アマイココロ

Written by JUN 












 「バレンタインデー?」
 「そ、バレンタインデー。レイ、もしかして知らないの?」
 「・・・・・名前は知ってる。でも、何をするのかは知らない」
 「バレンタインデーってのはね、女の子が好きな男の子にチョコレートを渡す日よ。まぁ普通、手
作りが基本ね。後、『義理チョコ』と言って普段お世話になっている人に渡す、という風習もあるわ。
これは市販品で済ませる場合が多いわね」
 「そうなの・・・・・・」
 「アンタね、日本に住んでてバレンタインデーを知らないなんて、ありえないわよ」
 「私には、関係ないから」
 「え、じゃあチョコ作んないの?」
 「ええ、必要ないもの」
 「アンタそんなこと言って、シンジ悲しむわよ?」
 「・・・碇くんが?」
 
 ここに来て初めて、蒼銀の髪の少女、レイがやっと反応らしい反応を見せた。
 それに対し、今や彼女の親友と相成った、燃えるような赤毛の美少女、アスカが呆れた表情で応え
る。
 「アンタもしかして、シンジが期待してないとでも思ってんの?」
 「・・・・・どうして?」
 「あからさまに気にしてるじゃない。放課後もアンタの様子ばっかりうかがってさ」
 「そう、なの?」
 聞いてアスカは思わず頭を抱えた。昔から周りに興味が無いような様子の少女ではあったし、今現
在とてその気はある。しかし、ああまで分かりやすく反応しているシンジになぜ気づかないのか。だ
がそこはそれ、自称『レイを普通の女の子にしよう隊』隊長(隊員一名=隊長=アスカ)は気を取り
直してレイを諭しにかかった。

「アンタねバレンタインってのは日本人男子にとってはクリスマスに並んでとても大きな意味を持つ
イベントなの好きな女の子からチョコをもらえるか否かいえこの際もらえれば誰だって嬉しいと言う
ほどのパワーがあってこの日にいくつチョコレートをもらえるかで男の価値が決まるそのくらいの物
なの一方女の子も自分の気持ちを伝えると言う点で非常に大きなウエイトを占めているイベントだか
らこの時期の女の子はバレンタインに向けて必死で手作りチョコの練習をするものなのよいわば男の
子にとっても女の子にとってもバレンタインデーは命をかけたイベントなわけ、分かった?

 いささか偏向されている気がしなくも無いが、レイにとってはそのくらい言わないと伝わらないと
思ったか、それとも本当にそのように思っているのか、尋常ではない迫力でとうとうとアスカはレイ
に語りかけた。息継ぎすらしていない。
 
 そのあまりと言えばあまりな迫力に圧されてか、普段はその澄ました表情を崩すことがほぼないレ
イもさすがに少しうろたえた様子で、
 「え、ええ、分かったわ、アスカ」
 「そんな大事なイベントだから、シンジもやっぱり気にしてるのよ。アンタにもらえるんじゃない
かって」
 気を取り直して、アスカは本題に入る。
 「で、どうすんの?チョコあげるの?」
 「でも、別に碇くんと私はただの友達だから・・・・・・」
 はあ、と呆れたようにため息をつくアスカ。
 「アンタね、『ただの友達』がどうして毎日お弁当作ってきたり家まで送っていくのよ。あいつ最
近、ベジタブルレシピの本まで買って勉強してるのよ?誰のためだと思ってんの」
 「でも、言われてない」
 「は?何を」
 「『好きだ、綾波』とか『愛してるよ、綾波』とか・・・・・・」
 シンジがそんなセリフを吐くシーンを想像して、思わずアスカは腕があわ立つのを感じた。似合わ
なすぎる。無論口には出さないが。
 「それを言う度胸がバカシンジには無いんじゃない。だからこそ、この機会にアンタが言うのよ、
バカシンジに」
 それを聞くと、レイの顔がすっと赤くなり、続いて表情が強張る。こうしてくるくると表情が変わ
るようになったのも、あいつのお陰なのかなとアスカは考える。自分の立場上少し悔しい気もしたが、
シンジのレイに対する影響力は疑うべくも無い。何より最初にレイの心を開いたのはシンジなのだ。
負けを認めざるを得なかった。
 「でも・・・・・もし断られたら」
 心底心配そうな顔でレイはつぶやくように応える。
 今まで絆を求めることが無かったレイはやはり拒絶されることに慣れていない。今のままがいい、
と考えてしまうのもある種当然なことなのかもしれない。
 それを察してか、いつになく優しい声色でアスカは諭すように言う。
 「レイ、シンジに想いを伝えたいんでしょ?」
 こくん、とレイが頷く。
 「なら行動しなくちゃ。今のままがいいっていうレイの気持ちは十分理解できるわ。あたしもそう
だったから。だけどね、レイ。ただ相手のことを想ってるだけじゃダメなの。行動しなきゃ伝わらな
いこともあるの。特にシンジみたいに鈍いと、いつまで経っても気持ち、伝わらないわよ。シンジが
自分から言うまで待つってのも一つの手かもしれないけど、せっかくこんなうってつけの日があるん
だから、行動してみようと思わない?」
 「でも、でも・・・・・」
 
 ふーむ、とアスカは思わず考え込んだ。レイが超がつくほどの奥手であるのは分かりきったことで
あるが、ここまでとは思わなかった。恥ずかしいので出来れば避けたかった道なのだが、仕方ない。
   
 可愛い妹のためだ。
 
 「レイ、私もそうだったわ。誰も私のことを見てくれなかったあの頃を思い出して、今、目の前の
こいつに見放されたら、生きていけないかもしれない、そう思った頃もあった。だけど、この間のク
リスマスの時勇気を出して気持ちを伝えたわ。お陰で今、カヲルとこうして一緒にいられる。もしあ
の時気持ちを伝えていなかったら、ずっと後悔していると思うわ」
 
