癖になる、僕と僕達のリズム

Written by なお。

 ジリジリジリジリ!

 やすらぎの世界でくつろいでいた僕は、何の遠慮もなしにむりやり現実へと呼び戻された。こちらの世界はどうも僕に優しくはないようで、役目を終えてもなお枕元でうるさくがなり立てているそいつが、さっそく僕を不機嫌にさせてくれた。ここは実力行使。布団から手を伸ばして、わかったから静かにしてくれ、と手探りで叩いて黙らせた。

 ようやくおとなしくしたそいつを重い瞼の隙間から睨めつける。まったく悪びれもせずしれっとした顔で、馬鹿にしているかのように、チッ、チッ、チッと舌を鳴らしているのが憎らしい。よく見ると指まで振っている。しかも起きるのにはだいぶ早い時間を示しているのでなおさらだ。頭にはきても言って聞く相手でもないから、心の中だけで「おいおい、まだこんな時間じゃないか」と文句を言いながらもう一度目覚ましをセットして、頭から布団を被りなおした。すると、少し冷えてしまった肩はすぐに暖まり、その温もりの中で胸を上下させると、ひとつ呼吸をする度に一歩づつ、やすらぎの世界へと近づいていくのがわかる。最初は真っ暗で、次第にそれも曖昧になり、心地良さだけが広がってくる。もうここまでくると意識なんてほとんどない。それでも強引に例えるとすれば、天国の入り口に立っているって感じだ。あと一歩、もう一回深く呼吸をすれば……。

 そこでハッとなり、あわてて飛び起きた。普段より一時間も早く目覚ましが鳴ったのは誰のせいでもなく、僕がそうしておいたからだ。今日から週番だった。あやうくニ度寝をしてしまいそうだったところギリギリになってよく思い出せたものだと、ホッと胸をなで下ろした。



 暗がりの中にうっすらと浮かび上がるカーテンを開けると、外は夜の余韻を残したままで、白みはじめたばかりの空にはまだいくつか星の姿も見えた。眠いはずだと気が重くなり、ベッドに腰を下ろすと……あくびばかり出てきた。うっかり横にでもなったならばそのまま寝てしまいそうで、それだけはしないようにと努力はしても、やっぱり体を動かす気にはなれず、もう少し目が覚めてくるまで、と、しばらくぼーっとしていたら、瞼がだんだん閉じてきた。これでは埒が明かないどころか非常にまずい。それでこうしていても仕方がないと、やっとのこと決心して、あきらめついでに大きなあくびをひとつしたのをきっかけに、のそのそと着替えをはじめた。ふらつきながらも着替えを終えてみたものの、体を動かしたのにもかかわらず、眠気は取れず、あくびは一向におさまろうとはしなかった。目を擦りながら身なりを整え、朝食を軽く採りつつ後から起きてくるニ人のための食事まで律儀に用意して、と……これがなきゃゆっくりできるんだけど愚痴を言っても何もはじまらない。とにかく家を出ることにした。

 僕は少し緊張していた。それは今の学校(第壱中学)に転校してからもう一年近くも経つというのに、いまだ週番というものをやったことがなかったからだ。べつにサボっていたって訳じゃなく主な理由としては長期に渡って学校が休校になっていたからで、休校になる前にその機会がなかったこともないけど、都合が良いのか悪いのか、たまたまネルフがらみの用事があったり、たまたま……投獄されていたりと……そう、たまたまだ。偶然だったとはいえ出られなかったのなら別の週に勤めを果すべきなのに、僕が何かと忙しかったのはクラスのみんなも理解してくれていて、厚意で休ませてもらっていた。それにはとても感謝している。今でもそれなりに忙しいのは変わらないけど、平和になって精神的な負担は今までとは全然違うから今後はきっちり勤めを果すつもりで、みんなにもそのように伝えてある。だから用事がない今日寝坊することは絶対に許されなかった。かなり危なくはあったけど。

 そういえばサボったのが一度だけあって、家出をしたときもちょうど週番だった。これだけは思い出したくなかった。おかげで変な緊張は解けたけど朝からろくな気分じゃない。まだまだ一日は長いってのに先が思いやられる。



