< 2005’ バレンタインデー記念 >


2月14日は孤独の日―――なんて言い方は大げさだけど、この日になると浮つく世間からは、妙な疎外感を感じてしまう。
だって僕にとっては、縁もゆかりもない行事だから。
そりゃ欲しくないわけじゃないけど、貰ったからといって、必ずしもその娘に好かれているとは限らない。
言ってみれば、まあお祭りみたいなもの。バレンタイン当日にむけ、はしゃぐ女子生徒。そわそわする男子生徒。
そんな姿を見てると、よけいそう思う。・・・いや、いままではそう思ってた。
でも今年の僕は、世間の熱にまかれたようにそわそわしている。どうしても貰いたい相手が出来たんだ。



Sugarless


バレンタインデーを目前に控えた教室の中は、普段の何倍も女子の存在感が強い。
逆に僕ら男子にとっては、どこか居心地の悪さを感じる空間に変化する。
ケンスケやトウジも同じ気持ちなのか、お昼になると僕らは避難するように屋上へ向かった。
僕たち三人以外、屋上は誰も居ない。腰を下ろして弁当を広げ、食べながらくだらない雑談を始める。
ご飯をほお張りながらようやくくつろいだ気分に浸ってると、突然ケンスケがパンパンと柏手を打った。

「う〜っ神サマ仏サマぁ〜、今年こそ貰えますように〜。」

何やら拝み始めたケンスケの姿に、僕は食事の手を止めてトウジと顔を見合わせた。

「どしたんやケンスケ、神頼みせんならん悩みでもあるんか?」
「チョコだよチョコッ!この世に生を受けて15年と5ヵ月余、思えば俺は、まだ一度も貰ったことないんだよ。」
「なんだ、そんなことか。」

せっかくその手の話題から逃げてたのにと、僕は少々うんざりした返事を返す。

「そんなこと、は無いだろ。明日貰えるチョコの数で、男としてのランクが決まってしまうんだぜ。」
「また、大げさだって。」
「は〜っ、ホンマくだらん。チョコなんぞで男の価値を決められてたまるかい。」

トウジも大げさに溜め息をつく。

「だいたい、あんなんもろたかて浮かれるほうがアホなんやわ。なあ、シンジ。」
「あ・・・そ、そうだね。」

反射的に相槌を打ったけど、まるっきり本心ってわけじゃない。

「シンジはいいよなぁ〜。」
「なんで?」
「なんでだぁ?フン、どーせお前みたいにモテるヤツと俺とでは、住む世界が違うんだよ。」
「ちょ、ちょっと!なんで僕がモテるんだよ。」
「ボケもそこまでいくとイヤミやで、センセ。」

う・・・トウジまでなんだよ、その目つきは。

「きっと前の学校でも貰いまくってたんだろ?あーヤなヤツ。」
「そんなわけないだろ!僕のほうこそ、生まれてからいっぺんも貰ったこと無いってば。」
「ホンマかぁ?まあでも今年は、ぎょうさんアテがあるやろ。」

さっきあんなこと言ってくせに、いつの間にかトウジも話に乗ってきている。
・・・やっぱりみんな、この話題に興味無いわけないんだよなぁ。

「ナイナイ、心当たりなんて。」
「嘘つけ、もし惣流や綾波が渡すんなら、お前以外に誰がいるんだよ?」
「けど、惣流が渡すっちゅうんも考えにくいわ。」

僕もそう思う。相手が加持さんなら別だけど。

「綾波はどうなんだよ?」
「どう、って・・・・。」

そんなの、僕が訊きたいくらいだ。

「いやぁ、綾波は無いやろ。だいだいバレンタインデーがなんかすら、知らんのちゃうか。」
「うん・・・そうかも。」

知ってるかどうかはともかく、他の女の子たちと一緒にはしゃぎながらチョコを選んでる綾波なんて、ちょっと想像つかない。

「そりゃ以前はそんな感じだったけどさぁ、最近変わってきてるじゃん。シンジを見るときの目とかさ・・・。」
「え?」
「あー、云われたらここんとこ、センセと一緒にようおるしな。」

確かに綾波との距離は、以前よりも近くなったと思う。僕とだけじゃない、アスカもだ。
あれだけの辛い戦いを乗り越えてきて、いつしか三人の間で戦友というか、仲間意識のようなものが芽生えたのかもしれない。

「でも最近の綾波はアスカや委員長とだって仲良いし、僕だけじゃないと思うけど。」
「そりゃ女どうしは別だって。でも男だとシンジひとりだぜ。」
「せやな。それにセンセも、よう綾波のほうを気にしとるしのう。」
「そ、そんなことないよ!」

そうしょっちゅう見ているつもりはないけど、気が付くと綾波を目で追ってることが多くなったと、自分でも思う。
実は僕の綾波に対する気持ちは、単なる戦友とか仲間とかだけじゃなく、もっと別の感情を抱いている。
でも、彼女の方はどうかだなんて、知る由もない。

「お、赤くなった。脈ありだな。」
「こらいよいよ、アツアツの告白シーンが拝めるかも。」

『碇君・・・チョコレートを貰って欲しいのぉ。』
『嬉しいわ綾波。このチョコ、メッチャウマイで。』
『あたし前から碇君のこと、好きだったの。』
『ワイも綾波のことが、ごっつ好きやねん。』
『ねえ・・・一緒に、わたしも貰って。』
『碇くぅ〜〜〜んっ!』 『あやなみぃ〜〜っ!』


