赤く色づいた葉が、風に吹かれ、ふわりと舞う。
この木の名前が紅葉ってことは、つい最近知った話。
名前よりも、この木の前で告白すると恋が実るという話の方が有名だった。
そして今、僕は一人の女の子と向き合っている。
「えっと、あの……わ、私、碇先輩のことが……」
目の前にいる彼女は、自分を落ち着かせるかのように一瞬息を吸う。
そして覚悟を決めたかのように、一気に僕に言葉を投げかけた。
「あの、その……す、好きです!」
『好き』という言葉を聞くたびに、僕の胸の奥はギリギリと痛む。
昔の僕が求めてやまなかった言葉。だけど今の僕には、その一言が何より重すぎる。
僕の行動が生み出す結果というものを、今の僕は痛いほど知ってしまったから。
解ってるよ。
これから僕が放つ言葉は、残酷なもの。
目の前にいる彼女を、傷つけるであろう言葉だってことぐらい。
だけど自分に嘘はつかないと、あの日約束した。
眩しいばかりの彼女と、時が止まったままの彼女、そしてなにより僕自身と。
青い空を見上げる。赤い葉が、また一枚飛び立った。
彼女の髪のような青と、瞳のような赤。
……そう、君を忘れるなんて、僕には無理だ。
次の瞬間に訪れる痛みに耐えるため、僕は息を吸ってから言葉を放った。
「……ごめん。待つべき人がいるんだ」
――僕はずっと君を待っているから、彼女の気持ちには応えられないんだよ。
言った瞬間の彼女の表情が、僕の胸に浅くない傷をつける。
でも僕は耐えなくちゃならない。
きっと僕なんかより、辛いのは彼女のはずだから。
だから大丈夫。痛くなんか無いんだ。とひたすら自分に言い聞かせる。
僕らの間の何かを隔てるように、冷たい秋の風が僕と彼女の間を吹き抜けた。
叙情詩篇
秋章 〜罪の意識〜
written by 牙丸
「よう、センセ。今日もまた呼び出されてたみたいやな」
教室に入ると、トウジが義足を鳴らしながら近づいてきた。
「……うん、まあね」
そう言った僕の表情を見て、また振ったんかいな? とトウジの目が言う。
事実なので、誤魔化さずに頷いた。
「なんや、もったいないなぁ。あの子知っとるで、2年の山城やろ?」
大げさに溜息をついて、トウジは言った。
「今の2年の中じゃトップクラス言われとるで? ホンマに良かったんか?」
「うん。……僕じゃ、あの子の期待には応えられないし」
「あーあ、センセはモテてええのぉ。ワシかて、あんな風に言い寄られてみたいわ」
その一言が、さっきまで必死に塞いでいたはずの傷を抉りだした。
トウジは何気なく、冗談のつもりで言ったのだろう。悪気はない。
でも、その一言で僕は、胸が詰まって苦しくなる。
溢れ出してくる罪の意識に、押し流されそうになる。
弱い僕はそれから逃れるかのように、やり場のない思いをトウジにぶつけてしまう。
「トウジの方が良いじゃないか。好きな人と毎日しゃべったり出来るんだから」
この一言がどれだけトウジを傷つけたかなんてことも、痛いぐらい解ってる。
優しいトウジのことだ、この厭味の裏にある僕の気持ちが解って、きっと後悔している。
顔に出やすいから、その苦しさだって、解る。
トウジは一瞬委員長の方を見て、それから
「スマン……言い過ぎたわ」
本当に申し訳なさそうに、謝る。
トウジは僕を責めるようなことは、絶対しない。
どうせなら、一気に責め立ててほしかった。
立ち上がれなくなるぐらい、罵倒してほしかった。
そうでもしないと、弱い僕は甘えてしまうから。
もっと傷つけてくれてもいい。それだけのことをやってきた。
逃げる場所なんて無い。逃げも隠れもしたくない。
向き合って、全てをぶつけて欲しかった。
――誰も責めてはくれなかったんだ。
初めて迎える、秋の頃のこと。
その頃の僕は、多分今までで一番ひどい状態だった。
「助けてよ……ねぇ、目覚めてよ、綾波……」
ベット脇に張り付き、縋るように毎日泣いた。
かつてはアスカにしたように、僕は目覚めぬ彼女にただ縋りついていた。
「帰ってきてよ……ねぇ、ねぇってば……っ!」
外は怖いんだ。
外に出たら、ダメなんだ。
カメラのフラッシュは、もう嫌だ。
詰め寄ってくるリポーターも、もう嫌だ。
いなくなった人を返せというデモも、もう嫌だ。
嫌だ。
嫌だ。
嫌だ。
嫌だ。
嫌だ。
「もう、嫌なんだよっ!」
耐えきれないほどの恐怖を、他人にさらけ出せるほど強くなかった。
綾波しか、僕の言葉を聞いてくれる人はいないと思っていた。
「助けてよ、綾波……僕を一人にしないでっ!」
いくら叫んだって、彼女は目覚めてなんかくれない。
そして時間がやってきて、アスカが僕を現実に連れ戻しに来る。
「シンジ。帰るわよ」
「嫌だっ! 綾波の側にいる!」
そう言って駄々をこねる僕を、彼女はただ待ってくれた。
部屋の中に入らずに、廊下から僕を呼び続ける。
甘やかされていた。それに甘え続けていた。