 玄関から一歩外へ踏み出すと……寒い。家の中との温度差に慣れなくて、つい身震いをしてしまう。一度肺の中の暖まった空気を吐き出してしまったら、冷たい空気を取り入れたくないと体が拒んで浅い呼吸になった。それにしても、せっかくのぬくぬくとした空気を最後に吐き出したのが溜息だったってのがなんとも僕らしい。

 生まれてからずっと夏ばかりを過ごしてきた僕には、暖かくて過ごしやすいといわれる春という季節もじゅうぶん寒く感じてしまう。たしかに昼間、陽が出ていれば暖かくて過ごしやすい。だけどやっぱり朝夕晩は冷え込むし、だったら暑い夏の方が慣れているぶんもっと過ごしやすいんじゃないかって思う。まあ、少し前までは本当に一日中痛いくらいに寒い冬だったから、それとくらべれば全然ましなんだけど。それに夏になったらなったで暑いって文句を言うかもしれない。

 そんなことを思いながらしばらく歩いたところで、寒さからか肩をすくめ猫背になっていたのに気がついた。先週アスカに「アンタ姿勢が悪いわよ、辛気くさくてみっともないったらありゃしない」なんて言われてから注意してはいるのに、寒いからだけでなくどうも癖みたいなところもあって気がつくとこうなってしまっていることが多い。

 いったん立ち止まって姿勢を正し、覚悟を決めて深呼吸をすると、まだ眠気が残る頭に冷たく澄んだ空気はちょうどいい刺激になったようでシャキッとし た気分になった。



 見慣れた変わり映えのしないおきまりの道を、学校に向かってゆっくりと歩いていた。すると、ふとした違和感。何かおかしい。いつもと違って調子が狂うような、でも悪い感じはしない。なんだろう、学校に行くのにただ歩いているだけなのに。歩いて学校に…歩いている…歩いて…。そうか、歩いているからだ。いつもだったら遅刻ギリギリで、家から出て間もないこのあたりでは間違いなく全力で走っているはずだ。時間に追われないってなんて素晴らしい。いつもこうでありたい。

 急がなくていいからマイペースでのんびりと歩けた僕は、周りを観察するくらいの余裕もあった。観察といっても通い慣れた道の風景はやっぱりいつもと変わらない。眺めていても何も面白みはない。しかしその変わらない中に違いはあった。歩道の上、道すがら出あう人々に僕のような学生の姿はなく、見かけるのは忙しそうに鞄を抱えて走るように歩くサラリーマン風の人ばかりだった。そしてそんな人達に混じってときどき自転車も走ってきた。それもだいたいはかなりの勢いで。車やバイクのように走行音がしないから後ろからだと気がつかなくて、邪魔だとばかりにベルを鳴らされた。その度に僕は驚いて道を開けていたんだけど、そんなことをしているのはどうやら僕だけのようだった。

 それもそのはず、まわりの歩いている人達は最初から道を開けて歩いていたんだ。何度も轢かれそうになってそれにやっと気がついて、僕もそれに習った。僕だけが歩道の真ん中を歩いていたのは、のんびり歩いていたから周りの人達の流れに乗れず、知らずうちに押し出されてしまったからだろう。気にしたことはなかったけれどおそらく普段も、急いでいるから空いていて走りやすい真ん中を使っているとは思う。だけど同じように真ん中にいたとしても、それはもう全力疾走なので後ろからベルを鳴らされててもいちいち気にしちゃいられない。よくよく考えてみるとそれがまったくなかった訳でもないし、それにこの通りにいる時間じたいが短かい。

 でも、そうだとしても歩道の真ん中を歩いていた僕が悪かったのだろうか、そもそも自転車は通行禁止の歩道なのに。たしかに車道は車が勢いよく走っていて、自転車で走るのは危険そうだった。だから走るなとは言わないから少しは遠慮してくれないかと。せめてゆっくりと走ってくれればそれでいい。それなのにこの人達の間では、それが当然のルールとしてでき上がってしまっている。どうしていい大人が誰も疑問に思わないのかと思うと、だんだん腹がたってきた。