「あのさ・・・・・・。気持ち悪いよ、二人とも。」

暑苦しさとむさ苦しさにみち溢れた抱擁を見せつけられ、食べかけの弁当がいっきにマズくなった。

「・・・なにやってんのよ、アンタら。」

不意に後ろから声がした。振り返ると、いつの間にかアスカと綾波がそこにいる。

「怪しい怪しいとは思ってたけど、二人がそんな仲だったとはね。見苦しいものを見てしまったわ。」
「ちゃ、ちゃうんやって!今んはただの悪フザケで・・・。」
「そうそう!ちょっとシンジと綾波のデモンストレーション、もといシミュレーションってヤツを・・・。」
「私がどうかした?」
「いやっ!何でもありませんっ!!」

慌てて言い訳する二人をジト目で睨んでたアスカが、ハァ〜と溜め息を吐いた。

「ヒカリもわっかんないコよねぇ。何でよりによってこんなヤツ・・・。」
「委員長がどうしたの?」
「アンタが気にすることじゃ無いわよ。」

僕の問いかけはあっさり流される。最近アスカって、僕や綾波には妙にお姉さんぶりたがるんだよなぁ。

「シンジ、まだ食べてたの?もうすぐチャイム鳴るわよ。」
「あ、いけね。」

慌てて食べかけの弁当をしまっていると、すっと目の前に綾波がしゃがみ込む。

「ご飯、食べないの?」
「う、うん。なんか食べる気しなくなったし。」
「具合でも悪いの?」

別にそういうわけではない。たださっきの二人の悪フザケにげんなりして、食欲が無くなっただけだ。
考えてみれば、こうして気遣わしげに訊いてくれるのも、以前は無かったことだ。

「いやあの、もうおなか一杯になっただけだから。大丈夫だよ。」
「・・・良かった。」

そう言って微かに頬を緩めた綾波の笑顔に、つい見惚れてしまう。
やっぱり綾波は、表情が豊かになった。
他の人からすればまだまだ無表情に見える範疇もしれないけど、ゆっくりと、でも着実に変わりつつある。
そして僕は、そんな彼女から日に日に目が離せなくなっている。

「行きましょ、碇くん。」

そう言って僕の手を取ったその感触は、とても柔らかい。
当たり前だけど、女の子の手なんだよな。硝子細工のように繊細な指だから硬いイメージがあったけど、まるで違う。
それにひんやりしてるけど、厭な冷たさじゃない。むしろ心地よくて―――。

「碇くん?」
「うわっ!?」

思いがけず綾波の顔が間近に迫り、反射的に背中を反らした。

「どうしたの?」
「えっ!な、なに?」
「顔が、赤い。」
「いやその・・・・・・。」

綾波の視線をまともに受けたせいか、頬がさらに熱い。

「もしかして、風邪?」

宝石のような紅い瞳が迫ってくるのに耐え切れず、ちょっとだけ視線を逸らした。
ダメだ、二人があんなこと言うもんだから、すごく意識してる。

「違う違う!しばらく屋上でひなたぼっこしてたから、それで赤いんだよ、きっと。アハハ。」
「そう?でも、態度が変。」

まだ納得しない綾波に気付かれないよう、目顔でアスカに助けを求める。

「レイ、危ないわよ。あの二人のバカがシンジにうつったのかもしれないわ。」

目だけ笑いながら、アスカがしれっと言う。
ジッと僕の顔を見据えていた綾波が、さっきより強引に僕の手を引っ張る。

「保健室・・・。」
「いやあの、ホントに大丈夫だから行かなくていいってっ!ちょっとアスカ、ヘンなこというなよ!」

真に受けてるのか真剣な表情の綾波に、アスカがたまらず吹き出した。
笑いだしたアスカを見てキョトンとするその姿に、アスカが綾波に悪い影響を与えてやしてないかと、今更ながら心配になった。


▼△▼


授業が終わって帰り仕度をしていると、アスカが僕の机に近寄ってきた。

「シンジ、今日もアタシ遅くなるから、ご飯はいいわよ。」
「あ、わかったよ。」

最近はNERVにいく機会がめっきり減ったため、学校が終わったらまっすぐ家に帰る日が多い。
アスカはここのとこ、よく委員長の家に遊びに行ってる。そのせいで毎回食事当番なんだけど、それについて文句はない。
トウジもケンスケも今日は掃除当番なので、一緒に帰れない。ふと見ると、綾波が教室を出ようとしていた。
そういえばここんとこ、綾波と一緒に帰ってないや。たまには僕から声を掛けてみよう。

「綾波、あの、一緒に帰らない?」
「え、でも・・・。」

少し返答に詰まった綾波の肩に、ポンとアスカの手が乗った。

「ざ〜んねん。レイはアタシたちと先約があるから。」
「先約って委員長のとこ?」
「ええ、ごめんなさい。」

ちょっと残念に思ったけど、それなら仕方ない。

「じゃあ碇くん、ここで。」
「う、うん。じゃあね。」

挨拶を交わして、綾波たち三人は教室を出る。結局、僕は一人で帰ることになった。
最近、アスカと綾波は妙に仲がいい。
それ自体はいいことだし、昔を考えればむしろ喜ぶべきなんだけど、仲間外れになったような気がして、ちょっと複雑だった。


▼△▼


「いってらっしゃ〜い、二人とも。」

翌朝、寝坊で少し遅くなった僕たちは、ミサトさんへの挨拶もそこそこ、急いで学校へ向かう。
寝坊したのはアスカなんだけど、彼女いわく 『連帯責任』 とのこと。そのくせ、逆の場合はいまのところ無い。
マンションのエレベータに乗って一階のボタンを押す。扉が閉まると、アスカがカバンの口を開けて何かを取り出した。

「はい。ミサトに見られたら煩そうだったから、ここで渡しとくわ。」
「え?」

彼女の手にあったのは、緋色の包装紙でラッピングされた、小さな箱。
細い金のリボンに、『st.valentine』 の文字が刻印されている。

「チョコレート・・・?」
「そ。ヒカリに教わりながら作ったのよ、加持さんのためにね。」
「あ、ひょっとして失敗したとか?」
「バカァ?このアタシが失敗するわけないでしょ!加持さんのは完っ璧に出来上がったわよっ!」

