闇に目を凝らす。闇は深い。私の目では何も見ることができない。諦めて目を閉じる。
「闇に目を凝らす必要など無い。お前はただそこに居ればいい。何も考える必要など無い。お前はただ人形であればいい」
そうだ、と私は思う。私は人形。ただの人形。
人形は、何も見ないし、考えない。
……私は、人形。ただの、人形。
何も見ない、考えない。
闇はあまりにも、深すぎる。
水滴の落ちる音が聞こえる。一定の間隔を保ち、ピチャリ、ピチャリとシンクに落ちる。目を閉じたままその音を聞くともなく、聞く。
そろそろ起床しなければいけない。ゆっくりと目を開ける。登校の時間だ。起き上がろうとして、体がひどく重いことに気がつく。少し考えて、起き上がる努力を放棄する。無理に登校する必要は無い。私に求められていることは、ただ約束のときまでその体を維持すること。それだけを考えていればいい。
登校を諦めた私は再び目を閉じる。また一つ、水滴が落ちる。闇に沈んでいく。
闇。ただただ深い闇。私は何も考えない。じっと時が過ぎるのを待つ。
音が聞こえる。ゴンゴンと響く重い音。金属を打つ音。扉を叩く音。
目を開ける。音はまだ続いている。呼ぶ音。……誰を? 私を、呼ぶ音。ベッドから降りる。体の重さは消えている。寝起きの体は少しふらつくが、構わずに進む。鍵のかかっていない扉を開ける。
知っている顔。碇君。
「あ、寝てたの? ごめん、起こしちゃったみたいだね」
申し訳なさそうに佇む。学校の学生服。肩にかかったカバン。
「……なに?」
「え? あ、ああ、これ、溜まってたプリント。来週までに出さなくちゃいけないのも混じってるから、ちゃんと読んでね」
そう言ってカバンから紙の束を取り出して私に渡す。
「あ、ありがとう」と私は言った。言い慣れない言葉に少し戸惑う。
彼は控え目に微笑む。とても彼らしいと思う表情。なぜか揺れる、心。
「あの、それじゃあ、またね」と言って碇君は帰って行った。
ドアを閉めて手の中の紙束を見る。ザッと目を通す。学校行事の予定表、保護者への連絡事項、進路希望調査の紙。内容を確認し、無造作に床に捨てる。私には必要のない物。
部屋に戻り、ベッドに腰掛ける。目は冴えてしまって、今すぐには眠れそうにない。カバンから文庫本を取り出してページを繰ってみる。文字の羅列。私の知っている言葉で書かれているそれは、時々うまく理解できないことがある。
水滴の落ちる音。なぜか、読むことに集中できない。ドア付近の床に散らばる何枚かの紙。そこに視線が飛ぶ。気になる。どうして?
立ち上がり、ドアへと足を向ける。さっき捨てた紙を拾い集める。もう一度内容を確認する。
……。
当然、内容に変化は無い。床に落とそうとして、なぜか落とすのをためらう。脳裏に碇君の顔が浮かぶ。
“来週までに出さなくちゃいけないのも混じってるから、ちゃんと読んでね”
碇君の言葉をふと思い出す。提出物。進路希望調査の紙。私には必要の無いもの。書くことなど無い。私には希望など無い。私には、何も、無いもの。
“何も無いなんて、悲しいこと言うなよ”
手の中の紙をじっと見つめる。必要の無い物。一度は捨てた物。でも、もう一度捨てることができない。それはきっと、あの時の碇君の言葉を思い出したから?
部屋に戻るついでに水道の蛇口をしっかりと閉める。水滴の落下が止まる。冷蔵庫からミネラル・ウォーターのペットボトルを取り出し、ベッドに腰かけてほんの少し口に含む。睡眠中に失われた水分を取り戻す。体の中を通り抜ける水。冷たさが広がる。心地よい。手に持った紙を見つめながら私は考える。
……私に何があるだろう。私の体や魂でさえ、私の物ではないのに。
絆。絆が欲しい。あの人にもらった絆は、おそらく、幻。私と結んだ絆では無い。私の後ろに居る誰かへと伸ばされた手。
よく分からない気分が胸の辺りからせり上がってくる。この気持ちは何だろう。ひどく、寒い。微かに体が震える。
「何も考えるな」
あの人の声が聞こえる。
「お前は人形であればいい」
私は、人形……。人形は、何も、考えたりしない。何も考えなければ、この寒さから逃れることができるだろう。寒いと感じなくなるだろう。寒さに気付かず、知らぬ間に体温は奪われ、そして地に伏せることになる。私は無に還ることになる。
無。無に還る。無とは何? 私が無くなること。私が無くなる? それは今とどこが違うのだろう。私は、今だってどこにもいない。
いいえ、私はここにいる。ではこの私は何?
「お前は人形。ただその日のために存在する人形。何も考えるな。必要ない」
寒い。ひどく寒い。考えることをやめれば、凍えなくて済む?
“今は何も無いかもしれないけれど、でも生きていれば、よかったって思うときがくるよ”
けれど、考えることをやめれば、胸の奥を微かに暖める言葉が死んでしまう。
絆が欲しい。私と誰かを結ぶ絆が。心を静かに暖めてくれる、温もりが欲しい。寒いのは、もう耐えられない。私は、人形では、ありたくない。無には、……還りたくない。
どこか遠くで、水滴の落ちる音を聞いた気がした。
闇に目を凝らす。それは暗く、深い。私は目を閉じる。諦めたわけではない。暗さに目を馴らすために目を閉じる。
胸の奥に、燃える火を感じる。それは微かな言葉。頼りない細い絆。でも、無ではない。それは、確かに存在する。
今はまだ、闇を見通すことはできないだろう。けれどいつか、強く火を燃やせば、きっと闇を消すことができる。
私は目を開ける。闇は変わらずにそこにある。胸の奥には小さな火種。
私は闇に目を凝らす。闇はまだ、深い。