飛ぶ。ふわりと浮き上がる。体が軽い。
調子を確かめるように低い位置で旋回する。左回り。右回り。最後に前方に一回転してストンと着地する。
空を見上げる。夜の空。星の川。よく見てみると、星にも色があることに気付く。青白い光、紅い光、黄色い光、ただ白い光。今夜、空に月は無い。
深呼吸。両手を広げて、目を閉じる。イメージを思い浮かべる。夜を渡るイメージ。
飛翔。速度をつけて上昇する。私を縛り付けるものはどこにも無い。心が軽い。
風を切って進む。目的地は無い。気の赴くまま、行きたいところへ飛んでいく。
夜。静かな世界。生きているものたちはじっと息を潜めている。
星たちが近い。過去の光。ずっと昔の輝き。今の光ではないけれど、それは確かに存在する。時を越える感覚。過ぎ去った景色。戯れに光と競争してみる。
調子に乗ってスピードを上げ過ぎたから、夜のカラスにぶつかりそうになった。
「おっと、危ないな。そんなに急いでどこに行くんだ?」とそのカラスは言った。
「いいえ、急いではいないの。ただ、嬉しかっただけ」と私は答えた。
「もし暇なら俺とお茶でも飲みに行かないか?」
後ろで括った髪をいじりながらそのカラスは言った。アゴには無精ひげ。
「いいえ、暇ではないわ、さよなら」
私はカラスから離れた。つれないなぁ、とカラスが言った気がした。
反省をして、ゆっくりと飛ぶ。夜は長い。急がなくてもいい。
丘の上に古い教会が見えた。その屋根には銀色の十字架。星の光を跳ね返して輝いている。
「あ、ねぇ、ちょっと」十字架が話しかけてきた。「カラスを見なかった?」
「髪の毛を後ろで括っていて、無精ひげを生やしたカラスならさっき会ったわ」と私は言った。
「ホント!? なんか言ってた? これから待ち合わせだ、とか」
十字架は長い髪を揺らして私に聞いた。
「……お茶に誘われた」と私は答えた。
「……」
十字架は顔を引き攣らせて絶句した。
「……さよなら」
私は十字架から離れた。あんのやろぅ、ぶっ殺す! せっかく作ったカレーを無駄にしやがって! と十字架が叫んだ気がした。私は聞こえないフリをした。
夜が更ける。
夜を昇っていくと、天使に出会った。
「やあ、星の綺麗な夜だねぇ」
銀色の髪。紅い眼。口許には微笑が浮かんでいる。
「……そうね」と私は答える。
天使はニヤニヤ笑ったままじっと私を見つめている。
「……なに?」と私は聞く。
「君はこれからどこに行くんだろうねぇ」と天使が答える。
どこに?
「……さよなら」
私は何故だか急に恐くなって、すぐにそこから離れた。天使の歌う鼻歌が聞こえた。
よく分からない気分を切り替えて、再び飛行に戻る。大きな湖に出た。
湖の畔に大きな闇が佇んでいた。
大きな闇は隣にやってきた私をチラリと見ただけで何も言わなかった。
「……何を見ているの?」と私は聞いた。
「……月を見ている」と大きな闇は答えた。
月? 今夜、月は出ていない。大きな闇の視線は何も無い夜空に向けられている。その先には、何かがあるのだろうか。
「……何を見ているの?」と私は聞いた。
「……月を見ている」と大きな闇は答えた。
嘘つき、と私は思った。大きな闇は何も喋らない。視線は月の無いはずの空。
「さよなら」
私は湖の上を飛んで大きな闇から離れた。大きな闇は何も言わずに私を見送った。視線はサングラスに隠されて良く分からなかったけれど、そんな気がした。
水のすぐ上を飛ぶ。腕を伸ばして水面に触れる。シャラン、と音を立てて湖が揺れる。そのまま長い距離を飛ぶ。波紋が広がっていく。大きな円を描く。シャラン、シャランと音が重なる。音を鳴らし続けて、水面に立ち耳を澄ます。
シャラン、シャラン、シャラン。
水晶を打つような水の響き。湖面を渡ってくる涼しい風。水鏡に映り込む夜の星。銀の河。
空気に溶けるようにして音が消えていく。空に吸い込まれていく音。最後の余韻を響かせて、波紋は消えた。
水を蹴って飛び立つ。最後の波紋が広がっていった。
