誇れるものがない。
彼女が目覚めたとき、ぼくは誇りに思うだろう。
そのために僕は、歩いていく――
Step by Step
Written By NONO
ずがんっ!!
鼓膜どころか三半規管をぶち切るような炸裂音に耳を塞いだ。
「っ!」
呻きながら、砕け散って外が丸見えの壁の健全だった姿を思い浮かべた。乳白色の壁紙に塗られたそいつは中々きまっていたけれど、今はコンクリの灰はチョコレートケーキを彩る白い粉のような役割を果たしている割に、ひどく空しさだけを強調した。
僕は懐から銃を抜き、一度だけ深く息を吸った。おそらく出口は数秒後に突撃を受けるはずだ。敵は軍隊ではないからこの踏み込みのわずかな甘さが最後のチャンスだ。額から流れる汗と血を拭い、僕は敵の第一撃波でぽっかり空いた壁に向かって突進した。まるでマンガのような行動に彼らは驚いたのだろう。なんとか下のゴミ置き場に叩きつけられるまで攻撃は受けなかった。すかさず退路を断とうとしていたゲリラ兵二人を落ち着いて撃ち抜き、彼らの持っていたMP5をいただいた。
部屋を撃ち抜いたまではいいが、その後が甘いよな。そう思う。塀を隔てて部屋を砲撃した兵士がいる。こういう時のために作っておいた銃撃のためのコンクリートブロックの隙間から兵士の胸に三発の銃弾を浴びせた。防弾チョッキを着込んでいる恐れはない。彼らだって最前の兵士がそれほどの装備をする余裕はないのだ。
間髪入れず塀を飛び越え、向かいのビルに入る。部屋に乗り込んできた兵士に上から撃たれる恐れはあったが、すんでのところでビルの中に入ることができた。
この地下から、ネルフへ向かうことができる。
二○一六年二月。死海文書に記された「最後のシ者」を殲滅した特務機関ネルフは、その上位機関の「ゼーレ」と訣別。ゼーレは戦略自衛隊一個師団を第三新東京市に送り込み、圧倒的な戦力差でネルフ本部施設の直接占拠を目論んだ。
しかし、十五番目の使徒との戦いによって精神崩壊を起こしたセカンド・チルドレンを乗せたエヴァンゲリオン弐号機の復活により、通常兵器のほとんどを防がれ、戦力はむしろネルフ側有利となった。
ゼーレはその直後、独自に製造していた量産型エヴァンゲリオン九機を全機投入。S2機関を備え、エヴァの絶対的な弱点の電力供給ケーブルを必要としない上、自己修復機能を持つ量産型エヴァに弐号機は追いつめられる。
だが、それまで戦うことを拒否していたエヴァ初号機のパイロットは戦うことを決意。覚醒した初号機は量産型エヴァをも蹂躙し、戦いは終結したかに見えた。
「そううまくいかないのが、世の中のつらいところ、かな」
碇シンジは口の中で呟き、振りきれなかったたった一人の追っ手を撃った。身体には当たらなかったが、幸い連絡をとろうとしていた無線機に命中した。バチン!と音を立て、無線機はその機能を停止する。
「あ!?」
二人の距離はわずか五メートル足らず。にもかかわらず無線機に目をやり、シンジのことを忘れてぶんぶん振るその姿は哀れとしかいいようがなかった。
シンジは一気に距離を詰め、アゴに拳を叩きつけた。地面に叩きつけられ、目以外を覆っていた布がはずれる。
「ウッ…!」
アゴへの一撃と後頭部を強く打ったせいで視界の安定していない敵の顔は、まだ十代半ば。にもかかわらず、こうして銃を持っているのである。
シンジは敵の側により、銃を向けた。ようやく脳が働きだした少年の顔は一瞬にして凍りついた。
「覚悟なんてしてないだろ」
「他の人が死んだって、自分だけは生き残るだろうなんて考えているだろ」
三年前の自分を思いおこした。ただひたすら他人におびえて、ただ死をおそれた。生きていても生きている気がしていなかった毎日をすごしていたけれど、「死」がひどく身近になってからは、死にたくないと思いつづけた。覚悟なんてまるでしていなかった。ただ他人が自分を必要としてくれているからあのエヴァ初号機に乗り、使徒と戦った。
「君は、僕だ。可能性として十分ありえた、三年前の僕」
そんな少年を、殺せるはずがない。
「もうこんなことはやめるんだ。今回の活動は極めて計画的だったみたいだけど、君たちはネルフをまるでわかっていない。たとえ政府が君たちを扇動していても、それは無駄だ。ゲリラごときにやられる組織じゃないんだ」
銃を下ろし、少年の目を見つめる。恐怖と怒りがないまぜになったその瞳は、どうやら僕にはなかったものだ。昔の僕なら、ただ怯えることしかできなかっただろうから。
