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Written by 色椅子 



 あれからちょうど1年半が過ぎた。レイからの連絡は一切ない。どうせレイのことだ、1年もすればまた泣きついてくるだろう……そんな期待はもろくも崩れ去っていた。だがシンジの心は未だ頑ななプライドと自尊心とで凝り固まっていた。
 「碇さん、明日の収録は8時からです。とうとう激情大地にまで取り上げられましたよ。題名は『時の英雄〜過去の軌跡と今の姿〜』だそうです!30分後に打ち合わせがありますんでよろしくお願いします。」
 「ああ……わかった」
 マネージャーが去って行く後姿を何をするともなく見つめる。
 気分が、乗らないな……。
 だがすぐにそんな自分に気が付くと冷笑を浮かべる。
 (はっ、レイも馬鹿なヤツだ。意地張っちゃってさ。次に泣きついてきても冷たくあしらってやるか)
 だがそんな風に考えても、心は晴れなかった。今までレイはどんなに喧嘩をしても、せいぜい半月ほどで目に涙をいっぱいにためて謝ってきた。そのときは優しく抱きしめてキスをして……、それで全て丸く収まっていた。まして加速度的に忙しくなった時期でも、数ヶ月に一度は必ず会いに来ていた(実際は何度も会いたいと言ってきていたのだが、シンジが軽く切り捨てていた)。それが1年半も連絡ひとつよこさない。それゆえ、心の奥底ではレイがもう戻ってこないような雰囲気を感じていた。だがシンジはそこから目を背け続けていた。レイが俺なしで生きて行けるはずがない……その思いに縋り付いていた。


 大通りを歩いていてふと目に留まった路地の、更に奥まったところに位置する小さなバー。大通りから数歩離れただけの場所であるのに、そこはまるで隔離された空間であるかのように静けさが色濃く漂っている。
 いつもならこんな薄暗い場所なんかに目は行かないのに……
 そう思いながらもシンジは気まぐれでそこに足を向けた。

 からんからんという鈴の音とともに、ドアが軋んだ音を立てて開くと、中から「いらっしゃい」というしわがれた声が聞こえた。シンジは客のいない店内を見回して小さくため息をつくとカウンターに腰を掛ける。どうやらマスターとおぼしき初老の男性ひとりがこの店の全てのようだ。
 「マスター……ウィスキーをロックで」
 「はいよ」
 ちらりとシンジの顔を見てそっけなく答える。その態度に少しムッとするシンジ。
 「マスター。俺のこと知ってる?」
 サングラスを外し問いかける。マスターは棚から酒瓶を取りながらシンジの顔を見つめた。
 「いんや。あんた有名人かなんかなのかい?」
 その一言にシンジは少なからず驚き、目を見開く。一瞬食ってかかろうとも思ったが、少し思い直すと続けた。
 「いや、俺はマスターの顔に見覚えがある気がしてね。どこかで会ったかもしれないと思ったが、どうやら気のせいだったみたいだよ」
 最近は少し、有名人であることに疲れた。誰も彼もが尊敬と羨望の眼差しを向けてくる。もちろん不快ではないのだが、彼らの憧れであり続けるのにはそれなりに努力が必要だった。
 サングラスは……常に手放せなかった。
 だからこういうのもたまには悪くないかもしれない。シンジはサングラスを胸ポケットに引っ掛けるとグラスを手に取った。


