夢なんかじゃない。
現実だった。
圧倒的に、現実だった。
Fake Sun of Tricksters Another Story
太陽とブルードール
Written By NONO
はじめは「彼女」だとわからなかった。
いや、見た瞬間彼女にちがいないと思った。遠目からでも目を引く空色の髪、近くによれば射るような赤い眼が歓迎してくれる。それを見間違えるようなことはない。
しかし、それでもなお「別人では」という印象はぬぐいきれなかった。それは、ほとんどストーカー同然の行為で彼女を探し当てたという後ろめたい気持ちがあったからかもしれない。会っても仕方のないことだ、大人しく帰ったほうがいいだろうと、僕の中の最後の「ためらい」がそう思わせたのかもしれない。
交差点の向こうに彼女が佇んでいる。彼女と同じ制服を着た女の子が二人いて、何事かしゃべっているようだった。話の主導権を握っているのは彼女ではなさそうだったが。そのあたりの大人しさは変わらないのか、と懐かしくなると同時に、やはりあれは彼女なのだと確信する。
信号が青に変わった。もう六時近いせいで、会社員ばかりだ。彼女たちは部活の帰りなのだろうか。そのあたりはわからないが、ひとつ、はっきりしていることがある。
彼女がこっちに近づいてくる。
僕はただそこに立っていた。ほとんど真っ正面にいる彼女を見つめているような、見つめていないような、そういう曖昧な態度で立っていた。
帽子を被っている僕に、おしゃべりに興じている彼女が気づくはずもなく、空色の少女は、僕の横を素通りしていった。
「そりゃあそうだよな」
点滅する信号を見つめて、僕はうな垂れながら呟いた。会わなくなってから何年だ?まさか帰り道に小学校の同級生が――それも、ここから二時間以上かかる小学校の同級生が、引っ越し先で、自分を待っているなんて想像もつかないだろう。
しかしそれでも、悔しかった。気づいてほしくて仕方がなかった。自分から声をかける勇気もない自分も悔しかったし、なにより一目でも彼女に会えたことに満足している自分に腹が立った。
やっぱり声をかけよう。ただ少しでも成長した彼女を見られれば、たとえもう彼女に恋人がいても、悔しくもなんともないだろう。幼い恋に決着をつけたくて、わざわざここまで来たんだから。
何度か拳を握って、急いで振り返った。頼むからまだ視界にいてくれと祈りながら。
「…………あ」
思わず間抜けな声を出していた。
「やっぱり、碇くん?」
僕の目の前に、綾波レイが、あの赤い眼を丸くして立っていた。
「綾波」
確かめるように僕を覗き込むと、彼女は嬉しそうに笑ってくれた。
「どうしたの、こんなとこで?」
「いや、あの…たまたまだよ。引っ越したんだ、藤倉に」
僕は、この街から電車で一本の街の名前を挙げた。すると彼女はまた驚いた顔をした。
「そうなの?」
「うん」
「……それは」
彼女は言いづらそうにまごついた。きっと、親伝いでそれらしいことを聞いているんだろう。僕の両親が既にいないことを。そういう反応には慣れっこだったから、「まあ、色々ね」とお茶を濁した。その話題に触れることを遠慮している人に頷いてもしょうがないことを学んでいる。
「そう、色々」
「ふうん……」
妙な間が空いた。お互い何をしゃべろうか考えている、少し気まずい間が空いて、僕は思わず笑った。
「本当に、久しぶりだね」
「そうね、わたし、夏休みになっても全然向こうに行ったりしなかったから」
「六年か」
「そう、けっこうたっているのね」
「うん……そうだ、藤倉に来るようなことがあったら連絡してよ、案内するからさ。って言っても、温泉くらいしかないんだけどね」
「でも、引っ越し先の電話番号なんて知らないわ……年賀状、くれたときは引っ越してなかったの?」
「そう、この春からだから」
彼女が転校してからまったく会っていなかったけど、年賀状のやりとりだけはしていた。
「じゃあ、住所も教えて。年賀状送れないわ」
彼女は肩にかけていたカバンからペンと手帳を取りだした。女の子がよく使っているような分厚くて、後ろにプリクラを張れるようなやつだ。僕は自分の家と携帯電話の番号、それと住所を教えた。それらを書き留めると、彼女は少し肩をすくめて、
「ヘンな感じね。第三新東京市にいたのに、今はお互い別のところに、別の時期に引っ越したのに、こうやって会えるなんて」
