描くココロ

Written by JUN 



 『言葉というのは、六色しかない色鉛筆である』
 
 そんなことが、昔読んだ何かの本に書いてあったのを、レイはふと思い出した。
 似た色はある。しかし、どれだけ似た色でも、どれだけ混ぜ合わせても、自分が本当に伝えたいこ
とではない、と――
 レイが初めてその言葉を目にしたときは、特に何も感じなかった。ただ、物語の中での一文に過ぎ
ない無機質なものだった。しかし、それは今のレイにとって急に実感がこもった、意味のあるフレー
ズになった。そうかもしれない、とレイは思った。
 
 言葉はあまりにも力不足で、儚いものだ。今になってレイは改めて、そのことに気がついた。
 今までレイは、人と積極的に話すことに対して、大きな意義を見出さなかった。用事でもなければ
自分から話すことなどなかったに等しい。たまに誰かに話しかけられたとしても、返答は極めてシン
プルな必要最低限のものでしかなかった。

 ――ほんの少しの例外を除いては。

 例外の一人は、サードインパクトの時、姿を消した。今となっては、生きているのかいないのか、
それすらも分からない。きっと、これからも分からないのだろう。
 
 そして、もう一人の例外は――
 
 
 「綾波、おはよう」
 
 柔らかな声にレイがあわてて振り返ると、今やたった一人の例外となった、碇シンジがいた。
 「今朝はちょっと遅いね、寝坊でもしたの?」
 レイが頬を染めながら小さくこくりとうなずくと、シンジは少し照れたように笑いながら、
 「そっか、じゃ、早く行こう?」
 そう言って右手でレイの左手を取り、小走りで駆け出した。軽い引力を感じながらレイは顔が火照
っていることを自覚したが、シンジは気が付いていないようで、少し安心した。何故だか分からない
が、知られるのは恥ずかしかった。







 授業中、レイは窓の外を眺めながら過ごす。正確には、窓に映るシンジを眺めたり、たまに空を流
れる雲に目を向けたりしながら過ごす。教師はレイを当てることはない。そもそも自分で勝手に話す
タイプの教師である上、今までと違ってNERVの呼び出しなどもないため、教師がレイに対して声をか
けたりすることは他の生徒たちと同じく、あるいは他の生徒以上に、極めて稀であるといえた。それ
でもレイの成績は極めて優秀だった。


 

 「綾波、はい、お弁当」
 昼休みになると、シンジはそう言ってレイに小さな空色の弁当箱を差し出す。レイがそれを受け取
り柔らかに微笑むと、シンジは満足したように小さく笑みを浮かべ、その場に一緒にいるトウジとケ
ンスケと共に、昼食を開始する。シンジにとってそれは、もはや日課ともいえるものだった。
 
 初めのほうこそトウジもケンスケもシンジに冷やかしの声を向けたりしたものだったが、今となっ
てはそれもない。自らの机をレイの机に近づけると、ケンスケは購買のパンを、トウジは少々気の強
い女性が作った――いつも残飯処理と言っているが――弁当を、そしてシンジは自分で作った弁当を
広げる。三人が食べるのをしばし眺めた後、レイは自分の弁当箱を開いた。
 
 いつもこの瞬間が好きだ。どんなものが入っているか想像しながら弁当箱の蓋を取る瞬間が。
 シンジはいつも良い意味で自分の期待を裏切ってくれる。どんな時でも、彼が出来合いのもので済
ませることはない。全てが手作りで、同じものが二日続くことは卵焼きというたった一つの例外を除
いて存在しなかった。
 今日は卵焼き、きんぴらごぼう、白身魚に柚子味噌をつけて焼いたもの、野菜炒め、そしてゆかり
とおかかのおむすびだった。
 
 毎日作っているにもかかわらず、ほぼ間違いなく初めてのおかずが入っている。今日で言えば白身
魚がそれだった。レイはそんなシンジの多彩なレパートリーが不思議でならなかった。
 
 シンジは、レイの弁当に肉を入れたことがない。レイの好みを知っていたからだ。そんな心遣いが
レイには嬉しかったが、なぜかシンジはレイとシンジ自身の弁当を分けることをしなかった。同じく
シンジから弁当を受け取っているアスカの弁当は彼女の好みに合わせて別に作っているし、彼の保護
者兼上司がたまにリクエストする弁当も、シンジはその時々で内容を微妙に変えているということを、
レイはアスカから聞いた。つまりシンジは多いときで実に三種類もの弁当を作っていることになる。
シンジは「趣味みたいなものだから」と、嫌がっているようではなく、むしろ楽しんでいるように見
えた。

 なので、自分用の弁当を作ってもかまわないはずだし、何より肉が入っていない弁当ばかりでは飽
きてしまうのではないか、とレイは思った。四種類はさすがに面倒だと言うのなら、アスカとシンジ
の弁当を同じにすればいいのに。自分のために無理をしているのであればやめて欲しいと思い、提案
してみたこともあるのだが、「綾波と同じものが食べたいんだ」と、顔を真っ赤にしながら答えた。
なぜ顔を赤くしたのか、レイには分からなかったが、それでも、心臓の奥がぽかぽかと温かくなるの
を感じた。

 弁当箱と同じ色の箸で白身魚を口にはこぶと、柚子特有のさわやかな味わいと、濃厚な味噌の風味
が白身魚とうまくマッチしていて、とてもおいしかった。ついつい目を閉じて味わってしまう。
 「綾波、どう?新しい品種の柚子をミサトさんが沢山もらってきたからさ、柚子味噌にしたんだけ
ど、おいしい?」
 レイはなんとなく不安そうな眼差しを向けてくるシンジににこりと微笑み、うなずいた。
 「そう、よかった」
 はにかんだような顔をしたシンジは、トウジやケンスケとおしゃべりを開始する。ケンスケはトウ
ジほど多弁ではないが、それでもシンジに比べれば口数は多い。ほとんどトウジやケンスケが話しか
け、シンジがそれに相槌を打つ、という形ではあったが、そんな中でもシンジは以前と比べとても生
き生きとしているように見えた。
 
 レイはそんな三人を近くで眺めながら食事を取るこの時間が学校生活の中で何より好きだった。平
和になったことを強く感じさせてくれるこの雰囲気が、レイの心を柔らかく溶かした。


 食事を終えると、レイは弁当箱を閉じる。シンジがその弁当箱を受け取ると、自分の弁当箱と一緒
に鞄へとしまう。せめて洗って返すくらいはしたかったが、「好きでやってることだから」と、させ
てくれなかった。
 同じようにアスカからも弁当箱を受け取り鞄にしまう。ちょうどその時、昼休みが終了したことを
告げるチャイムが鳴った。




 放課後になると、シンジとレイは週番の為に教室へと残る。“相田”に続き、男子出席番号二番の
シンジと、“赤木”という女子に続き女子出席番号二番のレイは、戸締りや日誌を書く作業を始める。
他の生徒は週番という面倒な仕事を敬遠しているが、レイはシンジと二人きりでいられるこの時間が
好きだった。特に何かあるわけでもなかったが、とても落ち着いた気持ちになれた。

 「それじゃ綾波、帰ろうか」
 戸締りを終えたシンジがレイに声をかけると、レイは嬉しそうにシンジの後についていく。
 
 毎日が、そんな繰り返しだった。単調な日々ではあったが、戦いに明け暮れていたあの頃の日々に
比べれば、とても幸せで、かけがえのないものだった。






 夕暮れ時、比較的ゆっくりとした速度で、シンジとレイは歩く。二人の間を静寂が包み込んでいた
が、居心地の悪いものではなかった。
 レイのアパートの前に差し掛かり、シンジがまた明日を告げようとすると、不意にレイがシンジの
シャツを引っ張った。
 「ん?何?綾波」
 言ってレイの方に顔を向けたシンジに、レイは小さく自分のアパートを指差す。

 頬を染めて上目遣いに見つめるレイに対して、つられたようにシンジも赤面しながら、
 「じゃ、じゃあ、お邪魔するよ」
 レイはこくんとうなずくとシンジの手を取り、アパートへと引っ張っていった。








