黒の球を引き裂いて落ちる。赤黒い血を撒き散らして落ちてくる。
赤の雨。落ちて地面に叩きつけられる黒。
血の降る中を、彼を乗せたエヴァが落ちてくる。
咆哮。
錆びた鉄の匂い。
赤く染まった紫。
エヴァンゲリオン初号機。
それには彼が乗っている。
静寂。白い病室。微かに聞こえる寝息。文庫本にしおりを挟んで、また彼の顔を眺める。
沈黙。黒い髪。今は瞼に隠されてしまっている瞳も、透き通る黒。
彼は眠っている。呼吸は規則正しく、ゆっくりと深い。
髪はサラサラと柔らかく、窓からの風に小さくそよぐ。
窓の外には光と緑。遠くに聞こえるセミの音。病室の白に染み込んで虫の声は静かに響いている。
座っているパイプ椅子が小さな音を立てて軋む。鞄は椅子の脚に立てかけてある。
床は白。壁は白。天井は白。電灯の光は白。
少しの間彼の顔を見下ろして、そしてもう一度文庫本を広げる。しおりを抜き取って続きを読み始める。夢を渡る月。夜を見る彼。揺れる私。
ページを繰る。
彼が目を覚ますのには、あともう少しだけ時間が必要だと知っている。
心が動く。ここから向こうへ。向こうから彼方へ。思考は羽を広げて、風に乗るように溶けていく。
溶けて形が消えていくと、水になって流れて、流れて消える。消えている。無。無が現れる。そして無が流れる。流れていく。無は流れて水になり、流れる水は形を取って影になる。
「彼が目を覚ますのには、あともう少しだけ時間が必要だわ」と影が伝える。
紅い瞳。淡いブルーの髪。緑色の制服。白いブラウス。彼を見ている。表情は無い。
「……」私は何も答えない。
「このままずっと眠り続ければ良いのに」と影は言った。「ずっとこのまま、眠り続ければ良いのに」
消えて欲しい、と私は思った。
静寂。沈黙。無音。白い部屋。碇君。
思いが渦巻いていて形を取らない。無形。伝えるべき言葉が無い。
手を伸ばそうと思った。私の腕は動いてくれない。
影の腕が動いて、碇君の髪を撫でる。その動きはとてもゆっくりで、なぜだかすごく嫌な感じがした。
私の腕は動かない。
千切れて途絶えている。私は目を閉じることしかできそうにない。闇。
どうすればいいのかわからない。どうなっているのかわからない。彼に触れたいと思っている。私の腕は動かない。夢。
歪んでいる、と思った。形が曖昧になっている。色が重い。
文庫本が床に落ちていた。手の中から本の重みが消えたのと、床に本がぶつかった音で意識を取り戻した。
落ちた本を拾い上げる。読んでいたページを探し出して、しおりを挟む。
眠っていたのだろうか。少し息を吐いて、それから碇君の顔を眺める。何も変わっていない。碇君は眠っている。
時間は静止している。空気は停滞している。白い病室の中では、全てのモノが深い眠りの中にいるように見える。おそらく実際にその通りなのだろう。理由はわからないけれど、なぜだかそう感じた。
なぜ私はここにいるのだろう? と考える。
ここに眠っているのが碇君だからだ、と答える。
どうして? と思う。
答えはわからない。ただ、揺れている。私の深い部分が揺れている。胸の奥で微かな想いが熱を持ち始めている。その熱が私を動かしている。
ここに眠っているのが碇君だから、私はここにいる。
碇君が目を開いた。
私は何か声をかけようとしたけれど、何を伝えれば良いのかわからなかったので結局何も言わなかった。私が持っている言葉は少ない。
碇君は薄く目を開けて天井を見ている。どこかまだ、意識がハッキリとはしていないように見える。
「……夢を、見たんだ」と碇君が口を開く。
「……夢なら、私も見たことがあるわ」と私は小さく呟く。
碇君は天井をぼんやりと眺めたままだ。
「夢の中は、暗くて、暖かかった。どこにも光は無くって、何も見えなかったけれど、でも、その暖かさが僕を安心させてくれていた」
「そう……」と私は言った。
「……お母さん」碇君はそう言って、そっと目を閉じた。
母親の夢を見るために、また暗くて暖かい眠りに沈んでいったのだろう。
本を開いて、しおりを抜いた。続きを読み始めた。彼が目を覚ますには、あと、もう少しだけ時間がかかる。
闇色の夢だった。どこにも光は無く、じっとりと粘つく熱が体に纏わり付いている。その熱はひどく不快だった。
「……碇君」と呟く。
これは違う、と思った。この夢と熱は碇君を安心させているのではなく、騙しているのだと思った。母親の熱を知らない碇君に、嘘の温もりを教えているのだ。
闇に目を凝らす。胸の奥の火を頼りに辺りを見渡す。闇は濃く、私の持つ微かな火では何も、ただの一つも照らすことはできなかった。
「……碇君」と呟く。
腰の辺りに、目には見えない絆が結ばれているのを感じた。触って確かめたそれは、いつ千切れてしまってもおかしくないほど細くなっていた。彼まで距離が在り過ぎるせいだろう。
絆を手に持つ。これを辿っていけば、きっと逢える。
粘つく熱と闇のせいで飛ぶことはできなかった。脚を踏み出し、絆を辿って歩き始めた。
闇は熱を持ち、粘つく手触りだった。一歩踏み出すごとに闇は体に纏わり付き、足を絡め取ろうとする。進むのには多くの力を必要とした。
歩くのに疲れる。そのたびに私は「碇君」と呟く。胸の奥にある火が微かに勢いを取り戻し、私は再び歩く力を手に入れる。
「あなたは、彼を見つけることができるつもりなの?」
闇の中から影の声が聞こえた。黒に溶けて形は認識できなかった。
「……」
私は何も答えない。
「粘つく闇と熱のせいで飛ぶこともできず、絆はいまにも千切れてしまいそう。それでもあなたは彼を見つけることができるつもりなの?」
影の声はねっとりと熱を含んで耳元を撫でている。
「……」
私は何も答えない。
「あなたには何も無いのよ」
私は何も答えない。
使徒を内側から突き破って、初号機と碇君は戻ってきた。
碇君は目覚めない。
夢を見ている。
闇の夢。
私の影。
碇君を欲しがっている。
どうして私の影は碇君を欲しがるのだろう?