ひどいことも、さんざん言った。
アスカに「僕の何が解るって言うんだ!」って言ってしまったこともある。
それにも、彼女は何も言わなかった。
ただ、そこにいた。
責めてくれた方が、どんなに楽だったか。
弱い僕は、どこまでも甘えてしまっていた。
そんな日々の繰り返しに、終止符が打たれたのは冬も近い、秋の終わり頃だった。
「……シンジ」
「……帰れよ」
「帰ろう」
「嫌だっ! 帰れっていってるだろっ!」
いつものような、繰り返し。
だけどその日、一つだけ違ったこと。
「……じゃあ、あんたは一体そこで何がしたいのよ?」
たった一つの問いかけ。
だけど、僕はそんな簡単な質問にも、答えることが出来なかった。
答えを持っていなかった。
「僕……は…………」
言いかけた喉の奥がカラカラに渇いて、何も言えない。
「ほら、何も言えない。あんた、何にもやりたくないんでしょ。その方が楽だから」
アスカの冷え切った目が、僕の心臓を少しずつ締め上げていく。
「自分の意見に口答えされたくないんでしょ。傷つくのが怖いから」
……やめろ。
「ファーストは黙っているから、自分の全てが肯定されているように感じているんでしょ」
……やめてよ。
「解ってもらうことも諦めてるんでしょ。……そんなの解るわけ無いわよ」
ねぇ、やめてよ……
「あんた、何も言わないもの。何して欲しいんだか、あたしに解るわけ無いじゃないっ!」
――やめてってばっ!!
初めての秋風で冷え切った僕の心には、いきなりの強い日差しはただ痛かった。
その眩しさに、僕の目は何も見えなくなった。
何も解らなくなった。
僕のことは誰も解らない。僕が何も言わないから。
僕も誰のことも解っていない。誰も何も言わないから。
僕だって解らないよ!
僕自身のことさえも、解らないんだよっ!
「うわぁああぁぁぁああああぁぁああぁぁぁああぁぁあああぁぁっっっ!!!!」
解ってもらえるはずのない気持ちを、まして言葉にすることは無理だった。
言葉に出来ないから、ただ叫んだ。獣のように。
でも、言葉というものは思っていたより些細なことだったのかもしれない。
ふと気がついたら、抱きしめられていた。
「……あんた、ホントにバカ。ちゃんと言えるじゃない」
驚きと、安心と、温もり。
「解って欲しいなら、何でもいい。伝えようとしてよ。せいぜいあたしには察することしかできないよ……?」
安心しているはずなのに、何故か涙が止まらなかった。
「……あんたが辛いの、あたし解るよ。……もっと解らせてよ」
アスカの涙声と温もりが、ただ痛かった。
言葉にしなくても、アスカの何かが伝わってきた気がした。
ずっと傷つけ続けていたって、その時になってようやく僕は認めたんだ。
ホントはきっと解ってた。
周りのことも、痛いぐらいに。
ただ向き合うと、もっと痛くなるって知ってたから、知らない振りをし続けてたんだ。
自分が傷つくのが怖かったから。
眩しい日差しが無理矢理にでも、照らし出した部分。
忘れてたんだ。その時まで。
僕の罪は忘れちゃいけないのに。
たくさんの人を傷つけてきたという事実は、決して消してはいけないのに。
向き合っていくって、彼女に誓っていたのに。
「なあ、シンジ」
放課後、机でボーッとしていると、トウジが近づいてきた。
夕焼けが顔を照らしていて、僕にトウジの表情は見えない。
赤く染まった教室で、二人。
「委員長とは今日は帰らないの?」
「今日は先帰れゆうといた。たまには一緒に帰らへんか?」
「……うん、いいけど」
病院までの道を、トウジと二人で歩く。
この道に二つの足音が響くのは久しぶりだ。
踏んだ落ち葉のカサカサとした音が、静かな夕闇に溶ける。
無言。
昔の僕だったなら、この無言の空気が重くて仕方なかっただろう。
必死に何かを喋ろうと、取り繕っていただろう。
でも、今なら知っている。言葉にしなくてもわかることもある。
トウジは今、きっと僕を心配してる。
「……なぁ、シンジ。最近、綾波はどや?」
「何も変わらないよ。……まだ眠っている」
「……そうか。変わらないんか」
静寂。
秋風が落ち葉を舞い上げた。
「……ホントによかったんか?」
「何が?」
「今まで、振ってきた子たちのことや」
黙って頷く。
「惣流もか?」
「……」
「一番、お前のこと解ってたんは……」
「いいんだ」
キッパリと言い切る。
「今更、悔やんでも仕方がないことだから……」
そう。後悔したところで、何も変わらない。
全て僕の決断が招いた結果なのだから。
トウジの足を奪ってしまったことも。
アスカが居なくなったことも。
……綾波が、帰ってこないことも。
運命の時、僕は彼女と向かい合っていた。
周りは真っ白で、でも不思議と温かかった。
白い世界、彼女と二人きり。
「綾波……?」
でも、僕の口から飛び出したのは、疑問。
綾波だってことは解る。
でも君は、僕の知っている綾波なのか……?
