夢を見た。

 自由で、軽やかで、微笑ましく、恐怖を含んで、少しだけ狂っているから悲しくて、そしてなにより暖かくて優しい夢だった。

 しばらく夢の余韻に浸る。それは胸の奥を静かに暖めてくれる。安らぐ私。

 彼は何と言っていただろう。彼は、繋がっているよと言った。嬉しい気持ち。結ばれた絆。私と彼を繋いで、そしてこれからも。

 夜を渡って、朝が来て、私は目を覚ました。

 夜が明けた。

 夢を、見た。




揺れる

Written by D・T



 水の底。水中から見上げた光。ゆらゆらと揺れている。しばらく光が舞うのに見とれて、頭の中は取り留めのない思考。水の流れ。たゆたう体。揺れる。息が持たなくなって水面に顔を出す。息継ぎをする。
 足の先はコンクリートを捉えていて、水は肩までの高さ。水面に反射する光。揺らいで輝く。形の無い物。水。光。波紋。水面に映り込む私の紅い瞳。揺れる。淡いブルーの髪。

 最後に五十メートルを一本泳いでプールから上がる。程よい疲労。心地良い。
 タオルで髪と体を軽く拭いながら更衣室へと向かった。

 水着を脱いでシャワーを浴びる。瞼を閉じて温かな流れを感じ取る。深く息を吐く。肌で弾ける水の粒。そのまま床へと落ちていく。
 蛇口を捻って水の流れを止める。瞬間、温度差によって微かな寒さを感じる。それは本当に寒いわけではない。温かな水の膜が剥がれてしまっただけ。今までが温か過ぎただけ。これが普通の温度。

 髪と体から水気を拭い去る。下着を着けて、服を着る。緑色の制服。赤色のリボンタイ。
 カバンを手に持つ。更衣室を出る。



 手に持った紙コップ。中身はただの水。やはり揺れている光。一口飲んで、また見つめる。ゆらゆら揺れる。小さな波。形の無い物。波紋。
 黒いビニールの張られたベンチに座っている。背もたれは無い。カバンは足元に立てかけてある。ここから見えるのは、壁際に並べられた飲料水の自動販売機、トイレの入り口、室内プールへと通じる廊下と、反対側へと伸びる通路。休憩スペースにいるのは私一人。静かな空間。自動販売機の微かに唸る音だけが聞こえている。

 水を飲み干す。

 立ち上がって、紙コップを捨てにいく。ゴミ箱の縁に当たり、カコン、と軽い音。音。目には見えない。空気が揺れる。
 その場を離れて、出口へ向かった。



 光の波。強い陽射し。空を埋める単調な青の色。街を染める白い閃光。太陽の光を跳ね返して輝く街路樹の鮮やかな緑。アスファルトの地面にはくっきりと黒い影が落ちている。

 熱を持った空気。水に混じった水銀のような重さを持つ空気。風は無い。私が進むとそれらはぐにゃりと場所を移動して、そして先ほどまで私がいた空間を満たしていく。重さを持った空気。熱を持っている空気。

 なるべく日陰を選んで歩く。日陰の空気はいくらかその密度を薄めているから。纏わりついてくる嫌な感覚は希薄になっている。
 前を向いて歩いている。耳にはセミの声、車道を走る車の音、どこか遠くでやっている工事の騒音。
 私が歩いているのは木の陰に覆われた歩道。葉の間からこぼれた光が小さな陽だまりをいくつも作っている。ささやかな風が吹いて梢を揺らすと、それら全てが一斉に揺れて光が踊る。

 一瞬、セミ達が鳴くのをやめた。驚くほどに静かな空間が唐突に出現した。微かな風。揺れる光。無音の舞。

 しばらく音の無い木漏れ日の中を歩く。車の音も、工事の音も今はしない。聞こえるのは、風に揺れる微かな葉の音。耳に心地良い音。

 そして日陰が途切れる。いつの間にか交差点に辿り着いている。セミ達がもう一度鳴き始める。車が走り出し、工事が再開される。奇跡のように現れた空間は、音に満たされて消えた。
 ひどく暑い光。熱はアスファルトに吸い込まれて、アスファルトは熱を放ち続けている。陽炎。空とアスファルトの間の空間がゆらゆらと揺れている。空間に広がる波紋。

 交差点の向こう側に人影を見る。それは揺れてぼやけて見える。捉えどころの無い影。淡いブルーの髪。緑色の制服。

 信号が青になって私は歩き出す。影もこちらへと歩いてくる。近づいても影の細部は靄がかかった様にはっきりとしない。分かるのは淡いブルーと緑だけ。
 横断歩道の真ん中あたりで手が届くほどの距離に近づく。影の瞳は紅い。立ち止まって、視線を合わせる。
 影の口が動いている。けれども私の耳には何も聞こえては来ない。それは何も震わせてはいない。誰にも聞こえることの無い声。短く一言か二言を喋り、影は視線を逸らして歩き去っていった。私は影を見送ることはせず、そのまま交差点を渡りきる。



「あ、綾波。どこいくの?」
 声がかけられる。そちらを向く。黒い髪。黒い瞳。碇君。青いジーンズと白いシャツを着ている。
「……家へ、帰るの」と私は答える。
「そうなんだ」と言って碇君は控え目に微笑んだ。よく似合う表情。つい最近、どこかで見た覚えのある笑顔。既視感。
「……碇君は?」と私は聞く。
「僕? 僕はミサトさんとアスカにお弁当を届けに行くんだ」そう言って碇君は手に持ったカバンを少し持ち上げた。「お弁当の方が、食堂で食べるよりもお金がかからないから」
「……そう」と私は答えた。

