PokaPoka

Written by JUN 



「また寒くなってきたわねえ。やだやだ」
 うんざりとした口調でミサトは言う。その声に目元までコタツの中にいたアスカは、憮然とした表
情で机をドンと叩いた。
「ならストーブの一つぐらい買いなさいよ!」
「だってねえ、冬ももう終わりだからねえ。買ってすぐ物置の中にしまっちゃうのもねえ。いいじゃ
ない、コタツはあるし。来年こそは買おうと思ってるわよ」
「そうやって物事を先送りにしてるからダメなのよ。“思い立ったが吉日”って、日本の諺でしょ?」
「あら、よく知ってるわねアスカ、えらいえらい」
「誤魔化すな!すぐに買いなさい今買いなさい。寒いのよアタシは!」
「わーかったわよう、明日買いに行くわ。それでいいでしょ、アスカ?」
「もちろん!さすがミサト」
 そんな賑やかなやり取りを台所で食器を洗うシンジとレイは聞くともなく聞いていた。シンジが声
をかける。
「綾波は買わないの?あの部屋寒いでしょ?」
 そんなシンジの言葉に、少し寂しそうにレイは微笑む。
「買いたい。けど、一人じゃ重たくて・・・・・・」
「配達は?大きなお店ならしてくれるよ?」
「あのマンション、まだ住所登録してないの」
 シンジは曖昧に頷き、皿を一枚シンクに並べて思いついたように声を上げた。
「じゃあ、僕がまた今度ついていってあげるよ。それでどう?」
 レイがぱっと顔を上げる。
「・・・・・・いいの?」
「いいよ、もちろん。ついでにカーペットも買おう。綾波の部屋、さっぷ・・・・・・いや、シンプルすぎ
るから」
 レイは少しだけ頬を染めて俯く。肌が白いために、その僅かな変化が妙に目立った。
「あ、ありがと・・・・・・」
 その愛らしい表情に触発されてか、最後の皿を手早く拭いたシンジも少し照れたように笑いながら、
「いや、構わないよ。その、やっぱり、心配、だし・・・・・・」
 ミサトとアスカが見てなくてよかったと思う。もし見られていたら集中砲火を浴びることになった
のは必至だ。からかいの声が飛ぶ頻度も最近では少なくなってきたが、それでも二人は獲物を狙う蛇
の如く、機会をうかがっている。


 レイが葛城家に出入りするようになってから暫く経つ。自他共に認める家政夫シンジの手伝いとい
う名目で、レイはバレンタインデー以来ここに入り浸っていた。夕食はほとんどここで食べていると
見て間違いない。いっそ隣の部屋に引っ越せばいいというシンジの提案に、レイは首を横に振った。
理由を尋ねたシンジの耳元でごにょごにょと、
「碇くんに送ってもらいたいから」
 と呟いたレイの表情は、昔の彼女を知る人間が見たら目を疑ったことだろう。



 厚手のコートを羽織ったシンジが玄関から声をかける。
「それじゃ、綾波送ってきます」
「はーい、行ってらっしゃい。ありがとね、レイ」
「いえ、お邪魔しました。葛城さん」
 こんなやり取りがごく自然なものになったのも、レイが葛城家にいかに入り浸っているかというい
い証拠だといえるのだろう。送ってゆくと言ってもからかわれなくなったのは勿論、シンジの並々な
らぬ努力の成果ということは言うまでも無い。




「寒いね。ずっと夏だったからいつまで経っても慣れないな」
「そうね」
 レイの返事は素っ気無い。だがそれに気を悪くした様子も無く、シンジは続けた。
「綾波は、制服だけで寒くないの?」
 少し思案顔になったレイが、思いついたようにシンジの手にしがみつき、頬を寄せて微笑む。
「こうしたら、平気」
 シンジは瞬時に赤くなり、上ずった声を上げた。
「え、ちょ、綾波、それは・・・・・・・」
「だめ、なの?」
「いや、そうじゃなくて、その・・・・・・」
「そう、だめなのね、もう・・・・・・」
 言って俯いてしまったレイの肩が小刻みに震え始める。鼻をすすり上げる音がする。気弱なシンジ
にとってその攻撃の効果は絶大だった。
「あ、綾波、全然ダメじゃない、いいよ、大歓迎!」
「――ほんとう?」
 顔を上げたレイは、にっこりと微笑んだ。
 
 ――やられた

 今まで気づくことが出来なかったが、レイは非常に演技がうまい。普段感情をあまりあらわにしな
いだけに、泣きまねなどされた日にはどうしようもなくなる。塞ぎこんでしまったレイを慰めるため
に抱きしめて唇を寄せようとした時、その目は如実に“してやったり”と語っていたりする。少しか
ちんときて顔を離そうとすると、不安げに、「いかり、くん?」と囁くレイの目はもう潤み始めてい
たりして、結局シンジはされるがままだ。惚れている弱みと言わざるを得ない。

 腕に感じるレイの身体の軟らかさに少しうろたえながら、シンジは歩を進める。こうしたスキンシ
ップを、レイは好む。たまに家に泊まりに来た日などは、目覚めると自分の腕の中ですやすやと寝息
を立てていたりする。それも下着姿で。
 その軟らかい感触と甘い匂いに、思わずレイの細い肩を掴むとレイ自身は呑気なもので、「いかり
くん、おはよう」とふわふわと呟き、シンジの胸に頬を寄せてまた眠ってしまう。
 そのあまりといえばあまりに無防備な挙動に結局シンジは毒気を抜かれ、レイの頭を優しく撫でて
やるしかなくなる。それに気が付いているのかいないのか、レイはいっそうシンジに身を寄せ、寝言
かどうかも分からない口調で、「いかりくん、だいすき・・・・・」などと呟いたりするものだからもう
どうしようもない。シンジは受難だと思っているが、恐らくクラスメートに口走ろうものなら張り倒
されるだろう。役得だ、と。


 だから、ある意味の諦めがある。土台嫌なわけではないし、自分の理性を押さえ込むことが出来れ
ば問題ないのだから。むしろ最近では自分からもそういったことをするようにもなった。やましい心
も無くはないが、それでもレイが喜んでいるのだからいいじゃないかと開き直りつつある。
「暖かい?綾波」
 そろそろその感触にも慣れてきた頃、シンジが訊いた。
「うん、碇くんの手、暖かい」
「そう、よかった。綾波は細いから、風邪引かないようにね」
「わかった、気をつける。だから――」
 言われたレイは抱き寄せた腕に少しだけ力を籠めて、目を閉じシンジのほうに顎を突き出す。
 シンジは一瞬きょとんとした表情をしたが、すぐに悟ってレイに抱きしめられた腕を引き抜き形の
いい空色の頭を抱き寄せた。
「うん――」
 重ねた唇からレイの声とも息ともつかない音が漏れる。それに誘われるように、シンジはレイの頭
に回した手の力を強めた。
 
「これで風邪引かない?」
「うん、それに――」
「何?」
「もし引いても、碇くんがこうして抱きしめてキスしてくれたら治る。ね?」
 上目遣いのレイに対して少したじろぎながら、
「う、うん」
 
 人も変わるものだ、シンジは思った。けれどすぐにそこで思い直す。変わってなどいないのだ。レ
イは昔からずっと、レイのままだ。人の温もりを求め、絆を求め、そして世界の誰より可愛く、愛し
いレイ。それは昔からずっと、変わってはいないのだ。それが表に出るかどうかの違いのみだ。

「ねえ、綾波」
「・・・・・・ん?」
「もうすぐホワイトデーだけど、何がいい?」
 レイは少し首を傾げる。
「それ、前に言った気がする」
「今、ここで言って欲しいな、なんて・・・・・・」
 レイの顔がさあっと赤く染まる。そして、消え入りそうな声で、
「・・・・・・碇くんが欲しい」
 人一倍大胆な要求をするくせに、人一倍照れ屋なレイ。そのギャップがまた、シンジの心を掴んで
離さない。
「ありがと、楽しみにしててね綾波」
 視線を落としたままこくりと頷くレイ。そんな初々しい表情に悪戯心を刺激されたのか、シンジは
不意を衝いてレイの肩を抱き、もう一度唇を奪った。レイの眸が驚きに見開かれる。しかしすぐにそ
の眸は閉じられ、シンジの頭を優しく抱いた。
 