 まったく、余裕を持って家を出ないからそうなるんだ。遅刻ギリギリに家を出るアスカにもいつも言っているんだけど「ようは間に合えばいいのよ」と言うんだ。付き合わされる僕の身にもなって欲しいものだけど、この人達もそうなんだろうか。なんかアスカの愚痴ばかりになってるけど、もう五分、たった五分早く行動するだけでいいのにどうしてそれができないのか。今日帰ったら家中の時計を五分進めておいてやろう。



 学校の近くにくると歩道のない道になる。さっきまでのことを思うと、歩道があってあれだったから、ないとなるとなおさら安心感がなく心細い。でも、この道に入ってからは危うさを感じなくなった。それはここがスクールゾーンに指定されていて、この時間は自動車と原付の通行が規制されているからだった。車の往来は皆無といっていいくらいに少なく、自転車は悠々と車道を走れるから気を使わなくても向こうで避けてくれた。これでやっと安心して堂々と道を歩けると、僕は普段得られないと思っていた行政の有難みというものをはじめて実感した。そんなことも、時間を気にして走っていた今までは気づかなかったことだ。

 おかげでそこからは、いつもの登校のときとほとんど変わりがなかった。だけどやっぱり時間的にはまだ早いから、普段だったら見かけるおしゃべりをしながら賑やかに歩く生徒達の姿もなかった。高台の上の公園にある桜の木を何気なく眺めてみたら、花はまだ残っていたけどだいぶ緑の部分が多くなっていた。



 学校に着くと、やはり誰もいない校舎は静かで閑散としていた。上履きに履き替え、いつも通りに教室に向かおうとしたところで、そうだ鍵を取りに行かなきゃと思い出し、昇り始めた階段を引き返して職員室に向かった。

 職員室に入るとき「おはようございます」と言ってみた。ひとり、担当している学年が違う名前も知らない教員と目が合ったので会釈をしたら、挨拶をしてくれるどころか会釈さえ返してくれず、なにくわぬ顔でお茶を啜りだした。他には誰にも気がつかれなかったのか、どこからも返事はなかった。控えめな声で挨拶をした僕がいけなかったのだとしても、せっかくひとりだけでも気づいてくれたんだったら返事くらいして欲しかった。

 それから僕は鍵置き場のある職員室の奥の方に入っていって、気まずさから恥ずかしい気持ちで居心地が悪いまま、鍵を探しはじめた。それなのに、さっさと鍵を持って出て行きたいという気持ちとは裏腹に、そんなときに限ってなかなか見つからないもので、まだ探し始めて一分も経っていないだろうに、もう十分くらいはこうやってまごまごと鍵置き場の前に突っ立っているような、そんな気がしていた。そして後ろで誰かが冷ややかに笑っているんじゃないかとまで思いはじめてくると膝まで笑い出した。焦ってやみくもに探してもよけい見つからないだろうと端から順に探してみたけど、そんな状態だったから学年別に並べてあるなんて当たり前のことに気が回らなくて、当然のように音楽室やら家庭科室などの鍵の置いてあるところまでも探していた。

 で、結局鍵は見つからなかった、というかなかったんだ。きっともうひとりの週番が、僕より一足早くここにきて鍵を持って行ったのだろう。せっかくがんばって早起きまでしたのに無駄な行動をしたあげく、こんな嫌な気分にまでなるなんて……。

 余計恥ずかしくなった僕は、逃げるように職員室を出た。出るときに挨拶はしなかった。



 階段を昇りながら「ああ、朝からツイてないや」と、溜息を吐きながらひとりごちた。階段を昇り切った踊り場で、また丸くなっていた背中にチッと舌打ちをして、う〜ん、と唸りながら肩を開き背筋を伸ばした。するとどういう訳か、なんとなく気分がスッキリしたような感じがした。うん、気が滅入ったときの姿勢をしていると、見た感じの善し悪しだけじゃなく、内面的にも鬱な気分になってしまうのかもしれない。自虐的な性格をしているのは自分でもわかっているけど、それが姿勢にも表れるなんて思ってもいなかった。そうなるとアスカは遠回しに「その暗い性格直しなさいよ!」って言っているのか、と思うのは買い被り過ぎだろうか。そうだよな、僕のことを思ってくれているのなら家事の少しくらいは手伝ってくれるだろうに、って駄目だ、またネガティブな思考になっている。