 アスカとカヲルは一足先に恋人同士になっている。レイがそのことを聞いた時は、あのアスカが、
と思ったものだったが、今は二人ともついこの間付き合い始めた二人とは思えない強い絆が見て取れ
る。自分もああなれたら、と思ったものだった。
 そして今、『ああなる』チャンスが目の前に到来していることにレイはやっと気づいた。それは今
のレイにとってはこの上なく魅力的なことである。レイはようやく一歩を踏み出す勇気が生まれてき
た。
 「碇くん、喜んでくれる?」
 少しだけ残る不安をアスカに覆い隠してもらうかのように、すがりつくような声でレイは問いかけ
た。
 「あったりまえよ。私が保証するわ。がんばんなさい、レイ」
 太陽のような笑顔で、アスカは自信満々に答える。その言葉がレイに最後の一歩を踏み出す勇気を
与えた。
 「分かったわ、私、がんばる」
 「そう、その意気よ」
 「待っててね、碇くん」
 決意に満ちたレイを見て、アスカは少しうらやましかった。目の前にいる彼女は、この世にいる誰
よりも純粋で、誰よりもシンジを想っていた。そんなレイがたまらなく健気で、アスカは抱きしめた
くなる衝動に駆られたが、すんでのところで思いとどまった。
 
 「それじゃ、どうするチョコ?あたしもこれからヒカリに教えてもらうんだけど、一緒に来る?」
 「いいえ、自分でやってみるわ。ありがとう、アスカ」
 「そ、まあアンタなら大丈夫でしょ」
 
 ――がんばってね・・・・・
 
 そういって踵をかえしかけたアスカだが重要なことを思い出し、レイに付け加えた。
 「いい、レイ。お料理の本を読んでも人にアドバイスをもらうのもいいけど、ミサトにだけは聞い
ちゃダメよ、いい?」
 「どうして?」
 「どうしてって・・・・レイ、アンタもあのカレー食べたんでしょ?」
 「カレー?」
 「先週ミサトが作った、あのカレーよ」
 
 それを聞いてレイの顔がふっと青ざめる。白く華奢な足は震え、真紅の双眸には涙までたたえ始め
ている。アスカもさすがにうろたえてしまう。
 「ちょ、ちょっとレイ、大丈夫?」
 そんなアスカの呼びかけにも応じず、ただただ同じ言葉を繰り返した。
 「・・・・・いや、いや、いや!」
 「わ、悪かったわよ、レイ。落ち着いて!」
 アスカがうろたえながらもレイに語りかけると、ようやくレイは落ち着きを取り戻した。
 「分かったでしょ?だからミサトには聞いちゃダメ。シンジにあんなの食べさせられないでしょ?」
 「ええ、分かったわ、絶対に聞かない」
 レイは涙声になっている。あの時レイは一口食べるなり顔を青くして卒倒してしまったのだが、ま
さかここまでトラウマになっていると思っていなかった。レイの前でこの話は禁句ね、とアスカはま
た一つ賢くなった。
 「それじゃあ、材料買ってくるわ。また明日、アスカ」
 「ええ、がんばってね、レイ」
 ゆっくりと決意に満ちた足取りで歩んで行くレイをしばし見送った後、アスカも今日の買い物につ
いて話すためヒカリへと近づいていった。口元に確かな笑みを湛えて。

 ――待ってなさいよ、カヲル・・・・・・!





 
 ――さて、どうしようか
 自宅の台所で、レイは考え込んだ。アスカの買い物に付き合わなかったことを今になって後悔した。
 アスカにああは言ったが、チョコレートの作り方は何一つわからない。確か何かの本で読んだとこ
ろによれば、チョコレートは昔、滋養強壮に効くいわゆる薬のような飲みものだったらしい。よって
金持ちしか飲むことの出来ない貴重なものだったそうだ。それに砂糖を加えて固めたものが、現代の
チョコレート、というわけだ。
 その方向性でいけば、カカオ100%のチョコレートを作るのが理想かなとレイは考えた。
 カカオ100%のチョコなどそうそう手に入るものではないし、何より下手なチョコより高価だ。だ
からこそ喜んでくれそうな気がした。
 
 カカオを仕入れるため、NERV本部へと飛び出しかけたレイの足が、はたと止まった。
 
 ――碇くん、確か甘党って言ってた・・・・・・!
 
 危ない危ない、危うくとんでもない過ちを犯すところであった。甘党のシンジにカカオ100%なん
て食べさせるわけにはいかない。高級とはいえあまりにも苦い。告白して嫌われるのなら諦めもつく
が、チョコレートの味で嫌われたら死んでも死に切れない。ましてこんなくだらないミスで。
 


 ――碇くんに嫌われる・・・・・・!


 唐突にそのことが頭に浮かんだ瞬間、急に恐怖で頭がいっぱいになった。もし彼に嫌われたら、自
分はどうやって生きていけばいいのだろう。彼なしで自分がまともでいられるとは到底思えない。そ
んな感情に対し全くの無防備で、半ば浮かれ気味だったレイは、押し寄せてくる感情の波をやり過ご
そうとでもするように、固く目を閉じた。バレンタインデーには断られる可能性も十分にある。無論
理解はしていたが、具体的には考えていなかった。シンジは自分をおいて去っていってしまうかもし
れないのだ。


 そんなことを考えたら、涙が溢れてきた。泣いてはいけない、泣かなければならないことは何も起
こっていないのだから、泣いてはいけない。

 しかし、シンジのあの優しげで、それでいて少し不安そうな眼差しを思い出すと今度は愛しさがこ
み上げてくる。人形のように硬く強張っていた私の心をすくい上げてくれた、あの微笑み・・・・・・

 思えばあのヤシマ作戦の時から、もう人形ではなかったのかもしれない。あの時既に、自分は彼の
虜になってしまっていたのかもしれない。そんな心に気づくことが出来ず、とうとうサードインパク
トの引き金となってしまった自分。しかしシンジは、そんな自分を赦し、再びこの世界への扉を開い
た。あれほど傷ついていたにもかかわらず、シンジは再び他人を受け入れた。自分の意思で・・・・・
 そしてサードインパクトの引き金となってしまった自分を、またあの優しい微笑みで迎えてくれた。
 自分はその時初めてシンジへの確かな恋を自覚し、この想いを伝えるためにこうしているのだ。
 
 それなのに――

 こらえられなかった、自らの意思に反してぽろぽろと涙は流れてくる。ベッドに突っ伏し、声を立
てて泣いた。怖くて、情けなくて、愛しくて・・・・・

 「う、え、いかり、くん・・・・・碇くん・・・・・」

 その声は夜中まで途絶えることは、無かった。











 レイは失意のまま学校に向かった。レイの心模様に反して、空は薄い水色の柔らかな光に満ちてい
た。サードインパクト後であることを知らせてくれるこの冬特有の柔らかな日差しを見ると、レイは
しばし心が和んだものだったが、今はどんよりとくすんだ空にしか見えなかった。
 とぼとぼと足を引きずるようにして歩みを進める。正直学校に行けるほどの元気は無かったが、こ
んなに辛いというのに、シンジの顔だけは見たかった。我ながら勝手だなとも思う。
 しかし、そうでもしなければ心が折れてしまいそうだった。あの優しい顔を一度見られればそれで
いい。今のレイの心の支えは、シンジしかいなかった。シンジ以外にありえなかった。
 

