「あ……」
静かにドアが閉まって、静寂が部屋を支配していく。
また言えなかった。
―― ありがとう
たった一言……その一言が、こんなに難しい……
他人とのコミュニケーションの第一歩。
感謝の気持ちを伝えたい。
軽く笑って言えばいい……
人は簡単に言う。
それが、言えない。
練習……
鏡の前に立つ。
あらためて見た、今まで他人を拒絶してきた自分の表情。
誰も寄せ付けないようにしてきた感情の無い表情。
こんな自分でも、できるのだろうか。
しばらく考えたあと、鏡の中からこちらを見つめる無表情な自分に少し笑って言ってみる。
「……ありがとう」
鏡の中のぎこちない笑顔。
何度も練習していると、かなり慣れてきた。
……今度こそ
―― その時がやってきた。
書類を受け取り、練習したように……
「……あ、ありがとう」
そして、少し笑ってみた。
思ったより上手くできた。
彼女は驚いたように目を見開いてこちらを凝視している。少し顔色が悪い。
何故?
そう思った瞬間、一礼をした彼女は弾けるように部屋を出て行ってしまった。
静かにドアが閉まり、静寂が戻ってきた。
初めてだから、まだ少しぎこちなかったのは仕方ないか……
次はもっと自然にできるように、また練習しよう……
「……ありがとう」
ニヤッ
……うむ、問題ない。
「み、み、みんなぁーーーーっ!」
ミサトがシンジ達のデスクがある技術開発部に転がるように飛び込んできた。
ガン!
「うわああっ!」
ミサトが勢い余ってシンジのデスクに激突し、驚いたシンジがイスごとひっくり返る。
「碇くん!」
すぐさまレイが立ち上がる。
「はあ、はあ、はあ、はあ……」
デスクに両手をついて肩で息をしているミサトに、シンジが起き上がりながら恐る恐る声をかける。
「ミ、ミサトさん? どうしたんですか?」
「………」
シンジを気遣いながら、レイがミサトを睨む。
「どうしたのよ? 顔色悪いわよ」
アスカが興味深そうにやってきた。
「なにかあったの?」
シンジの隣りでレイと話していたリツコも怪訝そうにミサトを見る。
周りにいた技術開発部員達も、何事かと手を止めてミサトを見た。
「はあ、はあ、はあ……し、司令、じゃない! 所長が……ひげオヤジが笑ったのよおおおおっ!」
「えええええーーーっ!」
そこにいた技術開発部全員の声が室内に響き渡る中、レイだけが一人できょとんとしている。
「書類を持って行ったのよ、そしたら……」
静まり返った技術開発部の全員が息を呑み、その視線がミサトに集中する。
「あ、ありがとうって……そ、それで、ぶ、不気味な笑顔で……ニヤッて……」
「……所長の」
「ん?」
夕日がまぶしい帰り道、隣を歩く綾波がポツリと言った。
「……碇所長の笑った顔って、そんなに変なの?」
「え?」
僕は綾波が何を言ってるのか一瞬わからなかった。
「……変だと思う? ……お父さんの、笑顔」
「あ、ああ、昼間の……」
そう言えば……みんなが騒いでいたとき、綾波は不思議そうな顔してたっけ。
「そ、そうだね……なんか似合わないって言うか……変っていうか……気持ち悪い、かな……」
「そう……」
ずっと前に……エヴァに乗っていたときに見た、綾波に笑いかける父さん。
正直、気持ち悪いと思った。
「綾波は、前に父さんの笑顔何回も見たことあるよね? どう思う?」
僕が尋ねると、綾波は困ったようにうつむいた。
「……私は……あ、あれは二人目だから」
そう言って少し恥ずかしそうに笑った。
「またそんなこと言って逃げる……」
僕が笑って言うと、綾波がもう一度恥ずかしそうに笑った。
「……ごめんなさい」
最近の綾波は、僕と二人のときにはいろんな姿を見せてくれるようになった。
今のもその一つ。
以前には考えられなかったような冗談を自然に話してくれる。
やっぱり、アスカやマヤさんの影響が大きいのかな。
そして、綾波は意識してないみたいだけど、そんな冗談を言った時は必ず……
少し恥ずかしそうに笑うんだ。
僕は、抱きしめたくなるくらい可愛いはにかんだ笑顔に、顔の筋肉全部が緩むのを感じながら、
今度は綾波が答えやすいように断定的に聞いてみた。
「でもさ、綾波だって今は変だって思ってるでしょ?」
「私は……あの頃の私にはたった一つの絆だったから……やっぱりそんなことは……」
結局、綾波は困ったような笑顔でそれだけ言うと黙ってしまった。
「あ……」
しばらくすると、うつむいたまま歩いていた綾波が何かを思いついたように立ち止まった。
「ん? どうしたの?」
「な、なんでもない……」
再びそろって歩き出すと、すぐに綾波が言った。
「瞳が……」
「瞳?」
「そう、笑った所長の……瞳……」
「ああ、さっきのこと?」
「うん……所長の笑顔は……」
なんだか言い難そうに口ごもる綾波を見て、僕は答えを確信した。
ほらあ、やっぱり綾波も変だって思ってたんだ!
「父さんの笑顔は? やっぱり変だよね?」
僕は早く答えが聞きたくて急かすように言った。
「……所長の」
綾波が僕をチラッと見て、小さな声で言い難そうにゆっくりと言った。
「……所長の笑顔は……碇くんと同じ笑顔」
「そ……」
「……碇くんと、同じ瞳」
「そ、そんなぁ……」
アスカの踵落しより何十倍も激しい衝撃の不意打ちに目の前が真っ暗になっていく。
さらに追い討ちをかけるように父さんの不気味な笑顔が浮かんできて……
僕は膝から崩れ落ちそうになって、かろうじてその場に立ち止まった。
僕……あんな笑顔なんだ……
将来はあんな風になるんだ……
やっぱり……お、親子だもんな……
綾波も、変だって、気持ち悪いって思ってたんだ……
夕日を浴びて静かに歩いていく綾波の華奢な背中が涙にかすんで、
そのまま夕焼けに溶けて消えてしまうような気がして……
「……綾波ぃ!」
思わず呼びかけた僕の声が静かな街並みに情けなく響き、綾波の背中にすがり付いて消えた。
「あ、綾波……」
綾波はゆっくりと立ち止まって振り向くと、頬にかかった髪をそっとかき上げた。
そして、悲しみと同情が入り混じったような複雑な表情で僕を見つめた。
「僕は……僕は……」
また涙が出そうになったその時、僕を見つめる夕日色の瞳が優しく揺れた。
「……碇くん」
「……え?」
綾波は軽く握った左手で口元をちょっと隠すと……少し恥ずかしそうにくすっと笑った。
「……うそ」
(了)