 そこで気を取り直して嫌な気分を全部吹き飛ばそうと、出かけるときにしたように深呼吸をしてみた。外の空気のような清涼感はなかったけど、まだ人気のない校舎の冷えた空気を肺一杯に吸い込んでゆっくりと吐き出したら、もやもやとしたものは吐いた息に溶けて出ていったみたいでだいぶ薄れていた。曇りが取れた頭でさっきのことを客観的に思い出してみると、焦っていた自分がなんだかおかしくなってきて吹き出してしまった。被害妄想も甚だしい馬鹿らしいって。自分自身に笑うなんてどこかおかしいと思われるかもしれないけど、それは決して自虐的じゃない健康的な笑いだった。

「何かいいことでもあったの?」

 と、突然かけられた声。目の前にいたのは蒼い髪、紅い瞳の彼女。

「あ、綾波…」あ、あれ?

 どうしてこんなに早く学校にきているんだろう。誰だったかは憶えてないけど、今日のもうひとりの週番は彼女ではなかったはずだ。

「おはよう、早いんだね」
「週番だから……」
「あれ、そうだったっけ?!」
「来週だけど、テストが入ってるから……」 
「そ、そうなんだ。えっと、僕も今週から週番なんだ」
「知ってるわ」

 そう言うと、彼女は僕の横を通り抜けて階段を降りていった。



 綾波が鍵を開けてくれた教室に入った僕は、誰もいないけどそこで「おはよう」と言ってみた。いつもなら賑やかな教室も、今はシンと静まりかえっているのであまり響かない僕の控えめな声でもよく響いた。もちろん返事がある訳がなかったけど、さっきの職員室のときと違って気分は悪くなかった。

 さっそく何か仕事をしようと窓を開けようとしたら、窓はすでに開けてくれてあった。外から流れ込む空気は、家を出たときよりもだいぶ日が高くなっていたので幾分か暖まっていて気持ちがよかった。僕は窓の外を眺めながら、しばらくその風を浴びていた。

「鍵、返してきたから……」

 後ろからかけられた声に振り向くと、立っていたのはもちろん彼女だった。これといった表情のない顔で、手をまっすぐ下ろした直立不動の姿勢が彼女らしい。やはり性格は姿勢に表れるのだろうと僕は結論付けた。

「あっ、ごめん。えっと、後は何をやればいいのかなあ?」
「もう終わったわ……」
「ご、ごめん、ひとりでやらせちゃったみたいで」
「いい、大したことじゃないから……」

 それだけで会話は終わって、彼女は自分の席に着くと鞄から取り出した本を読みはじめた。もうちょっと話しをしていたかったけど、口下手な僕に寡黙な彼女とでは、何かしら世間話をするっていうのは不可能に近い、無理がある。たとえば僕ががんばって何か話しかけたとしても、彼女は受け流すだけで返ってこないから話しはそこで終わってしまうだろう。当然他に何も思いつかない僕はそこで何も言えなくなって黙ってしまう。アスカが僕のことを「つまらない男」と評するのはそんなところだろう。

 何もすることがなくなった僕は窓側にある彼女の席からふたつ前の席に座り、本を読む彼女の方を何気なく見ていた。いや、見とれていたと言ったほうがいいかもしれない。いつも盗み見しかできない僕が、よく間近にいる彼女をこうやってじっと見ていられるもんだと不思議に思う。いつもだったらそこで目が合ってしまったりすると気が動転してあたふたとしてしまうのに、今はなんか落ち着く感じがして、もし目が合ったとしても平気でいられるどころか微笑んで受け入れられるくらいな気もした。

 今、僕の瞳に映っている彼女の姿は、いつも目で追うとよくしている姿だけど、今日はそのいつもと違う場所から見ているからか少しばかり新鮮な感じがする。そして自然な感じで彼女を見られたおかげで、ちょっとした発見があった。彼女には、おそらく本を読むときだけの癖のようなものがあって、ときどき右のつま先をちょっと上げて、タン、タン、タン…とリズミカルに三回、ほとんど音が鳴らないくらいの加減で床を叩く。きっと僕しか知らない彼女の癖。もしかしたら彼女にもわからないかもしれない。