 「あ、綾波、おはよう。今朝は早いね」
 とくんっ、と不意にレイの心臓が早鐘をうち、その動揺を隠すよう努めながらレイが振り向くとそ
こにはいつものシンジが立っていた。その優しい顔に、涙が出そうになるのをぐっとこらえた。
 「・・・・・おはよう、碇くん」
 その声を聞いてシンジはおや、と思った。心なしか声が震えている。よく気をつけて見てみれば幾
分目がはれぼったい。いくら鈍いシンジでもさすがに気になり、聞いてみた。
 
 「綾波、なにかあった?」
 「ど、どうして?」
 「目がはれてるよ、泣いたの?」
 デリカシーが無い、と思われるかもしれないが、レイに対してはストレートに問いかけなければ答
えないのだ。シンジもいつもならもう少し遠まわしに訊くのだが、さすがにあのレイが泣いたとあれ
ばただ事ではない。はやる心がシンジを大胆にさせた。
 
 レイはすっとシンジから目をそらし、
 「・・・・・・なんでもない」
 「あ、綾波――」
 「私今日、急ぐから」
 たたたっ、と小走りでレイは行ってしまった。これは絶対普通じゃない、とシンジは思う。自分の
大事な人が悩んでいるということに、シンジは心を痛めた。その原因が自分にあるとは露ほども知ら
ずに。
 




 ――気づかれてしまった。
 
 いくら鈍いといってもさすがに先ほどの自分の変化に気づかないわけが無い。今になって焦りがこ
み上げてくる。優しい彼のことだ、きっと自分を心配してあれこれと声をかけてくれることだろう。
いつもならたまらなく嬉しいことではあるが、今日はその優しささえも辛かった。やっぱり学校を休
めばよかった。弱気な自分を見られるくらいなら、家でふさぎこんでいる方がどれだけましなことだ
ったろう。
 





 「おはよ、レイ」
 いつものようにアスカがレイに声をかける。蒼銀の髪をなびかせレイが振り向くと、レイはその美
しい眸にいっぱいの涙をたたえていた。
 「ちょ、ちょっとレイ、大丈夫?」
 「う、う、えぇ、アスカぁ・・・・・・」
 「と、とりあえずこっちへいらっしゃい。ここじゃ目立ちすぎるわ」
 そう言ってアスカはレイを、誰も立ち寄ることの無い、倉庫と隣接する階段の踊り場へと連れて行
った。
 




 しきりに体を震わせているレイの背中をさすりながら、アスカはレイが自分から話し始めるのを待
った。普段の様子からは想像もつかないほどに取り乱すレイ。それなりに長い間――恐らくはシンジ
の次に――レイに接してきた自分でも未だに見たことが無いレイの様子に、アスカは無理に問い詰め
ることは得策ではないと判断した。

 ようやく落ち着いた頃、レイは涙声で切り出した。
 「アスカ・・・私、やっぱり出来ない、碇くんにチョコ、渡せない・・・・・・」
 「・・・どうして?」
 普段のアスカからは想像できないほど、優しく、穏やかな声だった。その声に衝き動かされるよう
に、ゆっくりとレイは昨日の事を語った。アスカはその間、何も言わずただ聞いていた。
 


 「つまり、どんなチョコにするか考えているうちに、自信がなくなった、と・・・・・・」
 こくん、とアスカの胸に顔をうずめながら、レイは無言のままうなずいた。
 「碇くんと今までどおりいられなくかもしれないと思ったら、怖くなって・・・・・・」
 いつもの真っ直ぐな口調とは違い、その声は弱った子猫が母を求めて鳴くような弱々しい声だ。そ
れはいかにレイの心が追い詰められているかを象徴していた。その声を聞くとアスカの口調からも普
段の明るさが消える。
 
 「レイ、昨日の私は少し無責任すぎたかもしれない。あんたの心は、そんな簡単なものじゃなかっ
たのね。あんたの心は、思春期特有の恋心なんて生易しくて単純なものじゃなくて、もっとずっと複
雑で、傷つきやすいものだったのね。ごめんね、レイ。私ったらアンタの気持ちも知らずに・・・・・・・」
 ふるふる、とレイがかぶりをふると、アスカは強くレイを抱きしめた。
 「レイ、私はもう。アンタをけしかけたりしない。でもね、レイ。後悔しないようにだけはしなさ
い。私から言えるのはそれだけよ」
 がんばんなさい――
 そう言ってアスカはレイの背中を軽くぽん、と叩くと、教室へと戻っていった。





 シンジはレイを探していた。アスカと一緒に教室を出て行ったきり、なかなか戻ってこない。今朝
の様子もあいまって、ますますシンジは心配になった。

 「あ、アスカ、綾波はどこにいるの?何かあったの?」
 その言葉を聞いてアスカは刹那拳を握る。
 
 ――この男は・・・・・!
 
 が、ここで殴りかかってはいけない。目の前のこいつに悪意は無いのだし、何よりシンジに手を出
すとあの空色の彼女が黙っていない。
 怒りをはきだすようにふう、と一つ息をつくとあまり声に抑揚をつけないように伝えた。
 
 「レイなら、西廊下の踊り場にいるわよ。今もいるかは分かんないけど」
 「そっか、ありがと、アスカ」
 そう言って駆け出しかけたシンジをアスカは呼び止める。
 「あ、待ちなさいシンジ」
 「何?」
 「あのねアンタ、鈍いのは結構だけど、鈍すぎると知らない間に相手を傷つけてることもあるのよ」
 「・・・・・・何のこと?」
 「アンタ、ホントに分かんないの?」
 はぁ、とアスカは深いため息をついた。
 「もういいわ。とにかく、さっき言ったことを忘れないように。分かったわね!」
 「は、はい」
 「よし、行きなさい」
 「はい・・・・・」
 釈然としない表情を抱えたまま教室を出て行くシンジを見送りつつ、アスカは首をかしげた。この
手の仕草は彼女のような美人がすると贔屓目なしに可愛らしく映る。恐ろしいのは一連の動作を全て
無意識でやってのけていることだろう。この仕草に魅了された男子クラスメート数人が感嘆の声を上
げるが、当人は気にもとめない。
 