 レイのアパートに着くと、シンジはいつものようにまた明日を告げようとする。しかし今日は少し
だけ事情が違った。レイがシンジのコートを掴む。
「・・・・・・碇くん」
「ん、何?」
「その、今日は・・・・・・」
 その声で察したのか、シンジは微笑み、頷いた。





「碇くん、紅茶でいい?」
「あ、うん。ありがと」
 最近では、レイの紅茶はシンジのそれを上回るものになりつつある。少しだけ悔しい気もしたが、
嫌ではなかった。レイが自分以外に紅茶を淹れる相手は、シンジ以外にいないのだ。
 調理器具がお世辞にも揃っているとはいえないレイの部屋で、紅茶だけは常に数種類常備している。
シンジにも分からないこだわりがあるらしく、その日その日で出てくる紅茶の種類が違う。寒い日、
暖かい日、記念日etc…といった具合だ。味の違いはシンジにもなんとなく分かるが、銘柄を訊かれ
ると答えられない。ちなみに記念日というのは前回のバレンタインデー、ヤシマ作戦、碇くんサルベ
ージ成功記念etc…とこれもまた延々と続く。
「はい」
 カップに気を遣ってか、心持俯き加減のレイにシンジが訊く。
「ありがと、綾波。今日は?」
「・・・・・・暖かい日」
 レイのその言葉に、シンジは一瞬納得のいかない顔をする。
「え、でも今日は――」
「・・・・・・碇くんが」
 少しだけ視線を上げ、恥じらうような表情のレイはちらちらとシンジの目を見ながら虫のように小
さな声で言った。
「かっ・・・・・・」
 
 ――かわいい
 
 また目を伏せてしまったレイに何か声をかけたいとは思うものの、とっさに言葉が出てこない。誤
魔化すように紅茶を一口飲んだ。砂糖もミルクも入れていないのに必要以上の渋さを感じないのは、
やはり紅茶がよいのだろう。鼻に抜ける特有の香りが心地よかった。





「ね、綾波」
 紅茶を飲み終わった後、机代わりの椅子にカップを置きシンジは声をかけた。
「何?」
「やっぱりこの部屋寒いね」
「・・・・・・うん」
「あっためてあげようか?」
「――え?」
 シンジがコートの前を止めていたボタンを外す。その意味ありげな仕草に、レイは刹那胸を高鳴ら
せた。
「ほら」
 シンジはコートの前を――前だけを――開けた。
「おいで、綾波」
「・・・・・・うん」
 少し足を開いて腰掛けたシンジの足の間に、レイは肩をすぼめて腰掛ける。シンジは手にしたコー
トでレイをすっぽりと包み込んだ。レイの下腹部にコートの内側で手を回し軽く抱き締める。
「あったかい?」
 レイの耳元でシンジは囁いた。
「あったかい。それに・・・・・・ぽかぽかする」
「ぽかぽか?」
 少しおかしそうにシンジは言った。
「うん。碇くんと一緒にいるとぽかぽかするの」
「それって、どんな感じ?」
「・・・・・・?」
「・・・・・・」
「胸の辺りが、ぽかぽかして、締め付けられるような・・・・・・」
 的を射きれてないけど、とレイは少し寂しげに笑った。
「でも、それなら僕にも分かる気がするよ、綾波」
「どうして?」
「だって僕も“ぽかぽか”するから、綾波といると。だから分かるんだ」
 回した手に少し力を籠める。
「それはね、綾波――」
「それは?」
「・・・・・・好き、ってことだよ」
 いっそう手に力を籠め、シンジはレイの頭に顔を埋めた。
「碇くん、そう、私、碇くんが――」
 ――好き・・・・・・
 自分の前に回された手に、レイはそっと自分の手を重ねた。







「僕、そろそろ帰るよ。もう遅いし」
 自分のコートを脱いでレイに羽織らせ、シンジは言った。
「・・・・・・もう?」
「・・・・・・うん」
 レイはシンジの服の裾を掴む。
「もっと、いてほしい」
 シンジは少し困ったように笑って、その手を握った。
「だめだよ、綾波」
「どうして・・・・・・?」
「その、遅くまでいると、我慢、できなくなるんだ。綾波のこと、傷つけたくないから。だから、ね?」
 レイは激しくかぶりを振る。背伸びをしてシンジに深く口付けた。
「我慢なんてしなくていいから。私、傷つきなんてしないから。私、碇くんが側にいてくれるなら、
私のこと、碇くんの好きにしていい。だから、ここに――」
 唇を離したレイのそんな懇願の言葉にシンジはこらえきれなくなったように、レイを強く抱きしめ
た。
「ありがとう、綾波・・・・・・でも」
 ぎゅうっ、とレイもシンジに回した腕に力を籠める。レイの背中がひくひくと震え、嗚咽にも似た
声が漏れ始めた。その声にシンジの心は痛んだ。
「もう少しだけ、待って欲しいんだ。僕が自分を赦せるようになるまで。綾波、お願いだから」
 少し厳しめなその声に、レイは渋々シンジの服を離した。
「また明日、綾波」
「・・・・・・うん」

 誰もいなくなった部屋の中、残された温もりを求めるように、レイはシンジのコートをぎゅっと抱
きしめた。







 ホワイトデー当日、いつものようにシンジはレイのマンションに迎えに行った。
「おはよう、碇くん」
「おはよう、綾波。はい、これホワイトデーの」
 そう言って鞄の中から取り出した空色の包みを手渡す。
「ありがとう、碇くん」
「それと――」
 少しだけ声を小さくして言うシンジ。レイは不思議に思ってシンジを見上げる。
「なに――ん・・・・・・っ」


「ホワイトデーだからね」
「・・・・・・・・・・・・ありがと」




「おはよ、レイ、シンジ」
「おはよう、アスカ」
「おはよ、アスカ。あれ、カヲル君は?」
「あいつ、今日は風邪引いて休みだって。ホワイトデーは家に取りに来いって。このアスカ様を呼び
つけるとはあいつもいい度胸ね〜」
 鞄をぶらぶらさせながらアスカは言う。しかし嫌そうではない。それどころか口元には隠しきれな
い確かな笑みを浮かべていた。看病してやろうとでも思っているのだろう。口に出すと張り手が飛ぶ
ことは目に見えているので黙っているが。
「レイは?もうもらったの?シンジに」
「ええ、さっき」
 その声にシンジは一瞬身を固くした。シンジはミサトやアスカの前でベタベタするのを基本的に避
けている。それが功を奏しているのか、レイとシンジ以外は二人がどう過ごしているのかを知らない。
“清く正しいお付き合い”だとでも思っているようだ。せいぜい出来てキスぐらいだろう、と。まし
てや玄関口で堂々と唇を重ねるなどとは思ってもいない。
 それだけに“何を”受け取ったのかをばらされると都合が悪い。気軽に家に送ってゆくことも難し
くなる。
 
 ――言わないで、綾波!
 
 その思いが通じたのか、レイはそれ以上何も言わなかった。アスカも、シンジのことだからきっと
クッキーか何かだろうとでも思ったのか、それ以上は訊かなかった。シンジは人知れずそっと安堵の
息を吐いた。

「そういえばシンジ」
 アスカが思い出したように言った。
「何?」
「アンタ、レイ以外にもチョコもらってたんでしょ?」
「あ、うん」
「その子達にもお返し、あげるの?」
 そのアスカの声にシンジの手を握っていたレイの身体がぴくりと震えた。醸しだす空気の温度が微
妙に下がるのが分かった。
「え、うん、まあ、もらったし、あげないのも悪いかなって・・・・・・」
「ふ〜ん。義理堅い男ねえ」
 その時、沈黙を守っていたレイが声を上げた。
「――碇くん」
 心持握った手に力が入ってくる。その声に含まれる確かな棘に、付き合いの為せる技だろう、シン
ジだけが気づいた。
「な、何?」
「あの子にも、クッキー、あげるの?」
 “あの子”
 前回のバレンタインデーの時、自分達の間に確かな波紋を投げかけた人物。確か、霧島・・・・・・とか
いっただろうか。
 言い難そうにシンジは切り返す。
「う、うん。一応もらったし、返さないのも失礼かなって」
「そう・・・・・・」
 そう言ったきりレイは俯いてしまった。変に反抗しないあたりが逆に怖い。
「あ、綾波。来年からはもらわないから。だから、ね?」
 そんな声にぱっとレイは顔を上げ、満面の笑みで、
「――うんっ!」

 ――かわいい・・・・・・
 ――かわいいわね・・・・・・

 アスカまで顔が赤い。慌てたように首を振るのがどこか熱に浮かされたようにぼんやりしたシンジ
の視界の隅に映った。
 
 ――あたしはそっちの気はないのよ!カヲ――男よ、男!