 レイがベッドに腰掛けるシンジに湯気を立てるカップを手渡す。
 「ありがとう」とシンジは言うと、早速一口すすった。
 「おいしい、綾波。また上手になったね、紅茶淹れるの」
 シンジが言うと、レイは恥ずかしげにうつむき、シンジのすぐ隣に座った。シンジの肩に頭をもた
れかけさせて、気持ちよさげに目を閉じ、鼻先をシンジの左胸にこすりつけた。
 シンジは少し照れくさそうにしていたが、やがて落ち着いたようでまた紅茶をすすり、レイの銀糸
のような美しい髪を片手で優しく梳いた。レイはその感覚をさらに欲しがろうとでもするかのように、
いっそうシンジに身を寄せ、もう一度鼻をこすりつけた。

















 「――声は、まだ出ない?」

 しばらく後にシンジが言うと、レイはシンジの胸から頭を離しゆっくりとうなずいた。その眸の中
が悲しげに揺れていることに気が付いて、少しあわてたように、
 「いや、いいんだよ綾波。ゆっくりでさ」
 レイはまたうなずいた。

 ――レイは、声を失っていた。





 最初に気がついたのは、やはりシンジだった。サードインパクトの後、みんな還ってきた。レイも
還ってきていた。学校が始まり、授業も再開された。
 最初は誰一人として、レイの異変に気が付かなかった。あるいはレイ自身も、気が付かなかったの
かもしれない。学校が始まってからしばらくたっても、レイは一言も口を利かなかった。もともと寡
黙なレイだったために、皆あまり違和感を覚えず、誰もそのことを気にかけなかった。しかし、最も
積極的にレイに話しかけていたシンジは、しばらくすると不審に思い始めた。何を話しかけても、首
を縦か横にしか振らない。さすがにおかしいと思ったシンジは訊いてみた。
 「綾波、どうして喋らないの?」
 びくり、とレイの体が震えた。怯えたようにふるふると首を振る。
 「・・・・・・もしかして、喋れないの?」


 少しの沈黙の後、レイは首を縦に振った。








 結論から言えば、NERVでもお手上げだった。原因が全くつかめない。レイの場合は生まれつきでは
ないため、何かしらのきっかけがあるということは確かだ。そしてそのきっかけが、恐らくサードイ
ンパクトにあることも。
 失語症は――ミサトの例もあるように――精神的な傷が大きな要因となっている場合が多い。しか
し、レイの場合はどうやらそうではないらしい。それとは違うもの、それでいて精神的なものが原因
であるのだろうという、極めて抽象的な結論だった。

 「多分、言葉を必要としなくなったのかもしれないわね」
 リツコはこう切り出した。
 「原因は私にも分からないわ。だけど、心の傷だとか、そんなものでないことだけは確かよ。レイ
がどうしても言葉にしたいことが生まれれば、きっと話せるようになるわ。それまで待つしかないわ
ね。情けない話だけど」
 暗い表情になったシンジに対して、リツコは少し皮肉めいた笑みを浮かべながら続ける。
 「大丈夫よ。確かに不便だけど、身振り手振りで大抵のことは事足りるものよ。実際、シンジ君が
気づくまで問題なかったんでしょう?」
 「・・・・・・はい」
 「レイが希望するなら、カウンセリングを受けさせてもいいわよ。もちろん、それで解決するとは
限らないけど。どうする?レイ」
 レイは、首を横に振った。
 「それでいいの?綾波」
 レイはこくりとうなずき、リツコのデスクにおいてあったメモ帳に走り書きをしてシンジに見せた。
 “カウンセリングよりも、みんなと一緒にいたい”

 シンジはそれを見て微笑み、うなずいた。

 「それじゃあ、これを持っていきなさい。何かと必要だろうから」
 リツコがそう言って手渡したのは、黒色の小さなボールペンと、シンプルなデザインのメモ帳だっ
た。
 「ありがとうございます。リツコさん」
 「いいのよ、また来てね」
 「はい」
 ぺこり、と頭を下げると、シンジはレイを連れてオフィスを出た。









 あれから約一ヶ月経ったが、レイは一向に喋らなかった。しかし、表情が驚くほど豊かになった。
言葉がない代わりだろうか、以前のレイからは想像もつかないほど様々な表情を見せてくれるように
なった。

 実際、困ることなどそうそうないのだった。世の中にはたくさんの言葉があふれているが、本当に
言葉に出して伝えなければならないことなど、ほとんどないのだと、レイは思う。言葉は便利なもの
であるが、やはりどこか力不足でもある。六色の色鉛筆では、複雑な名画を描くことはできないのだ。

 とはいっても、レイが話す努力を怠ってきたわけではない。シンジに相手になってもらって、練習
もした。しかしどんなに力をこめても、喉からは力ない息が漏れるだけだった。シンジはその度に少
し悲しそうだったが、すぐに笑顔を見せ、「いずれ喋れるようになるよ。がんばろう」と言ってくれ
た。


 レイとシンジはいつも一緒にいる。学校に行ってシンジの姿を見つけるなりレイはシンジの元へと
駆け寄って行った。シンジもレイを見つければ真っ先に声をかけた。
 しかし二人とも、付き合っているとか恋人同士であるという自覚はなかった。シンジはレイのこと
をとても大切に思っていた。それに事実好意を寄せていたが、下手なことを言って関係を壊したくな
かった。レイはレイで、自分の中にわきあがる複雑な感情が何なのか、掴めないでいた。
 何より二人とも、今の状況に満足していた。恋人同士でなくとも、二人で一緒にいれば幸せな気持
ちになれた。それはお互いに最後の一歩を踏み出せない直接の原因でもあり、同時に互いの関係を柔
らかにしているものでもあった。









 シンジのカップが空になっていることに気がついたレイは、シンジの胸元から顔を上げシンジのカ
ップを指差し、首をかしげて見せた。
 「いや、いいよ。ありがとう綾波」
 長い付き合いの中で、こうした身振り手振りで意思疎通ができるようになっている。実際、レイが
メモ用紙を介して会話することは、日常の中でも、ほとんどなかった。
 特にシンジに対しては、身振り手振りで事足りていた。レイの口の動きで何を伝えたいのかはほと
んど理解することができ、たまに使うメモ帳は、文章ではなく単語を走り書きしたもので理解するに
至っていた。
 
 幸せってこういうことなのだろうか、とレイは思う。

 言葉など交わさずとも、今自分を包み込んでいる感覚は、間違いなく“幸せ”と言ってよいものだ
った。学校に行けばシンジがいて、そして学校が終わってもこうして一緒にいられるこの生活は、幸
せ以外の何物でもなかった。
 そのことを思うと、別に言葉を取り戻す必要などない、とすらレイは思った。言葉はあまりにも弱
い。今自分がいるこの空間のなんともいえない温かさにしても、単に“幸福感”だとか“温かさ”で
くくってしまっては意味が無いように思う。むしろこういった複雑なことは言葉で表せないからこそ、
輝くのだと思う。








 「それじゃあ僕、帰るね。ミサトさんやアスカも待ってるだろうし」
 シンジがそう言うと、レイは幾分寂しそうな顔をする。その度に帰りたくない、と思うシンジだっ
たが、口には出さなかった。大好きなレイの部屋で一晩を共にして冷静でいられる保証などないのだ。
彼女を傷つけたくなかった
 レイはしぶしぶといった様子でうなずき、玄関までシンジを見送る。こうしてシンジがアパートに
寄ってくれるのは、週に一度あるか無いかだった。だからこそ寄ってくれる日が楽しみでもあり、帰
ってしまった後の寂しさも強かった。

 「それじゃあ、また明日」
 そう言って小さくぱたん、と音を立てて閉まった扉を、レイはいつまでも見つめていた。







 レイは定期的に検診を受ける。身体的に問題はなくとも、原因不明なだけに油断は禁物だ。しかし
検査といっても、感覚としては普通の健康診断と変わらない。それに急を要するものでもないため、
比較的気楽にレイはNERVで検診を受けた。もちろん、シンジを連れて。
 言葉を話すことができない原因について、念入りに調べられた。脳波を測定し、精神鑑定も受けた。
レイ自身は“大げさ”と主張するが、シンジはそのたびに「原因が分かるかもしれないんだから」と
言って諭した。

 「結論を言えば、やっぱり精神的なものね」
 幾度もの検査を経て得た結論は、やはりそれに尽きた。
 「声帯にも異常はなし。なら精神に異常をきたしているのかといえば、そんなこともないのだけれ
ど・・・・・・」
 「けれど?」
 「前にも言ったけれど、レイ自身が、話すことに対して必要性を求めていないことが、大きな原因
だといえるわ。例えるなら、金庫の鍵をなくしてしまったけれど、自分にとってそこまで大事なもの
が入っているわけでもないから、どうしても開けたいという気にならない。だから鍵を探すのもそん
なに力を注いでいないから、いつまでたっても見つからない。きちんと探せば鍵は見つかるはずなの
に、といったところかしらね」
 リツコはそう結んだ。
 「分かる気がする?綾波」
 シンジが聞くと、レイは首をかしげた。