「まったく」
とはいえ、僕は年賀状の住所からを調べて、駅を出てすぐの交差点で彼女を見つけたのだった。最初は彼女の住んでいる場所がどんなものかを眺める程度のつもりだった。会いに行く勇気はなかったし、どんな顔をすればいいのかわからなかったからだ。
「そういえば、クラス会やったって、ヒカリが言ってたわ」
ヒカリというのは、綾波の小学校からつづいている友達で、僕が綾波について色々聞いた人だ。
「へえ」
「碇くんが連絡先とか、きれいにまとめてくれたおかげだって言ってたわ」
「うちの小学校、卒業アルバムに住所とか載せなかったからね」
引っ越しする直前に、委員長――洞木ヒカリのあだ名だ――に連絡先を調べてまとめたものを渡した。やるんだったら使って、とだけ添えてファックスを入れたのだ。大変な作業だったけど、両親を亡くした僕にとっては旧友と会う計画というのはそれだけで気を紛らわせるには十分なものだった。先月引っ越すことになって、参加することはかなわなかったけれど。
彼女が腕時計を見た。
「ごめんなさい、今日、ちょっと……」
「え、ああ、うん。じゃあ、また今度」
「うん」
彼女は小さく手を振って、通りを歩いていった。
彼女が急いだ理由が、母親のお見舞いだと知るのは、僕と彼女が、より親密になった後のことだった。
「ねえ」
「え?」
慌てて顔を上げた綾波が、取り繕うようにオレンジジュースに口をつけた。僕らはファミレスの中にいて、二人ともドリンクバーしか頼まなかった。どのみち今日は一時間くらいしか会えなさそうだから、僕はあらかじめここに行くことに決めていた。ここからなら駅はすぐだ。
「そろそろ五時半だから、行こうか?」
僕は携帯電話を開いて時間を確認した。彼女も同じ動作をする。二週間前に手に入れたばかりの彼女の携帯電話にはオレンジ色のストラップがついている。ゲームセンターで僕がとったやつだ。僕がその場で彼女にあげると彼女はその場でつけて、嬉しそうに「ありがとう」と言ってくれた。
「……そうね」
彼女は言葉少なに立ち上がって、カバンを肩にかけた。彼女はサイフから自分の分を素早く僕に渡した。
「ン」
僕は曖昧に頷いて、伝票を取った。彼女は決しておごらせるようなことはなかった。それどころか、僕がおごると言ってもかたくなにそれを拒否した。「そういうの、好きじゃないもの」というのが持論だ。それ以来、しつこくは訊かなかったし、無理に彼女の分も払おうとはしなかった。
支払いを済ませて、先に出ていた彼女の手を握る。僕たちが付き合うようになって、もう二ヶ月がたっていた。
(そういえば、ムサシが「俺はひと月もしないで家に行ったぜ」とか言ってたっけ)
僕は高校の同学年の生徒を思いだした。別に友達ではない。同じクラスでもないけれど、よく休み時間に廊下で大声でしゃべっているし、僕のクラスに彼の中学時代の友人がいるから自然に名前を覚えてしまった。もっとも、名字は知らない。
彼が「家に行った」というのは彼の想い人の霧島マナのことだ。部活の時に体育館でよく見かける。すごくかわいい子だ。
もっとも、二人は幼なじみで「ひと月もしないうちに家に行った」というのは小学生のころの話だというオチのついた話だった。
「……訊かないの?」
「えっ?」
「わたしの、用事のこと」
彼女は僕の方を見ていなかった。まるで一人言のように訊いてきた。
「綾波が話したいと思ったときでいいよ」
彼女に会うたび、五時半には席を立つ。よっぽどの理由があるんだろう。それも、なにかいいことではない。それがわかるのは、やはり僕が両親に死なれたせいだろうか。綾波の顔が、そういう悲しみ方をしているような気がした。
「……ありがとう」
「いえいえ」
駅に着いて、改札口の前で僕は立ち止まって、彼女は立ち止まらないで、振り返って「また今度」と言う。それがいつものパターンだった。
でも、今回は違った。彼女は振り返るとこっちに戻ってきて、
「必ず話すから」
と言って、軽くキスをしてきた。
「……待ってる」
公衆の面前でこんなことになってしまって、僕は恥ずかしくて仕方がなかった。顔を真っ赤にしながら言うと、彼女も照れ臭そうに笑った。
病院に着いた綾波レイは、今や顔なじみになった入口の看護婦に軽く会釈して、すぐにエレベーターに乗った。402号室のドアを開ける。