 自分に言い聞かせるようにぱしぱしと頬を打った。



「おはよう、碇君」
「おはよう。あ、これ・・・・・・」
「あっ、憶えててくれたの!?嬉しい〜」
 
 校門に入るや否やそんなやり取りが平然と繰り広げられる。シンジとレイが恋人同士なのは今や周
知の事実なので、もらえないと踏んでいた女生徒は皆揃って歓喜の声を上げた。
 その都度レイはなんとも複雑な表情(シンジ以外には分からない)をしたが、何か口にすることは
無かった。そもそもそんな優しいところもレイがシンジを好きな理由の一つなのだ。
 教室に入ると、概ねいつもと変わりなかった。一部の男子が何かを手渡している程度で、それもさ
して目立つほどではない。やはりバレンタインデーに比べればエネルギーの落ちるところなのだろう。
律儀にくれた人間全員に手渡しているのはシンジくらいなのかもしれない。
 しかしその中で、一際オーラを放つ存在がいた。例の“あの子”である。隣のクラスであるなどと
いう事実もどこ吹く風で、堂々と教室の一角で笑い声を上げていた。
 シンジを見るとすぐに目を輝かせる。
「あ!シンジ君、おはよ〜」
 そんな無邪気な声にレイは少し身体を強張らせ、シンジの手をきゅっと握った。
「おはよ、えっと、これ、ホワイトデーの」
 悟られない程度にそのひんやりした手を握り返しながら、シンジは出来るだけ素っ気無く見えるよ
うに小箱を手渡した。
「ホント!?やったあ」
 表情を綻ばせる彼女に、シンジも悪い気はしない。ああ、悪い人じゃないんだなと心の中で思いな
がら、踵を返した。
「それじゃ、ま――」
「あ、待って?」
「え・・・・・・?」
 
 ――シンジの唇に、軟らかいものが触れた。

「お礼。ありがとね、シンジ君!」

 シンジが何か言う前に、たたたっ、と目にも止まらぬ速さでその少女は教室を飛び出していった。

 背筋に冷たい汗が伝う。これは、まずい。

 そして――




 【同時刻・NERV本部】

 その時は、MAGIの検査以外に予定がなかったためか、とてものどかな空気が流れていた。使徒もい
なくなった今、NERVの仕事はといえばその設備と人材を活かして遺伝子学、新薬の開発、電気工学、
など手広く研究を行うことだ。
 通称“NERVの脳”と呼ばれる赤木リツコは朝のコーヒーに手を伸ばし、その隣では葛城ミサトがシ
ンジにもらった(奪った)クッキーをぱくついていた。オペレーターのマヤはスケジュールの確認を
し、マコトは漫画を読み、シゲルはエアギターに興じていた。

 
 そんな平和な日常は、唐突に破壊された。


 
 けたたましい警報音がNERV本部に鳴り響く。
「どうしたの!?」
 ミサトが瞬時に作戦部長の顔になり、怒鳴る。
「ATフィールドの発生を確認!」
「なんですって!?確認、急いで!」
「はい、パターン・・・・・・オレンジ!これは、人間です!」
 マコトが言うと、リツコはマヤに目を向けた。
「場所は!?」
「待ってください、これは・・・・・・!」
 マヤが信じられないように軽く目をこすった。
「シンジ君たちの学校です!」
「そんな・・・・・」




 【第二中学校教室】

「あ、あやなみ・・・・・・さん?」
 かなり腰が引けた状態でシンジが言う。その視線の先にわだかまるオレンジ色の壁に向けて。
 教室内は静まり返っていた。誰も動かない。動けない。その強い圧力は本物の使徒のそれを幾度も
感じてきたシンジやアスカにとっても一線を画すほどだった。
「ちょ、ちょっとレイ。そんなに怒るもんじゃないわよ。キスぐらいで。私も一回シンジとしたこと
あるし」
「ちょっと、アスカ――」


      ぎいんっ!


 空気が裂かれるような轟音を立ててよりいっそう圧力が強くなった。壁だったそれが小さなドーム
を形作る。一人の耐えかねた女子が口元を押さえて走り去っていく。それに触発されたように数名の
女子が同じように走った。

「あ、綾波、聞こえてる?」
 しかしATフィールド越しにぼんやりとして見えるレイはぴくりとも動かず、うずくまったままだ。
どうも聞こえていないらしい。

 その時、携帯の着信音が鳴った。突然の高い音にその場に居合わせた皆の体がぎくりと強張る。
「あ、僕だ」
 NERVからだ。予想と同じだったのでさして驚きもせず通話ボタンを押す。
「もしも――」
どういうことよ!?
 ミサトの狼狽した怒鳴り声に、シンジは思わず携帯を耳元から離した。
「いや、あの、綾波と、ちょっと喧嘩しまして」
『はあ?』
「いや――」
 シンジは事の顛末を告げた。

「――という訳でして・・・・・・」
『・・・・・・痴話喧嘩は他所でやりなさい。全く』
「ち、痴話って・・・・・・」
『・・・・・・まあいいわ。リツコに代わるわね。はい、リツコ―――――シンジ君、聞こえる?』
「あ、はいリツコさん」
『当たり前だけど、あなたにはレイを助けてもらわなきゃならないわ』
「はい」
『NERVは今、第二種警戒態勢。コーヒー一つ飲めない。使徒が来たわけでもないのに、日本政府は今
大騒ぎ。日本の株式の取引は一時的に中断。多分世界経済はまた少し混乱するでしょうね。さっきか
ら何事かって電話が次から次へと。マヤはその応対に借り出され、日向君と青葉君は関係各所への報
告書を書いてるわ。虚実を織り交ぜてね。冬月副司令はさっき胃が痛いってどこかへ行ったわ。碇司
令は今、こめかみに青筋浮かべてる。多分色んな影響全部ひっくるめたら、一国が傾く位のお金が動
くわ。さて、この騒ぎは誰と誰が原因でしょう?』
「す、すいません」
『ふう・・・・・・まあいいわ。で、本題に入るわよ。それで解析の結果、レイのATフィールドは使徒のそ
れとは少し違うことが分かったの』
「どう、ですか?」
『使徒のATフィールドは何者をも受け入れない絶対領域。でもね、レイのそれはそこまで強固なもの
ではないの』
「はあ」
『分かりやすく言えば“心を開いた人間”になら侵入が可能なのよ。誰のことだか・・・・・・分かるわね』
「・・・・・・はい」
『後は、シンジ君次第よ。私たちのコーヒータイムがかかってるんだから、頼むわね――プッ』
「え、ちょ・・・・・・切れちゃった」

「で、どうすんのよシンジ」
 アスカが尋ねる。ATフィールドを何度も肌で感じた経験があるせいか、元チルドレンはレイの圧力
に慣れるのが早かった。
「リツコさんが言うには、僕ならあの中に入れるだろうから頑張れって・・・・・・」
「・・・・・・えらく大雑把な説明ね」
「でも、結局それしかないわけだし、頑張るよ」
「うん・・・・・・――ってATフィールドに触る気!?」
 アスカが声を荒げる。エヴァを通してでしか触れたことはないが、その危険性は重々承知だ。下手
をすればシンジの指が飛んだところで決して不思議ではない。
「大丈夫だよ。綾波だし」
 そういう問題ではない・・・・・・が、それ以外に根拠のつけようがないのだろう。シンジも少し不安げ
な表情だ。
「それじゃ、行ってくるよ」
「・・・・・・気をつけなさいよ」