 「結局のところ、レイ次第、ということになるわね。レイがどうしても言葉で伝えたいと思うよう
なことができれば、自然と喋れるようになるわ。逆に言えば、そういうことでもない限り、話すこと
はできないわ。まあ、そうなるのを待つしかないわね。急に話せるようになることだってあるだろう
し」
 「様子見、ってことですね」
 「平たく言えばそういうことになるわね」
 「分かりました。ありがとうございました、リツコさん」
 「どういたしまして。頑張ってね」
 「はい」


 歩いていく二人を見ながらリツコは思う。

 ――言葉なんて、要らないのかもしれないわね・・・・・・

 あの二人を見るといつも思う。二人に言葉はないのになぜかぎすぎすした空気を感じさせない。む
しろ言葉がないからこそ、二人の間にはいつも穏やかな空気が漂っている。羨ましいとも思うが、同
時にこうも思う。

 ――このままじゃいけないわよ、レイ・・・・・・

 日に日に危機感が募る。レイは本当に言葉を必要としなくなっている。ただでさえ口数の少なかっ
た少女が、碇シンジという最高の意思疎通の相手を得て、どんどん言葉という道具が彼女の深層心理
の奥に潜んでいってしまっている。このままでは本当に話せなくなってしまうかもしれない。

 このように寡黙な少女にしてしまった一因が自分にあるのが分かっているリツコは、責任を感じず
にいられなかった。シンジの手前、心配をかけさせるべきではないと考えたのでああは言ったが、な
んとかしなければ、と思った。




 その日の夜、風呂上りにミサトはシンジに言った。
 「シンジ君、明日、帰りにNERVに寄ってくれる?リツコが用事あるんだってさ」
 「分かりました」
 「あ、それとレイは呼ばないようにって」
 「・・・・・・どうしてですか?」
 「さあ。行けば分かるんじゃない?」
 「・・・分かりました」

 多分、レイのことだろう。ほぼ間違いなく。リツコが今日、何かを隠しているような印象を受けた
し、何か分かったことがあるのだろうか。









 「綾波、今日は先に帰っててくれる?」
 レイは上目遣い気味に首をかしげる。“どうして?”といったところであろうか。
 「ちょっと用事があってさ。ごめんね?」
 レイは少し不思議そうにしていたが、首を縦に振った。








 「それで、どうしたんですか?リツコさん」
 「まあ、とりあえず座ってちょうだい、シンジ君」
 「はあ」
 言われたシンジは簡素なパイプいすに腰を下ろす。ぎい、といすが音を立てて軋んだ。
 「それで、話というのは、レイのことよ」
 「はい」
 「やっぱり、とでも言いたげな顔ね?」
 「そりゃあ、わざわざ綾波を呼ばずに来いとまで言うんですから」
 「ふふ、そうね」
 くすくすと笑いながらリツコは言うと、本題に入った。

 「レイが話せない理由は、精神的なものと言ったわね」
 「はい」
 「そしてその原因が不明だということも」
 「はい」
 「その話、半分は本当で、半分は嘘なの」
 「・・・・・・え?」
 シンジは思わず聞き返す。

 「原因は分かっているのよ、シンジ君。レイが“話せないでいる原因”はね。ただ、“話せなくな
った原因”は不明のまま。でも、それは今となってはさして重要なことではないわ。大事なのはこれ
からのことなのだから」
 「それで、原因って何ですか?」
 待ちきれないように声を上げるシンジを短く右手で制し、リツコは言う。

 「原因はね、あなたよ、シンジ君」
 「・・・・・・・・・・はい?」
 間抜けな声を上げたシンジに、リツコは厳しい表情でもう一度繰り返す。
 「原因はあなただと言ったのよ、シンジ君」
 「僕・・・・・・ですか?」
 「ええ、とはいってもシンジ君に責任を求めるのは酷というものね。こちらも黙認していた部分が
あったから。レイはサードインパクトの後から、ずっとあなたと一緒にいたでしょう?」
 「・・・・・はい」
 「そのこと自体は悪いことではないわ。むしろ感謝しているわ。レイに確かな感情を持たせてくれ
たのだし、私じゃ出来なかったことだわ。だけどね、シンジ君」
 「はい」
 「あなたという最高の意思疎通のパートナーを得てしまったことによって、レイが本当の意味で言
葉を必要としなくなった、ということよ。レイが心の底から意思を伝えたいと思うのは、今のところ
あなただけ。そして、あなた自身はもはやメモ帳も不要なくらいにレイの意思を汲み取ることができ
る。そのことが結果として、レイが言葉という一つの金庫を開くための鍵を探さなくなった原因とな
った、ということよ」
 「まさか、そんな・・・・・・」
 信じられない、といった様子でシンジは呻くようにつぶやく。そんな様子を見かねてか、リツコは
一変して、優しい声で言う。
 「もちろん、あなたが責任を感じる必要は全くないわ。結果としてこうはなったけれど、あなたが
レイの心を開いてくれた最初の人物であることは事実なのだし。私はただ、原因をきちんと知ってお
いて欲しかっただけよ」
 「でも、僕のせいで――」
 「なんでも内罰的に考えるのは、あなたの悪い癖よシンジ君。あなたの“せい”ではないのよ、あ
なたの“お陰”なのよ。あなたがいなければ、レイはそもそもサードインパクトの後還ってきたかど
うかすらも、怪しいものだわ。問題は、これからどうすればいいのかよ」
 「どうすればいいんですか?」
 「私も考えてはみたわ。これといった解決策はない。あえて言えば・・・・・・」
 「あえて言えば?」
 「無視、かしらね」
 「無視、ですか?」
 「少し言い方が悪いわね。別の言い方をすれば、レイが自分から言葉を発したいと思うようにする、
ということよ。もちろん、どうしても話さなきゃいけないこともあるだろうから、完全にではないわ。
要は、レイがジェスチャーや目配せで伝えてくる意思を、あえて汲み取らないようにするということ。
そしてあなたが、極力“自分から”話しかけないようにすること」
 「どういうことですか?」
 「今は恐らく、あなたが話しかけて、レイが答えるという形だと思うわ。大半がね」
 「はい」
 「そうではなく、レイが自分から話しかけたいと思うような形に持っていく必要があるのよ。明日
から急に、というのは辛いでしょうから、少しずつね」
 「・・・・・・分かり、ました」
 「心苦しいのは分かるわ、シンジ君。あなたは優しいから。だから無理に、とは言わないわ。最終
的には、あなたが決めることよ」
 「いえ、やります。綾波のためですから」
 リツコはふっとコケティッシュな笑みを浮かべると、少しからかうような口調で言った。
 「さすがに、レイのことになると、目の色が変わるわね?シンジ君は」
 「え、あ、いえ、そんな・・・・・・」
 「いいのよ、素晴らしいことだわ。あなたの年頃ならね。頑張って頂戴」
 「そ、それじゃあ、失礼します」
 言って腰を浮かせたシンジは、顔が赤いのをごまかすかのように頭を下げた。
 「ええ、頼んだわよ、シンジ君」

 ――後は、任せたわ・・・・・・・









 家に着くと、ベッドに横になったまま、シンジは考える。

 実際、うかつだったと思うが、その裏で嬉しいとも思うのだ。レイがそこまで自分を求めてくれる
ということが。少し歪んだ考え方をすれば、レイが自分以外を求めていないということにすら、喜び
を覚えてしまう。

 が、じっくり考えれば考えるほど、リツコの言葉が頭の中にじわじわとしみこんでくる。自分の存
在がレイの言葉への欲求に歯止めをかけていたということがショックだった。お得意の内罰思考へと
沈み込もうとした時にまたもリツコの言葉が頭をよぎり、シンジは思考を切り替え、これからのこと
について考えた。

 無視、というのは今の自分にとって辛いことだ。リツコは正確にはそうではないと言ったが、自分
にしてみれば似たようなものだ。レイがシンジを求めているだけでない。シンジ自身もレイを求めて
いるのだ。普段はレイのほうがシンジに積極的に近づいてきてくれるお陰で失念しているが、狂おし
いほどにシンジはレイの温もりを求めている。今一時的でもレイと自分の関係を断ち切るのは、正直
気が進まなかった。

