碇くんとケンカした。
もう一週間くらい話をしていない。
顔もちゃんと見ていない。
付き合い始めてもうすぐ半年になるけど、こんなことは初めて。
寂しいけど、なんだか許す気持ちにもなれない。
ケンカの理由は、些細なことだと……私は思う。
それよりも、私の中にこんなに暗い気持ちがあったなんて……
アスカは「それで普通よ」って言ってたけど
……いつも渚くんに怒っているアスカに言われても、すっきりしない。
綾波とケンカした。
この一週間くらい口をきいてないし……目も合わせてない。
以前の僕だったら、自分が悪くなくてもすぐにその場で謝ってたけど……今は違う。
綾波と僕の絆は、そんな簡単に(あんなことくらいで)壊れはしないとわかってるから。
だから……とりあえず謝る、なんて事はしない。
でも……ちょっと不安だ……
もし、このままだったらどうしよう……綾波って意外と……いや、かなり頑固だし……
確かに、僕の言い方も悪かったし……
それで綾波を傷つけちゃったのは事実だし……
やっぱり僕から謝った方が……
レイとバカシンジがケンカしている。
もう一週間になる。
元々口数が少ない二人が静かなだけじゃなく、レイが発する冷気のおかげで部屋の中は冷凍庫のよう。
何とかしたいけど、シンジ関係で不機嫌なレイにはできるだけかかわりたくない。
機嫌が悪いだけで、どうってことはないはずなんだけど……アタシの本能は近づくなって警告する。
シンジ?
期待するだけ無駄。
おまけに、ケンカの理由を聞いても白状しない。
最近ちょっと生意気だから懲らしめてやりたいんだけど……レイにばれたらと思うと、手は出せない。
こんなときに何とかしてくれるはずのミサトは
「仲直りしたら教えてね!」
アタシにそう言ったきり帰ってこない。
きっと加持さんの所に転がり込んでるんだ。
サイテー!
「少し忙しくてね、連絡は毎日するよ」
いつもは帰れって言っても帰らないカヲルも、なんだかんだと理由をつけて遊びに来ない。
仕方ないので、今日はアタシが遊びに行った。
「アスカには寂しい思いをさせてしまうね。この埋め合わせはいつかきっと……」
「いつかじゃなくて、今すぐに何とかしなさいよ! バカ!」
カヲルは本部内に住んでいるので、普段アタシはほとんどカヲルの部屋に行かない。
だって……誰かに見られたら……は、恥ずかしいじゃない!
「じゃあ……このまま、ここに住むっていうのはどうだい?」
本気とも冗談とも取れる優しい微笑み。
「あ、あ、あんたバカァ? できるわけないじゃないの! ミサトじゃないんだから!」
カヲルにはそう言ったけど、
歴史の教科書で見た、シベリアの永久凍土に閉じ込められたマンモスのような状態に、
アタシの精神もそろそろ限界……
ただ、きっかけを作ったのがアタシみたいなので、そうそう切れるわけにもいかないかなあって。
こんなに我慢するなんて、アタシもずいぶん成長したものね。
……べ、別にレイが恐いわけじゃないんだからね!
そう……きっかけはたぶんアタシの一言。いつものように言った、ほんの一言。
「ねぇシンジ、明石焼き食べたーい!」
「いいね」
シンジが立ち上がった。
「私も手伝う」
すぐにレイも立ち上がる。
「あ、うん、ありがとう。でもその前に買い物に行かなきゃ」
「明石焼き(あかしやき)」
卵、だし汁、小麦粉、浮粉と呼ばれる粉とタコで作る兵庫県明石市の郷土料理。
地元では卵焼きと呼ばれる。
作り方や見た目はタコ焼きに似るが、タコ焼きよりもかなり柔らかく、
直径5cm程度の球形が自重で半分押し潰されたようになっている。
ソースやマヨネーズ、青海苔などはつけず、天つゆのような出汁で食べる。
江戸時代の終わりごろからあり、タコ焼きの元といわれている。
買い物から帰ってきたあと、キッチンの二人に何があったか知らないけど……
アタシの期待は裏切られ、明石焼きは食べられなかった。
そして、部屋は極寒のシベリアへと……
碇くんの作ってくれるタコ焼きは、鈴原くん直伝ですごく美味しい。
でも、卵がいっぱい入ってふわふわで、
お出汁で食べる『卵タコ焼き』のような『明石焼き』というのは、もっと美味しい。
「あたりまえや! どっちもきっちり特訓したったからな!」
鈴原くんが言ってた。
「碇が特訓を受けたの、綾波のためだって言ってたぞ」
相田くんはそう言って笑ってた。
碇くん、うれしい……
そんな美味しい明石焼きを、もっと美味しくするために……
だから……お願いしたのに……
碇くんは、試しもしないで……いきなりダメだって……
理由も言わずに、あんなに強く拒絶しなくてもいいのに……
ふわふわのタマゴと、程よい歯ごたえのタコ。
二つの風味の絶妙なバランスと出汁が織りなすハーモニー。
それが明石焼きの命だ。
タコ焼きとは比べ物にならない繊細なあの味を出すために、
綾波のために、僕は血の滲むようなトウジの特訓に耐えたんだ。
なのに、あんまりだよ綾波!