だってアスカがくれる理由なんて、それくらいしか思いつかないし・・・。

「作り過ぎちゃったから、恵まれなさそうなアンタに寄付してやるつもりだったのに、そ〜いうこと言うわけ?」
「ゴ、ゴメン。」
「マジマジ見てないで早くしまいなさい!こっちが恥ずかしくなるじゃないの。」

そんなに物珍しそうに見てたかなと思いつつ、カバンの中に押し込んだ。

「言っとくけど義理よ、義理!どっちかっていうと世話してあげてる立場だけど、いちおー同居人だし、社交辞令みたいなもんだからね。」
「そんな念押ししなくても、分かってるってば。」
「分かってないわねぇ〜、義理とはいえ、恐れ多くもこのアタシから貰えるのよ。もっと感謝しなさい。」
「ど、どうも。」
「心がこもってないっ!」

だって、義理じゃんか。
でもホントのところ、嬉しくないわけじゃない。貰えないよりはずっといい。

「ありがとう、アスカ。」
「よろしい。アンタもちっとは、礼儀ってものを覚えたようね。」

アスカの口から礼儀という言葉が出ること自体、違和感があるけど、そこまでは口に出さない。
覚えたのは礼儀じゃなくて、引き際かも・・・なんてことを考えてるうちに、1階に着いたらしい。エレベータが開いた。
タッと駆け出したアスカが唐突に足を止め、くるりと振り向く。

「ふふん、きっと帰る頃にはいまの100倍感謝することになるわ。ちゃんとレイも作ったから。」
「え―――?」

不意に綾波の名前が出たことに、どきっとした。

「あっきれちゃうわよ。あのコったらバレンタインのことなんて、なーんにも知らなかったんだから。」

やっぱり、知らなかったんだ・・・。

「でもアタシたちが教えてあげたらさ、そりゃ張り切って作ってたわよー。きっと誰かさんにあげるんだろーな。」
「だ、誰かさんて?」

思わず聞き返した僕に対し、アスカは呆れたような視線を向けた。

「ま、けっこうお似合いかも。同じボケボケコンビだし。」
「なんだよ、それ。」
「とにかくアンタは、楽しみに待ってりゃいいのよ。」

ってことは・・・・・期待して、いいのかな。

「ほら、ぼさっと突っ立ってんじゃないの!遅刻しちゃうでしょ。」

その言葉に弾かれたように走り出したのも、遅刻するからというより、嬉しさでジッとしてられなくなったからだ。

「シンジ、ホワイトデーにはきっちり返してもらうからね。」
「分かってるってば。」
「お礼は10倍返し!忘れんじゃないわよ。」
「はいはい。忘れないから。」

走りながら適当に相槌を打つ僕の耳に、アスカの言葉なんて半分も入ってこない。
僕の心はすでに、期待でいっぱいだった。




学校に着いて下駄箱を開けたとたん、ドサッと何かが落ちてきた。

「・・・あれ?」

足元に散らばったのは、きれいにラッピングされたチョコレートの箱。一瞬、下駄箱を間違えたのかと思った。
拾いあげて宛名を確認したけど、どれも僕宛てになっている。

「なあにそれ、全部チョコなの?」
「・・・うん。名前を見たけど、間違いじゃないみたい。」
「ほ〜、どれどれ。」

言うが早いか、パッと僕の手からひったくるように奪う。

「ちょっと、ダメだって!」
「取りゃしないわよ!へ〜っ 『碇シンジ様へ』 ねぇ、ハートマークまでつけちゃってまあ・・・。」

代わる代わる箱を眺めるアスカが今にも封を開けやしないかと、見てるほうはヒヤヒヤものだ。

「4つも貰ってるじゃない。結構もの好きが多いのね、この学校。」
「もの好きってのは余計だよ。」
「なーんだ、アンタにあげないで、もっと恵まれないヤツに寄付してやってもよかったかな。」
「そ、そんなに言うんなら、返すってば。」
「冗談よ、バカ。ちゃんと10倍にして返せば文句ないわ。ちょうど新しい洋服が欲しかったし。」

あながち冗談とも言えないその言葉に、本気で返品したくなってきた。

「ホラ、とっととしまいなさい。それとも見せびらかしたいわけ?」
「アスカが取ったんじゃないか。」
「アタシ先行くわよ。遅れるのヤだから。」

そう言い捨ててアスカは駆け出した。あのー、連帯責任じゃなかったっけ。
カバンにチョコをしまい、急いで教室へ向かう。ドアを開けるのと予鈴が鳴ったのと、ほぼ同時だった。
教室に入ると無意識に窓際に目を走らす。綾波は―――いた。
挨拶、したほうがいいだろうか。でも、わざわざ窓際まで行って挨拶だけっていうのも、変に思われないかな。
いやいや、いつもやってるし、気にする必要ないじゃないか。今日がただ、バレンタインデーっていうだけで・・・。

「碇、なに突っ立ってる?」

入り口を塞いでた僕の背中を、先生の声が押しのける。
周りのみんなにクスクス笑われながら、自分の席についた。


▼△▼


一時間目の授業の間、僕の気は綾波の方へ逸れっぱなしだった。
いつ貰えるんだろうかとか、貰ったら何て云えばいいんだろうとか、授業が終わってもそんなことばかり考えてた。
おかげで少し、注意力散漫になってたらしい。
ふと気が付くと、僕の席の前に見知らぬ女の子が立っていた。

「碇シンジさん・・・・・ですよね?」
「はい、そうですけど。」
「あの・・・・・・宜しかったらこれ、受け取ってください。」

そう言って差し出されたのは、もしかしなくても、バレンタインデーのチョコだった。

「え、え〜と・・・・・・。」
「お願いします!」
「は、はい。・・・・ど、どうもありがとう。」

半ば圧倒されながらチョコを受け取ると、ちゃんとした御礼をいう間もなく、彼女は教室を出ていった。
勢いで受け取ってしまったチョコをしばし呆然と見ていると、トウジが人の悪い笑顔を浮かべながら寄ってくる。

「ほぉ〜お、センセェ、さっそくチョコ第一号やの。」
「いやっ、あのっ、これは・・・。」
「昨日は心当たりなんか無いとか言ってたくせに。この裏切りモノ!」
「ち、違うよケンスケ!だって本当に、今の娘なんて会ったことも無いってば!」
「彼女、3−Fにいるわよ。名前は思い出せないけど・・・そっか、あのコも碇くんに持ってきてたんだ。」

前の席に座っていた女の子が振り向いて教えてくれた。
・・・・・ん、『あのコも』 って?

