いつか踏み出す時が来たら、自分の思うまま進んでみよう。
暗い夜道に怖れを抱いても、自分自身の脚で歩いていこう。
例え後悔したとしても、それが私の選んだ道だから―――。


Step


私が薄く化粧を施し外出の仕度をしていると、リツコさんが声を掛けて来た。
「あらレイ、出かけるの?」
「はい。」
「シンジ君と会うの?そしたら、帰りは遅くなるかしら?」
「いえ、そんなに遅くならないと思います。」
「そう・・・・・。いよいよ、明日ですものね・・・・・。」
リツコさんは私が大学を卒業するまで、この家に引き取ってくれた。その間ずっと妹のように、娘のように面倒を見てくれた。
彼女は感慨深げに私を見つめていたが、すっと窓の外に視線を移した。
「そうそう、レイ。今日夕立ちらしいから、傘を忘れないでね。」
そう云いながら顔を背けた彼女の目許に、光るものが映った。

外に出ると空はまだ晴れていたが、いつもの傘を手に取った。細身でやや小ぶりの傘はあまり邪魔にならない。
待ち合わせ場所までリニアで移動する。まだ時間はあったが、少し早めに出かけた。
あの戦いから約七年―――新しく遷都されたこの都市は、今ではそんな戦いが無かったかのごとく平和な雰囲気だ。
が、ここまで復興するのにどれほどの努力が必要だったのだろうか?
サードインパクトが回避されたとはいえ、その戦いの傷跡はまだあちこちに残っている。
私は22歳になっていた。正直、この歳まで生きられるとは思いもしなかった。
以前リツコさんに私の身体を内緒で検査してもらった。彼女はこのまま何もなければ、あと二十年は生きられると保証してくれた。
それを聞いたとき、なぜか素直に喜べなかった。むしろ、今までの倍もある残り時間をどう生きるべきか途方にくれた。
初めて人生というものに向かい合ったと云っていい。そんな私に、手を差し伸べてくれた人がいた。

リニアの入り口に立ったまま、窓の外を眺める。電車が加速するにつれ、風景も駆け足になってゆく。
流れゆく景色はまるで、あの頃の自分の生きかたそのものだった。私には立ち止まることは許されなかった。
その先に何が待っていようと、ただ駆け抜けるだけ―――。それが唯一、自分が生きる理由だったから。
そうして流れ去った過去は、振り返っても遥か後方。自分がどう生きてきたのか、見つめ直すことすら出来なかった。
それでも、戦いが終わってからは平和を手にし、人並みの幸せを持つことが出来た。
人並み―――ヒトではないこの私が、である。幸せを掴んだ、そう思っていた。
不意に車内から流れてきた聞き覚えのある声に、私の思考は途切れた。
声のする方に視線を向ける。車内の広告モニターに、見知った彼の顔が写し出された。
それは煙草のコマーシャルで、モニターの中であの人は洗練された、大人の仕草で煙草を吸う。
普段でも彼は煙草を吸うようになっていた。今の男性的な容貌には、確かに似合ってる。
今や彼は人類を救った英雄として、メディアに出ない日は無いという忙しい毎日を送っている。
ブラウン管の中で微かに口元を歪めて笑う。少し皮肉っぽく見えるその笑顔には、以前の気弱そうな面影は無かった。

