つかまえた雪は

Written by なお。


 雪が降っていた。
 それはふわりと風に乗ってわたしの頬を撫でる。


 はじめて経験した冬という季節は、一言で表現すると“厳しい”だった。寒さに体は思うように動かず、風が吹くと耳が痛かった。
 雨とは違い音もなく重力に引かれて落ちる雪というものは、気がつくと街を被いつくし景観をすっかり変えてしまった。
 ひとつひとつはとても小さいのに、人が住む無機質で殺風景な灰色の砂漠を白一色で染めあげた。
 その景色は神秘的で綺麗で、綺麗だけど冷たくて、どこか恐ろし気で寂し気で…。
 部屋の窓からひとり降り積もる雪を眺めていたわたしは、あのとき泣いていた。


 もう寒くもないのに、こんなに天気もいいのに雪?

 それが不思議でひとつ掬おうとしたら、なかなか捕まえられない。不規則な動きで手のひらの近くに来ると逃げてしまう。
 右に左に追いかけてやっとひとつを捕まえた。

「何、踊ってんの?」

 碇くん?

「これ…」

 手のひらの中を見せようとしたけど、きっともう溶けてしまっている…。
 何もないのはわかっていたけど見つめた手をゆっくりと開いた。

 あった。わたしの白い手のひらよりも白く、それでいてうっすらと赤味を帯びた雪の欠片がひとつ。
 それから、お友達がもうひとつ手のひらに落ちてきて寄り添うように重なった。
 少し嬉しかった。

「これ」

 碇くんによく見せようと両手を差し出した所で一陣の風が通り過ぎた。

「あっ…」

 飛んで行ってしまった。
 2つは絡み合うように、螺旋を描きながら青空へと吸い込まれていった。
 その後を吹雪となった一団が追いかけていった。

「あ…」

 吹雪の通り過ぎた後、追いつけなかった者達が私達のまわりにゆらゆらと落ちてきた。
 たくさんの雪に囲まれ景色が霞む。白く色付いた世界に変わる。
 その世界は冬に降った雪の世界と違って暖かい感じのする世界。

 両手を伸ばし、その場でクルクルと回ってみた。
 どうしてそうしたのかなんてわからない。ただ自然と体が動いた。

「桜、好きなんだ」
「さくら?」

 碇くんの声に回るのをやめる。
 少し遅れてスカートの裾も足に絡んで止まった。

「ほら、あそこ」

 彼が指差したのは高台の上の公園。フェンスに沿って、桃色より淡い白い葉をつけた木が一面に列んでいた。

「見に行かない?」

 彼の顔は公園の木よりも赤い色をしていた。

「ぼ、僕もあまり見た事ないんだ…、だから」

 そう、じゃあ行きましょう。もっと近くで見てみたい。それに…
 せっかく碇くんが誘ってくれるのだから。

 浮き足立っているのかしら、足取りが軽い。わたし嬉しいのね。

「あ、綾波?」
「行かないの?」
「えっ…う、うん行くよ!」


 高台にある公園まで少し道をひきかえす。ひとつ目の角を曲がり狭く急な坂を登る。そこは日陰で少し寒かった。坂を半分登ったあたりで、さっき見えたのと同じ木が列んで見えてきた、下の道から見えた所だけでなく公園をぐるりと一周しているのかも。
 ちょっと気になって碇くんの様子を見ると、息を切らせたのか辛そうだった。早く行きたい気持ちもあったけど、彼と一緒に歩きたかった。だから歩調を落としてゆっくりと歩いた。
 道の傾斜が更にきつくなってきた。さっきまで平気だったわたしも額に汗が滲み息も弾む。長い坂を登りきった所に公園の入り口が見える、だけど中の様子はまだわからない。
 わたしは想像してみた、上の公園の風景を。固められた土の広場、周りにブランコなどの遊具がいくつか。東屋にベンチ、水飲み場があって角の方にトイレ。そんなありきたりの公園の姿を。

