雨の日だった。


雨の降る、静かな日だった。



Rainy Day

written by くろねこ     





―――――ザァァァ………


窓ガラス越しからでも聞こえる、大きな雨音。
小さなベランダのコンクリートをパタパタと濡らして。


(……強くなってきたな。)


濡れたカッターシャツと制服のズボンを脱ぎながら、シンジは外の様子をぼんやりと眺めた。
タンスから手早くジーンズとTシャツを引っ張り出して、ポタポタと水滴を落とし続けるシャツを
洗濯機に投げ入れる。


「あ〜あ、ズボン明日までに乾くかなぁ……」


重くなった黒い制服を見つめて、ため息。シワができないようにハンガーにかけて、エアコンの
近くに置いておく。クーラーのスイッチをつける。
カタカタと、なにやら怪しい音を立てながら、生ぬるい風が出てきた。そろそろ買い換えたほうが
良いのではないか、と同居人に話しておくべきかもしれない。
密閉されていた室内は外よりも熱く、じめじめしていて気持ちが悪かった。






今日は運が悪かったのだ。天気予報が嘘をついた。といっても、“予報”なので嘘も本当もないのかも
しれないが。
とにかく今日は一日快晴、のはずだった。
にも関わらず。
なにを調子にのったのか、雲はどんどん発達し、すばらしい積乱雲に成長した。ご丁寧に、
雨まで降らせて。いい迷惑だ。
空は青いのに、パラパラと降る雨はどこか奇妙で、それでいてとても神秘的。
狐の嫁入り、とも言うらしい。誰が言い始めたかは知らないけれど。

まさか天気が崩れるとは思っていなかった生徒たちは、大急ぎで家へ帰った。
鞄を傘代わりにしたりしている人もいた。シンジも、そのなかの一人だった。
おかげで教科書が泣いている。






「はぁ〜〜……… 」


ぼふん、と。自室に戻ったシンジはベッドに沈み込んだ。
学校から葛城宅までは割と近いのだが、ずっと雨の中を走って帰るのはなかなか脚にくる。
必要以上に体力を使ってしまった。今日、シンクロテストがないだけましだ、と心の隅で思う。


―――――ザァァァ……


「…………。」


雨の音が、この部屋からでも聞こえる。それくらい、静かだった。
ミサトは今頃仕事だろうし、アスカも学校からそのままNERV。ふたりの帰りはきっと遅い。
ペンペンは暑さに負けて、今頃冷蔵庫の中でぐっすりなのだろう。


「…………。」


寂しいな、とは思わなかった。静かなほうが落ち着くタイプだし、いつもうるさい
同居人たちがいないのはなかなか新鮮でもある。
ただ。
暇だな、とは思った。
いつもはシンクロテストが入っているが、今日はまるまるフリー。だからといって勉強は
なんとなくする気が起きない。
ベッドから上体を起こして、そばにあった本を手に取ってみる。天体の本。
いつ、どこで、何のために買ったのか思い出せないが、やけに宇宙の本やらポスターやらが
多かった。
パラパラとページを適当にめくる。時折、綺麗な写真に目を留めつつも、内容は頭に入らない。
入れない。


(綾波に貸したら、喜ぶかな……)


ぼんやりと、いつも教室の隅で読書をしている少女の姿を思い浮かべる。
窓側の、前から三番目の席。
青い髪。白い肌。赤い瞳。後ろから見える、細い背中のライン。


(………)


少しだけ、ほんの少しだけ、本を抱えてぴょんぴょん跳ねながら喜ぶレイを想像してみた。

(………)


無理だった。無駄な努力だった。逆になんだか虚しくなってくる。


(綾波は……どんなふうに喜ぶんだろ……)


そもそも“喜ぶ”という感情があるのだろうか、とかそこまで言うと失礼極まりが、でも。
そう思ってしまうぐらい、彼女の喜ぶ姿が思い浮かばない。
当たり前だ。
誰も見たことないのだから。

ふと。ヤシマ作戦の時の、微かな笑みを思い出す。よく見ないと分からないくらい、本当に
微かな表情の変化。消えてしまような、儚さと可憐さ。
その微笑みが自分に向けられていた、独占していたことを、彼は少なからず自慢に思っていた。


「もう一回……」

「もう一回、綾波の笑顔が……見たいな……」


本の中の、月の写真のページで手を止めて。そんなことを思った。










―――――プルルルル………


「…んあ……?」


電話の音に意識が覚醒する。少しだけ眠ってしまっていたようだ。
今のが何回目のコールかは分からないが、急いでリビングへ向かう。


「…はい、もしもし……」


ちょっとした抵抗で、葛城です、とは言わなかった。
電話はリツコからだった。


『あ、シンジ君?』

「あ、はい……」

『少し頼みごと、いいかしら。』

「はい、大丈夫です……」

『今日、レイもシンクロテスト無くなったのよ。』

「はぁ……」

『実は急ぎで渡したいものがあるんだけど、こっちもなかなか忙しいのよ。』

『それで、私の代わりにレイに届けてくれないかしら?』










頼まれた品は、数種類の薬だった。なにやら新しいものらしい。詳しいことは、分からない。
やっと小降りになってきた雨のなか、シンジは傘をさしてNERVへ向かい、そこからレイの住むマンションへ。
なんとなく、彼女の顔が見たくて。結局、リツコからの依頼を軽く引き受けたのだ。