 小一時間他愛もない世間話を続ける。その間にも酒は入り続け、酔いも回ってくる。少し会話が途切れた後、マスターはじっとシンジの顔を見つめた。
 「あんた……何かあったのかい?」
 シンジは顔を上げる。マスターはグラスを洗いながら続けた。
 「今のあんたは生きているようには見えないよ……それに、それは生来の口調じゃないじゃろ?出生のようにな、隠しておってもわかる人間にはわかるんじゃよ。まあ隠している自覚はないかもしれんが……」
 ゆっくりと手元のグラスに目を向ける。水面に映り込んだ自分の顔がひどく歪んで見えた。それは必ずしも波紋のせいだけではないように思えた。
 「女……か?」
 今度は弾かれた様に顔を上げる。
 「図星か?振られでもしたのかい?」
 「そんなはず……ないだろ!」
 少し声を荒げる。なぜこんなにも憤りを感じるのかはわからなかった。
 「レイは……どうせまた泣きついてくる。今までずっとそうだった。レイは俺なしで生きてなんかいけない!」
 「そんな子がお前さんの元を離れて行ったというのなら、それはお前さんが……変わってしまったからじゃろ」
 「変わっただと?あんたに俺の何がわかるんだ?」
 グラスを叩きつけるようにカウンターに置く。だがマスターは至極冷静に手元のグラスの水滴をぬぐい、食器棚へしまうと続けた。
 「さっきも言ったように、あんたは生来そんな話し方ではなかったはずじゃ。何があんたをそんなに変えたのかはわからんが……今のあんたは大切な何かを失った者特有の目をしとる。あんたはその重さを考えたことはあったか?」
 言葉に詰まるシンジ。脳裏に蘇るはレイと共に歩んだ日々。
 初めて手を繋いだときの胸の高鳴り。
 レイのことで頭がいっぱいだった毎日。
 悩みに悩んだ挙句、誕生日のプレゼントにおそろいの銀のロザリオを買ってあげたこと。
 そのときのレイの頬を紅潮させて目を細めた、とても嬉しそうな表情。
 初めてのデートで行った遊園地。
 その帰り道での初めてのキス。
 上気したレイの顔と唇に残った柔らかく、とても温かい感触は今でも鮮明に思い出せる。
 あの頃……レイが愛しくて愛しくてたまらなかった。その気持ちは永遠だと思っていた。そんな俺を一体何が変えたのだろう?何がその心を見えなくしてしまったのだろう?
 不意に涙がこぼれた。
 それはカウンターに弾けて消えた。だが次から次へと涙は溢れてくる。何よりも大切だったレイ。だけど……僕------は、いつの間にかそれを当然のことに思ってしまっていた。
 レイの愛を。
 信頼を。
 優しさを。
 その上軽んじてしまった。
 その結果、僕は失ったことにすら気付けなかった。

 「もう……取り返しはつかないのかい?」
 マスターは穏やかな口調で尋ねる。
 「……わから……ない……。僕はひどいことをしてしまったんだ……レイが僕を愛してくれるのを当然のことのように思って……レイを傷つけて……離れていってしまうことにすら気付けなかった……」
 酔いも手伝ってだろうか、心の奥底に隠れていた想いに涙はとどまることを知らなかった。
 もう取り返しはつかないのだろうか?
 再びレイと寄り添って人生を歩んでいくことはできないのだろうか?
 二人幸せな未来を築いて行くことは叶わないのだろうか?
 レイがたまらなく恋しかった。
 あの心を抱きしめられるような美しい微笑みが、彼女の温もりが。
 なぜもっと早く気付かなかったのだろう?
 大切なものはすぐ傍にあったのに。
 わかっていた、はずなのに……
 「今のあんたなら……」
 マスターの声に、シンジは涙でぐしゃぐしゃの顔を上げた。
 「昔にもどったあんたなら……取り戻せるんじゃないか?その子の笑顔も、失った時間も。ワシにも昔似たようなことがあっての……そのときは目を背け続けた。今でも後悔しておる。おまえさんには同じ思いをして欲しくない。だから……後悔したくなければ、今すぐ行け。すぐに、じゃ」

 《そうしないと……なにもはじまらないわ》

 マスターの言葉と同時に思い出されるレイの言葉。それに呼応して、再びシンジの瞳が光を取り戻す。消えかけていた意志の炎が再び大いなる決意と共に灯される。
 「お釣りはいりません」
 一万円札をテーブルに置くと、ドアに駆け寄る。そしてふと立ち止まると振り返って言った。
 「マスター……また来ます」
 「次は彼女も一緒に、な」
 ------からんからん
 「若いってのはいいねぇ……」
 カウンターの上には一万円札と……サングラスが静かに輝いていた。


 「い、碇さん?芸能活動引退ってどういうことですか!?」
 「ごめん。今決めたんだ。僕はドイツに行くから、もう辞めるよ」
 「ぼ、僕って……ふざけてるんですか?だいたいこの先も半年くらいまではスケジュールも決まってるんですよ!それはどうするんです!?」
 「ごめん全部キャンセルしといて!今までの給料はいつもの口座に振り込んどいてくれないかな?じゃあ長いことお世話になったね。ありがとう。これからも元気でね。それじゃ」
 「あ、いか……」
 プチッ
 電話を切ると携帯をポケットにしまい、シンジは夜道を駆け出した。