「あれ? 髪、濡れてるよ?」と碇君が私の髪を見て言った。
「……今朝は、待機命令が解けてから、ネルフのプールで泳いで……」そこまで喋って、ふと気付いた。
 手に持ったカバンを少しだけ開けて確認する。そして思い過ごしでは無いことを確認する。
「どうしたの?」
「……水着を、ロッカーに忘れてきたわ」

 今まで歩いてきた道を振り返る。交差点と、その向こうに樹木の陰に覆われた歩道が見えた。木の陰に淡いブルーと緑の蜃気楼を見た気がした。
「じゃあ、一緒に行こうか?」と碇君が言った。「それとも、水着は今度取りに行く?」
「いいえ、行きましょう」と私は言った。
 碇君と並んで歩き出した。



 交差点を渡る。日陰の歩道に戻ってきた。点在する小さな陽だまり。

「……使徒は?」と私は聞いた。
「え? あ、うん。捕獲は失敗したんだ。引き上げる途中で孵化が始まっちゃって。そのままアスカがやっつけた」
「そう」と私は言った。

 会話はそれで途切れる。黙ったまま歩き続ける。セミが鳴いている。車が走る音。工事の騒音。
 チラリと隣を窺う。碇君。柔らかな雰囲気。少し汗をかいている。

「……涼しいね。日陰」と碇君が呟く。
「……そう」と私は答える。

 会話はそれで途切れる。新しい音が耳に飛び込んでくる。見上げる。青い空の遠い所を、真っ直ぐな白い線を引きながらゆっくりと渡っていく旅客機が見えた。

 日陰の道が終わる。眩しい日の光を浴びながら歩かなくてはいけなくなった。
 熱。光。揺れる空気。陽炎。地面のアスファルトで跳ね返った光が眩しい。赤信号につかまる。
 じっと黙って信号が変わるのを待つ。道の向こう側は揺らいで見える。今にも幻が湧き上がってきそう。

「……最初の使徒を間近で見たときにね」と碇君が唐突に口を開く。「その日もちょうど今日みたいに暑い日で、陽炎が立ち昇ってたんだ」
「……そう」と私は答える。
「さっき、綾波に声をかけるとき、そのことを思い出したんだ」

 それで会話は途切れる。碇君を横目で窺う。それだけで話は終わりだろうか? 信号が青に変わった。碇君が歩き出して、少し遅れて私も続いた。

 それからあとは、無言で歩き続けた。



 水着を絞る。それはほとんど乾いていた。一応ビニールの袋に入れて、それからカバンに押し込む。カバンを持って更衣室を出る。

 通路を歩いていく。休憩スペースに出た。少し考えて、休んでいくことにする。スペースの隅に設置されている、飲み水だけを出す機械。紙コップも隣に準備されている。水を持ってベンチに座った。
 一口飲む。喉から浸透していく水分。潤う。自分でも気付かないうちに随分と喉が渇いていた。残りもいっきに飲み干す。紙コップをゴミ箱へ捨てる。ベンチへ戻る。
 特に何もすることが無い。今すぐ家に帰る気にはなれない。携帯電話で時刻を確認する。今が一日で最も気温の高い時間。今すぐ日の下に出て行く気にはなれない。

 カバンから文庫本を取り出してページを開いた。文字の羅列。いつか読んだことのある物語。私の知っている言葉で書かれた物語。挿絵の無い絵本。世界を見てきた月の話。
 しばらく読みふける。いつの頃からか、本を読むという行為は字を追うだけでは無いと気付き始めている。それは言葉で理解するものではなく、もっと別の何かで受け取ることができるものだと思う。胸の奥で揺れる何かで感じ取ることができるものだと思う。

 私は、私のどこかが変わったと思う。



 小さな物音。微かな風。本から目を離す。隣に碇君の姿を認める。

「あ、ごめん。邪魔しちゃったね」とバツの悪そうな顔で碇君が言った。
「……別に」と私は言った。
 碇君が私の隣に座っている。私は少し考えて、本をカバンに戻した。
「……何?」と私は碇君に尋ねる。
「え、あ、いや、その。……お腹、空いてない?」と碇君が言った。
 唐突な問いかけに少し戸惑う。
「……どうして?」と碇君に聞く。
「その、アスカとミサトさん、もうお昼食べちゃったらしくて、だから、お弁当余っちゃったんだ」いつもと違う複雑な笑みを浮べて碇君は言った。「それで、あの、綾波がもし良かったら、その、もし良かったらでいいんだけど、……一緒に、食べない?」

 揺れる。胸の奥で揺れる何か。

「……かまわ、ないわ」なぜだか上手く口が動かなかった。
「あ、……ありがとう」いつもと同じ、よく似合う控え目な笑顔。

 揺れる。

「それじゃあ、行こうか」
 碇君が言って、私は頷く。立ち上がって、出口に続く通路へ一緒に歩き出した。



 ……揺れる。胸の奥で何かが揺れている。


 揺れる、揺れる。揺れているのは、水、光、空気、陽炎。



 揺れる。揺れる。揺れているのは、私の、……心。




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