四人部屋のそこは、相変わらず病院の薬品臭い、嫌な臭いがした。
「調子はどう?お母さん」
彼女はいつものように明るく言った。母は痩せたが、それほど悪くなさそうに見える。
「いつも通り。退屈よ」
ふう、とためいきをついて、昨日レイが持ってきた本を閉じた。
「本、どれくらいまで進んだ?」
「まだ半分くらいね。あ、でもこれはもう読んだわよ」
母が積んである本の一番上を指した。
「どうだった?」
「どんでん返しのどんでん返し。全然予想とちがったわ」
母がしゃべり、レイが返す。家にいるときと変わらない会話のリズムにホッとする。ただ機械や点滴が目障りだった。一瞬にして現実に引き戻されてしまう。
七時近くになって、レイは立ち上がった。本当はもっといたかったが、いつも「レイはレイでやることがあるでしょ」と言われると、反論できなかった。
「明日、バイトは何時から?」
母が家にいるときのように時間を訊ねてきた。
「四時半」
「間に合うの?」
「学校から直接行くから」
「あんまりムチャしないようにね」
「うん」
「ところで、彼氏との調子はどう?」
「大丈夫」
力強く頷くレイに思わず苦笑いを浮かべたが、すぐに真面目な顔になって、
「その子には、なんて言ってるの?」
「……なにを?」
「私のこと」
「…………なにも」
「あら、ずいぶん控えめな男の子ね。訊いてこないの?」
「うん」
基本的に受け身姿勢のシンジだ。言いたがらない自分の様子を気にしてくれているのだろう。
「そういえば名前は?今まで訊かなかったけど」
「ヒミツ」
「じゃ、ヒント」
「……お母さんも知ってる人よ」
「あら、知ってるの?」
「うん」
「んー……高校の男の子は知らないし、でも中学校も…あ、佐藤君」
「はずれ」
「じゃあ、野地君」
「はずれ」
「うーん、難題ね……わかんないわ。中学校のころの同級生だって、ほとんど知らないし、前は憶えてたかもしれないけど忘れちゃったわ。で、正解は?」
「ヒミツ」
「むー…」
「じゃあ、行くわ。また明後日に顔出すから」
「あ、明後日はべつにいいわ」
「え?」
今まで一度もそう言われたことはなかったので、一瞬なにを言っているのかわからなかった。
「だって、バイトの日以外は来てるじゃない。だから、明後日は自分のために使いなさい」
「でも」
「私に気を使うのはわかるけど、そんなにしょっちゅう来られると、こっちが逆に心配しちゃうわ。あなたの人生なんだもの、たまには自分のために使いなさい」
「……ありがとう」
「いえいえ」
碇くんとも、こんなやりとりしたな、と思いながら、レイは病室を出ていった。
そして、娘のいなくなった病室で、彼女の母が切手サイズの一枚の小さなシールのようなものを眺めてニヤニヤと笑っている。
落ちていたのを見つけたのだ。それは、娘とそのボーイフレンドと思しき少年のシール――プリクラだった。
「ほっほう、あの少年とねえ……どういう因果だか知らないけど、面白い話ね」
ユイの息子と、ウチの娘がねえ。
彼女は淋しそうに笑って、「惜しいわね」と呟いた。
ほんと、惜しいわね。面白そうな展開なのに。
ガチガチに緊張していた。彼女はいま私服に着替えて飲み物を用意するために台所に行った。僕は一応居間にある座椅子に腰を下ろしたけど、まったくリラックスできなかった。
いつものように学校が終わると家とは反対の電車に乗って、駅で彼女と待ちあわせた。そしたらいきなり「家に来ない?」だ。いくら混乱しても無理はないはずだ。それにしても、一体いきなりどういうことなんだろう?
彼女がお盆に麦茶とクッキーを乗せて戻ってきた。薦められるままお茶を飲む。外は雨が降っている。梅雨の長雨は止みそうになかった。
そして、彼女はいつもと変わらない調子で喋った。つまり、あまり喋らなかった。僕もそれほど口数が多くない。だからいつも喫茶店やファミレスでも喋らない時間があって、それもまたいいと思っていたけれど、今日はちがった。なにせ、ここは喫茶店でもファミレスでもない。
彼女が家に呼んだってことは、どうなんだろう?僕はひそかに頭を悩ませた。動揺を彼女に知られたくない。
(いや、これはアリってことに決まってるじゃねえか)
と叫ぶ心の声と、
(そう思うのは男のエゴだ!)