「それは、あなた自身が欲しがっているからよ」
……。
扉が開く音。
本から顔を上げて入り口を見る。誰が来たのだろうと思ってドアに目を向ける。碇君を挟んで、部屋の反対側にドアはある。
揺れる。
長く赤い髪。深く蒼い瞳。
「まだ、寝てんの?」と言った。「……このバカは」
「……もう少し、時間がかかるわ」と私は言った。
「ったく、さっさと目ぇ覚ましなさいよね」と言った。「バカシンジ」
赤く長い髪を流してドアから出て行った。輝く髪は緩やかな残像を残していった。
闇の中に磔にされている。そう表現するのが一番正確だと思った。
碇君は、闇の中にアルファベットのYのように浮かんでいる。両肘から上と、腰から下を闇に飲まれている。何もつけていない、白い華奢な胸が見えた。
うっすらと目を開けて、碇君は闇を見ている。闇に浮かび上がる幻を見ている。それは何も見ていない事と同じだ。
「碇君」と私は小さく呼びかける。
虚ろな視線を闇に固定したまま、碇君からの反応は無かった。
「……碇君」と私は小さく呼びかけた。
手を伸ばす。私の腕は重たい闇の中を思ったとおりに動いてくれた。
碇君に触れる。剥き出しになっている華奢で薄い胸。それは冷たい感触を私に伝えた。
どうして碇君は目覚めないのだろう?
それは欺瞞の熱に包まれて安心してしまっているから。それは触れるものを絡め取る嘘の温もり。
「それは、あなたにとってのあの人と同じなのよ」
……。
顔を上げるとそこには草原が広がっていた。
短い緑色の草が世界を敷き詰めていて、風に揺れている。
空は灰色。雲は灰色。風は灰色。熱を持って動きが鈍い。遠くには、緩やかに連なった山々の稜線が霞んで見える。
色の薄い草原を見渡す。そこに彼の姿を見つける。
碇君は後姿。独りで佇んでいる。
遠い。
雨が降り始める。熱を持ったぬるい雨が降り始めている。
景色を溶かしていく雨。滲む後姿。
遠い。
少しでも近づくために一歩踏み出す。手に持った絆を手繰り寄せる。千切れてしまわないように少しずつ、ゆっくりと近づく。
一歩進めば、一歩近づく。当たり前のことだけれど、それが凄く嬉しいと感じた。
彼の後姿はいつまでも遠い。
それでも私は一歩踏み出す。私は彼に、一歩近づく。
それはとても素敵なことに思える。
碇君。戻ってきて。
闇の中から碇君の腕を引き抜く。引き抜こうとする。碇君の腕は冷たく、闇に固定されてしまっている。動かない。
動かせない?
文庫本を拾い上げる。それを鞄の中にしまう。
碇君の顔を見る。白い病室の光に照らされて、色が薄く見える。重い腕を持ち上げて、碇君の頬に触れる。それは間違いなく私の腕と手だ。伝わって来る温もり。私の熱は碇君に伝わるだろうか。
「あの人があなたを離すわけはないのに」
じっと目を閉じる。
「あなたの肉と魂はあの人のモノなのに」
微かに伝わる熱を確かめる。
「あなたはあなたのモノではないのに」
私は、嘘を、嘘との絆を解こうとした。その古い絆は固く結ばれていて、私の手だけでは解けないかもしれない。
「……あなただけが、私たちから切り離されようとしているのね」
碇君の熱が、そっと手を添えてくれたような気がした。
それは控え目で、そしてとても暖かい、彼の笑い方のような熱だった。
闇の中でもがく。
「碇君」とハッキリ声に出して呼びかける。
私は胸の火を燃やす。燃やす! 輝いて熱を放つ。
「碇君!」
掴んだ私の手から、碇君に熱が伝わっていった気がした。……違う。熱は、確実に伝わっていった。
闇が溶ける。溶けていく。碇君の体は温かくなる。熱を放つ。初号機と同じように、闇を破って碇君が落ちてくる。
私は碇君を抱きとめるために、そっと手を差し出した。
目が覚めた。
白の病室。緑と光。虫の声。熱い風。少し汗をかいている。
碇君の顔を見る。目が逢った。透き通る黒。私の瞳は血の紅。
「……あの、おはよう」と碇君は言った。よく似合う控え目な笑み。
「……おはよう、碇君」と私は言った。
「夢の中で、綾波に逢った気がするよ」
「……私は、ここにいるわ」
胸の火は勢いを増して、強く燃えて、炎になった。
時間はかかったけれど、目を覚ますことができたのかもしれない。理由を言葉にすることは難しいけれど、なぜだかそう思った。
闇が少しだけ晴れていた。薄明かりの向こうに、光の射す鮮やかな草原を見た気がした。