 だけどそうじゃなかった、息を切らせて辿り着いた公園の入り口で私達を出迎えたのは3つの色。他には何もない下から緑と白に青の3色だけだった。雲ひとつない水色の空の手前に真っ白な桜の木、そして足下に芝生の薄緑。
 正面の太陽が眩しい、碇くんも額に手をあてがって眩しそうにしている。眩しいけれど真夏のそれと違う柔らかな陽射しはすべての色を際立たせ、強く当たっている所では白く淡くも見せている。高台の上だから風通しが良いのだろう、そよそよと吹く風が火照った体に心地良かった。

 入り口の門を抜けてちょっと歩くとそこはもう一面を覆っている芝生の上。降り注ぐ太陽の光りを十分に浴びた芝は、ほのかに草の匂いがして真新しい絨毯のようにふわふわと柔らかくわたしの足をそっと受け止める。視線を上げ青空の下に白い桜だけが見えるようにすると、まるで草原の上にぽっかりと浮かんだ雲の上を歩いているかのようだった。

 空想の雲の上を歩いたまま公園の奥に進んでいく、積乱雲にも似た桜の雲を目指して。
 だんだん近づくにつれ、桜の色がはっきりとしてきた。陽の光りが反射して真っ白に見えていた白は、白というよりも赤く薄桃色よりも白かった。明るい所ではほとんど真っ白に、影になっている所では桃色に。全体としては言い表せない桜だけの色。さくらいろ。
 その微妙な色加減に見とれていたわたしは、いつのまにか雲の上を歩いていたような感覚を忘れてしまっていた。

 木の下に入ると、小さくはクルクルと、大きくはひらりひらりと花びらが落ちてきて、ほんとうに雪が降っているようだった。
 手に届く枝をひとつ手繰り寄せると、桜色の正体は葉っぱではなく花びらの色だとわかった。はじめて見た桜の花は、一輪がとても小さくて可愛らしい花だった。それが小さな枝の先にまでいっぱいに咲いて集まって、大きく形を作ってこの木全体を白く包み込んでいた。葉を付けずに花だけを咲かす植物もあるのだと、それもはじめて知って軽い驚きを感じた。


 折ってしまわぬようそっと捕まえていた枝が、ふとわたしの手から逃げるように勢い良く戻っていった。パッと花びらが散った。
 途端、胸が苦しくなった。
 目の前で散りゆく桜の花が、わたしを引っぱって何処かに連れていってしまうような気がして。落ちてゆく無数の花びらは冬に降る雪のようで、すべてが一緒になってわたしと彼との境目がなくなってしまうような、そんな気がして…。

 錯覚だとわかってはいるのに涙が出そうになった。
 変だとは思っていてもわたしをここに繋ぎ止めておいて欲しかった。

「…手を、繋いでいい」
「…うん」

 自然と出た言葉に戸惑いはなかった。彼もいつもの彼らしくなく照れたりはしなかった。わたしが差し出した手を、彼は上から被せるように握ってくれた。それがとても嬉しかった。
 彼の手は暖かかった。春の陽射しよりも優して暖かくて、それは風に流され消えてゆく桜の花よりも確かなものだった。
 彼もわたしも、今、間違いなくここに居る。

 さっきまで泣きそうだったわたしは、自分でも不思議なくらい静かに微笑んでいた。


 ひとり部屋の窓から降り積もる雪を眺めていたわたしはあのとき泣いていた。

 あのとき…

 彼が居てくれたら…

 手を繋いでいてくれたら…


 彼の手をぎゅっと握りしめる、この温もりを忘れないように。
 彼も握り返す、わたしの手を。

 ひときわ強い風が吹いた。芝生の屑と砂埃に襲われ一瞬目を瞑る。
 風が止み目を開けると、ちらちらと音が聞こえそうなくらいたくさんの花びらが舞っていた。わたしと碇くん、2人だけの桜色の世界だった。
 しばらく言葉無くその世界に包まれていた。花びらは降り積もる雪のように辺を桜色に染めあげていった。