「君は生きるんだ。今なら間に合う。家族は?」
こうして話をしている暇はあまりない。それでもつづけた。
「妹が、ひとり。おれたち、孤児だから。行くところなんて、ない」
おおかた、食事と安眠できる場所に誘惑されたんだろう。サード・インパクト後はそういう子供が増えた。いつかあの人が話してくれたみたいに、施設はずさんだった。
「そうか。でも、やめるんだ。ネルフは君のような年ごろのゲリラも全員殺す。そうすることで政府に脅しをかけるんだ。だから、下手をしたら君の妹だって殺されかねない。こうして瓦礫だらけの街で攻撃できたことも、わざとだ。君たちはいけると踏んで大人数の兵士を追加した。僕らはそこを叩く。徹底的にだ」
少年の瞳から、怒りが消えた。今度こそ恐怖だけが彼を支配し、血で汚れた顔が真っ青になった。
「S-802地区に使われていない工場がある。妹と一緒に今から一週間はそこにいるんだ。そうすれば君は助かる。たとえ誰か来ても、隠れているんだ。決して戦おうとしちゃだめだ。妹を巻き添えにするからね」
じゃあ、と声をかけ、走り出した。ネルフに状況を訊きに行くために。なにより地上に居つづけたら生きていられる保証はない。
「なあ、あんた」
少年の弱々しい声が聞こえ、振り返る。
「優しいな」
「そうでもないよ」
ぼくはちっとも、人にやさしくなんかないんだ。
死骸から花が咲いた。
「な、なんだこれ!?」
見回すと、倒したエヴァ量産機すべてからその現象が起こっていることに気がついた。一瞬にしてわけがわからなくなっていた。
血がどくどくと流れ出ている血管は蔦となって急速にジオフロントに生え広がり、骨は葉になったり花になったりしていた。どれも巨大で、あまりに気味が悪い。
「なんだよ、なんなんだよコレ!?」
ようやく襲いかかってくる恐怖から開放されたと思ったのに、気色悪い現象が目の前で起こり、それがぼくを中心に取り囲んでいるのがより一層恐怖を煽った。
血管なのか、蔦なのか。血管ではないし、植物でもない蔦が爆発的スピードで広がり、初号機とエヴァとの間を埋め尽くすと、花はメキメキと咲き乱れ、花粉のような金色の粉を盛大に撒散らした。
ぼこ、ぼこぼこぼこぼこ!!!
花と蔦に埋もれていた黒いロンギヌスの槍が這い出て、目で追いきれないほどのスピードで初号機の両手と胸を突き刺し、宙に吊るし上げられた。切っ先数十センチが刺さった程度だから大げさな痛みは感じなかったが、それが逆にますます恐怖を際立たせる。
「やめろよ、なんだよ、なんなんだよお!」
絶叫。
あとはただ、インダクションレバーをがちゃがちゃと引くことしかできなかった。なぜか槍に刺された途端活動を止めた初号機はそれにはまったく答える気配を見せず、勝手に雄叫びをあげ、月に刺さっていた真っ赤なロンギヌスの槍を呼び寄せた。
初号機の胸から露出したコアと槍の切っ先が触れ合うと、溶けるようにその二つは一体化して、初号機は槍と一体化した。
あとから真相を聞かされて知ったのだけど、あのまま事態が進行していたら初号機は生命の樹となって量産型エヴァでできた「庭」と一体化し、「エデン」というフィールドを形成し、世界を覆い尽くしていたらしい。そうすることで人類全てを至福にするというのがゼーレの進めていた「人類補完計画」だった。
そして、リリスではなく初号機を使った補完計画には一つ余計にやらなくてはならないことがある。それは、パイロットの自我の崩壊。リリスによって形成された「エデン」ならば人は楽園をそのまますごすことができる(人類の母はやさしい)けれど、人の魂が宿ったエヴァでは生命の樹になっても魂までは樹になれない。そこを、パイロットの精神崩壊によって無理矢理溶け込ませ、生命の樹を完成させる。
パイロットは、もちろん、ぼく。
そしてぼくを守るため、彼女はリリスとなった。
「よう、景気はどうだい」
発令所へ向かう途中の休憩所で煙草を吸っている青葉シゲルに声をかけられた僕は苦笑いを浮かべて答えた。
「ぼちぼち、ですよ。ところで禁煙宣言はどうしたんですか?まだ一週間もたってないですよ」
「いや、どうもないと落ち着かなくてな」
青葉はラクダの絵がかかれたタバコの箱を胸ポケットにしまい、笑みを浮かべたと思うと、すぐに真顔になり、指で天井を指した。
「上、どうなってる?」