 ――なんでレイはあんなのがいいのかねえ・・・・・ま、優しいことは認めるけどさ。
 
 「どうしたんだい、アスカ、悩み事かい?」
 振り向くと白銀の髪、紅い眸というレイとかなり酷似した印象を与える少年、渚カヲルが立ってい
た。
 「ま、ちょっとね」
 アスカは素っ気無い。とても想い人に対する態度とは思えないが、彼がそんなことは気にしない性
格だということは十二分に理解しているので、特に問題はない。
 「シンジ君かい?彼も大変だね」
 「大変なのはレイのほうが大変だと思うわ。全く、どうしてああも鈍いんだか・・・・・・」
 「それが僕の心を捕らえて離さないんじゃないか。ああ、全く好意に値するよ」
 「何馬鹿なこと言ってんのよ!」
 陶然とした表情でつぶやくカヲルに、アスカはすばやく拳を振るう。異様に速く強いが、これもま
たいつものことだ。痛みにうずくまるカヲルを見て、アスカもふと思う。
 
 ――ま、変わった趣味なのは私も一緒かもね・・・・・・

 思わずアスカは皮肉めいた笑みを浮かべた。それを見たカヲルは嬉しそうにみぞおちをさすりなが
ら、
 「やっと笑ってくれたねアスカ、僕は君のその笑った顔が大好きだよ」
 思わずぽんっ、と顔を赤くしたアスカに向かってさらに追い討ちをかけるように、
 「そうして照れた表情の君もまた、美しいよ」
 こっちはこんなに恥ずかしいというのに、目の前のこいつには照れた様子も無い。臆面なくこんな
ことを言えるこいつが奇妙に思えると同時に、少しうらやましかった。
 




 「あ、綾波!」
 アスカがさっき言った場所にまだレイはいた。うつむき気味の目はさっきにも増して腫れぼったく、
泣いていたことは一目瞭然だ。
 「・・・・いかりくん?」
 「綾波、大丈夫?なんだか変だよ、今朝から」
 
 こんな心配そうな顔を見ると、またも涙が溢れてきそうになるレイだったが、必死にこらえた。無
用な心配はさせたくない。まして自分なんかのために、心を痛めてほしくなかった。出来る限りの明
るい声を装った。そしてその中で、自分の中に新たな決意が現れるのを感じた。
 「本当に、大丈夫だから心配しないで」
 「・・・・綾波、ホントに無理しちゃダメだよ?」
 「大丈夫だから」
 少し強い口調で言われて、シンジは折れることにした。アスカが話を聞いたのだし、何か問題があ
れば、その内自分にも分かるはずだ。
 「・・・・・碇くん」
  「何?」
  「・・・待っててね」
  「な、何を?」
  「いいから」
  「う、うん」
 
 ――なんだか今日は気圧されてばかりな気がするな・・・・・・

 釈然としない表情のままで教室へと戻るシンジの後姿を見送りながら、レイは決意を新たにした。








 昨日涙を流したキッチンに、レイは再び立っていた。あの時、自分を心から心配するシンジを見て、
やっぱり想いを伝えよう、と思った。大丈夫、彼ならきっと、自分の想いに応えてくれる、と、不安
に陥りそうな自分の心をそう後押しして、チョコレート作りに取り掛かった。
 まず、どんなチョコレートを作るか、というのを考える。市販品などもっての外だ。ここは意地を
張らずに、ヒカリに相談しよう。アスカの誘いを断った後では少し気が引けるが、そんなことを言っ
ている場合ではない。バレンタインデーは明日だ。

 『プルルルルル、プルルルルル、ガチャ』
 『もしもし?』
 「・・・・もしもし」
 『あ、綾波さん?どうしたの?』
 「チョコレートの作り方を、教えてほしいの」
 『やっぱり作ることにしたの?』
 「・・・・・ええ」
 「それじゃあ、簡単なレシピを教えるわね。えーっと・・・・・・」




 ヒカリは、『ガトーショコラ』というチョコレートケーキのレシピを教えてくれた。
 一見非常に難しく聞こえるお菓子だが、材料と道具さえあればそんなに苦労せずに作ることが出来
るらしい。材料と道具を手に入れるため、レイは近所のスーパーへと走った。



 
 レシピの三倍もの量の材料を買い込んだレイは、ケーキ作りにかかった。うまく出来なくてもいい、
自分の想いを伝えられるように、シンジに喜んでもらえるように――
 



 日付が変わる頃、やっとの思いでケーキを完成させたレイは、昨日とは打って変わって満ち足りた
眠りについた。







 決戦の日、来たる。しっかりした足取りで学校へと向かうレイには、もはや昨日までの気弱な印象
は無かった。いつもなら無造作に右手にぶら下げているだけの学生かばんも、今日は両手でしっかり
と握り締めている。その中に込められた自分の思いのたけを護るかのように。

 いつ渡すか、というのを少し考えてみたが、やはり朝一番に渡すのがいいように思う。少し早めに
家を出れば、登校途中のシンジに出会うはずだ。その時に渡せばいい。もしアスカと一緒にいたら
・・・・・その時はその時だ。その時に考えることにしよう。


 「レイ、おはよう」
 あの明るい太陽のような声がする。アスカがいるのか、さていつ渡そう、いっそアスカがいても渡
してしまえばいいのかもしれない。でも自分の想いを伝える時は、二人きりで伝えたい・・・・・・
 そんな思いを抱えながら振り返ったレイの目に飛び込んできた光景は、想像とはいささか異なって
いた。