 それでも、レイのことを考えるならば結論は一つしかなかった。明日から急にというのはリツコの
言ったように、恐らく無理だろう。しかし、変えていかなければならない。まずは、自分から話しか
ける頻度を減らすことだ。

 「よし、頑張ろう」

 声に出して言うことで少し元気が出た。流されてばかりで生きてきた自分にとって、厳しいことに
は変わりない。レイの顔を頭に浮かべると思わず決心が揺らぐ。きっとレイはあの上目遣いで自分を
恨めしげに睨むのだろう。自分をシンジが避けていると感じたら、どんな顔をするか想像もしたくな
い。

 しかし、やらなければならないのだからやるしかない。シンジは頭をすっきりさせるためか軽く首
を左右に振り、眠りについた。











 レイはここ最近、そこはかとない不安を感じていた。シンジの態度が冷たい。はっきりと何がどう
なった、という変化を実際に説明するのは難しいが、自分を避けているように感じる。
 まず、話しかけてくれる回数が、圧倒的に少なくなった気がする。昼食のときも、感想を訊いてく
れない。おいしいって伝えたいのに。
 仕方なくメモ帳に“おいしい”と書いて渡すと、それでも嬉しそうな顔をしてくれる。心臓の奥が
温かくなるのはいつものことだが、なぜ訊いてくれないのかと思う。
 でも、“どうして?”とは訊かない。訊けない。訊いて、もし悪い答えが返ってきたらと思うと尋
ねる気になれなかった。正確には、訊こうと思い、メモ帳に書いてみようとしたのだが、手が震えて
書けなかった。

 他の人たちに対する態度は、いつもと変わらない。アスカに対しても、ヒカリに対しても、トウジ
も、ケンスケも、いつもと変わらない。そしてみんなの自分に対しての態度も、いつもと変わらない。
 ただ一人、シンジを除いては。もともとシンジ以外と意思の疎通を行うことなどほとんどないのだ
から、変化のしようがない。
 それだけに、心細い。シンジが自分から離れていってしまうことを考えると、怖くてたまらない。
それに、彼が他の女の子と話しているのを見ると、心臓の裏側あたりがひりひりした痛みに襲われる。
女の子をシンジの側から引き剥がしたくなる衝動に駆られる。今までは、いつもシンジが側にいてく
れたから、そんなことはなかった。“嫉妬”という感情を、彼女はまだ知らなかった。

 楽しげに女の子と言葉を交わすシンジを見て、レイはもしかして、と思う。もしかしてシンジは好
きな女の子ができたのかもしれない。だから自分に対する態度が冷たくなって、いつも側にいてくれ
なくなったのかもしれない。

 日に日にそんな不安が大きくなる。大きくなればなるほど、シンジに尋ねるのが怖くなる。自分と
反対側で楽しそうに女の子と話すシンジに、戻ってきてと叫びたい。自分の側にいてと言いたい。が、
声が出ない。目の奥がつんと熱くなり、涙が出そうになる。

 ふと、シンジがこちらのほうを見た。目が合った、と思う。シンジなら、今自分がどんなに不安で
いるか理解してくれるはずだ。そんな期待と哀願をこめて少し遠くからシンジの眸を見つめる。自分
が不安な時はいつも側にいてくれた眸を。シンジが“どうしたの?”と尋ねさえしてくれれば、自分
が今どんなに不安で、一人になることを怖がっているか伝えることができる。

 ――なのに

 シンジは一瞬こちらを見たのに、すぐに目を背け、女の子との話を再開してしまった。

 自分の中で何かにひびがはいる音を、レイは確かに聞いた。

 自分の感情を感じ取ってくれないのか、汲み取ってくれないのか、そんな思いがレイの中でぐるぐ
ると渦巻く。恐ろしさで足が震えているのが分かった。力なく自分の席へと歩き、座り込む。力が入
らない。授業も手につかず――いつも手についていないが――放課後になるとふらふらとNERVへ
と向かった。







 急にやってきたレイに対して、リツコは少し驚いたようだった。しかし真紅の眸に深い悲しみをは
らませたレイを見ると、すぐに大方の予想がついたようで、レイを座らせた。
 少し前シンジが座ったものと同じいすの上で、レイはしきりに体を震わせている。涙を流している
のではない。ただ、悲しみと恐れに満ちた顔で、荒い息をついている。
 リツコが何も言わずメモ帳とペンを手渡す。震える手で短く、

 “私がいなくなった”
 と記した。

 レイと筆談するには、ある種のこつが必要となる。単語だけで読み解くことができるのはシンジだ
けだ。このような短い文章でも普通は質問をし、その反応によって判断しなければならない。
 しかし、もちろんリツコは分かっていた。レイが伝えんとすることを。

 「・・・・・・シンジ君ね?」
 うなずくレイ。
 「伝えたいことが伝わらない、そういうことね?」
 ここまで核心を突いた質問を急にすれば、普段のレイなら不審に思うはずだ。しかし今のレイにそ
の余裕はない。またもうなずいた。

 ――ここが勝負ね

 リツコはそう確信した。レイの声が再び戻るとしたら、今しかチャンスはない。
 「分かったわ」

 “どうすればいいんですか?”
 
 「伝えるのよ、レイ。自分の心を。“伝わる”のではなく、“伝える”のよ。自分の意思で」
 レイが怯えたようにふるふると首を振る。その目は如実に“できない”と訴えていた。
 
 「このままだと、一緒にいられなくなるわよ、シンジ君と」

 厳しい口調で言うリツコに、レイの目が大きく見開かれた。
 
 「いい、レイ。確かに言葉というものは大きな力を持ってはいないのかもしれない。だけど、気持
ちを伝えるうえではとても便利よ。特に、自分の想いを自分から伝えたいときには。これからもシン
ジ君と一緒にいたいなら、使うしかないのよ。言葉という道具を。今伝えなければ、取り返しのつか
ないことになるかもしれない」

 レイの眸は迷いに満ちていた。というより、傷つくことへの潜在的な恐れ、というべきかもしれな
い。言葉と言うのは道具であり、同時に凶器でもある。ヒトのATフィールドをたやすく突き破るこ
とができ、そして傷つけることができる。他人を受け入れる武器であり、同時に拒絶する武器。そん
な武器に対する潜在的な恐れが、そしてシンジに対する甘えが足枷になっていた。

 そんなレイを見て、リツコはどうしようもないやるせなさを感じた。世界を救った英雄の一人が、
こと自分と他人の関わりのことになるとこうも脆いものなのかと。そしてこのような少女にしてしま
った原因の一つは間違いなく自分であること思うと、いいようのない罪悪感を覚えた。

 レイの言葉をよみがえらせることは、リツコにとって贖罪でもあった。自らの業をたとえ自己満足
にすぎなくとも、打ち払いたかった。そして何よりも、レイに幸せになって欲しかった。普通の、ど
こにでもいる少女として。そのためにシンジの存在は不可欠であった。だからこそ、シンジに望みを
託したのだ。

 「傷つきたくない、その気持ちは理解できるわ、レイ。だけど人と人との絆は、そうして自分の想
いを相手に伝えて初めて得られるものなのよ。エヴァじゃなく、人間との絆は。シンジ君という絆を
失いたくなければ、行動しなさい」
 落ち着いた口調で語りかける内に、レイの目つきが変わってきた。眸に光が宿ってきた。レイの心
の隅でずっとわだかまっていたものが、少しずつ溶け出していく。心の中の鍵が開く。

 そして――
 レイはメモ帳に記した。
 “分かりました”
 
 リツコは満足げにうなずいた。









 ――綾波、大丈夫かな・・・・・・
 
 
 夜中ベッドにもぐったまま、シンジは考えていた。

 ここ一ヶ月ほど、リツコに言われたことを実行した。極力自分から話しかけないようにした。
 
 それは想像していたよりすさまじい苦痛だった。喪失感、とでもいうのだろうか。自分の一部が削
り取られてしまうような、そんな感覚が強い心の傷みとともに押し寄せてくる。レイに話しかけたい、
レイに駆け寄りあの口の端をわずかに上げてする優しげな笑みで迎えて欲しい。互いを必要とする想
いは、何のことはない、シンジも同じなのだ。レイに一切の事情を話し、謝り、笑いかけたくなる衝
動を、レイの透きとおった綺麗な声を想像することでこらえる。自分の投げた想いを投げ返して欲し
い、もう一度、もう一度だけでもあの懐かしい声が聞きたい。それだけを頼りに踏ん張った。