と諌める声がある。
(…どっちなんだろう?)
なんとなく黙っていたり、ぽつぽつとおしゃべりをして笑ったりしている間に五時半になった。彼女の家に行っている時間があった分、落ち着いている時間は少なかった。
(そっか、綾波はどのみちどっか行くんだし…な)
やっぱりただ「呼んだ」だけなのかな、でもこれはこれで一歩進んだ感じだよな、と自分に言い聞かせて、「綾波、もうすぐ五時半だよ」と言い、席を立った。情けないことに、この緊張から逃れられると思うと少し嬉しかった。
「…今日は、いいの」
「え?」
「今日は来なくていいって、自分のために使ってって、言われたから」
「……」
「わたし、碇くんに言わなきゃいけないことがあるね」
「でも」
「いいの、碇くんには教えたいから」
と言って、彼女も立ち上がった。「来て」
綾波は僕の手を取って、別室に入った。彼女の部屋のようだった。
手を握ったまま、彼女は椅子代わりにベッドに座った。どうぞ、と僕に隣をすすめる。
「わたしのお母さん、なんだけど」
「うん」
なんとなく憶えている。授業参観に来ていたのを。すごくきれいな人だった。
「ずっと、入院してるの」
「え…」
「もう三ヶ月も。あんまり……よくないって」
そんな。僕は呼吸も忘れるほどの衝撃を憶えた。
彼女まで、親を失うショックを体験しなきゃならないのか?
「いつも行ってるのは、病院。沢原総合病院ていうところに入院してるの」
「そんな…全然、知らなかった」
「言わなかったもの」
それで、彼女は時折悲しそうな表情をしたのか。自分の母親の容体を考えて、あんな顔をしたのか。
「そんな顔しないで」
綾波が僕の顔を見て、笑った。無理をしているときの笑顔だった。瞳は揺れて、僕の手を握る手が震えているのがわかった。
彼女を抱きしめて、ベッドに押し倒した。何も言わせず抱きしめて、キスをする。
視界が歪んでいく。ぽたり、と僕の涙が彼女の頬に落ちた。
「…その涙は、なんの涙?」
「バカだよ、綾波は。そんなの抱えこんで…!」
「…わかってるわ。でも、碇くんにだけは、気を使ってほしくないから言いたくなかったの」
「じゃあ、なんで今になって教えてくれたの?」
「……もっとたくさんのものを共有したかったから」
綾波が僕を抱きしめ、キスをした。
「…なんの涙?」
綾波の瞳からこぼれた涙をふいて、耳元で囁いた。
「碇くん、だから……」
電気が消えた。
脳内麻薬でも出ているのだろうか。
そう思ってしまうほどとろけそうになっていた。
もう慣れっこになっていたはずだ。はじめて彼女の家に行ったのはもう二ヶ月も前のことだ。それでも今日のキスははじめてした時のような感覚を覚えた。ただ、そこから「戸惑い」を抜き取って、その心地よさだけをクローズアップしたような、そういうキスだった。ひたすら甘く、官能的なキス。
彼女の方から唇をはなして、僕の肩に頭を預けた。彼女の家には僕と彼女しかいないから、こういうことをしていてもびくびくする必要はなかった。
「綾波…どうかしたの?」
「……なにが?」
「いや、その……よく、わからないけど」
「……」
彼女は最近言葉少なになっていた。再会して、つきあいはじめたころはずいぶん喋っていたけれど、今は小学生の時の、特異な容姿と態度から青い人形だのなんだのといじめられていたあの頃のようだった。
五時半になった。そろそろ彼女は立ち上がるだろう。母親の面会時間を考えて、彼女はいつも五時半には立ち上がった。僕はときどき家に残って、夕飯を作ってあげる。そして彼女と一緒にそれを食べて、九時過ぎになって僕はようやく腰を上げるのだ。彼女の父親とは顔を合わせたことがない。月に何度かは帰っているらしいけど、そういうときには綾波は僕と会おうとしていなかった。