「はいこれ、碇くんに。あとで渡すつもりだったけど、さっきのコのお陰で渡しやすくなったわ。」
「え?・・・あ、ありがとう。」

ペコッとお辞儀して受け取った僕を、トウジはニヤニヤしながら、ケンスケはジトぉ〜と粘りつくように見ている。
気まずくて顔を逸らせた僕は今更ながら、もっとまずいことに気が付いた。
窓際の席から、綾波がじっとこちらを見ていた。


▼△▼


それからが大変だった。

あの3−Fの女の子から貰ったのを皮切りに、休み時間になる度、女の子がチョコを持ってくる。
同じクラスの子からも貰ったけど、殆どは別のクラス。中には下級生の女の子までいた。
最初は戸惑っていた僕も、貰うことに段々馴れてきて、ちゃんと御礼をいったり、握手を返すようになった。
いままで一度も貰ったことがない僕にとって、こんなに沢山貰えること自体謎なんだけど、やっぱり嬉しいものは嬉しい。

でもその一方で、いまだに一番欲しい人から受け取ってないことに、チクチクとした不安を感じる。
綾波とは今日、一度も話していない。それどころか、だんだんと近づける雰囲気じゃなくなってきている。
彼女の目の前で、他の女の子からチョコを受け取るのはさすがに気がひける。なので休み時間になるとすぐ、教室を離れた。
だけど廊下で突然渡されることもあり、その場合後ろめたさを感じつつも、チョコを持ち帰らなければいけない。
そんなときに限って教室へ入った途端、綾波と視線が合ってしまう。悪いことをしたような気になって、つい視線を逸らす。
相変わらず綾波との距離は遠いまま、あっという間に昼休みになってしまった。




「なにやってんのよアンタ?こんなトコで。」

屋上で一人ポツンと弁当を広げてた僕のところへ、アスカがやってきた。

「なにって、見てのとおりだよ。今日はトウジとケンスケからも除け者にされちゃってさぁ・・・。」
「あのねぇ、アタシが言いたいのはレイを放っぽっといて、なにのんびりお昼なんか食べてんの、ってこと!」
「だって綾波は、アスカと一緒に食べてたんじゃないの?」
「今日は居ないのよ。てっきりシンジと一緒だと思ったんだけど・・・。」

困惑したようなアスカの表情に、ものすごく不吉なことを考えてしまった。
いま、こうしてアスカと話している間に、綾波は誰かと―――。

「ねえアスカ・・・・・綾波がチョコを渡したい相手って、あれ、本当に僕なのかな?」
「ハァ?突然なに言い出すのよ?」
「だってアスカは、ハッキリと綾波の口から聞いたわけじゃないんでしょ?」
「そんなの訊かなくても、普段のあのコの態度を見てればバレバレじゃない。」
「そうかなぁ・・・・・。」

確かに綾波は表情が豊かになった。以前よりも打ち解けてきた。
でも、それと僕の事が好きというのが結びつかない。単なる僕の願望、そうだったらいいなと欲目で見ていた可能性もある。

「ナニよそれ、アタシの言うことが信じられないわけ?」
「いや、そういう意味じゃ無いんだ。ただ・・・。」
「レイはね、ああ見えてホントは恥かしがりやなのよ。アタシも付き合ってるうちにわかったんだけどさぁ。」
「そうなんだ?」
「それに極度のあがり性だし。傍から見ると憎たらしいくらいに無表情だから、なかなか気付かないけどね。」
「ふうん。」

僕は大きく溜め息を吐いた。そこまで綾波のことを解ってるアスカが、なんだか羨ましい。

「でも・・・ならどうして、チョコをくれないんだろう?」
「ホントにバカねぇ。好きな男があれだけモテてるのを見れば、機嫌悪くなるのも当ったりまえじゃない。」
「や、やっぱりそうなのかな?」

一番痛いところを突かれ、頭を抱えたくなった。

「でもあれには、僕のほうが驚いたんだよ。あんなに貰える理由なんて、ぜんぜん心当たりないのに。」
「ふ〜ん、理由ねぇ・・・。」

アスカは頭の後ろで手を組むと、何か意味ありげに僕の顔をジロジロ見た。

「・・・ま、エヴァのパイロットで男はシンジだけだからね。なんつったって世界を守ったヒーロー様だし。」
「嫌な言い方だなぁ。そりゃあもしアスカが男だったら、僕なんかより沢山貰ってただろうけど。」
「アンタ、ぶん殴られたいわけ!?」

ギロリと睨まれ、慌てて首をすっこめた。

「それよりどうするつもり?レイがチョコを渡さないのも、きっとアンタが他の娘から貰ってるのを見て、ヘソ曲げてんのよ。」
「そんな・・・・・。」

確かに逆の立場だったら、僕だっていい気分でいられるはずがない。
でも、バレンタインデーに渡されたチョコを、断るわけにもいかないじゃないか。

「別に、チョコを受け取っても告白されたことにはならないし・・・それにアスカが言うように、エヴァのパイロットだから貰えただけで・・・。」
「アタシにぐちぐち言い訳しても仕方ないでしょ!謝るんならレイに謝りなさい!」
「う、うん。そうだよね。」
「ったく、世話の焼ける・・・。ちゃんと誠意を見せるのよ、いい!?」
「わかってる、ちゃんと話すよ。ありがとう、アスカ。」
「礼なんかいいわよ。貸しにしとくから。」