「……にしても――――――」


気づけばマンションの前。
本当に、よくこんなところに住んでいるな、と思ってしまう。
壊そうとしていたのか、造りかけなのか。とにかく、危なっかしいマンションだ。


トントンと階段を上って(エレベーターはもちろん動かない)402号室前で立ち止まる。
『綾波』という手書きの文字を見て、深呼吸。
いつきても、思い出す。初めて、この部屋に入った時のこと。目に焼き付いている、彼女の白い肌。
倒れたときについた、膝の痛み。柔らかな、レイの――――――


あー、だめだ、だめだ。
ぶんぶんと頭を振り、いらない想像を掻き消して。大きなドアに手を伸ばす。


「あ、綾波?いる?……碇だけど。」


ゴンゴンと、やけに響くドアの音に若干ドキドキしながら、声をかける。
返事はない。少しだけ、いつかのようにYシャツ姿の彼女が出てきてくれることを期待したのが、
いけなかったのかもしれない。
ゆっくりと、ドアノブを回す。


「綾波ー?入るよー?」


自分にしては大きな声を出す。あの日のように、裸で出てきてもらっては困るから。


「碇くん……?」


台所から微かな声。視線を向ける。


「あ、綾波……」


いつかと同じ、Yシャツを羽織っただけ。白い足が、眩しい。
手には空のコップ。なにか飲んでいたのだろうか。


「……どうしたの……?」


ぼーっとしていた僕に対しての質問なのか、ここに来た理由を聞いているのか。
あやふやなまま、慌てて話をした。

リツコに頼まれて、新しい薬を持ってきたことを伝える。
間違っても、顔が見たかった、なんて事は言わなかった。


「そう……ありがとう……」

「うん……」


小さな袋を渡す。一瞬、指先が触れて、思わず胸が高鳴る。
それと同時に、彼女の手の冷たさに驚いた。


「綾波、冷たくなってるよ!大丈夫?」

「……?……平気。」


慌てる僕を尻目に、何でもないようなレイ。これではまるで、僕がバカみたいじゃないか。


「夏だけどさ、これ一枚だけじゃ風邪ひいちゃうよ……」


僕の言葉を聞いて、首をかしげる彼女。子猫のような仕草に、また一つ、胸が高鳴る。


「……今日……」

「え………?」

「雨……降ってたから……」

「あ、さっきの……?」

「制服が濡れてしまって……」


ちらっと、視線をずらしたレイ。僕はその赤い瞳の視線を追いかける。
ベッドの脇にかけられた、見慣れたジャンパースカートの制服。
ぐっしょりと濡れて、まだ水滴がポタポタと落ちている。


「あ、そうなんだ……」


当然といえば、当然なことだ。今日は傘なんて、だれも用意していなかったのだから。レイも同じように
濡れながら帰ったのだ。


「だから、気持ち悪かったの………
 ……ごめんなさい……」


僕も、制服ぐちゃぐちゃになっちゃったよ、と。笑って返事をしようとしていたシンジ。
喉まで出かかったその言葉が、飲み込まれた。


――――――ごめんなさい……


謝罪の言葉、だった。なぜ?という疑問と、戸惑い。


「…あ、別に怒ってるんじゃないんだ。ただ、綾波が寒そうだから……」


慌てて紡ぐ言葉。
癖で、視線が泳ぐ。おろおろと狼狽える自分自身に、シンジは情けない気持ちになった。






――――――ごめんなさい……

(なぜ……)
(なぜ私は謝ったの……?)
(分からない……)

シンジの困った顔を見ると、勝手に言葉を紡いでいた。
そんな自分が分からないレイ。疑問。戸惑い。
そしてもう一度、彼の言葉を思い出してみる。


「碇くんは、心配してくれて……いるの……?」

「え……? う、うん。そりゃあ、そうだよ……」

「………」






(綾波、どうしたんだろ……?)


少しの沈黙に、シンジは不安になる。それに彼からしてみれば、よくわからない質問だった。
心配するのはあたり前じゃないか。
チラッと彼女の様子をうかがってみる。
シンジよりも、レイはちょっとだけ低い身長なので、視線をやや下に下げて。


(あ………)


驚きの表情と、微かな喜びが読み取れる。彼女には珍しい、表情。
目が合う。
赤い瞳。
戸惑い。
でも、視線は外さない。外せない。


「……そう……」

「……」

「ありが、とう………」

「!!」


微かに笑うレイを、その時シンジの目は確かに捉えた。
そして、感謝の言葉。出会ってしばらくになるけれど。今、初めて聞いたかもしれない。
言い慣れていなさそうな、そんな雰囲気だった。
思わず、笑みが零れる。


