I’m Looking For You

Written by JUN  



「あの、碇先輩……」
「ん?何?」
「その、質問があるんですけど……」
「……何かな?」
 どこか思いつめたような表情。知っている表情。薄茶色の長髪を後ろで結った生真面目そうな顔立
ちの少女が、そんな表情を湛えて、シンジの目の前に立っていた。その少女の次の言葉を、シンジは
無意識に予想した。
「あの、碇先輩は、付き合ってる人とか、いるんですか……?」
 瞬時、時が止まったような感覚に襲われる。いつまで経っても、慣れるものではない。
「いない。けど、好きな人はいるかな」
「そう、ですか……」
 みるみる声が小さくなっていく。罪悪感に、心が痛んだ。けれど、やはり勘違いは避けねばならな
い。後々に響く。

 とぼとぼと立ち去る下級生の姿を見送りながら、シンジは小さくため息を漏らした。彼女は悪い子
ではない。一年生の間では、聡明な性格のお陰で五本の指に入るほどの人気があると聞いた。きっと
自分なんかより素晴らしい恋人ができるだろう。

 ――ごめんね……

 それでも気は晴れなかった。それもまた、慣れる感覚ではない。淡い想いを自分に向けてくれる人
間の気持ちを断るのは、はやり心苦しかった。それでも、シンジは誰とも付き合おうとはしなかった。
大学をそろそろ卒業しようかという頃になっても、シンジは待ち続けた。想いを寄せてくれる女性を
全て断って、ひたすら一途に、シンジは待ち続けた。

「綾波……」

 ――サードインパクトの光に消えた、蒼い少女を





 サードインパクトの後、唯一戻って来なかった少女、綾波レイ。

 アスカ、ミサト、リツコ、トウジ、ケンスケ、ヒカリ、そして、ゲンドウ、碇ユイ……
 
 皆、還ってきた。けれど、彼女だけは還ってこなかった。

 もちろん、探した。サードインパクト以来持てる時間全てを使って、シンジはあらゆる手を使って
彼女を探した。NERVも全力をもって探した。が、やはり彼女は見つからなかった。サードインパクト
の時消えたのだというのが、組織内での通説になった。諦めなさい、と周りの人間は言った。しかし、
シンジは諦めなかった。自分が他人の存在を望んだから、皆還ってきたのだ。ならば彼女だけが還っ
てこないという理屈はあり得ない。シンジはそう信じて疑わなかった。
 サードインパクトの後シンジは世界を救った英雄として、世間にもてはやされた。しかし、シンジ
の気分は一向に晴れることを知らなかった。僕じゃない、彼女だ。世界を救ったのも、皆を還ってこ
させたのも、皆彼女の功績だ。なのに、NERVは彼女の存在を公開しなかった。クローン体の彼女は、
NERVにとっての鬼門でもあったからだ。
 取材は全て断った。自分の功績でもないことを、さも自分のしたことのように語ることを、シンジ
は許せなかった。彼女のことを最初からいなかったかのように扱うNERVという組織に怒りさえ覚えた。
 その手の取材はアスカに任せた。アスカはそれを快諾し、上手くマスコミを使って赤い海に溶けた
彼女の母親を見つけ出した。今、彼女は高校を卒業した後、ドイツにいる。時折手紙が届き、年々平
仮名が増えている。そんな間にも暇を見つけては、シンジはレイを探した。
 
 しかし、現実は残酷だった。

 綾波レイ、という存在は、確かに自分達の心の中に存在した。しかし、現実の中にその痕跡が見つ
からなかったのだ。
 MAGIの中のデータに、綾波レイは存在しなかった。それは理論上、あり得ないことだった。IDは消
去され、写真一つ残ってはいなかった。

 ――もう彼女は、この世にいないのか……

 彼女は世界を再び創造するとき、この世から自分という存在を消し去った。それは不可能ではない
のかもしれない、彼女にとっては。自分という人間を消し去ることは、或いは彼女にとっては簡単な
ことだったのかもしれない。だが、それはないと信じたかった。彼女が再び自分の前に現れる時を、
シンジはひたすら待ち続けた。






「綾波……」
 
 もう一度、愛しい彼女の名を呼んだ。透き通った声を想像する。ヤシマ作戦の時に触れた暖かな感
触を思い出すことで、心の底から湧き上がってくる切ない感覚に耐えた。会いたくて会いたくて仕方
がなかった。会って、謝りたかった。自分の犯した罪を詫びたかった。たとえ、赦してくれなくとも。
 
 あの時の彼女の笑顔を思い出そうとして、愕然とする。記憶の中での彼女の顔が曖昧になっている
ことに。
 
 蒼銀の髪、透き通るように白い肌、華奢な体つき、そして真紅の双眸――
 
 その一つ一つが、段々とぼやけてきている。それは耐え難いことだった。しかし、時の歩みは確実
に、シンジの記憶を蝕んでいった。
 そして時の流れに比例して、シンジの中で一種の諦めにも似た感覚が大きく膨らんでいることもま
た、否定しがたい事実だった。
 理性はもう諦めろと訴えていた。彼女はいない。あの時、消えたのだと。
 街に出かけると、シンジは無意識のうちに視界の隅に彼女を探していた。この街で聞き込みはあて
にならない。彼女の最大の特徴である蒼銀の髪は、この街ではごくありふれたものだったから。
 しかしシンジがその髪とレイとを見紛うことは決してなかった。レイの髪を、シンジには見分ける
自信があった。ありふれた水色はやはり水色でしかなく、シンジの捜し求めるそれとは、似て非なる
ものだった。

 ふと時計に目を向ける。そろそろ帰らなくてはならない。シンジは管弦サークルに所属していた。
何のことはない、趣味の延長線である。しかしその肩肘を張らないスタンスはシンジの好みだった。
チェロを弾ける人間というのは大学内でもそう多くはなく、時折シンジの教授を求める声もあった。
 その生活自体、シンジは特に悪いものだとは思わなかった。安らかな生活。それはシンジが求めて
止まないものであったから。
 しかし心のどこかに常にある空虚な部分。それは時にシンジをどうしようもなく不安に陥れた。
 