 シンジがゆっくりとその光のヴェールに手をかける。思いのほかあっけなく、その壁はシンジの手
をのみこんだ。
 あったかいな、などと考えながら膝をつく。ドーム状になっている空間の大きさは大体二畳半程の
狭い空間で、しゃがまないと頭がぶつかってしまう。その中はまるで母親の胎内にいるように妙に落
ち着く。エヴァに乗っている時ともまた違うその感覚に、シンジは感嘆の溜息を漏らした。そしてそ
のドームの中央に、レイはしゃがみこんでいた。
 完全にその中に入り込んだ時点で気がついたが、どうも外から中に入ることは出来ても、中から外
に出ることは出来ないらしい。軽く内側から手を触れると、硝子ともプラスチックともつかない硬い
感触がした。その硬質な感触に似合わず、人肌ほどの温もりがあった。
 中は不気味なほど静かだ。薄ぼんやりした壁を通して外でアスカが何か喋っているのが見えるが、
その声は聞こえてこない。多分こちらの声も聞こえないのだろうとシンジは推測した。
「ねえ、綾波?」
 ぴくり、とレイの身体が動き、ゆっくりとこちらへ顔を向けた。目にはいっぱいの涙を湛え、顔は
心なしか青ざめているように見える。
「――綾波」
 後ろからそっと抱きしめる。奇しくもそれは昨日と同じ構図だった。またぴくりと身体が震える。
「綾波、ねえ」
「――碇くんなんて、嫌い」
 それは確かな拒絶の言葉だった。が、それは時たまレイが拗ねた時に見せる声と同質のものでもあ
った。シンジの失言に対して拗ねて見せ、口付けを交わせば機嫌を直してくれるような、そんな時に
見せる声。
「綾波、僕は綾波以外に好きな人なんていないよ。さっきのも――」
「でも、アスカと――」
「あれは・・・・・・こんなこと言ったらアスカに失礼かもしれないけど、その時の空気に流されただけな
んだ。もちろんアスカは大事な人だけど、僕にとって好きな人は綾波だけだよ。だから・・・・・・」
 回した腕に力を籠め、耳に息を吹きかけるようにして呼びかける。周りを形作っているATフィール
ドの色が少しずつ薄くなっていることに、シンジは気づいた。
「ね、綾波。今日は二人で買い物に行こうよ。ストーブを買いに」
「・・・・・・いや。碇くんは私のこと愛してない」
「僕は綾波のこと、愛してるよ。世界で一番、誰よりも」
 人前ではとても吐けない台詞である。が、レイの機嫌が一番の懸案であることと、ATフィールドを
通すと声が聞こえないという憶測が、シンジを大胆にさせた。
「――ほんとう?」
 レイが少しだけ視線を上向きにする。そんなレイの様子に背中を押され、シンジがレイの顔を覗き
込む。
「本当だよ、綾波・・・・・・」
 シンジの優しげな眼差しにさらされ、逆にレイはきょときょとと視線を彷徨わせる。このまま許し
てしまうのは悔しい、とでもいうようにシンジを睨んだ。しかし一瞬だけ、レイの目が何かを思いつ
いたように揺れた。シンジは気づけなかったが、それは悪戯を思いついた子供のように、楽しそうな
目だった。
「ねえ、綾波。僕はずっと綾波だけのものだよ。だから綾波の悲しんでる顔は見たくないんだ。笑っ
ていて欲しいんだ。僕は綾波の笑顔が大好きなんだから。綾波に嫌われたら、僕は生きていけないん
だ。綾波は僕の全てで、僕の一部でもあるんだ。絶対に手放したくないんだ」
「・・・・・・」
「綾波が悲しい顔をしたら、僕だって辛いよ。今回のことは僕が悪かったと思ってる。本当にごめん。
だから、綾波が僕にして欲しいこと、なんでもするよ。だから、お願いだよ、綾波」
「――なんでも?」
 レイの声に幾らか明るさが戻る。その眸に僅かな光が宿ったことで、シンジは自信を深めた。
「うん、なんでもするよ」
「今日一緒にお買い物。カーペットも」
「うん、いいよ」
「キス」
「みんな、見てるけど・・・・・・」
「キス」
 言って目を閉じて顎を突き出す。「ん」と、催促の声を上げた。
 シンジはレイの唇をふさいだ。
「んっ――」
「・・・・・・次は?」
「私以外の女の人、見ないで。碇くんは、私だけのもの」
「もちろん。僕は、綾波のものだよ。ずっと」
「今日は私の部屋に来て」
「うん、いいよ。カーペットをひいて、ストーブもつけよう」
「明日まで、一緒にいて」
 淡々と言葉を紡ぐレイに反して、シンジの声が一瞬止まる。
「綾波、こんなこと言いたくないけど、綾波の部屋に一晩いたら、僕は――」
「いて」
 強いレイの口調にシンジは折れるしかなかった。一晩ならもつだろう、そう自分を勇気付けた。
「分かったよ。だから、出よう?」
 レイがシンジをじっと見つめる。その紅い眸と、シンジは正面から向き合った。レイが顔を寄せる
と、シンジはそっと目を閉じた。唇に触れる軟らかい感触が瞬時シンジの脳を白く焼く。
 たっぷり、二十秒。シンジはレイの後ろ髪を梳き、もみあげから前髪をかきあげて頬をそっとなぞ
った。
 満足したレイが唇を離す。シンジが再び目を開いた時、周りに僅かにわだかまっていたオレンジ色
の壁はもうすっかり消えていた。
 レイの身体に回した腕を解き、立ち上がった。シンジが手を差し伸べると、レイは頬を染めながら
その手を取った。
 ATフィールドが消えた直後から、白昼夢のようにどこかぼんやりとした意識が急速に現実へと引き
上げられてくる。今自分が置かれている状況を思い出す。慌ててあたりを見回すと、なんともいえな
い微妙な空気があたりに漂っていた。
 不意にシンジと目が合ったアスカが慌てて目をそらす。珍しく頬など染めているので、シンジは嫌
な予感がした。露になった細い手首にぷつぷつと鳥肌が立っているのを、シンジは確かに見た。
「あ、あのさ、アスカ――」
 言いかけたシンジを手の動きで制し、アスカは気まずそうに口を開いた。シンジと目を合わせよう
とはしない。
「あ、あのねシンジ。私たちもね、まああの状態になったレイを慰めるわけだから、キスとか、抱き
締めるとか、その位は覚悟してたし、そのくらい必要だと思ったわよ。声が聞こえてはこなかったか
ら、まあ仕方ないかなって。あんたが入った後、ここにいる皆はそれで一致したのね。とりあえず」
 どこか奥歯に物の挟まったような、要点を避けているかのようなアスカの口調。簡潔、明瞭、レイ
ほどではないがそんな話し方をよしとするアスカらしくない。その上シンジに喋らせまいという意思
が見え隠れしている。
「じ、実際そうだったし、イライラしたけど、それもしかたないわけ。ただね途中から――」
 そこで言葉を切る。視線を彷徨わせ、すぐ近くにいるヒカリと目が合い、お互いに慌てて逸らす。
「こ、声がね――」
 
 声?声など聞こえないはずだ。薄くなったとはいえATフィールド。レイの意思で閉じられた壁は、
そうそう空気の振動など通すものではない。事実シンジはそういった空気の動きを全くといってよい
ほど感じなかった。

 ――いや、待てよ?

 レイの、意思で・・・・・・?
 
 ――っ!?