 それでも、今日すがりつくような眼差しを向けてきたレイから視線を引き剥がすのは言いようもな
く辛かった。自分がレイを傷つけていることに対する罪悪感で、心臓がひしゃげてしまいそうだった。
 
 心を鬼にする、という表現があるが、そんな生易しいものではない。自分が外道のように思え、レ
イの為という心も自分のしていることを正当化する大義名分に過ぎないような気さえした。
 
 だが、それでもシンジは、レイに声をかけることをしなかった。それはレイのためということはも
ちろん言うまでもないが、何よりここで事情を話し、レイの言葉も戻らないまま全てが終わってしま
えば、全てが徒労に終わる。そして何より、レイの心が自分から離れてしまう気すらする。
 
 結局、自分のためなのだ。どんなに綺麗な言葉を並べようと、結局のところ、全てが自分を中心に
回っている。自分のためにレイがいて、自分のためにレイの言葉を取り戻したいと願うのだ。それは
一般的な心の動きとして決して不自然なものではないはずなのだが、シンジの心を追い詰めるには十
分すぎるものだった。

 「ごめんよ、綾波・・・・・・」
 
 その声がレイに届くことはない。しかしシンジは、声に出して謝らずにいられなかった。うつむき
加減の眸から、涙がこぼれてきた。

 自分に泣く権利などない。本来泣くべきなのはレイなのだ。
 そのことは理解している。しかし、止まらなかった。レイに対する申し訳なさと、自分に対する罪
悪感で、せきを切ったように涙が流れ続けた。
 シンジが泣きつかれて眠ってしまったのは結局、それからずっと後のことだった。








 レイはベッドにもぐりこんだまま考えていた。心の底から、話したいと思った。取り戻したいと思
った。そうしなければシンジが自分のもとから離れていってしまうかもしれないのだ。シンジの隣だ
けは絶対に手放したくない。誰にも渡さない。そのためならなんだってしよう、そう思った。

 具体的に言葉を取り戻す方法を考えてみる。何度もやってみたが、やはりだめだ。のどからひゅう
ひゅうと力ない息が漏れるだけだった。
 鏡を見ながら練習してみる。昔はどんな顔で声を出していたのだろう。思えば昔自分の部屋には鏡
がなかった。シンジに見てもらいながら練習したことも一度や二度ではなかったが、あのころとは気
合が違った。シンジと一緒にいられるかどうかの瀬戸際なのだ。

 もう少し口を大きく開ければいいのかもしれない。声は声帯を震わせて出るのだから、それを意識
して――


 「・・・・・・ぁ」

 ――出た。声といえるのかどうか疑わしいほどにか弱いが、確かに懐かしい、自分の声だ。レイは
泣きそうになった。

 ――これで碇くんと一緒にいられる・・・・・・!

 ・・・・・・しかし

 次が続かない。先ほどのことを意識しつつ声を出そうとしたが、その日再び喉の振動が声帯を震わ
せることはなかった。
 しかし、これはレイを大きく前進させた。自分の声は出るのだ。

 鏡を見て練習すれば出た。客観的な立場で訓練してくれる、いわばパートナーがいれば効率がよい。
しかし、シンジには頼めない。今まで散々練習に付き合ってもらってきたのだが、今日の態度を思い
出すと今でも体が震えた。
 アスカはどうだろう。しかし彼女は今ドイツの両親からかなり久しぶりに連絡があっててんやわん
やなのだそうだ。サードインパクトの後にママが還ってきたのよ、とアスカは嬉しそうに言っていた。
還ってきたのはドイツらしく、もうすぐ会えるとアスカはご機嫌だ。精神状態も以前の優しい母親と
変わらないらしい。しかしパスポートがどうだと何かと――サードインパクト後の混乱もあって――
忙しいらしく、頼めそうにない。

 ミサトやリツコも事後処理に忙しいらしい。リツコが今日相談に乗ってくれたのはそういった職務
の僅かな合間の時間だったのだ。とてもいつまでかかるかも分からない練習に付き合ってくれとは言
いにくい。

 レイは早くも行き詰った。想像以上に自分の人脈は狭かった。

 ――碇くんにべったりだったから・・・・・・


 唐突にシンジの顔が頭に浮かび、もう一度決意を新たにする。こんなことで諦めてはいけない。誰
かいるはずだ。

 今そんなに忙しくなくて、時間があって、自分のことを知っていて、こういう相談ができる程度に
打ち解けている人・・・・・・


 ――そうだ、あのヒトが・・・・・・!

 レイは携帯電話を取った。











 最近、レイの様子がおかしい。あの日から、授業が終わるとそそくさとどこかへ行ってしまう。そ
う、あの日から。下駄箱に靴が残っているから、校内にいることは間違いない。たまに出入りしてい
る図書室を覗いてみたが、いなかった。
 校門で待ってみようかな、とも思ったが、今までのことを考えると、それもできなかった。

 ここ最近は、レイに話しかけることもほとんど無くなっていた。というより、レイのほうから何ら
かの意思伝達が行われることが無くなっていた、といったほうが正しい。

 リツコの言っていたことが正しいなら、作戦通り、と言えるはずだ。レイは今の意思伝達の方法に
見切りをつけ、新たな方法、つまり声にベクトルを向けようとしている、まさにその時なのだと。

 しかし、そんな理性の訴えに反して、むくむくと一種の猜疑心にも似た感情を覚えるようになって
きていた。
 レイが自分から離れていったのは、何のことはない、ただ自分を必要としなくなってしまったので
はないかと。レイが自分と取ったのは言葉を取り戻すための距離ではなく、心の距離なのではないか
と。

 そんな始末の悪い感情に押し流されまいと、シンジは必死になっていた。そんなはずはない、レイ
と自分は強い絆で結ばれているのだ。今まで自分たちが乗り越えてきた日々を考えれば、それは決し
て壊れることのない強靭なもののはずなのだ。

 しかし、そうしてどんなに自分に言い聞かせても、心の隅には常に黒く濁ったものがわだかまって
いる。気が変になりそうだった。


 ――シンジは、ある決意をした。










 今はもう使われていない、“自習室”と書かれた教室の中に、レイとケンスケがいるのが分かった。
ケンスケはしきりにレイに話しかける。その表情は必死、と言って差し支えないものだった。レイは
シンジに背を向けるように立ち、その声に耳を傾けているように見えた。立て付けが悪いくせに、音
を通してくれない。恐らくは使徒襲来に備えて壁を厚くしたのだろう。取り壊せばいいものを、埃っ
ぽい中で塗りなおされた壁だけが白く目にしみた。

 後になって考えれば、立ち去るべきだったのかもしれない。放課後になってレイの後を追ってきた
はいいものの、心の隅に僅かな後悔があった。少し考えれば、そしてレイのことを信じているならば、
今二人が何をしているか容易に想像がついただろう。しかし、今のシンジにその余裕はなかった。二
人を見て、シンジの中で性質の悪い感情が鎌首をもたげてくる。どす黒い失望にも似た感情があふれ
てくるのを、シンジは必死の思いで制した。まだ分からない、そうだ、綾波を信じろ、と。

 そんな葛藤を繰り返しながら、シンジは二人を観察した。そうして二人が話しているうちに、ケン
スケの顔から笑顔がこぼれた。自分にも見せたことがないような笑顔だった。

 ――そして、二人の影が重なった

 何か考える前に、駆け出していた。






 

 この空間に似つかわしくない、扉に何かぶつかったような物音に振り返った時、その影が視界に入
ったのは一瞬だった。しかしもちろんレイにそれが誰か分からないはずがなかった。
 駆け出したその影はすぐに視界から消え、玄関へと向かった。
 どうしていいか分からず、レイは刹那立ち尽くす。その時、
 「追いかけろ、綾波!」
 普段からは想像もつかない声を上げたケンスケに少し驚き、その方向を見た。
 「誰のために今まで特訓してきたんだよ、早く行け!」

 迷ったのは一瞬だった。レイはうなずき、駆け出した。


 教室に残されたケンスケの頬に、光る何かが見えた気がした。

 ――これで、いいんだよな?俺は・・・・・・?









