彼に包まれて

Written by JUN  



 レイは薄暗い部屋の中、考えていた。

 ――碇くん……

 最近、シンジの顔が頭の中から離れない。彼の笑顔を思い浮かべると、胸の内がきゅっと締め付け
られるような痛みが走った。しかし、それを不愉快だとは思わなかった。その感覚の意味は、知って
いたから。
 その感情を手に入れたことは、素直に嬉しいと思った。“普通の”女の子に近づけた気がした。し
かし、その感情を手に入れることは同時に、常に恐怖と隣り合わせになることを意味した。彼に嫌わ
れはしないか、彼を失いはしないか。それが、怖くてたまらない。それもまた、知らなかった感情。
 
 そしてそれ以上に始末の悪い感情が、日に日にレイの中で成長してくる。彼は同性からも、そして
異性からも人気がある。それは本来喜ぶべきことの筈なのに、全く嬉しくなかった。日常のちょっと
した拍子に、彼が自分以外の女の子に笑いかける。彼の肩に、知らない女の子が触れる。その度に、
どうにも押さえ難い醜い感情が自分の中で燃え上がる。彼の元へ駆けていって、その手を払いのけた
い。自分だけを見てと叫びたい。その思いに押し潰されてしまいそうだった。

 こんな嫌な女の子だと知ったら、彼はきっと自分を嫌いになる。もう、笑いかけてくれなくなる。
あの大好きな笑顔が、自分以外のものになる。それだけは耐えられなかった。

「碇くん……」
 
 愛しい彼の名を呼ぶ。彼の笑顔を思い浮かべると無意識のうちに、口から篭った息が漏れた。冷た
く、誰もいないベッドに、顔を埋める。
 
 彼が手に入るなら、なんだってするのに。彼が私のものになるなら、なんだって――

 そんな不毛なことを考える自分に気づいて、ため息を吐く。彼が振り向いてくれる筈が無い。彼は
優しいから、自分にもよくしてくれる。けれど、それは自分だけに限ったことではない。彼にとって
自分は、大勢居る友人の一人でしかない。
 
 それでも、少しでも、彼に近づきたい。一瞬だけでもいいから、彼の一番近くに居たい。彼のもの
で居たい。それがレイの唯一絶対的な願いだった。彼の望むこと全てを叶えたかった。それによって
たとえ自分が壊されても、彼に壊されるなら、本望だとすら思った。少なくとも壊されてしまえば、
彼だけのもので居られるから。彼の居ない人生に、価値を見出そうとは思わなかった。

「碇くん……」

 いくら名を呼んでみても、彼が手に入るわけではない。涙が一粒、レイの目尻に浮かび、すぐに枕
にしみこんだ。



















 ――何でこんなことに……

 シンジはただひたすらに考えていた。ついでに今後の日本の景気について考えていた。ついでに明
日の昼の買い出しについて考えていた。何のことはない、現実逃避である。シンジくんのお約束であ
る。
 
 シンジは今、頭を洗っている。そして同時進行で、その背中もスポンジによってこすられている。
不可解な話である。シンジの腕が四本、ないし三本はなければ無理である。片方の手で頭を、もう片
方の手で背中を洗っているという可能性も否定できないが、そんな器用で面倒なことをする意味はな
い。しかしながら事実としてそれは行われているのである。実に不可解である。
 種明かしをすると、今シンジは二人で風呂場に居るのである。そしてそこで当然懸案になるのは、
誰が相手かというところである。
 トウジ、ケンスケではないのである。その二人が相手ならばシンジは動揺などしないのである。無
論、それはそれで異様な光景ではあるが。
 ついでに書くとカヲルでもない。カヲルであればそれは異様な光景ではなく、むしろ腐女子の皆様
が狂喜乱舞するお望みどおりの展開ということになろうが、この物語にカヲルは登場しないのである。
もっと言えば作者はそちらの話を書く人間ではなく、また当然その気もないのである。
 ここまで来ればもうお分かりと思う。その相手は――

「碇くん、気持ちいい?」
「う、うん……」
「よかった……」

 ――綾波、レイである。






 ことの始まりは昨夜のことだ。葛城邸の給湯器が壊れ湯が出なくなってしまったので、仕方なく最
寄りの銭湯に向かうことにしたシンジ達は、ついでにレイを誘った。
 レイは異様なまでに乗り気でやってきた。怖いぐらいに機嫌がよいのでアスカが、何のことか分か
るわよね、と訊くと、皆で大きなお風呂に入るところ、と答えた。
 間違ってはいない、ということで、アスカもレイを引きつれ、レトロな造りの引き戸を開いた。
「それじゃ綾波、アスカ。後でね」
「後でね、シンジ」
「え……?」
 レイがなんだか切ない声を上げる。アスカが振り向いた。
「どうしたの、レイ?」
「――よくは?」
「は?」
「……こん、よく、は?」
「はあ!?」