「ま、まさか綾波・・・・・・?」

 やっと気づいた、とばかりにレイが顔を綻ばせる。
「皆にも、聞いてもらおうと思って」
 一瞬で頭の中が真っ白になった。行為は確かに恥ずかしいことだが、それは言い訳がきく。なにせ
非常事態なのだ。しかし耐え難いのはレイの耳元で囁いていた言葉が逐一クラスの人間の耳に入って
いた、ということだ。いくらなんでも恥ずかしすぎる。
「どっ、どこからっ!?」
 狼狽しきった声でレイに訊く。ほんの数十秒前までの澄ました気障ったらしい態度が砂のように簡
単に崩れ去り、今はただあたふたするだけの気の弱い中学生だ。
「ねえ、綾波。僕はずっと綾波だけのものだよ」
 答えはアスカの口から飛び出した。棒読み。教科書を読むときでさえ音楽のように抑揚に満ちた声
で話すアスカが、全く感情を乗せずに淡々と言った。機械さながらだ。ぽりぽりと鎖骨の辺りをかき
むしっている。ヒカリは視線を虚空に向けて黙り込み、トウジとケンスケは愛想笑いを顔に貼り付け
て固まっている。
「あ、綾波。なんてことを・・・・・」
 そんなの知らないとでもいう様子でレイがシンジの腕を抱き寄せる。
「碇くんは、もてるから。私のものって見せ付けなきゃ」
 言いながら幸せそうに目を閉じ、頬擦りをする。
「あ、綾波。ちょっと、やめ――」
「ダメなの?」
 ふいっ、顔を上げたレイの眸はもう潤み始めている。密着している関係で、なんとも反則な上目遣
いだ。本人が無意識というところがいかにも恐ろしい。蛍光灯が反射して紅い光がゆらゆらと揺れな
がら漂っている。ぷっくりとした下唇を軽く噛み締めていたりしている時点で、シンジに勝ち目はな
い。
「だ、ダメじゃ、ない、けど・・・・・・」
 熟れたリンゴのようになってしまったシンジと、口元に僅かな笑みを湛えながらその腕に頬を寄せ
るレイ。本人たち以外にしてみれば馬鹿らしいことこの上ない光景が、爽やかな朝の教室に広がる。
 そのままレイがシンジを引きずるように教室を出る。残されたクラスメートはただただ唖然とする
しかなかった。

「今日は泊まるってよ」
「不潔・・・・・・」
 
 我に返ったヒカリの声に、クラス全員が大きく頷いた。


 


 【同時刻、NERV本部】

「さっきレイから連絡があって、今日はシンジ君が家に泊まるそうよ」
「ああ、こっちにもあったわ、シンジ君から。今日は綾波の家に泊まりますってさ」
 おあずけになっていたコーヒーを一口すすり、リツコが苦笑いする。
「ほんと、どうしようもないわね」
「他所でやれって話よね」
 そんなやり取りに、それまで聞き役だったマヤが声を上げた。
「あの、いいんですか?二人とも。まだ十四歳ですよ」
 ミサトがうなる。どこか寂しそうだ。
「うーん、私は早い遅いは気にしないつもりだけど。お互いに分かり合えれば。その点シンちゃんが
無理やり迫るなんてことはないだろうし。それにね――」
「それに?」
「あの子達相手に、私らが何か言う資格なんてないんじゃないかしら。今までさせてきたことを考え
れば、だけど」
 ふう、とリツコがため息を吐き、手に持ったコーヒーカップを下ろす。
「そうかもしれないわね」
 リツコのそんな声に、ミサトはふっと笑みをこぼした。
「マヤちゃん。確かに平均からすれば早いかもしれない。でも、乗り越えてきたものを思えば、そこ
らの馬鹿な大人よりよっぽど、あの子達のほうが大人だと思わない?」
 マヤは反論のしようがないのか、頷いた。
「それに、何も起こらないかもしれないじゃない。大丈夫、シンちゃんはホントにダメだと思ったら
レイと関係を持つようなことはしないわ。誰よりレイを大事にしているもの。彼女を傷つけるような
ことはしないわよ」
「・・・・・・そう、そうですよね」
 ミサトは大きく頷き、これもおあずけになっていたシンジのクッキーを差し出す。
「さ、マヤちゃんも食べましょ?おいしいわよ、シンちゃんのクッキー」
 リツコが笑う。
「あなた、シンジ君にチョコあげたの?」
「あげてないわよ。でも、もらったの」
「図々しいにもほどがあるわね」
 ミサトがむっとした顔になる。
「何よ、リツコいらないの?」
「そんなこと言ってないじゃない」
 リツコが皿に並べられたそれに手を伸ばし、マヤがそれに続き、驚きの声を上げた。
「おいしいですね、これ」
「そうね、大したものだわ」
「これがもらえるなら私、来年シンジ君にチョコあげてもいいかもしれません」
 ミサトは顔の前でぱたぱたと手を振って見せた。
「だめだめ、レイが黙ってないわ。殲滅されるわよ」
 リツコが肩をすくめる。
「そうね、止めておいた方が身のためだわ」
 恨みは買いたくないものね、とミサトが言うと、リツコが笑った。マヤも、そうですねと言ってま
た一つ手を伸ばした。
 一時は世界の未来を担っていた組織とは思えないほど和やかで落ち着いたNERVの時間は、そうやっ
て静かに流れていた。











「碇くん、碇くん」
 もう何度目だろうか。何度呼んでも呆けたように視線を少し上に向け、レイにされるがままだ。そ
ういう意味ではこれはこれで悪くない。が、やはり問題がある。そもそもストーブとカーペットを選
ばなければならない。シンジの好みでなければ意味がないのだから、意識を取り戻してもらわなけれ
ば。

 ――そうだ

 ちょっとした悪戯を思いついた。面白いかもしれない。
 辺りを見回してみる。ラッシュを過ぎた平日の中途半端な時間帯は、人通りが極端に少ない。一度
だけ杖をついたおばあさんとすれ違った。その程度だ。なら――

 シンジをそこへ置いたままで、後ろへと走り出す。百メートルほど走ったところでくるりと振り返
る。遠くの方に立ち尽くすシンジの背中が見えた。この程度でよいだろう。
 大きく肺いっぱいに息を吸い込んだ。そして、


きゃあああああああぁぁぁぁぁぁぁぁ――――――――――――――!









 ――!?

 レイの叫び声に、意識が急速に現実へと引き上げられる。霧がかかったようにぼんやりとした状態
から、全身が警戒態勢を取った。
 慌てて隣を見てみても、レイはいない。急に焦りがこみ上げる。何かあったのかもしれない。呆け
た自分に呆れてどこかへ行ってしまって、暴漢にでも襲われたのかもしれない。たとえ明るくとも、
人通りが少なければ安全とはいえないのだ。サードインパクト後の混乱のせいで、第三新東京市周辺
の治安はまだまだ不安定だ。レイに何かあったら、自分はどうすればよいのだろうか。阿呆の様に突
っ立っている場合ではない。レイを――愛しい彼女を――守らなければ。
 
 声がどこから聞こえたのかよく分からない。集中力を欠いていたせいだ。しかし自分を置いて家具
屋に行ったのだとしたら・・・・・・

 ――あっちか!

 シンジはそう結論付け、走り出した。








 ――計算違い?


 計算では、シンジは慌てて辺りを見回し自分を見つけ、『びっくりさせないでよもう、綾波ったら』
という展開の筈なのだ。その後自分はシンジの腕にしがみつき、『碇くんがボーっとしてるから』と
お説教をして、一緒に家具屋に行く。そしてシンジ好みのストーブとカーペットを買い、一緒に何か
美味しい料理を作るのだ。

 しかしシンジは後ろに目を向けず、走り出してしまった。予想以上に意識が飛んでいたらしく、声
がどちらから聞こえたのか分からなかったのだろう。
 慌てて追いかけるが、普段見る走りからは想像もつかない速さで、シンジは走り去り、その背中は
どんどん小さくなっていく。もう一度叫べばよかったと思った時には、シンジの姿は見えなくなって
いた。あれも自分を守るというシンジの決意なのかと思うと微妙に頬が熱くなるのを感じたが、そん
な呑気なことを考えている場合ではない。追いかけねば。
 レイは疲れた足に鞭打ち、走り出した。








 ――いない

 どこへ行ったのだろう。家具屋の前までに隠れるようなところはないはずだし、車か何かで連れ去
られたのかもしれない。ずっと側にいると約束したのに。自分ときたら何もできていない。好きな人
一人守れないなんて。

「綾波・・・・・・」

 半ば泣き声になった喉を震わせる。膝に力が入らない。そうだ、NERVに連絡を――

「――碇くん・・・・・・」
 
 振り返ると、息を切らせたレイが立っていた。信じられないように、シンジがその姿を見つめる。

「いか――」
「綾波!!」

 ひったくるようにシンジがレイを抱き締める。咄嗟のことに、レイは動けない。腕を回すことも出
来ず、ただ立ち尽くした。
「どこにいたの?」
「・・・・・・碇くんをびっくりさせようと思って・・・・・・」
 怒られるかもしれない。それでも文句は言えない。悪戯心は事実だし、心配させてしまった。レイ
は身を固くした。


「よかった・・・・・・!」
 
 しかしそんな心配とは裏腹に、シンジはいっそうきつくレイを抱き締めた。


「怒ら、ないの?」
 おずおずとレイが顔を上げると、シンジは涙声で笑った。
「綾波が無事なら、なんでもいいよ」
「でも、私、心配させて・・・・・・」
 シンジはまた笑って、レイの頭を撫でた。
「じゃ、お仕置きしようかな」

 シンジは大きく手を振り上げた。反射的にレイは目を閉じる。
 
 ――叩かれる・・・・・・!