「綺麗だね」
「うん」
「僕は忘れないよ、今日、綾波と一緒に桜を見たこと」
「…わたしも」
「また来年も一緒に…その、いいかな?」

 また涙が出そうになった。
 ひらひらと舞い落ちる桜色の雪の中、その美しさに潜む儚さに心が揺れて…。
 でも、この景色のせいだけはきっとない。

 声を出せなかったわたしは頷くことしかできなかった。


 はじめて経験した春という季節は、一言で表現すると“優しい”になる。柔らかな陽射しは心地よく、風が吹くと髪をそっと撫でてくすぐったい。
 雪とは違いふわりと風に乗って舞う桜の花びらは、遠くまで飛んでいって人工の街に住む人々にも春の訪れを伝える。
 ひとつひとつはとても小さいのに、無機質で殺風景な灰色の砂漠で膨らんで柔らかな彩りを与える。
 桜舞う景色は神秘的で綺麗で、綺麗だけど儚くて、儚いけどどこか優しくて暖かだった。


 それから一週間ほどで、桜はすべて散ってしまった。
 今はまだ肌寒いけど新緑の若芽がちょっとだけ顔を出していて、これからまた暑い夏に向かっているのだと感じさせる。
 夏が過ぎると秋、やがて冬がやってくる。そしてまたわたしは泣くのだろうか、真っ白な雪景色をひとり見ながら。
 そして来年の春、ひとり桜を見たならば同じように泣くのだろうか…。

 左の手に力が入る、碇くんの握ってくれた手に。
 あのときの温もりを思い出す。春の陽射しよりも優しく、風に流され消えて行く桜の花よりも確かだった温もりを。
 彼は居てくれた、わたしの隣に。

 左手を胸に当て右手でそっと包むと心が暖かくなった。
 さっきまで泣きそうだったわたしは、自分でも不思議なくらい静かに微笑んでいた。


 その晩、夢を見た。

 ガラスの向こうで雪が降っていた。
 そこはわたしの部屋。
 何も無い部屋。
 窓を開けた。
 冷たい風と一緒に部屋の中に雪が入ってきた。
 それは目の前で桜の花びらに変わると、草の匂いのする風に乗ってふわりとわたしの頬を撫でた。
 わたしは微笑んでいた、静かに微笑んでいた。

 誰かが左手を握っていてくれた。




 あとがきという名の言いわけ

 この「つかまえた雪は」は、3人目掲示板(現在4人目に移行予定あり)に投稿した「つかまえた雪は」の焼き直しです。短いですが、掲示板に投稿した時点ではもっと短い物でした。掲示板に投稿の場合は意識して短くしてるせいもあります。その差は TVコマーシャルでいう、ショートとロングのバージョン違いのようなイメージです。2つの大きな違いは情景の描写とそこからの展開で、最初は桜を見たレイに泣かせて終わりでした。

 書き終わってから自分でも疑問に思った所がひとつあります。読んで頂いた方の中にも同様に感じた方もいらっしゃるかと思いますが、手を繋ぐ前の所で、その理由として『すべてが一緒になってわたしと彼との境目がなくなってしまうような、そんな気がして…。』と書きました。わたしと彼との境目がなくなる=ひとつになる。これは寧ろ望ましいのではと。本編中では碇くんといっしょ(ひとつ)になりたい、と望んでいますし。
 ですが本当にひとつになったらどうなんでしょう。自分でもない彼でもない存在になってしまって、淋しくはないかもしれないけれど手を繋いだ暖かさを感じる事もできない。結局、他人だからこそ求めるわけであって気持ちを共有をしたいと思うのである。サードインパクトってその意味を拡大解釈してねじ曲げた物だと思うのです。だからサードインパクトを経験した人々はレイに限らずそうは思わないのでは、となったのです。あっ、この話しは一応EOE後です。

 このとおり、後から考えたからこじつけがましいのです(A^-^;
 他には前半に桜とか桜色って表現を意識して使わなかった分、後半で使いまくってしまったのを反省してます。



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