 はあ、と重いため息を一つつき、チェロをケースにしまう。今はもう学校に置いたままにしている。
こういう日はさっさと寝よう。そんなことを考えながら、シンジは腰を上げた。
「お疲れ様です。碇先輩」
「お疲れ様」
「今度、合コンお願いできませんか。碇先輩が来るなら来るって子が」
「ごめん、そういうのは、ちょっと……」
「う〜ん、そうですか。まあ、仕方ありませんね」
「ごめんね」
「構いませんよ。お疲れ様でした」
「お疲れ」
 大学の構内でも沢山の人に声をかけられる。こういう気分が沈んでいる時に限って沢山の人に話し
かけられるのだから都合が悪い。
「碇さん、今度の日曜、空いてませんか」
「いや、ごめんちょっとね」
「……何か、顔色悪いですよ。大丈夫ですか?」
「うん、心配しないで」
「え〜、でも、私看病しちゃいますよっ」
「はは、残念ながら看病してもらうほどじゃないな」
「そうですか、残念」
「それじゃあね」
「はい、さようなら」








 安いアパートの扉を開ける。不満はない。寝ることが出来れば不自由はしない。NERVに頼めば家賃
も払ってくれるが、シンジはそれも断った。
 家に置いたままにしていた携帯電話を取る。未読メール、一通。同級生からのメールだった。半ば
無意識のうちに、それを開く。

『明日図書館に付き合って!』
 
 恐らく、卒論だろう。自分はとうに済ませているが、たまには息抜きに図書館も悪くない。特にこ
んな日には。
『いいよ』
 無難に返事を返し、シャワーを浴びた。ベッドに倒れこみそのまま眠ろうとした。しかし、こうい
う日は眠れないと決まっている。真っ暗の部屋の中、脳裏に浮かんでくるのは、やはり彼女の顔だっ
た。
「あや、なみ……」
 どこにいるのか、何をしているのか。その問いが頭を離れることは片時たりとも存在しなかった。
 大学生になった自分。彼女はちゃんと食べているだろうか。食事を薬で済ませてしまうような人だ
った。体調を崩したら、ちゃんと医者にかかれているだろうか。せめて元気でいて欲しい。でなけれ
ば、やりきれない。
 シンジは永遠に探し続ける心積もりでいた。それが自分に出来る唯一の贖罪だと思っていた。
 
 そんなことを考えながら、シンジは眠る。夢にはやはり、彼女がいた。
















「すまねえなシンジ。留年は勘弁だし、シンジ、頭いいだろ?教えてくれよ」
 シンジは苦笑いして、頭を掻いた。
「いや、コウイチは法学部じゃないか。僕は工学部だからね」
「ノウハウだけでいいんだよ。俺、文章書くの苦手でさ」
「それでよく法学部入れたね」
「うるさい」
 彼は大学に入って初めて出来た友人である。あまりに沢山の人に声をかけられるせいで馴染めずふ
らふらしていた時に出会った。少し人を食ったような性格で、シンジは初め気圧されていたが、それ
でも悪い人間ではないと分かってから、今では時たま二人で呑みにいったりもする。気の置けない友
人である。
 元エヴァパイロットであることは知り合った直後に話した。その時彼は軽く笑って、「知ってるよ、
そんなこと。だから?」と返してきた。自分を特別扱いしない彼の人当たりも、シンジの好みだった。


 他愛のない話をする内に、目的の図書館に到着する。大学の近くにあるだけに、単なる小説から資
料の類まで幅広い。適当に駅から距離があるので、比較的静かだ。時間帯によっては大学内の混みあ
う図書館を避けて来る人で賑わったりするが、今の時間はそれもない。
「じゃあ何かわかんないことあったら訊くから、よろしくな」
「はいはい」
 コウイチはどっかりと腰を下ろして、早速分厚い本と睨めっこを始めた。この分じゃあ長くかかり
そうだ。シンジはふっと苦笑いを漏らした。

 手持ち無沙汰になったしまったシンジは、近くの本棚から何やら大きな本を取り出して、コウイチ
の側に腰を下ろした。隣で大学生が調べ物をしているのだから、この位の方が違和感がなくてよいだ
ろう。
 開いてみると、専門用語満載といった感じの医学書だった。“O”の上に‥がある。ドイツ語らしい。
少しげんなりする。せめて物理の本なら、自分にも分かったかもしれない。が、暇つぶしになれば何
でもいい。
 ふと、青色の少女の姿が頭をよぎる。彼女ならきっと涼しい顔で読破するのだろう。アスカと初め
て話したときも、何やら難しい本を読んでいた気がする。
 無味乾燥な文字列を目で追っていくうち、眠気が鎌首をもたげてくる。いっそ眠ってしまおうか、
いや、でもそれは図書館に迷惑がかかる。決心して面白い小説でも探しに行こうとしたその時、ぱら
りとページが大きく捲れた。いけないいけない、しっかりしなきゃな。苦笑して本を閉じようとする。

 が――

 シンジの目は、まるで付箋のようにはさまれたそれに釘付けになった。

 ――これは、まさか……

 見間違いかもしれない。糸くずかもしれない。けれど、シンジの本能が告げていた。これは――

 ――綾波の、髪の毛……

 がたん、と大きな音を立てて、シンジが立ち上がった。周りの人間が一斉にこちらを見る。

「おい、どうしたシンジ?」

 そんな友人の声も耳に入らず、シンジはカウンターへ駆け出した。
「すいません、空色の髪の毛をした子が、最近来ませんでしたか?」
「はい?空色?」
「そうです、空色の髪で、肌が白くて、目が紅い……」
 訝しげな目線をシンジに寄越す。怪しまれているようだったが、シンジは構わず続けた。
「探してるんです、知りませんか?」
 係員はわざとらしくため息を吐き、奥へと振り向く。
「なあ、知ってるか?」