 しかし予想に反して、いつまでたっても頭の上に衝撃が降りてくる気配はない。レイが恐る恐る目
を開けようとしたその時、頬が温かいものに優しく挟まれ、

 ――唇に慣れた柔らかな感覚が触れた


「・・・・・・ごちそうさま」

「・・・・・・いぢわる」
 シンジは悪戯っぽく笑って見せた。
「お仕置きだもの。さ、行こう?」

 言ってレイの手を取る。少し釈然としない気もするが、同時に強く安堵した。どんなに怒られるか
と思った。今日シンジが泊まるという計画もおじゃんになりかねない。
 碇くんが優しい人でよかった、とレイは思った。こんなくだらないことで嫌われたくはない。
 少しだけ不安になった心を静めるように、そっとシンジの腕を抱き、引き寄せた。シンジはそんな
レイを見て微笑み、優しく彼女の頭を撫でてくれた。しばらくしてシンジがその手を離そうとすると、
レイは慌ててその手を自分の頭に押し付けた。
「甘えん坊なんだから、綾波は」
「・・・・・・・」
 それでもシンジは嫌な顔一つせず髪を梳いてくれた。レイはふと、こんなことでいいのだろうか、
と感じたが、それ以上にシンジが自分から離れるなど考えただけで背筋に嫌な汗が流れた。シンジが
自分に触れていないときは、締め付けられるような痛みが胸に走った。シンジと共にいるときに感じ
る心地いい――ぽかぽかと呼んでいる――痛みではなく、昔、話に聞いた纏足を思い起こさせる不愉
快な痛みだった。最近とみにそれを感じるようになった。シンジが優しければ優しいほど、それに伴
い訪れる喪失感も尋常ではなかった。たとえそれが自分をダメにしてしまうものだとしても、レイは
シンジの暖かな手を離したくなかった。シンジが側にいてくれるのなら、自分の身など不要だった。
大事になどしてくれなくてもよかった。そんな矛盾を、レイはシンジといる生活の中で常に内包しな
がら過ごしてきた。




「それで、綾波の部屋だったらどれくらいのがいいのかな?」
 店の中には冷蔵庫に洗濯機、テレビなどたくさんの家電が所狭しと並べられていた。サードインパ
クトの赤い海に浸かったお陰で家具の類は日本全国ことごとく壊れ、新しい家具は黙っていても売れ
るらしい。レイアウトに気を遣っている様子もないが、ともあれシンジたちにとってはさして重要な
ことではない。
「とりあえず暖まればいいんだけど・・・・・・」
「まあ、そうだね。ワンルームだし」
「碇くんは、どんなのがいい?」
「どんなのって・・・・・・ああ、あんなのがいいかな」
 シンジがそう言って指差したのは、そこまで目を引くものとは言い難い小さな電気ストーブだった。
表面に光沢があるので中古ではないはずだが、いかにも上にヤカンなど乗せてお湯を沸かしそうな円
筒状のもので、おばあちゃんの家にでも置いてありそうな代物だった。石油不足に対応して電気にし
ているあたりがアンティークと違うところだ。隅にちょこんと置いてある辺りが哀愁を感じさせた。
「どうして?」
 レイが首を傾げて訊くと、シンジも首を傾げた。
「いや、どうしてっていうか、先生の家に似たのがあったんだ。ずっと夏だから部屋を暖める時に使
うことはないんだけど、たまにあの上で焼き芋を焼いてもらったことがあって、懐かしいなって」
 焼き芋の話はレイにはぴんとこない。食べたことがないのだ。芋を焼いただけのものが美味しいと
も思えなかった。しかしシンジの言葉の端に、気になる単語があった。
「先生?」
 シンジは一瞬きょとんとした後、すぐに手をぽんと叩いた。
「ああ、綾波には言ってなかったね。先生っていうのは僕がこっちに来る前にお世話になってた人な
んだ。あんまり口数の多い人じゃなかったんだけど、たまにそうして焼き芋を焼いてくれたり、釣り
に連れて行ってくれたりしたんだ」
「そうなの・・・・・・」
 レイが考えたのは一瞬だった。
「じゃあ、これにする」
「いいの?」
「別に、こだわりもないから。碇くんがいいって言うなら、これでいい」
 シンジにしてみてもそれ以上言うことはなかった。特に問題はないと思ったし、自分としても思い
入れがあるデザインだからだ。
「じゃあ、これは後で買うとして、カーペットを選ぼう。綾波、好きな色とか、ある?」
 少しの沈黙の後、
「あまり、濃くない色」
「白とか、水色とか?」
「そう」
「じゃあ、そういうのを探そう。カーペットだから・・・・・・」
 近くにあったインフォメーションボードで場所を確認する。
「四階、かな。多分」
 確認が済むと、シンジはレイの手を取った。








「さあ、今度は綾波が決めなきゃね。まあ時間はあるから、ゆっくり決めよう」
「・・・・・・分かった」
 四階は先ほどのコーナーほど乱雑でなく、比較的整っている。色とりどりの壁紙やカーペットが林
立している様子は、どこか花畑を彷彿させる。そういえば壁紙もその内変えなきゃな、とシンジは思
った。しかし荷物が多くなるし、とりあえず今はカーペットだ。
 今度シンジはレイの一歩後ろを着いて歩いた。珍しくきちんと好みを出しただけに、立ち止まる時
と素通りする時がはっきり分かれている。派手なのを嫌うのは勿論、極力柄も欲しくないらしい。そ
れこそ無地やワンポイントがあしらっている程度のところで、たまに足を止め、少し思索に耽ったと
思うと、また歩を進めた。シンジはそれに辛抱強くついていった。レイの意見を尊重したかった。そ
れにレイがここまで積極的に物を選ぶのも珍しい。ストーブとはえらい違いだ。

 そうして十五分も歩いた時だろうか、レイの足がまた止まった。真正面を見ていたシンジは、何が
目に留まったのか見えていなかったので、そちらに向き直る。そして、二人はほぼ同時に声を漏らし
た。
「あ・・・・・・」

 今までのレイの様子とは一線を画すのが分かった。シンジにとってもそれは同じだった。隅、では
ないにしろ少し大きなコーナーとは外れたそこに半ば無造作に立てかけられたそれは、なんともいえ
ない不思議な雰囲気を醸していた。その周りだけ照明の当たり具合が違う気すらする。
 例に漏れず、そのカーペットも派手ではなかった。四隅に小さく白い三日月がデザインされている。
それ以外に柄はない。
 しかし、その月の下地になっている色はなんともいえない色だった。言い切ってしまえば、水色、
といえるのだろう。事実、隅に付けられたタグには水色、とされていた。子供に訊けば百人中九十九
人が水色と答えるだろう。
 なら何が、そんなに二人の琴線に触れたのか、それはその色がレイの髪にそっくりだったからであ
る。ただの水色でなく、どこか銀糸を織り交ぜたかのような、神秘的なものを感じさせる色。それは
二人の目を惹きつけて止まなかった。

「・・・・・・碇くん、これがいい」
 レイの声に、シンジも顔を綻ばせた。
「そう言うと思った。僕も好きだよ、これ」
 それ以上言葉を交わすこともなかった。しかしそれで十分だった。



 レジで勘定を済ませると、シンジは台車を一台借りた。その上にストーブを乗せ、角柱の形をした
段ボールに入れられたカーペットは肩に担いだ。
「台車が借りれるなら、綾波一人でも来れたかもね」
 暫くぶりにシンジが口を開いた。台車を押すのはレイに任せ、自分は肩の荷物に集中した。
「でも、私だけじゃ決められなかった」
 簡潔なその答えの裏には、次も一緒に来て、というレイなりのメッセージが含まれていた。それを
敏感に察知したシンジは何も言わず、小さく頷いた。
「次は壁紙だね。コンクリートむき出しはちょっとね」
「・・・・・・うん」