 それからは大変だった。銭湯に混浴はない。そして仮にあったとしても、レイが入ることは出来な
い。そういうことをしていいのは夫婦だけで、自分達には該当しない。何かを訴えかけるように悲し
げな視線で見つめるレイに、シンジは真っ赤になった。
 とうとうと説得するアスカが、シンジには神様に思えた。自分しかいなかったら折れてしまってい
たかもしれない。それほどまでにその表情は反則技であった。無論、ミサトは戦力外である。
 レイが渋々ながらも納得するのに、実に三十分もの時間を要した。タオルを巻けば、水着なら、果
てはシンジを女装させればなどと本気の口調で言い続けるレイに、流石のミサトも苦笑するしかなか
った。
 
 ちびちびとフルーツ牛乳を飲むレイは終始ご機嫌斜めで、恨みがましくアスカを睨んでいた。アス
カはぶつぶつと、「わ、私のせいじゃないわよ……」などと呟いていたが、下手に庇って飛び火も笑
えないので、シンジは何も言わなかった。傍観者である。薄情と言うなかれ。シンジとていつも他人
の世話を焼いているわけにはいかないのである。





 そして現在に至る。突如葛城家にやって来たレイは何も言わず居座り続け、シンジが風呂に入ると
すぐに、この状況に至った。
 まず誤解なきようにしておきたいのは、レイは何も生まれたままの姿でシンジと風呂場に居るわけ
ではない。一応水着を着用している。しかし思春期真っ盛りのシンジにとって、相手の格好云々以前
に、異性と一緒に風呂場に居ることそのものが問題なのだ。しかもレイが着用しているのはスクール
水着である。
 
「も、もういいよ綾波。十分だよ」
「そう……じゃあ、交代」
「い、いや、綾波、水着じゃないか。だから、無理だよ」
「…………」
 レイがじいっとシンジを見つめる。だが、シンジとて馬鹿ではないのである。洗うだけで済む確証
が無い以上、ここはなんとしても折れる訳にはいかない。
「……そう、分かった」
 ちゃぷん、と音を立て、レイが湯船に浸かる。そして水面からにょきっと腕を出し、手招きをした。
 
 シンジは自分の運命を呪った。なら代わってくれという話だが、それはレイが許さないだろう。

 ちゃぷん、と音を立て、シンジもまた、湯船に浸かった。問題は体勢であるが、シンジはレイに背
を向けるようにして座っている。狭いバスタブであるが故に、レイの太腿その他諸々がシンジに当た
るが、それは妥協するほかあるまい。レイと正面から向き合うなど、とてもではないが出来ない。シ
ンジは水着を着用していない。腰に巻いたタオルのみだ。
「碇くん?」
「な、何?」
「こっち向いて、くれないの?」
 肩越しに聞こえるレイの声は心なしか寂しそうだ。シンジも思わずぐらついてしまう。
「いや、でも、だって……」
「やっぱり、迷惑だった?」
 レイの声が不安を孕み、揺れた。
「いや、そうじゃないんだけど、ちょっと、びっくりしちゃって……」
「……ごめんなさい。私、碇くんと一緒にお風呂に入りたかった」
 率直なレイの言葉に、シンジは顔を赤くした。
「や、いいんだけど……」
 レイの言葉が切れると、シンジの言葉も切れた。ゆらゆらと水面が揺れる。慣れというのは不思議
なもので、先程まであれほどうろたえていたシンジの心が静まってゆく。
「あのさ、綾波」
「……何?」
「ごめんなさいって、言ったよね」
「……ええ」
「それは、ちょっとだけ、違うかもしれない」
「――え?」
 ちゃぷ、と湯が揺れた。
「僕は、確かにびっくりしたけど、でも、嬉しかったよ。その………………自惚れじゃないなら、そ
れは、僕を信頼してくれてる……ってこと、だよね?」
「…………」
 沈黙。しかしそれは限りなく肯定に近い沈黙だった。シンジは小さく息を吸い、続けた。
「嬉しかったんだ、僕。綾波が僕を信頼してくれていたことが。でもね、綾波」
「……何?」
「あんまり、こういうことはしない方がいいと思う。そりゃ僕だって、綾波をどうこうしようとは思
わないけど、その……もしもってことがあるんだからさ。僕は、綾波に傷つけたくない」
「傷つく……?」
 シンジとて、人畜無害を貫く修行僧ではない。気の迷いも存在するし、人並みの欲望は身に着けて
いる。シンジは、それが不安だった。
「私は、構わない」
「――え?」
 レイの確かな意志を含んだ声に、シンジは思わず振り向いた。真紅の双眸がじっと、シンジを見据
えていた。
「綾波……?」
「だって、私が碇くんにしてあげられることなんて、ないもの。私で、碇くんが喜んでくれるなら、
私は、それでも――」
「綾波」
 シンジの声が、レイの声を遮った。
「そんなこと言わないで。綾波は沢山のものを、僕にくれたよ。憶えてる?僕のために、料理の練習
してくれたよね」
「結局、出来なかった」
「そんなことは問題じゃない。今まで僕に料理を作ってくれた人なんていなかったんだ。綾波が、最
初だよ」
「私が、最初……?」
「そうだよ」
 シンジは微笑んだ。レイの大好きな顔だった。
「綾波が初めて、見返りなしに僕に何かしてくれた人なんだ」
 その言葉に、レイも嬉しそうに微笑んだ。その魅力的な笑顔に、シンジは一瞬釘付けになる。
「ありがとう……」
「そ、それじゃとりあえず、出よう?のぼせちゃうよ」
「ええ」
 シンジは先に出て、レイに言った。
「ごめん、少しだけ後ろ向いててくれるかな。着替えるから」
 レイがくるりと背を向ける。背後にレイが居る。その事実だけでシンジの脳が一瞬紅く焼ける。
 素早く腰に巻いたタオルを取り、濡れた体を手早く拭いて手近なTシャツに着替えた。
「そ、それじゃあ僕、ご飯用意しとくから」
「ありがとう」