「なに?」
「あっ、ごめん。いやなんでもないんだ」

 まずい、つい鼻から息を漏らしたのに気づかれてしまった。馬鹿にしたって訳じゃないのに正直に言えなかったから愛想笑いで誤魔化そうとしたら、いかにも誤魔化しましたって感じになってしまった。僕は自分の度胸と勇気のなさに加え、演技力のなさまでもを呪った。気を悪くさせてしまっただろうか。癖なんてありそうもない彼女が見せた、癖にしても愛嬌のある仕種が意外で可愛かったってだけなのに。しかし彼女は僕の葛藤を他所に、気にした素振りも見せずまた読書に戻っていった。なんか拍子抜けしたけど彼女の素っ気なさは今にはじまったことじゃない。そんなところも可愛いかなって思えてしまうのはなぜだろう。

 窓から外を眺めると、校庭の木々が朝日を存分に浴びてキラキラと輝いていた。明るい緑色はまるで真新しい制服を着た新入生のようだった。その脇を早めに登校してきた生徒達が集団で歩いていた。どうやらこちらは本物の新入生のようだ。ふざけながら歩く姿は、まだ小学生の雰囲気が抜け切ってなくて学生服に着せられている感じがなんとも微笑ましかった。

「碇くん?」
「ん、なに?」

 僕は外を眺めたまま答えた。

「今日はよく笑うのね」
「うん、気分がいいからね」
「そう……よかった」

 僕は、その言葉に振り向いてたずねた。「よかったわね」じゃなくて「よかった」って言ったよね?

「えっ、なんで『よかった』なの?」
「なんでもない……」

 それっきり彼女は黙ってしまい、再び本を読みはじめた。さっきから同じページを開いたままで、例の癖は出なくなっている。何やら難しい本を読んでるみたいだから、きっと僕なんかじゃ理解できないところを集中して読んでいるのだろう。だから邪魔しちゃ悪いよなあ、とか思いつつも、せっかくのふたりっきりの時間がもったいなくて、どうしても何か話しかけたかったから……。

「そうだ、学級日誌は?」
「えっ、あ」

 やっぱり会話になりそうな振りは何も思いつかなくて、けっきょく話しとはいえない用件を伝えることしかできなかった。それでも僕は綾波と口をきけただけで満足だった。綾波は、彼女にしては珍しく慌てた様子で机の中を漁り、日誌を取り出し僕に手渡してくれた。日誌を受け取るとき一瞬手がふれて、僕も綾波もお互い「あっ」と言ってすぐに手を引っ込めた。なんとなく気まずい感じになったので、僕はそれを受け取った後、平静を装いパラパラとページをめくった。まだ新しい日誌は、最初の数ページしか使われていなかった。今日のページには彼女の字で「碇シンジ」「綾波レイ」と名前が書き込んであった。

 ああそうだ、本来の今日の週番の相手は誰だったんだろう。綾波は誰と代わってもらったのだろうか?

 僕はそれが気になり当番順を調べた。

 えっと今日は、香取さんの番だったのか。そして来週が綾波の番で、再来週は…ん。洞木さんじゃないか! 変だな、綾波だって代わってもらうなら親しい洞木さんの方が頼みやすいだろうにどうしてわざわざ……。再来週にまた用事でもあるんだろうか?

 でも、そのおかげで綾波と週番できるんだから、気にしなくてもいいか。

 ちらっと綾波の方を見てみると、彼女はやっぱり本を読んでいて、また、つま先で床を、タン、タン、タン…と叩いていた。僕も彼女の真似をして、外を眺めながら同じことをしてみた。

 タン、タン、タン…
 タン、タン、タン…

 タン、タン、タン…
 タン、タン、タン…

 タン、タン、タン…
 タタタン、タン…

 ちょっとイタズラ心を出して、わかるくらいの音を立ててリズムを変えてみた。そうしたら綾波は、ほんの僅かな間を置いてからおもむろに顔をあげた。突然だった僕の行動に理由が見つけられないのだろう、キョトンとした表情でこちらを見ている。それで目を合わせることとなったが、僕は慌てたりはしなかった。それよりも、めったに感情を表に出さない彼女が見せたこの表情に、こんな顔もするんだなって感心の方が強かった。しばらく見つめ合っていたら、小首をかしげ本当にわからないといった仕種を見せたので、本を読む真似をしながら足で床を叩くジェスチャーをしてヒントをあげた。それで彼女はようやく自分がしていたことがわかったようで、タン、タン、タン…と少し大きめにあの音を立てた。僕はそれに、タン、タン、タン…と同じリズムで返した。