 いや、知らんな。そんな受け答えが交わされる。元よりさして珍しくもない色だ。だめか――


「ああ、あの子かな?」
 
 シンジがはっと顔を上げると、六十がらみの男性がこちらを見ていた。温厚そうな顔立ちで、細身
の体つきが、冬月コウゾウと少し似ている。
「知ってるんですか?」
「ああ。たまに本を読みに来る子だ。本当にたまにだし、あまり記憶には残らないがね」
 今時青い髪なんて珍しくもないしね、と乾いた笑い声を上げた。
「最後に来たのは、いつですか?」
「さあ、そこまでは……こっちも注目して見てたわけじゃなし」
「そうですか……」
「いつも、あの席に座ってるね」
 そう言って男性が指差したのは、窓際の隅の席だった。いかにもレイが好みそうな。
「ありがとうございます!あの、次に見かけたら、連絡してもらって、いいですか?これ、僕の連絡
先です」
「ああ。碇、シンジ…………もしかして、あのロボットに乗ってた子かい?」
「――え?」
 それまで興味なさげにしていた係員までが、一斉にこちらを見た。シンジはぎくりと体を強張らせ
る。しらを切ろうかとも思ったが、ここで嘘をつくのは得策ではない。
「は、はい。まあ……」
 男性は嬉しそうに笑った。
「ああ、そうかい。いやね、私はあの辺に住んでたお陰で、君にも世話になったんだよ。もちろん君
は知らないだろうけどね。避難遅れなんて、よくある話だったし。どれに乗ってたんだい?」
「あ、あの、紫のやつです」
「おお、あれか。いや、本当に世話になった。僕が今こうしていられるのも君のお陰だ。ありがとう」
「いえ、僕じゃありません。世界を救ったのは――」
 シンジはそこで口をつぐんだ。表向きはそういうことになっているのだ。
 男性は不思議そうな顔でこちらを見つめている。しかし、何か尋ねようとはしなかった。
「それじゃあ、お願いします。僕も来ますので、ここに」
「おお、いつでもどうぞ。私は橘という」
「あ、ありがとうございました」





「おい、シンジ。どうしたんだよ?」
「……ごめん、なんでもないんだ」
「そうか、なんて言うと思うか?」
 苦笑気味にコウイチは言う。
「まあ、そうなんだけど……」
「いいさ。言いたくないんだろ?」
「いや、そういう訳じゃないんだけど……」
「あんだよ、はっきりしねえな」
 言おうかと思った。何故かは分からない。コウイチの人柄かもしれないし、気の迷いかもしれない。
「あの、人を探してるんだ」
「ああ、そうだろうぜ。さっきのやり取り見てたら分かる。名前は?」
「……綾波、レイっていうんだ」
「あやなみ、れい」
 一音一音を噛み砕くようにコウイチは言った。元よりコウイチが知っているとは思っていない。軽
く首を横に振る彼を視界の隅に捉えながら、シンジは体が震えるのを感じた。
「探してやるよ」
「――え?」
 びっくりしてそちらを向くと、コウイチが口元を歪めてこちらを見ていた。本人は笑っているつも
りなのかもしれないが、傍目から見れば悪巧みをしているようにしか見えない。
「だから、探してやるよ。ま、見つかるかどうかは別問題だけどな」
「ありが、とう……」
「いいってさ。その代わり、今度昼飯オゴリな」
「はいはい」
 いろんな人が協力してくれる。なんとしても、見つけなければいけない。とりあえず講義が終わっ
たら来よう。そのくらいの時間ならある。何より彼女を探すのに費やす時間を惜しむつもりはない。

 元気が出てきた。そうだ、諦めるには早すぎる。それに誓ったじゃないか、探し続けると。

 ――綾波、待ってて……!


「で、どんな人」
「え……っと、髪が青いんだ、とりあえず」
「ふんふん」
「で、目が紅い」
「はあはあ」
「あと……そうだな、肌がすごく白いんだ。多分アルビノじゃないかな」
「へえ」
「そのくらいかな」
「なんか、物凄い目立ちそうな風貌だけどな。青い髪ってだけならまだしも、目が紅くて、このくそ
暑いのに白い肌だろ?」
「まあ、ね」
「でも、見つからない」
「うん……」
「それはあれか、エヴァ、だっけ。あれの関係者だったりすんのか」
「うん、まあ……」
「言いたくないみたいね」
「……ごめん」
「いいって。だから、お前はいっつも謝りすぎ」
「ごめん」
「……怒るぞ」
 コウイチは楽しげに笑った。ったく、お前は、と悪態をつく。
「でもまあ、あれだな。そんな人間なら、その辺に住んでるんじゃねえの」
「探してはみたんだけどね」
 この辺一帯のマンションは一通り見て回った。綾波レイという表札はなかった。
「ふーん…………ま、俺も暇を見つけて探すけどさ、写真とかないのか」
「ないんだ」
「手がかり、ゼロか」
「うん……」
 ふー、とコウイチが深い息を吐いた。
「それはちょっと辛いな」
「まあ、すぐに見つからないことくらいは分かってるし、大丈夫だよ。そんなに急がなくても」
「そっか、悪いな。そういえばシンジ」
「なに?」
「明日、空いてるか」
「え、うん。まあ」
「また手伝って欲しいんだよ。頼む、な?」
「いや、まあ別にいいんだけどさ。バイトの子でも雇えばいいのに」
「下手にバイト雇うよりシンジのほうが慣れてるし。女ウケいいんだよ」
「女ウケって……」
 シンジはぽりぽりと頭をかいた。
「ラーメン屋で女ウケとか狙う必要あるの?」
「あるんだよ。シンジが接客してくれりゃ女性客の入り当社比五割増だ」
「まあいいけど。空いてるし」
「すまん、恩に着る!」
 こうも拝み倒されると断りようもない。自分の人の良さが時折恨めしくなる。
「明日は珍しく出前の予約が一つ入ってる。ご新規さんだから、シンジ行ってくれ」
「いや、僕じゃなくてもいいじゃない」
「相手はお嬢さんだから、お前の方がいい。お前が行けば、その内店にも来てくれる」
「買いかぶりすぎだと思うけどなあ……」
 まあ、親友の頼みなら、断る気はない。小遣い稼ぎにもなる。
「分かった、行くよ」
「お、頼むぜ」
「……でさ、卒論はいいの?」
「えっ?ああっ、やべぇ!」