いくら綾波のお願いでも、あれだけは許せないよ!
「……お願い」
「ダメだよ」
綾波の無茶なお願いに、僕は少し機嫌が悪くなってたのかもしれない。
つい余計なことを言ってしまった。
「そんなに言うんなら、自分で作れば?」
僕の言葉に、綾波は涙ぐんで……上目遣いに僕を睨んだ。
キュッと結んだ口元、膨らませた頬が微かにピンクに染まって……
水色の前髪の間から覗く、夕焼けのように紅い瞳が悔しそうに潤んでいる。
怒った綾波もかわいい……
今の所、あの出汁の味は僕にしか出せない。
ふわふわに柔らかく、きれいに丸く焼くのも、僕にしかできない。
それは綾波が一番よく知っている。
なぜって、僕が教えながら作った事があるんだけど、結果は惨敗だったから。
それからも何度か一人で練習してたみたいだけど、
まだ上手くできてないことを、僕はアスカから聞いていた。
そして、しばらく綾波に見とれていた僕は……
好きな子に意地悪する小学生のように、調子に乗って言ってはいけない一言を言ってしまった。
「上手くできたらご馳走してよ」
それから……綾波と話してない。
正確には……話しかけられない。
僕ってバカだ……
やっぱり、謝ろう……
本当は、早く碇くんと仲直りしたい。
そばにいたい。
お話もしたい。
でも、碇くんの、あの言葉がずっと消えない。
イヤな気持ちが、消えない。
「上手くできたらご馳走してよ」
できるわけがないこと知ってるはずなのに……
こんなとき、どうすれば……
口をきかなくなってそろそろ10日になろうかという、土曜日のお昼。
話しかけるきっかけが掴めず困っていた僕に、綾波が突然謝ってきた。
「無理を言ってごめんなさい」
僕は心底ほっとして、でも、それを悟られないように静かに言った。
「やっとわかってくれたんだね! う、うれしいよ!」
そして、ずっと後悔していたことを正直に謝った。
「それと……僕も酷いこと言ってゴメン」
「ううん、いい……」
綾波は小さく首を横に振ると、上目遣いで僕を見つめて言った。
「それよりも……今度こそ、碇くんの明石焼きが食べたい」
「あ……う、うん!」
当然、僕は喜んでOKした。
「タコ買いに行かなきゃ!」
私がちょっと謝ったら、すぐに碇くんも謝ってくれた。
―― 男なんて単純なのよ ――
あまりにも簡単に、リツコさんが言ったとおりに話が進むのはなんとなくイヤな感じ。
でも、ちゃんと謝ってくれた碇くんを……
楽しそうに下ごしらえをしている碇くんを見ていると……
あのイヤな気持ちはどうでもよくなって……どこかに消えていった。
そして、それと入れ替わるように今度は奇妙な感覚が私を支配し始めた。
心の底から滲むように湧いてくる、
ドキドキするような
背中から首の後ろががざわざわするような
懐かしいような
奇妙な感覚……
イヤな感じじゃ無いけど、
この落ち着かない妙な緊張感は……何?
タコ焼きと明石焼きの特訓に耐えた僕にトウジがくれた、タコ焼きの鉄板と専用コンロ。
「これが卒業証書や! 今のセンセの腕やったら、これでいつでもどこでも店ができるで!」
トウジの笑顔を思い出しながら、それらをリビングのテーブルにセットして僕は颯爽と作り始めた。
「じゃあ作るよ!」
半球形の穴がたくさん開いた鉄板に、碇くんが鮮やかな手つきでタマゴと粉を溶いたものを流していく。
“じゅうっ!”という音と共に美味しそうな香りが立ち昇る。
隣りに座るアスカも、瞳をキラキラさせて見つめている。
「もしもタコが二つ入ってたら幸運の明石焼きだね」
そんなことを言いながら、笑顔の碇くんが軽快にタコを入れていく。
碇くんの笑顔に、私の胸はさらにドキドキし始めた。
でも……いつもの、碇くんの笑顔に感じるドキドキじゃない……微妙な緊張感
……思い出した。
作戦前と同じような感覚。
違うのは、心地良いと感じること。
なんだか楽しいと感じること。
そんな緊張感を胸に、私は明石焼きの焼け具合を見ていた。
そろそろ……
碇くんが横を向いたときを狙って、減らしておいたコップのお水をテーブルにこぼした。
「……あ」
私が小さく声を上げると、碇くんがすぐに見つけてくれた。
「え……あ、大丈夫?」
「大丈夫。ごめんなさい、ふきんを取って」
碇くんは優しく笑って、キッチンまで行ってふきんを取って来てくれた。
「はい、どうぞ。濡れてない?」
優しい碇くんの笑顔に、今までの胸のドキドキが落ち着いて
今度はホッとしたような温かい気持ちになった。
「うん……ありがとう」
あの感覚は……
「さあ、できたよ」
僕は出来上がった明石焼きをお皿に取り分けた。
「まだまだ作れるからね」
綾波は嬉しそうに笑っている。
こんなことだったら、もっと早くに僕から謝るんだった。
アスカは複雑な表情で、僕と綾波と、出来上がった明石焼きを見比べている。
きっと、どうやって仲直りしたのか考えてるんだろう。
美味しそうな明石焼きが、お皿で湯気を上げている。
私は笑顔で碇くんが席につくのを待った。
隣りを見ると、アスカと目が合った。
私はアスカにもにっこりと笑いかけた。
アスカも、笑ってくれた。
……アタシは確かに見た。
レイは、自分で水をこぼしていた。
そして、シンジがふきんを取りに行った瞬間、できの悪いサスペンス映画か何かのように、
レイの手が……手が素早く伸びて……
な、何かを明石焼きに……
何を入れたのか聞きたかったけど、うっすらと不気味な笑みを浮かべたレイの横顔にアタシは何も聞けず、
その後も何も知らずに能天気に明石焼きを焼き続けるシンジを止めることもできず、ただ固まっていた。
そうして出来上がった明石焼き……
ひっ!……レ、レイがアタシに笑いかけてる!