背中を向けて右手をひらひらさせたアスカにもう一度御礼を云って、残り少ないお昼休みの間に綾波を探そうと決めた。




校舎裏に、普段あまり人がいない、ひっそりした植え込みがある。
教室とかを廻ったあと、ひょっとしたらと思って僕はその場所に行ってみた。
以前、綾波と話したとき、なにかの話題でここが彼女の落ち着く場所だと聞いた記憶があったから。
植え込みにはツツジの木がぐるりと周りを囲み、しゃがんでいれば外からは見えない。
背を伸ばして中を覗くと、淡い空色の髪が見えた。
芝生の上で、女の子がよくやるように脚を横向きに曲げたまま座り、ずっと下を向いている。

「綾波・・・・。」

僕が声をかけると、考えごとをしてたのか、やや遅れて顔を上げた。

「碇くん・・・・・どうしてここに?」
「いや、その・・・・・・。」

取りあえず探せたはいいけど、なんて話かけようかなんて、まるで考えていない。
綾波はとっくにお昼を食べ終えたらしく、キチンと包まれた小ぶりの弁当箱は芝生の上に置かれていた。
そして彼女の膝の上には、空色の包みでラッピングされた小さな箱。

「あ、それ・・・・・・。」

僕は視線をその小箱に向けたまま、つい口を滑らせてしまった。
綾波は膝の上に目を落とすと、僕の意図を悟ったようだ。

「作ったの。バレンタインデーだから。」
「へ・・・・へぇ、手作りなんだ。」

ヘタな相槌を打ったものの、そこからどう切り出していいか分からない。
まさか 『なんでそれ、僕にくれないの?』 なんて図々しいセリフ、言えるわけないし・・・・。
しばしの沈黙が流れた後、綾波はスッと立ち上がると、僕の心を見透かすような眼差しで問いかける。

「―――チョコレート、欲しい?」

期待してたのとはほど遠い、冷めた言葉。

「あ、あの・・・・・その、も、貰えるんなら・・・・・。」

厚かましい、と思いつつも、つい本音が漏れてしまった。

「そう・・・・・・・・・じゃあ、あげる。」

そっけなく、ポンと掌にのせられた、きれいな空色の箱。
アスカのよりも大きな箱だけど、綾波の髪の色に似た空色の包みが、どこか冷え冷えとして見える。
相変わらず固い表情を崩さない彼女が何ごとか言いかけたとき、チャイムが鳴り響いた。

「行きましょ・・・・時間だから。」

ポツリと綾波は呟くと、背を向けて早足で歩いていく。心なしか、この場から立ち去れることにホッとしてるように見える。
一番期待していた相手から貰えた筈なのに、心が弾まない。
御礼を云うのも忘れたまま、ただ呆然と、遠ざかる淡い空色の髪を見つめた。


▼△▼


その日の午後の間中、僕の気分は落ち込みっぱなしだった。
授業中に綾波を盗み見ても彼女はずっと俯いたままで、心此処に在らずというか、何かを悩んでいるように見える。
そんな様子を見るたび、もしかして僕にチョコを渡したことを後悔してるんじゃないか・・・と、嫌な考えばかりが頭をよぎる。
他の女の子からチョコを受け取るのも苦痛になってきて、早く学校から逃げ出したかった。

ようやく放課後のチャイムが鳴ると、僕はそそくさと帰り支度を始めた。
貰ったチョコを全部カバンに入れる。ギチギチで今にも口が外れそうだけど、なんとか詰め込んだ。
トウジとケンスケに一緒に帰ろうと声を掛けたけど、トウジには笑顔で断られた。

「すまんシンジ。ワシちょっと用事あるけん、先帰るわ。」

妙にニヤケた顔でそう言い残すと、あっという間に教室を飛び出ていく。

「どうしたんだろ?あんなに慌てて。」
「あいつ、チョコ貰ったらしいぞ。しかもどうやら本命っぽいんだぜ。」

ケンスケがこっそり耳打ちする。ふ〜ん、誰に貰ったんだろ?

「あ、まてよケンスケ。一緒に帰らないか?」
「うるさいっ!お前もトウジも、チョコ持ってるヤツは今日オレに近づくんじゃな〜い!」

八つ当たりだよ、そんなの・・・・・。
ケンスケも怒ったような足取りで教室を出て行く。しょうがない、また一人で帰るか。
教室を出ようとした寸前、パッとアスカに腕を掴まれた。

「ちょっとシンジ、あんただけでサッサと帰るんじゃないわよ。」
「あれ、アスカは今日、真っすぐ帰るの?」
「帰んないわよ。アタシ、NERVに行かなきゃいけないんだから。」
「え、なんか召集でもあった?」
「バカねぇ、加持さんと逢うために決ってんじゃない。」