 シンジが居なくなった脱衣室の中、レイは満ち足りた気分になるのを感じた。シンジが自分に価値
を見出してくれた。そんな些細なことが、嬉しくてたまらなかった。
 
 このままの関係でいい。

 レイはそう思った。彼がいる生活。それだけで十分。

 持ってきたTシャツに着替えて脱衣所を出ると、シンジがドリアの入った皿を並べていた。今日はミ
サトもアスカも居ない。二人きりである。もっとも二人が居れば、風呂に入ることなど認めなかった
だろうが。

「美味しい?綾波」
 レイはこく、と頷いた。
「美味しい」
「よかった」
 けど、とレイが言う。
「私も、作れるようになりたい。今度こそ」
 シンジは小さく声を立てて笑った。
「そうだね、教えてあげるよ。もう指を絆創膏だらけにしないようにね」
 レイは紅くなって、俯いた。
「包丁の使い方が分からなかったんだもの」
 もごもごと言うレイに、シンジは優しい口調で続ける。
「誰だってそうだよ。最初はね。でも、やってるうちに上手になる。綾波も、きっとそうだよ」
「本当?」
「うん」
 なら、頑張ろう、とレイは思った。きっと味噌汁位作れるようになるはず。彼が教えてくれるのな
ら尚更だ。

「ごちそうさま」
「…………さま」
「食器は流しに置いといて。また適当に洗っとくから」
「分かった」

 そう言って流しに食べ終わった食器を置くと、早くも手持ち無沙汰となってしまった。アスカ辺り
がいれば話題にも事欠かないのかもしれないが、シンジとレイである。喋ることもそうない。
 無論、レイはシンジとの沈黙を居心地悪いものとは感じなかったし、シンジもそれは同じだった。
しかし退屈なのは如何ともし難い。
 シンジが紅茶を手渡すと、レイは薄く微笑んで受け取り、一口飲む。
「おいしい」
「よかった」
 
 薄いクッションの上で正座しているレイがもう一口飲むのを見届けた後、シンジもその隣に腰を下
ろした。

「ねえ、綾波」
「何?」
「今日は、泊まってくの?」
「そう」
「そっか……」
「駄目?」
「いや、そうじゃないよ」

 シンジはもう一口紅茶を飲み、言った。

「じゃあ、アスカの部屋使ってよ。今日は委員長のところに泊まるらしいから。場所分かる?」
「……碇くんの部屋は?」
「え、いや、僕の部屋、狭いし……布団敷く場所無いんだ」
「碇くんの布団でいい」
「や、それはちょっと困るっていうか……」
「どうして?」
 シンジは小さく息を吐いた。
「あのね綾波。さっきも言ったけど、もしもってことがあるんだ。綾波と一緒に寝て、僕が何かしで
かすことがあったら駄目だと思うし。さっき綾波は構わない、って言ったけど、やっぱり駄目だと思
うんだ。その……ね?」
「でも、私は……」