この都市、いや、この国で最も格の高いシティリゾート。そのラウンジにあるカフェで待ち合わせをしていた。
このホテルでは他人に関心を持たない事が暗黙の礼儀で、密会には何かと都合がいい。
時計の針は4時を少し廻っている。待ち合わせの時間までにはまだ余裕があった。
カフェの入り口が見える窓際の席を選び、ウェイトレスにミルクティーをオーダーする。
外を見つめながら、ペンダントに指を絡ませる。いつの間にかそれが私の癖になっていた。
二杯目の紅茶を飲み終わったが、彼はまだ姿を見せない。既に約束の時間を30分ほど過ぎてたが、待つのには慣れている。
空を見上げるとかなり曇っている。傘を持ってて良かったと思い、少し可笑しくなった。以前の私は、こんな事を考えただろうか?
ふと、長身の人物が通りを横切るのが窓から見えた。少し間を置いて、カフェの入り口の方に視線を向ける。
彼が入ってきた。ブルーのジャケットにサングラスという姿。彼は私に気付くと、すっと右手を上げた。
私の身長は今ではリツコさんより少し高くなったが、彼は私より更に背が高い。
抱かれた時、私の頭が彼の胸あたり、ちょうど彼の鼓動が聞こえる位置にくる。
痩せぎすだった身体は肩幅も広くなり、胸板も厚くなっている。どこから見ても、頼もしい青年だった。
彼はジャケットを店員に渡すと、ゆっくりと歩いてきた。
「悪いね・・・・これでもTVの収録が終わった後、急いで来たんだけど。」
「いえ、私こそ急に呼んだりして。」
「レイ、何か飲む?」
私が首を横に振ると彼は右手を上げ、ウエイトレスを呼んだ。
「あ、君・・・・・俺はブルーマウンテンを。彼女のは下げてくれ。」
ここのブルーマウンテンはお気に入りらしい。心なしか、注文を取るウエイトレスの顔が上気している。
現在の彼はそういう存在だった。女性のみならず、誰からも憧れの的だった。

コーヒーが来ると、彼は一口味わってから一息ついた。サングラスは取らない。
変装らしいが、本当は他人の目を見ないで済むからという事を私は知っていた。
以前から彼は、私の視線を少し居心地悪そうに感じていたふしがあった。だから最近は、二人の時でもサングラスを取らない。
「えっと・・・・・前はいつ会ったっけ?」
「私がドイツに行く前かしら?半年くらい前・・・。」
「あ、もうそんな前になるのか。」
半年前に私は、ドイツに居るアスカの招待で三ヶ月ほどステイしていた。
「アスカ・・・・・綺麗になっただろうな・・・・・。」
コーヒーを置いて窓の外を向きながら、彼が呟く。その声には少し懐かしむ響きがあった。
「ええ・・・・とっても。」
確かに彼女は綺麗になっていた。それは外見だけの話ではない。
アスカはあの戦いが終わった後も、暫くは治療が必要だった。精神を病み、身も心もボロボロになっていた。
長い療養のおかげで彼女は回復し、二年ほど前にドイツへ帰国した。
「彼女は元気だったかい?」
「ええ、今はエヴァのパイロットの頃よりも元気なくらいだわ。」
「・・・どうせ相変わらず、俺のことを嫌っているんだろ?」
やや皮肉っぽい言葉。アスカが入院中、この二人の仲は険悪だった。
結局彼女が退院するまで一度も見舞いに行かなかったようが、彼だけを責めることは出来ない。
あの時は彼女も含め、普通の状態ではなかったのだから・・・・・。
私はなるべく見舞いに行った。それがどこまで役に立ったかは疑問だが、アスカはそれを憶えていてくれたようだ。
退院後の彼女は、以前よりも温かく私に接するようになった。
「アスカは・・・・。もう昔のことは気にしてないって云ってた。」
「・・・・・嘘だね。じゃあなんで俺には連絡も寄越さないんだ?」
「それは・・・・・。」
私は返事に窮した。むしろ彼女が避けているのは、今の彼だから。
アスカがドイツへ戻ってからも、連絡は取り合っていた。半年前、久しぶりに逢った私たちは色々なことを話した。
そのとき彼女に、なぜ彼を避けるのかと聞いた。まだあの戦いの事が尾を引いているのかと心配だった。
でもアスカは首を横に振り、寂しげに呟いた。
『その事はもういいの。私も酷かったから・・・・・。でも、いまのシンジは見たくない・・・・・』
そのとき浮かべた表情に、初めて私は彼女が彼を好きだったのだと気付かされた。
現在の彼・・・・。英雄として尊敬され、前向きで朗らかな性格。男性からは羨望を、女性からは愛を、子供からは夢を託される存在。
彼本来の性格はそうでは無い。だが人々は英雄を、その象徴を欲していた。
存在自体が極秘だった私と、精神を病んだアスカは公にはされなかった。
彼も最初は押し付けられた立場に戸惑っていたが、いつしかそれが本来の性格とすり替わっていた。
「・・・その、前に言ったわね?いまアスカは向こうで、あの戦いの後の復興作業を手伝っているわ。」
「聞いたっけ?憶えてないな・・・・・。」
私が強引に話を変えようとしたのに気付いたとしても、そっけない返事だった。
この人にとって彼女はどうでもいい存在ではなかったはずなのに。・・・或いは、知らない振りをしているのかもしれない。
アスカはドイツに帰国後、まだ生々しい傷痕の残る被災地で単身、地道な奉仕活動を続けている。
『いまの私は何も無いけど・・・・。でも、そんな私にも出来る事が・・・・ううん、やらなくちゃいけない事があるの』
彼女は自ら、すべてを失ったと語った。そして同じようにすべてを失った人達の力に少しでもなりたいと話した。
「彼女はとても立派だわ。被災地に率先して行って、寝る暇を惜しんで、人の為に働いて・・・・。」
私には彼女が失ったものはわからない。けれど、仮にそうだとしても今の彼女はかけがいの無いものを手に入れている。
生きがい―――そして、輝きを。
彼女の明るさ、ひたむきさが、どれほどあの人達を救っている事か。
それを間近で見た私は、云い知れぬほどの感動を受けた。彼女は本当に、美しかった。
「今日呼んだのは・・・・あなたに話したいことがあったから・・・・・。」
私は彼の顔をまっすぐ見た。
「私、ドイツで永住しようと思うの・・・・。」