 再び分厚い本をめくり始めた親友にシンジは苦笑しつつ、天井を見上げた。この分では、あと一時
間といったところか。


 








「碇君、今日暇じゃないんですか?」
「すみません、仕事中なんで」
「えー、つれない」
 コウイチの父が経営するラーメン屋で、シンジはウエイターとして働いている。味は確かで、シン
ジは初めて食べた時舌を巻いた。親父さんは非常にフランクで、よく言えば気さく、悪く言えば歯に
衣着せぬ物言いが、コウイチに非常によく似ている。
「おいシンジ。さぼんな、いちゃつくな!」
 シンジがむっとして、言葉を返す。
「いつ僕がいちゃついったって?」
「今だ今。ったく、このくそ忙しいのに、この上お前のもてっぷりを見てると死にたくなるぜ」
「こらコウイチ」
 奥から親父さんの声が飛んだ。
「折角の客寄せパンダ様にそんな口を利くんじゃない。お前だけじゃお嬢さん方が逃げちまう」
「ひでえなオヤジ。こんな顔に産んだのはどこのどいつだ、おい」
「うるせえ。文句なら母親に言え。俺に言うな、俺に」
「タネが親父なんだから責任あんだろ。畑にばっかなすりつけてんじゃねえよ」
「そういう下品なことばっか言ってっからろくな顔に育たねえんだよ。いいから働け、バカ」
「うわ、ひでえ!」
 まったく、酷い親子だ。なんというか、身も蓋もない。
「いや悪いなシンジ君。この馬鹿はホントに」
 いやあなたも十分酷いです、とは言わなかった。
「ぜっ、全然構いません」
「コウイチ、お前もシンジ君を見習え。ったく、どう間違えたんだか……」
「見習うべきはオヤジだろ。いつもいつも――」
「おら、醤油二つ。さっさと仕上げろ」
「あ〜!分かったよっ!」

 確かにこれではシンジがいないと皆逃げてしまうかもしれない。自分は意外と大事なんだなと思っ
た。






「シンジ、出前頼む」
「はいはい。行ってきます」
「おう、頼むぜ」
「ついでに上がってもいいかな。お代は明日払うから」
「ん、まあいいや。お代もいいよ」
「え、でも――」
「その客が次から来てくれりゃ、十分取り返せる。だから……」
「なに」
「リップサービス、よろしく頼む。なんならちゅー位してくれよ」
「しないよそんな」
「はは、冗談だよ。でも、ホントにべっぴんさんの声だったぜ、あれは。狙い目だな」
「狙い目って……まあいいや、行ってくるよ」
「おう」
 古風なおかもちを持ってシンジはこれまた古風な戸を開け、ラーメン屋を出る。住所はそんなに遠
くないようだ。マンション密集地、だろう。
「よし、行こう」
 少しだけ自分を奮い立たせるために声を上げ、シンジは目的地に向かって駆け出した。折角のラー
メンをのばすのも忍ばれる。






 










 目的地のマンションは思っていたよりもさらに近かった。小奇麗なマンションだが、造りは古い。
サードインパクト前に建てられたものだろう。
 表札がないので不安になるが、住所はここだ。あれ以来、社会も混乱しているせいか表札がない家
も珍しくない。インターフォンを押す。
「すいません。ラーメン榊です」
 数秒のラグの間に、おかもちからラーメンを取り出す。のびてはいないようで、少し安心する。
「はい」
 ドアの中から、透き通った女性の声がする。その声に、シンジの何かが反応した。

 ――あれ……?

 その声の中にある、確かな何か。自分の心を掴んで放さない、何か。それが、その声にはあった。


 ――まさか……


 自分の手に持ったラーメンを見てみる。


 チャーシューは、抜いてあった。

「まさか……」

 かちゃ、と扉が開く。


 その風貌は特徴的だった。蒼銀の髪、華奢な体つき、抜けるように白い肌、そして真紅の双眸……

「どうして、ここに……」

 彼女の声は、透き通るように心地よく、彼の耳に届いた。

「あやなみ、れい……!」
 


 瞬間、彼女は――綾波レイは――その場に崩れ落ちた。













 ――間違いじゃなかった

 レイをベッドに横たえた後、シンジは思った。

 顔は紅潮して息も荒いが、熱はない。気絶しただけだ。


 白い薄手のワンピース、裸足。彼女らしい服装だと思った。

 部屋は綺麗だ。清潔に保ってある。しかし薄暗く、やはり殺風景だった。

 小さい冷蔵庫に、恐らく使われたことのないぴかぴかの流し、カーテンはなく、絨毯もなかった。
恐らく中古で買ったとおぼしきベッドは、やはりパイプ製の簡素な作りだった。

 いったいどれほどの時間を、この中で過ごしてきたのだろう。テレビはおろか、本や雑誌すらない、
この部屋で。

「ん……」

 小さな声を漏らしつつレイが身じろぎすると、シンジが声をかけた。

「綾波、綾波」

 瞬間、レイの眸が大きく見開かれ、ベッドから起き上がった。

「碇くん!?」

 ベッドから降りて距離を取ろうとするレイの手首を、シンジが掴んだ。

「ど、どうして、ここに……」
「ラーメンの出前だよ」
「な、ならそこに置いて帰って。お金は――」
「綾波!!」
「――っ!」

 レイの身体がびくりとわななく。真紅の眸にはありありと恐怖が浮かんでいた。


「ずっと、ここに?」
 レイは躊躇いがちに、こくりと頷いた。
「ご飯は、どうしてたの?」
「コンビニとか、で、出前とか……」
「お金は?」
「NERVにいた時は、いつも家にお金はおいてあった。いざという時のためって、赤木博士に言われて
……」
 それはシンジにも当てはまった。NERVからの手当てはとても多く、一つの口座に預けておくには多
すぎた。
「なんで、僕らのところに、戻ってきてくれなかったの」
 一番訊きたかったことを、シンジはレイにぶつけた。
「…………必要、ないから」
「必要?」
「わたしがいても、碇くんには邪魔になるだけ。あなたには弐号機パイロットがいて、大学の友達が
いて、沢山のひとがいて……」
 シンジは何も言わず、それを聞いていた。
「わたしがいたら、碇くんは不幸になる。こんなヒトじゃない存在がいたらいつまで経っても、幸せ
になんてなれない。だから、わたしはここにいる。だから、帰って。わたし、辛い……」
 そう言ってレイは顔を伏せた。シンジはしばらく黙っていたが、掴んでいたレイの手首を放した。
「……分かった。綾波がそう言うなら、帰るよ」
「…………ありがとう」
「ただ、一つだけ、いいかな。それだけ聞いたら帰るから」
「……いい」
 シンジはじっとレイの目を見つめた。探し求めたその真紅の輝きを。
「綾波は、僕の幸せのために僕らの前からいなくなったって、言ったよね」
「……そう」
「なら、もし、もしだよ」