 ・・・・・シンジがいない。
 
 「アスカ、碇くんは?」
 「アイツ、風邪気味だから遅れてくるってさ。全く、こんな日に風邪引くなんてアイツもとことん
間が悪いわね〜」
 「・・・・・・そう」
 想定外だ。レイは再び思考の海へと潜り込んでいきそうになる。いつ渡そうか・・・・・
 「――い、レイ!」
 「な、何?」
 慌てて顔を上げると、アスカが呆れた表情で立っている。
 「あんたねぇ・・・・・その考え込むと周りが見えなくなるトコ、シンジとそっっくり」
 どう反応していいか分からず、レイは少し赤くなった。
 「まあいいわ。で、チョコ作ってきたの?」
 「ええ」
 「ま、アイツも昼休みには来るでしょ。『休めば?』とも言ったんだけど、『絶対行く』って聞か
ないのよ。とりあえずミサトが病院に連れて行くって事で納得したみたいだったけど」
 「そう・・・・・」
 気落ちした表情のレイを見て、アスカの心もちくりと痛む。
 「ほ、ほらきっとシンジもアンタにチョコもらいたいのよ。だからあんなにむきになって学校行く
って言い張ったんだと思うわ」
 「ホントに?」
 ぱっとレイの表情が明るくなる。
 「ホントよホント、このあたしが言うんだから間違いないわ」
 「よかった・・・・・・」
 「さ、安心したところで学校へ行くわよレイ、遅刻するわ」
 「そうね、アスカ」
 




 
 学校でのレイの様子は、それはそれは落ち着きが無かった。常に窓のほうへと視線を向け、時々耐
え切れないようにため息をつく。アスカがカヲルにチョコを渡した話を聞いても、心ここにあらずと
いった感じだ。
 
 四時間目の始まり直前、ちょうどトウジが早弁を始める頃、レイの目に飛び込んでくるものがあっ
た。
 「碇くん・・・・・」
 息を切らしながら校門へと入ってくるシンジ。風邪なのだからゆっくり歩いてくればいいものを、
全速力で走っている。その姿を見たレイは、思わず机の横にかけてあるかばんにそっと触れた。



 「遅れました」

 そう言いながら息を切らしつつ教室の扉を開けたシンジに、並々ならぬ視線が注がれる。特に女子
の面々がシンジに向ける眼差しはただ事ではない。
 「ああ、連絡は来ていますよ、座りなさい」
 老教師はさして気にも留めない様子で指示する。
 「すいません」言いつつ席へと向かうシンジを女子が目で追う。レイはふと、アスカが以前言って
いたことを思い出した。
 
 ――アイツはあれで結構モテるのよね――!

 今になってその意味が分かった。つまり自分と同じ目的の人間は多々いる、ということだ。
 うかうかしてられない、とレイは思った。
 



 昼休み、早速シンジに声をかけよう、と思ったレイをけん制するように、他の女子がシンジにチョ
コを渡す。シンジは戸惑った表情をしていたが、受け取った。声をかけた女子が黄色い声で他の女子
と騒いでいるのを、レイは少々落ち込みながら聞いていた。
 「放課後にしといたほうがいいわよ」
 そんなレイの心情を察したのか、アスカが後から声をかけた。
 「放課後には渡す女子も減るだろうし、何よりどうせ一緒に帰るんだから」
 ――お邪魔だったら先に帰るし・・・・・・
 アスカは喉まで出かかった言葉を押さえた。あまり軽口を叩くのは今のレイにとっていいことには
ならない。そのことをアスカは分かっていた。
 「・・・・・ええ、そうするわ」
 恨めしそうに女子の塊を睨んでいたレイだったが、とりあえず異論はなさそうであった。
 



 最後の授業が終わった。いよいよ決戦の時だ。レイが覚悟を決めようとしたその時――
 「あ、綾波さん。今日日直だから、よろしくね」
 ヒカリの非情な声が、レイに突き刺さった。とはいえクラスの中でもかなり真面目なほうのレイは、
不承不承うなずいた。
 ――このままじゃ、碇くんが帰っちゃう・・・・・・
 そう思ったその時、神の声が聞こえた。
 「あ、碇くんも、よろしくね」
 「う、うん」
 レイは奇しくも落胆を授けられたのと同じ人物の声によって、最大のチャンスを手に入れることと
なった。
 ちなみに、これは偶然シンジが今日日直であることを知ったアスカが、裏から手を回したのである。
 本日日直であった女子に頼み込み、レイと交代させたのだ。その女子にしても、面倒な日直が休め
るとあれば文句はない。快く承諾したのだった。
 ちなみにその女子はシンジが日直であることを知らなかったらしく、アスカを睨みつけているが、
アスカは気にしない。
 

 そんな裏取引があったとは露知らず、レイは決意を新たにしていた。日直なら、機会はいくらでも
ある。日誌を職員室へ渡しに行くのは女子と決まっているから、それが終わった後渡せばいい、とレ
イは頭の中で計画を練った。



 そして放課後、日直の仕事をする。仕事といっても女子が日誌を出し、男子が戸締りをする、とい
うそれだけの話である。手早く書き上げたレイは、教室を出る間際、シンジに言った。
 「戻ってくるまで待ってて、碇くん」
 「う、うん」
 レイの意を察したか、心なしかシンジも嬉しそうである。もしそれがレイの希望的観測に過ぎなか
ったとしても、レイを勇気付けるには大きな効果があった。しかしシンジの足が少しふらついていた
ことに、レイは気づかなかった。
 





 小走りで教室へと戻るレイ。両手で自らの思いのたけを抱きしめている。表情には昔の希薄な印象
はなく、思春期特有の初々しい面影で満ちていた。彼女が昔いつも身に纏っていた氷のような雰囲気
も、今は春の太陽のように暖かだった。





 「碇く――」
 教室に入ろうとしたレイの足が止まった。教室の中に誰かいる。シンジと、もう一人は隣のクラス
の女子だ。名前は覚えてないが、ケンスケが話しているのを聞いたことがある。
 
 ――今人気急上昇中の女子だ。フリーだということもあって、どんどん売れ行きが伸びている
・・・・・
 
 そう言って写真を見せてくれたのだ。アスカも褒めていた覚えがある。
 
 ――確かにモテそうね。ま、私ほどじゃないけど・・・・・
 
 アスカが人を褒めるなんてそう無いことであったので、印象に残っていた。
 
 シンジはレイに対して背中を向けるようにして立っていたので、表情をうかがい知ることが出来な
い。扉は閉められていて、上部にはめ込まれたガラスを通して見ているだけだ。恐らくあの女子が話
を誰にも聞かれないために閉めたのだろう。
 
 何か話している。シンジは比較的小さな声で、女子のほうは積極的に話している。女子の手には小
さな赤色の箱が握られている。声をかけたいのだが、声が出ない。心臓がつぶれそうなほどに痛い。
 しばし話していると、女子の体が少し揺れた気がした。
 