色々な飛び方を試してみる。平行にゆっくりと飛び、宙返り。視界が回転する。急降下、地面の手前で急上昇。私が起こした風で地面の草が揺れる。
「きゃあ」と悲鳴が聞こえる。
止まって辺りを見渡す。花畑。夜にぼんやりと浮かび上がる青い花たち。
「あなた、空を飛んでいるのね」「どうして飛んでいるの」「どうしてかしら」
ざわざわと揺れる花。揺れるたびに花びらが舞う。
「あなたはどうして空を飛べるの?」「私たちは地面に根を張っているのにね」「私たちとあなたとでは何が違うの?」「どうして?」「ねえ」「どうしてかしらね?」
ざわざわ、ざわざわ。強く風が吹いているわけではないのに、揺れる花たち。
「私は私だから。貴女たちとは違うから。だから飛ぶ」
揺れる花。舞う花びら。いつまでたっても花びらが尽きることは無い。
「私たちは枯れないのよ」「枯れても代わりがいるもの」「枯れても次に咲くのは私たちなのよ」「ずっと咲き続けるの」「夜が明けるまで咲き続けるの」
花が笑っている。クスクスと空気が震える。空虚な笑い方。笑っているはずなのに、その声はどこか悲しい。
「さよなら」「さよなら」「さよなら」「さよなら」
響く、笑い声。私は急いで飛び去った。
なぜだか酷く心細かった。胸に満ちていた輝く黄金のような気持ちはどこか遠くへ行ってしまっていた。私を縛るものはどこにもないはずなのに、それがとてつもなく不安だった。
「あれ、そんなところで何してるの?」とその男の子は言った。
黒い髪。黒い瞳。痩せた体。
「夜を渡っているの」
「そうなんだ」男の子は控え目に微笑む。その仕草は彼に似合っている気がした。
私は彼の隣に立った。
「……何を、していたの?」と私は尋ねる。
「さっきまでは、チェロを弾いていたんだ」手に持った楽器を見せて男の子は言った。
「……今は?」
「今は月を見ている。今夜の月は、なぜだかとても寂しそうだから」
男の子の視線はどこ? 男の子の顔を見ると、目が合った。
「……私を、縛るものが無いの。それが嬉しかったはずなのに、今は、不安なの」
男の子は少し赤くなっている。どうして?
「あの、その、縛るのはちょっと、刺激が強すぎると思うよ。……痕が残っちゃうし」
「……何を言っているの?」
沈黙。不思議な時間。
「えっ、あ、いや、だから……、そうだ!」
男の子はゴソゴソとズボンを探って何かを私に差し出した。私の目には、何も無いように見える。
「……なに?」
「こっちに来て」と男の子が言った。私は言われたとおりに一歩踏み出す。
男の子は私の腰の辺りに手をやって、紐を括る動作をした。
「縛っちゃうと動くときに邪魔になるからやめた方がいいよ。こうやって腰に結んでいれば動くのにも問題ないから」
「……何を結んだの?」と私は聞く。
「絆」と男の子は答える。
「何も見えないわ」と私は言う。
「でも、ちゃんと繋がってるよ」と男の子が言う。
腰に手をやる。暖かな感覚。繋がっている安心感。
「……ありがとう」と私は言った。胸の奥にある熱が少し強まる。
男の子は控え目に微笑む。よく似合う表情。少しの間、男の子に見とれる。
「ああ、僕、そろそろ帰らなくちゃ」と男の子が言った。
「……そう」と私は言った。
男の子は楽器をケースにしまっている。私はそれを見ている。行ってしまうのね。ケースを肩に担いで、男の子が振り返る。
「それじゃあ、またね」微笑んで手を振る。
「……また」と私も振り返す。
男の子は帰っていった。後姿を見送る。私は一人。けれど、それほど寂しくは無い。腰に手をやる。暖かな絆。
「……また、会えるわ」
夜を渡る。夜明けを目指して飛ぶ。夜は長い。どれほど飛べば良いのだろう。
ふと気付く。夜明けを目指すということは、朝を迎えるということ。
朝。……アレに会うという事なのね。あまり気は進まない。アレはうるさいし、品が無いし、自己中心的な性格だから。私とは合わない。
聞こえてくる。いつものように怒鳴り散らすアレの声。
「あんた馬鹿ぁ!?」
ああ、夜が終わる。さよなら、静かな世界。またいつか、会える日まで。
……夜が、明ける。