五時半。長針が「6」をさしている。ところが「7」を指しても彼女は立ち上がらなかった。こんなことははじめてだった。訊ねようとしても、それこそ人形のように視線を動かさず、ただぼんやりと僕に体重を預けるだけだった。
とうとう、「6」を指す針が短針になってしまった。彼女はゆっくり立ち上がって、「来て」と僕を手招きした。廊下を隔てて、彼女の部屋へ入る。先に僕を部屋に入れた綾波はぴしゃり、とドアを閉めた。
「ねえ、どうかしたの……ン!?」
心配になって訊ねた瞬間、勢いよく抱きついてきて、僕は思わず背後のベッドに倒れ込んだ。
「ちょ、ちょっと、綾波?」
一体どうしてしまったのだろう?明らかに様子がおかしい。そんな僕を黙らせるように、彼女は濃厚な接吻を僕に求めた。何が一体、どうなっているのか。さっぱりわからない。まるで風俗で「されている」ような――行ったことないけど――彼女の積極さに戸惑いながら、それに抗うには僕はあまりに彼女を愛していて、彼女を求めていた。
どこか冷めた、控えめな態度をとる彼女がこんなにも自分を求めてくれている。それが僕には嬉しくて、壊してしまうくらい強く彼女を抱きしめた。
時計の短針が「9」と「10」の間を指す時間になってようやく僕らは落ち着いて、すぐに眠ってしまった。泥のように、丸太のように。
翌朝になって、かかってきた電話で彼女は飛び起きた。居間で鳴っている電話の音はそれほど大きくなかったのに。
彼女があまりに勢いよく起きたせいで、僕も目をさました。
「どうしたの?」
今日は日曜日だ。無断外泊したことをおじにどう言い訳するかな、なんて寝ぼけた頭で考えるほど、僕は呑気だった。
「……電話」
「うん」
「……出て、くれる?」
「え?」
「お願い」
有無を言わさず、震えた声で言う彼女を見れば、頷かないわけにはいかなかった。彼女の頬にキスをしてから、僕は部屋を出て電話を取った。
「もしもし?」
「もしもし、こちら、沢原総合病院ですが……」
彼女の母親が入院している病院だ。なにがあった?呑気な思考は一瞬で消え去った。身体が強ばるのを自覚する。
「お父様でしょうか?」
「いえ…」
「では……」
彼女の家の家族構成を知っているのだろう。医者は不審そうな声を出した。
「綾波レイの、友人です」
「そうですか、では…」
医者は悩んでいるようだった。
その空白で、僕は解ってしまった。もう体験済みの僕は、この態度で察知してしまった。これを言ったら取り乱すにちがいないという間。戸惑いよりも「面倒だな」と思っているのだろう。実際、僕が自分の両親を亡くしたとき、医者はそういう態度を見せた。こっちは慣れっこなんだよ、もう。そういう態度。
そんな連中には任せられない。
「……僕から言います」
夏休みも終わりに近づいている。
その日は、忘れられない日になった。
病院に着いてひとしきり彼女の母親の昨夜の様子を告げられると、「昨夜何度も電話したんですが」と言われた。僕はそれに気づかなかった。時間帯を聞くと、ちょうどベッドに入っていたころのことだ。終わった後もすぐに寝てしまったから、気づかなかった。僕の様子から察したのか、看護婦の侮蔑しきった眼に、ひどく罪悪感を覚えた。
病状が悪化したのが午後七時。臨終が九時十五分。最初の電話に出て、病院に向かっていれば臨終には立ち会えたという。最後の方までかすかに意識はあったから、母親も娘に一言言うこともできただろうということだった。それを、恋人との逢瀬で逃すなんて、という視線を病院内で、通夜で、葬式で、何度も浴びせられた。僕はただそれから逃れるために地面ばかり見て、彼女は何を言われてもろくな返事もせず、空ばかり見つめていた。
ただ、青い髪をした人形のようになった彼女を見て、僕はふと思い浮かんだことがあった。彼女の恋人のくせに、誰も思いつかないような最悪の予想をたてていた。
綾波は電話に気づきながら、気づかないフリをしていたんじゃないか?