 次の瞬間、不意にシンジの体がその女子を包み込んだ。


 ごとっ


 思いのほか大きな音を立てて、かばんと水色の箱がこぼれ落ちた。その音で気づいたのか、シンジ
がレイのほうを向いた。目が合う。

 はじかれるように足が動いた。何か考える前に、落としたものを拾うことも忘れて、必死にレイは
走った。
 「綾波!」後ろからレイを引き止める声も聞こえたが、かまわずレイは走り続けた。走って、走っ
て、走って校門から外に出ても、まだ走り続けた。風が身を切るように冷たい。サードインパクト後
に戻ってきた四季。この寒さもそれを象徴しているものだと思うと妙に嬉しくなったものだったが、
今は辛い。この寒さも自分が還ってこさせたものだと思うと、やりきれなかった。
 
 ――いっそあの時、消えてしまえばよかったのかもしれない・・・・・

 ふと、そんなことを思ってしまう。シンジが望んでくれたはずのこの体も、今は忌々しく思えた。
 息を切らし、あてもなく歩く。シンジが追ってきてくれることを期待している自分と、追ってきて
くれないことを期待している自分、両方を感じた。いまだ慣れていない感情のうねりに耐えるように、
レイはきゅっと目を閉じた。
 そうして歩くうちに、公園が見えた。夕暮れ時のその公園には、寒さのためか誰もいない。そんな
今の自分の心境を象徴しているかのようなその場所に誘われるように、レイはふらふらとベンチに座
った。
 
 その時になって初めて、レイは荷物を全て忘れたことを自覚したが、そんなことすらどうでもよい
ほど、レイに心は悲しみに染まっていた。
 
 ――涙すら出ない。
 
 ふと、そんなことを思った。あまりに悲しすぎて、そんなことすら他人事のように思えた。
 時間がたつにつれて、日が落ちていく。全ての景色がまるで水墨画のように薄墨色のぼんやりとし
たものになっていく。そんな景色を見ていくうちに、レイの心は少しだけ落ち着いたが、悲しみはそ
のままだった。
 からっぽの心を引きずるようにして、再びレイは歩き出そうとした。家に帰ろう。あの何も無い部
屋も、今は気楽なように思えた。明日学校に行けるかどうかも考えなければならないが、ともあれ一
人になりたかった。何も考えたくなかった。
 ふと、おかしくなる。勝手に舞い上がり、シンジが自分を受け入れてくれるのが当然のように思っ
ていた自分が、滑稽に思えて仕方が無かった。この寒空の中、自分は何をしているのだろう、と。
 
 言いようの無い虚脱感。だが、自分が未来を望もうが望むまいが、明日は来る。生きていかなけれ
ばならない、生きている限り。
 
 
 力の入らない足に鞭を打ち、レイは立ち上がった。歩みを進めようと前を見た。


 ――シンジがいた。


 シンジは無表情でその場に立ち尽くしていた。息が荒く、吐く息がしきりに白く口の中から出てい
た。顔は高潮して赤くなっていたが、その表情は、怒っているとも悲しんでいるとも取れるものだっ
た。
 「綾波・・・・・・」
 息切れしているためか、かすれた声でシンジは搾り出すようにレイの名を呼んだ。
 「これ・・・・・・」
 そういってシンジが差し出したのは、先ほどレイが廊下に落としてきたものだった。もう必要ない
もの。失われた絆。レイの目にはそう映った。
 「・・・・・いらない」
 冷たい声だった。ちょうど、会ったばかりの頃のような、そんな声。
 「どうして・・・・・・」
 「碇くんにあげるつもりだった。だけど、もういらない。碇くんは・・・・さっきの娘と・・・・・」
 「違うんだ、綾波。さっきのは――」
 「聞きたくない!」

 そう言ってレイは再びかけだした。家に帰ろう。鍵を閉めてしまえば、シンジも入ってこないだろ
う。シンジが『無用心だから』と言って直してくれた鍵だったが、その鍵がシンジを拒絶する砦にな
るとは思いもしなかった。はちきれそうな心の痛みに耐えながら、公園の入り口から道路へと抜けた。


 「待って!あや・・・・・なみ・・・・・」

 シンジの声が弱々しくなり、そして途切れる。振り返ってはいけない、と自分に言い聞かせるが、
考える前にレイは振り向いていた。そこで見たものは――

 「――碇くん!!」

 顔を真っ赤にして倒れる、シンジの姿だった。









 ここからなら、シンジの家より自分の家のほうが近い。そう判断したレイは、必死の思いで自分の
家まで連れて行き、ベッドに寝かせた。絶え間なく苦しげな息を漏らすシンジの額は、焼けた石のよ
うに熱かった。





 「あの娘とは、ホントになんでもなかったんだ」
 開口一番、シンジはそう言った。風邪で辛いのだろう、途切れ途切れではあったが、シンジは先ほ
どのことを話してくれた。
 
 彼女はとなりのクラスで、シンジが日直であるということを聞いて、二人きりになれるであろう放
課後を待っていたこと、あの時彼女を抱きしめたように見えたのは、彼女に腕をつかまれ、ふらつい
て倒れかかってしまったこと・・・・・・・
 
 
 「ごめんなさい、私――」
 「いいんだ、僕がちゃんと断ればよかったんだから。ごめんね、綾波。それと、これ・・・・・・」
 そう言って倒れても決して手離すことの無かった水色の箱を見せた。
 


 「これ、もらっていい?」
 「ええ」
 
 ――そのために作ったんだもの・・・・・
 
 ありがとう、と嬉しそうに微笑んで丁寧に包装紙をはがしていく。一枚のメッセージカードが姿を
現す。メッセージカードにはボールペンのシンプルな筆跡でたった一言、
 


『  好きです      綾波レイより 碇くんへ』



 何度も何度も書き直した。シンジが喜ぶ顔を思い浮かべ、趣向を凝らした文章もたくさん考えた。
しかし、どんなに凝った文章よりも、どんなに飾った言葉よりも、自分が伝えたいことはたった一つ
であるということを思い出し、結局この一言しか書けなかった。
 
 そして箱を開けると、少し形の崩れたチョコレートケーキがあった。少しだけ焦げている。恐らく
シンジが今日もらったたくさんのチョコレートの中でいえば、決してうまく出来ているものではない
のだろう。しかし、シンジにとってたった一つのこのチョコレートケーキは、今までにもらったどん
なチョコレートよりも大切なものだった。薄暗いキッチンには失敗したケーキとおぼしき残骸や、買
い込みすぎた大量のチョコレートが見える。
 