 アパートに帰ると早速カーペットをひき、ストーブを点けた。床の色に馴染まないかも、という心
配を一瞬したが、ひいてみるとそれが杞憂に過ぎないことが分かった。その上にレイが立っているそ
の光景は、月の上に天使が佇んでいるようなどこか神秘的なものを感じさせた。やっぱりこれにして
よかったね、というシンジに、レイも頷いた。そのカーペットは、まるで昔からそこにあったかのよ
うに、レイの部屋に自然に溶け込んだ。正確には『レイがいる部屋』に溶け込んだ、というべきかも
しれない。後は白く清潔感のある壁紙でも貼れば、小洒落た部屋になるだろう。
 サツマイモはないけど、と言ってシンジがストーブの上に小さな鍋を置いて中に入れたのはジャガ
イモだった。


「あったかいでしょ?」
 その上に手をかざしながらシンジが訊くと、レイはこくりと頷いた。
「でも、ぽかぽかしない」
 シンジは少し訝しげな顔をする。
「どうして?」
「・・・・・・碇くんにぎゅってしてもらえないから」
 ストレートな物言いに、シンジは苦笑いとも照れ笑いともつかない曖昧な笑い声を上げた。
「いつでもしてあげるよ。ご飯にしよう」
「今から?お米――」
「これだよ」
 シンジが鍋の蓋を開けると、芳しい蒸気が立ち昇った。
「わあ・・・・・・」
 レイが感嘆の声を上げるのを聞くと、シンジはバターとバターナイフを手渡した。
「火傷しないようにね」
「分かってる」
 そのあやすような口調に、子ども扱いしないで、と言おうとしたレイだったが、先ほどまで自身の
してきたこと思うと何も言えず、ただバターを塗って一口齧った。そしてその目が驚きに見開かれる。
「おいしい・・・・・・!」
 シンジはその声を聞いて満足したように微笑み、自分も一口齧った。
「でしょ?ただストーブの上に置いておいただけなのに、変に凝った料理よりよっぽど美味しいんだ。
お芋のすごいところだよね。それに――」
「何?」
「・・・・・・きっと、大事な人と一緒に食べるから、美味しいんだよね」
 シンジは言った。
「――そう、そうだと思う。・・・・・・碇くんと一緒だから」
「ぽかぽか、した?」
「うん、した」
「よかった」







 それから二人は並んでベッドに腰掛けて過ごした。元々口数の多い二人ではない。会話が途切れる
こともしばしばだ。それでも二人はそういった沈黙を居心地悪いものと感じることはなかった。たが
いの息づかいを間近で感じ、時折思い出したように唇を重ね、互いの頭を抱く。それだけで、二人に
は十分だった。
 レイはシンジと唇を重ねるその瞬間が好きだった。シンジと一つになっているかのような陶酔感は、
自分の心の奥にいつもわだかまっているくすんだ不安を一瞬でも洗い流してくれた。







 辺りはすっかり暗くなった。不意にシンジが立ち上がり、
「シャワー、浴びてくるね」
 実は十数分前から葛藤があった部分だった。先に入るか、後に入るか。レイの匂いの残るバスルー
ムにいる気にはなれなかった。自分という人間をシンジはよく心得ていた。夜は長い。それに、前科
も無くはない。自制心に少しでも綻びを作るような行為は控えていた方がレイの――自分の――ため
だった。






 レイはその僅かな時間をただ俯いて過ごした。再びやってきた鋭い痛みに、レイは左胸あたりの制
服をぎゅっと掴んだ。眠ってしまえば楽なのかもしれないとも思ったが、眠っている間にシンジは帰
ってしまうかもしれないと思うと出来なかった。そんなことあるわけがない、いくらそう自分に言い
聞かせてみても、安心は訪れなかった。電気は点けているのに、何故だか暗く感じてたまらなかった。


「出たよ、綾波」
 くしゃくしゃとバスタオルで頭を拭いながら、シンジが出てくる。その声を聞くとすぐにレイはシ
ンジに駆け寄り、シンジが何か言う前に夢中で唇を重ねた。

「あ、綾波。どうしたの?」
レイは答えない。男性にしては華奢ともいえる体に手を回す。
「――綾波?」
「碇くん・・・・・・」
「お、お風呂、入らないの?」
 レイは顔を上げ、シンジの目を見た。その目は心なしか潤んでいるようにも見える。
「碇くん。一緒に、入って」
 そんな震えるレイの声に、シンジはうろたえる。しかし同時に、その頼みが決して冗談ではないこ
とを察知した。
「ねえ、綾波。何かあったの?」
 優しくシンジが尋ねても、レイは動かなかった。
「どこにも、行かない?」
「うん、行かないよ」
 言いつつシンジが背中をさすると、レイは少しだけ雰囲気を和らげた。
「だから、シャワー浴びておいで」
 一瞬視線が交錯した後、レイはバスルームに向かった。「そこにいてね、絶対」と告げて。





 


 シンジが何か考える間もなく、レイはすぐに出てきた。寝巻き代わりのワイシャツを着て、髪を乾
かすのもそこそこに。シンジの姿を認めると、安心したようにほうっ、と息をついた。
 ベッドに腰掛けたシンジの足の間に当然のようにレイがちょこんと座る。立ち昇るシャンプーの香
りに混じる甘い匂いにシンジは倒れそうになった。
 レイが肩にかけたタオルを使ってレイの髪を拭いてやる。何かしないと気が変になりそうだった。
レイはうっとりしたようにその時間をシンジに任せ、胸に耳を押し付け規則正しい心臓の音を楽しん
だ。
「綾波、どうしたの?」
 髪を拭く手は止めぬまま、シンジは訊く。
「・・・・・・怖いの」
「怖い?」
「碇くんが、いなくなるのが」
「でも、買い物してる時はそんなことなかったじゃない。その・・・・・悪戯してみる余裕もあったし。
急にどうして?」
 レイは黙ってしまった。シンジは辛抱強く、レイの答えを待った。嫌な沈黙が二人を包み込む。時
折窓の外で甲高い鳥の鳴き声がした。
「分からない。でも、夜が怖い。闇が怖い。碇くんが消えてしまいそうな気がして」
 恐らく、本当に分からないのだろう。レイの声には、ただ額面通りの答え以上のものが含まれてい
た。
「僕は、綾波がどうしてそう思うのかは分からないけど、ただ――」
 手にしたタオルを無造作にベッドの上に置き、片手で優しくレイの頬を撫でた。
「僕は、綾波の側にいる。これからもずっと。そりゃ、四六時中一緒にはいられないかもしれないけ
ど、僕が出来る限り、一緒にいてあげたいし、僕も一緒にいたいよ。綾波と」
「分かってる、けど・・・・・・」
 どこか納得していないのは、シンジにも分かった。けれど、それ以上言えることなどなかった。レ
イの中で解決すべき問題なのだ。シンジではない。だが――
「綾波がどうしても寂しい時は、電話してくれれば飛んでいくから。いつでも言って」
 シンジはそう言うと、レイの滑らかな首筋にキスをした。
「・・・・・・うん」

「そうだ、紅茶が飲みたいな。作ってよ、綾波」
 レイがそちらを見る。優しい顔で微笑むシンジがそこにいた。レイはゆっくりと頷き、立ち上がっ
た。
 


 ――どうしちゃったんだろう・・・・・・?

 レイが紅茶を淹れる間、シンジは考えた。異常、といえば言いすぎかもしれないが、昼間とは明ら
かに態度が違う。キッチンから聞こえる僅かな物音も、どこか落ち着きがない。自分はどこへも行か
ない、そう言い聞かせても安心してくれない。
 自分を信じていない訳ではない、それは分かる。レイは自分を信じてくれているし、それはシンジ
にしてみても同じことだ。なのに、なぜ――?