「・・・・・・・え?」
彼の顔は驚きというより、私が何を言っているのか理解出来ない、といったように見えた。
「・・・・・なに冗談いってるんだよ?」
「冗談なんかじゃない・・・・・もう決めたの・・・・・。」
私はサングラスに隠れてる彼の瞳に視線を合わせた。
「ドイツに行って、アスカの手伝いをしようと思う・・・・。少しでも役に立ちたいの・・・・。」
視線を逸らさず、噛んで含めるように話す。自分がどれほど感銘を受けたか、どれほど力になりたい、と思ったか。
彼はやがて理解したような表情をしたが、それが私の気のせいということを次の言葉で思い知らされた。
「レイ・・・・・もしかして、拗ねてんの・・・・・?」
なぜこんな言葉が出るのだろう?今度は私の方が、彼の言ったことを理解出来ない。
「悪かったよ・・・・・この所忙しくて、構ってやれなくてさ。」
だから私が、こんなことを云い出したと思っているのだろうか?
この人は前はもっと、他人の気持ちに敏感だったと思う。それとも、相手が私だから理解できないのだろうか?
「冗談でも、拗ねているわけでもない・・・・。私は、私の道を見つけたの。」
「みち・・・・・?」
「私、考えてた・・・・・。今の世界の責任の一端は私達にもある。どうすれば私たちの罪を償えるのか、ずっと考えてた・・・・・。」
「罪・・・・・だって?」
さも心外と言わんばかりに、彼の声が高くなる。
「俺達に何の罪がある!?無理矢理あんなものに乗せられて、何度も死ぬ思いをして・・・・・。それでも俺達はこの世界を守った!!
俺は人類を・・・・・この世界を救ったんだっ!!」
「・・・・・確かにそうかもしれない。でも、あの戦いで沢山のものを失い、困っている人は大勢いるわ。」
「だから、何なんだよ・・・・?俺は自分の使命を果たした。あの戦いはすべての責任を俺達に押し付け、自分らの良い様にしていた大人達が
自ら招いた結果なんだ。後始末ぐらい、自分でやって当然さ。」
「でも、その中には罪の無い人たちだって・・・・私たちと同じように、ただ巻き込まれた人たちもいるのよ?」
彼は意外なことを聞いたと言いたげに、口を歪めた。
「じゃあキミに、何が出来る?可哀そうな人達に、キミが何か出来ると思ってんの?」
その声には冷笑が混じっている気がした。世間知らずな女が、一時の感情に流されているだけだと思ったのかもしれない。
でも、そう思われるのも仕方ない。確かに私は、世間知らずだったから―――。
「何が出来るのか・・・・・わからない。でも私は、償えるものなら償いたい・・・・・。」
「それは、キミの偽善さ・・・・。キミは自分が後ろめたく感じているから、誰かを助けようとしているんだ。」
「たとえ・・・・・たとえそうだとしても、私は何もしないなんて出来ない。今の生活に溺れていたくない。」
彼は押し黙った。自分が今の暮らしに胡坐をかいている、そう皮肉を言われたと感じたのかもしれない。
「・・・・・キミは、何が気に入らないんだ?」
苛立った声を私に向けると、あのコマーシャルのように煙草に火を点け、強気な笑みを浮かべる。
「・・・・言っとくが、俺は行かないぞ。キミが勝手に決めたことだからな。」
これが彼の切り札なのだろうか?そう言えば私が取りやめると思っているのだろうか。
「わかってる・・・・。来て欲しいなんて言わない。」
「何・・・・だって・・・・・?」
彼は思わず煙草を落としそうになったが、危うく咥えるとそのまま煙草を吸った。