「もうすぐケリがつきそうですよ。ゲリラはせいぜい百五十人程度ですから」
「だが、今回のやり方はいただけないな………あの話は、本当なんだろうか」
「武闘派の根回しで、ってやつですか?今回は司令直々の命令ですよ」
「だが…今の話とは少しズレるが、ネルフが穏健派と「武闘派」の連中に別れていると言ったって、その差はなんだ?俺たちは穏健派だが、こうして人を殺しているんだぜ」
「思想が違います。力を示すために力を使っているんじゃない。なにより僕らは、再び死海文書のテクノロジーを駆使すべしなんて言っていないですよ」
「そりゃそうだな」
彼は納得したが、それでもまだ僕に言いいことがあるようだった。何度か視線を右へ左へと動かしてから、重い口を開いた。
「なあ、シンジ君。君はもう、抜けるべきなんじゃないか?」
そうくるだろうな、とは予想していた。おそらく自分の味方をしているネルフ職員とその協力者は誰もがそう思ってくれているのだろう。それはとてもうれしいことだった。七年前はチルドレンに頼るしかなかった大人たちのすべてが腹立たしかったこともあったけれど、今はもう彼らとともに戦う敵は彼らにも殺すことができる。対等な立場に立って、そのうえで心配してくれるのは、とてもありがたかった。
「いいんです」
僕はかぶりを振った。
「だが、それは誰も望んでいないぞ。君の友だちだって、北海道で君を待っている。アスカちゃんだって、ドイツで君が無事でいることを願ってる。それなのに、君は戦いつづけるつもりなのか?」
七年前の闘争の終結後、惣流アスカはドイツ第三支部へ戻った。ゼーレの息がかかっている場所だったけど、「やっぱり、故郷だから」それだけの理由で、十分な理由を抱えて彼女は帰った。今はネルフとはほぼ無縁の生活をしていて、生物工学の研究員としてドイツの大学にいるらしい。
らしい、というのは、それを人づてでしか聞いていないからだ。あれから三年もたつけど電話もしていないし、手紙も書いていない。
彼女になにもしてあげられなかった自分を許すことができずに、いまもまだ、会う気にはなれずにいる。
「まだあの戦いは終わってないんです。七年前に綾波が僕を助けてくれた戦いは。16使徒との戦いで自爆しようとする綾波を助けられなかった。カヲル君も殺してしまった僕の世界は、一度真っ赤に燃えたんです。僕にとっての世界が燃えていた。そしてもう一度戦う決心をした僕は、結局また綾波に助けられた」
「それが、彼女の望んでいたことだからな。シンジ君を助けて、幸せになることが望みだったからだ。君がこんなことをすることを、彼女は望んじゃいないぞ」
それは正論だと思う。
しかし、外野の意見だった。
「青葉さん」
「ん?」
「人生って、けっこう長いと思いませんか?」
青葉がかすかに逡巡する素振りを見せたが、頷いた。
「ああ、人生八十年もあるしな」
「その中で、大なり小なり別れ道があると思うんです。些細なことなら無数に。赤いペンと青いペンどっちを買おうとか、そういうことも含めれば。そして、重大な別れ道もある。僕はその分岐点が、たまたま人より早かった。それだけなんですよ」
「…筋は通ってる。だが納得はできない。俺はいつだって、君がこんなことから足を洗うことを願っているよ」
「僕もです」
僕は笑顔で答えた。青葉は虚を突かれたような顔をしたが、すぐに「そうだな」と彼も笑った。「そりゃそうだ」
「碇くん」
どういう仕組みなのかは知らないけれど、ぼくに襲いかかる精神的衝撃。それを紛らわせるためにぼくの脳が勝手に作りだした幻聴なのだと最初は思った。いきなり心のざわめき、崩壊の衝動がやんだから、ああいよいよぼくももう終わりなのだと思ったのだ。
「碇くん」
また声がきこえた。きちんと、耳がその声を捉えているのだとわかり、ぼくは閉じていた瞼をおそるおそる開いた。
「あ、あやなみ…!?」
そこには、間違いなく綾波レイがいた。いつもの無表情で。
でも、綾波レイはおかしなことにエヴァよりずっと巨大で、真っ白い身体になっていた。大きさは計り知れないけれど、ちょうど手が生命の樹になった初号機と同じくらいだった。下を見ると、いつのまにか初号機はずいぶん高く浮き上がっていたのだとわかる。
「どういうこと…!?」
下に生え広がっていたエヴァ量産機でできた「庭」はいまにも枯れ果てそうになっていた。綾波がやったことなのだろう。そんな力を持っているのはいま、彼女しかいないのだから。