 彼女の眸は、不安と、そして何かが織り交ざった、複雑な表情をしていた。ある種の賭け。しかし
シンジはその賭けに勝つ自信があった。

「もし僕の幸せが、綾波と一緒にいることだったら……?」
「え……」

 伏せ気味だった顔が上げられた。大きく見開かれた眸は、驚きで彩られていた。

「僕は、綾波が好きだ。ずっと一緒にいたい。僕の幸せを願うんだったら、僕の側にいて欲しい」
「そ、そんなはずない。だって、碇くんの通ってる大学には、かわいい子なんていくらでも。わたし
なんて、絶対――」
「綾波はかわいいよ。あの頃から、ずっとそうだ。大学の女の子なんて、比べ物にならないくらいに」
「そんなこと――」

 言いかけたレイに、シンジはまたレイの手首を引き寄せ、包み込んだ。

「僕は、綾波の気持ちが聞きたい。もし迷惑なら、帰るよ。二度と、ここには来ない。でももし……
綾波が僕と一緒にいてくれるなら……」
「わたしも、碇くんと…………でも――」

 それだけで十分だった。刹那、シンジはレイをベッドに押し倒した。


「綾波っ――!」

 ベッドが軋み、レイの身体が強張る。しかしシンジは構わなかった。きつく彼女を抱き締め、変わ
らない蒼銀の髪に鼻を埋める。ずっと求めていた、彼女の匂いだった。

「好きだ、綾波。君と一緒にいたい」
「いかり、くん……」
 おずおずと、躊躇いがちに細い腕がシンジの背に回される。彼女の腕は、ほんのりと温かかった。
「わたしなんかで、いいの……?暗くて、眼も、髪も、魂まで、ヒトじゃない、わたしなんかで……」
「綾波以外、考えられない。綾波の眼も髪も、すごく綺麗だ。僕は大好きだよ」
「でも、わたしといて楽しいことなんて……」
「綾波は、自分のことを軽く見すぎだ。こんなにかわいいのに。もったいないよ」
「でも――」
 
 その時、こらえきれなくなったように、シンジは自らの唇でレイのそれを塞いだ。レイは全く反応
できず、ただ固まるしかなかった。

「これ以上くだらないこと言わないで。誰がなんと言おうと、僕は君の側にいるから。相応しいとか
相応しくないとか、そんなのどうだっていい。僕は綾波といたい。それだけだよ」

 レイの眸から涙がこぼれた。とめどなく、とめどなく。

「キスって、知ってた?」
「……知ってた」
「した、ことは?」
「ない。こうして誰かに抱き締めてもらうのも、初めて。暖かい……」
「そっか……」

 人の温もりを知らない彼女。自分以上に、彼女は人の温かさを知らずに生きてきたのだ。
 僕が教えてあげよう、と思った。これから先の人生全て、彼女のために捧げよう。それが自分の彼
女に出来る、唯一のことだ。

 

「ずっと、謝りたかったんだ。全部僕が悪いのに、綾波に任せて、甘えてばっかりで。本当にごめん、
綾波」

 レイはかぶりをふった。

「碇くんのせいじゃない。わたしの方こそ、ごめんなさい」
「なんで謝るのさ。綾波に悪いことなんて――」
「わたしがもっと早く気づいていれば、サードインパクトなんて起こさずに済んだのに……」
「綾波……」
 辛そうなレイに、シンジは言った。
「綾波に悪いところなんて、何もない。だから、そんなこと言って欲しくない」
「碇くん……」

「もっと自分勝手でいいんだよ綾波。我がまま言って欲しいんだ。困らせて欲しいんだ」
「碇くん、わたし」
「綾波が望むこと、僕はなんだってするから」
「じゃあ、もう一回……」
「なに?」
「キス、して欲しい。碇くんの唇、もう一度、感じたい……」
「いいよ、もちろん。じゃあ綾波、目を閉じて」
「どうして……?」
「決まりなんだ。好きな人とキスする時の」
「……分かった」
 レイが目を閉じると、シンジはゆっくりと自分の顔を重ねた。

 端正な顔立ちの中で控えめに自己主張する彼女の唇は、シンジが思っていたよりずっと温かかった。
柔らかな吐息がシンジの鼻腔をくすぐる。シンジがそっと舌先で彼女の唇をなぞると、彼女はほんの
少しだけ、口を開けた。
 彼女の唇を押し開いて、シンジの舌が入ってゆく。レイは拒絶しなかった。ぴくんと彼女の身体が
震えるのを感じる。シンジは一瞬身を硬くしたが、そのままレイの舌先に触れた。
 
 幸せだった。彼女の舌の柔らかさが、温かさが、シンジを安心させる匂いが。あの時以来忘れるこ
となく求め続けた彼女の感触が、今自分の腕の中にある。




 しかし、シンジは限界を超えようとしていた。彼女を求める心によって生まれるその欲求への我慢
の限界を。全てをシンジに任せている彼女とは対照的に、シンジは急激に昂ぶっていた。




 彼女を抱きたかった。自分の腕の中にいる彼女の全てを、自分のものにしたかった。胸に感じる彼
女の柔らかい双丘を、細く、陶器のように白く滑らかな脚を、そして――その合わせ目にある、神聖
な、彼女の源を。心も身体も自分のものにして、彼女を自分で満たしたかった。ひとの温もりを知ら
ない真っ白な彼女を、自分で染め上げたかった。