「うん……」

「………」

「あの、綾波……これ着てなよ。」

「……?」


パサッ――――――

半袖のシャツの上に、風よけのために着ていた薄手の上着を、レイの肩にかける。
謝られても、お礼を言われても、寒そうなのには変わりがないのだから。


「あっ………」

「僕は暑いぐらいだし、いいよ。着てて。」

「……ありがとう。」


ふふ、とシンジは軽く笑いかけてみる。
彼女も、ちゃんと笑い返してくれた。
ほんのりと、頬が赤くなっていて。それを隠すように、レイが俯く。
揺れる、青い髪。
初めて見る、少女の仕草。

あぁ、かわいいな、と。
純粋にそう思った。






(胸の中が、くすぐったい……)
(少し、心拍数が早い……)
(……嬉しい……)
(そう……これは、嬉しいという気持ち。)
(私、嬉しいのね……)
(………)
(この上着……碇くんの、におい……)
(とても落ち着く……)


かけられたシンジの上着をぎゅっと握って。
レイは自分の顔が熱くなるのを感じた。
それがなんだか恥ずかしくて、少しだけ、彼に見られないように俯いた。










「碇くん……」

「なに?綾波。」

「紅茶………」


せっかく来たのだから、そのまま帰ってしまうのももったいなくて。
少しだけ、シンジはお邪魔させてもらうことにした。

前に来たときと同じように、業務用のイスに腰掛けて、台所に立つ少女を見つめていた。
また、同じように紅茶を出してくれようとしているようだった。


「あ、いいよいいよ。気ィ遣わなくても……」


あの時と同じ返事を返してみる。彼女は覚えていてくれているだろうか。
カチャカチャと鳴る食器の音と、ヤカンが沸騰した音。小さな、レイの足音。


(そういえば……)
(僕のために何か作ってくれる人って、綾波ぐらいなんだよな……)


シンジは台所にいる彼女の背中を見ながらそう思う。なんだか、心が温かくなってくるのを感じた。


「碇くん。」

「あ、ありがとう、綾波。」


静かに渡されたティーカップ。この前来た時には、無かったもの。
紅茶を飲むために、買ってきたのだろうか。
一口飲んでみる。


「おいしいや……」


本当においしかった。前に来たときには、スプーンからこぼれそうなほどの葉っぱを入れようとしていたのに。
あれから、練習していたのだろうか。


「ほんとう……?」

「うん!僕より上手かもしれない。」

「……よかった。」


安心したような、そんな柔らかなレイの表情に、シンジは思わず見とれてしまう。
こんな顔もするんだな、と驚きつつ。新しい彼女の表情を知ることができて、彼は少し嬉しくなった。










気づけばもう一時間もたっていた。楽しい時間というものは、あっという間に過ぎてゆくものだ。
といっても、実際“楽しい”というわけではなかったのだけれど。二人で過ごす時間に、不思議な安心感と温かみを確かに感じていた。
レイにとっても、シンジにとっても。


「じゃあ、そろそろ帰るよ。紅茶、ごちそうさま。」

「うん……」


午後六時半。夏なので、まだ大分明るかった。といっても、ここは常に夏なのだけれど。


「碇くん、これ、ありがとう……」

「あ、うん。身体は冷やさないようにね。綾波は、女の子なんだから……」


最後の一言は余計だったかもしれないと、シンジは少し顔を赤らめた。脱いだ上着を、丁寧に畳んで返すレイ。
受け取った時に、また軽く手が触れる。今度は彼女の手は冷たくなかった。


「じゃあ、明日学校で。」

「うん……」

「……綾波、またお邪魔しても、いいかな?」

「……かまわないわ……」


ふっ、とシンジが微笑んで。レイも微かに表情が緩んだような、気がした。
それから軽く手を振って、シンジは402号室を後にした。






「碇くん……」

階段を降りる音。トントントン、と。早くもなく、遅くもない、彼の足音。
レイは急に、追いかけたい気持ちになった。
行かないで。もっと、一緒に居て。それは、彼女の初めての小さな自我だった。
そんな自分を、押しとどめて。つい今さっき交わされた約束を思い出す。


『またお邪魔しても、いいかな?』


(……碇くん)
(また来てくれるって、言ってた……)
(約束……したから……)
(また、来てくれる……)
(………)
(次は、もっと上手に、紅茶を作りたいな……)










(今日は綾波の違う表情がみれたな……)
(紅茶も美味しかったし。)

階段を降り、歩道を歩きながら、シンジはぼんやりとレイの微笑みを思い出す。ついでに、彼女のうっすら赤く染まった頬も。

(綾波って、やっぱり可愛い、んだよな。)
(………)
(この上着、綾波の匂いが移っちゃってる……)
(…………)
(……って、何考えてんだ!!)

ひんやりとした空気を吸って、心を落ち着ける。


(今度は、お菓子でも持っていこうかな。)
(殺風景な部屋だし、花とかも持っていこうかな……?)


夕日が沈み、紫色のグラデーションの空を見上げながら。
シンジは、次に彼女の部屋へ行く時のシミュレーションを心のメモ帳に書き留めた。

藍色の空には一番星が瞬いていた。







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