一本吸い終え、またもう一本、火を点ける。二本目の煙草がすべて紫煙に変わった頃、彼は不機嫌そうに口を開いた。
「わかった・・・・・俺達は暫く離れた方がいいかもしれんな。まあ俺はキミが一年でも持てば、立派だと思うけどね・・・・・。」
どうせすぐ音をあげて帰ってくる、そう言いたいのだろうか。
「で、いつ行きたいんだ?」
「・・・・明日。」
「明日だってぇっ!!」
大声を出して立ち上がった彼に、店内の視線が集中した。
彼は恥ずかしそうに座ると、声を潜めて小声で囁く。
「・・・・・なんで今まで黙ってたんだよ?いきなり言われてもこっちも困るじゃないか。」
「御免なさい・・・・・でももう決まったことだから。」
糸が切れたように座った彼は、大仰に息を吐いた。
暫く私から顔を背けていたが、また煙草に火をつけると苦々しそうに呟いた。
「ひょっとしてレイ、あの記事を真に受けてるんじゃないだろうな?」
あの記事とは、彼がある女優と密会していたというスキャンダルの事に違いない。
「違うわ・・・・・そんな話じゃない。」
確かに私は嫉妬深かったかもしれない。いえ、彼を誰かに奪われるのが怖かった。
でも今は、そんなことを言ってるのではない。それを分かってくれないのが悲しくなった。
「そうじゃなくて、あなたはこれからどうするの?どうなりたいと思っているの?」
今の彼の仕事・・・・TVに出て、英雄として持て囃され、沢山の人から羨望を受けて・・・・。それが悪いとは思わない。
だがその仕事は、彼にとってどんな意味があるのだろう?何を目的にしてるのだろう?
「・・・・い、いきなり何を言い出すんだよ?」
「知りたいの。あなたがこれから何を目標にして、どうやって生きていくのかを。」
彼は苛立ちを抑え切れないというように頭を掻いた。
「あのさ・・・・・俺達はまだ22歳だ。14の時、他人が一生かかっても経験出来ないような苦しみを味わい、俺達はそれを乗り越えた・・・・。
だから今の暮らしがあるんじゃないか。どんなに金を貰って償ってもらっても、足りないぐらいさ。」
まるで余生を送る老人のような答えに、落胆よりも憐れみを覚える。
「あなたは、それでいいのかもしれない。・・・・でも私はまだ時間がある。その時間を無駄にしたくない。」
「今の俺がムダに生きているっていうのか!?」
私の言葉が彼の自尊心を傷つけた。
「・・・・・あの戦いで俺はズタズタになった。いや、それ以前から誰も俺の事など心配してくれはしなかった・・・・・。誰一人として、だ!
俺がどれだけの代償を支払い、犠牲にし、そして此処にいるのか、君に解るか!?」
その声は限りなく苦い。彼にとってその苦しみはまだ現実のものなのだ。
「俺には誰も手を差し伸べてくれなかった・・・・。なのに何故、他人が困っているからといって助けなきゃいけない?」
彼は苛立たしげに、短くなった煙草をもみ消した。彼の空いた手が無意識に何かを掴もうと、虚空を捉える。
それは彼の心に今もなお残る深い傷。心を閉じ篭らせ、目を曇らせ、今の彼の支えにもなっている古傷。
今でも彼は信じている。無条件に自分を受け入れ、慰め、許してくれる―――それだけが愛だと。
「あなたこそ私が差し伸べようとした手を、一度は振り解いた・・・・。」
自分でも冷たい声だと感じた。さぞ容赦ない言葉に聞えたに違いない。
ドグマのことを思い出したのか、彼はソファーに身体を沈めると、聞き分けの無い子供をあやすような口ぶりで言った。
「・・・なあレイ、君のことは俺が一番よく知っている。君は一人で生きていけない。誰かに保護してもらわないと駄目なんだ。」
「私はずっと・・・・・籠の中の鳥ってこと?」
「・・・・・そうじゃない・・・・・ったく、どこでそんな言葉憶えたんだ?」
まるで幼児を叱り付けるような言い方に、少し憤りを覚えた。
「私は色々学んだわ。あなたに教えられたことだけじゃなくて。」
「へえ・・・・、誰からだ?大学に行ってた時の男友達かい?」
私は更に怒りを覚えたが、何とか静めた。こんな痴話喧嘩のような言い争いはしたくない。
「やめましょう・・・・。こんな事を話にきたんじゃない・・・・。」
「・・・・・そっちが言ったんじゃないか。」
それっきり二人とも口を噤んだ。永く、気まずい沈黙。
ここまで会話がすれ違うとは、あの頃は思いもしなかった。何故こうなってしまったのだろう?
お互い、歩む速度が違ったのだろうか?それとも最初から、歩く方向が違っていたのだろうか?
・・・いえ、彼だけが悪いんじゃない、私も悪かったのだ。彼に頼るだけだった私、彼の云う事は何でも聞いてた私。
私が甘えたいから、彼を甘やかした。変わってゆく彼を、ただ見過ごしていただけだった。
その代償は今、自分自身に降りかかっている。―――私も、愚かだった。

