精一杯だった。

 支えられるのかと疑問に思ったり。

 それが無理でも、貫かなきゃならなかった。


 あまりに、つらすぎる。



フェイク・サン・オブ・トリックスターズ
                               Written By NONO


 変化は突然訪れたわけではなく、されどゆっくりというわけでもなく、段階を踏みながらも着実にやってきた。空の色が段々と濃くなり、やがては暗くなるように。冬の空のように夜になった。
 それは同時に夜明けへの前進だと誰もが信じ、それぞれの道を歩くことにする。やがて夜が明けて、見えはじめた太陽がそれまでとはちがったものであっても太陽は太陽なのだと言い聞かせながら、それぞれの道を進むことにした。いつかはその太陽を本物だと思えるようにと祈りながら。
 それがどうだ、このザマは。ぼんやりと窓から差し込む光を認識したあと、碇シンジは口の中だけでだが、明確に憎悪を吐きだした。なんだ、このザマは。
 笑わせる、まったく笑わせるじゃないか。自分がこれほどまでに未練たらしい人間だと思っていなかった。自分の部屋でもないくせに、あんな夢を見るなんて大馬鹿野郎もいいところだ。
 彼女と共に歩く夢なんて。

「おきた?」
 あきれた顔で覗き込んできた女性をぼんやり眺めた。彼女の背後からやってくる光はやたらまぶしく、そのせいで彼女までが太陽のように、もしくは太陽を支える女神のように感じられる。錯覚もいいところだ。その太陽は、本物ではないのだから。

「意外にあぶなっかしいのね、シンジって。からまれてケンカなんてタイプじゃないと思ってたけど」
 彼女はポットに入っている冷めた紅茶を氷をたっぷり入れたグラスに注ぎ、さしだしてきた。口の中が切れているからしみるだろうことはわかっていたが、喉の渇きは堪え難いもので、痛みを我慢しながらそれを飲み干した。
「なんかあったわけ?」
「…」
 なにもなかったらアザを作って帰ってくるわけがない。言いかけてやめた。これでは単なる八つ当たりだ。理由を言うということは過去を蒸し返すことになる。いまさら自分が負った傷をいじるような真似はしたくなかった。「なんでもない」とだけ言って改めて彼女を見上げた。
 元バスケ部の彼女は夏の寝間着に昔練習着に使っていたノースリーブの白いシャツと黒いハーフパンツを履いていた。高校時代の彼女はあまり見たことがない――体育館を半分に分けて使っていたから練習しているのを何度か見たことがあるくらいで。
 少しのびた髪をシンプルに後ろで束ねている姿は健康的で、清々しささえ憶える。彼女の笑顔にセクシャルな要素を少なく感じるのは、このさばさばしたオーラによるところが大きいのだろう。
「ごはん、食べる?」
「いや、いい。帰るよ」
「そう?でも、もう昼近いってのにその恰好はまずいんじゃない?」
 自分のシャツを見てみると、無視できないほどの返り血がついていた。乾いて赤黒くなったそれは、どう考えてもいいものではないし、街中の人間から白い目で見られるのは明白だ。
「ああ…どうしよう。まあ、交番さえ通らなきゃ大丈夫だろうけど」
「このあいだ泊まりに着たお父さんが置いていったシャツならあるけど」
「じゃあ、借りていっていいかな」
「待ってて」
 彼女は隣の部屋に引っ込むと、すぐにそれを取って戻ってきた。
「サンキュ」
 すこしよれたものだが、別に悪趣味な柄というわけでもなく、安心して着替えることができた。
 いまさらながら、傷が痛む。顔はほとんどやられないように注意したけれど、体中が軋んだ。さすがに四人も同時に相手にできるほど腕っぷしに自信があるわけではない。
 ごきごきと首を鳴らしながら部屋を見渡した。この居間兼台所に、和室が一間。だがこの部屋だけでも自分が住んでいる部屋より広い。築数年の、新しいアパートだ。フローリングの床に、きちんとしたキッチン。もう一人くらい簡単に住めそうだった。
「いつ見ても思うけど、いい部屋だね」
「まあね」
「家賃はどのくらい?」
「八」
「さっすが、お金持ちはちがう」
「まあね」
 彼女は悪びれた風もなく、不愉快な顔もしなかった。自分が人より恵まれていて、そしてそれを使うことをためらっていない。要するに大人なのだ。自分と同じ十九歳なのに。
「シンジはどう?景気よくはないだろうけど」
「まあ悪くもないよ。最低限の金は出してもらってるから」
「最低限って」
「家賃代」
「って言ったって、あのボロ部屋いくら?」
「三万五千」
「安っ」
「あとは自分で稼ぐしかないわけだ。両親がいないってだけでコレだよ」
「そういえば、御両親が遺したお金とかは?」
「親族が山分け。特に、今金を出してくれてるオジサンががばがば持っていったみたい」
「大したおっさんね」
「まあね。でもまあ仕方ないよ。援助してもらってるだけ文句は言えないしね」
「ふうん」
 彼女は立ち上がっておもむろに冷蔵庫を開け、巨峰を出してきた。もう、そんな季節になるのか。
「今日って何日だっけ」
「明日から九月」
「まだ1ヶ月も夏休みか…子供のころはそんなこと考えられなかったな」
「そうね、みんな今日から学校だと思ってた」
「でも、嫌じゃなかった」
 そろそろ休みばかりで退屈で、友だちにも会わないし、そろそろはじまってもいいと思ってた。朝早く起きるのは嫌だったけれど。でも、同じクラスの彼女に会えるというだけで、それだけで嬉しかった。小学生だったから、ただ一緒にいるだけで楽しかった。もともとあの子は、そんなにおしゃべりな子ではなかったし――