 しかし、まだ早い、とシンジは思った。キスすらしたことのなかった彼女にその行為を求めるのは、
あまりに重過ぎる。彼女を大事にするなら、耐えるべきだ、と――



 ――下卑た考え方だ



 シンジは思い、言いようのない自己嫌悪に駆られた。要は怖いだけだ。彼女とそうなることで生ま
れる様々な責任が。昂ぶった欲望によって乱暴にしてしまうことで、彼女を傷つけ、そして拒絶され
ることが。
 
 彼女は、こんなにも純粋なのに、彼女はこんなにも、自分に全てを任せてくれているのに。

 自分はただ汚らわしい欲望の対象としてでしか、彼女を見られないのか。

 彼女から唇を離し、シンジはぐっとこらえた。口惜しさで、叫びだしそうだった。強く唇を噛み締
める。ぷち、と音がして、口の中に錆びた鉄の味が広がった。




「碇くん、すごく、熱くなってる……」


 そう言った彼女の目線は、どこか咎めるようにも見えて。


 シンジは目を伏せ、ひきつったような声を上げた。


「ごめん。本当に、ごめん、綾波…………」


 レイは暫し黙っていたが、やがて声を上げた。

「どうして……?」
「え……」

「どうして、謝るの。わたし、うれしい……」

「え……?」
「碇くんが、わたしと一つになりたいと思ってくれてるのが、すごく……」
「でも、僕は……」
 シンジは顔を上げた。いつの間にかシンジの黒曜石のような眼には、涙が溢れていた。
「わたしはずっと、碇くんと一つになりたかった。はしたない女の子だと思うかもしれないけど……」
「でも、でも、僕なんて、絶対乱暴にするし、綾波のこと、傷つけるかもしれない――」
「わたしは、碇くんがいい。乱暴でも、痛くても、碇くんが相手なら、何だって嬉しい。碇くん以外
の男の人にされるくらいなら、わたし、死んだ方がましだけど、もし碇くんがわたしのこと……」
 レイも涙を流していた。真紅の双眸は、今や元々の色と言うだけでは説明にならないほど真っ赤だ
った。
「もし碇くんさえ嫌じゃなかったら、わたしの初めて、もらってくれるなら、碇くんのものになれる
なら、わたし……」
 レイは涙目で微笑んだ。あの時と同じ顔だった。シンジが忘れることのなかった、紛れもない、彼
女の笑顔だった。

「それ以上に、欲しいものなんて、なにもない……」

 ――彼女は、どこまでも純粋だった

 自分が浅ましい存在に思えた。くだらない怯えが、情けなかった。

 汚らわしくなどないのだ。彼女の望むこと、そして自分の望むこと。彼女と溶け合い、一つになり
たい。嘘偽りなく、それは自分の望みだった。

「綾波。ほんとに僕で――」
「いい。でも、碇くんは、こんなわたしなんかで、いいの……?」
「なんか、なんて言わないで。僕はずっと、綾波が欲しかった。だから、綾波が赦してくれるなら、
僕は欲しい。綾波の全部が……」
「嬉しい。碇くん……」

 レイはシンジの手を掴み、自らの胸へと重ねた。紅潮した頬に、羞恥心はなかった。ただ、愛おし
さがあるのみ。自分が求め続けた彼女は、やはりどれだけ経っても色褪せず、それどころかより一層
美しく、健気だった。
 掌に感じる彼女は、初めて触れた時より少しだけ、大きくなっていた。しかし何より違ったのは、
その感触を心地よく、そして暖かく思っていることだ。それは彼女の優しさであり、暖かさであり、
シンジの中にある、彼女へのひたすら一途な心でもあった。

「僕は綾波がすごく、大事だから…………綾波が、大好きだから」
「わたしも…………碇くんのことが、好き」

 再び重ねた唇は、柔らかく、暖かく、深く、そして今までで一番、甘かった。










 








 ――暖かい……

 今までに感じたことのない温もりを感じながら目を開くと、頼もしい胸板が目の前にあった。一瞬
自分がどこにいるか分からなくなる。首を少しだけ上に傾けると、優しい表情をしたまま眠る碇くん
がそこにいた。昨晩の彼との行為を思い出し、頬が火照るのを感じる。こうした行為が羞恥心を伴う
ことを知ったのも、ついさっきなのだ。碇くんの暖かい手が、わたしの肩を緩く抱いている。その安
心感に、涙が一筋流れるのを感じた。誰かに身体を預けることの心地よさ。そんなこと、今まで考え
たこともなかった。


 サードインパクトの時、わたしは消えるつもりだった。碇くんの願いを叶え、無へと還る。それが
わたしに課せられた最後の使命だった。彼が幸せになること。それが唯一無二のわたしの願いだった。
 しかし気が付いた時、わたしはあのマンションの暗い部屋に裸で横たわっていた。無へと帰ったは
ずのわたしは、何故か再び身体を持ち、この世に生を受けていた。今考えるとそれは、わたし自身へ
の願いだったのかもしれない。人として生きることへの。道具として扱われてきたわたしが、人間ら
しく生きることへの。
 しかし、あの時のわたしはそんなことを全く予想していなかった。暗く何もない壊れかけた部屋で、
まずわたしが感じたのは、途方もない絶望感だった。
 マンションに残ったお金を全てかき集め、このマンションにもぐりこむ。NERVの手を逃れるため、
碇くんがもう、わたしのことを思い出さなくていいようにするために。適度に離れたここに偽名を使
って契約を交わした。難しいことではなかった。そんな中わたしが得た結論は、独りでここに住み、
そして独りで死ぬことだった。誰とも関わらず、誰とも触れ合わず、死ぬことだった。