「碇君・・・・・。一つだけ、お願いがあるの・・・・・。」
昔、彼に何かをねだるときの私の口癖。大抵、一つでは終わらなかった。
「なぜ今になって、そんなことを言うんだ?ゴメンだね。キミの我が儘に付き合ってられない。」
どうしたの?何でもいってごらん―――昔の彼の言葉が、私の耳に甦った。
「・・・・・そのサングラス、取って欲しいの・・・・・。」
彼は拍子抜けしたような表情で私を見、それからおずおずとサングラスを外した。
「これで・・・・・いいのか・・・・?」
彼の瞳を随分久しぶりに見た気がする。私はしばらく、その瞳を見つめた。
彼が目を逸らすまで、私はずっと見続けた。
「・・・・・な、なんだよ?・・・・・・一体何が云いたいんだよ・・・・・?」
その少し怯えたような瞳が、昔の記憶を呼び覚ました。ヒトではない私から、逃げ出した時のことを。
悲しい事に、以前の彼の面影はそれしか見えない。
「ありがとう・・・・・もう・・・・・いいの。」
でも、それだけで十分だった。
「ありがとう・・・・・。今まで傍にいてくれて・・・・・本当に、ありがとう・・・・・。」
私の瞳からは何も出てこない。だから、悲しくはない。
「・・・・・レ、レイ・・・・・お前、本気なのか?」
彼とお揃いの銀のロザリオを首から外し、机の上に置いた。永い間、私の宝物だった。
「これももう、必要ない・・・・・。」
心底驚いた彼の表情。いや、その歪んだ顔は、明らかに傷ついていた。
「・・・・・なぜ・・・・・なんでだよ?なんで僕から離れていくんだよ・・・・・?」
まるで迷子のようなその表情は、昔のままだった。
彼の心を傷つけた。だが私は、以前の冷徹な仮面の表情で彼を見つめた。
「・・・・・云ったわ。私は私の道を見つけた。そして、その道を歩くことに決めたの。」
そう、自分自身の脚で。
「だから・・・・・さようなら。」
さようなら―――あの二子山の作戦の時、そう言った私を彼が咎めた。
その日以来、彼にそれを口にすることは無かった。
無いと思っていた。それを云う日が来るなど、考えたくなかった。
「レイッッッ!!!」
去ろうとする私に縋りつくような、彼の声。
周りの客はさっきから、あからさまな好奇の目で私達を観ていた。
「・・・・・・あ・・・・・・。」
その視線に気付いた彼は、縛り付けられるように動きを止める。
私はその視線を気にせず、一度も振り返らずに立ち去った。