「そう?私は嫌だったな」
「まあ、始まってくれとも思わなかったけど、終わるなとは思わなかった、ってとこかな」
「ふうん」
 八月三十一日、ってことか。
 さっきの彼女の言葉を思い出し、ふと思った。彼女はおいしそうに巨峰を食べている。窓から差す陽と相まって、やはり艶やかさはあまり感じなかったけれど、魅力的だった。
「ねえ、マナ」
「ん?」
「今日海原公園でやる花火大会、行かない?」
「へっ?」
 思わず手を止めて、目を丸くする彼女は、
「なんで急に?」
 と、まったくもっともなことを言った。
「いや、迷ってたんだけど、悩むことでもないと思って」
「ふうん…どうしよっかなあ」
 彼女はわざとらしく考える素振りをみせた。口元に笑みが浮かんでいるのを隠そうともせず。
「いいよ」
「やったね」
 ベッドから立ち上がって、背伸びした。身体は痛むけど、なんとかギクシャクせずに動けそうだった。
「じゃあ、五時に迎えに来るから」
「オッケー」
 彼女は座ったまま手を振ってくれた。罪のない、嬉しそうな顔はありがたく、そして、なによりも残酷に思えた。





 世界が、僕と綾波レイを、引き離していく。






 そんな気がした。











 家に帰って、さて五時までなにをしていようかと考えて、すぐに今日は用事があったことを思いだした。約束の一時までそうない。シャワーを浴びて、多少まともな身なりをして、またさっさと部屋を出た。我ながら落ち着きのない生活だ。
 待ち合わせ場所を指定してきたのは向こうからだった。くたびれることに、わりあいまじめなレストランだった。ランチタイムだからそこらのOLやカップルもけっこう入っている。
「いらっしゃいませ。一名様ですか?」
 店長らしき人が低すぎない姿勢で訊いてくる。適度に騒がしく、適度に静か。好印象だ。
「いえ、待ち合わせで。多分もう来てると思うんですが」
 腕時計を見ると一時を五分ほどすぎていた。待ち合わせに遅れるような人ではないから、もう入ってしまっているだろう。
「あ、はい、かしこまりました。あちらです。御案内します」
 にぎわうレストランの奥に、よくある茶色の髪をした女性を見つけた。少し赤みを帯びた髪は、昔とくらべればやけに大人しく思える。
「いらっしゃい」
「おひさしぶりです」
 硬い微笑に迎えられ、緊張が高まった。なにげない気持ちで来てしまったが、待ちあわせた相手は赤木リツコその人なのだ。彼女ともっとも親しい大人であり、僕と彼女との共通の知人ということになる。今となっては、唯一の。
 それなのに、なぜ大した覚悟もなく来てしまったのだろう。
「飲み物は?」
「アイスコーヒーを」
 リツコさんに促され、店長に告げる。店長が下がり、リツコさんはもう来ていた自分の分のアイスティーをひと口だけ口に含み、ようやく口を開いた。
「ひさしぶりね」
「まあ、二年も会ってませんから」
「雰囲気も変わったわ。顔つきも。背も、ずいぶん伸びたんじゃない?」
「少しだけですよ。もう、そんなに。父さんはもっとでかかったけど」
 交通事故で死んだ父は一九〇を越える大男だった。僕にしたってそれほど小さくはない。標準より高いくらいだけど、父を知る人は「それほど伸びなかった」といつも言う。
「あんなに大きくても仕方ないわよね」
「ええ、まあ」
 僕は肩をすくめ、やってきたアイスコーヒーを飲んだ。まったく緊張がほぐれない相手だ。無理もないが。
「料理は?ごちそうするわよ」
「恐いですね」
「そう?」
 メニューを渡しながら、リツコさんが手を上げてウェイターを呼んだ。それぞれひとつずつスパゲティを頼んだ。長時間二人でいたいわけでもないから、僕は大盛りにもしなかった。