「碇くん、聞いてほしいことがあるの」
僕の声が聞こえなかったかのように、綾波は表情を変えぬまま、僕に淡々とした声で言った。
「今、私はリリスと同化している。そして、サードインパクトの執行者としてここにいるわ」
サードインパクト。
これを防ぐために僕らは戦い、傷つき、多くのものを失ってきた。
それが今、目の前の彼女の手によって行われようとしている。
「どうしてだよ……綾波っ!?」
――どうして?
聞かずにはいられなかった。
答えは自分の中に、もうあったはずなのに。
『……見ただろう?あれを』
心の中で僕が叫ぶ。
『あれはヒトじゃないんだ』
そんなの信じたくないよ。
『なら何故、サードインパクトを起こせるんだい?』
綾波がそんなことするはず無いよ!
『あの子は、一緒に戦ってきた彼女じゃないかもしれないじゃないか』
じゃあ、目の前にいる、あいつは誰なんだ……?
「あなたは選ばれた。神となった初号機によって」
綾波は僕の言葉に、応えてくれない。
目の前に君はいるのに、とても遠く感じる。
「審判を下すのはあなた。碇くんの意志によって、私は全てを決める」
解ってるよ。
解らないよ。
解ってるはずだよ。
解るわけ無いじゃないか。
解ってる。
解りたくもない。
解ろうともしないだろう。
解らないんだよ!
「人類を一つにするか、それとも元のような他人の恐怖がある世界か。さあ、選んで」
赤い視線が僕を射抜く。
その瞳の奥に、彼女は……?
――ねえ。綾波は、どこ?
『じゃあ君に聞こう。目の前にいる子は、君にとって誰なんだい?』
僕にとって、目の前にいる君は……
揺るぐことなく注がれる視線。
表情は変わらないけど、その瞳に込められた意志は、紛れもなく懐かしいもののように感じた。
「あんたバカぁ?」
「まったく、鈍臭いわね!」
「シンジ、行くわよ」
赤毛の壊れてしまった戦友が。
「カヲルで良いよ」
「ガラスのように繊細な心だね」
「僕は君に会うために生まれてきたのかもしれない」
自分の手で殺してしまった友が。
「何も知らんのに、殴ってしもて、悪かった」
「いいよなぁ、エヴァに乗れるって」
「碇くんって鈴原と仲良いよね」
今まで出会ってきたたくさんの人々が。
そして……
「あなたは死なないわ、私が守るもの」
「……ありがと」
「もう一度触れてもいい?」
消えてしまった彼女の、笑顔と差し出された手が。
目の前の彼女と重なった。
「碇くん」
僕を呼ぶ声。
――あ・や・な・み?
そのとき何故か意味もなく、彼女が『綾波レイ』であることを悟った。
1人目でも2人目でも、ましてや3人目でもない。
目の前にいた彼女は、『あやなみれい』であって、それ以外の何者でもなかった。
もしかすると、もともと1人目も2人目も無かったのかもしれない。
でも、そんなことはどうでもよかった。
目の前にいるのが、僕が知っている綾波だということが、とても嬉しかった。
「綾波」
それが解ったということを伝えたくて、僕も彼女の名を呼んだ。
手を伸ばした。
「……っ?」
でも、その手は彼女に触れられなかった。
手を伸ばしても、届かない距離。それが今の僕たちの距離だった。
どうして……?
