耗品とかが……いつからどれくらい増えたとか、
そんないろいろな小さな記録とかを調べてくれて、それで……特定できたんだ……」
シンジが言いにくそうに説明する。
「……だから間違いないって、リツコさんが……」
「私の誕生日……」
レイが、かみしめるように呟く。
「うん……綾波の誕生日はね……」
シンジの言葉に、レイがその漆黒の瞳を見つめる。
「……3月30日、だって」
「……3月……30日」
小さな声で呟いたあと、何かに気付いたレイの瞳が再び曇る。
「でも……それは、1人目の……」
消え入りそうな声で呟いたレイの瞳が悲しげに揺れる。
「違うよ」
「でも……私は……」
泣きそうなレイにシンジは優しく笑いかける。
「3月30日は、綾波の心が生まれた日」
「え……」
「身体だけじゃなくて、たった一つの綾波の心が生まれた日……何人目とか関係の無い、ただ一つの綾波レイの心……」
「碇くん……」
「だから、3月30日は綾波の誕生日なんだよ」
そしてシンジが意味ありげに笑った。
「それに、身体だったら……僕も、きっと2人目だよ」
「……あ」
「一度、エントリープラグの中で溶けちゃったからね」
おどけて言うシンジにつられて、レイも笑った。
「……ホントはさ、今年はもう過ぎちゃったから来年の誕生日に驚かそうって……
それまでは内緒にしてようって、リツコさんと話してたんだけど……」
そう言って、シンジはポケットに隠し持って来ていた細長い包みを取り出した。
「リツコさんに怒られそうだけど……」
「……」
レイが綺麗にラッピングされた包みを見つめる。
「やっぱり、1日でも早く教えてあげたくって……」
シンジが照れくさそうに頭をかく。
「それで……だったら、遅くなったけど今年のプレゼントも一緒にって思って……
リツコさんから聞いたのが昨日だったから、今日の昼に用意して夜に渡そうって思ってたんだけど……
みんなにパーティーしてもらって、渡しそびれちゃったから……」
シンジはチラッと月を見上げる。
「実は……いつ渡そうか、ここで月を見ながら考えてたんだ」
そして、手にした包みを差し出す。
「遅くなったけど、もらってくれる?」
「……ええ」
レイが、ゆっくりとプレゼントを受け取る。
潤んだ赤い瞳が、月明かりにきらきら輝いている。
「……お誕生日おめでとう、綾波」
ゆっくりとプレゼントを抱きしめて、レイは瞳を閉じた。
「ありがとう……」
その夜……
葛城邸のベランダには、いつまでも寄り添う二つの影があった。
Happy Birthday Dear Children !
(了)