 ではなぜ、会おうと思ったのだろう。今さら彼女の様子を聞いたところで僕には何の意味もない。あるとすれば、失ってしまった、今とは違う色をしていたはずの太陽の確認作業でしかなく、それは、なんら希望をもたらす効果はない。わかっている。わかっているはずなのに。
「あの、リツコさん――」
 この人は、彼女の親の弟子だった。生物工学だかなんだか知らないが、その筋の学者だった彼女の両親にずいぶん世話になった人で、学生のころはまだ幼い彼女の面倒を見たりした人だ。もう十年も前、転校してしまった彼女が夏休みにこの第三新東京市に戻ってきたときに知りあった。向こうは「碇ゲンドウ」と「碇ユイ」を知っていた。彼女の学んでいたことは僕の両親にも関係のあることだったからだ。そのころは、この人の髪はなんの遠慮もない金色だった。
「彼女の――綾波レイのことなんですけど」
「ええ」
「その…元気ですか?」
「ええ、元気よ。渚君ともうまくやっているみたいだし」
「そうですか」
 安心した。絶望を感じるよりも先に安心できた。彼女がどういう形であれ幸せならば、それが一番だ。そうでなくては、この道のりを選んできた意味がないのだし――
「ところで、どうして私に訊くの?自分で会えばいいじゃない」
「そういうわけにはいきませんよ。前の恋人と話したい人間なんて普通いないでしょう」
「でも、だったらどうしてあなたはそこまでレイを気にするの?自分で会う勇気はないのに、どうしてそこまで心配するのかしら?」
「そりゃ、僕は……未練があるからです」
「そうでしょうね。でも、だったら渚君のことなんて聞きたくないんじゃないの?あなたの親友なのに、あなたからレイを奪ったのよ」
 そうだ。そういうことになるのだろう。
 二年前に亀裂が生じた隙に、親友の渚カヲルは甘い言葉で僕から彼女を奪った。誰の目にもそう写る。





 それでいい。





 僕は僕のことなんかどうでもいい。二年前にそう誓い、僕は彼女から離れることを決心した。いや、正確には「僕という過去を切り離すことで決着をつけようとする彼女の決心を変えることを諦めた」のだ。そうしなくては彼女の心は呵責と罪悪感に押し潰されていただろうし、僕は僕でそうして壊れていく彼女を見て壊れていっただろう。
 だから、いま世間の目に写るこの状況を選んでよかったのだ。彼女が幸せなら、それでいい。

「別に。僕はただ逃げただけです。そのせいで傷ついた綾波を、カヲル君は放っておけなかったんですよ、きっと。優しいから」







「君がそんな選択をするとは思ってなかったよ、シンジ君。本当にそれいいのかい?」






 夏の終わりが最後に降らせた、早朝のにわか雨の中での会話。今でもそれを鮮明に思い出せるし、そのたびに心臓を鷲掴みにされたような感覚を――後悔を憶える。あのとき、やはり彼女とともにいるべきだったんだ、と。なにより、一緒にいたかったんだと。

「そう?なら、いいけど。レイもあなたのことは二年たっても何も言わないし…」
 二年前に別れたというのは、あまりにも分かりやすすぎた。そればかりはどうしようもなく、別れた原因はすぐに思い当たるだろう。僕らが別れたのは、彼女の母親が死んですこしたってからのことだった。その死が原因だということはカンタンに想像がつく。小学生でもわかることだ。

 その小学生のころから、僕はずっと彼女のことが好きだった。彼女が三年生になるころ引っ越しても、ずっと好きだった。
 高校生になって、いてもたってもいられず彼女に会いに行った。幸いそのころ住んでいたおじの家から彼女の家まで一時間程度の道のりに縮まっていた。驚きと共に迎えてくれたあのときは、今までで一番幸せな瞬間だった。親族は冷たく、うわべだけのつきあいの友人に疲れていた僕にとって、静かに僕を迎えてくれる彼女はあまりに魅力的だった。