 碇くんと弐号機パイロットは、その後すぐニュースになった。二人の恋仲も叫ばれていたが、その
真相が明かされる前に、弐号機パイロットはドイツへと帰った。わたしのことは何も言わなかった。
 当然だと思った。わたしなど、今やNERVにとって邪魔なものでしかないから。命を弄ぶクローン体
は、世間で最も禁忌とされることの一つだったから。
 碇くんと弐号機パイロットは世界を救った英雄として、世間の注目と賛辞を浴びた。碇くんは取材
に対して協力的でなかったから、あまりメディアで顔が映ることはなかったけれど、それでも日本に
住んでいれば誰もが知る有名人だった。当然、中学と高校を卒業して大学に入ると、その大学も取り
上げられた。彼に近づきたいがための人達で、入学率は前年の一割増だったそうだ。今では少し落ち
着いているが、やはり時折ニュースになったりもする。
 
 世間での波が少し収まってきた頃、わたしは一度だけ、彼の大学に行ったことがある。彼が幸せに
暮らしているか確かめる、そんなもっともらしい大義名分をあつらえて。
 碇くんは沢山の人達に囲まれ、大学内を歩いていた。美人で、いかにも優しそうな女性も側にいて、
積極的に碇くんに声をかけていた。

 ――あの人は、きっと自分なんかよりも優しく、料理も出来るのだろう。もちろん何の問題もなく
生まれたヒトで、彼を幸せにするだけの、能力も器量も持ち合わせているのだろう……

 それでいい、とわたしは思った。わたしが再び世界を創造した意味は、碇くんに幸せになってもら
うこと。あんな素晴らしい人がいれば、きっと彼は幸せになれる。それなら、わたしのしたことはき
っと、無駄ではなかった。

 そう無理やり自分に言い聞かせ、わたしはマンションに帰った。しかしマンションに帰る道程の中、
気が付くとわたしは涙を流していた。あそこにわたしの居場所はない。たとえわたしがそこにいたと
しても、あんな魅力的な女性をさしおいてわたしを選んでくれる筈がない。そんな僻みにも似た感情
が、わたしの中で渦を巻いていた。人の感情に疎いわたしでも流石に分かった。嫉妬だった。碇くん
の周りにいる全ての人に対するあまりにも激しい、そして醜すぎる嫉妬だった。

 彼はわたしのものではないのに、彼はわたしの気持ちすら知らないのに。


 勝手に還ってきて勝手に嫉妬するわたし自身に嫌気がこみ上げ、その日はずっと家の中に閉じこも
って泣いていた。忘れようとしても彼の側にいた女性のあまりに綺麗な笑顔が瞼の裏を離れず、涙が
止まらなかった。

 それからずっと、わたしは心を閉ざして生きてきた。時折耳にする碇くんのニュースが辛いから、
外にも出なくなった。必要最低限の生活用品と、最近決心して行くようになった図書館。それ以外に
外に出ることはなかった。図書館に行く時も、人が多い時間は避けた。特に、学生の多い時間は。帰
って来る部屋の中は、いつでも薄暗かった。

 そんな毎日は、唐突に壊された。

 気分の悪戯、というやつだろう。流石にコンビニ弁当だけでは味気がない。いつも通り独りきりの
夕飯を終えた後、わたしはそう思った。明日の昼食はラーメンにしようと思い、適当な店を選んで電
話した先は碇くんの働くラーメン屋だった。
 
 久しぶりに見る碇くんは、前に見たときよりさらに魅力的になっていた。碇くんにもう一度会えた
ことは、確かに嬉しかった。しかしそれ以上に恐怖が、わたしを包みこんだ。折角幸せになれたのに。
わたしに再会したことが、彼にあの辛い日々を思い出させてしまうんじゃないか、そう思うと、一刻
も早く彼と別れたかった。

 でも結局、わたしは碇くんを求めた。それでも、彼が欲しかったから。碇くんが、わたしのことを
欲しいといってくれたから。

 碇くんと一つになりたい。二人目のわたしが願ったことは不意に叶えられた。わたしの初めては、
これ以上ない最高の相手に捧げることが出来た。それはわたしにとって至高の幸せといってよかった。
碇くんと一つになった私の身体。生まれて初めて、そんな自分の身体を愛しいと感じた。女性に生ま
れてよかったと思った。

 碇くんの声が、指が、唇が、優しい眸が、どうしようもなくわたしを溶かして…………

 確かに痛かった。けれど、そんなこともどうでもよくなるくらいに、わたしは嬉しかった。彼と一
つになれたことへの途方もない悦びは、痛みなど全く問題にしなかった。むしろ下腹部に今もわだか
まる鈍い痛みは、かけがえのない宝物だった。碇くんと一つになった証だった。

 目の前で寝息を立てているひとが、わたしを抱いてくれた。かわいいと言ってくれた。沢山いた女
性たちの中から、わたしを選んでくれた。料理も出来ず、ただこの部屋に閉じこもって生きてきたか
らっぽのわたしを、好きだと言ってくれた。

 ずっと、こうしていたい。

 わたしはそう思った。碇くんの腕枕で眠って、碇くんの腕の中で一日を過ごし、碇くんに抱かれて
一日を終えたい。思いっきり甘えて、好きな時に好きなことをして欲しい。――彼と触れ合うこと以
外、何もしたくない。
 自分が弱くなった気がした。碇くんの温もりを知ってしまった今、碇くんに抱かれる悦びを知って
しまった今、もし碇くんを失ってしまったら、今度こそわたしはこの世から消え去るだろう。碇くん
がいない世界に、意味などない。価値などない。

 もちろん、ひとには天命というものがある。年を取り、そして死ぬ時、碇くんの方が先に逝くので
あれば、それも運命だ。
 
 けれど、今だけは……
 
 碇くんがいなければ、わたしという人間は成立しない。碇くんのいなくなった生に、何の未練があ
るだろう。再びこの空っぽの部屋で抜け殻のように空虚な毎日を送ることに耐えられるとは、とても
思えなかった。
 眠ったままの碇くんの唇に、そっとわたしの唇を重ねる。何度も何度も、碇くんは自分にキスして
くれた。唇だけでなく、体中のありとあらゆる場所に。そのキス一回一回が、わたしを満たした。初
めての痛みに呻くわたしを抱き締め、深いキスをしてくれた。それだけあれば、何もいらなかった。
世界中のあらゆる輝けるものも、碇くんのしてくれる一回のキスと比べれば、路傍の石と大した違い
はなかった。
 わたしの胸に、碇くんは再び触れてくれた。一度目にはなかった確かな感情。わたしに触れている
碇くんの掌が心地よかった。わたしの身体を、綺麗だと言って抱き締めてくれた。もう、碇くん以外
に触れさせはしない。わたし自身の身体は、もはや聖域のようなものだった。触れていいのは碇くん
だけだ。キスするのも、抱き締めるのも、そして一つになるのも。碇くん以外に触れられるなど、考
えただけで虫酸が走った。