 走って、走って、走った。すぐに息が切れ、肺が酸素を求めて悲鳴を上げる。
 だが、それでもシンジは足を止めなかった。


 思えば、何を期待していたのだろう。レイの自分に対する想いなど、何の保障もないことなのに。
レイが自分を求めてくれることに慢心して、安心しきっていた自分がひどく間抜けに思え、苛立ちに
拍車をかける。

 不意にバランスを崩し、転ぶ。足元を見れば、靴紐が切れていた。サードインパクト前に購入した
ものだ。紐はぼろぼろになっていた。ひざに刺すような痛みを感じよく見ると、すりむいた傷口から
真っ赤な鮮血が流れ出し始めていた。その色が自然にあの紅い海を連想させる。

 なぜあの時自分が他人の存在を望んだのか分からなかった。傷つくことは分かっていたはずなのに。
 それを考えると、不意にレイの顔が脳裏に浮かぶ。シンジが望んだのは、他人ではなかったのかも
しれない。

 言いようもない苛立たしさと虚無感に、思わずアスファルトの地面にこぶしを打ちつける。当然の
ように血が流れ出し、じんじんと痛みが走る。
 シンジは、それを他人事のように眺めていた。心の動きと体の動きが分離してしまったかのように
感じる。こんな痛みなど、自分の中の引き裂かれんばかりの痛みに比べれば、痛くないも当然だった。

 全てを失ってしまった。そう思う。このまま自分がいなくなっても、だれも気がつかないのではな
いだろうか。やはり自分は無価値な存在なのではないか。ひとたびそんな思いを抱くと、復興途中の
立ち並ぶマンションの屋上が、ひどく魅力的な場所に思えた。


 呻き声を上げながら立ち上がり、足を引きずりながら家へと向かう。もう、どうでもいい。簡単な
話だ。初めてここに来たときのように、心を閉ざしてしまえばいいだけのことだ。昔のレイのように。

 レイの存在があることで、他人の存在を心地よいと感じることができた。レイが隣にいてくれるこ
とで、自分の存在を認めることができたのだ。レイの隣にいることができるのは、自分しかいない、
自分でなければならない、そう思えたのだ。
 そんな希望も自分の幻想に過ぎなかったのかと思うと、やりきれなかった。










 慌てて玄関を出たが、誰もいない。恐らく全速力で走ったのだろう。とりあえず追いつかないとい
けない。彼の家に向かって走り出す。ここでシンジとの絆が断ち切れてしまっては、何にもならない。
ここまで頑張ってきた苦労が水の泡だ。ケンスケにもリツコにも会わせる顔がなくなってしまう。

 必死で走るが、シンジの姿が見えてこない。昔アスカがシンジのことを体力がない、と言って馬鹿
にしていたが、自分はそれに輪をかけて体力がなかった。
 すぐに息が切れ、肺が悲鳴を上げる。思えば必死で走ったことなど今までなかったかもしれない。

 それでも、決して歩みを止める事はしなかった。幾分ペースが落ち込んだが、その足が止まること
はなかった。

 少しずつ歩みを進めていくうちに、かなり先のほうに見慣れた後ろ姿が見えた。大声で叫びたかっ
たが、息が切れてできなかった。それでも、少しでも早く想いを伝えたいとレイは足の動きを早めた。








 ゆっくりと歩を進めてゆくうち、後ろから足音が聞こえた。半ば期待しながら、半ばそうであって
欲しくないと願いながら振り向くと果たして、そこにはレイがいた。
 レイは顔を真っ赤にして、荒い息をついていた。恐らく学校からここまでずっと走ってきたのだろ
う。

 シンジも普通なら、そんなレイを心配して、優しい言葉をかけるのが常だ。例え極力話しかけない
という制約があっても、何かしらの言葉をかける。

 ――大丈夫?落ち着いて

 しかし、シンジの心は今やかつてないほどにささくれ立っていた。醜い嫉妬と猜疑心、裏切られた
という失望感、そういったものが一緒になって、シンジの心を飲み込んだ。

 先に口を開いたのは、意外にもレイだった。
 「い、碇くん・・・・・・」
 その声に瞬間大きく目を見開いたシンジ。その声を聞くなり抱きしめたはずだ。そう、ほんの十五
分前ならば。
 「声が戻ったんだね」
 抑揚のない声だった。その声を聞いたレイは目に光を宿らせながら、
 「そうなの、私――」
 「ケンスケのお陰って訳?」
 シンジの皮肉に満ちた声が、レイの明るい声をさえぎった。

 「・・・・・・え?」
 「ケンスケのお陰だねって言ってるんだよ」
 「そ、それはそうだけど、だけど、私は、碇くんに――」
 「それなら!」
 シンジが大きな声を上げる。レイは子猫のようにびくっと身を震わせた。
 「ケンスケのところにいたらいいんだ。僕なんてほっといて。僕がどんなに協力してもできなかっ
たことが、ケンスケにはできた。そういうことだろ?」
 「そうじゃなくて、私は、碇くんに私の気持ちを――」
 「どうだか、大方僕が相手してくれないことに愛想を尽かして、ケンスケに乗り換えたんだ。だっ
てそうでもなきゃ、好きでもない人に綾波が抱きつくわけないじゃないか」
 ここまで来ると、シンジにはもう、リツコの言葉など残ってはいなかった。シンジ自身、自分のこ
の沸き立つ嫉妬を抑えようと躍起になっていた。理性は必死に訴えた。

 ――まだ、まだ間に合う。そのくらいにして謝れば、綾波はきっと許してくれる。やめろ!

 やめろ――

 「僕だって綾波なんかいなくたって生きていけるんだ。綾波より優しい人なんてたくさんいる。綾
波なんて――」

 やめ――

 「還ってこなくてもよかったんだ!」








 「――そ、んな・・・・・・ひどい、いかり、くん・・・・・・」

 深紅の双眸からぽろぽろと涙をこぼしながら、信じられないものを見るような眼差しを向けてくる
レイを目の当たりにして、シンジははっと我に返った。

 ――僕は、何てことを。

 あれだけ燃え上がっていた嫉妬が、冷水を浴びせられたかのように一気に冷めていくのを感じた。
代わりに感じたのは、途方もない後悔と、焦りだった。
 レイを失う。今まで実感もわかなかったそれは、今や自分の目の前に大きく口を開けてぶらさがっ
ているのだ。自分とレイの間に生まれようとしている広く深い亀裂を、シンジは確かに感じた。

 「違うんだ、綾波。僕は、僕はそんなつもりじゃ――」

 シンジの言葉が終わらないうちに、レイはシンジの隣を抜けて駆け出した。レイの眸が生み出した
温かい粒がシンジの頬にふりかかった。
 「綾波!」
 急いで駆け出そうとしたシンジの足を、鋭い痛みが襲う。思わずひざをついた。
 「綾波、待って・・・・・・!」
 声を振り絞るようにして叫んでも、レイの足が止まることはない。

 ――結局見えなくなるまで、レイは振り返らなかった。











 ――どうしよう・・・・・・

 本当にレイを失ってしまうかもしれない。言ってはならないことを言ってしまったのだ。レイの存
在そのものを否定する言葉。どんなに嫉妬に狂った言葉であっても、許されることではない。今の一
言にレイがどれだけ傷ついたか、分からないはずはなかった。
 あまりに動揺して、冷静な判断が下せない。これからどうすべきなのか、まるで分からなかった。
 レイを失うことへの恐怖がこみ上げてくる。強烈な吐き気がし、喉の奥にすっぱいものがせりあが
ってきた。
 荒い息をつきながらそれをやり過ごし、こらえる。

 苛立ちはいつしか、悲しみへと変わって言った。あれほどヒトの温かさを欲していた自分は、いつ
しか慢心していたのかもしれない。レイの優しさに。レイに必要としてもらえる自分に。

 とりあえずレイを追いかけなければならない。そして――

 ――どうすればいい?

