< 綾波レイ誕生日 & 20万Hit記念 >
窓辺に集う日だまりが、冬が立ち去ったことを教えてくれた。
暖かい日差しに誘われて、僕は外へとすり抜ける。
天気は上々。風もおだやか。
陽光をはじく爽やかな青が、頭上いっぱいに広がっている。
以前は思いもしなかった。青空が、こんなにも愛しいだなんて。
「 青の空の下 」
気持ちよく晴れた日は、ぽっかり開けた草原に寝そべり、空を眺めてぼんやりする。
いつしか習慣のようになってしまった、僕のささやかな楽しみ。
目の前に、のんびり拡がる空の海。
あまりに呑気なその表情に、つい欠伸が漏れてしまう。
春の気配を胸いっぱい吸いながら、ふとあの頃を思い出す。
昔ここには夏しかなく、僕もそれしか知らなかった。
息苦しいくらいの濃紺で、隙間なく塗りつぶした夏空は、暑苦しくて苦手だった。
雲は我がもの顔で膨れあがり、太陽は押し付けがましく照りつける。
その下に住む人々までもが暑苦しく、息苦しかった世界。
あの頃ずっと、夏が嫌いだった。
ただ暑いだけの、疎ましい毎日。
逃げ出したい、そう思っていた。
地上に這いつくばる僕を、なおも追い詰めようとする、苛立たしい人たちからも。
でも、この世界が取り戻したもとの姿が、ふたたび訪れるようになった四季が、
僕の気持ちを変えた。夏への印象も変わった。
あの頃ほど夏は、嫌いじゃ無い。憧れだった冬は、寒すぎるのがちょっと辛い。
一番好きなのは、春。
それも、新たな歳月への期待が日増しにふくらむ、ちょうど今の時期。
麗らかな春の空は、ぼぅっと眺めるだけで、伸びやかな気分にしてくれる。
それに、今日のこの青は格別、優しい。
目に飛び込むほど鮮烈でもなく、冷やかなほど透明でもない。
やわらかく、くすみの無い、穏やかな色彩。
見上げるたびに、不思議に思う。同じ色なのに、どうしてこんなに違うのか。
『青』―――たった一言なのに、言葉に足りぬほど様々に移ろう、空の青。
初めて見上げた秋の青空は、千々に散った雲が消え行きそうで、どこか切なかった。
初めて見上げた冬の青空は、凛と気高い表情が冷たく、どこか近寄り難かった。
そして、初めて出逢った春の青空は、彼女の髪のように清んでいた。
今ではどの空もそれぞれに魅力的だけど、一番なのはやっぱり春だ。
それはきっと、安らげるから。
悩みを持つときも、孤独を抱えたときも、あたたかく迎え入れてくれるから。
もしあのとき、流れ着いたのがこの空だったなら、僕はやり直したいと思っただろうか。
案外、諦めていたかもしれない。
もう僕には、ここしか逃げ場は無いのだから、
傷つくなんて、もう懲り懲りだから、
そう自分を憐れみながら、ずっとうずくまったままだったかもしれない。
でも、あの空に青はなく、そこに安らぎもなかった。
未だ鮮明に憶えている。この空が、青を失ったときのことを。
それを現実と呼ぶには、あまりに残酷すぎて。夢だと思いたくても、あまりに辛すぎて。
あのとき僕は、独りぼっちだった。
海も空もただ、真っ赤だった。
まるで、血の赤―――人の体内を巡る、元始の色彩。
こうして僕が、飽きずに空を見続けるのも、あの赤い空を知ってしまったからだろうか。
ふと気付けば、斜め右にあった太陽が、ほぼ真上に鎮座している。
更に熱を増した太陽は、寝そべった僕の身体を、じわりじわりと暖める。
春の日差しとはいえ、遮るものもない場所だと、さすがに汗が滲み出る。
でも、うっすら浮かんだ額の汗を、そよ風がさらりと拭ってくれた。
少し肌寒いけど、花の芳香を含んだ風の薫りは、思いのほか柔らかい。
親切な風がやがて、雲を招き入れた。
霧のようにけぶる淡雲は、薄い紗幕のように陽光を遮る。
地面に敷き詰めた、鮮やかな緑の色彩。
雲の訪れは、その若草の大地に、深い翠影を落とす。
太陽が隠れると、暑すぎず寒すぎない、ちょうど良い気候になった。
雲に感謝すべきだけれど、丸い白熱の星を隠してしまったのは、僕には不満だった。
あの空に、星はなかった。明るい月も眩しい太陽も、なに一つとして存在しない。
下手糞な前衛画家の手で、油彩でべったり塗りたくったような、深みの無さ。
使った絵の具は赤。たったそれだけ。
そこには、呼吸する余地すらない。だからあの空には、星は棲めなかったのだろう。
僕なら暮らせただろうか、たった独りで。
きっと、無理だ。
あの世界に、輝きはなかった。赤い空にも血を吐くような海にも、なに一つとして。