 シンジの思考はそこで一旦途切れた。レイが紅茶を持ってきたからである。レイの手から湯気を立
てるそれを受け取り、一口飲む。

「美味しいよ、綾波」
 レイははにかんだような笑みを浮かべ、シンジの隣に座った。さすがに足の間には入らない。
「今日は、何の日?」
 そういえば訊いてないな、と思ったので訊いてみる。今日は割に暖かいし、そういうことになるの
だろうか。
「・・・・・・記念日」
「何の?」
「碇くんがお泊まりしてくれるから」
 ああ、そういうことになるのか。じゃあ新しい紅茶なのだろう。あるいはブレンドか。その違いは
例によってシンジには分からなかったが、レイのこだわりに対してとやかく言うつもりはない。それ
に味わいが違う紅茶がその都度出てくるというのは悪くないことだ。
 レイが黙ったので――勿論悪い沈黙ではない――シンジは先ほどのことを頭の隅でぼんやりと考え
た。レイの言う“恐怖”は、自分にも理解できないものではない。夜、というより闇に対する潜在的
な恐れのようなものは、シンジの中にも無くはなかった。それはあるいはレイのそれとは違うのかも
しれないが、少なくとも夜、寂しくてたまらなくなる、という経験はシンジが幼少の頃からしばしば
あった。“先生”は自分に子供部屋を宛がってくれた。シンジが小学校に入った直後だ。“勉強がし
やすいように”というはからいは幼いシンジであっても理解できたし、“先生”のその行為も善意か
らのものだったろう。しかしその時のシンジにとって、それはマイナスにしかなり得なかった。ゲン
ドウに“捨てられた”ばかりのシンジにとって、寝る時に人が隣にいないというのはあまりにも重過
ぎた。寂しさに耐え切れなくなり部屋を出ても、“先生”はとうの昔に眠ってしまっていた。そうい
う時、シンジはS−DATをつけ、何も考えないようにした。しかし心の中には常に鋭い痛みがあり、一
晩中眠れないことも決して珍しくなかった。
 
 “先生”が身近にいたシンジでさえそうなのだ。まして産まれた時から他人に触れることがなかっ
たレイなら尚更なのかもしれない。
 それなら――
 レイにそんな思いをさせたくない、それはシンジの偽りなき本心だった。レイが心を痛めていれば
シンジの心も少なからず痛んだし、何よりレイには笑っていて欲しかった。今まで辛い出来事で塗り
固められた人生だったのだ。この世の誰よりも幸せになる権利が、レイにはある。

 今レイが心を痛めている原因が自分にあるというのなら、それは改善しなければならない。

 シンジは今日ここに来た時から、寝る時はレイのクローゼットにある布団を使うつもりでいた。ア
スカが以前一度だけ泊まりに来た時持参したもので、それ以来ずっとそこにある。アスカが寝た布団、
というのも微妙に悩ましい気がしたが、背に腹は代えられなかった。
 多分、レイもそのつもりの筈だ。ここに来る途中、『アスカの布団があるから』と言ったのはレイ
だからだ。
 しかし、レイの眸が恐怖に揺れているのを見ると、シンジの決心も揺らぎつつあった。レイの不安
を取り除きたいと思った。そのために、今、自分が出来ることは――?




「ねえ、綾波?」
「何?」
「今日は・・・・・布団、出さなくていいよ」
 レイの目が驚きに大きく揺れた。
「いいの?」
「いいよ。その、綾波に寂しい思いは、させないから・・・・・・」
 レイの顔に笑顔が弾けた。目には涙を浮かべている。
「碇くん、嬉しい・・・・・・」
 レイがシンジの肩に手を回し、あまり広くない胸にことんと顔を埋める。ぐすっ、と鼻をすすった。
シンジは微笑んで、レイの背中を撫でた。

「だから、もう寝よう?」
「――うん!」
 

 シンジもレイもシャワーを浴びていたので、すぐにベッドに入った。シンジが先に入り、レイがシ
ンジの腕の中に収まり、シンジの喉仏のあたりに鼻先をこすりつけ喉を鳴らし、シンジのTシャツに顔
を埋め、涙を拭った。想像を超えた密着度に、シンジはたじろいだ。
「ぽかぽかする・・・・・・」
 それでもレイの言葉に、シンジは救われた思いだった。よかった、とだけ微笑んで眠る努力をした。


 ――無駄な、努力だった。


 当然だ。好きな女の子を腕に抱いてすやすや寝ていられるほど、シンジは大人ではない。伝わる温
もりと感触に、どうしようもなく体が熱くなるのを感じる。嵐のように自己嫌悪が巻き上がる。それ
でもレイの体に回した腕を解くことは出来なかった。シンジは固く目を閉じた。

 

 そうして三十分も経った時だろうか、不意にレイが声を漏らした。
「碇くん・・・・・・」
「な、何?」
「熱く、なってる」
「ご、ごめん綾波。でも、ちゃんと――」
「我慢しなくても、いい」
「――え?」
 レイの声に、シンジは大きくぐらついた。それでもなけなしの理性で、保つ。
「あのね、綾波。僕は――」
「お願い・・・・・・」
 急にレイの声が泣き声を含む。シンジは焦った。
「あ、綾波?」
「私は、碇くんからもらうだけの存在になりたくない。私も、碇くんに・・・・・・」
「綾波・・・・・・」
「それに、私も、碇くんと、一つになりたい――」
 
 胸に埋めた顔を上げ、レイはシンジと向き合った。レイの紅い眸はゆらゆらと揺れていた。シンジ
はレイの頬をゆるく挟み、ゆっくりと口付ける。ん・・・・・・とレイが小さく甘い声を漏らした。いつも
の口付け。しかし、シンジはレイの顎に親指を当て、ゆっくりと舌を滑り込ませた。
 レイは一瞬ぴくりと震えた。しかし、戸惑いながらもシンジの舌を受け入れ、絡ませた。

「いいん、だね?」
 
 ――レイは、しっかりと頷いた。


 そして――








 
















 明け方の頃、生まれたままの姿で、レイとシンジは同じ布団の中にいた。レイが身をよじると、シ
ンジも目を覚ました。シンジは愛しげに目を細め、寝起きのレイのはねた頭を抱いてそっと口付けた。
「おはよう」
「・・・・・・おはよう」
 レイは酷く眠いのか少し機嫌が悪いらしい。シンジはくすりと笑った。
「綾波、綺麗だったよ」
「・・・・・・・何を言うのよ」
 顔が赤いのを誤魔化すようにレイがもぞもぞとシンジの胸に顔を埋めると、シンジは少し乱暴にレ
イの頭を撫でた。
「顔を見せて、綾波」
 いかにも渋々といった様子で、レイが顔を上げる。シンジがそっとレイの柔らかな前髪をかきあげ
て、愛らしく丸みを帯びた額に口付けた。
「ずっと一緒だよ、綾波」
 レイは眸を輝かせ、こくりと頷いた。そして一瞬はっとした表情になり、
「――もう、怖くない」
「・・・・・・よかった」
 そしてレイの眸の端に僅かに浮かんだ涙をそっと吸い、
「愛してるよ、綾波。世界で一番、君を――」
「私も、愛してる。碇くんを、世界で、一番――」

 二人は、固く抱き締めあった。

 



 ――碇くんといると、ぽかぽかする・・・・・・
 ――綾波といると、ぽかぽかする・・・・・・





――FIN――




 〜あとがき〜
 JUNです。えー、やってしまいました。反省はしません。しませんとも。
 破のネタバレてんこもり、バカップル、文章は稚拙、どうしようもない三拍子ですが、怒らないで
ね。
 この手の作品は色々と批判がつきものです。依存だ、成長が無い、ややもするとそんな評価を下さ
れがちです。しかし僕個人の意見を言わせてもらえば、二人はこの作品を通して確かに成長していま
す。シンジも、レイも。
 幸せな二人を描くのが、もっと言えば幸せなエヴァの世界を描くのが僕のモットーで、エヴァの二
次創作に託したい思いです。ぶっちゃけ、どんなにベタでも二人が幸せなら僕は何でも書きます、書
けます。それでも甘さに疲れた感もあるので、次は少しシリアスな・・・・・・と、思ってはみますが、な
んか無理な気がします。もう戻れないのか(汗)

 それでは、JUNでした。


ぜひあなたの感想を

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