 レイを追いかけ、それからどうすればいいというのだろう。あれほどまでに彼女を傷つけたのだ。
到底許してもらえるとは思えない。もしかしたら拒絶の言葉を投げかけられるかもしれない。やっと
聞くことができたレイの声。その声で拒絶されて自分が立ち直れるかどうか、自信がない。
 シンジはしばらく途方にくれ、立ち尽くした。

 すると――
 「碇!」
 はっと顔を上げると、見慣れた栗色の髪が走ってくるのが見えた。
 「綾波は、綾波は、どうした?」
 「ケンスケ、僕は、とんでもないことを・・・・・・」
 「・・・・・・どういうことだ?」
 「そんなつもりじゃなかったんだ、僕は、綾波を傷つけるつもりなんかじゃなくて、あんなこと言
いたかったんじゃなくて、僕は――」
 「碇!!」
 うわ言のようにつぶやくシンジに、ケンスケはシンジも聞いたことのないような鋭い声で怒鳴った。
シンジの目がふっと我に返る。
 「綾波を追いかけろ」
 「無理だよ、追いかけたって何言っていいのかわからないし、第一、綾波が許してくれるわけ――」

 その瞬間、シンジの頬に鈍い痛みが走った。
 信じられないような目でケンスケを見る。
 「何す――」
 「お前、このまま綾波を傷つけたままでいいのかよ!?」
 今までにないケンスケの雰囲気。殴られたのはトウジ以来だった。
 「お前が綾波に何言ったのかは聞かない。聞きたくもない。けど、アイツが誰のために毎日一生懸
命練習したと思ってんだ。アイツがどれだけお前に自分の気持ちを伝えたいと思ってたか、分かるの
かよ!?アイツがどれだけ、お前を――」
 いつしかケンスケは涙を流していた。シンジは呆気にとられた。
 「今このまま綾波を追いかけなかったら、俺はお前を許さない。たとえお前でも、綾波を傷つけた
ままにするつもりなら、俺は絶対お前を許さない」

 その言葉の本当に意味するところは、鈍いシンジには分からない。だが、一つだけ分かったことが
あった。
 「分かった、ケンスケ。僕、行ってくるよ」
 強い眼だった。
 「・・・・・・ああ」
 レイのマンションに向け駆け出すシンジ。いつしか足の痛みはなくなっていた。

 ――つくづく、俺はお人好しなのかもな・・・・・・
 シンジの後姿を見送るケンスケは、悲しげな笑みを浮かべていた。









 急いでマンションに入り、小さな金属製の鍵を閉める。使うことなどないと思っていた。どうせこ
の部屋に用があるのはシンジだけ。そしてシンジが自分の部屋に入ってきたいと思うなら、自分が拒
むはずはなかった。シンジに言われたからつけただけの鍵だった。
 かちり、と冷たい金属音が室内に響く。思えばこの音を聞くのは取り付け作業以来だった。自分の
心も閉じられていくようだった。

 レイの紅い眸は遠くを見るようだった。虚ろ、としかいいようのない、そんな眸。先ほどのシンジ
の言葉が、何度も何度も頭の中を回っていた。深く冷たい悲しみだけが、レイの心を覆いつくしてい
た。

 今までの努力も、全てシンジの為だったのに。シンジが自分の隣にいてくれるように、シンジを手
放さないために、努力を続けてきたのに。どんなに辛くても、シンジの優しい笑顔を思い浮かべるだ
けで、耐えられたのに。
 それなのに――
 胸が痛かった。あの赤い海の中にいつまでもいれば、こんな思いをすることもなかったのに。シン
ジに選択を迫ったとき、他人がシンジを傷つけると忠告したのは自分のはずなのに、今傷ついている
のは、間違いなく自分なのだ。
 制服のままベッドにもぐりこみ、頭から布団をかぶる。何も聞きたくなかった。シンジの声も、自
分の声も。









 マンションの前までたどり着き、レイの部屋の前に立つ。幾度となく訪れたこの場所が、こんなに
重い空気を放っているのは今までになかったことだった。
 扉を叩いてみる。
 「・・・・・・綾波?」
 返事はなかった。
 仕方なく扉に手をかける。とてつもなく勇気の要る行為だったが。ためらいはなかった。

 ――鍵がかかっていた

 当然と言えば当然のことだったが、シンジは頭を殴られたような衝撃を受けた。今まで自分がどれ
だけ言ってもかけなかった鍵を、今レイは自分の意思でかけているのだ。
 それがどういう意味か、分からないはずがなかった。
 思わず二歩三歩ふらつくように後ずさる。心が萎えそうになるのを、必死でこらえた。

 謝らなければならない。たとえ許されなくとも、レイに今の自分の想いを伝えなければならない。
自分のために努力していたレイを傷つけてしまったのだ。たとえレイを失うことになろうとも、拒絶
の言葉を投げかけられようとも、けじめをつけなければならない。

 それが、シンジが得た結論だった。

 「綾波・・・・・聞いて欲しいんだ」
 ゆっくりと、シンジは扉に向けて語り始めた。

 「えっと、その・・・・・・・・・ごめん、綾波。・・・・・・あんなこと言うつもりじゃなかったんだ。許して
欲しいなんて虫のいいことは言えないけど、僕、綾波が僕の側からいなくなると思ったら、怖くて怖
くてたまらなくなったんだ。ケンスケといるのを見て、怖くなって、綾波に裏切られたような気分に
なって・・・・・・綾波のこと本当に信じてたら、そんなこと思うはずないのに。でも、僕が馬鹿だったか
ら、僕が綾波のこと信じなかったから。綾波を傷つけることになって。本当に、本当にごめん」

 そこで少し間を空ける。
 「綾波、許してもらえないことを僕は言ったんだから、もう許してもらえなくて当然だけど、でも、
一つだけ、一つだけ僕も伝えたいことがあって、それは――」
 一瞬ためらうように目を閉じる。

 「綾波、僕は綾波に側にいて欲しいんだ。僕、綾波がいないとダメなんだ。綾波が側にいてくれて
初めて、僕は僕でいられるんだ。うまく言えないけど・・・・・・エヴァじゃなくて、本当の絆を見つけら
れた気がするんだ。だから――」

 扉からの反応はない。思わずシンジはうつむいた。
 「ごめん、自分勝手だよね。自分であんなこと言っておいて、側にいてほしいだなんて」

 そう言ってゆっくりと踵を返しかけたその時――


 「・・・・・・碇君」
 小さな声だった。反応が一瞬遅れる。
 「・・・綾波!?」
 かちり、と小さな音がする。
 「・・・・・・入って」

 レイは、扉を開けた。







 部屋の中は薄暗かった。電気をつけていないとはいえ、この重苦しい空気は、今まで自分がこの部
屋の中で感じるどんなものとも違っていた。
 先ほどからレイは、自分のほうを向こうとしない。自分のしたことを考えれば当然のことだ。それ
は仕方ない。
 否応なく儚げな印象を与えてしまうレイの細い肩から、感情を読み取ることはできない。今までレ
イに言葉がないのは当たり前のことであったのに、なぜだか無性に辛かった。


 「・・・・・・座って」
 「・・・・・・うん」
 シンジがベッドに腰を下ろすと、レイは人が一人すっかり座れるような間を空けて腰を下ろした。
ぎし、とスプリングがきしんだ音を立てる。いつも肩に加わる温もりが、今日はない。
 すぐ隣にいるはずのレイが、これほど遠く感じたのは初めてだった。表情を読み取りたいが、顔を
上げる勇気がなかった。
 重油のようにべっとりとした空気がのしかかる。沈黙に耐え切れなくなり、シンジは思わず声を上
げた。
 「あや――」
 「碇君」
 「な、何?」
 虚を衝かれたシンジが、動揺した声を上げる。
 「・・・・・・さっき言ってたこと、ほんとう?」
 「・・・・・・うん」
 「私と一緒にいたいと、思う?」
 「・・・・・・うん」
 「私も、そう」
 淡々とした口調でレイは続ける。
 「碇君の隣だけは渡したくなくて、相田君に頼んだの。彼ならきっと、私に協力してくれるって。
ずっとずっと碇君に触れていたくて、触れられていたくて、初めて言葉を取り戻したいと思った。碇
君に戻って来てほしくて・・・・・・」
 その声色から感情を汲み取ることは出来ない。さらにレイは続ける。
 「初めて話すことができた時、すごく嬉しかった。これで碇君と一緒にいられる。想いを、伝える
ことができる。いつでも碇君は私に笑いかけてくれるようになるって。碇君の隣が、私の居場所にな
るって。誰にも取られない、私だけのものになるって。でも――」
 シンジの脳裏に、先ほどの出来事が反芻する。思わず肩が震えた。
 「もう絆なんかいらないって、思った。絆を求めることで傷つくことになるなら、何も求めないほ
うが楽だから。私は本当に、還ってこない方がよかったのかもしれないって、そう思った」
 まるであの頃のシンジのようだった。シンジは唇をかみ締めた。
 「部屋の鍵を閉めたとき、すごく悲しかった。だけど、安心もした。これでもう二度と傷つくこと
もない。あの頃と同じように、絆を求めることさえしなければ、ずっと同じでいられる。言葉なんて
あってもなくても変わらない。だって、他人とかかわる必要なんてないもの」
 改めて、自分の犯した罪の重さを自覚する。ここまでレイを傷つけたのは自分なのだ。
 まるで詩を朗読しているかのような、流れるような透き通った美しい声。しかしそれはどこまでも
平坦で、抑揚がなかった。