画家が描くような、美しい風景を期待したわけでも、夢のような世界を望んだつもりもない。
何も望まなかった。ただそれだけなのに。
そしてそこには、彼女はいない。だからあの世界には、僕は住めない。
仮に暮らせたとしても、ずっと独りきり。
だから、無理だ。
触れ合いも無く、傷つけ合う可能性すらない。
その無意味さを、知ってしまった今では。
「―――やっぱり、いたのね。」
不意に、頭の上から声がした。
首を反らすと、淡い色の髪だけ、わずかに映る。
やがて彼女の姿が、視界に入ってきた。この空のように、青い髪。
「もしかして、探してた?」
「いえ、ここだと思ってたから。」
僕が空を眺めるのを、大抵の友人は知っている。
でもこの場所を、知っている人は少ない。
彼女はその、数少ないひと。
「いつから、そうしてたの?」
「んー、少しまえ、かな?」
僕は彼女に答えたけど、彼女は僕の返事に答えず、無言のまま隣に座る。
草若葉の擦れる微かな響きが、耳に届いた。
「外で寝てると、風邪をひく。」
「暖かいよ、今日は。」
「まだ四月じゃないから、油断できない。」
「大丈夫だよ。ほら、陽が出てきた。」
薄雲が剥がれ、ふたたび目も眩むような光が、垂直に降りてくる。
いま太陽は、真上にいる。まっすぐ左手を上げると、ちょうどそこにある。
降り注ぐ陽の光を、片手だけで受け止めるかのように、大きく手を開く。
ほんの僅か近づいただけで、手のひらいっぱいに溢れかえる、ぬくもり。
陽光を遮る僕の手は、暗い影に染まり、黒い網となって捕えようとする。
太陽を。
再びこの手から、逃がさぬように。
「なに、してるの?」
「こうするとね、自分の手が透けて見えるんだ。」
「ほんとう?」
「やってごらんよ。」
彼女は草の絨毯に背を預け、僕にならって、右手を差し出す。
天にむかって伸びる、どこまでも白い腕。
影さえも、その清らかさを汚す事は出来ない。
「―――みえない。」
「だろうね、僕にも見えないから。」
「嘘、ついたのね?」
「うそじゃなくて、そういう歌があったんだよ。」
「歌?」
「うん。こうして透かせば、真っ赤な自分の血が見えるんだ、ってね。」
彼女のご不満に対する答えは、やっぱり彼女のお気には、召さなかったらしい。
「でも、知ってて、騙した。」
「だましてないってば。」
本気で怒ってないのは、僕にもわかる。
けど、ちょっと拗ねてるらしいのも、わかった。
「見えなくても―――さ、」
開いたままの左手で、太陽ではなく、彼女の右手を捕まえた。
「こうすればわかるよ。あたたかい血が流れてるんだ、ってね。」
「―――ずるい。」
頑なに伸びた白い指はそのままに、それきり彼女の唇は、閉ざされる。
拒否されているように、手の内から伝わる体温も、冷たい。
どうやらまだ、許してくれそうに無い。
いつの間にか僕の手は、彼女の手を隠すほど大きくなった。
それでもまだ、彼女に追いついていない。
陽光をたくさん浴びた手のひらは、自分でもわかるほど熱い。
それなのにまだ、彼女の手を暖められない。
くやしさで、つい、力が込もる。
握り締めた手の奥から、自分とは別の脈動が伝わる。
か細くても、確かに存在する繊手が、あらためて教えてくれる。
生きている。
彼女は生きて、此処にいてくれる。
安堵してようやく、力を入れ過ぎたことに気が付いた。
「ごめん、痛かった?」
「大丈夫。」
慌てて緩めると、影すら染められなかった白が、うっすら赤みを帯びている。
僕のせいだ。強く、握り過ぎていた。
「本当に、ご免。」
「謝ることなんて、ない。」
離れようとした僕の手を、たおやかな指が、ふわりと捕える。
「手、あたたかくなったもの。」
「あ―――。」
「ありがとう。温めてくれて。」
彼女の指は、すらりと長い。それでも僕の手を、包みきれない。
けれども、薄く小さな掌から、彼女のぬくもりが伝わってくる。
体温、だけじゃない。すべてを含んだ、ぬくもり。
「御礼を云うのは、僕のほうだよ。」
「どうして?」
「どうしても、云いたいんだ。」
この小さな手が、新たな世界を創ってくれた。
打ちひしがれていた僕の手をとり、導いてくれた。
本当に望んでいた、この世界へと。
ふだん感謝してないわけじゃない。
でも特に、今日という日に感謝したい。
僕にとって、かけがえのない君が、生を授かった事を。
「ありがとう。君がいてくれて。」
考え抜いた挙句の、平凡極まりない言葉。
「どういたしまして。」
彼女には珍しい、少しおどけたような返事。