 「あんたさぁ〜恋人の一人でも見つけたら?私とタメを張れるのなんてあんたくらいなのにもったいないわよ」
 アスカは瓦礫に腰を下ろすとレイに飲み物を渡しながら呟いた。
 ブレーメンの郊外に位置する小さな村。サードインパクトの傷跡も生々しいその場所では、今も多くの人が生活に苦しんでいる。
 「今は人を助けるので精一杯だから……そんな暇はないわ」
 レイは曖昧に微笑む。
 アスカはそんなレイを少しため息をつきながら見やった。
 「あんた……まだシンジのこと吹っ切れてないの?」
 手元の缶に視線を向けていたレイはビクッと肩を震わせる。
 「本当に……良かったの?」
 「……私も……あんなシンジをこれ以上見たくなかったから……」
 「でもまだ忘れられない?」
 レイは少し迷った後小さくコクリとうなずき、そのままうつむいてしまう。
 「時々……とても……恋しくなる……」
 小さな沈黙。
 アスカは再びため息をつくと立ち上がり、レイの背中をパンッと叩いた。
 「ほら!元気出しなさい。そのうちもっといい人が現れるわよ!次は包帯の支給よ。今日は忙しくなりそうだわ」
 レイはけほけほと咳き込みながら少し恨めしそうにアスカを見た。しかしすぐに笑顔になる。
 「ありがとうアスカ。行きましょう」
 先に立って歩き出したレイの後姿を、少しの間アスカは見つめる。
 (レイ……無理、しないでね)


 ドイツにたどり着いたシンジは、特に大きな災害を受けた地区を転々としていた。目を覆いたくなるような惨状がシンジの前を通り過ぎて行く。改めて未だ癒え切っていない傷跡を目の当たりにし、シンジは心が掻き乱されていくのを感じていた。
 「こんなに、酷いだなんて……」
 一瞬全てを投げ打って飛び出してきたことに後悔が過ぎる。もう少しやり方があったかもしれない。番組で募金を呼びかけるだとか、こういった地域にスポットを当ててもらうだとか……。
 そんな思いを締め出すかのようにシンジは頭を振る。
 今はとにかく、レイに会いたい。
 会って、それから考えたらいいじゃないか。
 出会うボランティアの人々に片言のドイツ語で必死にレイの行方を聞いて回る。
 地道な努力の甲斐もあって、そのうち一人からそう遠くない場所を教えられた。幸い車で小一時間も行けば到着するであろうその地区は、ここ近辺では特に被害の大きな区域であると認知されている。
 急いでその場所に向かうシンジ。
 やっとレイに会える。
 早く、早く会って一言謝りたい。
 そして……願わくばこれから共に歩んでいきたい。
 教えられた地区の近くに車を止める。降り立ったそこは噂に違わず、他のところよりも荒廃が酷かった。その数多くある原形を留めていない建物の一角……人々が集まる中に、レイは、いた。
 彼女を視界に捕らえて駆け寄ろうとするシンジ。だがその足がはたと止まる。
 シンジの目に、涙が滲んできた。
 砂埃が舞う中、アスカと共に人々に手を差し伸べるレイは……輝いていた。その瞳は生気に満ち溢れ、一心不乱に人々を助ける彼女は神々しくすら見えた。
 シンジは崩れ落ちる。
 僕は、何をやってたんだろう?多くの人にちやほやされて、浮かれて。
 一端の有名人を気取っていながら、中身は何もないじゃないか……
 その上、僕は結局レイの決断の重さを全然理解していなかった。
 レイに会って謝ることだけを考えて、恋人に戻ることだけを考えて……
 冗談じゃ、ない。
 よりを戻すどころか、今の僕には彼女に会う資格すらないだろう。
 シンジはよろよろと立ち上がると車へと引き返した。半ば倒れこむように運転席に乗り込み、考える。今も視界の隅には、流れる汗を拭おうともせず、ただひたむきに、誠実に人々を助けるレイの姿があった。