ああ、チョコ渡しに行くんだ。

「レイと一緒に帰りなさいよ。ちゃんと貰ったんでしょ?」
「う・・・・うん。」

確かに、貰えたことは貰えたんだけど・・・。

「なに浮かない顔してんの。まだ機嫌悪いんなら、ちゃんとフォローしとかなきゃ駄目じゃない。」
「確かに・・・そうなんだけど。」

お昼休みまではその気もあったけど、今はそうも思えなくなってきた。
ひょっとして僕は、とんでもない勘違いをしてたんじゃないだろうか。

「なにグズついてんのよ・・・レイ〜〜ッ、シンジが一緒に帰ろうってさ。」

アスカが大声で呼びかけると、綾波は自分の席からこくっと頷き返し、席を立った。

「ほら、後は頑張んなさいよ。じゃあねっ!」
「ちょっと、アスカッ!!」

呼び止めようとしたときはもう、彼女は駆け足で去って行った後だ。
振り向くと綾波はカバンを両手で持ったまま、無言で立っていた。

「じゃ・・・・・じゃあ、帰ろうか。」

僕の言葉に小さな頷きだけで返事する。いつもよりいっそう無口になっている綾波に、よけい不安が募る。
仕方なく僕が先立って歩くと、少し遅れて綾波もついてきた。
さすがに、女の子と二人で歩いてるときにチョコを渡してくる子はいない。唯一、それだけが救いだった。

校門を出るまで、いや、出た後も延々とつづく、沈黙。
綾波が無口なのはいつものことだから、何か話題を振らなければと必死になればなるほど、思考がカラ回りする。
こういうとき、自分の口ベタが心底恨めしい。
いっそ、何も話さないほうがマシかも。でも、このまま別れるのはもっと気まずい。
交差点の信号が赤になったので、僕らは立ち止まった。よし、何でもいいから声を掛けてみよう。

「あ・・・・。」
「あの・・・・・・。」

向かい合った僕たちは、ほぼ同時に口を開いた。

「・・・な、何かな?」
「碇くんのほうこそ、何なの?」
「あ、いや、後で話すよ。大したことじゃないし。」
「そう―――。」

伏し目になった綾波は、一瞬、ためらうかのように言葉を切った。

「碇くん・・・・・あの、やっぱり、返して。」

「え?」

最初、何のことなのか分からなかった。


「ご免なさい。チョコレート、返して欲しいの。」

あらためて僕を見たときの、氷のように冷たい表情。
その唇から発せられた言葉は、今度ははっきりと理解出来た。

 ―――その言葉の意味することは、疑いようも無く。
 ―――その意味の残酷さが、僕の心に、冷たい楔となって打ち込まれる。


「そっか・・・・・・・・・。やだなボク、てっきり勘違いして・・・・・・。」

そこからはもう、声にならない。俯いたままカバンの中を探って、あの空色の小箱を素早く押し付けた。

「碇く―――。」
「じゃ、じゃあねっ!」

一秒でもその場にいるのが居たたまれず、一度も目を合さないまま逃げ出した。


▼△▼


ずっと走ったせいか、マンションに着いたときはゼイゼイ息をしてた。
胸が苦しい。それ以上に、心が痛い。玄関のドアにもたれると、キンとオートロックの甲高い音が響いた。
息を整えて部屋に入り、机の上にカバンを放り投げる。ぶつかったはずみでカバンの口が開き、中身の箱が溢れ出す。
チョコなんてもう、見たくもない。ベッドに倒れこんで目を塞ぐ。
ミサトさんも、もちろんアスカもいない。その孤独が、いまは有り難い。
じわりと、涙が滲んだ。ひとり浮かれてた自分が滑稽でバカバカしく、無性に腹が立つ。
なんで、自分がモテるだなんて勘違いしてたんだろう?
アスカの言った通りじゃないか。僕なんてエヴァのパイロットという肩書きが無ければ、誰からも見向きもされない存在なのに・・・。




ピンポーン

遠くで、何か物音が聞こえる。

ピンポーン

チャイム?誰が来たんだろう。

ピンポーン

まだ鳴ってる。でもどうでもいい、そのうち諦めるだろう。

・・・・・・・・・・・・・

ほら、止んだ。これでまた、一人になれる。

トントントン

今度は足音が響いた。鍵を開けて入ってきたらしい。

トントントン

ミサトさん?じゃあなぜ、チャイムを鳴らしたんだろう?

トントントン

足音が僕の部屋に近づいたとき、ようやく気付いた。
同居人以外で、この家の合鍵を持った女の子―――。


「・・・碇くん。」

静かな綾波の声が、ノックの音よりも強く響く。弾かれたように、ベッドから跳ね起きた。

「そこに、居るのね。」

正直、会いたくない。でも居留守を使うには遅すぎた。
しぶしぶ扉を開ける。走ってきたのか、白い額には珍しく汗が浮かんでいる。息も少々乱れていた。

「・・・・・・なんで、追っかけたりするんだよ。」

なぜ彼女が走ってきたかなんて深く考えもせず、ただ、その言葉を投げつける。

「碇くん・・・きっと、誤解してるから。」
「わかってるよ、綾波の気持ちなんて。みんな僕が勝手に―――。」
「解ってない。」

まるで僕を非難するかのような鋭さに、言いかけた言葉はスッパリ切り払われる。
それ以上反論する武器を持たない僕は、あっさりうなだれた。

「碇くん、私を見てくれないの?」

言い返す術もなく、ただ僕は俯くことで、辛うじて身を守ろうとする。
ずっと逃げている。彼女の視線から。

「目を、閉じて。」
「なんで―――。」
「お願い。目を閉じて。」

解らない。彼女が何を考えてるかなんて。
それでも目を閉じたのは、その方が楽だと思ったから。
目を閉じれば、綾波の存在から逃れられるように思えたから。
でも、何も見えない世界がもたらしたのは、暗い沈黙。
重々しい静寂はただ、息苦しさを増すばかり。

固く握り締めた拳の中にジトリと汗が流れたころ、不意に何かが、軽く唇に触れた。


▼△▼


「――――――!?」

甘味のある固い感触が通り過ぎる。思わず緩めた唇に、その塊が押しこまれた。
仄かな苦さに、甘すぎるくらい甘い、チョコレートの味。
噛むごとにその甘さが、口いっぱいに広がっていく。