 レイの桜色の唇が、細かく震えていた。どこかおかしいレイの様子に、シンジは訝しげな表情をす
る。
「綾波、どうしたの?変だよ、さっきから」
 レイの細い肩がぴくりと震えた。ゆっくりと視線が上を向き、不安げにシンジを見た。
「何か悩みがあるんなら、言ってみて」
 僕じゃ頼りないかもしれないけど、とシンジは笑いながら付け加えた。


 その少し困ったような笑顔に、レイは心の中にあった何かが弾けるのを感じた。


「――私、駄目なの」
「何が?」
「私、このままじゃ碇くんを傷つける」
「――え?」
 


「私は――――迷惑かもしれないけど、碇くんが………………好き」

 
 水面のように静かな声だった。しかしレイにとってはこれから先の人生を分ける大切な告白だった。
恐怖で胸が痛くなる。重い沈黙が二人を包んだ。思わず俯く。シンジはどんな顔をしているだろう。
迷惑かもしれない、怒っているかもしれない。自分みたいな人間が好きだなどと思い上がったことを
言ったのだから。しかしレイは、俯いたまま続けた。

「碇くんのことが、好きで好きで、たまらない。出来るなら、許されるなら、碇くんの側に、ずっと
いたい。けど、私が碇くんのことを好きになってしまったら、碇くんに、迷惑をかける。でも、せめ
て、せめて今だけでも、碇くんの一番側にいたい。だから、碇くんと眠りたい。碇くんの腕の中にい
たい。それさえ、それさえ叶うなら、私、碇くんに何されたって、構わない。壊されたって、構わな
い。傷つきなんて、しない。碇くんだから――」

 無意識のうちに、嗚咽が漏れた。喉の奥がひくひくと震え、涙が溢れてくる。今まで築き上げてき
たシンジとの絆が今、この瞬間にも壊れてしまうかもしれないのだ。

「うっ……ううっ…………」

 けれど、仕方ないのだ。好きになってしまった。止められないのだ。自分の中にある激情に、今や
すっかり支配されてしまった。目の前にいるこの人の全てが、愛しくてどうしようもないのだから。


「綾波……」

 ゆっくりと、レイは顔を上げた。何ともいえない目で、自分を見つめているシンジがいた。嫌悪と
も取れ、恐怖とも取れ、哀れみとも取れた。シンジが手に持ったカップをテーブルに置く。恐怖で、
体が震えた。

「どうして、言ってくれなかったの……?」
「――え?」

 シンジの眸から大粒の涙が一粒、こぼれ落ちた。その意をつかめないレイは焦った。

「いか――」

 不意に、不意に強く強く、シンジがレイを抱き締めた。思いがけないことに、テーブルに置く暇す
らなく、レイの手からカップが落ちる。カーペットをひいた床に残っていた紅茶がこぼれ、薄茶色の
染みを形作る。落ちたカップが大きな音を立てた。その音にレイの体がびくりと強張る。

「綾波、僕も、綾波が…………好きだ」
 レイの身体の中を電流が流れた。信じられない思いに、意識が遠くなる。強く自分を抱き締めるシ
ンジの腕がなければ、気を失ってしまっていたかもしれない。
「ほ…………本当に?」
 レイの耳元で、シンジは頷いた。
「ごめんね、僕が馬鹿だったから、綾波に辛い思いばっかりさせて。僕は、綾波を壊したりしない。
だから、二度とそんなこと言っちゃだめだ。僕は、綾波を大事にしたい」
「ごめんなさい、ごめんなさい、碇くん。でも、だって…………」

 こんなに追い詰められるまで、とシンジは思った。同時に、自分の馬鹿さ加減を呪った。レイの気
持ちに気づけなかった自分を責めた。十四歳の女の子が、何されても、壊されてもいいと、異性に泣
きながら告げるのだ。その言葉の成す意味が分からないほど、シンジは愚かではなかった。

「綾波、ずっと側にいるから。綾波のものになるから。絶対自分はどうでもいいなんて、考えないで。
綾波はいつもそうやって、綾波自身を傷つけてきたんだから。だからもう、我がまま言っていいんだ。
僕は、なんだってするから」

 シンジの腕の中で、レイはふるふると首を振った。

「でも、私と一緒にいると、碇くんに迷惑をかける。だって私、すごく、嫉妬深い。碇くんを見る、
碇くんに触る女の子が、許せないの。碇くんが、私以外を見るのが、耐えられないの…………だから、
だから、駄目なの………………」