真剣さが伝わってないようで、ちょっと気に入らない。
華奢な縛めに捕らわれたままの腕が、彼女の方へと導かれる。
抗わずにいると、ゆっくり降ろされた僕の左手が、彼女の左手へと着地する。
束縛を解いた小さな右の掌が、その上にそっと重なる。
「感謝してるのは、私もおなじ。」
「―――うん。」
わかってる。
言葉より先に、僕の手をくるんだその両手が、教えてくれた。
青い髪の透き間から零れる紅い瞳は、限りなく優しい。
僕に安らぎを与えてくれる、唯一の赤。
この世に二つとない、緋の宝石。
「あなたがここに居る。だから、私もここにいられる。」
「逆、じゃないかな。」
「ううん、それでいいの。」
いまだ僕は彼女のように、素直に心を伝える術を知らない。
思考は堂々めぐりし、言葉は行き場を見失う。
こんなところも、彼女には敵わない。
あらためて、空を見た。
日がすこし傾いたのか、さっきほど眩しくは感じない。
僕が何かで悩んでいても、平穏な空は変わらない。
過去に何があろうとも、世界はあたりまえの日常を繰り返す。
和らいだ日差しの太陽が、心地良いぬくもりを風に与え、
ほんのり暖かいそよ風が、控えめな態度で草木を揺らし、
柔らかな若草の囁き声は、風となって空に舞う。
ずっと、変わらない。
ずっと変わって欲しくない、永遠の日常。
「いい天気、だよね。」
「ええ。」
「とっても、あったかいし。」
「そうね。」
「眠くない?」
「―――少し。」
「眠っちゃおうか?」
「だめ。風邪をひくから。」
「ちょっとだけなら、大丈夫さ。」
「少しなら、いい。後で私が起こすわ。」
「僕が起こすよ。たぶん先に目を覚ますから。」
「うそ。私よりも早く、起きたことなんてないくせに。」
そんなことはない。僕のほうが先に目を覚ますことは、しょっちゅうある。
ただ、あどけない君の寝顔に見惚れてるうちに、また睡魔が忍び寄って、
―――なんて台詞は、さすがに言えない。
「嘘じゃない。なんなら、競争してみようか。」
「無駄だと思うけど。」
その微笑みは、ひょっとして、ばかにしてる?
「ようし、やってみよう。どちらが先に起きられるか。」
「いいけど、結果は見えている。」
そうまで言われたら、後には引けない。
確かに君にはとどいてないけど、何もかも敵わないわけじゃない。
一つぐらい、勝てるものはあるさ。
「言っとくけど、自信あるよ。なんなら賭けてもいい。」
「何を?」
「そうだなぁ、お互いなにか、欲しいものでも。」
「何も―――。」
「え?」
「何もいらない。私が目を開いたとき、あなたが居てくれさえすれば。」
言葉以上に、まっすぐな瞳が、胸をつらぬく。
「大丈夫。僕が居なくなるなんて、ありえない。」
断言出来る。それだけは絶対に、無い。
「誓える?」
「もちろん。」
「なら、それだけで充分。」
無欲の勝利というべきか。
これじゃあ、賭けは成立しない。
「やっぱりやめよう、賭けなんて。」
「ええ。」
何も訊ねないのは、僕の心なんてお見通しなのだろう。
静かな微笑みが、それを物語る。
いま、わかった。
たぶん最後まで、僕は君に追いつけない。
だからずっと、僕は君を追いつづける。
追い抜くことはきっと、一度もない。
それでいい。
ゆるやかに流れる時間が、眠りの魔法を二人にかける。
優しい紅玉が、瞬間、閉じた。
僕の目蓋も、同じように、まばたきする。
「眠いのなら、寝ればいいよ。」
「先に寝てて。私はまだ大丈夫。」
「じゃあ、先に目を覚ますのは?」
「それも、私。」
「先に寝て、後から起きるって、なんだか不公平みたいだ。」
「いいの。」
意地の張り合いにすらならない、他愛もない会話。
たいした意味のない、言葉のやりとり。
でも、それを積み重ねられる時間は、何よりも貴い。
やっと、わかった。
僕が飽かずに、青空を見上げるその理由を。
いつも空を見張るのは、再び青を見失わないため。
切ないほど太陽を求めるのは、決して光を手放さないため。
この手をすり抜けることなど、二度と起こり得ぬようにと、
いつまでも僕は、空を仰ぐのだろう。この緑の大地から。
「一緒に、眠ろうよ。」
「―――うん。」
ふたり一緒に、目を閉じて
ふたり一緒に、眠りに誘われ
きっと一緒の、夢を見る。
青の毛布も、緑の敷布も
いまは、僕たちだけのもの。
君の創った、この世界の
君の優しさに満ちた、この世界の
ぬくもりに、包まれながら
愛しい青を、抱きしめて―――。
< 了 >