 再開して数ヶ月で本格的につきあいはじめた。あきれるほど僕は彼女に惚れ込んでいたし、彼女も僕を愛してくれた。彼女もまた、自分の母親の病気も含めて家庭内でのいざこざに疲れていた。



 そして、彼女が目を逸らした「いざこざ」とその結末こそ、ブラックボックスなのだ。



 その中身だけは知られてはならない。あのとき彼女になにがあって、僕に対してどう接したのか。そして彼女が下した決断を、僕は隠さなくてはならない。それが、彼女にしてあげられる最後の親切だとわかったあの日から、僕は焦りながら、後悔しながら貫き通している。
 その結果、互いに成長できれば、いい。

「別れ話したくないって子もいるんでしょう」

 あまり触れないでくれ、という意味合いも持たせたセリフだった。リツコさんはそれを敏感に察知して、あとはとりとめもない話で時間を潰し、食事をして、別れた。この人は確実になにかを察している。おそらく想像以上に。
 こうして隠そうとしている行為自体が事の重大さを明らかにしているのだろう。しかし、それでもそれが何か、具体的に知られなければ大したことじゃない。

 もう三時近くになっていた。このまま家に戻っても時間を気にするだけだから、戻るのはやめた。どうせ寝るためにあるような部屋だ。
 しばらく本屋で時間を潰して、少し早いけどマナのアパートに向かった。どうせ混むだろうから、早く行っても損はないだろう。
 呼び鈴を鳴らすと、すぐに彼女が出て来た。

「あれ、そんなの持ってたんだ」
「まあね」
 彼女は浴衣姿で出てきた。今朝とちがって、髪ももっとちゃんと結っていた。
「それ――」
 カギをかける彼女の姿を見て、ぎょっとした。白地にアサガオの模様。
「ン?」
 首をかしげる彼女をよそに、愕然とした。
 これは、なんのサインだ?警告か?

 未だにあのときの選択を後悔している僕へのあてつけか?「何一つ成長していない」という。

「いや、なんでもないよ。行こう」
 彼女を促しながら、早くも誘ったことを後悔した。こんなものを見ることになるなら始めから誘ってなんかいなかった。どうすれば、こんなことになるんだ?






 どうして、彼女と同じ浴衣なんか着ているんだ?





 花火大会は予想通り多くの人で賑わっていた。それほど大きなものではないけれど、それでも他県から人が集まってくる。夏の風情はどうでもいいが、お祭り騒ぎしたいのは誰でも同じなんだろう。手をつないで両わきを出店に挟まれている僕らもまたそういう類いの人種だった。
 霧島マナは高校のときから知っていたけど、親しくなったのは大学生になってからだ。大学の飲み会で会ったときに、お互いよく知らない相手と喋るのにくたびれていたからなんとなく一緒にいた。
 それがきっかけで、仲良くなっていった。でも、性的なつきあいはないし、そもそもカップルとさえ呼べない。どっちかが告白したというわけでもなく、友達の延長として一緒にいた。僕はケンカしたときに彼女に世話になって、彼女は話し相手がほしいときに僕を部屋に招いた。
 彼女が僕に好意を寄せてくれていることは知っている。彼女は待っているのだ。僕が過去に縛られているのを察して、いつか自分に振り向いてくれると信じて待っている。それはとても嬉しいし、実際、僕は彼女の健康的な魅力をもっと感じたいし、もっと彼女を知りたいと思っている。
 でも、僕はまだ綾波レイを忘れられない。好意は自然に消えつつあるものの、トゲの痛みのように残っていた。その痛みは、あのときの選択を悔やんだ自分を思い出させる。

「もうそろそろじゃない?」
 花火が上がるのは八時からだ。そろそろ場所を確保しておかないといけない時間になっていた。土手に向かう途中、たこ焼きを買った。こういう時の定番でしょ、と彼女が買ったものだ。ごていねいに袋に入れてくれた人が後ろの指さして「あっちが穴場だぜ」と教えてくれた。その教えの通り人の流れに少しだけ逆らって、裏手に回ろうとした。