悪い知らせかもしれない、という予感があって、それから逃れるために、あの夜はああも痴態をさらしていたのかもしれない。病状が良くなっていないことは当然知っていただろう。そのあたりのことを彼女は決してしゃべろうとしなかったから、僕にはわからないが。でもあの日はずっと様子がおかしかった。少し考えればわかる。それなのにあのときわからなかったのは、間抜けとしか言いようがない。
葬式以来、彼女の家に行っていなかった。母親の最後に会えなかったその責任は間違いなく僕にもあるのだから、どの面下げて会えにいけばいいのか解らなかった。僕の場合はあまりに突発的な死に方――よくある交通事故だった――だったから、悲しむヒマもない感じだったけど、彼女は違う。段々と死に近づく母を毎日見に行っていたのだ。僕らは共に両親に先立たれているけど、過程がちがう。なにか力になってやれるかもと思ったが、実際のところどうしていいのかさっぱりわからなかった。
それから一ヶ月後の土曜日、家に電話がかかってきた。
「もしもし?」
「もしもし、碇さんのお宅ですか?碇シンジ君を…」
知らない人の声だった。女の人だ。まだ若い。
「はい、僕ですが」
「あ、はじめまして…綾波さんとと同じ高校の、山岸と言いますが……」
「え、ああ……なんでしょう」
「あの、突然すいません。綾波さんに言われて、電話してるんですが……」
「え?あ、はい。なんでしょう」
なんだ、なにがあった?僕は急に焦りを感じた。まさか、彼女の身になにかあったのだろうか。でも、それだったら電話の相手もこんなに落ち着いているはずがない。大体、どうして綾波は別の人を使って僕に来てほしいと言っているんだろう。
「あの、綾波さん…最近元気がなくて」
「そうだと思います」
「学校もほとんど来てなかったんです。でも昨日学校に来て、ここの電話番号を私に教えたんです。「明日の五時半になったらかけて、家に呼んで」って言われて。あなたのことは、前に綾波さんから聞いてましたけど……ちょっと、様子がおかしいんです。だって、こんなの変ですよね?」
たしかにおかしい。でも彼女の精神が不安定なら、なにが起こるかわからない。最悪、自殺すら。
「あの、急いで綾波さんの家に行ってみてくれませんか?」
僕よりずっとむこうのほうが焦っていた。やはり僕はもう「体験済み」だからある程度冷静に判断できるのだろう。でも、彼女がもしかしたら危険かもしれないと思うと焦りがつのった。電話を切るとすぐに飛び出して、彼女の家へ向かった。
彼女の家に着くころには、夕陽が空を真っ赤に燃やしていた。まるで太陽がすべての空色を燃やし尽くそうとしているような光景に、思わず「やめろ」と呻いた。沈みかけているくせに、やめろ。
そして、再び顔を出すときは、きれいな空色を作ってくれ。この世で一番美しいと思えるような、彼女みたいな空色を。
居間にある大きな窓を開け、足を庭に出して一人座っている、その日の空のような色をした髪の少女がいた。綾波レイ。近隣の住民なら「先日母親を亡くされた子ね」と認識するであろう少女だ。
彼女は母親のことを考えていた。
同時に、父親のことも考えた。
同時に、自分のことも。
そして、彼女が愛する少年のことも。
その誰もが、自分にとってかけがえのない人だった。母親は優しかったし、父も、母とは不仲になってしまっていて、ほとんど家には帰らなかったが、レイは月に何度か父親と会っていた。それを知ると母は怒るだろうと思って、秘密にしていた。まさか、その秘密が永遠になるとは思わなかったが。
どんなに病気が悪くなっても、必ず元気になって帰ってくると信じていたし、両親と仲良くすごせる日も帰ってくると信じていた。
父は喪主を務め、周囲の視線も気にせず涙を流した。まだ、家には帰ってきていない。
「しばらく時間をくれ。十月には戻るから」
式も何もかも終わった後、二人で悲しんでいるとき言った言葉だ。言い返す方法はいくやらでもあった。いつまで一人でいるの。帰ってきて。なんでもよかった。
それなのに、レイは反対しなかった。このまま二人して悲しんでいるより、嫌でも動かなくてはならない状況に追い込めば、やがては思い出になってくれる。そう思ってのことだった。碇くんがいる。彼ならきっと、忘れさせてくれる。だからこそできた決断だった。