 ずっと二人きりのこの部屋で、碇くんに抱かれていたい。他人なんて要らない、とすら思った。
 
 きっと、ひとはこうして堕ちてゆくのだろう。だが、それでもいいと思った。彼と一緒なら、どこ
まででも堕ちてゆける。
 
 けれど、碇くんには大学がある。毎日の生活がある。わたしだけを見ているわけにはいかないのだ。

 そんなことを考えると、少しだけ憂鬱になる。自分勝手な話だと自分でも思う。碇くんはわたしの
ためだけに生きているわけではないのに。
 碇くんは本当に、自分なんかでよかったのだろうか。彼ならもっともっと、相応しい女性がいる筈
なのに。こんな身勝手で、自分のことしか考えていないわたしみたいな女性よりも、魅力的な女性が。
碇くんはわたしがいいと言ってくれた。けれど、もしもわたしがいることが彼にとって負担になるの
なら、それはやはり辛かった。
 暗くなった気分をごまかすように、碇くんの肩甲骨の辺りに手を回し、胸に頬を寄せた。規則正し
い心臓の音が聞こえる。
「ん、あやなみ……」
 起こしてしまった、少し申し訳ない気持ちになり、わたしは思わず目を伏せた。
「おはよう、綾波」
 碇くんは優しい笑顔で、そっとわたしの背中をさすった。
「……おはよう」
「まだ、ちょっと早いね。寝てようか」
 枕元にある時計を一瞥した後、碇くんは言った。わたしは顔を上げることが出来なかった。
「どうしたの?」
 碇くんは言った。
「碇くんは、本当に私で、よかったの……」
 碇くんの身体がぴく、と揺れる。胸に顔を埋めたわたしにその表情を窺い知る方法はなかった。僅
かな恐怖。それが顔を上げさせることを躊躇わせた。
「綾波は、今までここにいたんだよね」
 こく、と頷く。
「綾波がここにいる間、僕はずっと探してたんだ。綾波のこと」
「…………」
「綾波さ、図書館に行ったりした?あの、駅から少し歩いたところにある」
「…………たまに。どうして、知ってるの?」
「聞き込みだよ。聞いたのは偶然なんだけどね。本にさ、綾波の髪の毛が挟まってたんだよ」
 こんな綺麗なのが、と言ってわたしの髪を梳く。少しくすぐったくて、わたしは震えた。
「どうして、そんなに……」
「綾波は、僕がいい人だと思う?」
「うん」
「実際、そんなことないよ。適当にわがままだし、適当に嘘もつくよ。多分僕ぐらいの人、掃いて捨
てるほどいると思う。ここは都会だしね。僕を見る人のほとんどは、エヴァのパイロットだからって
いうのも大きいんじゃないかな。もちろんそんな人ばかりだとも思わないけど。仲のいい友達もいる
し。そんな人達は、僕のこと等身大で見てくれてると思う。でも、僕自身はそんな大した人間じゃな
い」
「そんなこと――」
「確かに今までね、沢山のひとに告白されたよ」
 わたしの言葉を遮り、ゆっくりと碇くんが語り始める。その声には昔を懐かしむような温度が含ま
れていた。
「その中には、綺麗なひともいた。このひとなら多分、楽しく付きあっていけるんだろうな、と思え
るようなひとも、たまにいたよ」
 胸に締め付けられるような痛みが走る。軽く歯を噛み締めた。この期に及んでまだ他の女性に嫉妬
してしまう自分は、いったい何なんだろう。
「それなら――」
「でも、僕は誰とも付き合わなかった。どうしてか、分かる?」
 また言いかけたわたしを遮り、碇くんは言った。
「…………」
 わたしが黙っていると、彼はわたしのうなじのあたりにそっと手をかけ、上を向かせた。碇くんの
眸が、優しくわたしを見つめていた。わたしの大好きな表情だった。
「僕はずっと、綾波がいなくなってからずっと、綾波が好きだったんだ。だから、全部断ったんだよ」
「わたしを、ずっと……?」
「そうだよ」
 碇くんが笑った。
「ずるいよ、綾波は」
 裸の背中をまたそっと撫でて、彼はわたしの額に自分の額を当てた。
「どこにいるかも分からないくせに、そもそも生きているかも分からないくせに、ずっと僕を綾波の
ものにしたんだから」

 肩の辺りに頬擦りをされ、わたしはまた震える。その言葉に、わたしはまた涙をこぼした。

「碇くん、私、怖いの。私なんかじゃ、碇くんはだめなんじゃないかって。もっともっといいひとが、
碇くんにはいるはずなのに。よりにもよって、こんな――」

 それから先は言葉にならなかった。また、唇を塞がれたから。

「好きだよ、綾波。大好きだ。それ以外に、僕に言えることなんてない。約束するよ、綾波。ずっと
ずっと、綾波と一緒にいるから、世界で一番、幸せにするから…………!」

 腰の辺りをきつく抱き締められ、思わずわたしは低く呻いた。

「だから、何も心配しなくていい。綾波以上の人なんて、絶対いないから」
「碇くん……わたし…………」
 もう一度唇を重ね、碇くんは言った。

「今日は、大学を休むよ。二人で買い物に行こう。家具を買わなきゃ。料理も教えてあげる。何か、
食べたいもの、ある?」


 わたしは目を伏せ、しばらくした後、言った。今のわたしが、碇くんに教えて欲しいもの――



「…………お味噌汁の作り方を、教えて欲しい」
「……分かった。教えてあげる」





――FIN――




ぜひあなたの感想を

【投稿作品の目次】   【HOME】