 「でも――」

 唐突にレイの言葉が途切れた。今まで一定のリズムと間を保っていたレイの声に、長い空白が生ま
れた。

 その空白がどれほどのものか、シンジには分からなかった。数秒に過ぎなかったのかもしれないし、
もしかしたら数十秒の時間が流れたのかもしれない。デジタル時計しかないこの部屋で、それを確か
める術はなかった。沈黙に耐えられなくなったか、あるいは言葉を返すためか、シンジが顔を上げた。



 ――レイは、涙を流していた。


 とめどなく、俯き加減の眸からぽろぽろと涙をこぼしていた。ぽた、ぽた・・・・とそのたびに制服の
スカートから小さな音が漏れた。シンジの手のひらほどの大きさをしたしみが、そこにはあった。話
しているときもずっとこうしていたのだろうか。それを確かめる術はもはやないが、レイのスカート
のしみが、全てを物語っていた。
 その顔は――無論口には出さないが――たとえようもなく、美しかった。シンジは思わず自分のお
かれた状況も忘れ、魅入ってしまった。

 「碇君」
 不思議な涙の流し方をしていた。口調はまさしくレイであるのに、涙だけは先ほどと同じように流
れていた。シンジを正面から見据える。
 「私、傷つくかもしれないけど、辛いかもしれないけど、それでも、それでも私は碇君との、碇く
んとの、絆を――」
 初めてレイの呼吸が、泣いている人間のそれになった。背中がひくひくと細かく震えている。

 おずおずと、シンジはレイに手を伸ばした。自分が行った仕打ちが、一瞬シンジの脳裏に蘇り、触
れることをしばし躊躇わせた。
 それでもシンジはゆっくりと、レイに手を伸ばした。女性的ともいえる細い指先がレイの頬に触れ
た。
 しっとりと濡れたレイの絹のような滑らかな肌から、ほんのりとした少し低めの体温を感じる。レ
イは手をはらったりはしなかった。ゆっくりと目を閉じ、自らの手をシンジの手に重ねた。

 どちらからともなく、二人の距離が近づいた。シンジの右手を包み込んでいたレイの左手が、シン
ジの肩へと回される。それに応えるように、シンジも両手でレイを包んだ。
 ゆるく抱きしめあう。抱きしめる、というよりは、まさしく包み込んだ、と表現すべきだった。
 穏やかに触れ合う互いの体から相手の心地よい体温を感じた。そこには不思議なほどに、思春期に
ありがちな興奮や胸の高まりも、存在し得なかった。あるのはただただ、蕩けてしまいそうな愛しさ
だけだった。

 ゆっくりと、ベッドに倒れかかる。シンジがレイの上に覆いかぶさる。スプリングが再び音を立て
た。
 心地よいシンジの重みを感じながら、レイは腕に力を込めた。心にわきあがってくる感情が何なの
か、初めて理解した。複雑な絵画を描く必要などないのだ。自分が本当に描きたいいろ言葉は、一つ
しかないというのに。

 「碇くん、好き、大好き。碇くん、碇くん、いかりくん、ずっと、一緒に・・・・・・」
 シンジも腕に力を込める。折れてしまいそうなレイの華奢な体をいたわるようにそっと、しかし強
く抱きしめた。

 うわ言のように同じ言葉を繰り返すレイの唇を、シンジの唇がそっとふさいだ。くだらない嫉妬や
猜疑心が消えてゆく。ささやくように、シンジも言葉を返した。

 ――僕も大好きだよ、綾波・・・・・・

 二人を隔てるものはもう、何もない。互いの温もりをむさぼるように、唇を重ねた。









 「碇くん」
 「・・・・・何?」

 急に唇を離し、声をあげたレイに、シンジが応える。
 「どうしてずっと、私のこと無視してたの?」
 一瞬シンジの表情が曇る。
 「リツコさんと相談したんだ。綾波が話せるようになるには、あれしかないって。綾波が言葉を自
分から求めるようになれば、綾波はきっと言葉を取り戻すようになるだろうって。ごめんね」

 「・・・・・・ひどい」
 「え?」
 「私、とても寂しかった」
 「いや、だから、その、あれは・・・・・・綾波、ホントにごめん」
 「――許してあげない。碇くんはずっと、私を騙してた」
 シンジの抱きしめる腕をほどき、うつ伏せになる。
 「あ、綾波?」
 「碇くんなんて、知らない」
 ぐぐもった声がレイの枕元から漏れる。慌てるシンジ。おろおろとしたその様子は、どこか初めて
この部屋を訪れた時のことを思い出させる。
 「綾波、僕は綾波のことを想って」
 「・・・・・・・」
 「綾波の声が聞きたくて」
 「・・・・・・・」
 「あ、綾波・・・・・・」

 急にレイの枕元から、くっくっくっと声が漏れた。びっくりしたシンジがレイの肩をつかんで上を
向かせる。
 ――満面の笑みを張り付かせたレイがそこにいた。

 「・・・・・・・綾波」
 「ごめんなさ――んっ」

 突然唇を重ねたシンジに、レイの目が大きく開かれた。

 「綾波に嫌われたら、僕は生きていけないんだよ・・・・・?」

 唇を離したシンジがそう言うと、レイはばつが悪そうな顔をした。
 「・・・・・・ごめんなさい、でも――」
 「何?」
 「私も、碇くんがいなかったら、生きていけない」
 レイが再びシンジの背中に腕を回すと、二人はもう一度唇を重ねた。今までより長い、深い口付け
だった。





 唇を重ねる内に、薄手の夏服を通してシンジの体が熱を帯びていることにレイは気がついた。

 「碇くん、熱い・・・・・・」
 何のことか、当然シンジには分かった。心持頬を染めながら答える。

 「綾波のことが、好きだから・・・・・・」
 「――碇くん、私、碇くんなら、碇くんだから・・・・・・」
 レイがシンジの手をゆるくつかみ、自らの胸へと重ねた。シンジの掌に伝わるその感触は、とろけ
るようにやわらかかった。レイの健気な想いがシンジの心を打つ。ゆっくりとレイのブラウスの第一
ボタンにシンジの手が伸びた。しかしシンジはそのボタンに手をかけることはせず、レイの首筋を過
ぎ、優しくレイのまだ湿り気が残る頬を撫でた。
 「・・・・・・ありがとう、でも――」
 「碇くん?」
 「今はまだ、綾波とこうしていられるだけで、幸せだから――」
 言いながらレイを抱きしめ優しく後ろ髪を梳くシンジに応えるように、レイは再び唇を重ねた。

 ――ありがとう、碇くん・・・・・・






 「・・・・・・碇くん」
 耳元でささやくように言う。
 「――ん?」
 「もう、離さないから。どこへも、行かせないから。いつまでも、側にいてもらうから。碇くんは、
碇くんの隣はずっとずっと、私のものだから」
 「分かってるよ。僕は馬鹿だから、綾波を傷つけてしまうかもしれないけど、だけど、ずっと、綾
波の側にいるから。綾波は、僕のものだから、ずっとずっと、僕は綾波のものだよ」
 「・・・・・・嬉しい」

 そう言って微笑んだレイは、今までシンジが見たどんな表情よりも、美しかった。
 「碇くん、大好き――!」





―FIN―




 〜あとがき〜
 JUNです。出だしのフレーズはとある商業作品に少々影響を受けています。多分その作品を知って
いても気がつかない程度だとは思いますが、一応礼儀として。結局話せなくなった原因をでっち上げ
られなかったのでこういう終わり方です。
 書いているほうが恥ずかしくなるようなゲロ甘にしようとしたのですが、どこをどう間違えたのか、
そこそこの甘さになってしまいました。期待した人(いるのか?)すいません。ただ、最近甘さの感
覚が鈍っているという指摘もあるので、一概には言えないであろうことを追記しておきます(苦笑)
 何気にケンスケをまともに書いたのは初めてな気がします。じゃ、次はトウジか?(笑)あまりス
ポットが当たらない彼ですが、僕は好きです。えらいぞ、ケンスケ。
 次こそはとろとろに溶けたような甘い話を書きたいと思っていますが、果たして僕にどこまでの甘
さが書けるか甚だ疑問なので、そもそもネタによってシリアスかゲロ甘か分からないので、あまり言
わないことにします。

 それでは、JUNでした。


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