それなのに、なんて限界が早いんだろう、わたしは。いくら、碇くんがなにも言ってくれなかったからって。レイは自分の手首の傷を見て、拳を握った。こんなに自分が弱いなんて思わなかった。
考えてみれば「前科持ち」なのだ。あの日、電話に気づきながら聞こえないフリをして彼の上に跨がっていたのは自分自身ではないか。真っ正面から母親の死を受け止められなかったのは、言ってみれば当たり前のことだった。電話すら、取れないのだから。
五日前のことだった。
今度こそ死のう、と決断した。
彼女はもう、何かに責任をとらせないと精神を保てないところまで限界が来ていた。だがこれはどう考えても自分せいでしかない。誰かに責任をなすりつければ生きていくこともできるだろう。しかし、その対象がいなかった。
だから「これしかない」と呟き、治りきっていない手首の傷に刃物を当てたとき、電話が鳴った。あれ以来、来る電話はすべて取っていた。死ぬ前にと、居間に戻ろうとしたら途中で切れた。拍子抜けして、その勢いで躊躇しないようにと振り返って風呂場に戻ろうとした。
さあ、死のう。
ふと廊下を曲がったとき、そういえば葬式の後に彼と最後に会話したのがこの角だったな、と思った。それを思い出すと自然に涙腺が弛む。そうだ、遺書を書いておこう。決してあなたのせいではありません、と――
いや、待て。
心が引き止めた。なにかがひっかかる。
そうだ、あの時彼はこう言っていた。
「僕が気づいていれば、こんなことにはならなかったのに」
と。そう、確かにそう言っていた。
まるで目の前でその会話を見ているように、あのときの自分と彼を思い出せた。
「そんなことない。そうじゃないの」
レイは必死で首を振った。
「でも……」
と彼は食い下がった。彼と話したことで抑えていた悲しみと混乱が一気に溢れて、レイはシンジに抱きつき、周囲にバレないよう、声を押し殺して、泣いた。そのとき、彼はなにもせず、ただ立っていた。
泣きやむのを待ってくれていた。でも、何もしてくれなかったのもまた、事実ではないのか?
たとえ電話がかかってきた夜にレイ自身は知らないフリをしても、彼がそれに気づけば自分はお別れを言えたのではないか?
どうして二十日以上も連絡も何もしてくれないのだろう。ここ数日は彼のことも頭に入らないほど死ぬことだけを考えていた。そして、今これから今度こそ死のうと思って、洗面所にあるカミソリで死のうとしている。
それなのに、どうして彼は何も言ってくれないのだろう。彼はあんなにも愛していると言ってくれたのに。ずっと好きだったと。
それは、彼のせいだという証拠とも言えるのではないか?
夕陽を浴びるレイは、やはりあの五日前がすべてだったと振り返った。
結局、彼女はあの日を境に「考える」ということをほとんどやめてしまった。誰のせいで母の死を看取れなかったのか。誰のせいにすればいいのか。
彼女の眼はさっきからずっと空ばかり眺めている。こんな姿を見られたら、母親を失ったショックで心が壊れたのだと思われるかもしれない、と思った。否定はできない。だが、肯定もできない。
「これから壊すかもしれないし、壊れないかもしれません」
こう言うしかない。
すべては彼任せだった。もうすぐ来るであろう彼次第で己の未来を選ぶことを、五日前に決心した。自分で死ぬ勇気はとうとうなかった。彼の言葉を思い出して、生きていく方法を見出してしまったから。
彼の責任。そう押しつければいい。彼を憎しみの対象にして生きていく。
もしくは、彼とともに生きていくか。その選択を彼に委ねた。
まるで太陽のようだった。彼女は碇シンジを思い出すと、いつもそう思う。彼はきっと大げさだと言うだろう。でも、淋しかった心を埋めてくれた。夜ばかりの心に朝と昼とを作ってくれたのは、彼だった。
これから来る彼に、ひとつ言葉を投げかける。それを彼が認めたら。
彼という太陽を捨て、憎み、新しい太陽の下で生きていく。
でももし、それ以外の反応――たとえ認めても、わたしを抱きしめてくれるなら、その暖かさとともに生きていこう。
レイはこれからとるべき己の行動を確認してから、フッと笑った。それは自嘲以外のなにものでもない。
(勝手ね)
わかっている。あまりに乱暴で、他力本願で、不公平だ。レイはあの夜電話に気づいていた。それを彼は知らない。投げかける質問は、それを知らないかぎり公平にはならない。