ア、 アタシは……な、何も知らないわ! 何も見てない! 何も言わないわ!
……笑い返したけど、頬が引きつってるのがわかる……
シンジはもちろん気付いてない……
バカシンジ!
「じゃあ、いただきます!」
僕はできたての明石焼きを一つ、丁寧に出汁につけ、そのまま口に放り込んだ。
火傷するくらい熱々なのを、はふはふと食べるのが最高に……
うぐっ!
いつものように、碇くんは一口で明石焼きをほおばった。
はふはふと明石焼きを味わって、碇くんの表情が驚きに変わって……
―― これって……綾波? すごいよ綾波!――って言ってくれるはず。
そう考えていると、またドキドキしてきた。
……この感覚が、何か楽しいことを期待する感覚が、
これが……わくわくする……という気持ち。
さっきの感覚も、同じ……
ふと見ると、碇くんの表情がおかしい。
なぜ?
私も急いで食べてみた。
……うっ!
こ、これは……
明石焼きを食べたレイとシンジの様子がおかしい。
シンジの顔がみるみる青ざめていく。
やっぱり、レイの入れたあれが……あ、レ、レイが涙目で訴えるようにアタシを見てる!
た、食べるわよ! アタシも食べりゃいいんでしょ!
パクッ!
……むぐうっ
……うわっ、な、何なのよ……この、まったりと口の中に纏わりつくほろ苦く甘ったるいものは……
ふわふわタマゴと出汁と絡んで、タコの歯ごたえと……生臭さが際立って……
ふあああ……き、気持ち悪い……み、水……水……
うあああ……こ、これは……いったい……ぼ、僕は何を失敗したんだああああああああああ…………
……ダメだわ、これはいけない。碇くんの言うとおりだった。
一口で食べたアスカも、やっぱり口を押さえて真っ青な顔をしている。
私は、すぐさま隣にあったアスカのお水で何とか「それ」を流し込んだ。
さすが碇くん、こうなることを予測してたのね……
「……碇くん」
「あ、綾波……ごめん、なんだか失敗したみたいなんだ……」
碇くんが真っ青な顔で空になったコップを握り締めたまま、お皿に残った明石焼きを見つめている。
「何がどうなったんだろう……」
唇が微かに震えている。
「み、水……」
隣では、テーブルに突っ伏したアスカが小刻みにケイレンしている。
「……碇くんは、悪くないわ」
「え?」
「……碇くんが言ったように……チョコは、ビターはダメだったようね……」
「チョ、チョコ……って、いつの間に……あーっ! ふきん!」
「次は、クリーミーなミルクチョコかホワイトチョコで……」
「あ、綾波ぃーーーーーー!!」
その夜、
あれからずっと口を聞いてくれなかった碇くんが、部屋へ戻ろうとした私の手を取った。
「……碇くん?」
「あ、あのさ……昼間のことなんだけど」
握った手を見つめたまま、碇くんがゆっくりと話し始めた。
「……綾波が、チョコを好きなのはわかるけど……美味しいものと美味しいものをそのまま合わせても
……料理の足し算は、単純なものばかりじゃないんだ……」
「……ごめんなさい」
私は、今度は素直に本当に謝った。
だって、本当に美味しくなかったから……
「……あ、いや……その……チョコならさ、明石焼きよりクレープの方が美味しいから」
碇くんは照れたように頭をかいた。
「碇くん……」
「だからさ、今度一緒に作ろうよ」
「うん……」
碇くんの優しい笑顔に、私は久しぶりに安らぎと幸せを感じた。
そして……夕飯も食べずに早くから寝てしまった親友のことを思い出した。
「……アスカも一緒に」
(了)