 どんな気持ちで作ってくれたんだろう、どれだけ一生懸命作ってくれたんだろう。
 
 そんなことを考えると、急激に涙がこみ上げてくるのを抑えることに必死になっていた。
 
 「食べても・・・・・いい?」
 「ええ」
 
 レイが渡してくれた小さなフォークを取り、一口大に切ったケーキを口の中へと運ぶ。
 レイはそんなシンジを不安そうに眺めている。



 「・・・・・どう?」
 「・・・・・・」
 
 やっぱりダメだったのだろうか、とレイは不安になり、俯いた。
 
 「・・・・・・おいしいよ、綾波」
 「・・・え?」
 
 
 「本当に、本当に・・・・・おいしいよ」
 顔を上げて見ると、シンジは泣いていた。大粒の涙を流し、嗚咽を漏らしながら、それでもフォー
クの動きが止まることは無かった。一口一口、ゆっくりと咀嚼し、飲み込む。絶え間なく手を動かす
か、それでもその動きが雑になることはなく、丁寧だった。
 
 
 
 「ありがとう、綾波・・・・・」
 全てを食べ終え、レイがフォークを台所へ戻す。戻ってくるレイに対し、唐突にシンジはそう言っ
た。
 「え?」
 「こんな、僕なんかの、ために・・・・・・」
 「・・・・・どうしてそういうこと言うの?」
 「だって、僕が馬鹿だったばっかりに、綾波を、傷つけてばっかりで――」
 「そんなこと、言っちゃだめ」
 強い口調で言うレイに、シンジは驚いたような顔を向けた。
 「碇くんがいなかったら、私は生きてこられなかった。碇くんがいたから、私は・・・・・」
 「綾波・・・・・・」
 「このケーキだって、碇くんに喜んでほしくて、碇くんに、私の気持ちを、知ってほしくて――」
 
 「綾波!」
 こらえきれなくなったように、シンジはベッドから身を起こして立ち上がり、レイを抱きしめた。
 「僕も、僕も、綾波が好きだ」
 きつく、きつく、レイを抱きしめ、シンジも自らの想いを吐き出した。
 
 「ずっとずっと、好きだった。皆が還ってきても、綾波が還ってきたのを知るまでは、すごく不安
だった。綾波が還ってきたのを聞いたとき、すぐにでも気持ちを伝えたかった。でも、今の毎日が幸
せすぎて、綾波に想いを伝えることが、怖くなった。もしかしたら、想いを伝えたら、これまで通り
で、いられないかもしれないなんて、考えたら、たまらなくて、結局、綾波を傷つけることになって、
ごめんね、僕――」

 言葉につまりつつ、それでも必死の想いを伝える。その時――
 

 シンジの唇に、柔らかいものが触れた。シンジの目が、驚きに見開かれる。背伸びしたレイが、シ
ンジに口付けていた。レイの紅く美しい眸に、シンジの顔が映っているのを、シンジは見た。その眸
を見た瞬間に、シンジは全てを赦された心地になった。シンジは優しく、レイの口付けに応えた。
 

 シンジの唇から、甘いような、ほろ苦いような、なんともいえない味がするのを、レイは感じた。
それが自分の作ったチョコレートケーキの味であることを理解したのは、それから少し後だった。

 シンジの眸に、レイの顔が映っている。その優しい眼差しこそが、レイを惹きつけたものに他なら
なかった。シンジの匂いに包まれながら、レイはきつくシンジを抱き返し、唇を重ね続けた。


 どれだけの時間が流れたか分からない中、どちらともなく、唇を離した。レイの眸は心なしか潤ん
でいるように見える。切なげに揺れるレイの眸を見ていると、シンジはたまらなく愛しい気持ちにな
った。


 いつまでもこうしていたかったレイだが、そっとシンジから離れ、背を向けた。
 「綾波・・・・?」
 「碇くんは、休んでて」
 そう言うとすっとキッチンへと歩く。
 「紅茶でも淹れるわ」
 「うん・・・・・」
 


 黙々と紅茶を淹れるレイ。危なかった、真っ赤になった顔を見せたくなかった。シンジに自分を見
てほしいという思いと、こんなに真っ赤になった顔を見られたくないという思いが、自分の中でせめ
ぎあっていた。
 風邪にはビタミンCが良いというリツコからの話を思い出したレイは、レモンを一たらしすると、
高潮した頬を鎮めるように首を軽く左右に振り、努めて無表情を装いながら二つのカップを手にして
ベッドに座るシンジのもとへと歩いた。
 

 「碇くん、紅茶――」
 
 言いかけてシンジと目が合った瞬間、先ほどまでの努力が水泡に帰すのを感じた。全身の血液が顔
に結集するのを抑えられない。どうしようもなく恥ずかしくなって、レイは思わず俯いてしまった。
 


 ――かわいい・・・・・・

 
 真っ赤になって俯いたレイを見て、シンジは素直にそう思った。同時に、この世界で一番かわいい
女の子が、自分のものになったのだという事実が今更のように頭の中にしみこんでくるのを感じ、シ
ンジも思わず顔を赤らめてしまった。


 「これ、紅茶・・・・・・」
 「あ、うん、ありがと・・・・・」

 おぼつかない手つきでレイから小さなマグカップを受け取ると、軽く冷ましてからゆっくりと口を
つけた。紅茶特有の香りの中に、ほのかな酸味を感じる。

 「レモンティー?」
 「ええ。風邪にはビタミンCがいいって、赤木博士が言ってたから・・・・・」
 「・・・ありがと」
 
 嬉しそうに小さく微笑むと、シンジは再び紅茶に口をつけた。






 「よかった、私」
 そろそろカップの底が見えてこようかというときに、レイは言った。
 「え?」
 「私、バレンタインデー、知らなかったの」
 「・・・・・そうだったの?」
 「ええ、アスカに聞いてなかったら、今も知らないと思う。アスカにバレンタインデーが何か聞い
たときも、何も思わなかった。アスカにそう言ったら、碇くんが悲しむって言われて、それで・・・・・・」
 「そう・・・・・」
 
 これでつじつまが合った、とシンジは思った。アスカが自分に対して怒っていたのはこのことだっ
たのだ。思えば今日はじめて会った時から、ずっとこちらを気にしていた気がする。思いのほか大量
のチョコレートをもらったことにうろたえて、自分からレイに近づいていけなかった。シンジは自分
を恥じた。
 