こんな決断をしたのは、「生きたい」と思う心がさせたのだろうか。
いずれにせよ、こんな未来の選択の仕方が正しいはずがない。
(でも、わたしにはもう、なにが正しいのか、わからないから……)
「……シンジ」
ベッド以外では言わない彼の名前を呟いた彼女の耳に、呼び鈴が鳴った。
運命の知らせが、やってきた。
息を切らしながら、彼女の家のベルを鳴らした。応答無し。
「綾波、入るよ」
ドアはあっさり開いた。
そして、彼女はあっさり見つかった。リビングと庭を隔てる窓を開けて、座っている。ただ夕陽を浴びていた。
あの、人形のような眼をして。青い髪をした人形のようだ。いい意味ではなく、言葉通り「人形」のようだ。
「綾波」
近づいても、声をかけてもまるで反応がない。彼女の隣に座ろうかと思ったけれど、僭越すぎてそんなことできず、彼女の後ろにあるソファに座って、彼女の背中と横顔をじっと見つめた。
彼女が泣くなら抱きしめよう。両親を失った悲しみは、僕にも理解できるから。受け止める自信はあった。おかしな話だ。両親を失ったおかげで、好きな人の悲しみを理解できるなんて。
しばらくは、時計の秒針だけが動いていた。彼女は沈みかけの太陽をほとんどまばたきもせずに見つめている。
そして、いよいよ太陽が沈もうというとき、彼女は目を閉じて、拳を強く握った。何かの決意のように見えた。乗り越えようとしているのだろうか。僕は祈るような気持ちで彼女を見つめた。
「アオイソラ……わたしの太陽。あなたに、任せたいの。わたしには、もう…わからないから」
「あやなみ――?」
僕が立ち上がって彼女の肩を掴んだときにはもう、彼女は「青い髪の人形」ではなくなっていた。
彼女が立ち上がって、振り返り、僕を見つめる。
「――!?」
決意に満ちた赤い眼が、僕を射貫く。
「わたしがお母さんの死を看取れなかったのは、あなたのせいなの?」
言われたくない事だった。
だけど、彼女のこの言葉にウソをつけるはずがない。
彼女が考えに考えて言った言葉を、僕は真実で返さなきゃいけない。
僕は拳を握って、ちっぽけな勇気を振り絞った。
「…僕だけのせいじゃないと思いたい。でも……少なくとも、責任の一端は、僕にある」
それで、君の重荷が少しでも少なくなるなら。
一緒に苦しんで、一緒に歩いていきたいから。
「そう………………………………………………それだけ?」
この間にどれほどの意味があるのかわからない。弁解はしないのか、ということだろうか。
来る前には決意したけれど、抱きしめることなんてできなかった。それはあまりに身勝手なような気がして。
「うん……」
庭の木がざわついた。彼女は俯いて、震えていた。
彼女が泣くなら、抱きしめよう。今度こそ。
彼女がゆっくり、顔を上げる。
「え……?」
憎しみに満たされた赤い眼が、僕を射貫いた。
あとがき
これは「フェイク・サン・オブ・トリックスターズ」が掲載された日の夜遅くに掲示板に書いたものです。大分手を加えてあります。
量もめちゃくちゃ増えてます。掲示板に書いた「縮小版」の倍以上、本編の1.3倍くらいになってます。こっちが「本編」で前作が「番外編」の様な気すらしてきた。うーむ。
まあすべては一歩遅い彼の決断がいけなかったのだよ。綾波さんの味方のわたしとしてはこの話をそう思うのである。
読者様の解釈はそれぞれだけど。
これを書く一番最初のきっかけは、tambさんとのメールのやりとりから「やっぱり壊れた綾波さんを書くべきなのかな」と思ったからです。
じゃあせめて書き飛ばしてしまった「壊れる瞬間」だけでも書こうかなと思いまして。
やる気のあるうちに書けて、しかもすぐにみなさんの目に入るようにするなら掲示板に書くのも面白かろうということで掲示板に書いてみました。
んで、まあ当初書き捨てのつもりだったけど、ちょっともったいないかなーということで回収、修正してきちんと御披露目。読めなかった人もいるかもしれないし。
シンジくんがマナに語ったことはこの話と思っていただいて結構です。まさか初夜のことは話さんけど。
だからこの話はあくまで「Another Story」という位置づけです。誰が何と言おうと!
では、また。
今度はもっと明るい話が書けるといいなと思ってます(笑)
でも、他の方のSSは明るいから、まあ一人くらいこんなのがいてもいいっすかね?(^^;