ホテルを出て曇天の下を一人、歩く。彼は追ってこない。
分かっていた。追ってこれないのを。ああすれば彼は人目を気にするのを。
今の彼には、私より大切なものがある。他人からの尊敬、羨望、うわべだけの評価。
サングラスを外して素顔を晒したまま、逃げた女性を追いかけるような事は、彼には出来ない。
そんなみっともない真似は、今の彼には耐えられないはず。
そう、すべては私の計算どおり―――。彼が追ってこれないよう計算し、行動した結果。
ポツリと雨粒が頬をかすめる。灰色の空からパラパラと雨粒が落ちてきて、たちまち夕立に変わる。
私はひとつ計算違いをしていた。
傘を、忘れてきた。


土砂降りの雨の中、私は傘を持たないまま歩いた。これで彼はもう、私を嫌いになっただろう。
いえ、既に以前からどうでもいい存在だったのかもしれない。彼は私の言葉に耳を傾けようとしなかった。
だから私は、彼の古傷に手をかけた。今もまだ閉じ篭っているその心を、引きずりだそうとした。
私の行いは無意味に彼の心から血を流しただけかもしれない。出来れば少しでも、自分で殻を壊して欲しかったけど。
でもそれが無理なら、嫌われてもいい、願わくば以前彼が私の心を外へと向けてくれたように、その目を開いて欲しい。
そして自分自身の脚で、歩いて欲しい。それが最後の、私のお願い―――。
雨が、落ちてくる。冷たい雫が私の身体を濡らす。
雨は激しく私を打つ。髪が、身体が、たちまちずぶ濡れになる。
最後に別れたときの彼の表情が甦る。それに縛り付けられたように、脚が止まった。
激しい雨はすべてを覆い隠し、何も見えない。前に進むことも、戻る事も出来ない。
―――何も見えない。見えていたはずの、私の道も。
あれしか方法はなかったのだろうか?彼の為などと言って、結局は自分の我が儘を押し通しただけではないのか?
どんなに言い繕っても、私は彼を見捨てた。以前司令を裏切ったように、彼さえも見限った。そのことに変わりはない。
空を見上げた。氷のように冷たい雨が、私の頬を濡らす。
これは雨、冷たい雨。私の頬を濡らしているのは、決して涙なんかじゃない。
私はこんなにも冷酷な女。人を平気で裏切り、彼の心を平気で踏みにじることの出来る女。
だから、涙なんて流さない。私に涙なんて、許されるはずがない。
雨に打たれながら、目を閉じる。あのときの彼の傷ついた表情が、私の目裏から離れない。
彼はまだ、あの場所で佇んでいるのだろうか?私がこじ開けた傷口の痛みに、苦しんでいるのだろうか?
胸の奥が苦しい。でもこれも、きっと気のせい。私に傷つく資格なんてない。
多分、私も傷ついたと、そう錯覚したいだけ。私に心なんてあるはずない。
私はヒトではないから。人の感情なんて持っているはずがないから。
それなのに私の胸は締め付けられる。痛みが前より酷くなる。
その痛みから逃れるように、彼の笑顔を思い浮かべようとした。
何故か思い描けなかったが、やっと逢うことができた。
でもそれは、以前の彼。ずっとずっと大切だった、あの頃の笑顔―――。


この雨が通り過ぎれば、次はきっと晴れるから
今はこのまま、冷たい雨に抱かれていよう。
この雨がすべてを洗い流してくれれば
私の胸の痛みも洗い流してくれれば
明日からきっと、笑うことが出来る
きっと、歩き出すことが出来る。
だから今は立ち止まったまま
少しだけ過去を振り返ろう。
雨が止んだら
私の道が見えたら
一歩前へと、踏み出せるように―――。


< 了 >






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