 (全てを捨ててきた僕にできることは、もう幾らも、ない)
 自分の手の平を見つめる。なんて……ちっぽけなんだろう。だがこれより小さな、僕の手の平で包み込んでしまえる程に小さな手で、レイは信じられないくらい多くの人を助けている。
 それが、ただひたすらに、眩しい。

 (レイのようには、できないかもしれない)
 シンジは思う。
 だけどきっと僕の小さな手の平でも、できることがあるはずだ。
 そうだ……
 その何かを、これから一生掛けてでも、探してみたい。
 そしてもしそれが見つかったら、彼女に、報告に行こう。
 たくさん謝って……きっとその時は僕の想いも胸を張って伝えることができるだろう。
 
 手の甲で、グッと涙を拭う。
 最後にもう一度だけレイの姿を目に焼き付けると、シンジは車を回す。
 ひとまず、学ばなくちゃならないことがたくさんあるぞ……。
 車を走らせながらシンジは考えを巡らせる。
 シンジ自身は気付いていなかったが、その瞳はレイと同じく輝いていた。


 ……………………
 ………………
 …………
 ……

 
 「ありがとうレイさん、アスカさん。あんたらは命の恩人じゃ」
 レイはにっこりと微笑むと握手を返す。その老人はアスカにも同様の仕草で握手をすると続けた。
 「そういえばデュッセルドルフの方でも熱心に我々を助けてくださっている日本人のボランティアの方がいると聞いたのじゃが、お二人さんの知り合いかえ?」
 「いいえ、違うわよ。でも珍しいわね〜私ら以外で日本人なんて。レイ、どうせ次はそっちの方に行く予定だったしついでだから会ってみようか?」
 「そうね。アスカがそう言うなら」
 レイも少し興味が沸き、うなずく。
 二人は老人に別れを告げると、幾人かの仲間と共に一路デュッセルドルフを目指した。


 「ああどうやらあいつみたいね」
 アスカとレイは怪我をしている人に包帯を巻いている、黒い長髪を後ろ手に縛った人物を見つけると近づく。
 「ねえ。あんたも日本から来たらしいわね。名前なんての?」
 アスカが話しかけると、その人物はビクッと肩を震わせ、振り向いた。
 雷が落ちたようにレイは足を止める。
 アスカは少し訝しげな顔をする。
 「?あんたどこかで……」
 「ひ、久しぶりアスカ」
 途端にアスカの顔にも驚愕の色が走る。
 「あ、あ……んた……もしかして……シンジ?」
 「う、うん」
 「うんじゃないわよ!うんじゃ!っていうかあんた芸能活動とかどうしたのよ!?」
 「辞めたんだ。その……しなければならないことに気付いて……」
 シンジが無意識のうちにちらりとレイの方を見る。アスカはその瞬間を見逃さなかった。
 「はいはい。積もる話は後で聞かせてもらうわ。そういやさっきあっちで私を呼んでる人がいたのよね〜ちょっと行ってくるわ」
 「あっ、アスカ……」
 取り残されたシンジは恐る恐るレイの方を向いた。レイは目を大きく見開いてシンジを呆然と眺めている。
 「……レ、レイ。久し、ぶり」
 レイはその一言にハッと我に帰る。
 「シ……ンジ……。どうして……」
 シンジは何か迷っているように目を伏せた。だが数瞬の後に意を決したかのように顔を上げる。
 「ごめんレイ。本当に……ごめん」
 「シン……ジ?」
 浅黒く日焼けした肌。現地の人かとも思えるくらいに汚れたTシャツの袖を捲り、うっすらと無精髭を生やしたその姿は、精悍で潔癖であったあの頃のシンジとは似ても似つかない。だが、不思議とその瞳の色に、かつての……そう、大好きだった碇君の瞳が重なる。
 「あの時、君を失って……君が戻ってこなくなって、やっと気付いたんだ。一番大切なものに。レイのことを……心から、愛していたことに」
 「!?」
 レイは無意識に胸を押さえ、息を呑んだ。
 「それに気付くまで……レイがいなくなってから1年半もかかっちゃったよ。はは、僕は本当に……最低の人間だよね。レイを……傷つけて……」
 「シンジ……」
 「本当は1年くらい前、かな?一度レイに会いに行ってたんだ。でも声をかけられなかった。レイがひどく輝いて見えたから……自分はなんて小さい人間なんだろうって思ってね。」
 シンジは少し自嘲気味にこぼした。
 「その時決めたんだ。自分の小さな手でもできること……それを見つけたら、それに誇りを持つことができたらもう一度レイに会いに行って謝ろうって。想いを伝えようって。でも……まだ、わからないんだ。僕が自分にできることの一番がなんなのか。それなのに……」
 シンジは唇を噛み締める。
 「ダメ、だった。こんな風に偶然にもう一度出会って、君と向き合ってしまったらもう想いが止められなかった。元の鞘に戻ろうなんて、そんなことを言うつもりは微塵もない。レイには今の生活があるし、きっと今の君には大切な人もいると思うから。でも本当におこがましいけど、レイのことを……心から愛してる。そのことを心のどこかに置いておいてくれたら、僕はそれだけで、幸せ……だか……ら」
 喉の奥に何かが詰まってしまったかのような感覚。知らず内にシンジは涙を流していた。声が上手く出せない。伝えたいことはたくさんあるのに、肝心なときに喉は馬鹿になってしまってこれ以上言葉を紡げそうになかった。