「あ」

 思わず声をあげていた。

 人の波の中。白地にアサガオの浴衣。

 浴衣に負けないくらい白い肌。

 晴れの日のような空色の髪。

 言葉よりもずっと多くを語る赤い眼。





 綾波レイ。





「どうかしたの?」
 マナが袖を引っ張った。こっちが立ち止まって凝視していたせいで、向こうもこちらに気がついた。






 綾波レイ。






 少し、痩せた。
 それが、二年ぶりに見る彼女の印象だった。

 彼女はこっちに気づいても、変わらない歩調で近づいてくる。ただ、憎悪を剥き出しにして。傍らの、彼女に似た容姿を持つカヲル君は、ただ無表情だった。どう対応すべきか考えているようでもあった。


「……久しぶり」


 笑みを浮かべる余裕はなかった。目の前に立ち止まった彼女に対して、今の僕が言える言葉はひどくつまらないものしか残っていないことに気づいて、絶望した。


 バチン!


 容赦なく、彼女が僕を打った。頬に鋭い痛みを感じながら、これでいいのだと自分に言い聞かせる。彼女がこういう態度なら、成功なのだ。この僕に対する憎悪こそ、今僕が最も大切にしなければならないものだから。

「ちょっと、なにすんの!?」

 マナが慌てて割って入る。綾波の浴衣姿と、さっきの僕のマナの浴衣への態度を思い出し、綾波レイこそ僕が拘っている人物だと理解したのだろう。

「黙って」

「!?」

 ぎらり、と普通ではあり得ない彼女の眼の色と強烈な視線にマナが押し潰される。綾波の眼は、不思議なほど魅力があった。それが敵意を露にすると、美しく、凶暴な獣に変化する。

 彼女は僕とマナを交互に見た。それから、

「あなた、十分気をつけたほうがいいわ。この人と一緒にいると、もっと大事なものを見落とすことになるから」
 と言うと、彼女は一度解いた腕をまた絡め、カヲル君に「行きましょ」と言った。彼と僕は数瞬目を合わせる。

 彼の眼が問う。いつかみたいに。





「これでいいのかい?」と。






「これでいいんだ」と僕は返す。



 彼は軽く、一度だけ頷いて彼女を連れて歩き出した。










「なんだったの、もう…!」

「昔の話だよ」
 憤慨するマナをなだめて、「穴場」へ向かった。同じ土手でも、確かに人がまばらだった。これなら窮屈な思いをせずに花火を見られるだろう。

「ねえ、教えてくれてもいいんじゃない?」
「……」
「さっきの人と、なにがあったの?」
 彼女にはするべきなのだろう。知らないまま一緒にいることはとてもじゃないができない。彼女は苛立つだろうし、それより先に僕は罪悪感で狂ってしまうだろう。

「長い話だよ。そのくせ面白くない」



 綾波レイとの最後の思い出も花火だった。もうバラバラに砕けていた僕らの仲を象徴するかのように花火が飛び散っていた。
 そのころはもう、彼女は僕を憎んでいた。沈みきった陽を再び拝むため、彼女は僕を殺人者にしようとした。自分の母親を殺したのはこの僕だと。間接的にあなたが殺したのだと。







 わたしは、あなたのせいでお母さんに気づかなかったのよ。







 なんて理不尽で、決意に満ちた言葉だろうか。吹けば飛ぶような屁理屈。それにすら縋らなきゃ生きていけないところまで追いつめられているとわかったとき、僕は諦めることができた。それができたのは、花火を見たからだと思う。
 あのとき、僕たちは話すこともなくなっていた。唯一不思議なのはどうして僕の誘いに綾波は応じたのか。まだ僕を憎みきれていなかったからかもしれない。今と違って。
 僕は懸命に彼女の考えを改めるように努力した。一緒に乗り越えよう、なんて子供っぽいセリフを何度も繰り返していた。彼女は何も答えてくれなかった。
 しばらく黙り込んで、花火を見ていた。星と重なる打ち上げ花火。


 僕はふと、間が持たなくなって綾波を見た。


 すると、綾波はかつてのような優しい表情を取り戻していた。花火に魅せられた彼女の顔を見て、僕は諦め、そして決意した。
 この笑顔を取り戻すために鬼になろう。彼女にとっての鬼になろう。




 母親の病気という壁がありながら、僕という逃げ道があった彼女はその壁に立ち向かうことを避けた。いつか治るだろうと信じながら、本当に向き合いはしなかった。
 そして、彼女は母親の病状の急激な悪化も知らず、僕とベッドの中にいて、亡くなったときも僕と一緒にいた。