「美味しい?」

僕が飲み込むのを見計らって、綾波が訊ねた。

「・・・・・うん。」
「まだ、あるから」

さらに一つ、押し込まれたチョコレートを食べるのに、少しだけ躊躇した。
いま美味しいと答えたのは嘘じゃない。溶けるような甘味がまだ、口の中に残っている。
でも、その甘さの意図が分からない。ほんの僅かなカカオの苦味が、何故か舌の上から降りてくれない。
チョコを噛み砕く度に広がる甘さも、それを押しのけてくれない。


「美味しかった?」

「・・・・おいしい、よ。」


「どっちが?」

「―――え?」

目を開いた僕が見たのは、綾波の両手にあるふたつの小箱。
澄んだ空色の包みと、鮮やかな緋色の包みの封が解かれ、同じ形のチョコが双子のように並んでいた。

「・・・・・それって、アスカがくれた・・・・・。」

間違いない。今朝、彼女に手渡されたものだ。

「アスカがあげるのは、知ってたから。」
「でもアスカのは、ただの義理で・・・。」
「ええ。でもどちらが私のものか、碇くんには判った?」

二つとも同じ味だった。当然だろう、二人とも一緒に作ったんだから。
でも、もし違う作り方をしても、味だけでどっちかだなんて、判る筈もない。

「・・・ご免なさい。試すつもりじゃなかったの。」

僕が押し黙ってしまったのを見て、申し訳なさそうに綾波が口を開く。

「チョコレートを作ってたときは、楽しかった。碇くんが受け取ってくれたときのことを想像すると、どきどきした。」
「・・・・・・・・・・・。」
「でも、どんなに心を込めて作っても、食べてしまえば区別はつかない。だから―――。」

そこで言葉を切った綾波は、チラリと机の上のカバンに視線を送った。

「沢山の中で、埋もれてしまうかもしれない、気付いてもらえないかもしれない。・・・それが嫌だったの。」

僕もまた、カバンから溢れ出した色とりどりの包装紙を、目で追った。
たしかにあのチョコたちも、包みがないと誰がくれたかなんて、憶えてない。
ひとつひとつにどんな想いが込められているのか、何も込められてないのかなんて、分からない。

「私があげたかったのは、チョコレートなんかじゃない。私が本当に伝えたいのは―――。」

固い表情のまま、彼女の言葉はそこで途切れる。でも云いたいことは、痛いほど分かる。
いつの間にか僕は、バレンタインデーという行事に踊らされてた。チョコを貰えるか貰えないか、それだけで判断していた。

「本当に受け取って欲しいのは―――。」

切れてしまった言葉を紡ぐように、綾波はまっすぐ僕を見つめる。
いつもそうだった。彼女の方から目を逸らしたことは、決してない。
目を逸らすのは、綺麗すぎる瞳から逃れようとするのは、いつだって僕の方だった。

「ごめんよ、綾波。」

だから、僕が云わなきゃ。
本当に伝えたい気持ちがあるのは、同じだから。

綾波の両肩に置いた手から、微かに震えが伝わる。 震えてるのは彼女なのか、或いは僕もなんだろうか。
一瞬、呼吸を溜め、一息に伝える。

「ずっと僕、綾波のことが好きだった。」

僕の見る前で、冷たかった表情が融け、綻んだ頬から笑顔が溢れる。

「私も、碇くんが好き。」

綾波は少し目を潤ませながら、はっきり応えてくれた。

嬉しかった。
二人とも同じ気持ちでいたことが。想いが通じたことが。


僕を捉えて離さない、紅い瞳。その瞳が近づき、吸い込まれそうなほど、大きくなる。
いや、顔を近づけたのは僕かもしれない。
目を閉じたのは、綾波の方が先だった。
数瞬、ほんの数瞬だけ、その白い顔が闇に閉ざされ―――。
次に目を開いたときはもう、彼女の顔は離れていた。

そして、僕の唇には触れたときの感触が、刻印のように熱く刻まれた。


「・・・・・・・・・あ、あやなみ・・・・あの・・・・・・・・・。」

「・・・・・え・・・・・?」

「・・・・・・キス・・・・・・しちゃった・・・・・・。」

「・・・・・・うん・・・・・・。」

いつも透けそうなほど白い綾波の頬が、びっくりするくらい朱い。
きっと僕の顔も、負けず劣らず真っ赤なんだろう。


「・・・・・・・その・・・・・初めて、なんだ・・・・・・・。」

「・・・・・・なに?」

「・・・・・・誰かとキス、したのが・・・・・僕、初めて・・・・・・・。」

「・・・・・・・わたしも・・・・・・・。」

綾波はそう答えると、ますます頬を染める。
なんかもうテンパり過ぎて、自分が何を口走ってるのかサッパリ分かってない。
ここで気の効いたセリフでもいわなきゃと頭の中をフル回転させてると、今度は綾波が、小さな声で訊ねてきた。

「・・・・・・美味しかった?」
「なにが?」
「・・・・・・キス。・・・・・・チョコレートより、おいしい?」
「えっ!・・・・・え〜と・・・・・いやそのぉ・・・・・・。」

初めてのキスは、甘くも酸っぱくもなく―――ただ触れたところだけが、火のように熱い。

「あ、味とか分かんなかったけど・・・・・・すごく、柔らかくって、熱くて・・・・・・それで・・・・・・。」

言葉に詰まったままうろたえていると、トンッと綾波が軽く身体をぶつけてきた。

「・・・・やっぱり、それ以上言わないで・・・・。」
「だって、綾波がそう聞くから・・・。」

そう言いかけた僕のシャツをキュッと掴み、綾波は僕の肩に額を預ける。

「お願い!恥ずかしいから・・・・・・わたし、いま変なの・・・・・・わたし・・・・・・。」
「え?」
「・・・・・・信じられないくらい、鼓動が早くなって・・・・・・すごく、どきどきしてる・・・・・・。」
「・・・・・・ボクも・・・・・・。」