 (僕は少しでも変わることができたのだろうか?)
 シンジは自問する。
 この1年間は、あっという間だった。
 だけど今までの自分を偽っていた年月とは違い、思い出せることは数え切れないほどある。
 辛いこと苦しいことも、もちろんたくさんあった。
 だがその何倍も鮮やかに蘇る、人々の笑顔……
 そうだ、この1年間にはきっと胸を張ることができる。
 だが……果たして僕は、自分の決意を満足に果たすことができたのだろうか?
 わからない。
 答えはまだ、見つかって、ない。

 (僕はまだ、あの頃のまま小さ……)

 ───トサッ

 そんな葛藤に足掻く最中、シンジは突然、胸元に包み込むような暖かさを感じた。
 滲んだ視界が肩を震わすレイの頭上を捉える。

 シンジのそんな姿に、レイは、思い出していた。
 今まで一生懸命忘れようとしていたことを。
 シンジと……いや、まだシンジと呼ぶのが恥ずかしくて碇君と呼んでいたあの頃のことを。
 胸に去来する気持ちは当時となんら変わりなかった。

 好き。

 この二文字では到底表しきれない、溢れるような想い。
 あの頃、ずっと碇君のことばかり考えていた。
 碇君のことで胸は一杯だったし、碇君の他には何もいらないと思っていた。
 そんな輝ける時間。
 二人で休日をただ寄り添って過ごしたり、小さなキスを交わしたり……なんて素敵な日々だっただろう。
 そして、少しも色褪せないたくさんの思い出を通して改めて気付いた。
 あぁ……私は忘れられてなんていなかった。薄っぺらい紙で包んでいただけ。そもそもこんな気持ち忘れられるはずがない、ということに。

 抱きしめる腕にぎゅっと力をこめる。
 「レ……イ?」
 「私の大切な人は……今も昔も、碇君しかいない、わ……」
 レイは一言一言に精一杯の愛を込めて、伝える。
 「自分の小さな手でもできること、私も、まだ探している途中。碇君はその道の上で私を見つけてくれた。だから……これからは一緒に、探して、いきたい」
 シンジは雷に打たれたような衝撃を受けていた。
 共に歩んで行くことなんてとうの昔に諦めたつもりだった。
 それなのに……
 手を回せば、抱きしめられるところに彼女がいる。
 手を伸ばせば、抱きしめられるところに彼女との未来がある。
 それが嬉しくて、嬉しくて……
 あふれ出る涙をぬぐいもせず、シンジは精一杯の愛を込めてレイを抱きしめた。
 「ありが、とう……綾波」


 「アスカさん!こっち、手伝って!」
 「は〜い!今行くわ!」
 少し離れたところでそっと聞き耳を立てていたアスカは遠くからの呼び声に答える。
 今一度振り返った先には、恥ずかしげもなく抱き合う懐かしい2人の姿があった。
 「また……碇君と綾波からやり直しね。」
 アスカの呟きは秋の兆しが見え始めた空へと吸い込まれていった。





Fin

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