 最初、憎悪の対象は彼女自身だった。一度は自殺すら図った。淋しいまま死なせた母親のあとを追おうとして。

 このままでは危険だと肉体が信号を出したのだろうか。彼女の心は彼女を守るために、僕というスケープゴートを用意した。そうしなければ彼女は生きていけなかった。もう一度沈んだ陽を拝むため、もうひとつの昼と夜を作って、そこに生きることにした。







「…そんなのってないわよ」
 ぽつぽつと話す僕をさえぎって、強い口調でマナが言った。
「単なる誤魔化しじゃない。ウソっぱちの世界のなかで生きようなんて」
 まったくその通りだ。正論では。

「僕らはそれほど追いつめられてたんだよ。特に彼女はね。中学生のころに父親を亡くした綾波は、母親の負担にだけはなるまいとしてたんだ。ずっと。バイトして、一生懸命勉強して…重荷にならないように頑張ってた。なのに、一番肝心なところで失敗した。母親が入院して、もちろんお見舞いには行っていたけど、圧倒的な現実からあの赤い眼を逸らして、僕に逃げた。僕は僕で、彼女につらい思いをさせたくないようにと一生懸命だったんだ。必死に現実を見せまいとして、招いた結果は、最悪だった」

「シンジは、それでいいの?一生誤解のままで」
「まさか。ずっと通せる嘘なんてない。現実に、薄々察している人はいる。カヲル君に至ってはすべてを知ってる。でも、彼女が自分を乗り越えるまで、今のままでいい。いちゃ、そうじゃなくちゃいけないんだ」
「そんな…!そうしたら、全部おしまいじゃない!今のままあの人が乗り越えたら、嘘が現実になっちゃうだけじゃない!それじゃあ――」
 まったくその通りだ。

「だから、僕はそれを望んでいるんだよ」
 彼女の言葉を遮って、僕は言った。花火はとっくに打ち上がっているのに、僕らだけ夜の川を見つめている。

「嘘を嘘で塗り固めて、剥がれても嘘を貫きつづけて、いつかそれが真実になるとき、ようやく終わるんだ。それが、嫌われ者になった僕が望むことなんだ」

 マナはこんなことを言う僕を、実に悲痛な目で見ている。その方がわからなかった。彼女が僕のことを好きなら、別に掘り下げるようなことじゃないんじゃないか?僕がまだ綾波レイのために生きているということを知って、彼女の得にはならないはずだ。

 彼女は両腕を絡ませ、キスしてきた。僕はゆっくり押し倒されて、彼女とその背後の打ち上げ花火が重なる。今朝陽の光を浴びる彼女を見たときよりも、ずっときれいだった。

 ぽたり、と彼女の涙が僕の頬に落ちた。

「…その涙は、なんの涙?」

「…シンジは大馬鹿よ」

「わかってる」

「私の気持ち、知ってるくせに」

「知ってる。マナのことは好きだよ。それとこれとは別問題さ」

 今度は僕の方から彼女にキスをした。













 結局、こうなる運命か。













 どこまでいっても、僕が望んだように僕と綾波は引き離される。

















 そして、世界が僕とマナを近づけていく。














「…その涙は、なんの涙?」

 キスにキスで応じたマナが、僕の目からこぼれた涙をぬぐいながら、囁いた。











 涙を流しても。














 ちがう太陽を作り出してしまった僕には、もう。















 あの空色は、見えやしなかった。
























あとがき

ののです。
疲れたー。←こればっかり言ってる気がする。
昨日(3日)ようやくずっと書きたかったこの別れ恋愛話を書き始めまして。
最初はオリジナルで書くつもりだったんですが、エヴァにしてみました。

最近平和なのばっかり書いた反動か、こいういうのが書きたくなってしまいました。
「Step by Step」とは同じ種類のベクトルでありながら、まったく別方向へ行くことを決意した話です。

まあ、「イタイ」と言われる部類でしょう。
でもホラ、いちおうアヤナミさんは幸せなんすよ、いちおうね。

タイトルは雰囲気だけミッシェル・ガン・エレファントです。
久々に自分で考えたタイトル…最近ずっと歌のタイトルからだったんで。
でも、トリックスターってのはもっと深いんですけどね。
善も悪もないけれど、そのどちらにも責任があり、残酷性と無邪気さを併せ持ち、その行動によって世界を(知らず知らずのうちに)形作る、ってとこでしょうか。
まあ単純に「詐欺師、ペテン師」。「自覚している悪役」程度の意味で使っています。

修正込みで3日しか時間を使ってないのでアラもあるかと思いますが。

では、また。



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