 タン、タン、タン…
 タン、タン、タン…

 タタタン、タン…
 タタタン、タン…

 タン、タ、タタタン…
 タン、タ、タタタン…

 タタタン、タン、タタン、タン、タタン…
 タタタン、タン、タタタン、タ

「あっ、ちがうよ」
「難しすぎるわ」
「ゴメン、ゴメン、じゃあ今度は綾波の番からね」

 それはちょっとした演奏会のようだった。教室に誰かがやってくるまで綾波の真似を僕がして、僕の真似を綾波がして。会話もない単純なことだけどそれがすごく楽しくて、彼女も笑みを浮かべて楽しそうにしていた。



 翌日、昨日より少し早めに家を出た。学校に着くと朝の仕事を全部済ませて彼女が来るのを待った。

「おはよう」
「……おはよう」

 彼女はドアのところで立ったまま僕に挨拶を返した。
 クスッ、驚いているみたい。そんなに意外だったかな?

「昨日は全部やってもらっちゃったからさ、今日は僕がやっておいたんだ」
「……ありがとう」

 彼女はそう言って席に座り本を読み出した。

 タン、タン、タン…

 あっ、また始まった。じゃあ、タタタン、タン…。

 そうして今日もこのゲームから一日が始まった、そしてまた次の日も。リズムに乗った一日は、あっという間にテンポよく過ぎ去ってゆき、あっという間に週番だった一週間も終わってしまった。週番の終わりは同時に、綾波と遊んだこのゲームももう終わりだという意味でもあって、それが残念でちょっぴり淋しかった。



 それから数日が過ぎたある日、ネルフで実験を終えた僕が帰ろうとしたら先に実験を終えていた綾波が自動販売機のあるコーナーで座って待っていてくれた。そして意外なことに、彼女の方からあれを誘ってきた、タン、タン、タン…って。僕は嬉しくなってタップダンス気取りで、タン、タン、タン…って返してみた。そしたら綾波も立ち上がって僕の真似をして、タン、タン、タン…だって。すごく上手に見えたからタップダンスをやったことがあるのかって聞いてみたら、やっぱり知ってもいなかった。

 僕達はふたりっきりになるとこのゲームをやるようになった、ネルフの待合い室や電車の中で。もうずっとやっているから最近はだんだんエスカレートしてきて、一回の長さは増し、リズムにも強弱をつけたりと、そうとう複雑なものになっている。最初のうちは音楽の経験があった僕に分があったけど彼女のリズム感は相当なもので、今では僕の方がついて行くのにやっとだったりと。なんていうか、経験がないからこその枠にはまらない複雑なリズムってのはちょっと卑怯なんだ。

 綾波の癖をなんとなく真似た。それが最初でそのはずが、いつのまにか僕にもそれが伝ってしまったようで無意識に床を、タン、タン、タン…と叩いてしまう。そして、そのつどアスカに「うるさいわね、静かにしなさいよ!」と、どやされてしまうんだ。一応「ゴメン」って謝ってはいるけど、あったっていいじゃないか癖のひとつやふたつ。気にしたってしょうがないよ人間だもの。引き換えと言っちゃなんだけど猫背になる癖は治ったことだしね。それに、今度の癖は治りそうもないし治すつもりもない。来週から本格的にタップダンスを習いに行こうって約束までしちゃったし。これをやってしまうときって、だいたい綾波のことを考えてるときだから、そうしょっちゅうって訳でもないだろうし……。
































 タン、タン、タン…

「だからうるさいって言ってるでしょ!」
「ゴメン」

 また怒られちゃった……。



 このとき、彼の頭の中はもう既に、来週まで飛んでいて、タン、タン、タン…と、軽快なリズムふたつが手を取り合ってダンスしていた。このように、シンジがレイのことを考えるのは、しょっちゅう、なのである。



 本人にも気づかない

 それこそが



 本当の癖


 で、あった。





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