「人類補完計画には手順があるの。知恵の実と力の実がなる「生命の樹」はあらかじめ「庭」がないと不成立になるから…」
「でも、初号機がこのままじゃ、僕はどうなるんだよ!?」
綾波が、すこし、微笑んだ。
ぼくにはその笑顔の意味がわからなかった。
「大丈夫。そのために、わたしはこうしてここに来たから」
綾波が生命の樹を握ると、そのまま自分の身体に突き刺した。
「まだ碇くんの自我が崩壊していない今なら、それはあくまでロンギヌスの槍。こうしてわたしに刺せば…くっ!」
急速に溶け合っていた槍と初号機は引きはがされ、初号機は吐き出された。
「リリスはまた、封印されるから…」
「綾波はどうするんだよ!?」
「わたし、は…いい」
「!?」
「碇くんが無事なら、いい」
彼女は淀みなく、そう言った。
と同時に綾波もまた初号機におこったことと同じように、リリスと分離して、綾波は空中に投げ出された。
「ぼくはこのとおり元気だよ」
ネルフの最重要機密区域の一室。一時ターミナルドグマに寝かせることにしていたけれど、できるだけ陽の光を浴びせたくて、僕のわがままで病院に移した。本部施設の隣に新しく作ったビル。彼女一人のための病院で、看護婦、看護士全員がネルフ職員で、戦闘技術も持ちあわせている。
彼女はあれからずっと眠りつづけている。
リリスの魂を封じ込めるための存在だった彼女は、ロンギヌスの槍がリリスに刺さった時点でその役目を終え、リリスから吐き出された。落下する彼女を初号機のATフィールドで受け止めて、地上に着地したあとのことは、僕はあまり覚えていない。ただ彼女の生存を確認したあと、倒れた。リツコさんが自殺する前にそのすべてを教えてくれた。気絶したのは槍と一時的にせよ不完全にせよ一体化したためだと。
そして、綾波の眠りはそれと同じで、しかし彼女は一度リリスとなったため、再び「自分」を取り戻すのには時間がかかるとも。
「僕も、父さんに似て不器用みたいです」
彼女の寝顔を見つめながら、もうこの世にいないリツコさんに言った。
リツコさんと父さんは、すべてを政府に話し、自殺した。
そしてネルフはリツコさんと父さんの遺言に従い、ネルフは死海文書の封印作業を行っている。外部への漏洩の徹底的な阻止。それは支部も同じだ。もっとも支部にはデータしかないため、それが公表された今では危険な香りを放つのは本部だけになっている。
日本政府は執念深かった。もう世界中がネルフを放置することを決め込んだというのに、政府だけは諦めずに、ネルフがなにがしか死海文書の技術を未だに持っているだろうとして、ネルフを憎む人々によって結成されたゲリラを扇動して彼らを操り、ネルフがなにを隠し持っているか探ろうとしていた。
ネルフはエヴァを破棄し、リリスはロンギヌスの槍とともに消失。同時にアダムも消え去っていた。どこに行ってしまったのか、ネルフの調査でもわかっていない。そのネルフに残されたのが綾波レイ。その出生自体が機密事項の彼女は、彼女の秘密とその存在を知られたとき一番標的にされることは目に見えていた。
彼女を守ろう。
決心に時間はいらなかった。
僕の身体は槍との融合以来、少し人より優れていたから。
これは君たちに頼るしかなかった、助けてもらうばかりだった自分たちの仕事だとネルフの職員皆が言った。
「でも、それは僕も同じなんです」
彼女の寝顔を見つめる。点滴だけで彼女は成長していた。筋力の衰えすらない。みんなにはとても理解不可能だろうけど、僕にはわかる。
目が覚めたとき、彼女が健常者と同じでいられるようにはかってくれたのだろう。人類の母は、やさしかった。
「僕は綾波に助けられてばかりだった。ずっと、ずっと」
別れ道。
こういう現在を選んだ僕を、みんなは過去にとらわれすぎだと、忘れて未来へ進むべきだと言うだろう。
でも、彼らが言う「忘れるべきこと」が、僕にとって一番大切な一歩であり、上らなきゃいけない階段なんだ。
彼女を守ろうともせず生きることは、前進とは思えない。
だから、たとえこの道がどんなに遠回りでも。
Step by Step
他の道より、確かに前に進んでいる。
それは、今ここに彼女がいることと同じくらい、確かなことなんだ。
彼女が目覚めて、きちんと「ありがとう」が言えるその日まで。
そして、僕にとって一番大切な階段を上るため。
僕はこの道を、歩いていく。
<続劇>