どうしてだ……?
以前は、手を伸ばせば触れられる。そんな距離にいたはずなのに。
届かない手を見て、彼女は笑った。
あの時と同じ美しさで。
「そう。碇くんは、元に戻す方を選ぶのね」
――とても、悲しい表情で笑ってた。
それを見て僕は、この距離を作ってしまったのは、自分自身だということにようやく気がついた。
逃げ出した僕。戻ることのない現実。
それは自分を傷つけ、彼女も傷つけた。
無力だった僕には、どうしようもなかった。
そして彼女の手によって、サードインパクトは収束していく。
エヴァ量産機が停止するのが見え、初号機が飛び立つのが見え、リリスが崩れていくのが見えた。
手は届かない。距離は広がり、遠ざかっていく。
耐えきれず、綾波に向かって必死で叫んだ。
確かに僕は、みんなともう一度会いたいと思った。
その気持ちは紛れもない、本当の気持ちだと思う。
裏切られてもいい、見捨てられてもいい。でも僕はもう一度会いたかった。
アスカと、カヲルくんと、トウジ、ケンスケ、委員長……
でも、一番会いたかったのは――
『さよなら』
月夜の戦いを思い出す。
あれ以来、一回も紡がれることのなかった言葉。
それを紡ぐ唇を、僕はとうとう見てしまった。
涙がこぼれ、にじむ僕の世界から、彼女は消えた。
そうやって、僕は自分の甘さで大切なものを失っていく。
自分の力の無さで、自分も相手も傷つけてしまうんだ。
何処かで解ってた。
解らない振りをし続けていた。
ずっと、ずっと、解らないと思いこんでた。
解ろうとしなかった、向き合おうとしなかっただけなのに。
だから辛くても、待つことを決めた。
後悔しても仕方がない。前を向いているしかない。
世界と向き合うって、あの時誓った。
白い部屋。
綾波は今日も目覚めない。
安らかな呼吸音と、規則正しい機械音だけが響く。
部屋の外で僕を待ってくれる彼女は、もう居ない。
僕は、目覚めることのない彼女を、ずっと待っていた。
「やあ、綾波。今日の調子はどう?」
返ってこない返事を、待ち続ける。
「今日はね、僕らにとっては珍しい物を持ってきたんだ」
取り出した、一枚の赤い葉。
それを綾波の顔の前に近づけてみる。
「紅葉っていうんだよ。綾波はこんな赤い葉を見たことあった?」
言ってしまってから、思い出した。
――ああ、そういえば、君は赤い色が嫌いだったんだっけ?
「ねえ、綾波……」
僕は、間違っているのかな?
誰も傷つけたくなくて、強くなろうと決めた。
でも現実には、まだ僕は人を傷つけ続けている。
アスカを傷つけたし、トウジも傷つけたし、今日僕に勇気を出して告白した彼女だって傷つけた。
そして今も、君の嫌いな赤を見せちゃったね。
僕は失敗ばかりだ。
でも、でもね。
『生きる』ってことは後悔の繰り返しだって、ミサトさんは僕に言ってくれた。
『相手がそう考えてるなんて、そんなこと誰が判るの?』とアスカも言った。
なら、傷つきあうってことは、一歩を踏み出したってことなんじゃないかって最近思うんだ。
相手から離れる一歩もあるけれど、相手に近づく一歩もある。
傷ついたって、僕が相手を嫌いになるとは限らない。
傷つけたって、相手が僕を嫌いになるとは限らない。
こんな風に思ってても、まだやっぱり傷つけてしまったという、罪の意識は消えない。
そういえば昔、内罰的だって怒られたこともあったっけ。
でも今は後ろを向くほど、もう弱くはない。
後悔したって何も戻らない。ならば、前を向いているしかない。
消えなくたっていい。忘れない方がいい。その数だけ前に進める。
乗り越えた先に、僕が求めた強さはきっとあるはず。
だからもう、二度と忘れないよ。
誰のことも忘れない。
君のことも忘れない。
誰にも忘れさせないから――
「……きっと君は帰ってくるよね。綾波」
まだ、君にもう一度会いたいって気持ちは、変わらないよ。
あの距離を縮めたいんだ。もう一度。
――もう一度、君には笑ってほしいんだ。
いつまでも待ってるよ。傷だらけになっても。
互いの針で傷ついても、近づかなくちゃ温もりは感じられない。
秋風が染みるこの心を癒してくれるのは、春風のような君だけだから。