 シンジはレイの腕にまわした腕を解き、レイの頬を撫でた。涙に濡れた頬は、吸い付くように柔ら
かだった。
「だったら……」
 そっと目隠しをするように、シンジは手のひらでレイの目を閉じた。レイはその動きにされるがま
まで、目を閉じた。
 レイが目を閉じるのを見届けたシンジは、その頭を抱き寄せた。倒れこむようにレイがシンジに寄
りかかる。そしてゆっくりと、レイに口付けた。
 最初は触れるだけだったキスが、次第に深くなっていく。強く頭を抱き寄せる。息苦しくなるほど
に深く、レイを抱き締めた。
 レイもシンジの背中に手を回して、Tシャツをきゅっと握った。彼のものになっている――それを、
強く感じた。

「だったら、僕に触れるのは、綾波だけだ。約束する。二度と、綾波以外にキスしないよ」
「でも、でも私なんて、可愛くもないし、明るくもない。お料理だって、出来ない…………」
「綾波より可愛い人なんて、いるもんか」
 強引に抱き寄せられ、もう一度キスされる。応える前に、舌が入り込んでくる。口の中で激しく暴
れるシンジの暖かい舌が、たまらなく心地よかった。彼の舌が自分のそれを探り当て、強く吸う。一
つになっているかのような陶酔感に、レイの呼吸が荒くなる。
 
 このまま死んでもいい、とレイは思った。夢かと疑うほどに、幸せだった。脳が溶けてしまいそう
だった。彼のことしか考えられなくなってしまいそうで、そのことに少しだけ恐怖を感じた。
 
 いつの間にか押し倒されていた。落としたカップが、頭のすぐ隣にあった。背中の固い床の感触を、
カーペットが和らげていた。目の前にシンジの顔が迫ってくる。レイは目を閉じた。
「綾波、誰にも、君を壊させたりしない。もし僕がいることが、綾波にとって幸せなんだったら、僕
は永遠に、綾波と一緒にいる。綾波は僕の、一番大切なひとだから…………!」
 またキスされる。人生で三度目のキス。その全てが、彼からのもの。そのことに誇りを感じた。彼
の背中に回した腕を首に絡めて、彼の腰に足を回した。暖かい。剥き出しの首筋に鼻をこすりつける。
石鹸の匂いに混じるほのかな彼の匂いが、胸の中を満たした。自分にのしかかっている彼の呼吸が、
荒くなっているのを感じた。少し不安はあったが、嫌ではなかった。彼が初めての相手なら、不満な
どあろうはずもない。彼に抱かれるのなら、彼だけのものになれるのなら、何を犠牲にしても惜しく
はなかった。自分の心も、そして身体も彼に捧げることに対して、躊躇いは無かった。

 しかしシンジは、それ以上進んでこなかった。長く続いたキスが唐突に途切れ、シンジは自分から
離れた。不意に離れていく温もりに、レイの心を冷たい風が吹きぬける。
「碇くん…………?」
 優しい目で――レイの大好きな目で――シンジは自分を見つめていた。
「……これ以上は、だめなんだ」
「どうして……?」
 シンジは少し困ったように、笑った。
「今の僕じゃ、乱暴にしちゃうかもしれないから」
 レイは回した手に力を籠め、彼を引き寄せた。
「構わない、碇くんなら。私、何されても……」
「それじゃ、だめなんだ。僕は、大事にしたい。自分勝手かも、しれないけど…………」
 彼の身体が熱を帯びているのを、薄手の服を通してはっきりと感じた。それでも、彼は我慢してく
れている。自分のために。
 微妙に悲しさを感じ、しかしそれ以上の喜びを感じた。自分を大事にしてくれている。我慢などし
なくてもいいと思ったが、彼の想いを無駄にしたくないとも思った。今は、これでいい。
「ありがとう、碇くん………………」
「綾波」
「……何?」
「好きだよ。綾波が、一番だ」
「……私も」
 もう一度だけ、唇を重ねる。最後のキスは、レイからだった。





――FIN――




 〜あとがき〜
 いや、あはははははは。悪気はないんです。いやほんと。風呂に入れるだけのネタだったんですが、
どこをどう間違ったのかこうなってしまいました。ゲロ甘シリアス……じゃないよなあ。
 大事にする、という言葉は非常に曖昧で、この場合においても、シンジは前に進むべきだったのか、
それともこれでよかったのか、僕にも分かりません。情けない話ですが、その辺には未だ結論を得ら
れていません。しかしながら、綾波レイを幸せにすることは僕の中で追求し続けていくつもりです。
どうか、温かい目で見守ってください。


ぜひあなたの感想を

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