こうして彼女の体温を感じてると、そのドキドキはいっそう激しくなる。
少しは静まれとも思うけど、でも、このままで居たい。離れたくない。
その想いが彼女の背中に手をまわすという、大胆な行為を僕にさせた。

「あ・・・・。」

吐息にも似た綾波の声に、慌てて腕の力を緩めた。

「・・・・イヤ、かな・・・・?」
「・・・・・・ううん、このまま・・・・・・。」

今度は綾波の右手が僕の肩を掴み、ギュッと身体を引き寄せる。
このまま黙ってればいい雰囲気なのに、言わずもがなのことを言ってしまうのは、やっぱり僕のほうだ。

「もしかして綾波・・・・・・照れてる?」
「・・・・ばか・・・・。」

掴んだままのYシャツを引っ張って顔を隠そうとする仕草が、たまらなく可愛い。

「やっぱり、照れてるんだ。」
「・・・どうして、いじわるするの?」
「してないよ、意地悪なんて。」

そう言いつつも、耳の裏まで朱色で染まった綾波を見てると、まんざらでもない気分になってきた。

「あ、でも、ちょっとそうかも。やっぱり返してって言われたときは、すごーくショックだったから。」
「それは・・・・・・。」
「あれならまだ、最初からチョコをくれなかったほうが、ダメージ少なかったかな。」

調子に乗ってしゃべる僕を、綾波は上目で睨んだ。

「・・・だって、不安だったもの。」

話を聞くと、彼女はお昼休みの間中ずっと渡そうか渡すまいかと、ひとり悩んでたそうだ。
自分の作ったチョコを眺めながら決心がつきかねてたとき、僕が綾波を探し当てた。
最初は、告白だけで済ますほうに気持ちが傾いてたらしい。

「でも、急に自信が無くなって・・・。告白だけしても、チョコレートが無いと碇くんは喜んでくれないのかも、って考えて・・・。」
「ひどいなあ。それじゃまるで、僕がチョコにしか興味ないみたいだ。」
「でも、他の女の子から貰ってたとき、すごく嬉しそうだった。」
「そ、そんな嬉しそうにしてたっけ?」
「してた。」

う・・・キツいお言葉。

「顔を真っ赤にして、目尻が垂れ下がって、口元も締まりがなかったし・・・。」
「いやあの・・・そこまでだらしなくなかったと思うけど。」
「それに、眼鏡をかけたロングヘアの人。彼女の手を握ってたでしょ。」
「あ、あれはただ、握手を求められただけだって!」

綾波の指がジワジワ肩に食い込む・・・ひょっとして、怒ってる?

「・・・栗色のショートヘアーの娘となんか、デートの約束までして・・・。」
「し、してない!してないってばっ!!」

デートの約束なんていっぺんもしてないのに、どっからそんな話が出てきたんだ?

「碇くんは、きっと私の気持ちなんかより、チョコレートの方がずっと大事なんだわ。」
「ちょ、ちょっとっ!何でそうなるのさ!」

プイと顔をそむける綾波に必死で説明したけど、まるで聞く耳を持ってくれない。
なんとか話を聴いてもらおうと、拗ねてしまった彼女の肩に手を置いて振り向かせる。

「そんなことないって!!僕は今日、もっとずっと大事なものを貰ったんだし。」
「キスのこと?」
「え!・・・いや、その・・・・・・もちろん、それもあるけど・・・・・・。」

不意にあのときの感触が蘇ってきて、つい口ごもってしまう。

「・・・それだけじゃないよ。綾波の気持ちが、何より嬉しかった。」

照れながらそう答えると、綾波がポフッと、僕の胸に顔を埋めた。

「―――よかった。」

そう言って身を預けてきた彼女の髪が、僕の鼻先を甘くかすめる。

・・・うわぁ、いい匂い。

「大切に思ってくれる?」
「当たり前じゃないか。今度は返せっていわれても、返さないからね。」

冗談ぽく返すと、綾波も僕の顔を見てクスッと笑う。

「言うはずないわ。そのかわり―――。」
「ん?」
「ホワイトデーのお返し、楽しみにしてる。10倍返しって聞いたから。」
「き、聞いたって、アスカに?」
「ええ。」

・・・アスカのやつ、またヘンなことを吹き込んだな。

「何か欲しいものでもあるの?洋服とか。」

お小遣いいくらあったかななんて考えてたら、綾波は首を左右に振った。

「違うわ、モノとかじゃない。今日、キスしたでしょ。」
「え!まさか、キ・・・キスをそのじゅ、10回とか・・・・・・。」
「ううん、あのときの10倍、どきどきさせて欲しいの。」
「じゅうばいっ!?」

無理ッ!絶対ムリッッ!!いまでさえ心臓がバクバクいってるのに。

「いや、あの10倍はちょっと・・・・・。」
「・・・だめ?」

ダメもなにも、僕の心臓が破裂しちゃうよ。

「そのぉ、もうちょっとまけてもらえると有り難いんだけど・・・・・あの、せめて、倍とか。」
「駄目、って言いたいけど、今度だけ倍で許してあげる。」
「へ?」

・・・・・・え〜と・・・・・・もしかしてボク、墓穴掘った?

「約束、だから。」

片時も視線を外さない紅の瞳は、限りなく無垢で純粋で。
ひょっとしてこれも、アスカの入れ知恵じゃ・・・ない・・・・・・よね?


「楽しみ―――。」


困り果てた僕とは対照的に、綾波はとても幸せそうに微笑んだ。



< 了 >



    < 後書き >
         半年以上もFFを書いて無かったのですが、リハビリのつもりでポッと思いついた話を書いてみました。
         私事により参加出来ませんでしたが、三周年&一周年記念の代わりということで、遅ればせながらおめでとうございます。



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