 「ごめんね、綾波」
 「・・・・・何が?」
 「その、せっかく僕にチョコレート持って来てくれたのに、気づけなくてさ」
 「いいの」
 「でも――」
 「渡せなかったお陰で、こうして今、私の家で渡せた。だから、いいの」

 そう言ってレイは優しく微笑んだ。あの時と同じ、天使のような笑顔だった。
 
 その笑顔に引き込まれるように、シンジはレイの肩に手を置き、もう一度唇を重ねた。
 
 「ん・・・・・・」
 レイの唇からこもった息が漏れる。ためらうようにおずおずとさまよっていたレイの手が、シンジ
の背中に回される。背中に確かな温かさを感じる。それに応えるようにシンジもレイの背中に手を回
し、きつく抱きしめる。
 レイの甘い声に誘われ、シンジは理性を失いかけたが、必死の思いでこらえた。
 こんなことで彼女を傷つけるのは嫌だった。時が満ちるまでは――少なくとも、自分の行動に責任
を持てるようになるまでは――そんなことはしたくなかった。耐え切れなくなる前に、シンジはレイ
の唇から離れた。
 
 潤んだ眸で自分を見つめているレイが目の前にいた。自分がこんなに汚らわしい欲望と戦っている
なんて、目の前の彼女はきっと思いもしないのだろう。そんなことを考えると、自分がひどく汚い人
間に思えた。
 
 「・・・・・碇くん、どうしたの?」
 「い、いや、なんでもないんだ、綾波」
 「そう?」
 「そういえばさ、綾波。ホワイトデーは何がいい?」
 焦っているのを気づかれまいと、シンジはそんなことを聞いた。




 「・・・・・・碇くん」
 「え?」
 「碇くんがいれば、何も要らない。私はそれだけでいい」



 それを聞いた瞬間、ふっと、体から力が抜けるのを感じた。体中が強張っていたことに、今になっ
て気づいた。


 ――そうか、そうだった、綾波は、いつだって・・・・・・


 「ど、どうしたの?碇くん?」
 
 突然、ぽろぽろと涙をこぼし始めたシンジを見て、レイは焦った。自分は何か悪いことをしたのだ
ろうか。
 
 「なんでも、ない、なんでも、ないよ・・・・・あやなみ・・・・・・」
 今まで流すことが出来なかった分が、一気に流れ出してきたようだった。とめどなく溢れる涙をレ
イはハンカチで拭ってくれた。その手はこの上なく温かかった。
 
 「ありがとう、ありがとう、綾波――」
 
 何も聞かずにただ涙を拭いてくれるレイの優しさが、シンジには嬉しかった。










 「ホワイトデーは、ずっと一緒にいるから。朝から晩まで、ずっと一緒にいよう」
 落ち着きを取り戻すと、シンジは言った。
 「・・・・・・ホワイトデーだけ?」
 悪戯っぽくレイが微笑むと、シンジは照れくさそうに、
 「もちろん、ずっとずっと一緒にいるよ、綾波。これから先も、ずっと――」
 「来年からは」
 「え?」
 「来年からは、他の女の子からチョコもらったら、だめだから」
 「そ、そんな」
 「・・・・・・もらいたいの?」
 「そ、そりゃ、少しは・・・・・・」
 「・・・・・碇くんは、私のチョコだけもらえばいいの。他の女の子からもらったら口きいてあげない」
 「あ、綾波ぃ」
 「嫌なの」
 「いや、そうじゃなくて、その、付き合いとか、あるし・・・・・・」
 「私のだけじゃ、不満なのね、碇くん・・・・・・」
 「え、ちょ、綾波、勘弁してよ・・・・・」
 「あんなに頑張って、作ったのに・・・・・」
 言って下を向いてしまったレイに、シンジはこの上なくうろたえる。
 「あ、あやなみ、分かったから、来年から、綾波以外の人のチョコなんてもらわないから、だから、
ね?綾波?」
 
 不安そうにレイの顔を覗き込むと、レイは口元に満面の笑みを浮かべていた。零れ落ちそう、とい
う表現がしっくり来る、そんな笑みだった。
 
 「・・・綾波、謀ったね」
 「だって・・・・・・」
 目に涙まで浮かべているレイ。怒ってもいいはずなのに、なぜかレイの笑顔を見られただけで、ま
あいっか、と思ってしまうシンジだった。


 「碇くん、さっき言ったこと、本当よね」
 「え、さっきのは――」
 「本当よね」
 「・・・・・はい」





 こんなやり取りが出来る日が来るなんて、思いもしなかった。あの日、アスカにバレンタインデー
の話を聞いていなければ、今頃こうして二人でいられなかったのだ。それを思うと、たまらなく幸せ
だった。
 その幸せを噛みしめるようにことん、とシンジの肩に頭を乗せた。
 「な、何?」
 「ううん、何でもない」
 慌てるシンジに、レイは静かに答えた。
 「こうしたかっただけ」
 「そ、そう?」
 「ねえ、碇くん」
 「ん?」
 「ホントにずっとずっと一緒にいてくれる?」
 「うん、もちろん」
 「――よかった」
 「え?」
 「何でもない」
 「綾波ったら、さっきからそればっかり」
 「そう?でもいいの」
 「何?それ」
 「だからいいんだってば」
 「・・・・・うん」


 レイの心は満ち足りていた。これがバレンタインデーの魔力というやつなのだろうか、ふとレイは
そんなことを思った。レイは初めて、一年の中で特定の一日を『特別』と感じた。隣にいるシンジの
匂いに混じって、ほんのり甘い香りがする。それは幸せの香りだった。そしてその香りは、紛れもな
く自分の生み出したものだった。



  ――バレンタインデーがあって、よかった、碇くんと出逢えて、よかった・・・・・・
  ――ありがとう、碇くん・・・・・
  ――大好き・・・・・・
                







―FIN―




〜あとがき〜
JUNです。なんというか、成長が感じられません(汗)
途中PCの故障というアクシデントに見舞われたりして大変でした。所詮はありがちな話しか書けな
いんだよなぁ俺は(泣)
えー、批判の類は甘んじて受けますので、どうかよろしくお願いします。
蛇足ですが、シンジに告白した女子は脳内補完ではマナさんのつもりです。どうでもいいんですが。


ぜひあなたの感想を

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