キョゼツ、あるいはハジマリWritten by 北並
side:R 空が紅く輝きだすころになって、私はジオフロントで碇君を見つけた。 それも当然だろう。ほとんど廃墟になってしまっている地上には、居られる場所なんてないだろうから。 逆光に照らし出された碇君の影に、動く様子はなかった。 逸る鼓動を抑えるようにして、私はゆっくりとその後ろ姿に歩み寄る。 手が届くくらいまで近づく前に足を止めると、そのまま無音となった。 けれど私には、聞かなければならないことがあった。勇気を振り絞って、静寂を破る。 「碇君は、……覚えている? ずっと前に、わたしとあなたの間であったこと」 それは私ではなかったはずのわたしのこと。思い出せもしない日々の記録とは違う、おぼろげに、でも温かく浮かび上がってくるわたしのユメ。 もしもこのユメを、確かにすることができたなら。 きっと私はわたしを、――綾波レイを、思い出すことができる。 「私のなかにあるの。碇君が、わたしにくれたはずのものが。なのに、それが何なのか、わからない」 あやふやでうまく言い表せないことにもどかしさを感じながら、背中へ向けて言葉を紡ぐ。 「わたしにとっては、たぶんとても大切だったもの。これがわかれば、きっと――」 「……もういい」 そこで、私の言葉は遮られた。 「君が言っていることの意味がわからないし、僕が教えられるようなことなんて何もない。一人にして欲しいんだ」 「碇く――」 「うるさい!」 鋭い声に、思わず身体が竦む。 「何でいまさら僕のところに来るんだよ!僕にはもう何も残ってないんだ、全部なくなってしまったんだ!だからその姿を僕に見せるな!僕の綾波と同じ姿で、僕の前に現れるな!」 碇君の細い肩は震えていて、その後ろ姿から、私は彼には見てもらえないのだということをようやく理解した。 あの少年に裏切られた碇君は、きっと傷ついているだろうと予想はしていた。 でもそれすら甘えた考えだった。私もまた、碇君を裏切ったもののひとつ。碇君を知らないと言ってしまった、私も。 碇君にとっては、私は綾波レイではない。もう、私の言葉は届かない。 それなら、やるべきことは一つだろう。 何度か荒く呼吸し、碇君の背が平静を取り戻す。 「…………さよなら」 私の口から出たのは、悲しい言葉。けれど、今はもっともふさわしいだろう言葉だった。 碇君に背を向けて、立ち去りながら決意する。 私は、碇君のそばにいられない。 だから、この私の全てを懸けて、私はすべてを無に帰そう。 碇君を傷つけるのなら、世界なんて、私もろとも消え去ってしまえばいい。 side:S することもなく、ジオフロントで西日に目を細めていた。そこに、誰かの足音が近づいてくる。 どうせミサトさんだろうと思ってそのまま何も言わないでいると、聞こえてきたのは、もう聞くはずもないと思っていた彼女の声だった。 けれど懐かしいその声も、嫌なだけだった。彼女が言っていることも全く頭に入ってこない。彼女が僕の知っている綾波じゃないことが、どうしようもなく嫌だった。 言葉を遮り、一人にしてくれと告げる。顔を見ることもしたくなかった。 なのに彼女は、まだ僕の名を呼ぼうとした。綾波と同じ声で。綾波と、同じ呼び方で。 頭がカッと熱くなり、思いが言葉になって溢れ出す。 僕のことを知らないと言った、変わってしまった彼女が憎かった。 彼女にそこにいて欲しくなかった。 彼女がいると、大切なものを奪われるような気がした。 だから拒絶した。 これ以上、何か失うのは嫌だった。 僕が落ち着きを取り戻したころ、「さよなら」と言って彼女は去っていった。その言葉に、自然と思い出す。 明かりの消えた世界でただひとつ輝く月。照らし出された、華奢な美しい姿。そして、綾波が初めて見せた表情のことを。 その記憶はあまりにも鮮やかで、なのになぜか、途方もない昔のことのような気がして――― ―――待て。 彼女はさっき、なんと言っていた? 「ずっと前に、わたしとあなたの間であったこと」 ああそうだ、それはこのことだ。第一僕と綾波の間に思い出になるようなことなんて、これぐらいしかないじゃないか。 なぜ彼女は、僕にそのことを言い出したんだ。綾波ではないはずの、彼女が。 疑問に答えるように、理解していなかった、彼女の言葉が再生される。 「碇君が、わたしにくれたはずのもの」 「これがわかれば、きっと――」 まさか彼女は、僕とのことを、“思い出そうと”していた? それじゃもしかしたら、僕はとんでもない思い違いをしていたのか。 僕が綾波ではないと思っていた、拒絶してしまった彼女は、紛れもなく綾波だった? そんなこと、ありえるはずがない。だって綾波は、僕の目の前で確かに死んでいた。一度は生きていたと思ったけど、それは別物だったはずだ。本人だって、知らないと言っていた。病院での彼女からは、出会ったばかりのころのような冷たい雰囲気がしていた。 だった、けれど。 さっきの彼女には、まるでそんなことは思わなかった。 そもそも本当に、その心の中も綾波ではないのかなんて、それこそ綾波自身でなければわかるはずがない。そのことに、どうして気付かなかったのか。 ただ他人から言われたことを鵜呑みにして、違うものだとばかり思い込んで、考えもしなかった。 何より、僕のところに彼女は来たじゃないか。本当に何も覚えていなかったら、何の繋がりもないはずの僕のところに。 話しかけてきたとき、彼女はいったいどんな顔をしていたんだろうか。 結局一度も、振り返りすらしなかった僕には、知りようもないことだった。 自分の愚かさに泣きたくなってくる。いまさら気が付いたところで手遅れだ。 ずいぶん前に綾波は去ってしまって、もう追いかけることなどできない。 僕は、取り返しのつかない間違いを犯してしまったんだ。 日は沈み、世界は闇に包まれていた。 |